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4.超過勤務
1<side 海藤>
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「海籐、お前明日から本橋さん付な」
3月下旬、新しく人員が配置される前に俺に対してちょっとした辞令が降りた。
はれて1人前と(一応)見なされた3年目エンジニアは、4年目に突入するにあたり、積極的に一人で顧客対応にあたるなり、プロジェクトでそれなりに責任のある立場にたたされたりとするはず、だった。
だから葛原さんのいっている意味が一瞬理解できず、ちょっと経ってからあからさまに納得いかないと顔に出てしまっていた。
そんな俺の表情を実にじっくりと観察して、それから葛原さんは苦笑を浮かべた。
「いつまでも本橋さん一人でうちの課のネットワーク系全般をささえているわけにはいかないだろうが」
そう補足されてようやく葛原さんの意図を理解した。
つまりは自分を本橋さんのあとがまに育てようという魂胆か。あ、そういうことなわけだ。
そんな俺を見て葛原さんは大笑いした。
「海籐お前ってわかりすぎ」
「え? 俺?」
「そうそう。最初本橋さん付って俺が言ったとき、『俺ってまだ半人前扱いかよ』って思って、んでその後俺の詳細説明を聞いた途端『俺ってだめだめちゃんレッテルをはられているわけじゃねーのね?』とほっとしただろ?」
それがまさに俺の気持ちにぴったりだったため、思わず目を泳がせてしまった。
なんで? なんでそんなにばれちゃっているわけ?
「相変わらず隠し事が下手だねぇ、真樹ちゃんは」
「葛原さん、その呼び方はほんと勘弁してほしい」
一応やんわりと主張してみるものの、葛原さんがそんな望みを聞いてくれるはずはない。
何というか葛原さんはこうして俺をいじることでストレス発散しているような節がある。
特に俺が『まきちゃん』と呼ばれることを極端に嫌がっていると知ってからは要所要所でそう呼ぶようになった。
顔をしかめた俺を見て気をよくしたのか、さらにきつい一言をお見舞いしてきた。
「まあいいんじゃないの? 本橋さんの技術を伝授してもらってますます通信系のプロになれるわけだし、樋口と顔をあわせる機会もちょいと減るから冷却期間にもなるだろうし」
突然出てきた樋口の名に、俺はこれ以上ないくらい動揺した。
瞬間、脳裏に浮かんだのは、強引に引き寄せて、間近で目にしたやたらときれいな顔。唇の感触と、絡みあう舌の滑らかさ。
……って、俺、何考えてんだよ。
暴走する思考を振り払うかのように首を振った俺を、葛原さんはこれまたダダをこねる子どもを見るような目で見つめ、軽く肩をたたいた。
「まぁさあ、何があったのか知らないがそう怒るなよ、あいつも悪いやつじゃないからさ。いいかげん許してやれよ、な?」
話の流れから察するに、どうやら樋口が俺を怒らせて、で、なんだか気まずくなっていると捉えているらしい。
ああこれが樋口のいっていた『俺ばかりが責められる』ってやつか、なんて冷静に思ったりもしたが、俺の頭の中はあの夜の衝動がフラッシュバックしていて、あいつに対する気遣いなんてできるような状態ではなかった。
「許すも何も……」
俺の独り相撲だし。
あの一件以来、樋口とはほとんど話らしい話をしていなかった。
だって何をどう切り出していいのか、俺自身がわかっていなかったから。
それは二人きりになっても同じことだった。
それこそ黙ったまま、しんとしたフロアの中一切会話はない。
それでも俺が気にしているってことはにじみ出ていたんだろうな。だから葛原さんもあんなことを言い出してきたんだろうし。
一方の樋口はというと、俺とは異なり、本当に何事もなかったかのような態度で、それがまた俺がどうしたらいいのかわからなくさせる原因のひとつだった。
