5 / 6
第五話 忘れたい男
どうしても、忘れられない
しおりを挟む
彼は、いつもバニラの匂いがした。
倉橋覚は、天井を見ながらかつて愛した男を思い出していた。陽気で、どこか遊び慣れている雰囲気に憧れた。彼に気に入られようと、覚はかなり無理をしていた。本当は気管支が弱いのに、彼にタバコをやめてくれとは言えなかった。待ってろと言われれば、何時間でも待っていた。耐えるのが愛だと、勝手に思い込んでいたのだ。
(なんで、敦人の事なんて・・・)
今、覚はミントの香りに抱かれている。なのに、心の奥底にいるのは自分を裏切った恋人の姿だ。
「どうした?疲れたか?」
短く、荒い呼吸を繰り返しながら西嶋章悟が聞いてくる。モデル並のルックスとスタイルを持った男で、覚の新しい恋人だ。覚は、気遣わしげな視線に黙って首を横に振る。
「もっと、激しくして。もっと、章悟を感じさせて」
初めて、甘えたような声を出した。章悟は少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに蕩けるような笑顔をくれた。
「・・・覚悟しろよ」
ゆったりとした腰の動きが激しくなり、覚はその広い褐色の背中に指を這わせた。爪を立てても良いと言ってくれたので、遠慮なくしがみつく。
何もかも、章悟は敦人とは違った。なのに、今も覚の胸の奥には敦人がいる。忘れたいと願っても、忘れられない男。
覚が自分の性癖に気がついたのは、中学生の時だった。男友達らが好きな女子の話題で盛り上がっている時に、覚だけ会話に入れなかった。なぜなら、覚が好きなのは隣のクラスの男子だったから。男が好きな自分は、どこか欠陥品だと思った。誰にも言えないまま、覚は思春期を通り過ぎてしまった。社会人になっても、恋愛の悩みだけは解決しなかった。
誰かと悩みを分かち合いたくて、噂に聞いていたゲイが集まるバーへ向かい敦人と出会った。
誰にでもフレンドリーな中島敦人は、覚には憧れの存在だった。彼の周りには、いつも数人の取り巻きがいて楽しそうだった。その敦人に声をかけられた時、覚は舞い上がるほど嬉しかった。
「男を好きな事は、変でもなんでもない」
覚が抱えていた悩みを、敦人はすぐに理解してくれて慰めてくれた。誰にも見られない柱の陰で、頬や額にキスをされながら愛の言葉を囁かれた。
「初めて見た時から、気になっていたんだ。オレと、付き合わないか?」
覚は躊躇った。敦人の事を嫌いではないが、だからといっていきなり交際するのは勇気がいった。そんな覚を、敦人は熱心に口説いた。
「確かに、親や世間は気になるけど悪い事をしているわけじゃない。オレと君が、セックスをしても困る人はいない」
しっとりと重なった唇の甘さに、覚は時を忘れた。そのままホテルへ誘われ、男同士がどこで交わるのかを身体で知った。
ずっと、側にいたいと思っていたのに・・・。
「ごめん。ちょっと飛ばしすぎたな」
心配そうな顔をしながら、章悟が濡れたタオルで身体を拭いてくれる。覚は、大丈夫と言おうとしてできなかった。少しの間があってから、章悟がポツリと呟く。
「無理に忘れる事はない」
覚がハッと顔を上げれば、章悟が優しく微笑んでいた。覚の瞳から、一粒だけ涙が溢れる。
「ごめん・・・なさい・・・」
章悟は優しい。
スペインで初めて会った時から、覚は章悟に守られていた。
世間体を気にしないと言いながら、敦人は人前では覚と距離を置いていた。だが、章悟は人前であろうと覚の側を離れなかった。タバコが苦手な覚のために、密かに禁煙してくれた。何も言わなくても、覚の苦手なものを理解してくれた。
なのに、覚の心の奥には今も敦人がいるのだ。章悟を裏切っているようで、覚の胸は軋んだ。
「泣くなよ」
章悟が覚を胸に抱く。
「過去の恋愛を、なかった事なんかにできない。だから、自分を責めるな」
