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4.超過勤務
5<side 海藤>
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あー。何かすげぇ疲れた。
俺は煙草を一本取り出して火をつけた。樋口にも勧めようと思ってみたものの、それが最後の一本だったことにあとから気がついた。
気まずそうな顔をしている俺に気がつき、俺はいらないと樋口は手を払った。
んじゃ遠慮なく。
思い切り煙を吸い込み、そして吐き出す。
樋口はというと、先ほど駐車場の入り口で買い求めた缶コーヒーのプルトップをあけ、ゆっくりと喉に流し込んでいた。
そうして思い思いの一服をし、俺たちは車のエンジンが温まるのをぼんやりと待っていた。
樋口とでかい仕事をしたあとはいつもこんなふうだ。
交わす言葉は極力少なく、煙草一本分、コーヒー一杯分のゆったりとした時間を共有する。
予防交換は宣言したとおり、与えられた時間残り30分のところで完了した。
急遽徹夜勤務となってしまった山下さんからはその後も散々嫌味を言われ、今後の防止対策の報告を求められ、ようやく解放された。
日はまだ昇らない。
春先とはいえまだ夜は冷え込みが厳しい。そんな冴えた空気の中、俺の吐き出す紫煙と樋口の手元にあるコーヒーの湯気が微妙に絡み合った。
そのあとを視線で追い、樋口の手元に目を向け、そうしてようやく樋口の顔を見つめた。
駐車場には明かりはなく、夜も明けきらぬ薄闇の中、隣から流れてくる雰囲気は落ち着いたものだった。
先ほどまでの張りつめた雰囲気は皆無だ。
それにしても、この男は。
仕事がうまく流れるならば、自分のできる限りのありとあらゆる手段を使ってみせると公言している通り、いともやすやすと土下座さえもしてみせた。
それこそ、苦渋の色など一切見せることなく。
すごいヤツだと思う。
俺の視線を感じたのか、樋口はゆっくりと俺へ視線を送った。
疲労の色は濃く、目の下にうっすらとクマもできていた。
うちの女子たちがお気に入りのつるんとしたあごのラインに、わずかにヒゲが生えていたりと結構散々な状態だった。
しかしそれでも俺の目を奪うくらいの吸引力を樋口は持っていた。
「悪かったな、お前を巻き込んでしまった」
樋口の声はかすれ、冷たい空気に溶け込んでいく。
「いやいや。今度清水さんからとかクレームが来たときにでも、付き合ってもらえばいっかなーと」
俺が山下さんに気に入られているように、樋口も何人かの客から気に入られている。清水さんもその一人で、山下さんに負けないくらいのクセモノで有名だった。
「俺はもうクレームなんてごめんだぞ」
「それは同意見だけど、──でも。楽しかったし」
俺の発言に樋口はまるで未知の生物を見るかのような目をして俺を見ていた。
莫迦かお前。そう目で語る。
「こんな突発的な作業、しかも完徹だぞ? 海藤お前、どこかおかしいんじゃないか?」
まぁ、樋口がそういう気持ちもわかる。
けど。本当に楽しかったのだ。そして今樋口と共有するこの時間が何よりも心地よく、嬉しい。
作業中俺たちはほとんど言葉を交わさない。かわす必要がない。俺が樋口の動きを読んでいるように、おそらく樋口も俺の動きを把握しているだろうから。
本当に必要最低限の会話だけをし、手を動かし、ふと気がつくと仕事が完璧かつ迅速に終わっている。
こんな快感があるか?
数ある仕事をこなして、いったいどれだけの仕事に対して達成感をもつことができるのか?
