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第一章 目覚めの朝
⒐ 徴(しるし)
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パノン王国の王都ロームでは、朝の六時に始まって夜の八時までの二時間ごと、教会の大鐘が時を告げるために鳴り響く。
その日もいつもどおり、一番目の鐘が鳴ると同時に目を覚ます。
寝室に二つある大窓にかかったカーテンを開けて行き、部屋に備えられた浴室の洗面台で、用意されていた水差しから小さな盥に水を注いで顔を洗い、衛生魔法の呪文を唱えて歯や口内の洗浄を済ませる。
寝室に戻り、クローゼットに吊るされた深青色を基調とした王宮護衛師団の騎士の礼服に着替え、飾緒もなんとか取り付けて、靴もよく手入れがされた編み上げの黒い軍靴に履き替える。
肩につくかつかないかの長さで切り揃えられた髪をさっと櫛で梳かして整えれば、侍女がやって来る時間を待つこともなく、身支度はほぼ完成する。
最後に壁にかけられた大きな鏡の前に立って全身を映し、見苦しいところがないかどうかを確認してから……………………、
「……………………………………!??」
鏡の中で、目を瞬かせて固まっているのは、真っ直ぐで艶やかな黒髪に深い瑠璃色の目をした端正な顔立ちの青年だ。
前髪を指で掬い上げ、鏡に向かって呆然と呟く。
「………………何これ?」
寝室と続き部屋になっている居間に移り、長椅子に腰を下ろしたタイミングで、ノックの音が響く。
「どうぞ」
凝った意匠の重たげな扉が軋むことなく静かに開き、朝のお茶の支度一式を乗せたトレイワゴンを押した侍女が入ってきた。
「おはようございます、シリル様」
「……おはよう、ルイーズ」
「まあ、今朝もすっかりお支度がお済みでございますね」
ルイーズは十年前、シリルが王都にあるこの屋敷に引き取られた頃、ずっと身の回りの世話をしてくれていた侍女だ。
シリルが十一歳で王立学術院の騎士・魔法士養成学科の寄宿舎に入ってからは、休暇中以外にこの部屋で過ごすことはほぼなくなったが、帰れば彼女が必ず世話係としてついてくれた。
そろそろ中年期に入り、以前よりもベテランらしい貫禄が出てきたルイーズに、本当なら朝の着替えなどもしっかり手伝うのが侍女である自分の役目だと折りに触れて言われるが、十歳を過ぎたあたりから妙な自立心が芽生え出したシリルは、ずっとその申し出を固辞している。
昨日、半年ぶりに帰ってきたシリルをあれこれ気遣ってくれるのはありがたいのだが、今もまた挨拶代わりにそう言われ、小さく肩をすくめる。
「服ぐらい自分で着るのは当たり前だと思うけどな」
「失礼ながら、そのようなことをおっしゃる貴人の方はシリル様ぐらいかと」
「それはそうだろう。元々俺は貴族の生まれじゃないし。それに院の宿舎では始めに全員、自分のことは自分で出来るように指導される」
「ですがシリル様、義務でなさるのとお好きでなさるのとでは、まるで違いますわ」
そう言いながらルイーズは、お茶の支度に取りかかる前に熟練の侍女の目で、さりとて不躾にはならない程度に素早く主の全身をチェックする。
やがて口の端がきゅっと上がって頷かれ、どうやら合格点は貰えたらしいとほっとしたが。
「少し、御髪だけ整えさせて頂きます。本日よりシリル様には身につけて頂かねばならないお品がございますので」
「身につける? 髪に?」
さっき急いでおろした前髪を手で押さえながら心持ち上ずった声で問えば、ルイーズはそれはご覧になってからのお楽しみです、と微笑んだ。
「旦那様が今日の日のためにご用意なさった物で、なんでも魔法のかかった御守りだそうでございますよ」
「い、いやでも髪は……」
「どうかなさいましたか、シリル様」
ようやく主の様子がおかしいことに気づいたのかルイーズの声音が少し怪訝そうなものになる。
「なんでもないよ。そ、それで、父上は今どちらに……?」
それこそ休暇中ですら滅多に顔を合わせることのない、いつも多忙な養父の存在を引き合いに出し、煙に巻こうとする。
するとルイーズは再び笑顔になった。
「旦那様も、ゆうべ遅くにお戻りになられましたよ。今日はいよいよ例の儀式の本番の日でございますからね!」
「え?」
自分で訊いておいて、帰ってきていたのかと驚く。
昨日は一応、遅い時間まで待ってみたのだが、就寝時間になっても帰ってこなかったので、てっきりそのまま宰相府か神殿のほうに泊まるのだろうと思っていた。
そういえばルイーズの表情も、いつもより晴れやかだ。
久方ぶりに屋敷の主人と、養子とはいえその一人息子が揃って帰ってきているのだから、使用人たちも気合が入っているのだろう。
そうでなくとも、今日は特別な日だった。
パノン王国を上げての祝祭の日、およそ百年に一度執り行われる【聖女召喚の儀】が執り行われる日だ。
そして、シリルが護衛師団に入団して以来、初めての個別任務に着く日でもある。
さあ御髪を、とまた言われシリル──、いや俺は焦る。
──まだこれを誰かに見られたくない!
