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【5】救出
52. 「これで気に入ってくれるだろうか」
しおりを挟む綾子は身体が水中に浮かんでいるような奇妙な感覚で目を覚ました。
「やあ、起きたかい綾子」
親し気に自分の名前を呼ぶのは。
「九十九――」
綾子は憎しみのこもった瞳で、仇の妖を見上げた。
記憶をたどる。防衛隊本部に現れた九十九と遭遇し、鬼に変えられていた華を救ったところまでは記憶がはっきりしている。
(修介さんに取り憑いた九十九に炎を放って……)
思い出そうとして、どくんと心臓が大きく鳴った。
(私、修介さんを)
「腹が減らないかい? ――これを喰らうといい」
九十九は綾子の前にどさりと『何か』を投げ捨てた。
それは、黒焦げの――人の腕。
綾子は目を見広げて、それを凝視した。
(これ――これは、)
「よく焼けていて美味そうじゃないか」
九十九は頷きながら言った。
「いや、私たちは肉の味はわからないがね。その腕の周りには、持ち主の痛みの念が渦巻いているのが、今の君になら見えるだろう?」
「持ち……ぬし」
九十九はにこやかに微笑んだ。
「神宮司 修介だよ。君が焼いたんだろう、こんがりと」
「私、が」
綾子は頭を押さえて地面にうずくまった。
(そうだ、私、修介さんを殺してしまった)
頭の中にぐるぐると言葉が廻り、心拍数が上がる。
――業務上仕方がない、助ける術はあったはず、でも、華さんみたいに、修介さんに声をかけられた?華さんみたいに。修介さんに怒っていたでしょう?私にひどい言葉をかけて。この前だって怖かった、死んで当然、殺されて当然、全身黒焦げで苦しかったでしょう、いい気味――
どす黒い感情の渦に飲み込まれそうになるのを何とか耐える。
(飲まれない。鬼になんかならない。だって、待っていてくれる人がいるもの)
妹の顔が、祖母の顔が浮かぶ。――そして。
「彰吾くん」
綾子は彰吾の名をつぶやいた。
九十九は「おや」と興味深そうに呟くと、しゃがみ込み綾子の頭を掴んだ。綾子の意識の中に異物が入り込んでくる。
「鈴原彰吾――なるほどなるほど。寒い夜空の元、木陰で口づけを交わしたのか。素敵な思い出だ。君は『愛』を知っているんだね」
綾子は九十九の手を振り払おうとしたが、身体が言うことをきかない。
(前と、同じ)
頭の中をぐちゃぐちゃにかき回され他人に自分の身体を支配される不快感に吐きそうになる。
「妖気を送り込んでも下品な鬼にならずに、理性を保っている。――素晴らしい。やはり、君は素晴らしい妖になれる存在だよ、綾子」
九十九は感激した様子で言葉を続けた。
「これからは、私が君の『彰吾くん』になってあげるから。私のことは『彰吾くん』と呼んでくれても良いよ。なるほど、なかなかに美しい見た目の男だね。私もこの男の姿にならなっても良いと思える」
ずずずずずずと九十九の容姿が変化し、彰吾そっくりの姿になった。
「これで気に入ってくれるだろうか」
綾子は言葉を失うと、怒鳴った。
「ふざけないで!!!!」
「怒ってくれていい。怒れば怒るほど君は妖に近づいてくれる」
くつくつと笑って、
「君はきっと知性を維持してくれる。しばらくは荒れるかもしれないが、落ち着いたら一緒に今後を考えよう」
彰吾の姿のまま、わくわくと瞳を輝かせて九十九は言葉を続ける。
「私のことは『彰吾くん』と呼んでくれて構わないよ。名前などはどうでも良いのだ。君と家族を作って、満ち足りた存在になれたのなら、その時は新しい名前を自分につけようと思っていたのだし」
「そうだ」と手を打つ。
「ただ、私は君のことを『はる』と呼んでいいかい。私は妻の名前は『はる』にすると決めていたんだ」
「――ふざけ、ないで! ふざけないで! ふざ、け、ないで!!!!!」
綾子は胸を押さえると、動悸を鎮めるように大きく息を吐いた。
(感情に飲まれないように、気持ちを静めて)
「だれ、よ、それは、」
九十九は急に表情を硬直させた。
「『はる』は私と家族になってくれたかもしれなった人間だ。――けれど、私は失敗してしまった」
それから気を取り直したような表情を作って、綾子に向かって笑いかけた。
「順番を違えたんだ。まず、先にはるを妖にするべきだった。それから、家族になれば良かった。だから、先に、妖のはるを作ることにした」
「私は、藤宮 綾子。あなたが殺した藤宮 武と静江の娘。藤宮 綾子よ!」
綾子は叫ぶ。心臓がどくどくと脈打った。
「綾子、そう、君の名前は綾子だったね。私は普段人の名前は覚えないのだけれど、君の名前は覚えていたよ。綾子、でも君はこれから、もっと素晴らしい存在になれるんだよ。人より優れた力、人が恐れる死を越えた存在、妖に。そうしたら、元の名前は捨ててしまえばいい」
「私は、自分の名前を捨てる気なんかないわ!!!!」
(熱く、ならない。少しでも、何か、情報を)
胸を押さえて、呼吸を整えながら、綾子は疑問に思っていたことを口にした。
「あなたは、自分が鬼にした娘たちにも、無関心だった、わね。鬼にするだけして放置した」
そう、九十九は自分が鬼にした娘を放置して、また別の娘を鬼にするということを繰り返していた。鬼にしてしまった後は、興味がないとでもいうように。
「彼女たちはごみになってしまったからね。知性も何もない、人を襲うだけのごみだ」
(自分が殺した人間を『ごみ』ですって)
綾子は絶句した。
(これ以上、話しても仕方ない、わ)
――この妖は。
(言葉を話しているけれど、『会話』なんてできない。一方的なやりとりだけ)
――だったら、そちらに合わせてあげる。
綾子は身体を起こすと、九十九に笑いかけた。
「元の、姿の方が良いわ」
「そうかい? これは誰もが『美しい』という姿に仕上げたから、気に入ってもらえたのならそれで良い」
九十九はほくほくとした笑顔で元の白髪の美丈夫の姿に戻った。
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