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Another Story ─ ジャスミンは香る
第4話 凍える朝
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「えー、実はこのたび、二人結婚することになりまして」
谷元さんが、あたしたちをぐるりと取り囲んで立っている職場仲間にそう宣言したのは、あのカフェでの別れ話から数日後の朝礼でのことだった。
谷元さんがどう感じていたかはわからない。でもあたしは、この何とも言えない空気と視線に、身を切り刻まれているみたいな気分だった。
だって、この中にはもちろん黒田さんがいる。そして、この中のほとんどの人は、谷元さんが黒田さんとお付き合いしていたってことを知っている。
現にほら、何人かはちらちらと黒田さんに視線を投げかけている。
本人たちはばれていないつもりなんだろうけど、黒田さんは気付いてるだろうな。
……なんて考えていたせいで、あたしは谷元さんの爆弾発言を危うくスルーするところだった。
「……それで式なんですが、うちの部署からは代表で桐山部長と増田と、進藤さんと、あと黒田さんに参列してもらおうと思っています」
あたしは思わず自分の耳を疑った。
だって、黒田さんは──ついこの間振ったばっかの「元カノ」なのに!?
そっと目を向けてみると、黒田さんはきっと他の人にはほとんどわからないくらいに、でも驚いて目を見開いていた。
その目が向かっていたのはもちろん谷元さんだけど、隣から見ているあたしにすら、「それ、今言う?」と訴えかけるような目に見える。
ということは、黒田さんは知っていたのだ。谷元さんが、自分を結婚式に参列させようとしていたことを。
そしてそんな会話があったとすれば、あたしが帰った後しかない。
あの日二人の話が終わるまで、ずっとそばで聞いていればよかった。二人の話も、終わり方も、最後まで全部見届ければよかった。
そんな後悔であたしの頭がいっぱいになったとき、黒田さんの目がふっとかげった。
「……えっ、私なんかがお招きいただいてしまっていいんですか?」
殊更明るい声と表情で黒田さんが言った。
間違いないと思う──あたしは今、黒田さんが心に鎧をまとう瞬間を見た。
まわりの凍りつくような空気をものともしない大人な笑顔に、あたしは目を奪われる。
でもそんな内心を悟られないよう、あたしは急いで言った。
「そんな、もちろんです! ぜひいらしてください!」
こんなこと言ったって仕方ないけど、それ以外になんて言えばいいのか思いつかなかった。
黒田さんだって出席なんかしたくないはずだし、同じテーブルに座ることになるだろう部長や増田さんも、きっと気まずい思いをすると思う。
後ろの方から声が聞こえてきたのはそんな時だった。
「ねえ、課長とお付き合いしてたのって黒田さんじゃなかったの?」
誰が言ったのかまではわからなかったけど、その声はあたしの耳にもはっきりと届いた。
あたしに聞こえたくらいなのだから、黒田さんにだって絶対聞こえている。もちろん黒田さんだけじゃなく、他の人にも。だからほら、今度こそはっきりとこの場の空気が凍った。
あたしは生まれて初めて、沈黙というものにも温度があると知った。
誰もがその冷気にやられて身じろぎもできない中、それを振り払うみたいに大きく振り返ったのは、やっぱり黒田さんだった。
「もう、やめてくださいよそんな昔の話」
昔──でもあたしは知っている。その「昔」がたった数日前に過ぎないことを。