嫌悪感も困惑も何もなし。『どうでもいい存在』と言外に述べられているようで、それはそれで正直つらい。
中途半端で、もやもやとした状態は気持ちのよいものではないが、そもそも自分の気持ちがはっきりとしていないことが一番の原因なのだからどうしようもない。
あれから三ヶ月経った今も、樋口に対する気持ちが何なのか、答えを出せずにいた。
「……って、おい、海藤! てめー何うちの部のアイドルチームに見とれているんだよ。てめーにそんな暇あんのか? あぁ?」
部内一がらの悪い本橋さんに軽く蹴りを入れられて、俺はようやく我にかえった。
ミーティングルームからは丁度樋口が新人を連れて出て行くところだった。どうも無意識に目で追ってしまっているらしい。
本橋さん付と俺が通告されたのと同様に樋口も次なるステップを踏んでいた。
俺とは異なり、明らかな出世コースに乗っかっている樋口に与えられた次なる職務は、新人教育という、実に全く異なる道程だった。
しかもこれだけ早い段階で新人教育を任されるということは、会社の樋口に対する期待度がいかに高いかを現している証拠でもあった。
「別に見とれてないっス」
ふいと視線をPCに戻すも、本橋さんのトークは終わらなかった。
俺につられるように本橋さんも2人に視線を送る。
「葛原もよくまぁ、あの組合わせにしたもんだよ。女子が浮かれて騒ぐのも仕方ねぇな」
美醜に関してはそれほど頓着することのない本橋さんがそこまで言うくらいだから、周囲の喧騒はよっぽどのものだろうな。
今年配属された新人は女子と見間違うばかりの、実にかわいいという表現の合う男だった。
サポ部の王子様呼ばわれしていたほどに整った顔立ちをしている樋口と並ぶと、えらく目をひく。
「アイドルチームねぇ」
「アイドルチームだろ、ありゃ。ま、対して俺らは野獣チームってところだろ。あきらめろ。俺たちは樋口らみたいに女子の注目を集めることはねぇぞ」
「なんかそれはそれで悲しいです、本橋さん」
「しゃーねぇだろ。それが現実ってもんだ」
なんといっても本橋さんはどこかの山小屋の主人かはたまたクマかとといった様相。
んでもってなぜか俺は怒ると狂犬とかいわれているし。
俺のどこをもってして狂犬? と誰かに問いただしたいのだが、その手の話題を振ると『お前わかってねぇの?』といった顔をされるので、あまり質問はしていない。
ただ確かに二人そろうとむさくるしいのは自覚している。
俺も本橋さんも学生時代はラグビーで慣らしていたせいで、結構いいガタイをしている。
これが大抵の人間に圧迫感を与えてしまうらしく、2人で並んで客先なんかにいっちゃうと、大抵は引く。
野獣ね、野獣。本橋さんがそういうならばまぁそれもいい。
俺が野獣なら、樋口はさながら美女ってところだろうか。確か、美女と野獣とかいうディズニー映画か何かがあったっけ。
あれは、どんな話だった?
ぼんやり考え込んでいると思い切り背中を叩かれた。
「ぼんやりしてんじゃねぇぞ。──っとになぁ。ちと早いが昼行くぞ」
本橋さんのいきつけの定食屋へ行き、これまたオススメのサバの味噌煮定食を前にして突然切り出された。
「で? 樋口と海藤がひとりの美女をめぐってバトってて、どうやら海藤のほうが劣勢らしく、それに同情した樋口が美女を海藤に譲ると言い出したがために深夜待機の場であやうく殴り合いのケンカになりそうになった、という噂は本当なのか?」
実によどみなく伝えられたまことしやかな噂話に、俺はあいた口がふさがらなかった。
サバを突っつく手はそのままに、本橋さんをじっくりと見入ってしまっていた。
正直、お茶でも飲んでたら噴きだしかねないくらいだった。
「何ですかそれ!」
「ん? お前たちに対して流れている噂の一例。聞いた中じゃこれが一番リアルっぽかったんだけど、違うのか?」
単独行動の超マイペースで知られている本橋さんの耳に入ってくるくらいだ。
しかもバージョンは結構そろっているってのか?
