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【は】人間を丸呑みしたいらしい蛇神×一般会社員(後)
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「地元のもんだよ」
初めて会ったはずなのに、見知らぬ大男は気安い調子で言葉を返してきた。
「外の人が運び手になったって聞いて、心配で追いかけて来たんだ」
「それは、どうも……」
おかしい。
陽太は男の顔を仰ぎ見ながら、背中に一つ汗が流れるのを感じた。
今まで歩いてきたせいで身体は若干汗ばみつつあったが、それとは別の類のものだった。
なぜいきなり現れたのか。いつ自分の姿を捉えたのか。すぐに声をかけてくれてもいいんじゃないか。
陽太の脳内に次々と疑問が沸き上がるが、舌は痺れてもつれ、思ったように言葉が出てこない。
キャップの鍔が作る薄暗い影の中にある男の眼は涼やかだが、その奥に有無を言わせないような強い力が宿っていた。
「ここ、あまりニンゲンが手入れに来ないから、ぼろぼろなんだよ。危ないかな、と思ってさ」
確かに。
陽太も老朽化した木道に足を止めたほどだ。
「それに酒を担いでいくのも億劫だろうし、鞄、持ってあげるよ」
男は陽太が背負うバックパックのショルダーストラップに手を伸ばす。
それに応じるように、陽太の右手が荷物を降ろすかのように左肩にかけられた。
だがその時、半ば呆然とする陽太の頭にある言葉が甦る。
『誰かに代わってもらうとバチが当たって、神様がへそ曲げて雨降らせてくんねえって──』
陽太の手が咄嗟に降ろしかけていた左のショルダーストラップを強く掴んだ。
「いや大丈夫っす!」
先輩の言葉にはすぐ返事をすること。
小中高の野球部生活で身に着けさせられたものが、今になって出て来たようだ。
この初対面の男は明らかに陽太より五つは若く見えたが、何故だか逆らってはいけないような気にさせる雰囲気を身に纏っていた。
「遠慮しなくていいよ」
ぱきり、と小枝か朽ちた木道の表面か、男の靴に踏まれた木片が音を立てる。
一歩踏み出した男に陽太は大きく首を振った。
「代わってもらうとバチ当たるって聞いてるんで、そのっ」
陽太は神罰を本気で信じるような性質ではなかったが、言われたことは守らなくてはならないと思い込む生真面目さも持ち合わせている。
それに、突然声をかけてきた人物に荷物を渡すほど迂闊でもない。
男はというと、陽太の言葉に目を丸くして幾度か瞬きをして動きを止めていた。
この男にとっては自分の言う事を拒否されることは稀であった。
その上、陽太の言葉は長年不思議に思っていたことへの答えでもあり、彼はほんの僅かな瞬間、驚き固まってしまった。
そしてそれがすぐに溶けると、いやあ参った、と眉間を人差し指で擦りながら可笑しそうに忍び笑いを漏らした。
突然笑いが堪えきれなくなった様子の男を見て、陽太の身体から緊張と強張りが抜けていく。
「バチ当たりかあ。いつからそんな変なしきたりが出来たんだろうね。いっぱい来てくれた方が愉しいんだけどなあ」
男は呆れ笑いを浮かべたまま、案内するから一緒に行こうと陽太の肩を軽く叩いた。
そうして陽太は頭に大量のクエスチョンマークを詰め込みながらも、何も背負っていない男の背を追いかけることになる。
陽太が行動を決める前に、既に足は動いていたのだった。
トンネルのように鬱蒼と茂る木々と、その隙間から見える水を湛えた湿原を横目に、男の引率で陽太は前へ前へと進んでいった。幾度か足元に注意するように言われ、よく見ると腐った木道が崩れ落ちそうになっていたり、折れた木片が飛び出ていたりと、およそ気楽にトレッキングを行えるような状態ではなかった。
男はこの古ぼけた道の何もかもを知り尽くしているといった様子で陽太を淀みなくナビゲートしている。
陽太は道すがら男が何者なのか質問をしてみたが、分かったことと言えばヤトという苗字であること、地元で水源管理の仕事に就いているということくらいであった。
