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1巻
1-2
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アレンと違い幼い頃から恋多き男だったクレイグは、去年大恋愛の末に王都で働くパン屋の娘を妻に迎えた。仮にも王の従兄で第一の側近でもある人物が、と周りの大反対を押し切っての結婚だった。
二人は、一年経ってもなお冷める気配など全くない熱愛ぶりを見せている。それゆえ、今回、妻と離れての同行を命じたアレンをクレイグは笑顔でチクリチクリと攻撃してくるのだ。
「そう他人事のように言うがな。お前だって本来ならパン屋の娘など嫁に迎えている場合ではないのだぞ。俺に何かあれば、王位を継ぐのはお前しか……」
「あ、無理です。妻と結婚する時に、私は正式に王位継承権を放棄してますからね」
アレンは馬車の天井を仰いだ。
「クレイグ……改めて言うが、俺に何かあったらこのサマルド国をどうするつもりだ」
「やだなあ。だからそうならないために、こうやって、いるかどうかもわからないお姫様探しに同行してるんじゃないですか」
クレイグはにっこりと不敵な笑みを浮かべながら言った。
「それに、今回は……もしかすると、もしかするかもしれませんからね」
『月の姫は銀色の髪を持った娘』としか民の間には伝わっていない。そのせいで、とても銀髪とは言えない白髪の娘までもが月の姫だと名乗ってくる。いちいち大量の偽者を審議するために王が出向くことはありえないが、今回ばかりは違った。
「領主の娘と言ったか」
「ええ。ブラウン様が、月の姫がいると告げた東の方角であるのに加えて……その領主が治める地では、奇跡とも言える出来事が以前から多発しているようです。そのせいで、近隣の街からは『奇跡の街』と呼ばれているとか。年寄りどもが、今度こそはと色めき立つのも無理ありません」
正確に何年前からかはわからないが、近隣の街に比べて天候が安定して作物の豊作が続き、水害にも遭わなかったという。さらに、辺境の地では決して育つはずのない万能の薬草、白銀花まで花を咲かせているのだとか。
「ただ……この領主はちょっと、ずるがしこいとこがあるんですがね。豊作が続き安定した収益を得ているはずなのに、国に納められている税金はずっと辺境制度で割り引かれた金額のままです。そのあたりの不公平さを、ついでに調査しないと」
「お前にとってはそれが第一目的か? まあ俺としても、お前に任せるのが一番安心できるがな」
密かに守銭奴と呼ばれ金に細かいクレイグなら、抜かりなく調査してくれるだろう。
「俺は寝る。着いたら起こせ」
とりあえず辺境の地に赴く価値はあるようだが、面倒なのには変わりない。
それに、古い家臣たちの言いなりになっているようで、面白くないという気持ちが少なからずあった。
若くして王位を継いだアレンに敵は多い。ようやく王政も落ち着いてきたとはいえ、王都を長く空けるのも気が進まない。
アレンは馬車の座席に深く背を預けると、固く目を閉じた。
半刻ほど経った頃だろうか。うつらうつらと眠りの淵をさまよっていたアレンは、ハッとして瞼を開いた。
すぐ間近で呼ばれたように自分の名前が頭の中いっぱいに響きわたっている。心臓がどくどくと早鐘を打ち、胸を押さえつけた。
「どうしました?」
向かい側に座っていたクレイグが、突然身を起こしたアレンに驚いた様子で声をかける。
「……いや。到着は間もなくか?」
一度速まった鼓動はなかなか鎮まらず、アレンは胸を押さえたまま窓から外を見つめた。
「どうでしょう? 変わり映えのない景色ですからねえ。御者にでも聞いてみましょうか」
クレイグがそう言って窓の外へと身を乗り出す。すると馬車がゆっくりと減速を始め、馬で並走していた兵士がクレイグに何か声をかけてきた。兵士と言葉を交わしたクレイグが、アレンの方を向く。
「間もなく到着のようです。アレン様、よくわかりましたね」
「……何か、おかしい様子はないか?」
「は? ここから見たところ、特におかしい様子は見受けられませんが……」
クレイグは窓から首を出しキョロキョロと周囲を窺うと、不思議そうに言った。
アレンは固く唇を引き結び、自分の状況を理解しようと努める。
誰かに名前を呼ばれたような気がして目が覚めた。焦燥に駆られるような、それでいて高揚してくるような、不思議な感覚がアレンの身を包んでいる。
クレイグや外を走る兵士の様子はいたって普通で、どうやらこの何とも説明しがたい感覚に襲われているのは自分だけらしい。
(これは、どういうことだ?)
