上 下
2 / 115
第一章

真夜中の訪問者

しおりを挟む
 僕とマヌーが出会ったのは、ちょうど満月の夜だった。いや、もしかしたら満月の少してまえだったかな。そう、満月の少してまえ。これから満月になるぞ、もう少しだぞ、っていう実はエネルギーに満ち満ちた夜。

 でも、そのときの僕には気づけなかった。僕は大切なものを失くしてしまったばかりで、もう何もかも、人生のどん底ぐらいに思っていたから。そのころ世界は僕には明る過ぎた。月の光すら眩しかった。心が分厚い殻に覆われてしまってわずかな光すら、拒んでいた。心は少しもゆれうごかず、すべては虚しく消えていった。まるで風も波も消えてしまった大海原でたった一人、行き先も方角もわからず舟を沈めてしまうかのように――。

 もしかしたら、心の奥底では小さい揺れうごきがあったのかも知れないけれど、鏡を見ても無表情。たまにひどく悲しい記憶や胸を打つような感動的な記憶が蘇るときだけは溢れるくらい表情となって表れる。もしそのときの僕を誰か四六時中みはっている人がいたら、きっと奇妙だったろうな。ずっと無表情だと思ったら急に目に涙をためて、また無表情にもどったと思ったら今度は泣いているのか笑っているのかわからないような顔をして。忙しい人だなぁ、くらいには思われたかもしれない。

 話がそれちゃった。ともかく、マヌーは僕がそんなどん底のころに、しかも満月のてまえの夜に、突然現れた。びっくりするよね。天心に月がかかるころ、僕は夜風にあたりたくなってガラス張りの扉をあけて外に出た。中庭には夜風にのって街中に咲き誇るラベンダーの香りが漂っていた。

「きみは、どこから来たの?」

 中庭の真ん中にある蔦の繁ったアーチの下に彼は立っていた。月の光は見た目より優しくて、青白い光は真珠を思わせた。眩しいくらいの月光に、中庭には丸テーブルやレモンバームの鉢植が影を落としていた。幻想的な世界のなかで、逆光ぎみの彼の姿ははっきりとは見えなかったけれど、琥珀色の瞳がかすかに光って見えた。

 初めて会った人に、しかも夜おそく人の家の中庭に突然現れた人にこんなことを聞くのもどうかと思うけど、そのときの僕にはなぜか、不思議と自然に思えたんだ。奇妙だけど。彼はどこか遠くから来たとかなんとか言って、その琥珀色の瞳で僕を見つめていた。

「やっと――」

 え? と聞き返す僕に構わず彼は両手で僕の手を軽く握って続けた。

「やっと会えた。――チアキ」

 どうして僕の名前を知っているんだろうとか、いきなり馴れ馴れしいな、なんてことはまったく思わなかった。それどころか、僕は泣いているようだった。ようだった、というのは、自分でも気づかぬうちに握った手の甲に滴がぽたぽたと落ちてきたからだった。

「マヌー――」自然と言葉が口をついて出ていた。そうだ。そうなのだ。彼はマヌーなのだ。突然懐かしさが込み上げた。いよいよ堪えきれなくなった涙に僕は思わず下を向いた。

「もしキミが」

 マヌーの声に顔を上げると、琥珀色の瞳には励ましでもなく同情でもなく、なにか――宇宙の深淵を見つめたような憂いが、浮かんでいた。マヌーは何か言いかけて一瞬ためらい、俯き加減に視線を外した。それからきゅっと口をむすぶと、まるで互いの存在を確かめるかのように今度はしっかと僕の手を握った。

「もしキミがもう一歩も動けないなら……もう自分のともし火はとっくに消えてしまったというのなら、覚えておいて。世界はキミをあきらめない。キミが夜道に迷ってしまったら道端からひょっこり現れるし、キミがお城から出られないならあの天井近くの小さな窓からだってやってきて、おせっかいにもあかりを灯そうとするんだから」

