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砂狼の回顧録
砂狼の回顧録-04
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「ひぃぃ!」
ディアスは情けない悲鳴をあげて跳び退った。
「なんだこれ……なんなんだよ、これ!」
誰に向けてというわけでもない独り言を叫ぶ。恐怖を少しでも吐き出しておかなければとても正気ではいられそうになかった。二本の足がきちんと地についているのか、それすら自信が持てない。
ヘッドライトに照らされたカーディルの蒼白い、感情のない顔がわずかに傾き、ディアスへと向けられた。ガラス珠のような目がディアスを見ているが、認識しているかどうかは疑わしい。
とにかく今は一刻も早く蜘蛛たちを引き剥がさねばならない。汗のにじむ手でライフルを構えて、迷った挙げ句にその無意味さを悟った。撃てばカーディルにも当たるし、子蜘蛛たちを駆逐するにはどう考えても弾が足りない。
こうなると手で振り払うしかないのだが、噛まれてしまわぬよう日除け用のマントを腕に巻き付けることにした。だが、気ばかり焦ってなかなか脱ぐことができない。
こうして救出の準備を進めている間、誰にも邪魔をされることはなかった。カーディルは意識があるかどうかもわからず、子犬蜘蛛たちは構わず食事を続けている。ガリガリと音がする度に、カーディルの手足が削られていく。
肉食蠅もおこぼれにあずかろうと集まってきたようだ。ぶぅん、と耳障りな音がまとわりつく。
誰もディアスを見ていない。
人間だけではない、虫も化け物も、彼をただそこに居るだけのものとしか見ていないのだ。
(ふざけやがって……、誰も彼もが俺を無視しやがる。こんな虫ケラどもでさえも……)
強い苛立ちを抱いて、大股で子蜘蛛たちのそばに寄ると、マントをきつく巻いた右手で、カーディルの腹の上で蠢く子犬蜘蛛を薙ぎ払った。
さらに1匹の蜘蛛を掴みあげ、叩きつけ、その胴体を怒りと全体重をかけて踏み潰した。体液を撒き散らし、酸性の刺激臭を立ち上らせた。
蜘蛛としての胴体はぐちゃぐちゃに潰れ、犬の首だけが転がった。
ここまでしてようやくディアスの存在と危険性を認識したのか、まさに蜘蛛の子を散らすように一斉に走り去っていった。数十匹は居たかという蜘蛛たちが今はもう何処に行ったかすらわからない、見事な逃げっぷりである。
飛び回る肉食蠅を振り払い、カーディルの様子を確かめる。
服は肉と共に食い散らかされ、着ているというより、ぼろきれがまとわりついているといったところだ。隙間から見える白い乳房や腹にもついた噛み痕が痛々しい。
意外にも出血は少ない。手足の切断面に白いねばつく糸が張り巡らされ、出血を抑えているようだ。こうして獲物を生かしたまま保存し、喰い続けるのが奴らの習性なのだろう。
胃液が逆流しそうになるのをなんとか堪え、代わりに涙がぼろぼろと零れ落ちた。これがあのカーディルなのか。砂塵の世界を可憐に、颯爽と駆け抜けていた少女なのか。
泣きじゃくるディアスを余所に、カーディルは相変わらず感情のない目で、壁のような天井を見上げていた。
だが、確かに生きている。生きているからこそ哀れでもある。
やがて泣き止んだディアスは脇に置いていたライフルを掴み、その銃口をカーディルに向けた。
「生きたいか、死にたいか……どっちだ?」
静寂と沈黙がその場を包んだ。蝿の羽音も耳に入らない。じっと、互いの目を見つめていた。
カーディルの唇がかすかに動く。四文字、のような気がした。
ディアスに読唇術の心得はない。冷静さもない。『タスケテ』なのか『コロシテ』なのかがわからない。
文字数は同じでも意味は真逆である。ついうっかり間違えましたで済む話ではないのだ。
ヘッドライトの薄明かりのなか、カーディルの目尻に光るものを見たような気がした。涙だろうか。
それは生きて欲しいというディアスの想いが見せた幻想だったのかもしれない。だが、これでやるべき方針は固まった。
震える銃口を下ろし、その場に膝をついてカーディルの身を起こし、力強く抱き寄せた。
「助けてやる。絶対に、助けてみせるから……」
また、とめどなく涙が溢れ出た。幻想でもいい、男が命を賭ける理由としては十分だ。
ふたりの上に影が落とされた。