まぶたに唇が押し当てられ、髪を優しく撫でられる。章悟が優しければ優しいほど、覚の気持ちは複雑だった。章悟に、言っていない事がある。引き出しの奥にしまったシルバーのペンダント。覚の誕生日に敦人が買ってくれたものだ。覚のイニシャル『S』と敦人の『A』が絡まったようなデザインのトップ付き。
『オレとお前が、絶対に離れない証に』
ベッドの上で囁かれた睦言。その後、敦人がかなりの遊び人だと知った。だが、その時には覚は既に敦人へ本気の恋をしていた。スペインで彼の裏切りを知っても、声を荒げる事さえできなかった。最後の最後まで聞き分けのいい恋人を演じた。
「ちゃんと、別れ話をすればよかった」
ホットワインで落ち着いた覚は、自分のモヤモヤした気持ちを吐き出した。
「・・・章悟は、敦人の連絡先を知らないの?」
幼馴染みである章悟と敦人。連絡先ぐらい知っているのが普通だ。章悟は、肩を竦めてみせた。
「あいつとは絶縁したんだ。電話番号も変えたしな・・・」
「・・・そう」
「あいつに、会いたいのか?」
章悟の言葉に、覚はハッと顔を上げた。そこには、いつもの自信満々な表情はなかった。寂しそうな、切なげな章悟の瞳に覚は慌てて首を横に振った。
「違う。そうじゃないんだ」
覚は、きちんと話さなくてはと思った。このまま気持ちがすれ違ってしまったら、章悟も失う気がして・・・。
「敦人に対して、愛情や未練はないよ。ただ、ふとした時に思い出すんだ」
敦人が、本当の悪人なら良かった。だったら、思い出す事などないのに。
「不安にさせて、ごめん」
覚は、自分から初めて章悟にキスをした。何度も角度を変えて、章悟に促されるまま足を開いた。言葉よりも、こうして身体を開く方がはるかに説得力があった。
章悟を誰よりも愛してる。
覚は、章悟が望むだけ自身を与えた。
心の奥で微笑んでいた敦人の姿は、いつしか気にならなくなっていった。
倉橋覚は、天井を見ながらかつて愛した男を思い出していた。陽気で、どこか遊び慣れている雰囲気に憧れた。彼に気に入られようと、覚はかなり無理をしていた。本当は気管支が弱いのに、彼にタバコをやめてくれとは言えなかった。待ってろと言われれば、何時間でも待っていた。耐えるのが愛だと、勝手に思い込んでいたのだ。
(なんで、敦人の事なんて・・・)
今、覚はミントの香りに抱かれている。なのに、心の奥底にいるのは自分を裏切った恋人の姿だ。
「どうした?疲れたか?」
短く、荒い呼吸を繰り返しながら西嶋章悟が聞いてくる。モデル並のルックスとスタイルを持った男で、覚の新しい恋人だ。覚は、気遣わしげな視線に黙って首を横に振る。
「もっと、激しくして。もっと、章悟を感じさせて」
初めて、甘えたような声を出した。章悟は少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに蕩けるような笑顔をくれた。
「・・・覚悟しろよ」
ゆったりとした腰の動きが激しくなり、覚はその広い褐色の背中に指を這わせた。爪を立てても良いと言ってくれたので、遠慮なくしがみつく。
何もかも、章悟は敦人とは違った。なのに、今も覚の胸の奥には敦人がいる。忘れたいと願っても、忘れられない男。
覚が自分の性癖に気がついたのは、中学生の時だった。男友達らが好きな女子の話題で盛り上がっている時に、覚だけ会話に入れなかった。なぜなら、覚が好きなのは隣のクラスの男子だったから。男が好きな自分は、どこか欠陥品だと思った。誰にも言えないまま、覚は思春期を通り過ぎてしまった。社会人になっても、恋愛の悩みだけは解決しなかった。
誰かと悩みを分かち合いたくて、噂に聞いていたゲイが集まるバーへ向かい敦人と出会った。
誰にでもフレンドリーな中島敦人は、覚には憧れの存在だった。彼の周りには、いつも数人の取り巻きがいて楽しそうだった。その敦人に声をかけられた時、覚は舞い上がるほど嬉しかった。
「男を好きな事は、変でもなんでもない」
