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【1】婚約破棄とおためし交際
1.「俺、何でもひとりでできる女って嫌いなんだよね」
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「婚約は破棄にしようぜ」
呼び出された喫茶店にて。
婚約者である神宮寺 修介にそう告げられた藤宮 綾子は、手元の珈琲が入ったカップを落としてしまった。
がちゃん! とカップが机に転がる音とともに、母の形見でもある、普段は着ない華やかな生地の着物に茶色い染みが広がった。
「え……?」
「だから、婚約は破棄にしようぜって言ったんだ」
面倒くさそうに修介は頭をかく。
綾子は突然の修介の言葉にショックを受けるというよりも、驚いてしまって感情が追い付かなかった。――久しぶりの婚約者からの呼び出しに、どこか浮ついたような気持ちで来てみれば、告げられたのは冒頭の言葉。出先で急に豪雨に遭ったように、しばらくの間呆然としてしまった。
「……なぜ、でしょうか?」
ようやく絞り出した問いかけに「はぁ」と修介は大きくため息を吐いた。
「お前のこと、好みじゃないし。もとから」
事もなげな様子で彼は言葉を続ける。
「俺、何でもひとりでできる女って嫌いなんだよね。やっぱりさ、男としては頼られたいじゃん?」
綾子は何と返すべきか、言葉を見つけることができなかった。
綾子はこの国――和国の首都「東都」を怪異「妖」から守る「東都妖防衛隊」の参番隊の隊長を務めている。「防衛隊」の隊員になれるのは、「家紋」による不思議な力――家紋術を使える者のみだ。「家紋」とは、代々一族に伝わる紋章で、家紋術を使える者は身体に家ごとに継承される紋様――家紋が現れる。「家紋」を持つ一族は、代々妖から人々を守ってきたため、この国で貴族としての地位を築いてきた。綾子の家系――「藤宮家」も代々家紋を継ぐ伝統ある一家だ。綾子はもまた、炎を操る強力な家紋【焔】の紋様を持っている。
強力な家紋の力で、18歳で入隊以後、数々の妖を退治してきた綾子は、25歳になった今年、女性としては最年少で隊長に任命された。そもそも命の危険と隣り合わせで妖と戦う防衛隊には女性の隊員自体が少ない。そのため、綾子は隊の中でもかなり目立った存在だった。
一方の修介は、綾子と同じ25歳。雷を操る「雷霆」の家紋を持ち、第四部隊の隊員をしている。防衛隊では、壱番隊から参番隊までの隊員が特に強い力を持つエリートとされている。
このような状況で修介としては、婚約者である綾子に対して、前々から少なからぬ劣等感を感じていたのだった。
――男が防衛隊で妖と戦い、妻はその帰りを待って迎えるものでは?どうして婚約者である綾子の方が自分より隊で上の立場にいるのか。自分の方が、認められるべきなのに。
修介は日ごろから、このように考えていた。
そんな折、出会ったのだ。――理想の女性に。
「俺さ、今、すごくかわいい子と付き合っているんだ。お前と違って、俺がいないとだめな子なんだよ」
呆然としている綾子など意にも介さぬ様子で、修介は照れたように鼻の頭をかきながら言った。
(付き合っている……?私と婚約しているのに……?)