あー。うー。やだやだ。なんだそれ。他の分はとてもじゃないが聞きたくねぇ。
俺がちょっとばかり焦燥と苛立ちを感じているのは、本橋さんが言った噂にわずかな真実が含まれているせいだろう。
あのときの感情を思い出す。そして、誰かに勘ぐられているのではないかと焦る。
もしこれが樋口だったら。
きっと適当に、なおかつスマートに受け流していたことだろう。
だが本橋さんの前にいたのは俺で、そして俺はそういう関係に対してのポーカーフェイスは非常に不得意だった。
「そんなんじゃないです」
自分でも不機嫌っぷりが増大されていることぐらい、わかっていた。
「ふぅん」
本橋さんはというといつものようにマイペース全開で再び目の前のサバの味噌煮に戻った。
まるっきり興味のない態度に俺は気が緩んだのかもしれない。
つい、本音がこぼれた。
「好きなのかどうなのか、自分でもわからないのに」
「ふぅん」
そんな独り言とも取れる俺の言葉にも本橋さんは実に平坦な態度だった。
ちらりと俺へ視線を向けつつも、サバをほおばり、ご飯をかっ込むことはやめなかった。
……本橋さんもこういう気持ちになることってあるんだろうか。
「本橋さん、そーゆー経験ってないですか?」
さすがに、というか、ようやく咀嚼する口元を止めて、本橋さんは俺をまじまじとみつめた。
まさか俺がそんな恋愛関連の質問をするとは思っていなかったんだろう。
たっぷり俺を見つめて食べていたものを一気に飲み込み、それからお茶を飲んで大きく溜息をついた。
十分な間をとって、本橋さんはあきれたように聞き返してくる。
「それを俺に聞くか」
「聞きます」
「聞く相手を間違えているとは思わんのか」
「いや、俺、藁にもすがりたい気持ちでいっぱいなんで」
「お前、それ結構失礼だろーが」
そういわれても俺は真剣な表情でじいいいいっと本橋さんの顔を見つめていたわけで、それに対して本橋さんは非常に居心地の悪そうな表情を浮かべた。
「海藤、その真正面から見るクセやめろ」
本橋さんは実に嫌そうな顔をしていた。
今までの本橋さんの言動からすると、適当にごまかされ、明確な答えはかえってこないとわかっている。
それでも本橋さんにそんな質問をしたのは、多分、俺が今抱えている問題がちょっと俺の予想外すぎたせいだと思う。
予測のつかない自分の気持ちを測るには、返答の予測がつかない人物の言葉を聴いてみたい、という意識が働いたのかもしれない。
「まぁなぁ。好きかどうかわからねぇってのはねぇな。どうして好きかわからねぇってことはあっても。お前、難しく考えすぎなんじゃねぇのか?」
答えが戻ってくるとは思わなかった俺は、その本橋さんの返答を真剣に、そしてこれ以上ないくらいにかみ締めた。
ああそうなんだよね。その自覚は十分あるんだよ。あるんだけどさ。
本当にわからないんだ。
自分の感情が、行動が理解できない。
いくら頭に血が上っていたとはいえ、男を相手に引き寄せてキスしたなんてどう考えてもおかしい。
そもそも生まれてこの方同性に対してそんな欲求を持ったことがないのだから。
断言できる。俺はふわふわと柔らかい感触の女の子のほうが好きだし、そそられる。それは今でもかわりがない、はずだ。
たとえば今回の行為の対象が女の子だったなら。
そういう欲求が高まっていてつい、と結論付けられたかもしれないし、もしかしたら好きなのかもしれないとすんなり自分の衝動を受け入れられたかもしれない。
だが相手は男だ。
まるっきり、すっかりしっかりと、男だ。確かに俺よりも細身な体つきをしているが、それは決して女性に近いという類のものではない。
完全に、男だ。
あいつの何が俺をこんなに焦らせるのだろうか。
冷静に考えるという行為は正直苦手なことだが、さすがにいつまでも目をそらしているわけには行かない。
「おい、海藤、とにかく今考え込むのはやめろ。午後から客先で実地研修するからな」
容赦のない本橋さんの教育方針に俺はようやく我にかえった。
「はぁ~? 本気ですかっ!?」
軽い説明だけであとはぶっつけ本番かよ!