ヤトとはどういう字を書くのか、水道局にでも勤めているのか、そう問おうと思った陽太だったが、何となくこの男に根掘り葉掘りものを尋ねる事が憚られた。
聞いたら教えてくれるだろうが、知ったら知ったで厄介なことが起こりそうだと、悪い予兆がずんと鳩尾を押す。
ヤトは疲れ知らずなのか、大股の早足でずんずんと進んでいく。
気づけば陽太の額やもみあげには、じんわりと汗の玉が浮き上がっていた。
後ろに目でもついているのか、ヤトは振り返らないまま歩調を緩め「少し疲れてきたようだね」と陽太に向けて言葉をかけた。
「え? あ、はい……」
「こっちもこの脚で歩くのは久しぶりでね、何だか億劫になってきたな」
ヤトが完全に足を止める。そしてくるりと陽太の方へ向き直った。
一体何なのか。
来た道を戻るかのように振り返ったヤトに、陽太はどうしていいか分からない。
言葉を濁しながらヤトの顔を見上げる。すると、ヤトは流れるような動作で陽太の額に滲み出た汗を片手で拭った。
初対面の男に頭を触らせるようなことは、普段なら絶対にしないだろう。腕が伸びて来た時点で飛びのいている。
だが、陽太は動けない。
ヤトに真正面から見つめられると、身体は錆びたブリキ人形のように固まり、身動ぎ程度にしか動かせなくなる。
じんわりと汗ばんだ身体の熱と妙な息苦しさのせいでわずかに荒くなる呼吸だけが、陽太が生物であることを証明してくれた。
「近道、しようか」
はいともいいえとも答える前に、陽太の眼がヤトの大きな手で覆われる。
柔らかな暗闇がやってきたその瞬間、陽太は真っ暗な中で自分の身体が宙に浮き、そのまま頭から真っ逆さまに落ちていく感覚を味わっていた。
ʘ
──草の匂いがする。
気づけば、陽太は短い芝生の上に大の字になって寝転がっていた。
陽太は巨大なコンサートホールかと思うほどの広さを持った岩のドーム内で伸びていたようだ。
見上げた先には、天井がぽっかりと丸く切り抜かれており、淡い雲の流れる春の空が見えている。
小人になってフジツボの中に落ちたらこんな景色が見られるのか。
いや、湿り気はおろか潮の匂いもない。まったく摩訶不思議な空間であった。
そして上ばかり見ていた陽太は、自分の頭上に鎮座するそれに、全く気がついていなかった。
それは焦れたのか、つん、とそれなりに強い力で陽太の脳天を小突く。
突然頭を押された陽太は驚き反射的に体を起こす。
へっぴり腰のまま振り返ってみると、そこには巨大な白蛇が蜷局を巻いていた。
「あっ!? うわっ!」
二階建ての家なら丸々締め付けて壊せそうなほどの大蛇が、鎌首をもたげて陽太を見下ろしている。
驚きたたらを踏んだ陽太は、そのままどすりと盛大に尻もちをついた。
立ち上がろうとするが、尻も足の裏も地面に縫い付けられたようになり、動いてくれない。
そして蛇の頭がするりと陽太のもとへ伸ばされる。
時折舌を覗かせながらゆっくりと迫る大蛇に、怯えた陽太はついに目を開けていられなくなった。
「……そこまで怖がらなくてもいいだろう。連れ歩いた仲なのに」
人の声だ。
先ほどまで聞いていた、低い男の声。
陽太が恐る恐る目を開いてみると、大蛇は伏せながら飼い主の様子を伺う大型犬のように顎を柔らかい草の上に置いてみせた。
「お勤めご苦労。君が寝てる間に全部呑んでしまったよ。起きたら一緒にやろうと思っていたが、私には足りなすぎるな」
大蛇はずるりと尾を高く上げる。その先にはバックパックの中に入れていたはずの一升瓶が巻き取られている。
よく見れば、尾のすぐ下にはバックパックが先ほどの陽太のように口を開けて伸びていた。
「これは、ここは……その……」
目の前で起こること全てが理解不能だ。
これはもしかしたら木道から転げ落ち、頭を打って今わの際に見ている夢なのかもしれない。
陶磁器のような滑らかな鱗を持った化物じみた白蛇を前に、陽太の魂は口から出て逝きそうだった。
そんな様子のニンゲンを、大蛇は無機質で無感動な顔のまま見つめている。
