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魔界監獄の掃除人

囚人の正体

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「囚人が自由に歩き回ってて、いいんすか?」
 ようやく静かになった玄関ホールにロセカの固い声が響く。
「良いわけないから帰したんです」
 スライム兵は至極うんざりといった様子でのっぺりとした顔をロセカに向ける。
 彼は目玉もないのに、振る舞いだけはヒトそのものであった。
「とにかく、貴方はただその辺の床をそれなりに綺麗にすることだけに集中してください。余計な詮索は無用です。あと、こちらが呼びに来るまで決して階段を上がらないように。いいですね?」
「っす……」
 矢継ぎ早に注文と警告を発するスライム兵に気圧されたロセカは消えゆくような返事しかできなかった。

 誰が上になんか行くか。
 スライム兵がどろどろの身体を滑らせながら階段を上って消えると、ロセカは言いつけ通り洗濯室に向かった。
 巨大な樽、洗濯板、貯水槽、弁のついた長細い鉄製のポンプが設置されており、便利なことに弁を押せば水がくみ上げられて貯水槽へと流れ込む仕組みになっていた。
 ロセカは部屋の隅に置かれていたバケツに水を汲み、石壁に立てかけられていた真新しいモップを手にする。
 まずは洗濯室の床をモップで拭くことにしたロセカだったが、床を擦っても大して汚れは落ちなかった。
 ロセカが汚れを落とすのに非力なのではない。
 まず、この部屋は汚れてすらいないのだ。
 ロセカはスライム兵が掃除はおざなりにしてもよいかのような口ぶりだったことを思い出す。
 一体なんなんだ、ここは。
 モップの柄を握り動かす腕が止まる。
 考えても無駄。
 ロセカは自分に言い聞かせるように小さくかぶりを振ると、今まで以上に意気込んでモップを動かし始めた。
 ここには知らなくていいことが盛りだくさんなんだろう。

 ⚔

 上階。書斎や寝室をぶち抜いて作られた特別製の牢屋のなかで、巨体の囚人が寝台に腰かけている。
 取り払われた壁の代わりに鉄格子が嵌められているが、一部は強い力で曲げられたのか、大きくたわんで丸い穴を作っていた。
 囚人の目の前に、辛うじてヒトらしき形を維持しているスライム兵が立ちはだかるも、屈強な魔物囚人の前では恐ろしくもなんともなかった。
「ペイシオン様、なぜ約束をお守りいただけないのですか」
 握りつぶされればそれまでのスライム兵だが、めげずに牢の主を叱責する。
 彼は肩書上看守であるため、ある程度囚人を留めておかねば粛清される身の上でもあった。
「ムググ」
「都合の悪い時だけ猿轡の存在を主張するのはやめてください。念話でもなんでもできるでしょう」
「フン」
「拗ねないでください。お幾つですか」
 下級魔物スライム兵風情にここまで言われ、流石の元・魔界貴族ペイシオン公も話さないわけにはいかなかった。
 ──何をそう憤っておるのだ。私がこれまでいくつの鉄格子を捻じ曲げてきたのか、知らぬわけでもあるまい。
「威張らないでください。今日に限ってはあまり派手なことをされませんよう。監視の目も厳しくなるのはおわかりでしょう。それなのにどうして」
 ──五十年ぶりの生きたニンゲンだからな。どのような姿形か、知りたくなるのも当然だろう。
「だからといって牢破りはおやめください。修理依頼をするこちらの身にもなってください」
 ──いつものように、分裂すれば済む話だろう。窓口係用の身体を用意しておくのだな。
「……。もういいです。重ねて申し上げますが、本日は五十年に一度の慰労の日。長い長い刑期のなかで唯一娯楽を享受されることを許された日です。ですが、何をしてもいいわけではありません。度が過ぎれば、今度こそ本当に指の一本も動かせないよう拘束されてしまいますよ」
 ──果たしてこの私にそのような罰を与えられる者が魔界に残っているかな?
 ズタ袋の中からくぐもった笑い声をあげる城主兼囚人を前に、スライム兵はぐにゃぐにゃと形を崩した。
 傲岸不遜なこの魔物の辞書には反省という文字は無いようだ。
 ──先ほどから慰労とは言うが、それならば手枷足枷覆面なにもかもを取り払うべきではないのか?
「そうしたらニンゲンに手を出すでしょう」
 ──無論。
「威張らないでください。淫魔と同じじゃないですか」
 ──何を申すか。竿の乾く暇のない浮気性と一緒にするな。私は五十年間溜まりに溜まったこの情熱を一晩かけてじっくり注ぎこむぞ。愛の重みが違う。
「ヤりたいだけなのは一緒でしょう。それは独りで処理してください。いいですかペイシオン様。おさわり厳禁です。ペイシオン様に許されているのは、地上の下等生物を観察することだけです。それ以上のことはが許しません。自由と娯楽の没収。それがあなた様への刑罰であることをお忘れなきよう」