クレイグの前では散々文句を言ってきたものの、アレンとてサマルド国で育った人間だ。
自分を呼ぶのは『月の姫』ではないかという考えが頭の片隅にちらつく。
黙り込んだままのアレンをまだ不機嫌なのかと勘違いしたか、クレイグは珍しく労るような笑みを向けてきた。
「まあ、これだけ信憑性が高いと言われている姫が偽者だとわかれば……次にまた同じような話が出ても、わざわざアレン様が出向く必要はなくなります。年寄り連中とてしばらくはおとなしくなるでしょう。どうか今回ばかりは、ご辛抱ください」
「……ああ」
どっちに転ぼうが、月の姫を探すために王都を離れるのは最初で最後になるかもしれない――
そんな予感を覚えながら、アレンは小さく頷いた。
* * * * *
(陛下をお迎えする宴が始まったみたいだわ……)
地下室の固いベッドの上に座り込み、ライラは小さなため息をついた。
たとえ地下室にいても、屋敷の賑わいはある程度伝わってくるのだ。
ライラの前には、数刻前にザラが運んできてくれた食事が置かれている。今日の食事は、いつもに比べて品数も多く豪華なものだった。
だがライラはその食事に、ほとんど手をつけていない。なぜか気持ちが落ち込んでしまい、食欲が湧いてこなかった。
(きっともう、マーガレット様は陛下にお会いになったわよね……)
国王は、『月の姫』と言われているマーガレットに会いに来たのだから当然だ。
しかしマーガレットが悠然と微笑み肖像画の主の前に立つ姿を想像すると、どうしてだか胸がキリキリと痛む。
ライラは必死に、自分とは関係ない世界のことだと言い聞かせた。
それに、二人の面会が無事に終了し国王の一行が屋敷を去れば、自分は地下室から出ることができる。
きっとすぐにまた、何事もなく日々の雑務に追われるようになるだろう。早く全てが終わり、こんな胸の痛みなど忘れてしまいたい。
ライラはそれだけを考え固いベッドに身体を横たえると、きつく瞼を閉じた。
ところが、ライラの願いは数日経っても叶わなかった。翌日も翌々日も、地下室から出られる気配がないのだ。
その日、いつもと同じように食事を運んでくれたザラの顔を見て、ライラは表情を曇らせた。
「ザラ? なんだか疲れているみたいだけど……」
「大丈夫よ。ただ……普段の仕事に加えて毎晩宴の準備があるでしょう? さすがに皆疲れてきているの」
「毎晩の宴って……」
「国王様はそんな必要ないって仰ってるらしいけど、屋敷に滞在されているんだから当然のことだってブルーノ様が毎晩宴を開かれるのよ」
顔色が悪く疲労を滲ませたザラを見ていると、胸が痛む。
「私が少しでもザラを手伝えたらいいのに……」
ザラはライラを安心させるように微笑んで見せ、それから不思議そうに首を傾げた。
「でもねえ……お忙しい陛下が、どうしてこんなに長く屋敷に滞在し続けるのかがわからないって皆で話しているのよ」
マーガレットに会い王都へ連れて行くだけなら、それほど日数は必要ないはずだ。
「もうマーガレット様にはお会いになったのでしょう?」
「ええ、そりゃもちろん」
国王一行がこの屋敷に到着して、既に四日も経っている。あれだけ自慢げにしていたことを考えると、マーガレットも乗り気だったのは間違いない。もしかしてマーガレットが王都に行くための準備に時間がかかっているのかとも思ったが、ザラは首を振った。
「マーガレット様がお仕度をなさるんだとしたら、誰か手伝わなければならないでしょう? 使用人の誰もそんなことを言いつけられていないのよ。マーガレット様の機嫌も悪くなる一方でね。困ったものだわ」
だとしたら、国王がこの屋敷にいつまでも滞在し続けているのはなぜだろうか。
「もしかしたら、陛下には真実がわかっていらっしゃるのかもしれないわね……」
ザラにしては珍しく含みのある言い方に、ライラは首を傾げた。
「どちらにしろ、早くここからライラを出してあげたいわ。こんな地下にいたら、お月様の光も届かないもの」
ザラは優しくそう言って、ライラの黒い髪を優しく撫でた。
「陛下が……ライラのことを見つけてくださったらいいのにねえ」
ぽつりと呟かれ、ライラはきょとんとザラを見上げた。
「どういう意味?」
「いいえ、なんでもないわ。そんなこと、ここで働かせてもらっている身で言えないものね」
ザラの言葉を不思議に思いながらも、ライラは気になっていたことを問いかけてみた。
「……ねえ、ザラは陛下をお見かけした?」
「宴の際に、遠目でちらりとお見かけしましたよ」
「どんな方だった?」
「なんだか不機嫌そうに顔をしかめてらっしゃってねえ……ちょっとよくわからなかったわ」
「そうなの?」
でも、遠目でもかまわないから、一目あの肖像画の君を見られたらどんなにいいだろう。
別世界の人だとわかっていても、いや、わかっているからこそ――どうしても、一度だけあの人を見てみたい。そんな思いに囚われぼんやりとしていると、ザラが何かに気づいたようにライラを見つめた。
「ライラ、少しだけ外の空気を吸いに行ってはどう?」
「え、でも……」
「すぐに戻れば大丈夫よ。ブルーノ様やマーガレット様は御一行の接待で忙しいし、こんな時にわざわざ地下へ来る人はいないでしょう?」