「ここか? 岩戸の中だよ。私の家の庭、と言ってもいいな」
「庭……」
「ニンゲンを招いたのは久しぶりだ。まさかこんなにイイ男子が来てくれるとは。迎えに出た甲斐があったというものだ」
殆ど表情というものを見せない大蛇だが、その言葉には何か粘ついた熱が籠っている。
そして大蛇は無遠慮に陽太の腹へ鼻先を押し付けた。
「ひっ!?」
未だ身体の痺れている陽太は、短く裏返った悲鳴を上げ、わずかに顎を反らすことしか出来ない。
晒された喉ぼとけを、二股に分かれた赤い舌がちろりと舐め上げた。
冷たく湿ったものが喉元を這うその感触に、陽太は肌を粟立てて震えた。
咄嗟に口を引き結び、眉をしかめたその表情は泣き出す前にも似ている。
まだ乾ききらない汗の残る身体に何かをしきりに耐える男の顔は、睦みあっているときを思い起こさせるものであり、
大いに蛇神を昂らせた。
そして長らく封印していた悪い癖を、今日は治めない事にも決めてしまった。
大蛇は大きな頭を陽太の上から退かすと、再度頭をもたげてへたり込むニンゲンを見下ろした。
今度は何をされるのか。陽太は辛うじて動く顔を上げ、悲愴な面持ちで舌をちらつかせる大蛇を見上げる。
気のせいか、あり得ないだろうが大蛇の眼がにんまりと細められたように見えた。
……笑った?
陽太がそう感じた次の瞬間、大蛇の頭は大口を開けて陽太へ躍りかかった。
それはほんの瞬きするほどに短い時間で起きたことだ。
けた外れに広がる顎骨が人など容易に呑み込めるほどの大穴を作り出す。
新鮮な鴇色をした肉の筒と、湾曲した牙が陽太の視界いっぱいに広がる。
だが、それが何かはっきりと認識する前に、陽太は頭から丸呑みにされていた。
「うう゛っ!」
それは柔らかな地獄だった。
大蛇の喉元あたりまで呑み込まれた陽太は、みっしりとした蛇の筋肉に全身を締め付けられている。
圧殺するほどの力は入れられてはいないが、満足に身動きをとることができない。
大蛇の咥内はまさに生きる拘束具であり、ねっとりと湿った肉壁がぎゅっぎゅっと陽太の全身をねぶるように吸引する。
すでに肌も髪もじっとりと濡れており、水分を吸ったフリースがぴったりと身体に貼りつき、さらに陽太の身体をぐっしょりと湿らせていった。
真っ暗闇のなか、肉の枷の中で陽太は必死に身体を揺する。
微々たる抵抗だけが呑まれた獲物に許された唯一の行動だ。
しかしそれも、もごもごと己の中で蠢くか弱い振動として、蛇神を悦ばせるだけだ。
大蛇は哀れな供物が肉の壁に頬を擦りつけながら涙目であがいている姿を想像した大蛇は、色々なものが熱く猛ってくるのを感じ、どうにも堪らない気持ちになっていた。
「助けっ………」
陽太は何とか咥内から這い出ようと、肘や膝を曲げ、少しでも今いる空間を広げようとした。
その度にぎゅっと喉元が閉まり、胸板も臀部も肉の壁に挟まれて絞られ続けている。
「出し、てっ、くださいぃっ!」
今出せる最大限の声量で、自分を呑み込む大蛇へと呼びかける。
喰われたくない。死にたくない。
無我夢中で叫び暴れ続ける陽太の願いは、驚くほど早く聞き入れられた。
吐き出された陽太の背中が、どさりと柔らかな草の上に落ちた。
大股開きのあられもない恰好のまま、粘液濡れの陽太がはぁはぁと荒い呼吸を繰り返す。
不可思議な痺れが残る四肢が、びく、びく、と痙攣を繰り返している。
散々陽太をねぶっていた大蛇はというと、ひっくり返された蛙のようになった陽太の顔へ鼻先を近づけ、そのまま粘液
を救い上げるように頬を擦っている。
「や、やめっ……」
「食んでみただけなのに。遊びだよ、そう怯えなくていいじゃないか。本当に喰ったりはしないさ」
笑いを含んだくぐもった声が、陽太の耳朶を震わせる。
「それにしてもいい恰好だなあ。……喉ごしも良くないし、その邪魔なのを脱いでみないか」
大蛇はついに劣情を隠すことを止めたようだ。
大きく首を振る陽太の上に顎を乗せ、いいじゃないかちょっとくらい、ちゃんと気持ち良くするからと大蛇が追いすがる。
