手のひらのひだまり

蒼村 咲

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第1章

60-R 二人の声

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前を行く祐輝が突然足を止め、唇の前に人差し指を立てて振り返ったのは、ホームへの階段を下りている時だった。
数段上にいた玲奈と洋介はとっさに顔を見合わせたものの、すぐにそのわけを悟る──声が聞こえてきたのだ。

「……お前、ほんとは俺のこと好きでもなんでもないだろ」

拓海の声だ。ということは話しかけている相手は──…。

「そんなことないわよ。拓海は……私の大事な幼馴染なんだから」

やはり、答えたのは美咲だった。
今度は祐輝も加えて三人で顔を見合わせた。
これはかなりプライベートな会話を盗み聞きしてしまっているのではないだろうか。

「……じゃあ聞き方変えるけど。今は俺に恋愛感情はない。だろ?」

語尾は上がっているものの、尋ねているときの口調ではない気がする。
そう、しいて言うなら──「確認」のニュアンスだ。

「……そうね。今はないかもね」

美咲はワンテンポ遅れはしたものの、さらりと言った。

(──え?)

玲奈は思わず自分の耳を疑う。
さっきまで美咲は、どこからどう見ても拓海に片想いする女の子だった。
叶わぬ恋を断ち切ろうと相手にぶつかっていく女の子だった。
それなのに今、その張本人が「拓海に対して恋愛感情は抱いていない」と認めたのだ。
玲奈の脳裏にまた、「女はみな女優」の文字が浮かぶ。

「じゃあなんで、あんなこと言ったんだ……」

拓海の声に困惑が混じった。もっともな疑問だと思う。

でもどうやら拓海は、美咲に恋愛的な意味で好かれているわけではないと最初からわかっていたようなのだ。
それなのに美咲は恋心をぶつけてきた──拓海でなくても驚き混乱するだろう。

(……え、ちょっと待ってよ)

それなら拓海は、美咲の告白や自分への言葉が全て嘘だと気づいていながらあの対応をしたということになる。
玲奈はいつかに廊下で拓海を呼び止めた時のことを思い出した。
あの時も拓海は、こちらの嘘にさらりと話を合わせたのだった。

「さあ? 特に理由なんてないけど」

美咲の気のない返事が聞こえてくる。
でも玲奈はとっさに嘘だ、と思った。意味もなくあんなやり取りをするわけがない。
きっと拓海もそう思っているのだろう。二人の間に沈黙が落ちる。

こちらに気づいて黙ったわけではないはずだけれど、玲奈は今のうちに改札階に戻ろうかと考えた。
内容が気にならないと言えば嘘になる。
けれど盗み聞きというのは、あまり気分のいいものではない。

ところがすぐそばで聞き耳を立てる一年男子二人に立ち去るという選択肢はないらしい。
どうしようかと逡巡しているうちに、拓海が再び口を開いた。

「……今頃になって、香苗が嫌がらせされてたって話を聞いたんだよ」

香苗というのはきっと、拓海の中学時代の元カノのことだろう。
これを聞いてしまっては、玲奈でさえももうこの場を離れるわけにはいかなかった。

「ちょっと待って。それ私じゃないわよ」

美咲が驚いたように言う。

(──あ、そうなんだ……)

考えてみれば、必ずしも前回と今回が同じ人物による嫌がらせとは限らないのだ。
麻衣子だって、誰が黒幕なのかはわからなかったと言っていた。
それはつまり、件のグループの中にすらそれだけ「候補」がたくさんいたということなのかもしれない。
直接かかわったわけでも、そばで見ていたわけでもない三年前の事件に関しては、実際それほど考えてはいなかったのだと、玲奈は今更ながら気づく。

「わかってる。何年幼馴染やってると思ってんだよ」

拓海は穏やかに言った。
なんと重みのある言葉だろう。
もし美咲と同じ立場に立つことがあったとしても、玲奈にはそんなふうに言ってくれる人はいない。

「お前は仮に好きな男に彼女ができたところで、そいつに嫌がらせなんてしないだろ。むしろ『最後に選ばれるのは私よ』みたいな顔して余裕ぶっこいてるタイプ」

続けて飛び出した言葉に、思わず吹き出しそうになってしまった。
でも正直、そんな美咲の姿は想像に難くない。

「だからこそ、今回のは特に美咲が仕組んだとは思えないんだよ」

拓海は特に力を込めるわけでもなく静かに言った。
実際、拓海のその考えは正しいのだ──もちろん、さっきの祐輝の指摘が正しいとするなら、だけれど。

「私じゃなかったら、誰の仕業だっていうの?」

そう言う美咲の声は明るかった。
朔也をかばっているというよりは、なんとなくどこか楽しんでいるかのような印象を受ける。

「……他に関わってるのは、安達しかいない」

対照的に、拓海は苦い声で言った。もしかしたら拓海と朔也は、ある程度付き合いのある仲だったのだろうか。

「そんなのわからないわよ? 私と朔也が実行犯だっただけで、自分の手は汚さない主義の陰のリーダーがいたっておかしくないでしょ?」

その瞬間、玲奈がさっき抱いた疑惑──美咲はこの会話を楽しんでるんじゃないか──は確信に変わった。

「もし本当にそうなら、美咲は絶対に今そんなことは言わない」

拓海の声は相変わらず苦い。

「ふふっ、変なところで鋭いわね」

美咲はそう言って笑った。
美咲と朔也が主犯であることは確かだということだろうか。

「でも美咲しかいないんだよ。俺に対してこんなことできるのは」

拓海はそう言ってため息をついた。
どういうことだろう──こんなことができるのは美咲しかいない、というのは。玲奈は思わず耳を澄ませる。

「拓海って……時々賢いのかばかなのか本当にわかんなくなるわ」

美咲が再び笑った。

「私が仕組んだとは思えないのに、私にしかできないって矛盾してるでしょ。結局私なの? 私じゃないの?」

美咲がどうしたいのか、玲奈にはもうさっぱり見当がつかなかった。
少なくともあの場では、美咲は自分が朔也を利用してことを謀ったのだと言っていた。
けれど拓海とのこの会話を聞いている限り、美咲が朔也をかばっているとは思えないのだ。
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