でも黒田さんは、とにかくこの場の空気を和らげることを選んだんだ──きっと、大人だから。
と、視線を感じたのか黒田さんがこちらを振り返った。
あたしは内心を隠して笑顔を保つ。
そのままふい、と目を逸らした黒田さんは、一体何を思ったんだろう。
「ねえ、どうして黒田さんを……」
あたしはその日の夜、一緒に食事をしている時に谷元さんに詰め寄った。
だって、ただでさえ黒田さんは新郎の元カノなんていう厄介な立場なのに。
今朝のあの痛々しい空気を、谷元さんは感じなかったんだろうか。
「なんで式に招待するのかって? そりゃ今後のためだよ。俺にとっても茉莉にとっても、もちろんあいつにとっても、こうするのが一番なんだよ」
谷元さんは何でもないように言ったけど、何がどう今後のためになるのかあたしには全然わからなかった。
浮気して、一方的に振って、そのくせ結婚式には駆けつけろだなんて──シンプルにひどすぎる。黒田さんを馬鹿にするにもほどがあると思う。きっと谷元さんは全然意識していないんだろうけど。
「あいつはわかってるよ。俺たちの式に出る意味が。結婚式に招待とか参列とかできるような平和な別れ方だったってアピールできれば、会社でタブー扱いされることもないだろうってね」
そう言って谷元さんはワインを飲んだ。
あたしはもう、びっくりしすぎて言葉が出なかった。
甘い。甘すぎると思う。たとえもし本当に、谷元さんと黒田さんが円満な破局を迎えていたとしても、二人の過去は絶対にタブー化する。
だって、同じその場所に妻であるあたしがいることになるんだから。それとも、あたしは「寿退社」させられるんだろうか。
いや、どっちにしたって同じだと思う。それを、あの黒田さんがわからないはずがない。
あたしは実際浮気相手だったし、ってことはつまり略奪愛なわけだし、どちらかっていうと黒田さんには引け目を感じている。だから余計なことは何も言えない。
でももしあたしがちゃんとした恋人だったら、元カノなんて呼んでほしくなかったと思う。それは特に嫉妬深いとかじゃなくて、別に普通のことだと思う。
でもあたしがそう感じるだろうってことを、谷元さんは考えてくれなかったのかな。
黒田さんを思って──まあ的外れもいいとこだけど──式に招くことしか考えなかったのかな。
いろんなことを考えたけど、結局あたしは何も言わなかった。
略奪愛は不自由だ。ただちょっと順番が違っただけなのに、人の道から外れた悪事になってしまう。
最終的に選ばれたんだから堂々としていればいいって言う人もいるかもしれないけど、あたしにはそんなのは無理そうだった。
谷元さんが、あたしたちをぐるりと取り囲んで立っている職場仲間にそう宣言したのは、あのカフェでの別れ話から数日後の朝礼でのことだった。
谷元さんがどう感じていたかはわからない。でもあたしは、この何とも言えない空気と視線に、身を切り刻まれているみたいな気分だった。
だって、この中にはもちろん黒田さんがいる。そして、この中のほとんどの人は、谷元さんが黒田さんとお付き合いしていたってことを知っている。
現にほら、何人かはちらちらと黒田さんに視線を投げかけている。
本人たちはばれていないつもりなんだろうけど、黒田さんは気付いてるだろうな。
……なんて考えていたせいで、あたしは谷元さんの爆弾発言を危うくスルーするところだった。
「……それで式なんですが、うちの部署からは代表で桐山部長と増田と、進藤さんと、あと黒田さんに参列してもらおうと思っています」
あたしは思わず自分の耳を疑った。
だって、黒田さんは──ついこの間振ったばっかの「元カノ」なのに!?
