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Another Story ─ ジャスミンは香る
第7話 永遠の二番手
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そんな結婚式からしばらく経ったある日。
あたしは偶然通りかかった職場の休憩室の前から動けなくなってしまった。中から谷元さんと、そして黒田さんの声が聞こえたからだ。
雰囲気から察するに、部屋の中には二人しかいないらしい。
「間違いだった!?」
黒田さんの声だった。
間違い──その言葉に、身に覚えのあるあたしは瞬時に反応する。
「まったくだよ。信じられん」
谷元さんが言った。
何の話をしているのか、すぐにわかってしまった。
「そんなことあるわけないでしょう」
黒田さんはきっぱりと言った。
それからつぶやくように、「嘘に決まってる」と言い足した。
それはある意味では正しかった。
あたしが谷元さんに言った「妊娠は間違いだった」っていうのは嘘だったわけだから。
黒田さんはきっと、妊娠自体があたしのついた嘘だったって意味で言ったんだろうけど。
「俺がそんな嘘ついてどうなるんだよ」
「どうなるって……」
黒田さんの「嘘」って言葉を、谷元さんはまた違ったふうに解釈したみたいだった。
でも黒田さんは何も言わなかったので、たぶんスルーすることにしたんだと思う。
きっとこれ以上立ち聞きしてもいいことなんてない。
そう思って立ち去ろうとした時だった。
「今更言ってもしょうがないけどさ」
谷元さんのそんな言葉に、嫌な予感がよぎる。
そしてその予感は的中した。
「あんなことがなかったら俺──」
「──はいそこまで」
何か言いかけた谷元さんを、黒田さんが鋭く遮った。
何か、じゃない──どんなことを言おうとしたのかはなんとなくわかる。
そしてそれは黒田さんも同じだったんだと思う。だから遮ったんだ。
立ち去るなら今だ──今ならまだ、決定的な言葉を聞かずに済む。
そうわかっているはずなのに、あたしはその場から動けなかった。
「聞けよ。俺はほんとにお前が──」
谷元さんが再び言いかけた瞬間にバシッと大きな音がして、あたしは心臓が口から出そうなくらいびっくりした。
何がどうしたんだろうと思っていると、黒田さんの声が聞こえてきた。
「心の中で何を思おうが自由です。でも後先考えずに口にするのはいけません。いったいいつまでそうやって、その場の感情に振り回されながら生きてるつもりですか」
今まで聞いたこともないような、厳しくて冷たい声だった。
あたしの心臓までもがばくばく暴れている。
「軽々しく責任なんて口にするばっかじゃなくて、負うべき責任をちゃんと負ってください。片方を捨てて、片方を選んだ責任を果たしてください」
その声は相変わらず厳しい。でもあたしはその中に、一筋の悲しみを聞き取ってしまった。
それがあたしの足を動かす。これ以上は、だめだ。今すぐにここから離れないと、あたしはまた絶望することになる。
あたしは足音を忍ばせることも忘れて、廊下の反対側にあるトイレへと駆け込んだ。
谷元さんにとって、あたしより黒田さんが大事なことはわかっていた。
わかっていたというか、感じていたけど、見ないふりをしていた。
でもそれを本人の口から聞かされてしまうのには堪えられなかった。
谷元さんも黒田さんも、誰かが──それもあたしが立ち聞きしているなんて想像もしていなかったと思う。
それなのに黒田さんは、谷元さんに言わせなかった。きっと、聞きたい言葉だったと思うのに。
仕方なくあたしを選んだだけで、谷元さんが本当に大切に思っていたのは黒田さん──谷元さんが言おうとしたのは、そんなようなことだったんだろうと思う。
今更どうにもならないことでも、ただそれを聞くだけで気が済んだりすることだってあると思うのに。
あたしならきっと選んでしまうその道を、黒田さんは選ばなかった。
今まで幾度となく思ってきたことだけど、それはきっと正しいからなんだろうな。
あたしはたぶん、この先一生かかっても、黒田さんにはかなわない。
谷元さんの中でだって、あたしは一生二番手のままだ。
でもそれから数週間のうちに、黒田さんは職場を去っていった。