「もう、勘弁してくださいっ!」
空洞内に陽太の大声が響き渡る。
そんなものは意にも介さない大蛇であったが、続けて岩を打つ落雷の轟音には、さすがに動きを止めるしかなかった。
ʘ
現世の一つか二つ上層にある、ヒトの知りえぬ領域のひとつ、果てしなく凪いだ水面が広がるその空間には、鮫の牙のような大岩が宙に向かって伸びている。
そこには筋肉質な若い男の姿をとったヤトが縄によって大岩に縛り付けられていた。
罰として下穿き一枚の殆ど裸の姿で拘束されているヤトは、憮然としながら足元にいる兄弟へと声をかけた。
「兄上は食べてしまいたいほど可愛いというものが分からんのですか」
「分からんな」
水黽のごとく水面の上に立つ者が応える。
その者もまたニンゲンの姿を取ってはいるが、烏帽子に白い浄衣といった神社の神職さながらの装いをしている。
ヤトよりは色白だが、骨太で分厚い身体と顔つきはそっくりの男であった。
その男が今、笏を握りしめながら無様な恰好の弟を睨み上げていた。
「ニンゲンに手を出すなとあれほど言っていただろうが。お前の行動は蛇神の評判を落としかねんと前からだな」
「そっちだって子供の夢に出て人気取りしてるくせに……」
「今なんと言った? もう一回言ってみろ!」
「私は大人にしか興味ありません。兄上とは違うんです」
「貴様、俺を何だと思っている! 俺は子供らを丸呑みしたりせんわ!」
大声で罵り合う男二人の後ろに、いかにも怠そうに横たわる数匹の大蛇の姿があった。
彼らは長兄と次兄の酷くみっともないやりとりに辟易していたが、うっかり口を挟むと怒りの矛先がこちらに向かうので、次兄への沙汰が決まり次第とっとと帰ろうと考えていた。
ʘ
陽太は気づくと、立ち入り禁止の看板の前に立っていた。
まるで時が戻ったかのように、柔らかな陽光と乾いた服の感触が心地いい。
そうだ。ここを潜って御神酒を届けなければ──。
陽太がバックパックを背負い直すと、いやに軽い。
何やら言い知れぬ不安が胸の中に広がり、陽太はバックパックを下ろして中を確認することにした。
ない。
酒瓶がない。
今まで背負って来たものの中から忽然と物が消えるなんてありえない。
バックパックのなかにぽっかりと開いた隙間を見つめ、陽太が只々呆然としていると、突然背後に何者かの気配を感じた。
振り返ろうと思うが、強力な磁石に引き寄せられた砂鉄の如く、身体は全く動かなかった。
その者は陽太の背中に近づき、身体を寄せて耳打ちをする。眼の端に白い布がちらついた。
「何のことか分からんだろうが、愚弟が迷惑をかけたな。酒は受け取った。疾く去るがよい」
どこかで聞いた、誰かに似た声だ。
「ハイ」
じんじんと脳髄が痺れる感覚を纏ったまま、陽太は不出来なロボットのように来た道を引き返してゆく。
また来い、黙ってろ、どうにも遠くで言い争っている男達の声が聞こえたような気がする。
空耳だろう。
陽太は軽くなった荷物を背負い直し、ゆっくりと木道を踏みしめていった。
【は】食んでみただけなのに 終
初めて会ったはずなのに、見知らぬ大男は気安い調子で言葉を返してきた。
「外の人が運び手になったって聞いて、心配で追いかけて来たんだ」
「それは、どうも……」
おかしい。
陽太は男の顔を仰ぎ見ながら、背中に一つ汗が流れるのを感じた。
今まで歩いてきたせいで身体は若干汗ばみつつあったが、それとは別の類のものだった。
なぜいきなり現れたのか。いつ自分の姿を捉えたのか。すぐに声をかけてくれてもいいんじゃないか。
陽太の脳内に次々と疑問が沸き上がるが、舌は痺れてもつれ、思ったように言葉が出てこない。
キャップの鍔が作る薄暗い影の中にある男の眼は涼やかだが、その奥に有無を言わせないような強い力が宿っていた。
「ここ、あまりニンゲンが手入れに来ないから、ぼろぼろなんだよ。危ないかな、と思ってさ」
確かに。
陽太も老朽化した木道に足を止めたほどだ。
「それに酒を担いでいくのも億劫だろうし、鞄、持ってあげるよ」