理解が追い付かない綾子に視線を定めて「そもそも」と修介は言い放った。
「お前と婚約したのは、藤宮家に婿入りできるからだし。……その子も戸主で、婿が欲しいって言ってくれているんだ。どうせ家長になるなら、俺のことを頼ってくれる娘と一緒になりたいわけ」
綾子は藤宮家の戸主である。
戸主というのは、その家の家督を継ぐ戸籍の筆頭者のことで、家長とも言う。
「家紋」を有する家にあっては、通常は家紋を持つ男子が代々家督を継いでいくのが習わしである。しかし、幼いころに父母両方を亡くし、兄弟は妹がいるだけの綾子は、女子であるが家督を継ぎ、藤宮家の戸主となったのだった。
女子が戸主となっている場合、家を存続させるには、入り婿として男子を迎えなければならない決まりである。
一方の修介は神宮寺家の三男であり、神宮寺家の家督を継ぐことはできない。「自分は家長となるべき」と考えていた修介は、他家の入り婿になることを希望していた。そこで、綾子と婚約をすることになったのだった。
破棄を告げられたとはいえ、婚約していた者として相手の女性が誰なのかを知っておく権利はあるはず、と思った綾子は聞いた。
「……その女性というのは、どなたですか?」
「間宮 華ちゃん、医療部隊の。知ってる?」
鼻の下を伸ばすような表情で修介は言った。
「間宮 華」
その名前に、綾子は聞き覚えがあった。
防衛隊の医療部隊に所属する、傷を癒す【若草】の家紋を持つ女性。――綾子が入隊したばかりの新人だった自分に世話を焼いてくれた恩人の妹。間宮家の戸主であったその恩人は妖との戦いに殉職してしまった。その後を継ぎ、新たに間宮家の戸主になったのが妹の華だったはずだ。間宮家も伝統ある「家紋」の一族である。その間宮家の戸主である華であれば、確かに修介の希望する結婚相手といえる。
逡巡している綾子に対し、修介は「あ」と口を押えてから、舌打ちして言った。
「お前、華ちゃんのこと、虐めたりするなよ」
(……!)
「そんなことをするわけがないでしょう」と思わず立ち上がって言いそうになった綾子だったが、綾子の前に修介が立ち上がった。
「正式には親父から連絡が行くと思うよ」
じゃあな、と言い残して去ろうとする。
「ちょっと……! 修介さん」
引き止めようとした綾子の声に、修介は立ち止まると一瞬考えるようなそぶりを見せた。
それから「ああ」と呟いて、ポケットに手を突っ込むと、じゃらりと小銭を取り出して、卓上に置いた。
「これ、俺の分の会計」
そう言い残し、手を挙げて、去って行く。
カランカランと彼が店から出ていく鈴の音がした。
机の上に置かれた小銭を見つめて綾子は呆然とする。
(そういうことではなくて……、いえ、お会計はもちろん、置いて行って欲しいのだけれど……、いえ、そういうことではなくて……)
何と言っていいか言葉が見つからず、着物にできた珈琲の染みをじっと見つめた。
呼び出された喫茶店にて。
婚約者である神宮寺 修介にそう告げられた藤宮 綾子は、手元の珈琲が入ったカップを落としてしまった。
がちゃん! とカップが机に転がる音とともに、母の形見でもある、普段は着ない華やかな生地の着物に茶色い染みが広がった。
「え……?」
「だから、婚約は破棄にしようぜって言ったんだ」
面倒くさそうに修介は頭をかく。
綾子は突然の修介の言葉にショックを受けるというよりも、驚いてしまって感情が追い付かなかった。――久しぶりの婚約者からの呼び出しに、どこか浮ついたような気持ちで来てみれば、告げられたのは冒頭の言葉。出先で急に豪雨に遭ったように、しばらくの間呆然としてしまった。
「……なぜ、でしょうか?」
ようやく絞り出した問いかけに「はぁ」と修介は大きくため息を吐いた。
「お前のこと、好みじゃないし。もとから」
事もなげな様子で彼は言葉を続ける。
「俺、何でもひとりでできる女って嫌いなんだよね。やっぱりさ、男としては頼られたいじゃん?」
綾子は何と返すべきか、言葉を見つけることができなかった。
綾子はこの国――和国の首都「東都」を怪異「妖」から守る「東都妖防衛隊」の参番隊の隊長を務めている。「防衛隊」の隊員になれるのは、「家紋」による不思議な力――家紋術を使える者のみだ。「家紋」とは、代々一族に伝わる紋章で、家紋術を使える者は身体に家ごとに継承される紋様――家紋が現れる。「家紋」を持つ一族は、代々妖から人々を守ってきたため、この国で貴族としての地位を築いてきた。綾子の家系――「藤宮家」も代々家紋を継ぐ伝統ある一家だ。綾子はもまた、炎を操る強力な家紋【焔】の紋様を持っている。
強力な家紋の力で、18歳で入隊以後、数々の妖を退治してきた綾子は、25歳になった今年、女性としては最年少で隊長に任命された。そもそも命の危険と隣り合わせで妖と戦う防衛隊には女性の隊員自体が少ない。そのため、綾子は隊の中でもかなり目立った存在だった。
一方の修介は、綾子と同じ25歳。雷を操る「雷霆」の家紋を持ち、第四部隊の隊員をしている。防衛隊では、壱番隊から参番隊までの隊員が特に強い力を持つエリートとされている。
このような状況で修介としては、婚約者である綾子に対して、前々から少なからぬ劣等感を感じていたのだった。
――男が防衛隊で妖と戦い、妻はその帰りを待って迎えるものでは?どうして婚約者である綾子の方が自分より隊で上の立場にいるのか。自分の方が、認められるべきなのに。
修介は日ごろから、このように考えていた。
そんな折、出会ったのだ。――理想の女性に。
「俺さ、今、すごくかわいい子と付き合っているんだ。お前と違って、俺がいないとだめな子なんだよ」
呆然としている綾子など意にも介さぬ様子で、修介は照れたように鼻の頭をかきながら言った。
(付き合っている……?私と婚約しているのに……?)
