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Another Story ─ ジャスミンは香る
第2話 終わりの始まり
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それから、谷元さんとの秘密の関係が始まった。
秘密といっても、あたしの部屋で体を重ねるだけじゃなくて、谷元さんはあたしと一緒にお出かけもしてくれた。食事にも買い物にも、映画や水族館にも行った。本当に、「普通のカップル」みたいだったと思う。
黒田さんのことは、あえて聞かなかった。知らないふりをし続けた。
一人でいる時は、実はもう別れたのかなって希望的観測を立ててみたり、どうせあたしは浮気相手に過ぎないんだろうなって拗ねてみたり、いろいろ考えた。
でも結局は口には出さなかった。
余計なことに触れてしまったら、谷元さんとの幸せな時間が終わってしまうんじゃないかって気がしたから。
でもそんな、真綿にくるまれたみたいな幸せな日々には突然、終わりがやってきた。
生理が来てないのになんだか体調が悪い。
そんなときに一番に考えないといけない可能性──まさかと思って検査薬を使ってみたら、みるみるうちに二本の赤い線が浮かび上がってきた。
妊娠陽性だった。
まず思ったのは、どうしよう、ってことだった。
当たり前だけど、誰にも相談なんてできなかった。その頃までにはいい加減、あたしにもわかってしまっていたから──谷元さんの正式な「恋人」は、やっぱり黒田さんだってことが。
そんなときだった。黒田さんが、何かで社内表彰をされることになったのは。
たしか、何か会社に利益になることを成し遂げた、とかだったと思う。具体的に何を表彰されたのかは覚えていないけど。
でも、そのとき感じた絶望は今でもはっきり覚えている。
あんなに美人で、かっこよくて、仕事もできて、谷元さんが恋人だなんて。
黒田さんが持っている幸せを、あたしはひとつも持っていないのに。あたしには、何もないのに。
目の前がどんどん暗くなっていくような感覚、足元が崩れていくような感覚、どう言えば的確なのかはわからない。でもとにかくあたしは、絶望に飲み込まれてしまった。
あの頃より少しは大人になった今なら、あれはただの「嫉妬」だったんだってわかる。
でも当時のあたしには、「絶望」以外の何物でもなかった。
だからあたしは、手に入れたばかりの最後の切り札を使うことにしたんだ。
「子どもが、できたみたいなの……」
そう告げたときの谷元さんの顔は、今でも覚えている。もしかしたら一生忘れられないかもしれない。
驚き、焦り、衝撃、混乱……そういういろんな感情全部が一斉に押し寄せて、それに飲み込まれちゃったときに、人はあんな顔になるんだと思う。
堕ろしてくれって言われるか、結婚しようって言ってもらえるか。それは正直賭けだった。
同じ職場で働いている以上、その後一切音信不通ってことはないと思っていたけど。
「ごめん、少し考えさせて」
谷元さんはあの日、それだけ言って帰ってしまった。
でもその二日後には答えを出してくれたんだ。
「もしかしたら知ってるかもしれないけど、実は俺、茉莉以外に付き合ってる人がいて……」
谷元さんがあたしに直接黒田さんの話をしたのは、そのときが初めてだった。
あたしはどう答えればいいかわからなくて、ただうなずく。
「友里──いや、黒田なんだ。本当は茉莉より前から付き合ってた」
もちろん、言われなくても知っていた。
あたしの方が「浮気相手」だったことも、ほんとはわかっていた。
谷元さんがあたしじゃなく黒田さんを選ぶなら、あたしはもうこの会社にはいられないと思った。
お腹の子は──どうしよう。
あたしは今更になって気づいた。切り札なんかじゃなかった。導火線だった。
あたしはその導火線に自ら火をつけてしまったんだって、思った。
だから谷元さんが「結婚しよう」って言ってくれたとき、あたしは最初、願望が見せた白昼夢を見ているんだろうって思った。
きっとものすごく間抜けな顔をしていたと思う。
──結婚?
谷元さんのその言葉の意味を理解したとき、あたしは息が止まるかと思った。
自分でも変だと思う。その返事を期待していたくせに、心の準備はできていなかったんだから。
だからかもしれない。あたしが思わず「黒田さんは……」なんて聞いてしまったのは。
「俺を必要としてるのは、茉莉の方だから」
あたしはそれを聞いた瞬間、ああ、なんかドラマみたいって思った。
だってドラマではいつだって、強くてかっこいい女の人じゃなくか弱くてかわいい女が選ばれるから。それがハッピーエンドかそうじゃないかは、ドラマによって違うけど。
ドラマにリアリティがあるのか、リアルがフィクションに引きずられてるのか、どっちなんだろう。どっちだっていいけど。
「あいつなら──あいつならきっとわかってわかってくれると思う」
谷元さんはそう言って、大きく息を吐き出した。
反対に、あたしは息が止まりそうになる。
わかってくれるって、何? わかるって何?
隠れて浮気されてて、子どもまで作られて、それを理由にした別れを「わかってくれる」って、何なの?
いったいどこまで、黒田さんに甘えてるの?