確かに、ずっと地下の湿った空気ばかり吸っていて気が滅入っていた。ザラの言う通り、ほんの少しなら大丈夫かもしれない。
「うん、ありがとうザラ。後で、一人でこっそり出てみる」
ザラはライラの華奢な肩を数回撫でると、ゆっくり立ち上がった。
「それじゃあ、外に出る時は充分に気を付けるんですよ。夜になったらまた様子を見に来るから」
「うん、ありがとう」
コツコツと規則正しい靴音を立てながらザラが行ってしまうと、再び地下には静寂が訪れた。
(少しくらい……大丈夫だよね)
もしかしたら、遠くから宴の様子を垣間見るくらいならできるかもしれない。
そう思うとほんの少し気持ちが晴れる。ライラはザラが運んできてくれた食事を膝に載せるとスプーンを手に取った。
* * * * *
「何かわかったか?」
屋敷の大広間で盛大な宴が開かれている中、アレンは影武者にその役割を任せ、自らは民と変わりない服に身を包み街へ向かっていた。
アレンと同じような格好をしたクレイグが、隣で深いため息をつく。
「信頼できる部下にも手伝わせて調べていますが……今のところ該当する娘が見つかったという報告はありません。銀髪どころか、金髪の娘すらほとんどいないそうです」
アレンに比べて比較的自由の利くクレイグは、この数日こっそりと屋敷を抜け出し街で年頃の娘がいる家を探ってくれていた。
「ついでに街の者に話を聞いて回ったのですが、この街で奇跡と言われていることが起こり始めたのは、確かにあのマーガレットとかいう娘が生まれてからだそうです。万能の薬草と言われている白銀花も、昔は全く見かけなかったとか」
「全て、あの娘が生まれてからと街の者は信じているということだな」
「ええ。そうです」
アレンは黄金の髪をフードですっぽりと覆い隠したまま、盛大に顔をしかめた。
「王家もバカにされたものだな。あの父娘、わかっててやっているとしか思えん……」
一般の民は『月の姫は銀色の髪をしている』程度の認識しかないので、銀色の髪を持って生まれただけで上を下への大騒ぎになる。『うちの娘は月の姫だ』と思い込んで王都へ連れて来る親が跡を絶たない。親心を思えばそう勘違いしても仕方ないし、こちらも丁重に断る。
だが、この地の領主であるブルーノと娘のマーガレットは明らかに違う。
「この街に月の姫がいるのは間違いない。あの二人はそれを知っていながら、月の姫を騙っているのだ」
確かに髪の毛は艶やかな銀色をしていたが、あの鈍い光は人工的に染め上げられたものだ。偽者を幾人も見てきた者なら、すぐにわかるだろう。
クレイグは不思議そうにアレンを見つめた。
「確かにこの街には神の恩恵とでもいうのか、月の姫がいるかもしれないと思わせる事実がたくさんあります。けれど……そこまではっきりと存在を断言できるものですか?」
この街に入るまでは月の姫を探す気など全くなく、早く面倒なことを終わらせたいという態度を隠しもしなかったアレンだ。それが今は誰よりも積極的に月の姫探しに力を入れ、自ら滞在を引き延ばしている。
クレイグに怪訝そうに見上げられ、アレンはふっと笑った。
「疑っているのか」
「そういうわけではありませんが……ただ、一体どういう心境の変化なのかと。領主の娘が偽者だというのは、私でもわかりましたがね」
クレイグの疑問は、もっともだ。アレン自身も正直、この感覚をどう説明したらいいのかわからない。
馬車でこの街に近づくにつれ、不思議な感覚が身体を包んだ。それを感じているのが自分だけだとわかった瞬間、頭を掠めたのは月の姫の存在だった。案内されずとも月の姫がいるという屋敷の場所が特定できた時、これはいよいよ本物かと緊張を高まらせたが、現れたマーガレットは一目でわかるような偽者だった。
アレンに媚びるような視線を向けながらも堂々と振る舞う娘の態度とは裏腹に、どこか緊張を滲ませている領主の態度。
直感で本物の月の姫を隠しているのだと悟った途端、こみ上げてきたのは怒りだった。
この父娘が月の姫を騙っている以上、本物は身を隠しているしかない。
(――ならば、俺が見つけてやる)
そう決意すると、燃えるような高揚感がアレンを包んだ。
「お前でも偽者とすぐわかるやつらを、のさばらせておくわけにはいかないだろう?」
「ははあ、王としての正義感ってやつですか。確かに、この状況であの娘を月の姫じゃないって言ったって、街の者たちは信じないでしょうしね」
クレイグは納得がいった様子でうんうんと頷いている。
「髪を銀色に染める染料はとてつもなく高価ですし、常に街の者たちを騙し続けるだけの量を手に入れるには、かなりの資産が必要です。あの男、国で管理すべき白銀花を無許可で販売しているのかもしれませんねえ。税金も払わずに」
こちらはそう苦労もなく証拠を掴めそうだと、クレイグがほくほくした顔で言った。
それを横目で見ながら、アレンは深く息を吐く。
月の姫は一体どこにいるんだ。
身体に流れる血がこの地に必ずいると告げているのに、そこから先の行方が知れない。自分が太陽王である資質を試されているようにすら思えてくる。
「お前は……本当に何も感じないのか?」
日を追うごとにこの街に立ち込めている不思議な気配は強くなっている。
しかし、クレイグは静かに首を横に振った。