理解が追い付かない綾子に視線を定めて「そもそも」と修介は言い放った。
「お前と婚約したのは、藤宮家に婿入りできるからだし。……その子も戸主で、婿が欲しいって言ってくれているんだ。どうせ家長になるなら、俺のことを頼ってくれる娘と一緒になりたいわけ」
綾子は藤宮家の戸主である。
戸主というのは、その家の家督を継ぐ戸籍の筆頭者のことで、家長とも言う。
「家紋」を有する家にあっては、通常は家紋を持つ男子が代々家督を継いでいくのが習わしである。しかし、幼いころに父母両方を亡くし、兄弟は妹がいるだけの綾子は、女子であるが家督を継ぎ、藤宮家の戸主となったのだった。
女子が戸主となっている場合、家を存続させるには、入り婿として男子を迎えなければならない決まりである。
一方の修介は神宮寺家の三男であり、神宮寺家の家督を継ぐことはできない。「自分は家長となるべき」と考えていた修介は、他家の入り婿になることを希望していた。そこで、綾子と婚約をすることになったのだった。
破棄を告げられたとはいえ、婚約していた者として相手の女性が誰なのかを知っておく権利はあるはず、と思った綾子は聞いた。
「……その女性というのは、どなたですか?」
「間宮 華ちゃん、医療部隊の。知ってる?」
鼻の下を伸ばすような表情で修介は言った。
「間宮 華」
その名前に、綾子は聞き覚えがあった。
防衛隊の医療部隊に所属する、傷を癒す【若草】の家紋を持つ女性。――綾子が入隊したばかりの新人だった自分に世話を焼いてくれた恩人の妹。間宮家の戸主であったその恩人は妖との戦いに殉職してしまった。その後を継ぎ、新たに間宮家の戸主になったのが妹の華だったはずだ。間宮家も伝統ある「家紋」の一族である。その間宮家の戸主である華であれば、確かに修介の希望する結婚相手といえる。
逡巡している綾子に対し、修介は「あ」と口を押えてから、舌打ちして言った。
「お前、華ちゃんのこと、虐めたりするなよ」
(……!)
「そんなことをするわけがないでしょう」と思わず立ち上がって言いそうになった綾子だったが、綾子の前に修介が立ち上がった。
「正式には親父から連絡が行くと思うよ」
じゃあな、と言い残して去ろうとする。
「ちょっと……! 修介さん」
引き止めようとした綾子の声に、修介は立ち止まると一瞬考えるようなそぶりを見せた。
それから「ああ」と呟いて、ポケットに手を突っ込むと、じゃらりと小銭を取り出して、卓上に置いた。
「これ、俺の分の会計」
そう言い残し、手を挙げて、去って行く。
カランカランと彼が店から出ていく鈴の音がした。
机の上に置かれた小銭を見つめて綾子は呆然とする。
(そういうことではなくて……、いえ、お会計はもちろん、置いて行って欲しいのだけれど……、いえ、そういうことではなくて……)
何と言っていいか言葉が見つからず、着物にできた珈琲の染みをじっと見つめた。
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