大抵は何かしらの懸念を抱えて、完璧な達成感を得ることはできないものだ。
でも樋口とならばそれができる。
その恍惚感を上回るものなんてそうはない。
「樋口、楽しくなかった?」
俺の『楽しい』という表現のせいで樋口が難しい顔をしているのはわかっていた。
達成感を得ることができる、とでも表現すればいいんだろうが、やはり『楽しい』という表現が俺の中では一番しっくりとしていた。
樋口は相変わらず無表情で、それでもしっかりと答えを返してくる。
「そうだな。一番の収穫は武藤に幾分か、社会人としての自覚を促すことができたということだな」
そういえば武藤自身も急激な変化を遂げていたような、気がする。
最初にフロアに入ってきたとき、正直殴ってやろうかと思うほどの怒りが湧き起こっていた。
何で樋口が土下座しているのか理解できなかった。しかもその隣でなにぼーっと立っているのかと。
だが、俺と山下さんのやり取りを見ていて、それから武藤ははじかれたように動き始めた。
バックアップログをとろうとし始めた俺たちの前に立って、自分がやるから二人は準備を始めてくださいときっぱりといった。
当然山下さんはいい顔をしなかった。
しかしそこで武藤はしっかりと頭を下げ、それこそ土下座までしかねない状態で自分にどうかやらせてくれと強く主張してきた。
自分がミスをした仕事だから。
自分ができうる範囲でフォローしたいと切々と訴えかけていた。
山下さんはそんな新人の様子を見てほだされる人ではない。
当然けちょんけちょんに嫌味が始まったが、武藤はそれに耐えていた。
山下さんから解放されたあとも、あとから届く部品の運搬に奔走し、本当に自分ができる限りのことはしていた。
結局22時ごろには武藤ができるような仕事はなくなり、その上明日の朝から本社で研修があるのだからと樋口に促されて帰宅していった。
その間、涙が武器と噂だった武藤は一度も涙をこぼすことはなかった。
泣きそうな顔も、していなかったな。
確かに樋口は武藤の教育係だから、心配だった気持ちは理解できないでもない。
「武藤ってば、お前の顔を見た途端、豹変していたからな。さすがは暴れるゴールデンレトリバー。眠れるチワワを起こしたかと感心した」
だからその呼称は嫌なんだってば。
俺はちょっとばかり膨れ面をして言い返す。
「んーなこといってもさぁ。結局武藤を変えたのは樋口なわけだろー?」
俺の言葉に樋口は自分が膝をついて頭を下げた姿を思い出したらしい、さらりと言ってのけた。
「変えるような要素があったとは思えないけどな。土下座している先輩を見て改心するほど熱いタイプじゃないだろ。どちらかというとみっともないとか思っているんじゃないのか?」
そういう樋口も土下座云々ということに、大してこだわっていない。今だって何の感情を込めることなく、淡々と言い切る。
仕事が円滑に回るなら。お前はいつもそういうスタンスで動くから。
でも武藤に対し、お前がここまでさせたという自覚を促す行為だったと俺は思っている。
そして、樋口の土下座は決して見るに耐えない、屈辱的な行為とは思えなかった。
その潔さ。山下さんを真っ直ぐに見詰める目は、かえって崇高で、美しくも思えた。
武藤もそれを感じたから、だからあんなふうに変化したんじゃないだろうか。
樋口は気がついていないのだろうか。自分がいかに人に影響を与える存在か。
──正直、今までこんなに意識して、惹きつけられて、目を離せなかった奴なんていない。
「俺は、かっこ悪いとは思わなかったけど」
樋口ははじめは訝しそうな表情を向けていたが、俺が真剣にそういっていることに気がついたのか、ふと表情を緩めた。
「お前、いつからそんな口がうまくなったんだ?」
そしていつもの営業めいた笑みとは違う、とても鮮やかな笑顔を浮かべた。
とても。鮮やかで。
そして目を奪われる。
その瞬間、すとんと心の中に何かが堕ちた。
ああそうか。
そうだよ。俺は。
俺は指に煙草を挟んだまま、つぶやいた。
「樋口」
「ん?」
樋口は笑みを残したまま、コーヒーを口に含んでいる。
冴えた空気は俺の意識を、思いを、すべてを、はっきりと晒す。
「俺、お前のことが好きだ」
自然と口をついてでた言葉に反応するように、コーヒーが樋口の喉もとを通り過ぎた。
冗談を言うなといつもの樋口なら返してきただろう。
