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1章
10 セーフワード
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「じゃあ、まずは……」
そういって、健介の手を握っていた手の片方を離して、額にそっと置く。
「目をつぶって」
言われたとおりに目を閉じると、額に置かれた手がすすっと動いて瞼を覆う。置かれた手の温もりが瞼をじんわりと温める。握られていた手も、親指が健介の手の甲をすりすりと優しく撫でた。
手当て。
人はどこかが痛むときに無意識に患部に手を当ててしまうものだ。だが、実際に手を当てたところで、けがは治らないし、病気もなくならない。
だが、大きな手のひらが当てられている目の奥はだんだんと痛みが和らいでおり、手の甲をすりすりと撫でられるたびに手先の血行が戻るかのようにじんわりと指先が温かくなる。
これから何をするのか、不安だった気持ちがだんだんと落ち着いてくる。
「お名前を教えて?」
「ケンと申します」
「ケン。素敵な名前だね。私のことはリアンと呼んで」
「リアン……様」
「……なんだろう。堅苦しいな。呼び捨てにしてくれていいよ」
「え、えぅ……でも……」
さすがにどうみても身分の高そうなリアンを初対面に近い今の状況で呼び捨てにするのは憚られるのではないかと言いよどむ。
「大丈夫。プレイの時には身分や立場は関係ない。DomとSubは平等なんだよ」
「あ、はい。わかりました……リアン」
「いいこ」
瞼の上にあった手が額にかかった前髪をあげて、頭を撫でる。間近に見えるリアンの顔は鼻筋がすっと通っていて、彫が深く、銀色のまつ毛に縁どられた瞳はよく見ると片方がライトブルーで、もう片方が黄色がかった薄茶色をしていた。
「よくできました」と言いつけを守ったペットを褒めるように、リアンの美しくて大きな手が汚れている髪の毛を気にすることもなく何度も撫でた。
そのたびに固まっていた筋肉がほぐれていくように、緊張感から身体に入っていた力がふっと抜ける。先程まで感じていた身体の重苦しさが次第に薄らいで、目の奥に響いていた頭痛も随分とましになる。冷たくなっていた手足の指先も温まって、ぬるま湯のなかを漂っているような気持ちになった。
「ほぅ……」
思わず小さなため息がもれた。このまま再び眠りに落ちてしまいたい。
「ケン、これから少しだけプレイをしようと思うけど、出来そう?」
「ぷれい……」
言われた言葉を反芻する。尋ねられたものの、「プレイ」がどんなことをするのか、健介にはわからない。いまの状態も目を覚ました時に比べたら、随分とよくなっている。これ以上なにかをする必要はあるのか。もう、帰ってもいいのではなかろうか。
「プレイもわからない?」
健介の顔に浮かんだ表情にリアンが尋ねた。
「……はい。申し訳ありません」
仕方がないとはいえ、わからないものはわからない。ここに来てから何度目かの謝罪を口にする。リアンは慌てて、「謝らないで。説明するね」と優しく健介の頬を撫でた。
プレイは簡単に言うと、Domからの命令にSubが応える。Subが上手に命令に応えられたら、Domが褒めてあげるという一連の行為を言うらしい。ところで、命令とはどんなことをさせられるのだろうか。
「説明を聞くより、実際にやってみたほうが理解できると思うけど、どうかな」
あくまでも、健介の意思を尊重してくれる姿勢に、この人なら無体なことをしないのではないかと安易に考える。この世界に来て早々にひどい目にあったにもかかわらず、根っこの部分で平和な世界に生きてきた健介は人のことを簡単に信じてしまう。
「わかり、ました」
リアンの顔に喜色が浮かび、その表情が自分にとってよいことなのかわるいことなのかわからないが、ベッドの上にいては言うことを聞かざるを得ないという諦念を抱く。
「プレイをするときには必ず、『セーフワード』を決める。これは、SubがどうしてもDomの命令を聞きたくないときやこれ以上プレイをしたくないというときに使う言葉で、プレイをするまえに、決めておくんだよ」
「せーふわーど……」
「そう」
「『嫌だ』とか、『待って』とかではいけないのですか」