男は陽太が背負うバックパックのショルダーストラップに手を伸ばす。
それに応じるように、陽太の右手が荷物を降ろすかのように左肩にかけられた。
だがその時、半ば呆然とする陽太の頭にある言葉が甦る。
『誰かに代わってもらうとバチが当たって、神様がへそ曲げて雨降らせてくんねえって──』
陽太の手が咄嗟に降ろしかけていた左のショルダーストラップを強く掴んだ。
「いや大丈夫っす!」
先輩の言葉にはすぐ返事をすること。
小中高の野球部生活で身に着けさせられたものが、今になって出て来たようだ。
この初対面の男は明らかに陽太より五つは若く見えたが、何故だか逆らってはいけないような気にさせる雰囲気を身に纏っていた。
「遠慮しなくていいよ」
ぱきり、と小枝か朽ちた木道の表面か、男の靴に踏まれた木片が音を立てる。
一歩踏み出した男に陽太は大きく首を振った。
「代わってもらうとバチ当たるって聞いてるんで、そのっ」
陽太は神罰を本気で信じるような性質ではなかったが、言われたことは守らなくてはならないと思い込む生真面目さも持ち合わせている。
それに、突然声をかけてきた人物に荷物を渡すほど迂闊でもない。
男はというと、陽太の言葉に目を丸くして幾度か瞬きをして動きを止めていた。
この男にとっては自分の言う事を拒否されることは稀であった。
その上、陽太の言葉は長年不思議に思っていたことへの答えでもあり、彼はほんの僅かな瞬間、驚き固まってしまった。
そしてそれがすぐに溶けると、いやあ参った、と眉間を人差し指で擦りながら可笑しそうに忍び笑いを漏らした。
突然笑いが堪えきれなくなった様子の男を見て、陽太の身体から緊張と強張りが抜けていく。
「バチ当たりかあ。いつからそんな変なしきたりが出来たんだろうね。いっぱい来てくれた方が愉しいんだけどなあ」
男は呆れ笑いを浮かべたまま、案内するから一緒に行こうと陽太の肩を軽く叩いた。
そうして陽太は頭に大量のクエスチョンマークを詰め込みながらも、何も背負っていない男の背を追いかけることになる。
陽太が行動を決める前に、既に足は動いていたのだった。
トンネルのように鬱蒼と茂る木々と、その隙間から見える水を湛えた湿原を横目に、男の引率で陽太は前へ前へと進んでいった。幾度か足元に注意するように言われ、よく見ると腐った木道が崩れ落ちそうになっていたり、折れた木片が飛び出ていたりと、およそ気楽にトレッキングを行えるような状態ではなかった。
男はこの古ぼけた道の何もかもを知り尽くしているといった様子で陽太を淀みなくナビゲートしている。
陽太は道すがら男が何者なのか質問をしてみたが、分かったことと言えばヤトという苗字であること、地元で水源管理の仕事に就いているということくらいであった。
ヤトとはどういう字を書くのか、水道局にでも勤めているのか、そう問おうと思った陽太だったが、何となくこの男に根掘り葉掘りものを尋ねる事が憚られた。
聞いたら教えてくれるだろうが、知ったら知ったで厄介なことが起こりそうだと、悪い予兆がずんと鳩尾を押す。
ヤトは疲れ知らずなのか、大股の早足でずんずんと進んでいく。
気づけば陽太の額やもみあげには、じんわりと汗の玉が浮き上がっていた。
後ろに目でもついているのか、ヤトは振り返らないまま歩調を緩め「少し疲れてきたようだね」と陽太に向けて言葉をかけた。
「え? あ、はい……」
「こっちもこの脚で歩くのは久しぶりでね、何だか億劫になってきたな」
ヤトが完全に足を止める。そしてくるりと陽太の方へ向き直った。
一体何なのか。
来た道を戻るかのように振り返ったヤトに、陽太はどうしていいか分からない。
言葉を濁しながらヤトの顔を見上げる。すると、ヤトは流れるような動作で陽太の額に滲み出た汗を片手で拭った。
初対面の男に頭を触らせるようなことは、普段なら絶対にしないだろう。腕が伸びて来た時点で飛びのいている。
だが、陽太は動けない。
ヤトに真正面から見つめられると、身体は錆びたブリキ人形のように固まり、身動ぎ程度にしか動かせなくなる。