「俺には何も感じられません。アレン様が何かを感じ取っているのだとしたら、それはやはり、あなたが真のサマルド国王だからじゃないですかね?」
そして、クレイグは小走りでアレンの横に並ぶ。
「アレン様がこの街に月の姫がいるというのなら、俺も信じます」
まっすぐ前を見据えたまま、アレンは強い瞳で言った。
「あの領主の娘を月の姫ではないと拒絶してこの街を去るのは簡単だ。けれど……それでは、本当の月の姫を得る機会をみすみす逃してしまう。あの二人は間違いなく、本当の月の姫を隠している。だが問い質したところで口を割るとも思えん。だったら」
「どうにかして……こちらで姫を見つけるしかないってことですね」
アレンが無言で頷くと、クレイグもまた真剣な眼差しでアレンを見上げた。
「王都を空けたままにしておくのも、限界がある。今夜見つけられなければ、ここを去らねばならない」
今夜は雲一つない満月だ。既に高く上がった白銀の月を見上げながら、アレンは力強く言った。
「必ず、月の姫を見つけてやる」
改めてフードを深くかぶり直して金髪を隠すと、アレンはクレイグと共に街の中心部へ向かって歩き出した。
* * * * *
誰かに呼ばれているような気がして、ライラはうっすらと目を開けた。
いつの間にかウトウトと眠っていたようだ。眠っている間にザラが来てくれたのか、ライラの身体には毛布がかけられ、空の食器も片づけられていた。
おそらく真夜中なのだろう。屋敷はすっかり静寂に包まれている。
きっともう国王も眠ってしまっている。せめて一目でも見てみたいと思っていただけに、ライラはがっかりしながら身体を起こした。
変に目が冴えていて、このまま横になってもきっと眠れない。
それならやっぱり少し外に出て気分転換をしてこよう。
ライラは静かにベッドから降りると、そっと地下室を抜け出した。
音を立てないように階段を上る。誰かに鉢合わせたらどう言い訳をしようとドキドキしたが、辺りは静まりかえり人の気配は全くなかった。
重い扉を押して外に出ると、目の前には見事な丸い月が浮かんでいる。
(今夜は、満月だったのね)
さくさくと草を踏みしめながら裏庭を抜ける。月光浴とでもいうのだろうか。こうして月の光を浴びることは、ライラにとって何よりも心地いい時間だった。
(お月様が見守っていてくださるから……少しくらい外にいても大丈夫ね)
地下室に入ってからは、ザラが運んでくれた水で簡単に身体を拭くことしかできなかった。汗をかくようなことをしていないとはいえ、やはり身体の汚れは気になる。
ライラは少し足を伸ばして屋敷の裏を流れる川で身を清めようと思い立った。
屋敷の裏手へ回ると、静かな川面にキラキラと月の光が反射しているのが見えた。まるで、川全体が輝いているようだ。
いつも見慣れているはずの景色だが、今日はなんだか一段と美しく見える。
ライラは、ほうっとため息をつきゆっくりと川の傍まで歩み寄った。
身体を拭くだけのつもりだったが、足を水の中に入れてみるととても気持ちがいい。まるで沈んでいた気持ちが、澄みきっていくように感じた。周りに人の気配が全くないこともあり、ライラは思い切って全ての衣服を脱ぐと静かに水の中へと身を沈めた。
川の水は冷たかったが、サラサラと流れる水に身をまかせる。とぷんと頭まで水に浸かって目を開くと、澄んだ水の中にまで月の光が差し込んでいた。ゆっくりと顔を出すと水面の月は揺らめいて乱れたが、またすぐに美しい姿を映し出す。白銀の丸い月を閉じ込めるように、ライラは手を伸ばし川の水をすくった。
「綺麗……」
ライラの手の中に、月がある。ゆらゆらと揺れ動く月を見ていると、なぜだか切ない気持ちになった。
『本当の月の姫が、ライラだったら……』
かつて一度だけ、ザラがそう口にしたことがあった。ブルーノに仕える身でありながら、そんな発言をしては命に関わる。
二人だけの時とはいえ不用意な発言に驚いて目を見張ると、ザラは悲しげな笑みを浮かべてライラの頭を撫でた。
その後、ザラがそう口にすることは二度となかったが、たった一度だけのその言葉は、ライラの胸の奥深くにずっと残っていた。
自分のようにこんなバサバサのみっともない髪をした娘が、月の姫であるわけがない。そんなことはわかっている。
ゆらゆらと水の中で揺れる髪を、ぼんやりと手に取った。まっ黒なこの髪色は、実はライラ本来のものではない。
ライラの髪は、微かに銀色を帯びた白髪だった。使用人の分際でマーガレットに近しい髪色をしているなどおこがましいと言われ、今は亡きブルーノの奥方から、髪を染めるように命じられたのだ。
物心がつく頃からずっと染料で髪を染めてきたので、髪はひどく傷んでパサパサになっている。まるで老婆のようだとライラは自嘲気味に思った。
(もし……私が月の姫だったら、陛下にお会いすることができたのかしら……)
ぼんやりとそう考えてから、はっとして頭を振った。
そんなことあるわけがない。
身寄りのないライラは、拾ってくれたブルーノのもとを出ていくことなどできないのだ。
そう思った瞬間、すっと身体の芯が冷えていく気がして、ライラは水の中でふるりと身を震わせた。一生あの屋敷でブルーノの顔色を窺う生活に絶望しかけたが、あそこには母親のように寄り添いライラを支えてくれるザラがいる。
