嘘つきな社長の容赦ない溺愛

里崎雅

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1巻

1-2

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 新進気鋭のIT企業社長、しかもイケメンということもあり、ネット上には彼の特集記事もいくつかあった。

『大学卒業後、数年間は教育現場に従事し、三年前に西大路家に戻りグループ企業の役員に就任。その後、IT事業に特化したインハートウエスト社を設立』

 詳しい事情までは書かれていないが、情報としては充分だ。

(つまり先生は、西岡悟という名前で身分を隠して教師になり……その後、ホントの自分に戻って事業をおこしたってこと?)

 でも、どうしてだろう。会社や将来のために教師をしていたとは思えないし、やっぱり謎が残る。
 小春はWebサイトを閉じると、スマホの写真フォルダを開いた。今も数日おきに眺める写真フォルダには隠し撮りした悟の写真がたくさんあって、中に一枚だけカメラ目線の写真がある。
 というか、隠し撮りしようとしていたら偶然こちらを向いたのでカメラ目線になった、という偶然のたまものだ。
 改めて見ても、悟の雰囲気はどこか他の教師たちと違っていた。くたびれたスーツやジャージ姿が当たり前の校内で、悟はどこかおしゃれで洗練された雰囲気を持っていた。

(あれって、元々の育ちのよさがにじみ出てたってことなのかなぁ……なんたって、御曹司だもんね)

 高校生の小春にも、他の先生とは違う彼の品の良さみたいなものはなんとなくわかった。それは、好きだから特別に見えるという理由だけではなかったらしい。
 高校の時は、先生と生徒という絶対に崩れない強固な壁が二人の間にあった。
 でも卒業した今は、自分のがんばり次第で、どうにかなるんじゃないだろうか。
 社長と社員という垣根はあっても、倫理的にはなんの問題もない。

「そう考えたら、なんか燃えてきた……」

 ニヤリとつぶやいた小春の背後に、誰かが立った気配がする。
 慌てて振り向くと、そこにはランチから戻った鎌田があごに手を当てて立っていた。

「あ、鎌田さん、おかえりなさい」
「ふーん、燃えてきたって……仕事に?」

 独り言を聞かれていたとは思わず、小春は曖昧あいまいに頷きこの場を誤魔化そうとする。

「えっと……はい。そんなところです」
「やる気あるわねえ。ランチをデスクで取るくらい、北山ちゃんが仕事に燃えてるとは知らなかったわ。だったら、もっと仕事を任せてもいい?」

 は? と固まった小春のデスクに、どさどさと書類が置かれていく。

「新人だからって、甘く見すぎてたわ。ごめんね、北山ちゃん。開発部のモットーは『実力のある人はどんどん上へ』よ! というわけで、この資料全部に目を通してもらえる? 次回のカタログの目玉になる商品を見つけて、特集記事を作るのを手伝ってほしいの」
「えっと……」
「わからないことがあったらじゃんじゃん聞いてね。北山ちゃんがやる気あるって言ってくれて、すごく心強いわ」

 鎌田の感心しきった眼差しに、何も言えなくなる。
 まさか、社長に近づく方法を探して燃えてました、なんて言えるわけもなく。

「……はい、がんばります!」

 膨大な書類を前にため息をこらえた小春は、から元気で返事をした。


「学生時代の私って……暇だったんだなあ……」

 数日後、小春は栄養ドリンクを片手に会社のデスクに突っ伏していた。
 鎌田に割り振られた作業は予想以上に多く、同時にとてもやりがいのある仕事だった。本来であれば新人に任せる仕事量じゃない……と他の先輩に同情されたことが、逆に小春のやる気に火をつけ、気づけばこのところずっと残業続きだったりする。
 今まで通りの雑用をこなしながらの作業は思いのほか大変で、あっという間に終業時間が過ぎてしまう。

(今まで残業が少なかったのって、鎌田さんが私の仕事量をセーブしてくれてたんだろうな……)