前髪ごと額を押さえたまま、立ち上がって寝室の方へ逃げこもうとしたとき、力強いノックの音が響いた。
「……朝の支度中にすまない。少しいいか?」
入って来たのは襟や袖口が金銀の糸で繊細に縁取りされた白い法衣を纏う背の高い銀髪の美丈夫だ。
この屋敷の主人であるジオルグ・ジルヴァイン・ロートバルは、足を踏み入れるなり、鋭い視線で俺を捉えた。
「悪いがしばらく出ていてくれ」
目もくれずに命じられ、ルイーズは会釈とともに素早く扉の向こうに消える。
入れ替わるように俺の前まで来ると、ジオルグはじっと金色の双眸を細めた。
「お、おはようございます、ちちう……」
「──何を隠している?」
数ヶ月ぶりに顔を合わせたというのに、挨拶抜きで単刀直入に問われ、俺は固まる。
見知ってはいるが、まだ見慣れてはいない強い輝きを持つ美貌に見下ろされ、ぎくりと顔を強張らせた。
後ろ暗いことがありすぎたのだ。
俺は三日前、十年ぶりにシリルの中で目覚めたばかり。
今はおっかなびっくり自分の中にあるシリルの記憶をたどりながら、なんとか生活している状態だ。
あれから十年経っていたことにも驚いたが、シリルがまたどうして急に、俺を主人格にして消えてしまったのかもわからない。いや、それとも本当は消えてはいないのか?
今の自分は、前世の記憶とあの草原の夜の記憶、そしてまるで実感が伴っていないのだが、俺が眠っていた間のこの十年の記憶も有している。
百年以上生きてきて、未だに妻を娶っていない孤高の竜人種が、何故かシリルを自らの養子として迎え入れたこと。
互いに直接顔を合わせる機会は少なくとも、彼が日頃からシリルのことを気にかけ、色々な段取りをしてくれていること。
ゲームでの二人の関係性を思えば、この世界のシリルははるかに恵まれているし、健全な環境で育てられたということがとてもよくわかる。
だが、ジオルグは俺の込み入った事情までは当然何も知らないはずだった。
『何を隠している?』
この言葉が深く突き刺さり、俺を見下ろす目の強さに完全に呑まれてしまった。
そしてこんな状況下にも拘わらず、我ながらちょっと軽いんじゃないかと思うが、半分はジオルグの姿に見蕩れてしまっていたのだ。
目を見開いたままで、その場から動けないでいる俺の肩を引き寄せ、ジオルグはそっと手を伸ばして額を押さえている俺の指を握るようにしてゆっくりとはがしていく。
ハッと我に返ったときにはもう遅く、長くて美しい指先で額を覆っていた前髪も全て払われ、その下に隠していたものを完全に晒された。
俺の額……いわゆる眉間の辺りに、ごく小さな銀白色の石のようなものが輝いている。
時折、虹のような不思議な彩りを放つそれは、まるで真珠のようでもあった。
その見た目は、至天竜・イーシュトールの鱗で出来た【聖女】と定められた者にのみ与えられる刻印とよく似ているようにも見えるが、少し違う気もする。
それに俺はイーシュトールと直接まみえたことはなく、朝起きたらいきなりこんなものが額に現れていた理由がわからない。
「…………ああ、やはりな」
深く沁み入るような声で呟き、ジオルグは嘆息する。
「こ、これはあの……!」
「わかっている。突然現れて驚いたのだろう? だが安心していい。これは徴だ」
「徴……?」
「シリル、君は選ばれし御子だ」
ジオルグはそう穏やかに告げて、そのまま俺の額にくちづけた。
「月精である君に祝福を。たとえ何があろうと、君のことは必ず私が守る」
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