屋敷を追い出されてしまうとライラは独りぼっちになってしまうが、あそこにいる限りはザラが傍にいてくれるのだ。
ライラは空に浮かぶ満月を見上げ、最後にもう一度頭まで水の中に浸かった。
いつまでも外にいては、万が一誰かに見つかった時にザラにまで迷惑をかけてしまう。
もう地下室に戻ろうと水面から顔を出し立ち上がった時、背後でがさりと繁みが揺れる音がした。
「っ!?」
考え事をしていたせいで、人の気配に気づかなかった。
ライラは慌てて再び川の中に身を沈める。後ろを振り返ると、フードを深くかぶった見かけぬ人が立っていた。顔はよく見えないが、その体格から男性であるのは間違いない。
ライラの顔が、さっと青ざめる。
この場から逃げたくても、自分は裸だ。着替えは男が立つ繁みに置いてあって、取りに行くこともできない。
ライラは震えながら男性にくるりと背を向け、顎まで水の中に浸かった。
うかつだった。今まで何度か男性に襲われた恐怖が蘇る。
どうしたらいいのかとパニックを起こしかけていると、男が口を開いた。
二人は、一年経ってもなお冷める気配など全くない熱愛ぶりを見せている。それゆえ、今回、妻と離れての同行を命じたアレンをクレイグは笑顔でチクリチクリと攻撃してくるのだ。
「そう他人事のように言うがな。お前だって本来ならパン屋の娘など嫁に迎えている場合ではないのだぞ。俺に何かあれば、王位を継ぐのはお前しか……」
「あ、無理です。妻と結婚する時に、私は正式に王位継承権を放棄してますからね」
アレンは馬車の天井を仰いだ。
「クレイグ……改めて言うが、俺に何かあったらこのサマルド国をどうするつもりだ」
「やだなあ。だからそうならないために、こうやって、いるかどうかもわからないお姫様探しに同行してるんじゃないですか」
クレイグはにっこりと不敵な笑みを浮かべながら言った。
「それに、今回は……もしかすると、もしかするかもしれませんからね」
『月の姫は銀色の髪を持った娘』としか民の間には伝わっていない。そのせいで、とても銀髪とは言えない白髪の娘までもが月の姫だと名乗ってくる。いちいち大量の偽者を審議するために王が出向くことはありえないが、今回ばかりは違った。
「領主の娘と言ったか」
「ええ。ブラウン様が、月の姫がいると告げた東の方角であるのに加えて……その領主が治める地では、奇跡とも言える出来事が以前から多発しているようです。そのせいで、近隣の街からは『奇跡の街』と呼ばれているとか。年寄りどもが、今度こそはと色めき立つのも無理ありません」
正確に何年前からかはわからないが、近隣の街に比べて天候が安定して作物の豊作が続き、水害にも遭わなかったという。さらに、辺境の地では決して育つはずのない万能の薬草、白銀花まで花を咲かせているのだとか。
「ただ……この領主はちょっと、ずるがしこいとこがあるんですがね。豊作が続き安定した収益を得ているはずなのに、国に納められている税金はずっと辺境制度で割り引かれた金額のままです。そのあたりの不公平さを、ついでに調査しないと」
「お前にとってはそれが第一目的か? まあ俺としても、お前に任せるのが一番安心できるがな」
密かに守銭奴と呼ばれ金に細かいクレイグなら、抜かりなく調査してくれるだろう。
「俺は寝る。着いたら起こせ」
とりあえず辺境の地に赴く価値はあるようだが、面倒なのには変わりない。
それに、古い家臣たちの言いなりになっているようで、面白くないという気持ちが少なからずあった。
若くして王位を継いだアレンに敵は多い。ようやく王政も落ち着いてきたとはいえ、王都を長く空けるのも気が進まない。
アレンは馬車の座席に深く背を預けると、固く目を閉じた。
半刻ほど経った頃だろうか。うつらうつらと眠りの淵をさまよっていたアレンは、ハッとして瞼を開いた。
すぐ間近で呼ばれたように自分の名前が頭の中いっぱいに響きわたっている。心臓がどくどくと早鐘を打ち、胸を押さえつけた。
「どうしました?」
向かい側に座っていたクレイグが、突然身を起こしたアレンに驚いた様子で声をかける。
「……いや。到着は間もなくか?」
一度速まった鼓動はなかなか鎮まらず、アレンは胸を押さえたまま窓から外を見つめた。
「どうでしょう? 変わり映えのない景色ですからねえ。御者にでも聞いてみましょうか」
クレイグがそう言って窓の外へと身を乗り出す。すると馬車がゆっくりと減速を始め、馬で並走していた兵士がクレイグに何か声をかけてきた。兵士と言葉を交わしたクレイグが、アレンの方を向く。
「間もなく到着のようです。アレン様、よくわかりましたね」
「……何か、おかしい様子はないか?」
「は? ここから見たところ、特におかしい様子は見受けられませんが……」
クレイグは窓から首を出しキョロキョロと周囲を窺うと、不思議そうに言った。
アレンは固く唇を引き結び、自分の状況を理解しようと努める。
誰かに名前を呼ばれたような気がして目が覚めた。焦燥に駆られるような、それでいて高揚してくるような、不思議な感覚がアレンの身を包んでいる。
クレイグや外を走る兵士の様子はいたって普通で、どうやらこの何とも説明しがたい感覚に襲われているのは自分だけらしい。
(これは、どういうことだ?)