黒田さんの最後の挨拶を、あたしは今でも思い出せる。
あたしと一切目を合わせなかったのだ。ちょうど結婚式の時のあたしのように。
あたしは偶然通りかかった職場の休憩室の前から動けなくなってしまった。中から谷元さんと、そして黒田さんの声が聞こえたからだ。
雰囲気から察するに、部屋の中には二人しかいないらしい。
「間違いだった!?」
黒田さんの声だった。
間違い──その言葉に、身に覚えのあるあたしは瞬時に反応する。
「まったくだよ。信じられん」
谷元さんが言った。
何の話をしているのか、すぐにわかってしまった。
「そんなことあるわけないでしょう」
黒田さんはきっぱりと言った。
それからつぶやくように、「嘘に決まってる」と言い足した。
それはある意味では正しかった。
あたしが谷元さんに言った「妊娠は間違いだった」っていうのは嘘だったわけだから。
黒田さんはきっと、妊娠自体があたしのついた嘘だったって意味で言ったんだろうけど。
「俺がそんな嘘ついてどうなるんだよ」
「どうなるって……」
黒田さんの「嘘」って言葉を、谷元さんはまた違ったふうに解釈したみたいだった。
でも黒田さんは何も言わなかったので、たぶんスルーすることにしたんだと思う。
きっとこれ以上立ち聞きしてもいいことなんてない。
そう思って立ち去ろうとした時だった。
「今更言ってもしょうがないけどさ」
谷元さんのそんな言葉に、嫌な予感がよぎる。
そしてその予感は的中した。
「あんなことがなかったら俺──」
「──はいそこまで」
何か言いかけた谷元さんを、黒田さんが鋭く遮った。
何か、じゃない──どんなことを言おうとしたのかはなんとなくわかる。
そしてそれは黒田さんも同じだったんだと思う。だから遮ったんだ。
立ち去るなら今だ──今ならまだ、決定的な言葉を聞かずに済む。
そうわかっているはずなのに、あたしはその場から動けなかった。
「聞けよ。俺はほんとにお前が──」
谷元さんが再び言いかけた瞬間にバシッと大きな音がして、あたしは心臓が口から出そうなくらいびっくりした。
何がどうしたんだろうと思っていると、黒田さんの声が聞こえてきた。
「心の中で何を思おうが自由です。でも後先考えずに口にするのはいけません。いったいいつまでそうやって、その場の感情に振り回されながら生きてるつもりですか」
今まで聞いたこともないような、厳しくて冷たい声だった。
あたしの心臓までもがばくばく暴れている。
「軽々しく責任なんて口にするばっかじゃなくて、負うべき責任をちゃんと負ってください。片方を捨てて、片方を選んだ責任を果たしてください」
その声は相変わらず厳しい。でもあたしはその中に、一筋の悲しみを聞き取ってしまった。
それがあたしの足を動かす。これ以上は、だめだ。今すぐにここから離れないと、あたしはまた絶望することになる。
あたしは足音を忍ばせることも忘れて、廊下の反対側にあるトイレへと駆け込んだ。
谷元さんにとって、あたしより黒田さんが大事なことはわかっていた。
わかっていたというか、感じていたけど、見ないふりをしていた。
でもそれを本人の口から聞かされてしまうのには堪えられなかった。
谷元さんも黒田さんも、誰かが──それもあたしが立ち聞きしているなんて想像もしていなかったと思う。
それなのに黒田さんは、谷元さんに言わせなかった。きっと、聞きたい言葉だったと思うのに。
仕方なくあたしを選んだだけで、谷元さんが本当に大切に思っていたのは黒田さん──谷元さんが言おうとしたのは、そんなようなことだったんだろうと思う。
今更どうにもならないことでも、ただそれを聞くだけで気が済んだりすることだってあると思うのに。
あたしならきっと選んでしまうその道を、黒田さんは選ばなかった。
今まで幾度となく思ってきたことだけど、それはきっと正しいからなんだろうな。
あたしはたぶん、この先一生かかっても、黒田さんにはかなわない。
谷元さんの中でだって、あたしは一生二番手のままだ。
でもそれから数週間のうちに、黒田さんは職場を去っていった。
黒田さんの最後の挨拶を、あたしは今でも思い出せる。
あたしと一切目を合わせなかったのだ。ちょうど結婚式の時のあたしのように。
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