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第X話 みんなのお姉さん
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「──さん。……黒田さん!」
名前を呼ばれ振り返る。
声の主は同じ部署の先輩社員、進藤絢子さんだった。雰囲気から察するに、何度も呼びかけられているのに全く気付かず無視していたようだ。
「すみません。何でしょうか……」
申し訳なさに恐縮しきって立ち上がる。
すると進藤さんは「ちょっといい?」と手招きして、先に立って歩き出した。怒っている様子はないものの、何の用事なのかはわからない。
進藤さんはフロアをずんずん突っ切り、私はそれを早足で追いかける。廊下に出てしばらく歩いたところで彼女は足を止めた。
小会議室──五、六人くらいのちょっとしたミーティングに使う一番小さな部屋だ。
進藤さんは「入って」とその小会議室の扉を開けた。
「失礼します」
ドアを押さえてくれている進藤さんにぺこりと頭を下げながら部屋に足を踏み入れる。
しばらく使われていなかったのか、すこし空気がこもっている感じがした。もちろん先客もいない。
と、部屋の明かりが灯る。日中なので照明なしでも問題はないのだが、進藤さんがスイッチを入れてくれたようだ。
振り返ると彼女はドアを閉め、ドア窓にブラインドを下ろしている。
一体何だろう。
これがもし進藤さんではなくもっと上の立場の人物に呼び出されたのであれば、異動かクビかとびくびくするところだ。でも進藤さんの呼び出しには心当たりがない。
不安と緊張で硬くなりながら待っていると、進藤さんがこちらに向き直った。
「黒田さん」
「は、はい」
なんだろう、声がいつもより厳しい気がする。
もしかして、仕事中にぼーっと考え事をしていたことを注意されるのだろうか。
そうだ、さっきだって谷元課長と津山さんのことを考えていて反応が遅れたのだ。
「あなた、大丈夫なの?」
「え?」
進藤さんの質問は極端に抽象的だった。何について大丈夫かと確認されているのだろう。心当たりは──ない。
「あの、すみません。何のことでしょうか……」
正直に尋ねると、進藤さんは私をじっと見つめ、それから少し考え込んだ。
具体的にいくつなのかは知らないけれど、進藤さんは私よりもずっと、当然谷元課長よりも先輩の社員だ。
てきぱきとした仕事のできる人であり、どこぞのお局様のようにくだらないことでケチをつけて若手社員をいびったりはしない。まあ、私はもう若手社員と呼ばれるほど若くはないけれど。
「……単刀直入に言うわ。谷元くんとお付き合いしていたのはあなたでしょう」
「──!」
これはまた見事な単刀直入っぷりだった。
でも朝礼の時のあれに比べたら──いや、比べるのも失礼なくらいに進藤さんの方がずっと親切だった。
「もちろん、黒田さんが話したくなかったら無理に訊いたりはしないわ。でももし何かあったなら……話してみるだけでも楽になるものよ」
進藤さんは、仕事中よりずっと柔らかい声で言った。
それから、「自分で言うのもなんだけど私、口は堅い方だから」と笑う。
「進藤さん……」
私は今初めて、どうして進藤さんが「みんなのお姉さん」と呼ばれているのかを理解した。
誰に対してもこうして、手を差し伸べ続けていたのだろう──私が知らなかっただけで。
私は一つ大きく深呼吸して口を開いた。
「……つい先日まで付き合ってました」
とにかく淡々と聞こえるように、極力感情を排して発声する。
この程度のこと、私は何とも思っていない──そう自分が信じられるように。
「でも津山さんが妊娠したからその責任をとって結婚する。だから別れてくれと頭を下げられました」
厳密に言うなら、「頭を下げさせた」だけど。でも彼が頭を下げたことは事実だし、あえて言い直すほどでもないと思う。
「そう……勝手なものね」
進藤さんは静かに言った。立ったその一言が──私の側に立ってくれたその一言が、意外なほどに胸を揺さぶる。
「それであなたは身を引いたの」
その言葉に無言でうなずくと、なんだか全身から力が抜けた。
「もう、終わったも同然でしたから」
もともと私たちの関係が冷え切っていたという意味ではない。ただ、もう彼が選んだ後だったということだ。
彼には、私ではなく彼女と別れるという選択肢もあったはずだった。もちろん是非は別としてだけれど、中絶手術やシングルマザーの道だってある。
でも彼は私と別れる方を選んだ。その時点でもう終わりなのだ。
「津山さんは略奪愛だってこと、きっとわかってます。でも彼女に対して悪感情はありません。私は──」
その先は言葉にならなかった。
息ができない──そう思った瞬間に両目から涙があふれ出していることに気づく。
どうして?