 消え入りそうだった声はいまや凛とした響きを帯びて、いつかマヌーの瞳には少しおどけたような、無邪気な明るさのようなものが宿っていた。

 ぼくの風も波も消えてしまった世界で沈みかけていた舟はいまや大海原に漕ぎだし、船べりの櫂はみなもにさざ波を立てていた。いつ消えるかもわからない、小さな小さな波だった。するとそよ風が、変化というこの世界の確かな約束を、連れてきたようだった。

「キミに、会いに来たんだ」

 そう語ったマヌーの笑顔は無邪気な明るさと、時折見え隠れする宇宙の深淵を見つめたような憂いとが混じりあい、かすかな光すら遮るぼくの心の底にまで、ふっと届いてしまった。

 それだのに、このとき僕が思っていたことといえば。いままで必死に生きてきて今この世界で苦しんでいるのに、その世界が僕をあきらめないなんてそんな勝手なことあっていいんだろうかという、少し手前勝手な考えだった。あきらめたくないのはこっちのほうだった。なぜ生きるのか、聞きたいのはこっちのほうだった。

 それでも――。マヌーの言葉は波紋のように、僕のほの暗くて静まりかえった安全な世界を確かに揺らした。苛立ちすら感じるほどに。なぜって、いつも見守ってくれてると思っていた大きな存在が実は自分の足元にいて、それどころか、良いとこばかりではない自分のことは嫌いかとしくしく泣いてるのだから――。僕は困ってしまった。途方に暮れてしまった。それでも、しくしく泣きはじめた僕の心の中の小さな友人をそのままほっておくのは、何かちがう気がした――。

『―――しょうがないなあ』

 いまや小さな肩を震わせて泣きだした友人を一瞬だけでも笑顔にしてあげたいというただそれだけの思いで、僕はおどけたように言った。心のなかの小さな友人に。マヌーがくれたあの無邪気な明るさのある笑顔で、僕はその小さな友人を、そっと撫でた――。 

 こうして僕は、マヌーに出会えた喜びと、思いもよらず現れた心のなかの小さな友人への戸惑いを感じながら、満月のようなマヌーの瞳をただ見つめていた。
 琥珀色の瞳の奥で、あの懐かしい眼差しが、燐光を放っていた。

 少し風が強くなったようだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完】あの、……どなたでしょうか?

桐生桜月姫
恋愛
「キャサリン・ルーラー  爵位を傘に取る卑しい女め、今この時を以て貴様との婚約を破棄する。」 見た目だけは、麗しの王太子殿下から出た言葉に、婚約破棄を突きつけられた美しい女性は……… 「あの、……どなたのことでしょうか?」 まさかの意味不明発言!! 今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!! 結末やいかに!! ******************* 執筆終了済みです。

愚かな父にサヨナラと《完結》

アーエル
ファンタジー
「フラン。お前の方が年上なのだから、妹のために我慢しなさい」 父の言葉は最後の一線を越えてしまった。 その言葉が、続く悲劇を招く結果となったけど・・・ 悲劇の本当の始まりはもっと昔から。 言えることはただひとつ 私の幸せに貴方はいりません ✈他社にも同時公開

初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と叫んだら長年の婚約者だった新妻に「気持ち悪い」と言われた上に父にも予想外の事を言われた男とその浮気女の話

ラララキヲ
恋愛
 長年の婚約者を欺いて平民女と浮気していた侯爵家長男。3年後の白い結婚での離婚を浮気女に約束して、新妻の寝室へと向かう。  初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と愛する夫から宣言された無様な女を嘲笑う為だけに。  しかし寝室に居た妻は……  希望通りの白い結婚と愛人との未来輝く生活の筈が……全てを周りに知られていた上に自分の父親である侯爵家当主から言われた言葉は──  一人の女性を蹴落として掴んだ彼らの未来は……── <【ざまぁ編】【イリーナ編】【コザック第二の人生編(ザマァ有)】となりました> ◇テンプレ浮気クソ男女。 ◇軽い触れ合い表現があるのでR15に ◇ふんわり世界観。ゆるふわ設定。 ◇ご都合展開。矛盾は察して下さい… ◇なろうにも上げてます。 ※HOTランキング入り(1位)!?[恋愛::3位]ありがとうございます!恐縮です!期待に添えればよいのですがッ!!(;><)

