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Later Talks ─ 白いユリが咲く
後日談1 小さな楔
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「──はあ!? 間違いだった!?」
相手が「上司」であることも忘れ、思わず叫んでしまった。
「まったくだよ。信じられん」
そう言って谷元課長──私の元恋人はコーヒーをすすった。
信じられないのはこっちだ。
この男は浮気相手の妊娠を理由に私を捨てたのだ──なのにその妊娠が「間違い」だったなんて。
「そんなことあるわけないでしょう」
大昔ならいざ知らず、今の日本の医療レベルで妊娠の誤診が下されるとは考えられない。
「嘘に決まってる」
私はつぶやくように言った。
「俺がそんな嘘ついてどうなるんだよ」
小声だったのにしっかり聞こえていたようで、彼は呆れたようにこちらを見た。
「どうなるって……」
どうやら正しく伝わらなかったらしい。
私は「そんなの彼女が最初から意図的についた嘘に決まっている」という意味で言ったのだけれど、この男にそういう発想はないのだろう。つくづく幸せなやつだと思う。
そして私はその誤解を解いてあげるほど親切ではない。
「で? いつ『間違い』ってわかったの?」
今、休憩室には私たちしかいない。
聞きとがめる人もいないので、私は口調を改めずに訊いた。
「……式のひと月前」
そう答えた彼の表情は苦い。
なるほど。さすがにそのタイミングでは後戻りできないだろう。
彼女はその辺りもすべて計算のうえで計画したに違いない。
私は自分から訊いておきながら「ふうん」と気のない返事をした。
「今更言ってもしょうがないけどさ、あんなことがなかったら俺──」
「──はいそこまで」
私は鋭くその言葉を遮った。
何を言おうとしたのかはだいたい想像がつく。決して口にすべきではない言葉だ──この男にとっても、私にとっても。
この男は彼女の嘘──彼自身の言葉を尊重するなら「間違い」だが──に振り回された自分を被害者だと思っているのかもしれない。
でもその嘘を見抜けなかった時点で彼にも非があるのだ。
それはつまり、身に覚えがあるということなのだから。
だからもちろん、同情の余地なんて猫の額ほどもないと私は思っている──けれど。
なんだかんだ言って、この男は幸せ者なのだ。
そんなリスキーな嘘をついてまで手に入れたいと思ってくれる人がいたのだから。
「聞けよ。俺はほんとにお前が──」
本当に懲りないやつだ──そう思って私は手に持っていたファイルを思いっきり机にたたきつけた。
バシッと予想以上に大きな音が響き、さすがの彼も口をつぐんでいる。
どうしてわからないのだろう。
今更何を言ったって無駄だし、どんなに真剣に言葉を紡いだところでただの自己満足でしかない。
そんな自己満足、聞きたくもない。
「心の中で何を思おうが自由です。でも後先考えずに口にするのはいけません。いったいいつまでそうやって、その場の感情に振り回されながら生きてるつもりですか」
やはり付き合っていた頃を彷彿とさせる喋り方は良くなかった──そんな反省のもと、私は冷たく言い放つ。
「軽々しく『責任』なんて口にするばっかじゃなくて、負うべき責任をちゃんと負ってください。片方を捨てて、片方を選んだ責任を果たしてください」
なんだか悲しくなってきた。
過去のことはもうどうだっていいから、少なくとも今の私に「なんでこんなやつと付き合ってたんだろう」なんて思わせないでほしい。
「……目障りな人間ももういなくなるんですから」
「どういう意味だよ」
それまで半ば呆気に取られていたようだった彼が、その言葉にはすぐ反応した。
「……私、今月いっぱいで退職するんですよ」
私は表情を変えずに淡々と答える。
と、彼の顔色が変わった。
「退職!? 聞いてないぞ」
部長をはじめ、上の人間はとっくに知っていることだ。
直属の上司であるこの男に一切相談も報告もしなかったのは、ちょっとした意地だったかも知れない。
でも例によって、気づかない方がおかしいのだ。
私がもともと担当していた仕事が少しずつ別の社員に移行しているのに、何も思わないなんてどうかしている。
とはいえ、課内の社員たちが結託して知らせなかったのも事実だろう。
そう思うと可笑しかった。
たぶん、進藤さんが暗躍したんだろうなという気がする。
今度豪華な菓子折りでも持っていこう。
「いいじゃないですか。二兎を追って一兎は得たわけですし」
きっと世間一般的にはより価値のある方の一兎だ。もちろん、そんな内心は顔に出したりしないけれど。
私は立ち上がり、廊下へと続くドアに向かった。
そしてドアのすぐ手前で振り返る。
「幸せになってね──亮介」
「──!」
彼の目が大きく見開かれた。
私は少し悲し気な笑顔を張り付けたまま、休憩室を後にする。
これは小さな、本当に小さな楔だ。
私からのほんの些細な置き土産。
彼は知っているだろうか──楔には二つの、まるで正反対の使い方があることを。
そう、楔はものを真っ二つに割るためにも、そして二つのものをしっかりつなぎとめるためにも使われるのだ。
私が残した楔を、彼は有効に使えるだろうか。
