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第八章 荊棘の虜囚
64. 猫と人形 ★
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──【影形】
そう名付けてくれたのは、古い月の女神だった。創世の女神がこの星に降臨するより、もっとずっと以前の話。
影そのものに宿った『生命』が、偶然、地上に降り立った女神の影に紛れてしまった。
「おかしいこと。形がなくとも、貴方は『生命』なのね」
足元の影に手を触れさせながら、女神は言った。
「そのままの在り様でも、とても面白いのだけど。……ああ、でも貴方は影の外に出てみたいのね?」
女神は微笑み、月の光のようなやわらかい魔力でその生命を包みこむ。
「ふふ、私の魔力をたくさん分けてあげるから。それで貴方の『好きな形』になって、自由に歩き回ってみなさいな」
そうね、『猫』がいいわ。ね、ほら、可愛い……。
それが、ルトにとってのもっとも古い記憶だ。
あれからずっと、そばにいる。
魔竜を斃すため、女神が月精として転生を繰り返すようになっても。
* * *
自由を奪われてから、一体どれほど経ったのだろうか。もともとそんなには自由じゃなかったけれど。でも今よりははるかにましだったのだと、その時間が終わったあとになってわかるのは、尚更つらく……。
──ねえ、あたし達は、こんな目に遭わなければならないほど、何か悪いことをしてきたの?
父親のことは元から嫌いだった。今は生きながらにして死んでいるような彼を見ていて、ほんの少しだけ憐れだとは思う。だけど、今この家で起きている何もかもが彼の犯した過ちから生じていることは明白で、それを思えば怒りと憎しみの方がはるかに勝った。
──だって。この人はあたし達のことを、まったく愛そうとはしなかったんだもの。
特にあたしは幼い頃から父の意に従わされ、父が雇った多くの家庭教師たちから徹底したお后教育を受けてきた。
そして七歳のときに、父の思惑どおりエドアルド王太子殿下の婚約者候補の一人に選ばれた。しかも、候補者の中ではあたしが最年少だった。別に嬉しくはなかったけれど、それまで一生懸命やってきたことが少しだけ報われたような気持ちになったのは事実。
だのに初めて王宮に招かれた日の朝、さすがに緊張していたのか、あたしは高い熱を出して倒れてしまった。
あのときの父の形相は今でも忘れられない。ふだんは滅多に家に帰ってこないくせに、あの日は朝から屋敷にいたのだ。初めて手を上げられるんじゃないかと思ったほど、父はベッドから起き上がることも出来ないでいるあたしを見て怒り狂っていた。
あのときに兄が。双子だけれど、あたしよりもずっと賢いお兄様が助けてくれなかったら、あたしは本当に、どうなっていたかわからない。
十歳になったとき。お兄様は学術院への入学と同時に寄宿舎に入ることになった。あたしが家から通うことになった学術院の女子科とは違って、男子は全寮制だったのだ。
以来、お兄様はこの家には帰って来なくなって、休暇で帰省するときには父のいないアルバ領の屋敷に行っていた。
お兄様は、ただ父を嫌うばかりか、公爵家の後継ぎという自分の立場をも厭っていた。それで、そのことから完全に背を向けてしまったのだ。魔法学に深くのめり込んでいき、学術院卒業後も一人で勝手にアーマに行くことを決めて、とうとう妹の存在ごと家族を捨て去ってしまった。
だけど今はわかっている。お兄様がこの家を捨てたのは、あの女がこの家にやって来たせい。そして、ほんの一時とはいえ、あたしがあの女を受け入れてしまったせい。
捨てていかれたのは本当に本当に、悲しかったけれど。でも、お兄様も今は相応の……いいえ、それ以上の。もっともっと酷く惨い報いをその身で受け続けている。
ある日突然、父に連れられてこの家に現れた女。
テシリアの下級貴族と、パノンとの交易を生業にしていたという大きな商家の娘との間に生まれたメリジェンヌ・ディ・リングスは、どういった経緯でか、あたしの新たな住み込みの家庭教師として父に招かれてやって来た。その日のその時点まであたしについていた超一流の家庭教師陣は、その場で全員が解雇を言い渡されて……そうしてメリジェンヌが、この家に棲みついた……。
メリジェンヌと暮らすようになってから、父は人が変わってしまったようだった。
己や己の行状に対してはどこまでも甘く、そのくせ目下の人間には恐ろしく狭量だった父が、全ての他人に対して寛容になり、それまでほとんど関心がなかったはずの娘に対する態度までもが優しく穏やかなものになった。そして、政治的にも日に日に隣国であるテシリア帝国へと傾倒していった。
その様子を、当時のあたしは寄宿舎で暮らしていたお兄様にせっせと手紙に書いて知らせていた。当然のこと、お兄様はメリジェンヌが屋敷に来たときから、彼女に対して強い疑念を抱いていたようだった。
今にしてみれば本当に愚かだったと思うが、実はあたしは純粋に父の変化を喜んでいたのだ。母親はとうに亡くなり、父にも兄にも顧みられることのない日々の中で、肉親からの愛情に常に飢えていたあたしにとって、美しくて賢い、そして優しく自分を導いてくれるメリジェンヌは、まさに女神様のような存在だった。そんなメリジェンヌへの思慕を隠すことなく手紙に書いていたのは、お兄様へのあてつけのような気持ちもあったのだ。
──ああ。あの女の本性に気づいたときにはもう、何もかもが手遅れだった。
九年前。父の求婚を受け入れたメリジェンヌが、『継母』になった。
五年前、メリジェンヌにいいように利用されていただけの父が病に倒れた。おそらく、少しずつ毒でも飲まされていたのだろう。父の財産を意のままに使えるようになった途端、メリジェンヌは恐ろしい本性を露にし始めた。
あたしにも強い魔法で呪いをかけ、あの女には一切逆らうことができない従順な『人形』にした。あたしのことは、まだあの女にとって必要な存在なのだと言っていた。父が倒れる少し前に、あたしは王太子殿下の婚約者になることが内定していたからだ。
あの女は、王宮内にもあたしを使って自分の毒を振り撒きたいようだった。悪意という名の目には見えない毒。パノンとテシリアとの間に、いずれ戦争を起こすのがあの女の最終目的だと、寄宿舎にいたときのお兄様はあたしへの手紙に何度もそう書いてきた。そんな馬鹿なこと、とあたしは全く取り合わなかったのだが、でもあれは……、今でもよくはわかっていないが、多分正しかったのだろうと思う。あのときのお兄様は、まだこの家のことを心配して、見捨てないでいてくれた。
そして、さらにその一年後。魔法の修行をするためにアーマにいたはずのお兄様まで、あの女の手に囚われてしまった。
『ティナがとっても面白いお話をしてくれたのよ? だからどうしても貴方のことが必要になってしまったの。愚かな妹が、私に秘密を明かしさえしなければ、貴方は完全にこの家から離れて、一生好きに生きられたかもしれないのに。ねえ……?』
目の前で、お兄様があの女に恐ろしい呪いの魔法をかけられていくのを、あたしは泣き叫びながら見ていた。完全に本物の『人形』になってしまう前のあたしの、声にならない最後の叫び。
──やめてっ! お願いだからお兄様に酷いことをしないで! 秘密って……、あたしがあんたに何を話したというの? お兄様がこんな惨い目に遭わされるような話、あたしがいつあんたにしたっていうのよッ?