 社会人として改めて身の引き締まる思いだが、せっかく再会できた悟に対してなんのアクションもできずにいる状況は歯がゆい。
 高校の時はあの手この手でアプローチを繰り返し、明日はどう話しかけよう、校内のどこで会えるだろう……と思考をめぐらせるのが日課だった。
 高校の時の自分は、なんて暇で幸せだったのだろうとつくづく思う。
 ようやく悟の所在がわかったというのに、彼に近づくどころか動向すらつかめずにいる。会社にいる以上、仕事が一番なのは仕方がないけれど、れったさも限界だった。

「北山さん、まだやってるのか? そろそろ終わりにして帰ったらどうだ」

 少しでも自分の時間を作りたくて躍起やっきになって仕事をしていた小春は、課長に声をかけられ顔を上げた。いつの間にか、フロアには課長と小春の二人きりになっている。

「あれ、全然気づきませんでした……」

 鎌田が一緒の時は遅くならないよう小春の勤務時間を配慮してくれているのだが、彼女は午後から外回りに出かけていてそのまま直帰だった。いつも声をかけてくれる人がいないため、仕事に没頭しすぎて時間を忘れていたようだ。

「ものすごく集中していたからな。ただ、もう二十三時を過ぎてる。その辺にしておかないと、帰ったら日付が変わってるぞ」

 それはさすがに明日が辛いし、自分が帰らなければ課長も帰れないだろう。小春は急いで帰り支度をすると、書類のチェックをしている課長に頭を下げた。

「遅くなってしまってすみません。お先に失礼します」
「ああ、気をつけて帰れよ」

 残業でここまで遅くなったのは初めてだ。
 フロアを出て廊下に出ると、社内には既にほとんど人影がなかった。一度ロッカールームに寄った後、エレベーターホールで、ぼんやりと扉が開くのを待つ。
 最上階に停まっていたエレベーターが下りてくるライトを眺めながら、小春はふと昼間に鎌田から聞いた話題を思い出した。

『今日は新社長来てるみたいよ~。さっきエントランスで見かけちゃった♪』

 外出先からウキウキした様子で戻ってきた鎌田の言葉に、小春は作業を止めて顔を上げる。

『社長って……西大路社長ですか?』
『もちろん。周りに人がたくさんいるから、遠目から眺めるだけだったけど。一人だったら話しかけに行くのになぁ~』

 残念そうな様子の鎌田に、無意識にほっとしている自分がいる。
 人目を引く華やかな顔立ちと、メリハリのあるボディで男性社員に人気のある鎌田だ。もしかしたら悟も、彼女に惹かれてしまうかもしれないと焦ってしまった。
 世の中をはじめ、この会社の中にも魅力的な女性はたくさんいる。そうした女性たちも、鎌田のように悟に近づきたいと思っているかもしれない。
 仕事が忙しいなんて言って、自分が何も行動を起こせずにいる間に、別の女性が悟に近づいてしまったら。それどころか、既に彼女がいたりしたら……。そう考えると、言いようのない焦りと不安が込み上げてくる。

(最上階の社長室に、先生がいたりしないかな……)

 前社長は高齢だったこともあり、あの朝礼の後すぐに退任を決めたと聞いた。書類上はまだ社長らしいが、既に権限は全てインハートウエスト社に移っているようだ。
 もし社長室に誰かいるとするなら、それが悟である可能性は高い。
 迷った末、小春は来たばかりのエレベーターに飛び乗り、最上階のボタンを押した。

(新人だから間違えちゃって……っていう言い訳は、まだギリギリ使えるかな?)