じんわりと汗ばんだ身体の熱と妙な息苦しさのせいでわずかに荒くなる呼吸だけが、陽太が生物であることを証明してくれた。
「近道、しようか」
はいともいいえとも答える前に、陽太の眼がヤトの大きな手で覆われる。
柔らかな暗闇がやってきたその瞬間、陽太は真っ暗な中で自分の身体が宙に浮き、そのまま頭から真っ逆さまに落ちていく感覚を味わっていた。
ʘ
──草の匂いがする。
気づけば、陽太は短い芝生の上に大の字になって寝転がっていた。
陽太は巨大なコンサートホールかと思うほどの広さを持った岩のドーム内で伸びていたようだ。
見上げた先には、天井がぽっかりと丸く切り抜かれており、淡い雲の流れる春の空が見えている。
小人になってフジツボの中に落ちたらこんな景色が見られるのか。
いや、湿り気はおろか潮の匂いもない。まったく摩訶不思議な空間であった。
そして上ばかり見ていた陽太は、自分の頭上に鎮座するそれに、全く気がついていなかった。
それは焦れたのか、つん、とそれなりに強い力で陽太の脳天を小突く。
突然頭を押された陽太は驚き反射的に体を起こす。
へっぴり腰のまま振り返ってみると、そこには巨大な白蛇が蜷局を巻いていた。
「あっ!? うわっ!」
二階建ての家なら丸々締め付けて壊せそうなほどの大蛇が、鎌首をもたげて陽太を見下ろしている。
驚きたたらを踏んだ陽太は、そのままどすりと盛大に尻もちをついた。
立ち上がろうとするが、尻も足の裏も地面に縫い付けられたようになり、動いてくれない。
そして蛇の頭がするりと陽太のもとへ伸ばされる。
時折舌を覗かせながらゆっくりと迫る大蛇に、怯えた陽太はついに目を開けていられなくなった。
「……そこまで怖がらなくてもいいだろう。連れ歩いた仲なのに」
人の声だ。
先ほどまで聞いていた、低い男の声。
陽太が恐る恐る目を開いてみると、大蛇は伏せながら飼い主の様子を伺う大型犬のように顎を柔らかい草の上に置いてみせた。
「お勤めご苦労。君が寝てる間に全部呑んでしまったよ。起きたら一緒にやろうと思っていたが、私には足りなすぎるな」
大蛇はずるりと尾を高く上げる。その先にはバックパックの中に入れていたはずの一升瓶が巻き取られている。
よく見れば、尾のすぐ下にはバックパックが先ほどの陽太のように口を開けて伸びていた。
「これは、ここは……その……」
目の前で起こること全てが理解不能だ。
これはもしかしたら木道から転げ落ち、頭を打って今わの際に見ている夢なのかもしれない。
陶磁器のような滑らかな鱗を持った化物じみた白蛇を前に、陽太の魂は口から出て逝きそうだった。
そんな様子のニンゲンを、大蛇は無機質で無感動な顔のまま見つめている。
「ここか? 岩戸の中だよ。私の家の庭、と言ってもいいな」
「庭……」
「ニンゲンを招いたのは久しぶりだ。まさかこんなにイイ男子が来てくれるとは。迎えに出た甲斐があったというものだ」
殆ど表情というものを見せない大蛇だが、その言葉には何か粘ついた熱が籠っている。
そして大蛇は無遠慮に陽太の腹へ鼻先を押し付けた。
「ひっ!?」
未だ身体の痺れている陽太は、短く裏返った悲鳴を上げ、わずかに顎を反らすことしか出来ない。
晒された喉ぼとけを、二股に分かれた赤い舌がちろりと舐め上げた。
冷たく湿ったものが喉元を這うその感触に、陽太は肌を粟立てて震えた。
咄嗟に口を引き結び、眉をしかめたその表情は泣き出す前にも似ている。
まだ乾ききらない汗の残る身体に何かをしきりに耐える男の顔は、睦みあっているときを思い起こさせるものであり、
大いに蛇神を昂らせた。
そして長らく封印していた悪い癖を、今日は治めない事にも決めてしまった。
大蛇は大きな頭を陽太の上から退かすと、再度頭をもたげてへたり込むニンゲンを見下ろした。
今度は何をされるのか。陽太は辛うじて動く顔を上げ、悲愴な面持ちで舌をちらつかせる大蛇を見上げる。
気のせいか、あり得ないだろうが大蛇の眼がにんまりと細められたように見えた。
……笑った?