そう思うと泣きたくなってきた。だって甘えって、つまりは信頼と同義だから。
あたしは谷元さんを手に入れても、黒田さんみたいな関係は築けない。
だからきっと、あたしは一生あの人には敵わない。
それからあたしは、谷元さんが黒田さんをどこに呼び出すつもりなのかをさりげなく聞き出した。
たぶんそんなことができたのは、谷元さんも精神的に参っていたからだと思う。
基本的に、谷元さんは穴のないタイプだったから。そういうへまをするなんて、らしくない。
秘密といっても、あたしの部屋で体を重ねるだけじゃなくて、谷元さんはあたしと一緒にお出かけもしてくれた。食事にも買い物にも、映画や水族館にも行った。本当に、「普通のカップル」みたいだったと思う。
黒田さんのことは、あえて聞かなかった。知らないふりをし続けた。
一人でいる時は、実はもう別れたのかなって希望的観測を立ててみたり、どうせあたしは浮気相手に過ぎないんだろうなって拗ねてみたり、いろいろ考えた。
でも結局は口には出さなかった。
余計なことに触れてしまったら、谷元さんとの幸せな時間が終わってしまうんじゃないかって気がしたから。
でもそんな、真綿にくるまれたみたいな幸せな日々には突然、終わりがやってきた。
生理が来てないのになんだか体調が悪い。
そんなときに一番に考えないといけない可能性──まさかと思って検査薬を使ってみたら、みるみるうちに二本の赤い線が浮かび上がってきた。
妊娠陽性だった。
まず思ったのは、どうしよう、ってことだった。
当たり前だけど、誰にも相談なんてできなかった。その頃までにはいい加減、あたしにもわかってしまっていたから──谷元さんの正式な「恋人」は、やっぱり黒田さんだってことが。
そんなときだった。黒田さんが、何かで社内表彰をされることになったのは。
たしか、何か会社に利益になることを成し遂げた、とかだったと思う。具体的に何を表彰されたのかは覚えていないけど。
でも、そのとき感じた絶望は今でもはっきり覚えている。
あんなに美人で、かっこよくて、仕事もできて、谷元さんが恋人だなんて。
黒田さんが持っている幸せを、あたしはひとつも持っていないのに。あたしには、何もないのに。
目の前がどんどん暗くなっていくような感覚、足元が崩れていくような感覚、どう言えば的確なのかはわからない。でもとにかくあたしは、絶望に飲み込まれてしまった。
あの頃より少しは大人になった今なら、あれはただの「嫉妬」だったんだってわかる。
でも当時のあたしには、「絶望」以外の何物でもなかった。
だからあたしは、手に入れたばかりの最後の切り札を使うことにしたんだ。
「子どもが、できたみたいなの……」
そう告げたときの谷元さんの顔は、今でも覚えている。もしかしたら一生忘れられないかもしれない。
驚き、焦り、衝撃、混乱……そういういろんな感情全部が一斉に押し寄せて、それに飲み込まれちゃったときに、人はあんな顔になるんだと思う。
堕ろしてくれって言われるか、結婚しようって言ってもらえるか。それは正直賭けだった。
同じ職場で働いている以上、その後一切音信不通ってことはないと思っていたけど。
「ごめん、少し考えさせて」
谷元さんはあの日、それだけ言って帰ってしまった。
でもその二日後には答えを出してくれたんだ。
「もしかしたら知ってるかもしれないけど、実は俺、茉莉以外に付き合ってる人がいて……」
谷元さんがあたしに直接黒田さんの話をしたのは、そのときが初めてだった。
あたしはどう答えればいいかわからなくて、ただうなずく。
「友里──いや、黒田なんだ。本当は茉莉より前から付き合ってた」
もちろん、言われなくても知っていた。
あたしの方が「浮気相手」だったことも、ほんとはわかっていた。
谷元さんがあたしじゃなく黒田さんを選ぶなら、あたしはもうこの会社にはいられないと思った。
お腹の子は──どうしよう。
あたしは今更になって気づいた。切り札なんかじゃなかった。導火線だった。
あたしはその導火線に自ら火をつけてしまったんだって、思った。
だから谷元さんが「結婚しよう」って言ってくれたとき、あたしは最初、願望が見せた白昼夢を見ているんだろうって思った。
きっとものすごく間抜けな顔をしていたと思う。
──結婚?
谷元さんのその言葉の意味を理解したとき、あたしは息が止まるかと思った。
自分でも変だと思う。その返事を期待していたくせに、心の準備はできていなかったんだから。
だからかもしれない。あたしが思わず「黒田さんは……」なんて聞いてしまったのは。
「俺を必要としてるのは、茉莉の方だから」
あたしはそれを聞いた瞬間、ああ、なんかドラマみたいって思った。
だってドラマではいつだって、強くてかっこいい女の人じゃなくか弱くてかわいい女が選ばれるから。それがハッピーエンドかそうじゃないかは、ドラマによって違うけど。
ドラマにリアリティがあるのか、リアルがフィクションに引きずられてるのか、どっちなんだろう。どっちだっていいけど。
「あいつなら──あいつならきっとわかってわかってくれると思う」
谷元さんはそう言って、大きく息を吐き出した。
反対に、あたしは息が止まりそうになる。
わかってくれるって、何? わかるって何?
隠れて浮気されてて、子どもまで作られて、それを理由にした別れを「わかってくれる」って、何なの?
いったいどこまで、黒田さんに甘えてるの?
そう思うと泣きたくなってきた。だって甘えって、つまりは信頼と同義だから。
あたしは谷元さんを手に入れても、黒田さんみたいな関係は築けない。
だからきっと、あたしは一生あの人には敵わない。
それからあたしは、谷元さんが黒田さんをどこに呼び出すつもりなのかをさりげなく聞き出した。
たぶんそんなことができたのは、谷元さんも精神的に参っていたからだと思う。
基本的に、谷元さんは穴のないタイプだったから。そういうへまをするなんて、らしくない。
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