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第十章 女神の首
79. 合流 ☆
しおりを挟む「影形……、まさかそんな」
魔竜に喰われたと言ったばかりで、まさか当猫(?)が現れるとは思わなかったのだろう。
黒豹サイズのルトは、悠々とした足どりで俺たちの方に向かって歩いてくる。俺にとってもルトはまだまだ謎の多い存在だが、相棒としては誰よりも信頼できた。
「呪文は確かに紡げなかったし、口述どころか指による記述も、やろうとするだけで指が痺れて……。でも、かろうじてルトを呼ぶことができて良かった」
そんなことを言っているうちに、ルトが俺の影をのしっと前脚で踏んだ。たったそれだけで、俺にかかっていた呪いは簡単に剥がれ落ちる。
それが伝わったのだろう。女の顔色が一変する。
俺はすぐに魔法を使って縛られている腕の縄を解いた。まさに形勢逆転。俺には強力な味方が現れ、一方で公爵夫人の手下たちは一人を残して完全に無力化された。
……いや、実は。
後から言うのも何だが、自分でも解こうと思えばいつでも解くことはできた。人質がいたという理由があるにせよ、しばらく彼女の言いなりになっていたのは、この女の口から色々と聞き出したかったからだ。
セオが、『あの女はよく喋る』と言っていたが、その通りだった。この短い時間でも、敵である俺に余計なことも含めて色々と喋ってくれた。
心を抉られるようなこともたくさん言われたが、それに対しては俺にはもとから耐性がある。特に打たれ強いわけでもないが、そう簡単に壊れるような可愛らしさも持ち合わせていない。
「ルト」
見なくてもわかる。泉の中で、石像の首を拾うのを一旦諦めた男が背後から剣を抜いて俺に近づこうとしている。
ルトが俺の横をそのまま通って行き、泉の中にいる男と対峙した。そっちは全面的にルトに任せることにして、俺は公爵夫人に向かって一歩踏み出す。
「な、何をするつもり? たかだか六位の使い手に過ぎないお前が」
「いやそれ、何年前の話だと……。セオから聞いていませんか? 学術院で習う最終の召喚魔法は三位ですよ?」
つまりは魔法学の話だ。
この世界を構成しているとされる四大元素、『火』『地』『風』『水』を自在に操る魔法。中にはそれぞれの元素と相性がいい、目に見えぬ精霊たちの力も借りることが出来る魔法もある。
風の召喚魔法を十の段階で表すと、風竜を操って自分の周りに風の防御壁を構成するのは、せいぜい六位程度の権限を持つ魔法ということになる。それが一位の風魔法となれば、上空に積乱雲を呼び出し、巨大な竜巻を起こす程のレベルに達するのだ。
──というか、なんか稚拙になってないか?
女は、十年前のときの方がおそらく強かった。今は……なんというのだろう。魔力値の低下もさることながら、どこか言動が子供じみていて、余裕がなくなっているような気がする。
だがスタウゼン家にいた頃は、双子に対してあんなに強い呪いをかけ続けていたわけだから、それなりの魔力を有していたはずだ。
俺はカイルやルーを真似るように、相手の魔力の量や質を丁寧に探ってみる。魔竜に相当な量の魔力を喰われたとか言っていたが、やっぱりそれが原因なのだろうか。
(その女、中身スカスカ。魂、ほとんど喰ワレテル。)
男の足を、威圧で泉の底に縫いつけたままのルトが言った。
(……ああ、やっぱりそうか。じゃあ、魔竜との魔力回路も?)
(ウン。繋ガッテナイ。)
だとしたら、さっきの公爵夫人の発言も疑わなくてはならなくなる。
魔竜は、彼女によって再び眠らされたのではなく、起き抜けにいきなり暴れ回った所為で、活動不能になるほどの魔力不足に陥ったのではないか?