そして、今。あたしは結界が張られたガラス箱の中に閉じ込められている。
場所は、父が眠るベッドの傍ら。死んだように眠る皺だらけの痩せこけた老人みたいになってしまった、その生気のない顔を泣きながらずっと見つめている。
何も好きで泣いているのじゃない。『人形』が泣いているからだ。
あたしは今、手足に糸がついた、赤ん坊ほどの大きさの『操り人形』になっていた。お姫様のような綺麗なドレスを着ているが、何を悲しんでいる場面なのか、腕についた糸に引かれて手を目にあて、えんえんと泣いている演技をさせられている。
──えんえん、しくしく。
あの女の結界の中で、『人形』だけれど、あたしはまだ生きている。ガラス箱の中にはあたしを人間として生かすための空間魔法が効いていて、飢えも渇きも生理現象もなく、呼吸さえしなくても生命が保たれるようになっている。だけど、この魔法が消えてしまうと、いよいよあたしは完全にこの『人形』と同化して……もう二度と元には戻れなくなるらしい。
──でも、もうそれでも別にかまわない。これ以上、お兄様を苦しませたくない。だから、だからどうか……。
教会に行っても、これまで一度も本気で祈ったことなどないくせに『人形』にされてからのあたしは、毎日毎日レンドラ様に長い祈りを捧げるようになった。
──どうかあたしの生命を先に終わらせてください。お兄様は、あたしさえいなければ、あの女にもけっして屈しはしなかったはず。
あたしを生かすためのこの魔法に使われているのは、あの女が奪い続けているお兄様の魔力。呪われた身体で、こんな難しい魔法をかけ続けるために、もう何年も昼夜を問わず魔力を注ぎ続けていたら……、父やあたしよりも先に、お兄様の方が死んでしまう。
いくら愚かでも、さすがにもうわかっている。あの女は、父のこともあたしのことも、そしてお兄様も、そのうち皆殺してしまうつもりだということ。それまでの間に、いたぶれるだけいたぶって、何処かで嗤いながらこの様を眺めている。
そう、もうあの女がこの家にいないことは確かだった。代わりにおかしな連中が出入りしている。黒いフードを目深に被った男たち。不気味な彼らは、滅多にこの部屋まで入ってくることはなかったが、家の中からは、お兄様の世話をするために最低限の人数だけ残された使用人たちのものに混じって、常に何人かの彼らの気配もあった。おかしなことに、こんな身体になってからの方が、自分の中にある魔力が目覚めてきたようだった。魔力が抜群に強いお兄様を見ていてわかっていたことだが、母親が精霊種の血を濃く引いた貴族の娘だというのは、どうやら本当だったらしい。
それにひきかえ、父は魔法が大嫌いだった。この国の貴族にしては珍しいほど、父自身にはほとんど魔力がなかったのだが、そのことが途轍もなく嫌だったのだろう。
スタウゼン家自体は、古くからそれなりに王家とも結びつきがあり、精霊種の血も竜人種の血も、その血脈には入っているらしいけれど。没落しかけた貴族の強い魔力を持った娘をむりやり愛人にしたことも、父の歪んだ劣等意識から生まれた悲劇だと、いつかお兄様が吐き捨てるように言っていたことも思い出す。
帝国の商家の娘を愛し、後妻に娶ったはずの父は、あの女の正体を知ったときにはさぞや愕然としたことだろう。
あの女こそ、魔女だった。何か古い怨念にとり憑かれた恐ろしい、魔女。
……そういえば。この家には、数日前からもう一つ奇妙なモノが入り込んでいる。
それは何度か、この部屋の中にも入ってきた。結界があって、出入りを許された者以外は入って来られないはずなのに。
お兄様でさえ、ここで呪いをかけられた日以来、一度も……。
ああ、今日もまたやってきたようだ。いつもするりとこの部屋の結界をくぐり抜けてくる。そして死角からじっとこちらの様子を窺っているので、あたしはまだその姿を目にはしていないのだけれど、でもこの気配はおそらく。
── 『猫』……?
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