 無謀なのは充分わかっている。だがこのまま何もせずに、また会えなくなるのだけはいやだった。
 チン、と軽やかな音を立ててエレベーターが最上階にたどり着き、ゆっくりと扉が開く。エレベーターホールに誰もいないことにまずほっとした。
 辺りを見回しながらエレベーターを降りると、壁には絵画が飾られ通路の角には高級そうな花瓶が置かれている。最上階だけあってなんとなく高級そうな雰囲気だが、正直古臭くて趣味も悪い。恐らく、前社長の好みだろう。

(こういうの……悟先生が正式に社長になったら、あっという間に撤去されそう)

 そんなことを考えつつ、しんと静まり返った廊下をそろそろと進む。副社長室、秘書室、といくつかの部屋の前を通り過ぎ、廊下の一番奥に社長室を見つけた。
 さすがにこんな遅くまで残っている社員はいないのか、どの部屋からも人の気配は感じられない。
 足音を忍ばせつつ社長室の前にたどり着き、小春は重厚そうなドアの前で深呼吸をした。
 誰にも会わずに済んだのにはほっとしているけれど、これで悟にも会えなかったら残念だ。再会したあの日以来、まだ一度も悟に会えていない。

(今日は会社にいたってことは……先生は日中、ここで仕事してたってことだよね)

 キョロキョロと辺りを見回して誰もいないのを確認した小春は、ぺたりと社長室の扉に身体を預けてうっとりと目をつむった。
 この四年間、悟がどこで何をしているのか、それどころか生きているのかどうかすら不明だった。
 それを思うと、たとえ今は不在でも、彼がここにいたという事実に胸が熱くなる。なんだか悟の気配が残っているような気さえしてきた。

(このドアノブにだって、絶対に触っているはず)

 そう思いながら、鈍い錆色さびいろに光るドアノブにそっと手を触れた。当然、冷たい金属の感触しかしないけれど、そんなことはどうだっていい。
 悟が触れたドアノブに、今自分も触っている。その事実が嬉しい。
 扉を開ける悟の姿にみずからを重ね、ドアノブを回そうとしたところ――

「……何をしている」

 低い声が背後から聞こえて、小春はびくっと全身を震わせた。

(でも、この声は……)

 ギギギ、とロボットのようにぎこちない動きで振り向くと、予想通りの人がすぐ後ろに立っている。

「せ、先生……!」

 嘘みたいだ。あれほど会いたくてたまらなかった人が、目の前にいる。
 しかし感激で目をうるませる小春に、悟の氷のように冷たい視線が突き刺さる。

「一体、何をしていると聞いている」
「いえ、その……もしかしたら、先生がいるかもしれないって思って」

 どうしても先生に会いたいと思ったら止まらなくなって、という言葉を呑み込む。
 高校の時は素直に口に出せていたはずの言葉が、喉の奥に引っかかって出てこない。それくらい、目の前の悟は、小春の知っている悟とは別人のようだった。

「このフロアがどういう場所なのか、社員のお前が知らないわけないよな? 社長室のある役員フロアだぞ。他の階より監視カメラを含め警備が厳しいとは、考えなかったのか?」
「あ」

 指摘され、さっと血の気が引いていくのがわかった。
 監視カメラに忍び込んだ自分の姿が映ってしまうなんて、考えもしなかった。落ち着いて考えれば、こんな時間に新人社員が不自然に役員フロアをうろついていたら、それだけで由々ゆゆしき問題だ。

「ど、どうしよう。せっかく先生に会えたのに、私クビになるんでしょうか……」

 青くなった小春に、悟が心底呆れた様子でため息を吐く。

「今日はまだ、正式な出社日じゃないから防犯カメラは入れてない。だが、それくらいは考えろ」

 ほっとしたのも束の間、悟はさらに冷たい目で小春を見据える。

「社会人として、浅はかな行動をするな」
「…………っ!」

 冷たい言い方に、胸をぎゅっとつかまれたような苦しさを感じた。
 小春を見下ろす視線には、元先生が元生徒に向ける親しみなど微塵みじんも感じられない。

「申し訳……ありませんでした……」

 小春はもたれていた扉から身体を離し、頭を下げた。
 どう考えても自分が悪く、非常識な行動を取ったことを詫びねばならない。けれど、それ以上に込み上げる感情があった。小春は勢いよく顔を上げてキッと悟をにらみつける。

「久しぶりの再会だっていうのに、随分と冷たいんですね? 先生」
「……俺は先生ではないと前にも言ったはずだ」
「あー、そうですね。確かにそう言ってました。まったくもってその通りです!」