だが返事はなかった。
ただ、樋口の顔からは笑みは消えて、いつもの何を考えているのかわからない鉄面皮のまま、俺を見つめていた。
いつもの俺ならば、ここで完全防御にはいって反撃の機会をうかがうところだが、不思議と気持ちは落ち着いていた。
高揚感はない。
あるのは自分の気持ちを自覚した安堵感のようなものだった。
協調性はないわ、口は悪いわ、俺よりもてるわ、いまいち人を小馬鹿にした態度をとるわ、何より同性だったりと、本当に文句を上げたらきりがないけど。
でもそんなことすべて除外して切実に思うのだ。
こいつを知りたい。
こうだと思っていた俺の思考を見事に裏切る、いろいろな樋口を知りたいと思った。
不愛想で関心なさそうな顔をして実は面倒見がいいところも、かなりの負けず嫌いなところも、時々、本当にごくまれに柔らかで優しい笑みを浮かべるところも。
意外性のある樋口を見ると、妙なほどに高揚する自分がいる。
もっともっと知りたいと切実に思う。
夜明け前の薄闇は晴れ、茜射す空へと変わっていった。
俺は煙草を一本取り出して火をつけた。樋口にも勧めようと思ってみたものの、それが最後の一本だったことにあとから気がついた。
気まずそうな顔をしている俺に気がつき、俺はいらないと樋口は手を払った。
んじゃ遠慮なく。
思い切り煙を吸い込み、そして吐き出す。
樋口はというと、先ほど駐車場の入り口で買い求めた缶コーヒーのプルトップをあけ、ゆっくりと喉に流し込んでいた。
そうして思い思いの一服をし、俺たちは車のエンジンが温まるのをぼんやりと待っていた。
樋口とでかい仕事をしたあとはいつもこんなふうだ。
交わす言葉は極力少なく、煙草一本分、コーヒー一杯分のゆったりとした時間を共有する。
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日はまだ昇らない。
春先とはいえまだ夜は冷え込みが厳しい。そんな冴えた空気の中、俺の吐き出す紫煙と樋口の手元にあるコーヒーの湯気が微妙に絡み合った。
そのあとを視線で追い、樋口の手元に目を向け、そうしてようやく樋口の顔を見つめた。
駐車場には明かりはなく、夜も明けきらぬ薄闇の中、隣から流れてくる雰囲気は落ち着いたものだった。
先ほどまでの張りつめた雰囲気は皆無だ。
それにしても、この男は。
仕事がうまく流れるならば、自分のできる限りのありとあらゆる手段を使ってみせると公言している通り、いともやすやすと土下座さえもしてみせた。
それこそ、苦渋の色など一切見せることなく。
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俺の視線を感じたのか、樋口はゆっくりと俺へ視線を送った。
疲労の色は濃く、目の下にうっすらとクマもできていた。
うちの女子たちがお気に入りのつるんとしたあごのラインに、わずかにヒゲが生えていたりと結構散々な状態だった。
しかしそれでも俺の目を奪うくらいの吸引力を樋口は持っていた。
「悪かったな、お前を巻き込んでしまった」
樋口の声はかすれ、冷たい空気に溶け込んでいく。
「いやいや。今度清水さんからとかクレームが来たときにでも、付き合ってもらえばいっかなーと」
俺が山下さんに気に入られているように、樋口も何人かの客から気に入られている。清水さんもその一人で、山下さんに負けないくらいのクセモノで有名だった。
「俺はもうクレームなんてごめんだぞ」
「それは同意見だけど、──でも。楽しかったし」
俺の発言に樋口はまるで未知の生物を見るかのような目をして俺を見ていた。
莫迦かお前。そう目で語る。
「こんな突発的な作業、しかも完徹だぞ? 海藤お前、どこかおかしいんじゃないか?」
まぁ、樋口がそういう気持ちもわかる。
けど。本当に楽しかったのだ。そして今樋口と共有するこの時間が何よりも心地よく、嬉しい。
作業中俺たちはほとんど言葉を交わさない。かわす必要がない。俺が樋口の動きを読んでいるように、おそらく樋口も俺の動きを把握しているだろうから。
本当に必要最低限の会話だけをし、手を動かし、ふと気がつくと仕事が完璧かつ迅速に終わっている。
こんな快感があるか?
数ある仕事をこなして、いったいどれだけの仕事に対して達成感をもつことができるのか?