覚が抱えていた悩みを、敦人はすぐに理解してくれて慰めてくれた。誰にも見られない柱の陰で、頬や額にキスをされながら愛の言葉を囁かれた。
「初めて見た時から、気になっていたんだ。オレと、付き合わないか?」
覚は躊躇った。敦人の事を嫌いではないが、だからといっていきなり交際するのは勇気がいった。そんな覚を、敦人は熱心に口説いた。
「確かに、親や世間は気になるけど悪い事をしているわけじゃない。オレと君が、セックスをしても困る人はいない」
しっとりと重なった唇の甘さに、覚は時を忘れた。そのままホテルへ誘われ、男同士がどこで交わるのかを身体で知った。
ずっと、側にいたいと思っていたのに・・・。
「ごめん。ちょっと飛ばしすぎたな」
心配そうな顔をしながら、章悟が濡れたタオルで身体を拭いてくれる。覚は、大丈夫と言おうとしてできなかった。少しの間があってから、章悟がポツリと呟く。
「無理に忘れる事はない」
覚がハッと顔を上げれば、章悟が優しく微笑んでいた。覚の瞳から、一粒だけ涙が溢れる。
「ごめん・・・なさい・・・」
章悟は優しい。
スペインで初めて会った時から、覚は章悟に守られていた。
世間体を気にしないと言いながら、敦人は人前では覚と距離を置いていた。だが、章悟は人前であろうと覚の側を離れなかった。タバコが苦手な覚のために、密かに禁煙してくれた。何も言わなくても、覚の苦手なものを理解してくれた。
なのに、覚の心の奥には今も敦人がいるのだ。章悟を裏切っているようで、覚の胸は軋んだ。
「泣くなよ」
章悟が覚を胸に抱く。
「過去の恋愛を、なかった事なんかにできない。だから、自分を責めるな」
まぶたに唇が押し当てられ、髪を優しく撫でられる。章悟が優しければ優しいほど、覚の気持ちは複雑だった。章悟に、言っていない事がある。引き出しの奥にしまったシルバーのペンダント。覚の誕生日に敦人が買ってくれたものだ。覚のイニシャル『S』と敦人の『A』が絡まったようなデザインのトップ付き。
『オレとお前が、絶対に離れない証に』
ベッドの上で囁かれた睦言。その後、敦人がかなりの遊び人だと知った。だが、その時には覚は既に敦人へ本気の恋をしていた。スペインで彼の裏切りを知っても、声を荒げる事さえできなかった。最後の最後まで聞き分けのいい恋人を演じた。
「ちゃんと、別れ話をすればよかった」
ホットワインで落ち着いた覚は、自分のモヤモヤした気持ちを吐き出した。
「・・・章悟は、敦人の連絡先を知らないの?」
幼馴染みである章悟と敦人。連絡先ぐらい知っているのが普通だ。章悟は、肩を竦めてみせた。
「あいつとは絶縁したんだ。電話番号も変えたしな・・・」
「・・・そう」
「あいつに、会いたいのか?」
章悟の言葉に、覚はハッと顔を上げた。そこには、いつもの自信満々な表情はなかった。寂しそうな、切なげな章悟の瞳に覚は慌てて首を横に振った。
「違う。そうじゃないんだ」
覚は、きちんと話さなくてはと思った。このまま気持ちがすれ違ってしまったら、章悟も失う気がして・・・。
「敦人に対して、愛情や未練はないよ。ただ、ふとした時に思い出すんだ」
敦人が、本当の悪人なら良かった。だったら、思い出す事などないのに。
「不安にさせて、ごめん」
覚は、自分から初めて章悟にキスをした。何度も角度を変えて、章悟に促されるまま足を開いた。言葉よりも、こうして身体を開く方がはるかに説得力があった。
章悟を誰よりも愛してる。
覚は、章悟が望むだけ自身を与えた。
心の奥で微笑んでいた敦人の姿は、いつしか気にならなくなっていった。
95
お気に入りに追加
68
あなたにおすすめの小説
大きな木の下の車の中で
佑々木(うさぎ)
BL
内科医の佐野は、ある日、手に怪我をした男の治療に当たる。
外科ではないのに、なぜか内科を受診されて、診察室は騒然とした。
同じ日の夜、同僚の送別会に佐野が参加したところ、突然めまいを覚えた。
そこで、倒れる寸前に医局長に支えられたが、実はそれは巧妙な罠で!?