それとも──…。
私はそこで考えるのをやめ、まもなくお別れすることになるマイデスクに戻った。
相手が「上司」であることも忘れ、思わず叫んでしまった。
「まったくだよ。信じられん」
そう言って谷元課長──私の元恋人はコーヒーをすすった。
信じられないのはこっちだ。
この男は浮気相手の妊娠を理由に私を捨てたのだ──なのにその妊娠が「間違い」だったなんて。
「そんなことあるわけないでしょう」
大昔ならいざ知らず、今の日本の医療レベルで妊娠の誤診が下されるとは考えられない。
「嘘に決まってる」
私はつぶやくように言った。
「俺がそんな嘘ついてどうなるんだよ」
小声だったのにしっかり聞こえていたようで、彼は呆れたようにこちらを見た。
「どうなるって……」
どうやら正しく伝わらなかったらしい。
私は「そんなの彼女が最初から意図的についた嘘に決まっている」という意味で言ったのだけれど、この男にそういう発想はないのだろう。つくづく幸せなやつだと思う。
そして私はその誤解を解いてあげるほど親切ではない。
「で? いつ『間違い』ってわかったの?」
今、休憩室には私たちしかいない。
聞きとがめる人もいないので、私は口調を改めずに訊いた。
「……式のひと月前」
そう答えた彼の表情は苦い。
なるほど。さすがにそのタイミングでは後戻りできないだろう。
彼女はその辺りもすべて計算のうえで計画したに違いない。
私は自分から訊いておきながら「ふうん」と気のない返事をした。
「今更言ってもしょうがないけどさ、あんなことがなかったら俺──」
「──はいそこまで」
私は鋭くその言葉を遮った。
何を言おうとしたのかはだいたい想像がつく。決して口にすべきではない言葉だ──この男にとっても、私にとっても。
この男は彼女の嘘──彼自身の言葉を尊重するなら「間違い」だが──に振り回された自分を被害者だと思っているのかもしれない。
でもその嘘を見抜けなかった時点で彼にも非があるのだ。
それはつまり、身に覚えがあるということなのだから。
だからもちろん、同情の余地なんて猫の額ほどもないと私は思っている──けれど。
なんだかんだ言って、この男は幸せ者なのだ。
そんなリスキーな嘘をついてまで手に入れたいと思ってくれる人がいたのだから。
「聞けよ。俺はほんとにお前が──」
本当に懲りないやつだ──そう思って私は手に持っていたファイルを思いっきり机にたたきつけた。
バシッと予想以上に大きな音が響き、さすがの彼も口をつぐんでいる。
どうしてわからないのだろう。
今更何を言ったって無駄だし、どんなに真剣に言葉を紡いだところでただの自己満足でしかない。
そんな自己満足、聞きたくもない。
「心の中で何を思おうが自由です。でも後先考えずに口にするのはいけません。いったいいつまでそうやって、その場の感情に振り回されながら生きてるつもりですか」
やはり付き合っていた頃を彷彿とさせる喋り方は良くなかった──そんな反省のもと、私は冷たく言い放つ。
「軽々しく『責任』なんて口にするばっかじゃなくて、負うべき責任をちゃんと負ってください。片方を捨てて、片方を選んだ責任を果たしてください」
なんだか悲しくなってきた。
過去のことはもうどうだっていいから、少なくとも今の私に「なんでこんなやつと付き合ってたんだろう」なんて思わせないでほしい。
「……目障りな人間ももういなくなるんですから」
「どういう意味だよ」
それまで半ば呆気に取られていたようだった彼が、その言葉にはすぐ反応した。
「……私、今月いっぱいで退職するんですよ」
私は表情を変えずに淡々と答える。
と、彼の顔色が変わった。
「退職!? 聞いてないぞ」
部長をはじめ、上の人間はとっくに知っていることだ。
直属の上司であるこの男に一切相談も報告もしなかったのは、ちょっとした意地だったかも知れない。
でも例によって、気づかない方がおかしいのだ。
私がもともと担当していた仕事が少しずつ別の社員に移行しているのに、何も思わないなんてどうかしている。
とはいえ、課内の社員たちが結託して知らせなかったのも事実だろう。
そう思うと可笑しかった。
たぶん、進藤さんが暗躍したんだろうなという気がする。
今度豪華な菓子折りでも持っていこう。
「いいじゃないですか。二兎を追って一兎は得たわけですし」
きっと世間一般的にはより価値のある方の一兎だ。もちろん、そんな内心は顔に出したりしないけれど。
私は立ち上がり、廊下へと続くドアに向かった。
そしてドアのすぐ手前で振り返る。
「幸せになってね──亮介」
「──!」
彼の目が大きく見開かれた。
私は少し悲し気な笑顔を張り付けたまま、休憩室を後にする。
これは小さな、本当に小さな楔だ。
私からのほんの些細な置き土産。
彼は知っているだろうか──楔には二つの、まるで正反対の使い方があることを。
そう、楔はものを真っ二つに割るためにも、そして二つのものをしっかりつなぎとめるためにも使われるのだ。
私が残した楔を、彼は有効に使えるだろうか。
それとも──…。
私はそこで考えるのをやめ、まもなくお別れすることになるマイデスクに戻った。
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