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◆伯爵家の崩壊 絶望③

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 止血のみ施され痛みに堪えるように歯ぎしりをしながら、ネイサンはミザリアをキツく睨みすえている。
 同じように悲嘆に暮れているものと思っていたチェスターは、思いもよらぬネイサンの表情に目を見張った。

「忌々しい精霊め」

 呪詛のように吐き捨てられた言葉とその憎悪にチェスターはあらゆる衝撃を受け、恐怖で支配されていた思考がわずかに動き出す。

「精霊? やはり加護はあったか」

 ホレスも口にしていたが、その後のアーノルドの動きに圧倒されて忘れていた。
 だが、ネイサンが再びはっきりと口にし、しかも以前からミザリアと精霊の関係を認識していたことを物語っていた。

 チェスターの声にネイサンが反応する。
 面倒くさそうにしかも蔑む視線を向けられ、そんな視線をこの執事長から向けられたことのないチェスターは再び衝撃を受けた。

「なんだその目は」
「はっ。この状況でも威張れるとは……」

 それから、長い年月をかけてネイサンに裏切られてきたことを知る。
 積年の恨みを淡々ともっとも信頼し任せていたネイサンに聞かされ、裏切りの理由を聞いても、チェスターはその娘を思い出すことができない。まったく記憶にかすりもしなかった。
 思いのまま過ごしてきて捨てたものを、しかも気まぐれに手を出したものまでいちいち覚えていない。

「お前が唆さなければ」

 ミザリアの母親の話を聞き、血が繋がっていないことを知り、そして聖魔法を使えないように忘却の術をかけていたことを知り、頭が煮えそうになった。
 血が繋がっていなかったことは今更どうでもいい。ただ、ネイサンが企てなければ、聖魔法は今頃自分のものだったはずだ。

 そうすれば公爵の企てに巻き込まれることもなく、安全に稼げ栄光ある未来を歩めていた。
 それを潰されてきたと知り、ようやっと暗闇の中怒りの向け先を見つけチェスターは腹の底から叫んだ。

「――殺してやるっ!」

 そうだ。チェスターの人生を狂わせたのはネイサンだ。
 己がしたことなどすっぽりと忘れたまま怒りを覚えるチェスターは、今の不幸はネイサンのせいだと罵る。
 そうしないと今の状況に耐えられなかったこともあるが、チェスターは元来そういう気質であった。

「できるのならすればいい。そうしたところでお前の人生は終わりだ」
「使用人風情がっ!!」
「そんな使用人にずっと騙されていたのは誰だ! 娘を弄び殺した罪。精霊相手に何もできなかったことは非常に残念だが、所詮人間には及ばない領域だということはわかった。やるだけはやった。後悔なんてない。お前に仕えてきたのは何のためか。確実に地の底に落とすためだ。今までの悪事の証拠は部屋に大事にしまってある」

 嘲笑を含む声とともに鋭い視線に射貫かれ、それが嘘ではないことを知る。
 その事実に、怒りに染めていた感情がぽきりとあっけなく折れた。

 執事として雇い、その有能さを気に入り執事長となってからはあらゆることに関わらせ、時には全てを任せてきた。
 それもこれも同じ狢であり、ネイサンは自分を主として敬っていると信じて疑っていなかったからだ。

 だが、いったいどうしてこれほど信じるようになったのか。
 ミザリアの母親のことも含め、その辺のきっかけが思い出せない。

 憤怒で一度奮い立たせたが、現状は変わらなかった。一時の虚勢は虚しくさらに絶望へと意識が向く。
 騎士団の前での暴露に、逃げ道をさらに塞がれ額から滝のように汗が出る。

 ――真っ暗闇だ。

 それを認識すると絶望から、さらに深い奈落の底に突き落とされたような無限の暗闇を感じた。
 未来も、過去も、現在も。どこを向いても暗くて道が見えない。どこにも行けず、今ここに立っている以外の何も見えない。

 チェスターは己が何なのかわからなくなった。
 あれほどあった自信も、築き上げてきたものも、成し遂げたはずの功績も幻のごとく霧散し、少しでもここから動けば落ちる恐怖。

 認めたくない。誰かに踊らされた人生だと。全て自分の手でやってきたはずだ。欲しいままを手にすることが許される立場であったはずだ。
 ごく限られた選ばれた者の特権は、他者にそうやすやすと踏み躙られていいはずがない。使用人ごときに壊されるようなものではないはずだ。

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