二人に襲い掛かる事件とは。
患者×医師。敬語攻めです。
短編ですので、お楽しみいただけると幸いです。
好きなあいつの嫉妬がすごい
カムカム
BL
新しいクラスで新しい友達ができることを楽しみにしていたが、特に気になる存在がいた。それは幼馴染のランだった。
ランはいつもクールで落ち着いていて、どこか遠くを見ているような眼差しが印象的だった。レンとは対照的に、内向的で多くの人と打ち解けることが少なかった。しかし、レンだけは違った。ランはレンに対してだけ心を開き、笑顔を見せることが多かった。
教室に入ると、運命的にレンとランは隣同士の席になった。レンは心の中でガッツポーズをしながら、ランに話しかけた。
「ラン、おはよう!今年も一緒のクラスだね。」
ランは少し驚いた表情を見せたが、すぐに微笑み返した。「おはよう、レン。そうだね、今年もよろしく。」
初恋はおしまい
佐治尚実
BL
高校生の朝好にとって卒業までの二年間は奇跡に満ちていた。クラスで目立たず、一人の時間を大事にする日々。そんな朝好に、クラスの頂点に君臨する修司の視線が絡んでくるのが不思議でならなかった。人気者の彼の一方的で執拗な気配に朝好の気持ちは高ぶり、ついには卒業式の日に修司を呼び止める所までいく。それも修司に無神経な言葉をぶつけられてショックを受ける。彼への思いを知った朝好は成人式で修司との再会を望んだ。
高校時代の初恋をこじらせた二人が、成人式で再会する話です。珍しく攻めがツンツンしています。
※以前投稿した『初恋はおしまい』を大幅に加筆修正して再投稿しました。現在非公開の『初恋はおしまい』にお気に入りや♡をくださりありがとうございました!こちらを読んでいただけると幸いです。
今作は個人サイト、各投稿サイトにて掲載しています。
【完結】遍く、歪んだ花たちに。
古都まとい
BL
職場の部下 和泉周(いずみしゅう)は、はっきり言って根暗でオタクっぽい。目にかかる長い前髪に、覇気のない視線を隠す黒縁眼鏡。仕事ぶりは可もなく不可もなく。そう、凡人の中の凡人である。
和泉の直属の上司である村谷(むらや)はある日、ひょんなことから繁華街のホストクラブへと連れて行かれてしまう。そこで出会ったNo.1ホスト天音(あまね)には、どこか和泉の面影があって――。
「先輩、僕のこと何も知っちゃいないくせに」
No.1ホスト部下×堅物上司の現代BL。
フローブルー
とぎクロム
BL
——好きだなんて、一生、言えないままだと思ってたから…。
高二の夏。ある出来事をきっかけに、フェロモン発達障害と診断された雨笠 紺(あまがさ こん)は、自分には一生、パートナーも、子供も望めないのだと絶望するも、その後も前向きであろうと、日々を重ね、無事大学を出て、就職を果たす。ところが、そんな新社会人になった紺の前に、高校の同級生、日浦 竜慈(ひうら りゅうじ)が現れ、紺に自分の息子、青磁(せいじ)を預け(押し付け)ていく。——これは、始まり。ひとりと、ひとりの人間が、ゆっくりと、激しく、家族になっていくための…。
十七歳の心模様
須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない…
ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん
柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、
葵は初めての恋に溺れていた。
付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。
告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、
その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。
※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる