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第3話 埋まる空白と生まれる亀裂
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それからはもう毎日、第三書庫に通い詰めた。本当に、文字通り毎日だ。
何も悪いことはしていない。何も問題はない。
毎回そう自分に言い聞かせながら。
書庫に行くと彼がいて、抱きしめられ、抱きすくめられ、キスを交わした。
ここが第三書庫である限り、誰かと出くわす心配はほとんどない。
古びた紙の匂いが充満する本の森──そこは本当に二人だけの世界だった。
(世間じゃこれを「病みつきになった」、って言うのよね……)
形容しがたい快楽の中、私は思う。
真綿でくるまれるような優しさも、心臓が溶けるような熱も、たった数秒のキスから感じているのだと思うと不思議だった。
「人はひとりでは生きていけない」なんてよく言うものだけれど、求められること、必要とされることがこんなにも強烈な快楽だなんて、私は想像だにしなかった。
「空白が……埋まる気がするんだ」
そんな声が降ってきたのは、また腕の中に抱かれている時だった。
私は驚いて彼を見上げようとしたけれど、うまく身動きが取れない。
だから、彼がどんな表情でそう言ったのか、私にはわからなかった。
けれどもその声は、こちらの胸が痛くなるような、そんな悲痛な声だったのだ。
だから私は何も言わず、彼の背中に手を回した──「大丈夫よ」という念を込めて。
これで埋まる空白なら、私がいくらでも埋めてあげる。そう思った。
「──小柳さん。ちょっと、いいですか」
文学部教授の水城先生にそう声をかけられたのは、彼が担当する金曜四限の講義が終わったタイミングだった。
彼は私の直接の指導教官ではないものの、私が講義をとっている関係で面識がある。
彼が先に立って講義室を出ていったため、私は後を追った。
私が廊下に出たのを確認すると、くるりとこちらに向き直る。
「──このところ毎日のように、第三書庫で何をしているんですか」
思わぬ追及に私は言葉を失った。
動揺を悟られないよう必死に平静を装う。
「同一の学生の入室記録が不自然に連続していると、図書館事務の方から報告がありました」
先生はそう言い継いだ。
私が何も言えずにいると、彼は少し口調をやわらげた。
「もちろん、盗難を疑ったりはしていません。盗むほどの金銭的価値のある資料はあの部屋にはほとんどありませんし──そもそも資料にはすべてICタグが付いていますから、持ち出しの処理をせずに部屋を出ればすぐにわかります」
盗みを疑われているわけではないと知って、ひとまず安心する。
「ですが──」
先生が再び口を開いた。
「──小柳さんが資料を借りたのは最初の数回だけで、それ以降は入室記録のみ、資料の貸し出しや返却の処理は行われていない、という話でしたが」
うかつだった、と認めざるを得ない。
人に出会わなくても、機械は見ていたのだ。
「はい……」
とにかく返事をしなければ、と私は口を開いた。
が、後が続かない。私は必死で頭を回転させる。
「あの、探し物を……してました」
水城先生は黙って先を促す。
「二回目に行ったときに、ピアスを落としてしまって」
私はそう言葉を続けた。
驚いたことに、「探し物」と口にした途端、瞬く間にに頭の中でストーリーが組み上がったのだ。
「心当たりがあるのが書庫しかなくて。それで、毎日探しにいってました」
もちろん嘘だ。
そもそも私はピアスをつけたりはしない──穴も開いていないのだから。
水城先生はおや、という顔をした。
私の軽く倍くらいの年数は生きてきた「いい大人」だ。私の言うことをまるっきり信じるわけではないと思う。
でも嘘だと断定することもできないだろう。第三書庫の中に、防犯カメラの類はない。
「……そうですか」
彼はつぶやくように言った。
「でももう、用がないときには行きません。これだけ探して見つからなかったので……諦めます」
私は話を切り上げにかかった。
逃げ口上のつもりではなく、実際にもうあの書庫にはあまり近づきたくない気分になってきていた。
こんな面倒な疑いをかけられてまで誰かに執着するのも変だと思う。
(──え?)
