上 下
5 / 6
第五話

泣きそうな優しさ

しおりを挟む
こんな時に、夫の実家に行かなきゃいけないなんて。
篠原麻衣は慌ただしく出かける準備をすると、5ヶ月になる息子の大樹を抱き上げた。7月の前半だというのに、外は既に暑い。少し動いただけで、自分も大樹の額も汗でべっしょりだった。本当なら、こんな日に遠出はしたくない。だが、姑から「大樹に会いたいの」と言われたら断れない。
「でも、どうしよう」
おんぶをしても、抱っこしても暑い。これでは、親子共々熱中症になってしまう。
「本当は使いたくないんだけど」
麻衣は躊躇った末にベビーカーに大樹を乗せる事にした。本当は、抱っこやおんぶの方が動きやすくて好きなのだ。ベビーカーは段差や溝にはまったり、小回りがきかない。だが、この暑さでは仕方ない。麻衣はベビーカーに小さなファンを取り付けると、電車に乗るために家を後にした。
だが、数分後。早速麻衣は後悔する事となった。なぜなら、電車の中は想像以上に混んでいたのだ。ベビーカーがかなり邪魔になっていて、肩身が狭いのなんの。麻衣はできるだけ迷惑をかけないように、人が少ない場所を選んだ。しばらくすると、中年のサラリーマンが麻衣の近くに寄ってきた。そして、これみよがしにしかめっ面をして見せる。
「ベビーカーなんて持ち込みやがって。最近の母親は常識も何もないな」
わざと聞こえるように言ってくるサラリーマンに、麻衣は俯くしかなかった。自分が非常識な事をしているのは、麻衣にだってわかっているのだ。だが、どれだけ考えてもこの選択しかない。
「こんな所で泣かれたら、皆の迷惑なんだよ。み・ん・なのっ」
麻衣は、泣きそうになるのをグッと堪らえた。ここで泣いたら、大樹を不安にさせてしまう。何も知らずに笑っている大樹を哀しませたくない。麻衣は反論もせず、ただじっと耐えていた。その時、黙って聞いていた茶髪の青年がいきなり立ち上がった。そして、サラリーマンの間に立つとジロリと睨みつけた。
「な、なんだ。お前」
「おっさん。さっきからうるせーんだよ。あんたの声に皆が迷惑してんだ」
「な、なんだとっ」
すると、今度は中年の女性がふくよかな体型を揺すりながら立ち上がった。
「あなた、お子さんは?」
「ふ、2人いる」
「だったら、あなたの奥さんも相当苦労したでしょうね」
サラリーマンは、ハッとしたように麻衣と大樹を見つめた。いつしか乗客達がサラリーマンを囲むように立って睨んでいる。サラリーマンは、アタッシュケースを胸に抱えて慌てて次の駅で降りていった。
「ありがとうございます!ありがとうございます!」
麻衣は泣きそうになりながら、感謝の言葉を述べた。
「私も、ベビーカーを使っている時には色々言われたの。でもね、最低限のマナーを守っていれば大丈夫よ」
女性が励ましてくれる。
「皆、忘れてるのよ。自分も赤ちゃんだった頃の事を」
麻衣は、明るい気持ちで電車を降りる事ができた。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈 
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

夫の幼馴染が毎晩のように遊びにくる

ヘロディア
恋愛
数年前、主人公は結婚した。夫とは大学時代から知り合いで、五年ほど付き合った後に結婚を決めた。 正直結構ラブラブな方だと思っている。喧嘩の一つや二つはあるけれど、仲直りも早いし、お互いの嫌なところも受け入れられるくらいには愛しているつもりだ。 そう、あの女が私の前に立ちはだかるまでは…

王太子さま、側室さまがご懐妊です

家紋武範
恋愛
王太子の第二夫人が子どもを宿した。 愛する彼女を妃としたい王太子。 本妻である第一夫人は政略結婚の醜女。 そして国を奪い女王として君臨するとの噂もある。 あやしき第一夫人をどうにかして廃したいのであった。

【完結】待ってください

仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
ルチアは、誰もいなくなった家の中を見回した。 毎日家族の為に食事を作り、毎日家を清潔に保つ為に掃除をする。 だけど、ルチアを置いて夫は出て行ってしまった。 一枚の離婚届を机の上に置いて。 ルチアの流した涙が床にポタリと落ちた。

大好きなあなたが「嫌い」と言うから「私もです」と微笑みました。

桗梛葉 (たなは)
恋愛
私はずっと、貴方のことが好きなのです。 でも貴方は私を嫌っています。 だから、私は命を懸けて今日も嘘を吐くのです。 貴方が心置きなく私を嫌っていられるように。 貴方を「嫌い」なのだと告げるのです。

気づいたときには遅かったんだ。

水無瀬流那
恋愛
 「大好き」が永遠だと、なぜ信じていたのだろう。

お飾り王妃です。この度、陛下から離婚を申されたので

ラフレシア
恋愛
 陛下から離婚を申されたので。

【完結】婚約者なのに脇役の私

夢見 歩
恋愛
貴方が運命的な恋に落ちる横で 私は貴方に恋をしていました。 だから私は自分の想いに蓋をして 貴方の背中を少しだけ押します。

処理中です...