「……うーん、それはね、プレイをしていたらわかると思うんだけど。でも、普段は使わないけど、ちゃんと思い出せるような印象的な言葉がいいかな」
健介には理解が出来なかった。なぜ、「嫌だ」とか「待って」とかではダメなのだろう。それに、普段使わないのに印象的な言葉というのも、それほど簡単に思い浮かばす、頭をかしげてしまう。
「……」
「何かある?」
「……社畜」
「しゃちく?」
どうやらこの世界には存在しない概念だったようだ。リアンの顔に疑問符が浮かぶ。慌てて別の言葉にした方がよいかと思い、「あ、いや」と声をかけるが、リアンは「いいよ、『しゃちく』ね」と、リアンは深くは追求せずに、健介が思わず口走った言葉は二人の間のセーフワードとなった。
「じゃあ、はじめようか」
リアンは開始の声をかけると、ベッドで横になっている健介の背中に手をいれて、上半身を起き上がらせる。健介の体の上にかかっていた掛け布団をめくると、ぼろぼろのズボンをはいた薄汚れた脚が目に入った。白いシーツの上とのコントラストで、自分の肌の黒い汚れがより一層目立つように感じる。こんな汚い恰好のままで、この綺麗なベッドに横になっていたのかと、申し訳なさが胸いっぱいに広がった。
これから始まる「プレイ」より、そっちが気になり始めてそわそわと落ち着かない。
「どうしたの」
青ざめて自分の下半身を見つめる健介にリアンが怪訝な顔で尋ねる。「大丈夫だよ、心配しないで。怖いことはないから」そういって、横抱きにしようと、リアンの腕が健介の膝に差し込まれた。
その手を止めようと、「待ってください」と声をかける。
そこで理解した。
なぜ「セーフワード」に「待って」がそぐわないのかを。今まさに、「プレイ」をどうこうするという意図なく、「待って」という言葉を自分が口にした。頻繁に口にしてしまいそうになるような言葉は、そのたびにプレイを中断させてしまうことになる。それをいちいち「今のはプレイを止めたいってこと?セーフワードだった?」などと確認していては、その役割として適当ではない。
本当に何が何でも相手の「プレイ」中の行動を止めたいのであれば、安易に口走らない言葉をお互いに「これ」と決めておく必要があるのだということを実感した。
そういって、健介の手を握っていた手の片方を離して、額にそっと置く。
「目をつぶって」
言われたとおりに目を閉じると、額に置かれた手がすすっと動いて瞼を覆う。置かれた手の温もりが瞼をじんわりと温める。握られていた手も、親指が健介の手の甲をすりすりと優しく撫でた。
手当て。
人はどこかが痛むときに無意識に患部に手を当ててしまうものだ。だが、実際に手を当てたところで、けがは治らないし、病気もなくならない。
だが、大きな手のひらが当てられている目の奥はだんだんと痛みが和らいでおり、手の甲をすりすりと撫でられるたびに手先の血行が戻るかのようにじんわりと指先が温かくなる。
これから何をするのか、不安だった気持ちがだんだんと落ち着いてくる。
「お名前を教えて?」
「ケンと申します」
「ケン。素敵な名前だね。私のことはリアンと呼んで」
「リアン……様」
「……なんだろう。堅苦しいな。呼び捨てにしてくれていいよ」
「え、えぅ……でも……」
さすがにどうみても身分の高そうなリアンを初対面に近い今の状況で呼び捨てにするのは憚られるのではないかと言いよどむ。
「大丈夫。プレイの時には身分や立場は関係ない。DomとSubは平等なんだよ」
「あ、はい。わかりました……リアン」
「いいこ」
瞼の上にあった手が額にかかった前髪をあげて、頭を撫でる。間近に見えるリアンの顔は鼻筋がすっと通っていて、彫が深く、銀色のまつ毛に縁どられた瞳はよく見ると片方がライトブルーで、もう片方が黄色がかった薄茶色をしていた。
「よくできました」と言いつけを守ったペットを褒めるように、リアンの美しくて大きな手が汚れている髪の毛を気にすることもなく何度も撫でた。
そのたびに固まっていた筋肉がほぐれていくように、緊張感から身体に入っていた力がふっと抜ける。先程まで感じていた身体の重苦しさが次第に薄らいで、目の奥に響いていた頭痛も随分とましになる。冷たくなっていた手足の指先も温まって、ぬるま湯のなかを漂っているような気持ちになった。
「ほぅ……」