だから彼女は、空腹のあまりに思考が暴走した魔竜に魂基ごと魔力の大半を喰われてしまったのだろう。事故的な要素が強いとはいえ、これまでの所業を思えば自業自得と言わざるを得ない。
さっきの魔力強奪の件についても、容認するつもりはさらさらなかった。倒れている神官の首の傷も気になっている。
今こそが、この女を斃す好機であるのは間違いなかった。
しかし、目を吊り上げ、もはや美しさの欠片もない悪鬼のような形相で俺を睨みつける女を見ているうち、ふとあることを思いついた。
──どうする? このまま公爵夫人を泳がせて、魔竜の寝床に帰っていくのを追うか、それとも。
長きに渡り隠され続けてきた魔竜の寝床は、魔竜にとってこの上もなく安全な場所に違いなく、それなりの自動回復効果もあるのかもしれない。その回復を待つことなく、こちらから魔竜に奇襲をかけることができれば、あるいは……。
「三位の……、そうなのね。それは知らなかったわ」
抑揚のない声で女が言った。
「なら一位の召喚ならばどう? それでも凌げるかしら?」
「え?」
俺は思わず口を開けてしまった。
神殿にも結界石は存在する。ここで一位の召喚魔法など使おうものなら、召喚の成否を問わず結界石の制裁が発動する。
どう考えても自殺行為だ。下手をすれば神殿の地下ごと吹き飛ぶ大惨事になる。他でもないこの女が、そのことを知らないわけがない。まさか本気で自滅するつもりなのか。
「やめろ! そんなことをしても無駄です! 大人しくこちらに降ってください!」
「無駄? 降れですって……? 貴様、誰に向かって」
紺青の瞳が、さらなる怒りに燃え上がる。
「よくも。よくも、そこまで思い上がれたもの。奢るな! 混ざり物の分際で!」
女は、自らの周りに防御結界を張り巡らせた。そしてすかさず高速呪文を展開させる。長い難解な呪文そのものに早送りの魔法をかけて紡ぐ、俺が知る範囲ではジオルグが得意としている高度な術法だった。
──しまった。一瞬でも、余計なことを考えるんじゃなかった。
あっという間に召喚呪文の序の段の詠唱が終わろうとしていた。もはや後先のことなど何も考えていない。ただ月精の俺をなんとしてでもここで破滅させてやろうという、その一念のみで暴走している。
「ひ、ひいっ」
泉の水面が波立ち、その中心に渦が巻き起こり始めている。慌てて石像の首を持ち上げた男は、あたふたとルトがいる方とは逆の位置に逃げ出そうとしていた。
冗談ではなく、女はここにリヴァイアサン級の魔物を召喚するつもりのようだ。空間そのものが音を立てて軋み出す。結界石による妨害干渉が始まっていた。
そろそろ上階にいる者たちも、この異変には気づいているはずだ。ただその発生場所が、地下のこの場所だとわかっているかどうか。退避が間に合えばいいが、自力で動けない者もいるかもしれない。
「ルト、結界を張ってくれ。出来れば神殿の地下全体に」
(了解。)
俺のとんでもない無茶振りを、ルトは事も無げに聞き入れる。なかなか大した相棒だ。どこまで耐久できるかは賭けだったが、ないよりはマシだろう。
俺は完全に迷いを捨てた。
まだ、この女に訊きたいことは沢山ある。
でも。
──この女が知っていることは、きっと彼らも知っている。
だからもう、断ち切ることにする。
八回目の魔竜退治より始まった、この女と月精との間に紡がれた因縁の糸を。
「──我、霊種最上の位より命ず」
俺は、月精の浄化魔法の最高呪文を詠唱し始める。額にある徴が、熱を宿す。
先日、スタウゼン家の双子の呪いを解く際に使った魔法より数段強力な浄化を施すべく、魔力を開放する。何せ、加減が要らなかった。相手を生かしておくべき理由がない。
これで魔竜と同じ呪いを受けた女も、その呪いの軛を離れ、百年に一度しか目覚められぬ長い生から解放される。
「めざめよ原始の火、
原始の水、原始の風。
原始の地に降りし光よ。
我は原始の宙に浮かぶ月の精なれば──」
焔のような揺らぎを持つ白い光に、女の身体が包み込まれていく。
「ああ、やめてやめて、なにしてるのやめて! ──うがあっ、あ、やめ、ろ──っ!!」
気づいた女が詠唱を止め、半狂乱になって叫ぶ。
俺に向かって走り、掴みかかろうとする寸前、黒い影の刃がその首を刺し貫く。
……赤い血は、出なかった。
黒い霧のようなものが、その傷孔から抜け出ていく。
そして白光に覆われた身体が、砂のように崩れ出した。
「我が理は、普遍なり」
「あ、ああ、殿、下……、ユ、リウス……殿下、どこ……?」
「汝、我が手にて闇より出でて元の環に還らん。流れ、留まらず、生きしものは生きよ。逝きしものは逝け。我が加護を以てその身の罪を赦す」
「ああ、いや、嫌だ、いや、ま、まだ消えたくないぃいー!」
絶叫しながら足元から砂化していく身体を、俺は詠唱を止めて静かに見下ろした。
「……ぁ、……ぁぁ…………」
現身は、とうの昔に喪われていた。呪いと魔力とで象られた器が、最後の最後には声さえもなく崩れ落ち。
「……残念ながら、これでお別れです。おやすみなさい、スタウゼン公爵夫人。いや……」
さっき、月精の記憶を取り戻したときに思い出した、この女の本当の名は。
「コリーン・ロレストラ・ロートバル。八回目の時、月精を殺した竜を祀る祭壇は、貴女だった……」
* * *
「ゼフェウス殿!」