とまぁ、少々文句の一つも言いたいほどのシビアな教育方法だったが、今の俺にとってはそのくらいのほうがよかったかもしれない。
そうすれば、少なくとも仕事中は考え込まないで済む。
俺は気持ちを切りかえて、仕事へを意識を集中することとなった。
3月下旬、新しく人員が配置される前に俺に対してちょっとした辞令が降りた。
はれて1人前と(一応)見なされた3年目エンジニアは、4年目に突入するにあたり、積極的に一人で顧客対応にあたるなり、プロジェクトでそれなりに責任のある立場にたたされたりとするはず、だった。
だから葛原さんのいっている意味が一瞬理解できず、ちょっと経ってからあからさまに納得いかないと顔に出てしまっていた。
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「いつまでも本橋さん一人でうちの課のネットワーク系全般をささえているわけにはいかないだろうが」
そう補足されてようやく葛原さんの意図を理解した。
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「海籐お前ってわかりすぎ」
「え? 俺?」
「そうそう。最初本橋さん付って俺が言ったとき、『俺ってまだ半人前扱いかよ』って思って、んでその後俺の詳細説明を聞いた途端『俺ってだめだめちゃんレッテルをはられているわけじゃねーのね?』とほっとしただろ?」
それがまさに俺の気持ちにぴったりだったため、思わず目を泳がせてしまった。
なんで? なんでそんなにばれちゃっているわけ?
「相変わらず隠し事が下手だねぇ、真樹ちゃんは」
「葛原さん、その呼び方はほんと勘弁してほしい」
一応やんわりと主張してみるものの、葛原さんがそんな望みを聞いてくれるはずはない。
何というか葛原さんはこうして俺をいじることでストレス発散しているような節がある。
特に俺が『まきちゃん』と呼ばれることを極端に嫌がっていると知ってからは要所要所でそう呼ぶようになった。
顔をしかめた俺を見て気をよくしたのか、さらにきつい一言をお見舞いしてきた。
「まあいいんじゃないの? 本橋さんの技術を伝授してもらってますます通信系のプロになれるわけだし、樋口と顔をあわせる機会もちょいと減るから冷却期間にもなるだろうし」
突然出てきた樋口の名に、俺はこれ以上ないくらい動揺した。
瞬間、脳裏に浮かんだのは、強引に引き寄せて、間近で目にしたやたらときれいな顔。唇の感触と、絡みあう舌の滑らかさ。
……って、俺、何考えてんだよ。
暴走する思考を振り払うかのように首を振った俺を、葛原さんはこれまたダダをこねる子どもを見るような目で見つめ、軽く肩をたたいた。
「まぁさあ、何があったのか知らないがそう怒るなよ、あいつも悪いやつじゃないからさ。いいかげん許してやれよ、な?」
話の流れから察するに、どうやら樋口が俺を怒らせて、で、なんだか気まずくなっていると捉えているらしい。
ああこれが樋口のいっていた『俺ばかりが責められる』ってやつか、なんて冷静に思ったりもしたが、俺の頭の中はあの夜の衝動がフラッシュバックしていて、あいつに対する気遣いなんてできるような状態ではなかった。
「許すも何も……」
俺の独り相撲だし。
あの一件以来、樋口とはほとんど話らしい話をしていなかった。
だって何をどう切り出していいのか、俺自身がわかっていなかったから。
それは二人きりになっても同じことだった。
それこそ黙ったまま、しんとしたフロアの中一切会話はない。
それでも俺が気にしているってことはにじみ出ていたんだろうな。だから葛原さんもあんなことを言い出してきたんだろうし。