クレイグの前では散々文句を言ってきたものの、アレンとてサマルド国で育った人間だ。
自分を呼ぶのは『月の姫』ではないかという考えが頭の片隅にちらつく。
黙り込んだままのアレンをまだ不機嫌なのかと勘違いしたか、クレイグは珍しく労るような笑みを向けてきた。
「まあ、これだけ信憑性が高いと言われている姫が偽者だとわかれば……次にまた同じような話が出ても、わざわざアレン様が出向く必要はなくなります。年寄り連中とてしばらくはおとなしくなるでしょう。どうか今回ばかりは、ご辛抱ください」
「……ああ」
どっちに転ぼうが、月の姫を探すために王都を離れるのは最初で最後になるかもしれない――
そんな予感を覚えながら、アレンは小さく頷いた。
* * * * *
(陛下をお迎えする宴が始まったみたいだわ……)
地下室の固いベッドの上に座り込み、ライラは小さなため息をついた。
たとえ地下室にいても、屋敷の賑わいはある程度伝わってくるのだ。
ライラの前には、数刻前にザラが運んできてくれた食事が置かれている。今日の食事は、いつもに比べて品数も多く豪華なものだった。
だがライラはその食事に、ほとんど手をつけていない。なぜか気持ちが落ち込んでしまい、食欲が湧いてこなかった。
(きっともう、マーガレット様は陛下にお会いになったわよね……)
国王は、『月の姫』と言われているマーガレットに会いに来たのだから当然だ。
しかしマーガレットが悠然と微笑み肖像画の主の前に立つ姿を想像すると、どうしてだか胸がキリキリと痛む。
ライラは必死に、自分とは関係ない世界のことだと言い聞かせた。
それに、二人の面会が無事に終了し国王の一行が屋敷を去れば、自分は地下室から出ることができる。
きっとすぐにまた、何事もなく日々の雑務に追われるようになるだろう。早く全てが終わり、こんな胸の痛みなど忘れてしまいたい。
ライラはそれだけを考え固いベッドに身体を横たえると、きつく瞼を閉じた。
ところが、ライラの願いは数日経っても叶わなかった。翌日も翌々日も、地下室から出られる気配がないのだ。
その日、いつもと同じように食事を運んでくれたザラの顔を見て、ライラは表情を曇らせた。
「ザラ? なんだか疲れているみたいだけど……」
「大丈夫よ。ただ……普段の仕事に加えて毎晩宴の準備があるでしょう? さすがに皆疲れてきているの」
「毎晩の宴って……」
「国王様はそんな必要ないって仰ってるらしいけど、屋敷に滞在されているんだから当然のことだってブルーノ様が毎晩宴を開かれるのよ」
顔色が悪く疲労を滲ませたザラを見ていると、胸が痛む。
「私が少しでもザラを手伝えたらいいのに……」
ザラはライラを安心させるように微笑んで見せ、それから不思議そうに首を傾げた。
「でもねえ……お忙しい陛下が、どうしてこんなに長く屋敷に滞在し続けるのかがわからないって皆で話しているのよ」
マーガレットに会い王都へ連れて行くだけなら、それほど日数は必要ないはずだ。
「もうマーガレット様にはお会いになったのでしょう?」
「ええ、そりゃもちろん」
国王一行がこの屋敷に到着して、既に四日も経っている。あれだけ自慢げにしていたことを考えると、マーガレットも乗り気だったのは間違いない。もしかしてマーガレットが王都に行くための準備に時間がかかっているのかとも思ったが、ザラは首を振った。
「マーガレット様がお仕度をなさるんだとしたら、誰か手伝わなければならないでしょう? 使用人の誰もそんなことを言いつけられていないのよ。マーガレット様の機嫌も悪くなる一方でね。困ったものだわ」
だとしたら、国王がこの屋敷にいつまでも滞在し続けているのはなぜだろうか。
「もしかしたら、陛下には真実がわかっていらっしゃるのかもしれないわね……」
ザラにしては珍しく含みのある言い方に、ライラは首を傾げた。
「どちらにしろ、早くここからライラを出してあげたいわ。こんな地下にいたら、お月様の光も届かないもの」
ザラは優しくそう言って、ライラの黒い髪を優しく撫でた。
「陛下が……ライラのことを見つけてくださったらいいのにねえ」
ぽつりと呟かれ、ライラはきょとんとザラを見上げた。
「どういう意味?」
「いいえ、なんでもないわ。そんなこと、ここで働かせてもらっている身で言えないものね」
ザラの言葉を不思議に思いながらも、ライラは気になっていたことを問いかけてみた。
「……ねえ、ザラは陛下をお見かけした?」
「宴の際に、遠目でちらりとお見かけしましたよ」
「どんな方だった?」
「なんだか不機嫌そうに顔をしかめてらっしゃってねえ……ちょっとよくわからなかったわ」
「そうなの?」
でも、遠目でもかまわないから、一目あの肖像画の君を見られたらどんなにいいだろう。
別世界の人だとわかっていても、いや、わかっているからこそ――どうしても、一度だけあの人を見てみたい。そんな思いに囚われぼんやりとしていると、ザラが何かに気づいたようにライラを見つめた。
「ライラ、少しだけ外の空気を吸いに行ってはどう?」
「え、でも……」
「すぐに戻れば大丈夫よ。ブルーノ様やマーガレット様は御一行の接待で忙しいし、こんな時にわざわざ地下へ来る人はいないでしょう?」
確かに、ずっと地下の湿った空気ばかり吸っていて気が滅入っていた。ザラの言う通り、ほんの少しなら大丈夫かもしれない。
「うん、ありがとうザラ。後で、一人でこっそり出てみる」
ザラはライラの華奢な肩を数回撫でると、ゆっくり立ち上がった。
「それじゃあ、外に出る時は充分に気を付けるんですよ。夜になったらまた様子を見に来るから」
「うん、ありがとう」