聖竜神殿への山道を芦毛の馬で駆け上がって来たジスティが、手綱を強く引きながら叫ぶ。少し乱暴な止まり方になったのを申し訳なく思いつつ、愛馬の首筋を宥めるように数回撫でてやってから地面に降り立った。
「コーゼル師団長! 来てくれたのか」
回廊から、ちょうど前庭に出ていこうとしていたゼフェウスが駆け寄ってくる。
「こんなときになんだが、俺のことはジスティでいいぞ」
「そうか。なら俺もゼフェウスでいい」
純白の騎士装束の所々に飛沫状の返り血が付着しているが、どうやら本人に怪我はなさそうだとジスティは安堵の表情で頷いた。
ジスティのあとから少し遅れて栗毛の馬に乗ったカイルが前庭に入ってくる。彼は手綱を開き、丁寧に速度を落としながらくるりと馬体を反転させて二人の傍で止まった。
「遅くなって申し訳ありません! 魔導も通じず、神殿側の『扉』も開かなかったので、やむを得ず馬で参りました。ゼフェウス殿、状況は?」
「ああ、二十人程いた賊はほぼ召し捕った。王立騎士団が奴らを追ってきてそのまま加勢してくれたんでな。……魔導はつい今しがた、うちの魔法士が直したところだ。王宮には一番に事の次第を報告をしている」
「そうでしたか。……それで、シリルは?」
「……それなんだがな」
と、ゼフェウスは表情を曇らせた。
「おいまさか」
ジスティが詰め寄ると、ゼフェウスは「いやそうじゃない」と慌てたように首を振った。
「俺たちはここに着いてすぐに別行動を取ったんだが、あいつは無事だし、怪我もない。ただちょっと、離れている間に色々あったみたいでな……」
「というと?」
「……とりあえず、場所を変えないか」
どこか落ち着ける場所で話した方がよさそうだと、ゼフェウスが提案する。
背が高く体格もいい、見るからに闊達そうな紅い髪の美丈夫と、誰が見ても一目で生粋の竜人種であるとわかる長い銀色の髪の騎士。二人よりも少しばかり背は低いが、涼し気な顔立ちに眼鏡をかけた、少し癖のある黒髪が印象的な魔法騎士。この三人が並んで立っているだけで、なにやら異様に目立つ。
ゼフェウスに促され、馬を神殿の馬丁に預けた二人は広い拝殿の中に案内された。そこはまだ慌ただしい空気が流れており、人の出入りもそれなりにあったが、彼らは構わずに前方の会衆席の隅に陣取り、ゼフェウスを真ん中に挟む形で腰を下ろす。
「それで?」
「ああ。それがどうも、ここで例のスタウゼン公爵夫人と出くわしたみたいでな」
「え?」
「なんだと?」
ジスティとカイルが口々に声をあげた。
「しかも、一時的に拘束されて地下の礼拝室に連れ込まれていたらしい」
「拘束?」
「地下の礼拝室?」
「……元々シリルはその場所に行きたくて、神官長に手紙で頼んでいたんだ。それでいざ呼ばれて来てみたら、たまたま黒月党の奴らの襲撃に遭ってしまったと」
「いや、待ってください。本当にそれは偶然なんですか」
「……みたいだぞ。公爵夫人も驚いていたらしい。それで夫人の目当ても地下の方にあったらしく、上で俺たちが戦った手練の連中がどうやら陽動だったようだな」
「目当てとは?」
「それに公爵夫人、いや、魔竜の手先だったな。……その女は? 討ち取ったのか、それとも捕らえたのか?」
「大体、なんで今になって王都に舞い戻ったのですか。彼女が黒月の連中を率いてわざわざ神殿を襲撃した理由は何なんです?」
両側から矢継ぎ早に質問されたゼフェウスがいささか仰け反り気味になったとき、祭壇横にある司祭用の出入口から拝殿内に入ってきていたシリル・ブライトが、ちょうど彼らに向かって歩いてきた。
「お二人とも、とりあえず落ち着いてください。後で全部説明しますから」
「シリル!」
カイルが立ち上がってシリルを抱き締める。
「良かった、無事で」
「カイルさん。……ありがとうございます」
「加勢が間に合わなくて悪かったな」
「いいえ、ジスティさん。来てくださってありがとうございます」
ジスティにも大きな手で頭を撫で回され、シリルは決まり悪げに微笑む。
「今日は朝から勝手なことばかりして本当に申し訳ありませんでした……。ですが、これからまた、別行動を取らせて頂いてもよろしいですか?」
シリルはジスティの目を見て言った。ジスティが「ん?」と首を傾げる傍らで、ゼフェウスが訳知りの表情で言った。
「なら、ちゃんと話はついたんだな」
「はい」
シリルは笑顔で答える。そしてまたジスティたちに向き直り、言葉を足した。
「実は今、奥で神官長様と話をしてきたところなんです」
「神官長と? まだ何か、神殿での用事が残っているのか?」
「いいえ。ここにはもう、俺のやるべきことは残っていません」
「じゃあ、一体?」
カイルが怪訝そうにシリルの顔を覗き込む。
「どうしても至急、宰相閣下にお尋ねしたいことがあるので。明日の正午まで待てなくて、神官長様から連絡をつけて頂きました。ここで俺の身に起こったことも全部、報告して頂いて……。そうしたら、時間は限られていますが、すぐにもラドモンド辺境伯のお屋敷にある『扉』を開けて頂けることになりました」
「ということは、つまり……」
「はい、俺は今からセラザに。神殿の転移装置が復旧し次第、宰相閣下のもとへ向かいます」
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