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第1話 危険な香り
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(あっ、これってかなり……危険、なのでは)
そう思った時にはすでに、私は彼の腕の中だった。
苦しくはない。抱きすくめられているのだけれど、乱暴さは感じなかった──むしろ優しい。
だから私はうっかり思ってしまったのだ。
少しくらいなら夢を見てもいいかな、と。彼の魔法にかかってみてもいいかな、と。
と、背中に回された腕が緩んだ。
身動きが取れるようになったけれど、私は意識してうつむいたままでいる。
ここでつい彼の顔を見上げてしまったりなんかしたら、それこそ彼の思うつぼだ。
私にはなぜか、どうしようもなくわかってしまったのだった──彼が今、何を望んでいるのかが。
「──ねえ。顔、上げて?」
頭のすぐ上から囁き声が降ってきた。
今なら彼を突き飛ばしてそのまま逃げ出すことができる。
もしそうしても、彼はきっと追いかけてはこない。
まだ何も起こっていない今なら逃げられる。
それなのに私は、彼の言葉に従う方を選んだ。
思えばもうとっくに、私は冒されてしまっていたのかもしれない──彼がかける魔法に。
私は彼の腕に抱かれたまま、ゆっくりと顔を上げた。
彼の、暗い影を湛えた瞳がこちらを見ている。
焦りも苛立ちも、欲情も激情も感じない。吸い込まれそうな深みもない。
でも今、ほんの一瞬だったけれど、その暗い瞳が揺れたのを私は見てしまった。
だから彼がまた言葉を発しようとしたとき、それを制するように静かに目を閉じたのだ。
キスくらい、と思っていた。
私だって、過去には交際していた人くらいいるし、時にはそうじゃない人と唇を重ねたことだってあった。そんなものだと思う。
ファーストキスに至っては、思い出せないくらい遠く曖昧な出来事だ。
だからキスくらい、と思っていた。なのに──…。
「っ……!」
唇が触れた瞬間、捉えようのない不思議な感覚が全身を駆け抜けた。
どう表現すればいいのだろう。心もとない快感──そう、全身を真綿でくるまれたような心地だった。
優しい。優しすぎて──怖い。
一瞬、──時間にしてほんの数秒の出来事だった。でもそれで十分だ。
私は胸のどこか奥深く、そこで大きくバクンと跳ねた心臓が、音もなく溶け出していくのを感じた。
そう、まるで熱に曝されたチョコレートのように──…。
彼は唇を離すと、そのまま私を抱きしめた。
さきほどとは一転して、余裕のなさを感じさせる、強い力だった。
私はされるがままになっている──どうしていいかわからなかった。
彼はその腕にしっかりと力を入れたまま、静かにつぶやいた。
「──好きだ」
私が何も言えずにいると、彼は唐突に身体を離した。そしてそのまま出口へと歩いてゆく。
一度もこちらを振り返ることはなかった。
(しばらくここは避けた方がいいか……)
何とか見つけ出した古びたハードカバー二冊を抱え、私は第三書庫を出た。
ピッとオートロックの施錠音がしたのを確認し、歩き出す。
第三書庫は分野に関わらず最も閲覧頻度が低い資料を保管しておく場所だ。だからめったに人と出くわすことなどない。
私自身、大学院生になるまでは存在を知らなかったくらいだ。
だからしばらく避けたって、問題はないはずだった。
そう思った時にはすでに、私は彼の腕の中だった。
苦しくはない。抱きすくめられているのだけれど、乱暴さは感じなかった──むしろ優しい。
だから私はうっかり思ってしまったのだ。
少しくらいなら夢を見てもいいかな、と。彼の魔法にかかってみてもいいかな、と。
と、背中に回された腕が緩んだ。
身動きが取れるようになったけれど、私は意識してうつむいたままでいる。
ここでつい彼の顔を見上げてしまったりなんかしたら、それこそ彼の思うつぼだ。
私にはなぜか、どうしようもなくわかってしまったのだった──彼が今、何を望んでいるのかが。
「──ねえ。顔、上げて?」
頭のすぐ上から囁き声が降ってきた。
今なら彼を突き飛ばしてそのまま逃げ出すことができる。
もしそうしても、彼はきっと追いかけてはこない。
まだ何も起こっていない今なら逃げられる。
それなのに私は、彼の言葉に従う方を選んだ。
思えばもうとっくに、私は冒されてしまっていたのかもしれない──彼がかける魔法に。
私は彼の腕に抱かれたまま、ゆっくりと顔を上げた。
彼の、暗い影を湛えた瞳がこちらを見ている。
焦りも苛立ちも、欲情も激情も感じない。吸い込まれそうな深みもない。
でも今、ほんの一瞬だったけれど、その暗い瞳が揺れたのを私は見てしまった。
だから彼がまた言葉を発しようとしたとき、それを制するように静かに目を閉じたのだ。
キスくらい、と思っていた。
私だって、過去には交際していた人くらいいるし、時にはそうじゃない人と唇を重ねたことだってあった。そんなものだと思う。
ファーストキスに至っては、思い出せないくらい遠く曖昧な出来事だ。
だからキスくらい、と思っていた。なのに──…。
「っ……!」
唇が触れた瞬間、捉えようのない不思議な感覚が全身を駆け抜けた。
どう表現すればいいのだろう。心もとない快感──そう、全身を真綿でくるまれたような心地だった。
優しい。優しすぎて──怖い。
一瞬、──時間にしてほんの数秒の出来事だった。でもそれで十分だ。
私は胸のどこか奥深く、そこで大きくバクンと跳ねた心臓が、音もなく溶け出していくのを感じた。
そう、まるで熱に曝されたチョコレートのように──…。
彼は唇を離すと、そのまま私を抱きしめた。
さきほどとは一転して、余裕のなさを感じさせる、強い力だった。
私はされるがままになっている──どうしていいかわからなかった。
彼はその腕にしっかりと力を入れたまま、静かにつぶやいた。
「──好きだ」
私が何も言えずにいると、彼は唐突に身体を離した。そしてそのまま出口へと歩いてゆく。
一度もこちらを振り返ることはなかった。
(しばらくここは避けた方がいいか……)
何とか見つけ出した古びたハードカバー二冊を抱え、私は第三書庫を出た。
ピッとオートロックの施錠音がしたのを確認し、歩き出す。
第三書庫は分野に関わらず最も閲覧頻度が低い資料を保管しておく場所だ。だからめったに人と出くわすことなどない。
私自身、大学院生になるまでは存在を知らなかったくらいだ。
だからしばらく避けたって、問題はないはずだった。
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