大抵は何かしらの懸念を抱えて、完璧な達成感を得ることはできないものだ。
でも樋口とならばそれができる。
その恍惚感を上回るものなんてそうはない。
「樋口、楽しくなかった?」
俺の『楽しい』という表現のせいで樋口が難しい顔をしているのはわかっていた。
達成感を得ることができる、とでも表現すればいいんだろうが、やはり『楽しい』という表現が俺の中では一番しっくりとしていた。
樋口は相変わらず無表情で、それでもしっかりと答えを返してくる。
「そうだな。一番の収穫は武藤に幾分か、社会人としての自覚を促すことができたということだな」
そういえば武藤自身も急激な変化を遂げていたような、気がする。
最初にフロアに入ってきたとき、正直殴ってやろうかと思うほどの怒りが湧き起こっていた。
何で樋口が土下座しているのか理解できなかった。しかもその隣でなにぼーっと立っているのかと。
だが、俺と山下さんのやり取りを見ていて、それから武藤ははじかれたように動き始めた。
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当然山下さんはいい顔をしなかった。
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自分がミスをした仕事だから。
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当然けちょんけちょんに嫌味が始まったが、武藤はそれに耐えていた。
山下さんから解放されたあとも、あとから届く部品の運搬に奔走し、本当に自分ができる限りのことはしていた。
結局22時ごろには武藤ができるような仕事はなくなり、その上明日の朝から本社で研修があるのだからと樋口に促されて帰宅していった。
その間、涙が武器と噂だった武藤は一度も涙をこぼすことはなかった。
泣きそうな顔も、していなかったな。
確かに樋口は武藤の教育係だから、心配だった気持ちは理解できないでもない。
「武藤ってば、お前の顔を見た途端、豹変していたからな。さすがは暴れるゴールデンレトリバー。眠れるチワワを起こしたかと感心した」
だからその呼称は嫌なんだってば。
俺はちょっとばかり膨れ面をして言い返す。
「んーなこといってもさぁ。結局武藤を変えたのは樋口なわけだろー?」
俺の言葉に樋口は自分が膝をついて頭を下げた姿を思い出したらしい、さらりと言ってのけた。
「変えるような要素があったとは思えないけどな。土下座している先輩を見て改心するほど熱いタイプじゃないだろ。どちらかというとみっともないとか思っているんじゃないのか?」
そういう樋口も土下座云々ということに、大してこだわっていない。今だって何の感情を込めることなく、淡々と言い切る。
仕事が円滑に回るなら。お前はいつもそういうスタンスで動くから。
でも武藤に対し、お前がここまでさせたという自覚を促す行為だったと俺は思っている。
そして、樋口の土下座は決して見るに耐えない、屈辱的な行為とは思えなかった。
その潔さ。山下さんを真っ直ぐに見詰める目は、かえって崇高で、美しくも思えた。
武藤もそれを感じたから、だからあんなふうに変化したんじゃないだろうか。
樋口は気がついていないのだろうか。自分がいかに人に影響を与える存在か。
──正直、今までこんなに意識して、惹きつけられて、目を離せなかった奴なんていない。
「俺は、かっこ悪いとは思わなかったけど」
樋口ははじめは訝しそうな表情を向けていたが、俺が真剣にそういっていることに気がついたのか、ふと表情を緩めた。
「お前、いつからそんな口がうまくなったんだ?」
そしていつもの営業めいた笑みとは違う、とても鮮やかな笑顔を浮かべた。
とても。鮮やかで。
そして目を奪われる。
その瞬間、すとんと心の中に何かが堕ちた。
ああそうか。
そうだよ。俺は。
俺は指に煙草を挟んだまま、つぶやいた。
「樋口」
「ん?」
樋口は笑みを残したまま、コーヒーを口に含んでいる。
冴えた空気は俺の意識を、思いを、すべてを、はっきりと晒す。
「俺、お前のことが好きだ」
自然と口をついてでた言葉に反応するように、コーヒーが樋口の喉もとを通り過ぎた。
冗談を言うなといつもの樋口なら返してきただろう。
だが返事はなかった。
ただ、樋口の顔からは笑みは消えて、いつもの何を考えているのかわからない鉄面皮のまま、俺を見つめていた。
いつもの俺ならば、ここで完全防御にはいって反撃の機会をうかがうところだが、不思議と気持ちは落ち着いていた。
高揚感はない。
あるのは自分の気持ちを自覚した安堵感のようなものだった。
協調性はないわ、口は悪いわ、俺よりもてるわ、いまいち人を小馬鹿にした態度をとるわ、何より同性だったりと、本当に文句を上げたらきりがないけど。
でもそんなことすべて除外して切実に思うのだ。
こいつを知りたい。
こうだと思っていた俺の思考を見事に裏切る、いろいろな樋口を知りたいと思った。
不愛想で関心なさそうな顔をして実は面倒見がいいところも、かなりの負けず嫌いなところも、時々、本当にごくまれに柔らかで優しい笑みを浮かべるところも。
意外性のある樋口を見ると、妙なほどに高揚する自分がいる。
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