あんなろくでもない男と別れたくらいで、どうしてこんなに取り乱してしまうのだろう?
自分でも驚くくらいに涙が止まらなくなってしまった私を、進藤さんはそっと抱きしめてくれた。
まるで幼子にするように、ぽんぽんと頭をなでてくれる。いや、それは私が幼子のように泣いているからか。
頭のどこか冷静な部分がそんなことを考える。
「よく我慢したわね。今朝のあの発表、無関係な私ですらどうかと思ったわ」
ということは、あの凍てつく空気はやはり気のせいではなかったらしい。
ほっとするような絶望するような、なんだか不思議な感覚だ。
「結婚式、黒田さんが行く義理はないと思うわよ。もし断りにくいなら、私が話をつけてあげる」
「え?」
進藤さんの予想外の発言に、つい涙も引っ込んでしまった。
結婚式に、行かなくてもいい──?
けれど少し考えて、私は首を振った。
やっぱり「心の狭い女」よりは、「厚顔無恥な女」の方が私に合っている気がする。
「大丈夫です。大丈夫であって見せます」
化粧が落ちないよう、指先で丁寧に涙をぬぐって笑うと、進藤さんもにっこりと微笑んでくれた。
名前を呼ばれ振り返る。
声の主は同じ部署の先輩社員、進藤絢子さんだった。雰囲気から察するに、何度も呼びかけられているのに全く気付かず無視していたようだ。
「すみません。何でしょうか……」
申し訳なさに恐縮しきって立ち上がる。
すると進藤さんは「ちょっといい?」と手招きして、先に立って歩き出した。怒っている様子はないものの、何の用事なのかはわからない。
進藤さんはフロアをずんずん突っ切り、私はそれを早足で追いかける。廊下に出てしばらく歩いたところで彼女は足を止めた。
小会議室──五、六人くらいのちょっとしたミーティングに使う一番小さな部屋だ。
進藤さんは「入って」とその小会議室の扉を開けた。
「失礼します」
ドアを押さえてくれている進藤さんにぺこりと頭を下げながら部屋に足を踏み入れる。
しばらく使われていなかったのか、すこし空気がこもっている感じがした。もちろん先客もいない。
と、部屋の明かりが灯る。日中なので照明なしでも問題はないのだが、進藤さんがスイッチを入れてくれたようだ。
振り返ると彼女はドアを閉め、ドア窓にブラインドを下ろしている。
一体何だろう。
これがもし進藤さんではなくもっと上の立場の人物に呼び出されたのであれば、異動かクビかとびくびくするところだ。でも進藤さんの呼び出しには心当たりがない。
不安と緊張で硬くなりながら待っていると、進藤さんがこちらに向き直った。
「黒田さん」
「は、はい」
なんだろう、声がいつもより厳しい気がする。
もしかして、仕事中にぼーっと考え事をしていたことを注意されるのだろうか。
そうだ、さっきだって谷元課長と津山さんのことを考えていて反応が遅れたのだ。
「あなた、大丈夫なの?」
「え?」
進藤さんの質問は極端に抽象的だった。何について大丈夫かと確認されているのだろう。心当たりは──ない。
「あの、すみません。何のことでしょうか……」
正直に尋ねると、進藤さんは私をじっと見つめ、それから少し考え込んだ。
具体的にいくつなのかは知らないけれど、進藤さんは私よりもずっと、当然谷元課長よりも先輩の社員だ。
てきぱきとした仕事のできる人であり、どこぞのお局様のようにくだらないことでケチをつけて若手社員をいびったりはしない。まあ、私はもう若手社員と呼ばれるほど若くはないけれど。