 教師の頃とは違う悟にひるみそうになるが、こんなことでめげるくらいならそもそも七年も想い続けていない。

「先生じゃないって言うなら、私だってもう生徒じゃありません!」
「……は?」

 そう宣言した小春に、悟がわずかに片眉を上げる。

「もう先生と生徒の関係じゃないんだから、何を言われたって引きませんしめげません。覚悟してください。私、絶対にあなたを落としてみせますから!」

 面と向かってはっきり言うと気持ちがすっきりした。そんな小春を見て、ずっと別人のような冷たい顔をしていた悟の表情がかすかに変化する。
 数秒の沈黙の後、悟の口角がほんの少し上がった。

「……相変わらずだな。お前は」

 こらえきれずに思わずれてしまった、みたいな微笑み。その表情は高校の時の悟そのもので、小春の胸が大きく鳴った。

「せん……」

 一瞬にして舞い上がりかけた小春を、冷たい顔に戻った悟が現実に引き戻す。彼は小春の肩を押して社長室の扉から遠ざけた。

「二度とこんな時間にうろつくなよ。今日はたまたま忘れ物をしただけで、こんな偶然はない。それに、あと数日もすればここの防犯カメラも動くようになるからな」
「はい……」

 小春は目の前にいる悟を見上げた。ようやく会えた妄想でない彼の顔を、じっくりと目に焼き付けておきたくて。

「仕事が終わったのにこんなところをうろついていたと知られたら、お前の上司の立場もまずいぞ。わかったなら、早く帰れ」

 悟はそれだけ言うと、こちらを見ることなく社長室の中に入って行った。バタンと閉まった扉の前で、小春はしばし立ち尽くす。
 姿を見られればいいと思っていたのが、会話までできた。けれど、悟はもう小春が知っている『先生』ではない。
 嬉しさと寂しさがごちゃまぜになってどうしていいかわからなかった。けれど、とにかく今は早く帰ろうとエレベーターホールに向かう。急いでエレベーターに乗り込み扉が閉まったところで、ほっと肩の力を抜いた。
 悟に会えたのはラッキーだったけれど、彼の言う通り、もし警備員や他の社員に見つかっていたら――不審者扱いされるだけでなく、部署の上司にまで迷惑をかけていたかもしれないのだ。
 学生の時みたいに、勢いだけで動くことはもうできない。同じ会社なら気軽に近づけると思ったけれど、社長に接近するのは難しいとよくわかった。
 幸い誰にも会わずにロビーまで降りると、思ったよりも時間が過ぎていた。家に着く頃には日付が変わっているだろうけど、なんだか心も身体も軽やかだ。
 外に出て見上げたビルの最上階には、まだ灯りのついている場所がある。

(あそこがきっと、社長室だよね……)

 あの灯りが消えるまでこの場に留まっていたいけれど、きっと悟はそれを望まない。高校の時から一歩間違えばストーカー? と同級生たちに笑われていた小春ではあるが、実際は明確な線引きがあって「先生にだめと言われたらやらない」と決めていた。
 せっかく会えたけれど、悟が「早く帰れ」と言うのなら大人しく帰ろう。
 またすぐに会えますようにと社長室に向かって手を合わせてから、小春は駅に向かって歩き出した。


ひとみ:えっ、マジ? 小春、とうとう西岡先生のこと見つけたんだ!』

 帰宅して高校時代の友人である瞳にメッセージアプリで悟との再会を報告すると、すぐさま返信があった。

『瞳:さすが、学校一の西岡ファン。執念だね』

 大学生になっても彼氏を作らない小春にほとんどの友人は呆れていたけれど、瞳は「そんな風に好きになれる人がいるのもいいんじゃない?」と唯一肯定してくれた友人だった。悟と再会したことを誰かれ構わず話すつもりはないものの、瞳にだけは報告しようと思ったのだ。