そっと目を向けてみると、黒田さんはきっと他の人にはほとんどわからないくらいに、でも驚いて目を見開いていた。
その目が向かっていたのはもちろん谷元さんだけど、隣から見ているあたしにすら、「それ、今言う?」と訴えかけるような目に見える。
ということは、黒田さんは知っていたのだ。谷元さんが、自分を結婚式に参列させようとしていたことを。
そしてそんな会話があったとすれば、あたしが帰った後しかない。
あの日二人の話が終わるまで、ずっとそばで聞いていればよかった。二人の話も、終わり方も、最後まで全部見届ければよかった。
そんな後悔であたしの頭がいっぱいになったとき、黒田さんの目がふっとかげった。
「……えっ、私なんかがお招きいただいてしまっていいんですか?」
殊更明るい声と表情で黒田さんが言った。
間違いないと思う──あたしは今、黒田さんが心に鎧をまとう瞬間を見た。
まわりの凍りつくような空気をものともしない大人な笑顔に、あたしは目を奪われる。
でもそんな内心を悟られないよう、あたしは急いで言った。
「そんな、もちろんです! ぜひいらしてください!」
こんなこと言ったって仕方ないけど、それ以外になんて言えばいいのか思いつかなかった。
黒田さんだって出席なんかしたくないはずだし、同じテーブルに座ることになるだろう部長や増田さんも、きっと気まずい思いをすると思う。
後ろの方から声が聞こえてきたのはそんな時だった。
「ねえ、課長とお付き合いしてたのって黒田さんじゃなかったの?」
誰が言ったのかまではわからなかったけど、その声はあたしの耳にもはっきりと届いた。
あたしに聞こえたくらいなのだから、黒田さんにだって絶対聞こえている。もちろん黒田さんだけじゃなく、他の人にも。だからほら、今度こそはっきりとこの場の空気が凍った。
あたしは生まれて初めて、沈黙というものにも温度があると知った。
誰もがその冷気にやられて身じろぎもできない中、それを振り払うみたいに大きく振り返ったのは、やっぱり黒田さんだった。
「もう、やめてくださいよそんな昔の話」
昔──でもあたしは知っている。その「昔」がたった数日前に過ぎないことを。
でも黒田さんは、とにかくこの場の空気を和らげることを選んだんだ──きっと、大人だから。
と、視線を感じたのか黒田さんがこちらを振り返った。
あたしは内心を隠して笑顔を保つ。
そのままふい、と目を逸らした黒田さんは、一体何を思ったんだろう。
「ねえ、どうして黒田さんを……」
あたしはその日の夜、一緒に食事をしている時に谷元さんに詰め寄った。
だって、ただでさえ黒田さんは新郎の元カノなんていう厄介な立場なのに。
今朝のあの痛々しい空気を、谷元さんは感じなかったんだろうか。
「なんで式に招待するのかって? そりゃ今後のためだよ。俺にとっても茉莉にとっても、もちろんあいつにとっても、こうするのが一番なんだよ」
谷元さんは何でもないように言ったけど、何がどう今後のためになるのかあたしには全然わからなかった。
浮気して、一方的に振って、そのくせ結婚式には駆けつけろだなんて──シンプルにひどすぎる。黒田さんを馬鹿にするにもほどがあると思う。きっと谷元さんは全然意識していないんだろうけど。
「あいつはわかってるよ。俺たちの式に出る意味が。結婚式に招待とか参列とかできるような平和な別れ方だったってアピールできれば、会社でタブー扱いされることもないだろうってね」
そう言って谷元さんはワインを飲んだ。
あたしはもう、びっくりしすぎて言葉が出なかった。
甘い。甘すぎると思う。たとえもし本当に、谷元さんと黒田さんが円満な破局を迎えていたとしても、二人の過去は絶対にタブー化する。
だって、同じその場所に妻であるあたしがいることになるんだから。それとも、あたしは「寿退社」させられるんだろうか。
いや、どっちにしたって同じだと思う。それを、あの黒田さんがわからないはずがない。
あたしは実際浮気相手だったし、ってことはつまり略奪愛なわけだし、どちらかっていうと黒田さんには引け目を感じている。だから余計なことは何も言えない。
でももしあたしがちゃんとした恋人だったら、元カノなんて呼んでほしくなかったと思う。それは特に嫉妬深いとかじゃなくて、別に普通のことだと思う。
でもあたしがそう感じるだろうってことを、谷元さんは考えてくれなかったのかな。
黒田さんを思って──まあ的外れもいいとこだけど──式に招くことしか考えなかったのかな。
いろんなことを考えたけど、結局あたしは何も言わなかった。
略奪愛は不自由だ。ただちょっと順番が違っただけなのに、人の道から外れた悪事になってしまう。
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