「……単刀直入に言うわ。谷元くんとお付き合いしていたのはあなたでしょう」
「──!」
これはまた見事な単刀直入っぷりだった。
でも朝礼の時のあれに比べたら──いや、比べるのも失礼なくらいに進藤さんの方がずっと親切だった。
「もちろん、黒田さんが話したくなかったら無理に訊いたりはしないわ。でももし何かあったなら……話してみるだけでも楽になるものよ」
進藤さんは、仕事中よりずっと柔らかい声で言った。
それから、「自分で言うのもなんだけど私、口は堅い方だから」と笑う。
「進藤さん……」
私は今初めて、どうして進藤さんが「みんなのお姉さん」と呼ばれているのかを理解した。
誰に対してもこうして、手を差し伸べ続けていたのだろう──私が知らなかっただけで。
私は一つ大きく深呼吸して口を開いた。
「……つい先日まで付き合ってました」
とにかく淡々と聞こえるように、極力感情を排して発声する。
この程度のこと、私は何とも思っていない──そう自分が信じられるように。
「でも津山さんが妊娠したからその責任をとって結婚する。だから別れてくれと頭を下げられました」
厳密に言うなら、「頭を下げさせた」だけど。でも彼が頭を下げたことは事実だし、あえて言い直すほどでもないと思う。
「そう……勝手なものね」
進藤さんは静かに言った。立ったその一言が──私の側に立ってくれたその一言が、意外なほどに胸を揺さぶる。
「それであなたは身を引いたの」
その言葉に無言でうなずくと、なんだか全身から力が抜けた。
「もう、終わったも同然でしたから」
もともと私たちの関係が冷え切っていたという意味ではない。ただ、もう彼が選んだ後だったということだ。
彼には、私ではなく彼女と別れるという選択肢もあったはずだった。もちろん是非は別としてだけれど、中絶手術やシングルマザーの道だってある。
でも彼は私と別れる方を選んだ。その時点でもう終わりなのだ。
「津山さんは略奪愛だってこと、きっとわかってます。でも彼女に対して悪感情はありません。私は──」
その先は言葉にならなかった。
息ができない──そう思った瞬間に両目から涙があふれ出していることに気づく。
どうして?
あんなろくでもない男と別れたくらいで、どうしてこんなに取り乱してしまうのだろう?
自分でも驚くくらいに涙が止まらなくなってしまった私を、進藤さんはそっと抱きしめてくれた。
まるで幼子にするように、ぽんぽんと頭をなでてくれる。いや、それは私が幼子のように泣いているからか。
頭のどこか冷静な部分がそんなことを考える。
「よく我慢したわね。今朝のあの発表、無関係な私ですらどうかと思ったわ」
ということは、あの凍てつく空気はやはり気のせいではなかったらしい。
ほっとするような絶望するような、なんだか不思議な感覚だ。
「結婚式、黒田さんが行く義理はないと思うわよ。もし断りにくいなら、私が話をつけてあげる」
「え?」
進藤さんの予想外の発言に、つい涙も引っ込んでしまった。
結婚式に、行かなくてもいい──?
けれど少し考えて、私は首を振った。
やっぱり「心の狭い女」よりは、「厚顔無恥な女」の方が私に合っている気がする。
「大丈夫です。大丈夫であって見せます」
化粧が落ちないよう、指先で丁寧に涙をぬぐって笑うと、進藤さんもにっこりと微笑んでくれた。
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