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第25話 悪夢の果て
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「明美」
男が呼んだのに応えて、女性が近づいてくる。すると男は彼女に私を任せて、佐伯先輩のいる方へと歩を進めた。
「ごめんね。大丈夫?」
女性が私の目の高さまでしゃがみ込んで囁く。私はそれに無言でうなずき、すぐに佐伯先輩の方に目を向けた。
「……お前さ、何なの? いっつも一人余裕こいて。本気になって、必死になってるこっちが馬鹿みたいなんだよ」
男の声はさっきよりも確実に悲痛な響きを帯びている。
「……別に、俺は余裕じゃないし、本気になるのも必死になるのも馬鹿じゃない」
佐伯先輩は声を荒げるでもなく、淡々としているようにも取れる声で言った。
たぶん、そういうところが「余裕」に見えるのだ、と私は心の中で思う。本人は無自覚なのかもしれないけど、あまりにも動じなさすぎるのだ。
「あの時だってそうだろ! 犯罪者になったっていうのに平気な顔して……俺に助けを求めもしないで……!」
こちらに背を向けているため、男がどんな表情なのかはわからない。でも佐伯先輩が不意を突かれたのはわかった。
(あの時って何? 犯罪者って何?)
この場にいる四人の中で、きっと私だけが何も知らない。何も知らず、何もできずにここにいる。
佐伯先輩が罪を犯すなんて、やっぱり私には思えない。でも、もしかしたら「火のない所に煙は立たぬ」なんてこともあるのだろうかと、二人の会話を聴いているとそんなふうに思えてしまう。
「……俺がお前に助けを求めないと決めるより前に、俺を助けないとお前が決めたんだろ」
今度は男が言葉を失う番だった。
「一階にも二階にも、ミューはいなかった」
(……ミュー? って何?)と思った瞬間、目の前の女性の肩がピクリと震えた。
つられて見てみれば、驚いたように両目を見開いて固まっている。明らかに様子がおかしい。小声で「大丈夫ですか?」と聞いてみたけれど、聞こえていないのか返事はなかった。
「……だからといって俺はお前を恨んだりしてないし、責めるつもりもない」
佐伯先輩はゆっくりと、でも淡々と話し続けている。
と、その瞬間、私はずっと肌にまとわりついていた違和感の正体に気づいた。
(佐伯先輩、この人に対してはずっと、自分のことを「俺」って呼んでるんだ……)
どういう関係であったにしろ、彼らは昔からの──少なくとも何かがあった時よりも前からの知り合いなのはわかる。そんな相手と会話するときの一人称が「俺」なら、きっと佐伯先輩の「素」はこっちなのだろう。
私は今、私の知らない佐伯先輩を見ている。
「……っ、なんでだよ! 責めろよ! 恨めよ! 俺に嵌められたって言いふらせよ!」
堪えきれなくなったように男が叫んだ。けれどそんな反応は想定内なのか、佐伯先輩は顔色一つ変えない。
「……それこそ、なんで? 俺はとも──友人を陥れるようなことはしないし、それに」
そこでいったん言葉を切り、佐伯先輩は左肩の虚空を見上げた。
「……どうせ、誰も信じてなんかくれない」
誰も、何も言わなかった。電車の音とか、車の音とか、そういう周囲の音も全部遠のいてしまったような気がして、なんだか息が苦しくなってくる。
そんな中、佐伯先輩が男に視線を戻した。
「でも、今日は違う」
どうしたのだろう、佐伯先輩の声に急に厳しさが宿る。
「二人が富永さんを連れ去った道には防犯カメラがある。彼女を人質に俺を呼び出したメッセージが残ってる。何より、富永さんという被害者がいる」
女性がそばではっと息をのむ気配がした。
「幸い、彼女は俺にまあまあ入れ込んでるみたいだし、頼めばちゃんと証言してくれると思うよ」
佐伯先輩は不自然に明るい声で言った。そこにまた、実の伴わない笑顔を張り付ける。
「……何が言いたい」
男が低い声で聞いた。間髪を入れずに佐伯先輩が答える。
「二度と関わるな。俺にも、まわりの人間にも」
「……っ」
男は佐伯先輩に背を向け、大股で車の方へと歩いて行った。女性はそれを目で追い、それから立ち上がって佐伯先輩の方を見た。
「和斗……」
(佐伯先輩を名前で……)
それは囁くような声だったけれど、佐伯先輩の耳にはちゃんと届いたようだ。佐伯先輩は少しだけ目を細める。
「……明美。君が何に手を貸そうと君の自由だ。でも無関係な妹さんを巻き込むのだけは、やめな」
「……!」
彼女は驚いて目を見開いたが、何も言わずに車に向かっていった。彼女が乗り込むと、車はヘッドライトをつけ、そのまま走り去っていった。
男が呼んだのに応えて、女性が近づいてくる。すると男は彼女に私を任せて、佐伯先輩のいる方へと歩を進めた。
「ごめんね。大丈夫?」
女性が私の目の高さまでしゃがみ込んで囁く。私はそれに無言でうなずき、すぐに佐伯先輩の方に目を向けた。
「……お前さ、何なの? いっつも一人余裕こいて。本気になって、必死になってるこっちが馬鹿みたいなんだよ」
男の声はさっきよりも確実に悲痛な響きを帯びている。
「……別に、俺は余裕じゃないし、本気になるのも必死になるのも馬鹿じゃない」
佐伯先輩は声を荒げるでもなく、淡々としているようにも取れる声で言った。
たぶん、そういうところが「余裕」に見えるのだ、と私は心の中で思う。本人は無自覚なのかもしれないけど、あまりにも動じなさすぎるのだ。
「あの時だってそうだろ! 犯罪者になったっていうのに平気な顔して……俺に助けを求めもしないで……!」
こちらに背を向けているため、男がどんな表情なのかはわからない。でも佐伯先輩が不意を突かれたのはわかった。
(あの時って何? 犯罪者って何?)