一方の樋口はというと、俺とは異なり、本当に何事もなかったかのような態度で、それがまた俺がどうしたらいいのかわからなくさせる原因のひとつだった。
嫌悪感も困惑も何もなし。『どうでもいい存在』と言外に述べられているようで、それはそれで正直つらい。
中途半端で、もやもやとした状態は気持ちのよいものではないが、そもそも自分の気持ちがはっきりとしていないことが一番の原因なのだからどうしようもない。
あれから三ヶ月経った今も、樋口に対する気持ちが何なのか、答えを出せずにいた。
「……って、おい、海藤! てめー何うちの部のアイドルチームに見とれているんだよ。てめーにそんな暇あんのか? あぁ?」
部内一がらの悪い本橋さんに軽く蹴りを入れられて、俺はようやく我にかえった。
ミーティングルームからは丁度樋口が新人を連れて出て行くところだった。どうも無意識に目で追ってしまっているらしい。
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「葛原もよくまぁ、あの組合わせにしたもんだよ。女子が浮かれて騒ぐのも仕方ねぇな」
美醜に関してはそれほど頓着することのない本橋さんがそこまで言うくらいだから、周囲の喧騒はよっぽどのものだろうな。
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サポ部の王子様呼ばわれしていたほどに整った顔立ちをしている樋口と並ぶと、えらく目をひく。
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「アイドルチームだろ、ありゃ。ま、対して俺らは野獣チームってところだろ。あきらめろ。俺たちは樋口らみたいに女子の注目を集めることはねぇぞ」
「なんかそれはそれで悲しいです、本橋さん」
「しゃーねぇだろ。それが現実ってもんだ」
なんといっても本橋さんはどこかの山小屋の主人かはたまたクマかとといった様相。
んでもってなぜか俺は怒ると狂犬とかいわれているし。
俺のどこをもってして狂犬? と誰かに問いただしたいのだが、その手の話題を振ると『お前わかってねぇの?』といった顔をされるので、あまり質問はしていない。
ただ確かに二人そろうとむさくるしいのは自覚している。
俺も本橋さんも学生時代はラグビーで慣らしていたせいで、結構いいガタイをしている。
これが大抵の人間に圧迫感を与えてしまうらしく、2人で並んで客先なんかにいっちゃうと、大抵は引く。
野獣ね、野獣。本橋さんがそういうならばまぁそれもいい。
俺が野獣なら、樋口はさながら美女ってところだろうか。確か、美女と野獣とかいうディズニー映画か何かがあったっけ。
あれは、どんな話だった?
ぼんやり考え込んでいると思い切り背中を叩かれた。
「ぼんやりしてんじゃねぇぞ。──っとになぁ。ちと早いが昼行くぞ」
本橋さんのいきつけの定食屋へ行き、これまたオススメのサバの味噌煮定食を前にして突然切り出された。
「で? 樋口と海藤がひとりの美女をめぐってバトってて、どうやら海藤のほうが劣勢らしく、それに同情した樋口が美女を海藤に譲ると言い出したがために深夜待機の場であやうく殴り合いのケンカになりそうになった、という噂は本当なのか?」
実によどみなく伝えられたまことしやかな噂話に、俺はあいた口がふさがらなかった。
サバを突っつく手はそのままに、本橋さんをじっくりと見入ってしまっていた。
正直、お茶でも飲んでたら噴きだしかねないくらいだった。
「何ですかそれ!」
「ん? お前たちに対して流れている噂の一例。聞いた中じゃこれが一番リアルっぽかったんだけど、違うのか?」
単独行動の超マイペースで知られている本橋さんの耳に入ってくるくらいだ。
しかもバージョンは結構そろっているってのか?