陽太がそう感じた次の瞬間、大蛇の頭は大口を開けて陽太へ躍りかかった。
それはほんの瞬きするほどに短い時間で起きたことだ。
けた外れに広がる顎骨が人など容易に呑み込めるほどの大穴を作り出す。
新鮮な鴇色をした肉の筒と、湾曲した牙が陽太の視界いっぱいに広がる。
だが、それが何かはっきりと認識する前に、陽太は頭から丸呑みにされていた。
「うう゛っ!」
それは柔らかな地獄だった。
大蛇の喉元あたりまで呑み込まれた陽太は、みっしりとした蛇の筋肉に全身を締め付けられている。
圧殺するほどの力は入れられてはいないが、満足に身動きをとることができない。
大蛇の咥内はまさに生きる拘束具であり、ねっとりと湿った肉壁がぎゅっぎゅっと陽太の全身をねぶるように吸引する。
すでに肌も髪もじっとりと濡れており、水分を吸ったフリースがぴったりと身体に貼りつき、さらに陽太の身体をぐっしょりと湿らせていった。
真っ暗闇のなか、肉の枷の中で陽太は必死に身体を揺する。
微々たる抵抗だけが呑まれた獲物に許された唯一の行動だ。
しかしそれも、もごもごと己の中で蠢くか弱い振動として、蛇神を悦ばせるだけだ。
大蛇は哀れな供物が肉の壁に頬を擦りつけながら涙目であがいている姿を想像した大蛇は、色々なものが熱く猛ってくるのを感じ、どうにも堪らない気持ちになっていた。
「助けっ………」
陽太は何とか咥内から這い出ようと、肘や膝を曲げ、少しでも今いる空間を広げようとした。
その度にぎゅっと喉元が閉まり、胸板も臀部も肉の壁に挟まれて絞られ続けている。
「出し、てっ、くださいぃっ!」
今出せる最大限の声量で、自分を呑み込む大蛇へと呼びかける。
喰われたくない。死にたくない。
無我夢中で叫び暴れ続ける陽太の願いは、驚くほど早く聞き入れられた。
吐き出された陽太の背中が、どさりと柔らかな草の上に落ちた。
大股開きのあられもない恰好のまま、粘液濡れの陽太がはぁはぁと荒い呼吸を繰り返す。
不可思議な痺れが残る四肢が、びく、びく、と痙攣を繰り返している。
散々陽太をねぶっていた大蛇はというと、ひっくり返された蛙のようになった陽太の顔へ鼻先を近づけ、そのまま粘液
を救い上げるように頬を擦っている。
「や、やめっ……」
「食んでみただけなのに。遊びだよ、そう怯えなくていいじゃないか。本当に喰ったりはしないさ」
笑いを含んだくぐもった声が、陽太の耳朶を震わせる。
「それにしてもいい恰好だなあ。……喉ごしも良くないし、その邪魔なのを脱いでみないか」
大蛇はついに劣情を隠すことを止めたようだ。
大きく首を振る陽太の上に顎を乗せ、いいじゃないかちょっとくらい、ちゃんと気持ち良くするからと大蛇が追いすがる。
「もう、勘弁してくださいっ!」
空洞内に陽太の大声が響き渡る。
そんなものは意にも介さない大蛇であったが、続けて岩を打つ落雷の轟音には、さすがに動きを止めるしかなかった。
ʘ
現世の一つか二つ上層にある、ヒトの知りえぬ領域のひとつ、果てしなく凪いだ水面が広がるその空間には、鮫の牙のような大岩が宙に向かって伸びている。
そこには筋肉質な若い男の姿をとったヤトが縄によって大岩に縛り付けられていた。
罰として下穿き一枚の殆ど裸の姿で拘束されているヤトは、憮然としながら足元にいる兄弟へと声をかけた。
「兄上は食べてしまいたいほど可愛いというものが分からんのですか」
「分からんな」
水黽のごとく水面の上に立つ者が応える。
その者もまたニンゲンの姿を取ってはいるが、烏帽子に白い浄衣といった神社の神職さながらの装いをしている。
ヤトよりは色白だが、骨太で分厚い身体と顔つきはそっくりの男であった。