この場にいる四人の中で、きっと私だけが何も知らない。何も知らず、何もできずにここにいる。
佐伯先輩が罪を犯すなんて、やっぱり私には思えない。でも、もしかしたら「火のない所に煙は立たぬ」なんてこともあるのだろうかと、二人の会話を聴いているとそんなふうに思えてしまう。
「……俺がお前に助けを求めないと決めるより前に、俺を助けないとお前が決めたんだろ」
今度は男が言葉を失う番だった。
「一階にも二階にも、ミューはいなかった」
(……ミュー? って何?)と思った瞬間、目の前の女性の肩がピクリと震えた。
つられて見てみれば、驚いたように両目を見開いて固まっている。明らかに様子がおかしい。小声で「大丈夫ですか?」と聞いてみたけれど、聞こえていないのか返事はなかった。
「……だからといって俺はお前を恨んだりしてないし、責めるつもりもない」
佐伯先輩はゆっくりと、でも淡々と話し続けている。
と、その瞬間、私はずっと肌にまとわりついていた違和感の正体に気づいた。
(佐伯先輩、この人に対してはずっと、自分のことを「俺」って呼んでるんだ……)
どういう関係であったにしろ、彼らは昔からの──少なくとも何かがあった時よりも前からの知り合いなのはわかる。そんな相手と会話するときの一人称が「俺」なら、きっと佐伯先輩の「素」はこっちなのだろう。
私は今、私の知らない佐伯先輩を見ている。
「……っ、なんでだよ! 責めろよ! 恨めよ! 俺に嵌められたって言いふらせよ!」
堪えきれなくなったように男が叫んだ。けれどそんな反応は想定内なのか、佐伯先輩は顔色一つ変えない。
「……それこそ、なんで? 俺はとも──友人を陥れるようなことはしないし、それに」
そこでいったん言葉を切り、佐伯先輩は左肩の虚空を見上げた。
「……どうせ、誰も信じてなんかくれない」
誰も、何も言わなかった。電車の音とか、車の音とか、そういう周囲の音も全部遠のいてしまったような気がして、なんだか息が苦しくなってくる。
そんな中、佐伯先輩が男に視線を戻した。
「でも、今日は違う」
どうしたのだろう、佐伯先輩の声に急に厳しさが宿る。
「二人が富永さんを連れ去った道には防犯カメラがある。彼女を人質に俺を呼び出したメッセージが残ってる。何より、富永さんという被害者がいる」
女性がそばではっと息をのむ気配がした。
「幸い、彼女は俺にまあまあ入れ込んでるみたいだし、頼めばちゃんと証言してくれると思うよ」
佐伯先輩は不自然に明るい声で言った。そこにまた、実の伴わない笑顔を張り付ける。
「……何が言いたい」
男が低い声で聞いた。間髪を入れずに佐伯先輩が答える。
「二度と関わるな。俺にも、まわりの人間にも」
「……っ」
男は佐伯先輩に背を向け、大股で車の方へと歩いて行った。女性はそれを目で追い、それから立ち上がって佐伯先輩の方を見た。
「和斗……」
(佐伯先輩を名前で……)
それは囁くような声だったけれど、佐伯先輩の耳にはちゃんと届いたようだ。佐伯先輩は少しだけ目を細める。
「……明美。君が何に手を貸そうと君の自由だ。でも無関係な妹さんを巻き込むのだけは、やめな」
「……!」
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