思わず小さなため息がもれた。このまま再び眠りに落ちてしまいたい。
「ケン、これから少しだけプレイをしようと思うけど、出来そう?」
「ぷれい……」
言われた言葉を反芻する。尋ねられたものの、「プレイ」がどんなことをするのか、健介にはわからない。いまの状態も目を覚ました時に比べたら、随分とよくなっている。これ以上なにかをする必要はあるのか。もう、帰ってもいいのではなかろうか。
「プレイもわからない?」
健介の顔に浮かんだ表情にリアンが尋ねた。
「……はい。申し訳ありません」
仕方がないとはいえ、わからないものはわからない。ここに来てから何度目かの謝罪を口にする。リアンは慌てて、「謝らないで。説明するね」と優しく健介の頬を撫でた。
プレイは簡単に言うと、Domからの命令にSubが応える。Subが上手に命令に応えられたら、Domが褒めてあげるという一連の行為を言うらしい。ところで、命令とはどんなことをさせられるのだろうか。
「説明を聞くより、実際にやってみたほうが理解できると思うけど、どうかな」
あくまでも、健介の意思を尊重してくれる姿勢に、この人なら無体なことをしないのではないかと安易に考える。この世界に来て早々にひどい目にあったにもかかわらず、根っこの部分で平和な世界に生きてきた健介は人のことを簡単に信じてしまう。
「わかり、ました」
リアンの顔に喜色が浮かび、その表情が自分にとってよいことなのかわるいことなのかわからないが、ベッドの上にいては言うことを聞かざるを得ないという諦念を抱く。
「プレイをするときには必ず、『セーフワード』を決める。これは、SubがどうしてもDomの命令を聞きたくないときやこれ以上プレイをしたくないというときに使う言葉で、プレイをするまえに、決めておくんだよ」
「せーふわーど……」
「そう」
「『嫌だ』とか、『待って』とかではいけないのですか」
「……うーん、それはね、プレイをしていたらわかると思うんだけど。でも、普段は使わないけど、ちゃんと思い出せるような印象的な言葉がいいかな」
健介には理解が出来なかった。なぜ、「嫌だ」とか「待って」とかではダメなのだろう。それに、普段使わないのに印象的な言葉というのも、それほど簡単に思い浮かばす、頭をかしげてしまう。
「……」
「何かある?」
「……社畜」
「しゃちく?」
どうやらこの世界には存在しない概念だったようだ。リアンの顔に疑問符が浮かぶ。慌てて別の言葉にした方がよいかと思い、「あ、いや」と声をかけるが、リアンは「いいよ、『しゃちく』ね」と、リアンは深くは追求せずに、健介が思わず口走った言葉は二人の間のセーフワードとなった。
「じゃあ、はじめようか」
リアンは開始の声をかけると、ベッドで横になっている健介の背中に手をいれて、上半身を起き上がらせる。健介の体の上にかかっていた掛け布団をめくると、ぼろぼろのズボンをはいた薄汚れた脚が目に入った。白いシーツの上とのコントラストで、自分の肌の黒い汚れがより一層目立つように感じる。こんな汚い恰好のままで、この綺麗なベッドに横になっていたのかと、申し訳なさが胸いっぱいに広がった。
これから始まる「プレイ」より、そっちが気になり始めてそわそわと落ち着かない。
「どうしたの」
青ざめて自分の下半身を見つめる健介にリアンが怪訝な顔で尋ねる。「大丈夫だよ、心配しないで。怖いことはないから」そういって、横抱きにしようと、リアンの腕が健介の膝に差し込まれた。
その手を止めようと、「待ってください」と声をかける。
そこで理解した。
なぜ「セーフワード」に「待って」がそぐわないのかを。今まさに、「プレイ」をどうこうするという意図なく、「待って」という言葉を自分が口にした。頻繁に口にしてしまいそうになるような言葉は、そのたびにプレイを中断させてしまうことになる。それをいちいち「今のはプレイを止めたいってこと?セーフワードだった?」などと確認していては、その役割として適当ではない。
本当に何が何でも相手の「プレイ」中の行動を止めたいのであれば、安易に口走らない言葉をお互いに「これ」と決めておく必要があるのだということを実感した。
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