コツコツと規則正しい靴音を立てながらザラが行ってしまうと、再び地下には静寂が訪れた。
(少しくらい……大丈夫だよね)
もしかしたら、遠くから宴の様子を垣間見るくらいならできるかもしれない。
そう思うとほんの少し気持ちが晴れる。ライラはザラが運んできてくれた食事を膝に載せるとスプーンを手に取った。
* * * * *
「何かわかったか?」
屋敷の大広間で盛大な宴が開かれている中、アレンは影武者にその役割を任せ、自らは民と変わりない服に身を包み街へ向かっていた。
アレンと同じような格好をしたクレイグが、隣で深いため息をつく。
「信頼できる部下にも手伝わせて調べていますが……今のところ該当する娘が見つかったという報告はありません。銀髪どころか、金髪の娘すらほとんどいないそうです」
アレンに比べて比較的自由の利くクレイグは、この数日こっそりと屋敷を抜け出し街で年頃の娘がいる家を探ってくれていた。
「ついでに街の者に話を聞いて回ったのですが、この街で奇跡と言われていることが起こり始めたのは、確かにあのマーガレットとかいう娘が生まれてからだそうです。万能の薬草と言われている白銀花も、昔は全く見かけなかったとか」
「全て、あの娘が生まれてからと街の者は信じているということだな」
「ええ。そうです」
アレンは黄金の髪をフードですっぽりと覆い隠したまま、盛大に顔をしかめた。
「王家もバカにされたものだな。あの父娘、わかっててやっているとしか思えん……」
一般の民は『月の姫は銀色の髪をしている』程度の認識しかないので、銀色の髪を持って生まれただけで上を下への大騒ぎになる。『うちの娘は月の姫だ』と思い込んで王都へ連れて来る親が跡を絶たない。親心を思えばそう勘違いしても仕方ないし、こちらも丁重に断る。
だが、この地の領主であるブルーノと娘のマーガレットは明らかに違う。
「この街に月の姫がいるのは間違いない。あの二人はそれを知っていながら、月の姫を騙っているのだ」
確かに髪の毛は艶やかな銀色をしていたが、あの鈍い光は人工的に染め上げられたものだ。偽者を幾人も見てきた者なら、すぐにわかるだろう。
クレイグは不思議そうにアレンを見つめた。
「確かにこの街には神の恩恵とでもいうのか、月の姫がいるかもしれないと思わせる事実がたくさんあります。けれど……そこまではっきりと存在を断言できるものですか?」
この街に入るまでは月の姫を探す気など全くなく、早く面倒なことを終わらせたいという態度を隠しもしなかったアレンだ。それが今は誰よりも積極的に月の姫探しに力を入れ、自ら滞在を引き延ばしている。
クレイグに怪訝そうに見上げられ、アレンはふっと笑った。
「疑っているのか」
「そういうわけではありませんが……ただ、一体どういう心境の変化なのかと。領主の娘が偽者だというのは、私でもわかりましたがね」
クレイグの疑問は、もっともだ。アレン自身も正直、この感覚をどう説明したらいいのかわからない。
馬車でこの街に近づくにつれ、不思議な感覚が身体を包んだ。それを感じているのが自分だけだとわかった瞬間、頭を掠めたのは月の姫の存在だった。案内されずとも月の姫がいるという屋敷の場所が特定できた時、これはいよいよ本物かと緊張を高まらせたが、現れたマーガレットは一目でわかるような偽者だった。
アレンに媚びるような視線を向けながらも堂々と振る舞う娘の態度とは裏腹に、どこか緊張を滲ませている領主の態度。
直感で本物の月の姫を隠しているのだと悟った途端、こみ上げてきたのは怒りだった。
この父娘が月の姫を騙っている以上、本物は身を隠しているしかない。
(――ならば、俺が見つけてやる)
そう決意すると、燃えるような高揚感がアレンを包んだ。
「お前でも偽者とすぐわかるやつらを、のさばらせておくわけにはいかないだろう?」
「ははあ、王としての正義感ってやつですか。確かに、この状況であの娘を月の姫じゃないって言ったって、街の者たちは信じないでしょうしね」
クレイグは納得がいった様子でうんうんと頷いている。
「髪を銀色に染める染料はとてつもなく高価ですし、常に街の者たちを騙し続けるだけの量を手に入れるには、かなりの資産が必要です。あの男、国で管理すべき白銀花を無許可で販売しているのかもしれませんねえ。税金も払わずに」
こちらはそう苦労もなく証拠を掴めそうだと、クレイグがほくほくした顔で言った。
それを横目で見ながら、アレンは深く息を吐く。
月の姫は一体どこにいるんだ。
身体に流れる血がこの地に必ずいると告げているのに、そこから先の行方が知れない。自分が太陽王である資質を試されているようにすら思えてくる。
「お前は……本当に何も感じないのか?」
日を追うごとにこの街に立ち込めている不思議な気配は強くなっている。
しかし、クレイグは静かに首を横に振った。
「俺には何も感じられません。アレン様が何かを感じ取っているのだとしたら、それはやはり、あなたが真のサマルド国王だからじゃないですかね?」
そして、クレイグは小走りでアレンの横に並ぶ。
「アレン様がこの街に月の姫がいるというのなら、俺も信じます」
まっすぐ前を見据えたまま、アレンは強い瞳で言った。
「あの領主の娘を月の姫ではないと拒絶してこの街を去るのは簡単だ。けれど……それでは、本当の月の姫を得る機会をみすみす逃してしまう。あの二人は間違いなく、本当の月の姫を隠している。だが問い質したところで口を割るとも思えん。だったら」
「どうにかして……こちらで姫を見つけるしかないってことですね」
アレンが無言で頷くと、クレイグもまた真剣な眼差しでアレンを見上げた。
