記憶味屋

花結まる

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温かい肉そば

この味どこかで

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頭上でアラートが鳴り響き、急ブレーキがかかった。隣の乗客の肩が思いっきりぶつかる。

今年入ってから何回目だよ…

谷野 連は満員電車の中、吊り革にしがみつきながらそう思った。残業帰りの20時半。
連は既に20分は箱詰め状態だった。
日本人はスキンシップが苦手だ、とはよく言ったものである。

まだ夕飯食べてないや…でも作る気ないな…

連は都内の会社で財務を担当している。
入社して5年。中堅職員だ。
勘定に追われて、残業続き。その上、遅延。

本当ついてないな。

辛うじて垂れ下がる吊革の手は、今にもがくんっと落ちそうだった。
電車が再開して10分。やっと最寄駅に着いた。
静かな駅前には、数軒の飲み屋の灯り。
何度も行ったことがある店で新鮮味がなく、行きたい気分にならなかった。

もう帰って寝よう。

そう思った時だった。
連はふと、いつもの並びに、見たことない飲み屋があるのに気がついた。
まるで大きな大木の中に小さなお家があるような、温かな光が灯る、おしゃれな飲み屋だ。

新しくできたのかな。

初めて見たのに、なんだか懐かしい気持ちがして、連は吸い寄せられるように、その店に近づいた。
重くて厚い木の扉をそぉーっと開ける。

店内は思ったより非常に狭かった。
目の前に、深みのある大木のカウンターが2席だけ。
そのこじんまりとした薄暗い空間を、温かな光が包んでいる。
まるで秘密基地のようだ。

いらっしゃい。ご予約のお客様ですね。
お待ちしておりました。

カウンター奥から透き通る優しい声。
長い黒髪を一つ結びにした40歳くらいの女性がにっこり笑いかけている。

予約してないんです、と連は応える。
女性は、えぇ皆様そうおっしゃいます、と微笑みながら、こちらへどうぞ、と席へ案内した。
変だなとは思ったが、一度入ってしまったら引き返すのは失礼だろうと思い、連は右の一席に腰をかけた。
よいしょっと重いビジネスカバンを隣に置こうとすると、止められた。

申し訳ございません。そちらは予約席になります。

2席しかない店の1席を予約するなんて、よっぽど物好きな客か、味にこだわった隠れ名店かだ。
仕方ないので、背の高い木の椅子の背もたれにカバンの紐をかけて、連はようやく座れたことに安堵した。
木目がきれいなテーブルの触り心地が良い。
どうぞ、とお茶とおしぼりがカウンター台に置かれた。
自分の前に置こうと持ち上げると、じんわりと温かい。
ビールでも飲んで、なんかさくっと食べよう。
そう思ってテーブルを見渡すが、メニューがない。
そういえば、看板もない。
連は、内心、面倒くさいなと思いつつ、メニューありますか、と聞いた。

お客様への一品はご用意しております。

そう言って女性は、もうすぐできますから、とせっせと手を動かしている。
注文もしてないのに、メニューが決まっているなんて。
ここは一品勝負の店なのか、それともやはり名店で女性店主の日替わり創作料理とかなのか。
そんなことを考えていると、確かにすぐに料理が出てきた。
はい、お待たせしました、と出されたのは一杯の温かい肉そばだった。
豚肉がたっぷりで青ネギが散らされた一般的な肉そばだ。
連は、何か特別なものが出てくるのかもと期待していたので、少し残念な気持ちになった。

蕎麦屋だったんですね。

連が自分に言い聞かせるように話すと、女性は、いいえ、何でも作りますよ、と応えた。
じゃあ今日はそばの日なんですか、と連。

いいえ、毎日何でも作ります。あなただからこのお品なんです。

女性は、またにっこりと笑いかける。
連には訳がわからない。
なぜ自分だとこの蕎麦なのか。
疑問だらけだが、もう時間も遅いし、話す気力もない。

さっと食べて帰ろう。

連はつゆにたっぷりとつかった麺を、勢いよくすすった。

うまい。

どこにでもありそうな普通の味なのに、うまいと感じる。
そしてどことなく、懐かしいような、不思議な感覚が連を包んだ。

この味、どこかで…

そう思った瞬間、連の視界は真っ白になった。
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