『小春:執念じゃなくて運命だよ! だって先生、ウチの会社の社長として現れたんだよ?』
『瞳:あー、はいはい。そうだね運命、運命』

 そう言って、軽くあしらわれる。だが、瞳のこんな反応はいつものことなので慣れっこだ。

『小春:でもさ、正直言うと……高校の時と違って、どうやって先生に近づけばいいのかわからないんだよね。相手は社長だし、接点がなさすぎる』
『瞳:あの顔とスタイルで社長なら、高校の時以上にライバルも多そうだね~』

 そうなの、と小春はスマホを握りしめてウンウンと頷く。

『瞳:でもさ、どこにいるかわかんなくて、この広い日本でただ再会を夢見るしかなかった時より、ずっといいじゃん? だって、存在が確認できるんだから』
『小春:そうだね。ホント、そう思う』
『瞳:それで先生、結婚はしてなかったの?』
『小春:大丈夫だった! 私も気になって調べてみたんだけど、独身だったよ♪』
『瞳:そっかあ、それなら付き合うのも可能なんだね』

 言われて、ハッとした。

『小春:そうだよね。そうなんだよ……私、先生の彼女になりたい!』
『瞳:何それ、いまさら?』

 スマホの向こうから、瞳の笑い声が聞こえてきそうだ。

『瞳:まあとにかく、がんばりな~』
『小春:うん……がんばる! ありがとう』

 メッセージアプリを終わらせた小春は、スマホを胸に当てて深く息を吐いた。
 改めて提示されたことで、はっきりと自覚する。

(そうだ。私、先生の彼女になって……堂々と隣にいたい)

 小春は、こうやって誰かに背中を押してもらいたかったのかもしれない。他愛のない一言でもいいから、応援されていると思いたかった。
 ばふりとベッドに倒れ込み、1DKの小さな部屋を見回す。この部屋に先生が訪ねてくる……なんて妄想をした回数は数知れない。でも、彼と付き合うことができたら、妄想じゃなくなる。

(高校の先生と会社社長って……どっちが高望みなのかなあ。でも落とすって宣言しちゃったしね。とりあえずは、先生に女として見てもらわなくちゃ)

 そう決意を固め、小春は明日に備えてそっとまぶたを閉じた。



   2


 翌朝。いつもより早く家を出たせいか電車に少しだけ空席があった。小春はそこに座りポケットからスマホをとり出す。
 高校を卒業してから四年。機種変更をする度に、悟の写真だけは新しい機種に移動させてきた。そのため、どのスマホにも彼専用のフォルダがある。そこに収められた隠し撮り写真をうっとりと眺めながら、昨夜のことを思い出した。
 友人の瞳には悟との再会を運命だと言ったけれど、さすがに小春もそこまでおめでたくはない。
 ただ、すごく運が良かったとは思っている。
 しかしこの先、昨日みたいな偶然を待っているだけでは、今の彼には近づけない。
 学校に行けば必ず会えた昔とは違う。なぜなら今の彼は、同じ会社にいても顔を見ることすら難しい社長なのだから。
 話ができればラッキー、二人だけで話せたらかなりラッキー。そう思っていた昔に対し、姿を見られるだけでもものすごくついているというレベルでは、過去よりさらに状況が悪化していると、思わず苦笑がれた。
 それでも瞳が言っていたように、まったく消息がわからなかった時に比べたらずっとマシだ。
 そんなことを考えているうちに駅に着き、小春は人混みに流されながら会社に向かう。数年前に新築されたという十階建てのオフィスビルの前で立ち止まり、最上階を仰ぎ見た。昨夜、灯りがついていた窓は、ギラギラと太陽の光を反射してすぐに直視できなくなる。
 同じ建物とはいえ、あそこまでの道のりは随分遠く感じられた。