「王都を空けたままにしておくのも、限界がある。今夜見つけられなければ、ここを去らねばならない」
今夜は雲一つない満月だ。既に高く上がった白銀の月を見上げながら、アレンは力強く言った。
「必ず、月の姫を見つけてやる」
改めてフードを深くかぶり直して金髪を隠すと、アレンはクレイグと共に街の中心部へ向かって歩き出した。
* * * * *
誰かに呼ばれているような気がして、ライラはうっすらと目を開けた。
いつの間にかウトウトと眠っていたようだ。眠っている間にザラが来てくれたのか、ライラの身体には毛布がかけられ、空の食器も片づけられていた。
おそらく真夜中なのだろう。屋敷はすっかり静寂に包まれている。
きっともう国王も眠ってしまっている。せめて一目でも見てみたいと思っていただけに、ライラはがっかりしながら身体を起こした。
変に目が冴えていて、このまま横になってもきっと眠れない。
それならやっぱり少し外に出て気分転換をしてこよう。
ライラは静かにベッドから降りると、そっと地下室を抜け出した。
音を立てないように階段を上る。誰かに鉢合わせたらどう言い訳をしようとドキドキしたが、辺りは静まりかえり人の気配は全くなかった。
重い扉を押して外に出ると、目の前には見事な丸い月が浮かんでいる。
(今夜は、満月だったのね)
さくさくと草を踏みしめながら裏庭を抜ける。月光浴とでもいうのだろうか。こうして月の光を浴びることは、ライラにとって何よりも心地いい時間だった。
(お月様が見守っていてくださるから……少しくらい外にいても大丈夫ね)
地下室に入ってからは、ザラが運んでくれた水で簡単に身体を拭くことしかできなかった。汗をかくようなことをしていないとはいえ、やはり身体の汚れは気になる。
ライラは少し足を伸ばして屋敷の裏を流れる川で身を清めようと思い立った。
屋敷の裏手へ回ると、静かな川面にキラキラと月の光が反射しているのが見えた。まるで、川全体が輝いているようだ。
いつも見慣れているはずの景色だが、今日はなんだか一段と美しく見える。
ライラは、ほうっとため息をつきゆっくりと川の傍まで歩み寄った。
身体を拭くだけのつもりだったが、足を水の中に入れてみるととても気持ちがいい。まるで沈んでいた気持ちが、澄みきっていくように感じた。周りに人の気配が全くないこともあり、ライラは思い切って全ての衣服を脱ぐと静かに水の中へと身を沈めた。
川の水は冷たかったが、サラサラと流れる水に身をまかせる。とぷんと頭まで水に浸かって目を開くと、澄んだ水の中にまで月の光が差し込んでいた。ゆっくりと顔を出すと水面の月は揺らめいて乱れたが、またすぐに美しい姿を映し出す。白銀の丸い月を閉じ込めるように、ライラは手を伸ばし川の水をすくった。
「綺麗……」
ライラの手の中に、月がある。ゆらゆらと揺れ動く月を見ていると、なぜだか切ない気持ちになった。
『本当の月の姫が、ライラだったら……』
かつて一度だけ、ザラがそう口にしたことがあった。ブルーノに仕える身でありながら、そんな発言をしては命に関わる。
二人だけの時とはいえ不用意な発言に驚いて目を見張ると、ザラは悲しげな笑みを浮かべてライラの頭を撫でた。
その後、ザラがそう口にすることは二度となかったが、たった一度だけのその言葉は、ライラの胸の奥深くにずっと残っていた。
自分のようにこんなバサバサのみっともない髪をした娘が、月の姫であるわけがない。そんなことはわかっている。
ゆらゆらと水の中で揺れる髪を、ぼんやりと手に取った。まっ黒なこの髪色は、実はライラ本来のものではない。
ライラの髪は、微かに銀色を帯びた白髪だった。使用人の分際でマーガレットに近しい髪色をしているなどおこがましいと言われ、今は亡きブルーノの奥方から、髪を染めるように命じられたのだ。
物心がつく頃からずっと染料で髪を染めてきたので、髪はひどく傷んでパサパサになっている。まるで老婆のようだとライラは自嘲気味に思った。
(もし……私が月の姫だったら、陛下にお会いすることができたのかしら……)
ぼんやりとそう考えてから、はっとして頭を振った。
そんなことあるわけがない。
身寄りのないライラは、拾ってくれたブルーノのもとを出ていくことなどできないのだ。
そう思った瞬間、すっと身体の芯が冷えていく気がして、ライラは水の中でふるりと身を震わせた。一生あの屋敷でブルーノの顔色を窺う生活に絶望しかけたが、あそこには母親のように寄り添いライラを支えてくれるザラがいる。
屋敷を追い出されてしまうとライラは独りぼっちになってしまうが、あそこにいる限りはザラが傍にいてくれるのだ。
ライラは空に浮かぶ満月を見上げ、最後にもう一度頭まで水の中に浸かった。
いつまでも外にいては、万が一誰かに見つかった時にザラにまで迷惑をかけてしまう。
もう地下室に戻ろうと水面から顔を出し立ち上がった時、背後でがさりと繁みが揺れる音がした。
「っ!?」
考え事をしていたせいで、人の気配に気づかなかった。
ライラは慌てて再び川の中に身を沈める。後ろを振り返ると、フードを深くかぶった見かけぬ人が立っていた。顔はよく見えないが、その体格から男性であるのは間違いない。
ライラの顔が、さっと青ざめる。
この場から逃げたくても、自分は裸だ。着替えは男が立つ繁みに置いてあって、取りに行くこともできない。
ライラは震えながら男性にくるりと背を向け、顎まで水の中に浸かった。
うかつだった。今まで何度か男性に襲われた恐怖が蘇る。
どうしたらいいのかとパニックを起こしかけていると、男が口を開いた。
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