背後の強い威圧感に振り返る。瓦礫を踏み潰す音と、獣の生臭く熱い吐息。闇のなか爛々と光る赤い目。
巨大な犬蜘蛛であった。
ディアスは情けない悲鳴をあげて跳び退った。
「なんだこれ……なんなんだよ、これ!」
誰に向けてというわけでもない独り言を叫ぶ。恐怖を少しでも吐き出しておかなければとても正気ではいられそうになかった。二本の足がきちんと地についているのか、それすら自信が持てない。
ヘッドライトに照らされたカーディルの蒼白い、感情のない顔がわずかに傾き、ディアスへと向けられた。ガラス珠のような目がディアスを見ているが、認識しているかどうかは疑わしい。
とにかく今は一刻も早く蜘蛛たちを引き剥がさねばならない。汗のにじむ手でライフルを構えて、迷った挙げ句にその無意味さを悟った。撃てばカーディルにも当たるし、子蜘蛛たちを駆逐するにはどう考えても弾が足りない。
こうなると手で振り払うしかないのだが、噛まれてしまわぬよう日除け用のマントを腕に巻き付けることにした。だが、気ばかり焦ってなかなか脱ぐことができない。
こうして救出の準備を進めている間、誰にも邪魔をされることはなかった。カーディルは意識があるかどうかもわからず、子犬蜘蛛たちは構わず食事を続けている。ガリガリと音がする度に、カーディルの手足が削られていく。
肉食蠅もおこぼれにあずかろうと集まってきたようだ。ぶぅん、と耳障りな音がまとわりつく。
誰もディアスを見ていない。
人間だけではない、虫も化け物も、彼をただそこに居るだけのものとしか見ていないのだ。
(ふざけやがって……、誰も彼もが俺を無視しやがる。こんな虫ケラどもでさえも……)
強い苛立ちを抱いて、大股で子蜘蛛たちのそばに寄ると、マントをきつく巻いた右手で、カーディルの腹の上で蠢く子犬蜘蛛を薙ぎ払った。
さらに1匹の蜘蛛を掴みあげ、叩きつけ、その胴体を怒りと全体重をかけて踏み潰した。体液を撒き散らし、酸性の刺激臭を立ち上らせた。
蜘蛛としての胴体はぐちゃぐちゃに潰れ、犬の首だけが転がった。
ここまでしてようやくディアスの存在と危険性を認識したのか、まさに蜘蛛の子を散らすように一斉に走り去っていった。数十匹は居たかという蜘蛛たちが今はもう何処に行ったかすらわからない、見事な逃げっぷりである。
飛び回る肉食蠅を振り払い、カーディルの様子を確かめる。
服は肉と共に食い散らかされ、着ているというより、ぼろきれがまとわりついているといったところだ。隙間から見える白い乳房や腹にもついた噛み痕が痛々しい。
意外にも出血は少ない。手足の切断面に白いねばつく糸が張り巡らされ、出血を抑えているようだ。こうして獲物を生かしたまま保存し、喰い続けるのが奴らの習性なのだろう。
胃液が逆流しそうになるのをなんとか堪え、代わりに涙がぼろぼろと零れ落ちた。これがあのカーディルなのか。砂塵の世界を可憐に、颯爽と駆け抜けていた少女なのか。
泣きじゃくるディアスを余所に、カーディルは相変わらず感情のない目で、壁のような天井を見上げていた。
だが、確かに生きている。生きているからこそ哀れでもある。
やがて泣き止んだディアスは脇に置いていたライフルを掴み、その銃口をカーディルに向けた。
「生きたいか、死にたいか……どっちだ?」
静寂と沈黙がその場を包んだ。蝿の羽音も耳に入らない。じっと、互いの目を見つめていた。
カーディルの唇がかすかに動く。四文字、のような気がした。
ディアスに読唇術の心得はない。冷静さもない。『タスケテ』なのか『コロシテ』なのかがわからない。
文字数は同じでも意味は真逆である。ついうっかり間違えましたで済む話ではないのだ。
ヘッドライトの薄明かりのなか、カーディルの目尻に光るものを見たような気がした。涙だろうか。
それは生きて欲しいというディアスの想いが見せた幻想だったのかもしれない。だが、これでやるべき方針は固まった。
震える銃口を下ろし、その場に膝をついてカーディルの身を起こし、力強く抱き寄せた。
「助けてやる。絶対に、助けてみせるから……」
また、とめどなく涙が溢れ出た。幻想でもいい、男が命を賭ける理由としては十分だ。
ふたりの上に影が落とされた。
背後の強い威圧感に振り返る。瓦礫を踏み潰す音と、獣の生臭く熱い吐息。闇のなか爛々と光る赤い目。
巨大な犬蜘蛛であった。
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