ちょっと待って。何かがおかしい。
「──でも最近の入室記録は私だけじゃないですよね?」
そう尋ねながら、鼓動が速くなっていくのを感じた。
先生は怪訝な顔をしている。
「最近──というか少なくとも今月は、小柳さんの入室記録しかなかったということでしたよ。だから事務の方が心配して私に」
そんなはずはない。
だとしたらあの彼は一体何者なのか。
何も悪いことはしていない。何も問題はない。
毎回そう自分に言い聞かせながら。
書庫に行くと彼がいて、抱きしめられ、抱きすくめられ、キスを交わした。
ここが第三書庫である限り、誰かと出くわす心配はほとんどない。
古びた紙の匂いが充満する本の森──そこは本当に二人だけの世界だった。
(世間じゃこれを「病みつきになった」、って言うのよね……)
形容しがたい快楽の中、私は思う。
真綿でくるまれるような優しさも、心臓が溶けるような熱も、たった数秒のキスから感じているのだと思うと不思議だった。
「人はひとりでは生きていけない」なんてよく言うものだけれど、求められること、必要とされることがこんなにも強烈な快楽だなんて、私は想像だにしなかった。
「空白が……埋まる気がするんだ」
そんな声が降ってきたのは、また腕の中に抱かれている時だった。
私は驚いて彼を見上げようとしたけれど、うまく身動きが取れない。
だから、彼がどんな表情でそう言ったのか、私にはわからなかった。
けれどもその声は、こちらの胸が痛くなるような、そんな悲痛な声だったのだ。
だから私は何も言わず、彼の背中に手を回した──「大丈夫よ」という念を込めて。
これで埋まる空白なら、私がいくらでも埋めてあげる。そう思った。
「──小柳さん。ちょっと、いいですか」
文学部教授の水城先生にそう声をかけられたのは、彼が担当する金曜四限の講義が終わったタイミングだった。
彼は私の直接の指導教官ではないものの、私が講義をとっている関係で面識がある。
彼が先に立って講義室を出ていったため、私は後を追った。
私が廊下に出たのを確認すると、くるりとこちらに向き直る。
「──このところ毎日のように、第三書庫で何をしているんですか」
思わぬ追及に私は言葉を失った。
動揺を悟られないよう必死に平静を装う。
「同一の学生の入室記録が不自然に連続していると、図書館事務の方から報告がありました」
先生はそう言い継いだ。
私が何も言えずにいると、彼は少し口調をやわらげた。
「もちろん、盗難を疑ったりはしていません。盗むほどの金銭的価値のある資料はあの部屋にはほとんどありませんし──そもそも資料にはすべてICタグが付いていますから、持ち出しの処理をせずに部屋を出ればすぐにわかります」
盗みを疑われているわけではないと知って、ひとまず安心する。
「ですが──」
先生が再び口を開いた。
「──小柳さんが資料を借りたのは最初の数回だけで、それ以降は入室記録のみ、資料の貸し出しや返却の処理は行われていない、という話でしたが」
うかつだった、と認めざるを得ない。
人に出会わなくても、機械は見ていたのだ。
「はい……」
とにかく返事をしなければ、と私は口を開いた。
が、後が続かない。私は必死で頭を回転させる。
「あの、探し物を……してました」
水城先生は黙って先を促す。
「二回目に行ったときに、ピアスを落としてしまって」
私はそう言葉を続けた。
驚いたことに、「探し物」と口にした途端、瞬く間にに頭の中でストーリーが組み上がったのだ。
「心当たりがあるのが書庫しかなくて。それで、毎日探しにいってました」
もちろん嘘だ。
そもそも私はピアスをつけたりはしない──穴も開いていないのだから。
水城先生はおや、という顔をした。
私の軽く倍くらいの年数は生きてきた「いい大人」だ。私の言うことをまるっきり信じるわけではないと思う。
でも嘘だと断定することもできないだろう。第三書庫の中に、防犯カメラの類はない。
「……そうですか」
彼はつぶやくように言った。
「でももう、用がないときには行きません。これだけ探して見つからなかったので……諦めます」
私は話を切り上げにかかった。
逃げ口上のつもりではなく、実際にもうあの書庫にはあまり近づきたくない気分になってきていた。
こんな面倒な疑いをかけられてまで誰かに執着するのも変だと思う。
(──え?)
ちょっと待って。何かがおかしい。
「──でも最近の入室記録は私だけじゃないですよね?」
そう尋ねながら、鼓動が速くなっていくのを感じた。
先生は怪訝な顔をしている。
「最近──というか少なくとも今月は、小柳さんの入室記録しかなかったということでしたよ。だから事務の方が心配して私に」
そんなはずはない。
だとしたらあの彼は一体何者なのか。
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