 ⚔
 
 この自由で不自由な囚人の身元について知る者は少ない。
 この地下魔界にとっても、地上の遥か上にある天精霊界にとっても、彼はの厄介な出自をしている。
 遥か昔のことだが、彼は全ての怪物の生みの親とも称される魔界の大蛇女王の胎から生まれた。
 その種を蒔いたのは時を司るといわれる天の大精霊であるという。
 なにがどうしてそうなったのかは、本棚がひとつ埋まるほどのサーガになるため割愛するが、とにかく彼は両界の高位に属する者の子息でありながら、決して公に認められない立場にあった。
 女王は彼を適当な魔界公爵家に引き取らせることにした。
 そうしてペイシオンは魔王の臣下としてその一生を閉じてくれと多くの魔物・精霊が願っていた。
 しかし願い虚しく、彼は親譲りの莫大な能力に目覚め、魔界でクーデターを引き起こして魔王の冠をいただくまであと一歩のところまで肉薄した。
 彼の願いはただ一つ。
 地下・地上・天上すべてを手に入れ、他種族すべての上に君臨すること。
 中でも大した力もないのにあくせく生き急いでいるか弱きニンゲンは、彼のお気に入り種族だった。
 彼が魔王となった暁にはニンゲン愛玩飼育ランドを建てると公言していたほどだ。
 それも今となっては全てが泡沫の夢と消えたが。
 あんな者を地下から出してはいけない。
 危機を察した天精霊もこっそり魔界側へ協力し、ついに魔公ペイシオンは反逆者として投獄されるまでに至ったのである。
 彼らがペイシオンを生かしているのは、死霊となるとまた厄介そうだからである。
 半永久的に虚無を与え、たまにささやかな欲求を叶えることによって何とか鎖でつないでいるのである。
 
 ⚔

 スライム兵の長い説教を右から左へ聞き流したペイシオンは、いかにも億劫そうに緩慢な仕草で鉄格子越しに窓の向こうへ眼をやる。
 ──あと少しすれば掃除も終わるか。そろそろ湯を沸かしてやれ。拭くものも忘れるなよ。
「……承知いたしました」
 スライム兵は渋々引きさがり、ペイシオンがたわませた鉄柵の間をぬるりと通り抜けて廊下へと消える。
 ペイシオンは先ほどちらりと見たニンゲンの若造の顔を思い浮かべながら、鼻歌を歌い始めた。

 ⚔

 ロセカは依頼の通り、洗濯室、玄関ホール、物置とモップでの拭き掃除を進めていった。
 さすがに薄暗い物置は埃っぽく薄汚れていたが、他はロセカが掃除しようがしまいがあまり変わり映えしない程度の汚れしかない。
 まるでつい昨日城内にある物という物を全て引っぺがして夜逃げしたようにも見える。
 見てくれは厳ついが中身はがらんどうな様子がロセカにはどうも気味が悪く、あまり真剣にやらなくていいと仄めかされている掃除にも力が入った。
 ちんたらしてると余計なこと考えるし。
 それにロセカにとってこの監獄城は大きすぎる。手をぬきすぎることはサボるのと同義でもあった。
 
 ようやく広い玄関ホールを拭き終え、残りは朝食室だけとなった。
 予想通りこちらの中身も淋しいもので、年季の入ったダイニングテーブルと巨大な椅子が並べられているだけだった。
 最低限の手入れはされているが、食事の間として使われた形跡が全くない。
 ロセカは難しい顔をしながらも、適度にテーブルの下へモップを差し入れて細かな埃を拭っていった。

 ただの掃除だが、面積が面積なだけにロセカの身体にもそれなりの疲労が蓄積する。
 指定の場所を一通り掃除したロセカがうっすらと額に浮いた汗を手の甲で拭うと、ふいに背後から声をかけられた。
「ご苦労様でした」
「うおっ!?」
 音もなく表れたスライム兵に驚いたロセカは、片手に握っていたモップを放り出しそうになる。
「綺麗にしていただきありがとうございます。お疲れでしょう。上階に浴場がありますから、熱い湯に浸かって汗を流していってください」
「いやーなんつうか、悪いっすから、もう帰」
「いいえ」
「は?」
「上階に浴場がありますから、熱い湯に浸かって汗を流していってください」
「あの」
「上階に浴場がありますから、熱い湯に浸かって汗を流していってください」
「ちょ」
「上階に浴場がありますから、熱い湯に浸かって汗を流していってください」
「ひぃ」
 同じ言葉しか繰り返さないスライム兵にロセカは恐怖で縮み上がった。
 気づけばロセカの足元にスライムの粘液が伸びている。
 もしロセカが逃げ出そうとすれば、きっと丸のみにされて引きずられるのだろう。
 掃除のためだけに来たロセカは帯刀しておらず、また、今は魔物と戦えるほど具合は良くなかった。
「上階に浴場がありますから──」
「わかったわかったわかった! 入ればいいんだろ! 入れば!」
 取り乱し、なけなしの敬いの姿勢も消え失せたロセカは、スライム兵の顔らしき部分に向かって大声をあげる。
 すると、スライム兵はようやくニンマリと笑って踵を返した。
「では参りましょう。ついてきてください」
「あのさぁ、その、さっきのデカいやつ来ない? 俺殺されたりしない?」
「……。ご安心ください。彼は貴方に指一本触れられませんから」
「でもさっき」
「ご安心ください。彼は貴方に指一本触れられませんから」
 だめだ、会話になんねぇ。っつうか、もう俺とまともに話す気ねーなコイツ。
 まるで己が囚人になったような気持ちで、ロセカは先を行くスライム兵の身体を睨みつけながら大股で階段を上っていった。

 つづく
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