あー。うー。やだやだ。なんだそれ。他の分はとてもじゃないが聞きたくねぇ。
俺がちょっとばかり焦燥と苛立ちを感じているのは、本橋さんが言った噂にわずかな真実が含まれているせいだろう。
あのときの感情を思い出す。そして、誰かに勘ぐられているのではないかと焦る。
もしこれが樋口だったら。
きっと適当に、なおかつスマートに受け流していたことだろう。
だが本橋さんの前にいたのは俺で、そして俺はそういう関係に対してのポーカーフェイスは非常に不得意だった。
「そんなんじゃないです」
自分でも不機嫌っぷりが増大されていることぐらい、わかっていた。
「ふぅん」
本橋さんはというといつものようにマイペース全開で再び目の前のサバの味噌煮に戻った。
まるっきり興味のない態度に俺は気が緩んだのかもしれない。
つい、本音がこぼれた。
「好きなのかどうなのか、自分でもわからないのに」
「ふぅん」
そんな独り言とも取れる俺の言葉にも本橋さんは実に平坦な態度だった。
ちらりと俺へ視線を向けつつも、サバをほおばり、ご飯をかっ込むことはやめなかった。
……本橋さんもこういう気持ちになることってあるんだろうか。
「本橋さん、そーゆー経験ってないですか?」
さすがに、というか、ようやく咀嚼する口元を止めて、本橋さんは俺をまじまじとみつめた。
まさか俺がそんな恋愛関連の質問をするとは思っていなかったんだろう。
たっぷり俺を見つめて食べていたものを一気に飲み込み、それからお茶を飲んで大きく溜息をついた。
十分な間をとって、本橋さんはあきれたように聞き返してくる。
「それを俺に聞くか」
「聞きます」
「聞く相手を間違えているとは思わんのか」
「いや、俺、藁にもすがりたい気持ちでいっぱいなんで」
「お前、それ結構失礼だろーが」
そういわれても俺は真剣な表情でじいいいいっと本橋さんの顔を見つめていたわけで、それに対して本橋さんは非常に居心地の悪そうな表情を浮かべた。
「海藤、その真正面から見るクセやめろ」
本橋さんは実に嫌そうな顔をしていた。
今までの本橋さんの言動からすると、適当にごまかされ、明確な答えはかえってこないとわかっている。
それでも本橋さんにそんな質問をしたのは、多分、俺が今抱えている問題がちょっと俺の予想外すぎたせいだと思う。
予測のつかない自分の気持ちを測るには、返答の予測がつかない人物の言葉を聴いてみたい、という意識が働いたのかもしれない。
「まぁなぁ。好きかどうかわからねぇってのはねぇな。どうして好きかわからねぇってことはあっても。お前、難しく考えすぎなんじゃねぇのか?」
答えが戻ってくるとは思わなかった俺は、その本橋さんの返答を真剣に、そしてこれ以上ないくらいにかみ締めた。
ああそうなんだよね。その自覚は十分あるんだよ。あるんだけどさ。
本当にわからないんだ。
自分の感情が、行動が理解できない。
いくら頭に血が上っていたとはいえ、男を相手に引き寄せてキスしたなんてどう考えてもおかしい。
そもそも生まれてこの方同性に対してそんな欲求を持ったことがないのだから。
断言できる。俺はふわふわと柔らかい感触の女の子のほうが好きだし、そそられる。それは今でもかわりがない、はずだ。
たとえば今回の行為の対象が女の子だったなら。
そういう欲求が高まっていてつい、と結論付けられたかもしれないし、もしかしたら好きなのかもしれないとすんなり自分の衝動を受け入れられたかもしれない。
だが相手は男だ。
まるっきり、すっかりしっかりと、男だ。確かに俺よりも細身な体つきをしているが、それは決して女性に近いという類のものではない。
完全に、男だ。
あいつの何が俺をこんなに焦らせるのだろうか。
冷静に考えるという行為は正直苦手なことだが、さすがにいつまでも目をそらしているわけには行かない。
「おい、海藤、とにかく今考え込むのはやめろ。午後から客先で実地研修するからな」
容赦のない本橋さんの教育方針に俺はようやく我にかえった。
「はぁ~? 本気ですかっ!?」
軽い説明だけであとはぶっつけ本番かよ!
とまぁ、少々文句の一つも言いたいほどのシビアな教育方法だったが、今の俺にとってはそのくらいのほうがよかったかもしれない。
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