「おはよう、北山さん。がんばってるね」

 一番乗りで出社した小春が書類の整理と郵便物の仕分けをしていると、次いでフロアに入ってきた部長に声をかけられた。

「おはようございます」
「朝一番で見るのが北山さんとは、今日はラッキーだなあ。あ、こういうのはセクハラになるんだったか」

 がははっと楽しそうに笑う部長に愛想笑いを返しながら、悟ともこんな風に接点があったらよかったのになあ、と内心で思う。

「最初の頃に比べて書類のミスも減ってきたし、業務にも慣れてきたね。だいぶ社会人としての自覚が出てきたんじゃないか?」
「あ、ありがとうございます」

 部長からの思いがけない評価に、小春は驚いて頭を下げる。
 この部署に配属されてすぐ、元気と愛想はいいけれどミスが多い、と指摘されたことがあった。あの時はショックで落ち込んだけれど、改善しようとがんばってきたかいがあったと素直に嬉しい。
 結構結構、と笑顔で頷きながら部長が自分のデスクについた。
 そこでふとひらめき、小春は部長に問いかける。

「あの、部長。ひとつ質問してもいいですか?」
「ん? なんだ?」
「上司としては、やっぱり部下が仕事を一生懸命がんばっていたら嬉しいですか?」
「そりゃあ嬉しいに決まってるよ。自分の部署の部下っていうのは特別可愛いもんだしな。部下にやる気があるのは結構なことだし、それが伝わってきたら目をかけてやりたくなる」
「なるほど」

 同じ部署の部下ではないけれど、社長にとって社員は全員部下みたいなものだろう。だとしたら、小春が必死に仕事に打ち込んでいたら、悟の目に留まる確率が上がるのではないか。
 あごに手を当てじっと考え込む小春に、なぜだか部長がコホンとわざとらしい咳払いをする。

「き……北山さん、俺に個人的に喜んでほしいのかい?」
「あ、すみません、まったく違います。それは別の話です」
「……ああ、そう……」
「おはようございまーす。あら、北山ちゃん早いわね!」

 軽快な足取りでフロアに入ってきた鎌田が、肩を落とす部長と小春へさわやかに挨拶あいさつしてきた。

「おはようございます! 鎌田さん」
「あれ、部長どうしたんですか? なんか複雑な顔してますけど」
「いや、なんでもないよ……」
「そうですか? それならいいんですけど」

 鎌田は不思議そうにしながらも、デスク周りを整えて仕事の準備を始めていく。
 小春はその様子を眺めつつ、もし自分が彼女のような若くしてホープと言われる存在だったら、社長の目にも留まりやすいのにと思ってしまう。

「北山ちゃん? どうしたのよ、じっとこっち見て」
「……なんていうか、……もし、学校の先生に好かれたいと思ったら、勉強をがんばりますよね?」
「いきなりなんのたとえ話?」

 鎌田は呆れた顔をしつつも、小春の話に耳を傾けてくれた。

「まあ、先生に好かれたいと思うなら、いい生徒になるのが一番よね」
「じゃあ、会社の偉い人の目に留まりたいと思ったら、仕事をがんばるのが一番ですか?」
「は?」

 鎌田は怪訝けげんそうに眉を寄せて、ちらりと部長に目をやった。

「まさかと思うけど……北山ちゃん、部長に好かれたいの?」
「ええ、ち、違いますよっ! そりゃあもちろん、部長や鎌田さんにも認めてほしいですけど!」

 部長は愛妻家だし、子供もいる。おかしな誤解をされては困ると慌てて首を横に振った。

「なら、会社の偉い人って誰のこと?」
「うんうん。そこは上司としても気になるね」

 いつの間にか部長も会話に入ってきている。小春は一瞬どうしようかと迷ったが、隠すことでもないかと素直に打ち明けた。

「社長です。私、新しく就任した社長に認めてもらいたいんです」

 それを聞いた二人は、驚いた様子で顔を見合わせた。

「え。冗談でしょ?」

 うかがうような鎌田の問いかけに、きっぱりと答える。

「いえ、本気です」

 二人は無言で小春を凝視していたが、そのうち部長がぷっと噴き出した。

「あはは、そっかそっか。いやいや、こころざしが高いのはいいことだ! それに……IT企業の社長だったら、きっと年功序列なんて言わないだろうしな。やる気があって実力のある社員こそ、もっと上に行くべきだよ。うんうん」

 どうやら、冗談だと思われてしまったようだ。

「社長に認めてほしい、ねえ……。そりゃまた随分と大きく出たわね」


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