その男が今、笏を握りしめながら無様な恰好の弟を睨み上げていた。
「ニンゲンに手を出すなとあれほど言っていただろうが。お前の行動は蛇神の評判を落としかねんと前からだな」
「そっちだって子供の夢に出て人気取りしてるくせに……」
「今なんと言った? もう一回言ってみろ!」
「私は大人にしか興味ありません。兄上とは違うんです」
「貴様、俺を何だと思っている! 俺は子供らを丸呑みしたりせんわ!」
大声で罵り合う男二人の後ろに、いかにも怠そうに横たわる数匹の大蛇の姿があった。
彼らは長兄と次兄の酷くみっともないやりとりに辟易していたが、うっかり口を挟むと怒りの矛先がこちらに向かうので、次兄への沙汰が決まり次第とっとと帰ろうと考えていた。
ʘ
陽太は気づくと、立ち入り禁止の看板の前に立っていた。
まるで時が戻ったかのように、柔らかな陽光と乾いた服の感触が心地いい。
そうだ。ここを潜って御神酒を届けなければ──。
陽太がバックパックを背負い直すと、いやに軽い。
何やら言い知れぬ不安が胸の中に広がり、陽太はバックパックを下ろして中を確認することにした。
ない。
酒瓶がない。
今まで背負って来たものの中から忽然と物が消えるなんてありえない。
バックパックのなかにぽっかりと開いた隙間を見つめ、陽太が只々呆然としていると、突然背後に何者かの気配を感じた。
振り返ろうと思うが、強力な磁石に引き寄せられた砂鉄の如く、身体は全く動かなかった。
その者は陽太の背中に近づき、身体を寄せて耳打ちをする。眼の端に白い布がちらついた。
「何のことか分からんだろうが、愚弟が迷惑をかけたな。酒は受け取った。疾く去るがよい」
どこかで聞いた、誰かに似た声だ。
「ハイ」
じんじんと脳髄が痺れる感覚を纏ったまま、陽太は不出来なロボットのように来た道を引き返してゆく。
また来い、黙ってろ、どうにも遠くで言い争っている男達の声が聞こえたような気がする。
空耳だろう。
陽太は軽くなった荷物を背負い直し、ゆっくりと木道を踏みしめていった。
【は】食んでみただけなのに 終
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こちらのサイト掲載作品含めpixivやくるっぷで拝読させていただいております。月並みな感想ですが、様々な意味で«強者»な攻めが好きなので何度も読み返してはのたうち回っています。健康を維持できています。執筆物を世に出して下さり心より感謝を申し上げます。かるた題材で不憫な凡人を様々な意味で慈しむ攻めというテーマ最高です!お題箱にリクエストしてくださった方含めそちらを形にしてくださっている青野さんに日々感謝をしております。活動応援しております。青野さんのご健勝日々心よりお祈り申し上げております。ご無理なさらず活動を続けてくださることをねがっております。
ありがとうございます!
たくさん読んで頂けているということが何より嬉しいです。
文字通りの人並み外れた強い人外が好きなので、拙作が同好の方よりあたたかいお言葉を頂けることは、大変励みになります。
今投稿中のものにつきましても、自分の引き出しのなさに愕然とし、もし他の人が考えるならどんな良い案が出るだろうと思い立って甘えさせて頂きました。
書いていて本当に楽しく、お題を下さった方をはじめ、読んでくださっている方へ感謝の念に堪えません。
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またお暇な際にでも拙作をお読みいただければ幸いです。
コメントありがとうございました!