この度異世界に転生して貴族に生まれ変わりました

okiraku
ファンタジー
地球世界の日本の一般国民の息子に生まれた藤堂晴馬は、生まれつきのエスパーで透視能力者だった。彼は親から独立してアパートを借りて住みながら某有名国立大学にかよっていた。4年生の時、酔っ払いの無免許運転の車にはねられこの世を去り、異世界アールディアのバリアス王国貴族の子として転生した。幸せで平和な人生を今世で歩むかに見えたが、国内は王族派と貴族派、中立派に分かれそれに国王が王位継承者を定めぬまま重い病に倒れ王子たちによる王位継承争いが起こり国内は不安定な状態となった。そのため貴族間で領地争いが起こり転生した晴馬の家もまきこまれ領地を失うこととなるが、もともと転生者である晴馬は逞しく生き家族を支えて生き抜くのであった。

異世界複利! 【1000万PV突破感謝致します】 ~日利1%で始める追放生活~

蒼き流星ボトムズ
ファンタジー
クラス転移で異世界に飛ばされた遠市厘(といち りん)が入手したスキルは【複利(日利1%)】だった。 中世レベルの文明度しかない異世界ナーロッパ人からはこのスキルの価値が理解されず、また県内屈指の低偏差値校からの転移であることも幸いして級友にもスキルの正体がバレずに済んでしまう。 役立たずとして追放された厘は、この最強スキルを駆使して異世界無双を開始する。

【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。

三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎ 長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!? しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。 ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。 といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。 とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない! フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!

私に必要なのは恋の妙薬

冬馬亮
恋愛
ジュヌヴィエーヌは、王太子である婚約者ファビアンから、突然の婚約解消を告げられる。 婚約者のファビアンは、男爵令嬢のマリアンヌが真実の愛の相手だと言うのだ。 「義務感では駄目だったのね」 落胆するジュヌヴィエーヌに追い討ちをかけるように他国への縁談が持ちあがる。 相手は壮年の国王、子も既に4人いる。長子はジュヌヴィエーヌと一歳しか年が違わないという。 ジュヌヴィエーヌは、正妃を喪ったエルドリッジ国王のもとに側妃として嫁ぐのだ。 結局は政略上の駒でしかないと知り、落胆したジュヌヴィエーヌは、せめてと出立前に森の魔女を訪ね、ある秘薬を求める。 「この薬があればきっと」 だが、冷遇を覚悟で嫁いだアデラハイム王国では意外にも歓迎されて・・・? 「あなたが『マル花』の悪役令嬢ジュジュね! ストーリーからの脱出おめでとう!」 「?」 継娘となる予定の第一王女からかけられた言葉に首を傾げるジュヌヴィエーヌ。 魔女が用意した薬を手に、決死の思いで他国に嫁いだジュヌヴィエーヌに訪れる幸せは・・・

【完結】あなたの思い違いではありませんの?

綾雅(りょうが)祝!コミカライズ
ファンタジー
複数の物語の登場人物が、一つの世界に混在しているなんて?! 「カレンデュラ・デルフィニューム! 貴様との婚約を破棄する」 お決まりの婚約破棄を叫ぶ王太子ローランドは、その晩、ただの王子に降格された。聖女ビオラの腰を抱き寄せるが、彼女は隙を見て逃げ出す。 婚約者ではないカレンデュラに一刀両断され、ローランド王子はうろたえた。近くにいたご令嬢に「お前か」と叫ぶも人違い、目立つ赤いドレスのご令嬢に絡むも、またもや否定される。呆れ返る周囲の貴族の冷たい視線の中で、当事者四人はお互いを認識した。  転生組と転移組、四人はそれぞれに前世の知識を持っている。全員が違う物語の世界だと思い込んだリクニス国の命運はいかに?!  ハッピーエンド確定、すれ違いと勘違い、複数の物語が交錯する。 【同時掲載】小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2024/11/19……完結 2024/08/13……エブリスタ ファンタジー 1位 2024/08/13……アルファポリス 女性向けHOT 36位 2024/08/12……連載開始

処理中です...