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3.色は思案の外
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しおりを挟む夜勤は突然やってくる。
いや、もともと決まってはいたが、ここのところ樋口との組み合わせはなかった。
おそらくスケジュールを組む葛原さんが気を使ってくれていたのだろう。
あの日以来、俺と樋口の間には今まで以上に妙な緊迫感が漂っていたのだろうから。
もっとも。異様な緊張感を漂わせていたのは俺だけといったほうが正しいかもしれない。
取引先の修理を終えて戻ってきたときにはすでに11時を回っていて、業界関係の雑誌を読んでいる樋口が一人いただけだった。
うわ樋口。
何で樋口?
という表情は思い切り表に出ていたのだろう。
「おつかれ。──一応先に言っておくが、今日、箭内《やない》さんが風邪でダウンして俺が代わった」
そっけなくそういって再び雑誌に視線を落としつつ、樋口は自分がここにいる理由を簡素に述べてきた。
「……あ、そう」
そう返すだけで精一杯だった。
さすがに樋口でしてしまったという事実は俺にとって衝撃的で、暫くはまともに樋口の顔を見ることができなかった。
まぁもともとかなり目つきの悪い視線を投げていたらしいが──俺にはそのつもりはなかったが──、できるだけ樋口を避けていた。
だってこう、顔なんか見てしまったらいろいろと思い出すことが多すぎて、まともに見れるはずがない。
俺は自分の席につき、気づかれないように深呼吸した。
落ち着け、俺。
大丈夫だ。
アレから何日もたっている。俺の動揺は樋口にはばれていない。おそらく多分きっと。うん、大丈夫だ。
俺は自分の心を落ち着けて、ようやく顔を上げた。
樋口は相変わらず雑誌に目を向けている。
自分に視線が向いていないとほっとする。と同時に拍子抜けしたところもある。
俺は事務処理にかかるべくデスクに向かった。
そのほうが落ち着いていられる。まず目を上げる必要がない。
こうして同じフロアに二人きりでいても、特に変な気分にはならない。いつもの通り、樋口は同僚としてそこにいる。変な気は起きない。
やっぱりあのときは調子がおかしかったんだ。そうだそうに違いない。そもそも春香とそのまま上手くいきそうだったのに、途中で頭がこんがらがってわけわかんない状態になっただけだ。
その春香とはあれ以来連絡を取っていない。
春香の誤解を解きたいという気持ちもあったが、あんなことがあったあとで平然といいわけをすることなんて俺にはできなかった。どうやってもあのとき俺がした行為が思い出される。
うわ。だから考えるなよ俺。
考えないって決めたじゃないか。
考えないって……。
「海藤」
突然名前を囁かれて、俺は反射的に顔を上げた。
樋口は先ほどの雑誌を閉じて、真っ直ぐ俺を見つめていた。
やめろ。
俺に視線を送るな。
とはいえ、俺自身が視線をそらすこともできず固まったまま。
どのくらいそのままでいただろうか?
先に折れたのは樋口のほうだった。
「まだ、気にしているのか?」
相変わらず感情の起伏ははっきりしない。だがほんのわずか、苛立ちと戸惑いが見え隠れする。
気にしてる?
どれのことだよ。どれ。
俺が気にしている一番のことといえば、そりゃあアレだけど。
その途端顔が赤らんでいくのがわかる。
違う。樋口が言っているのはそのことじゃないはずだ。
俺が赤くなっているのは樋口だってわかっているだろう。
「ああ。悪かったよ。あれは俺も悪乗りしすぎたと思っている。そんなに皆にからかわれたのか?」
樋口があのときつけたキスマークのことを言っているとわかるのに3秒くらい時間がかかった。
思えばあれがきっかけだった。樋口のことが気になり始めた理由。
そもそも。日頃冷静で表情の崩すことのない樋口のあの変わりように俺はまず驚いた。樋口でもそんなふうに感情を表すのだと。負けず嫌いで勝負事になると感情が表に出てくるあたりも意外だった。
「海藤」
黙って答えない俺をどう扱っていいのか樋口は困り果てて、結局立ち上がり俺に近づいてきた。
デスク二つ分あった距離は一気に縮まった。
え、なんで近づいてくるんだよ。
そのまま俺のすぐ隣、パーテーションに手をかけたまま俺を覗き込んできた。
その途端、どくんと胸の奥が鼓動を打つ。
それに呼応するかのように樋口は顔をしかめた。
「そんなに睨むな。お前が怒っているのはよくわかった」
「怒ってなんかいない」
即答。怒ってないのは間違いない。
しかし樋口はそれ自体を否定する。
「その顔で? 店であったときも言ったがお前、凄まじい顔で俺を見ているぞ」
「だからそれは。いつもは考えないのに、こう、頭を使っているから険しい眼になっているだけで睨んでいるわけじゃない!」
そこで今度は樋口が眉を寄せた。
「考えるって何を」
「だから、いろいろ。あのなぁ。俺、あまり頭を使うことねぇんだよっ。どちらかというと考えるより先に行動ってパターンで」
あ。何か俺、今、自分の莫迦を公言してないか?
そのことに樋口もあきれたのか仕方ないなこいつは、という顔をした。
俺のこのお莫迦な発言が、樋口の心に余裕を生んだのか、先ほどよりはリラックスした顔をしていた。
「わかった。つまりお前はあのときのことをいろいろと考え込んでそんな鬼の形相をしているわけだ」
ちょっと表現に文句をつけたいが、まぁその辺は目をつぶろう。
「そんなに俺、すごい形相?」
いつもの俺と樋口の会話。
樋口はそのことに気をよくしたのか、常より口数が多かった。
「俺は気にしないが、フロアの人間は皆気にしている」
あ。そうなんだ……。
「悪いことした」
しみじみつぶやく俺に樋口はほんの少しだけ笑みを見せた。
めったに感情を崩すことのない、貴重な笑顔。
自分に向けられたそれに俺は一瞬だけ見惚れてしまっていた。
「こういうときお前は役得だな」
樋口はからかうような調子で続ける。
「俺、が?」
「ああ。海藤はみんなのアイドルだから。遠まわしにプレッシャー受けたぞ。『海藤くんと喧嘩したのなら、樋口くんが大人になって謝りなさい』ってね。葛原さんにも注意を受けたしな」
そんな樋口の言葉はするりと耳から抜けていく。上手く耳に留まらない。
それぐらい、樋口の笑みは強烈だった。頬に熱がこもるのがわかる。
やっぱり俺はおかしい。
黙って樋口を見つめるので精一杯だった。
「とにかく。お互いあれはなかったことにしよう。俺も悪かったと思っている。確かにあれは普通の同僚の域を超えていた」
なかったことに。その言葉だけが耳に留まる。
全てをリセットし、元に戻る。
それは樋口の善意から出た言葉だろう。あの樋口からこんな気遣いの言葉が出るだけでも奇跡だ。
何があっても無関心で、いつも超然としている樋口らしからぬ行動だった。
でもその言動に心が晴れることはなかった。
全てなかったことに。
「そのほうが、お前にとってもいいだろう?」
俺にとってもいい?
キスマークをつけられたことも、樋口の感触も全部、樋口を思ってやってしまったことも全部なかったことに──。
──できるわけがない。
そもそも今俺に向けられた笑みをなかったことになんて、できない。
今になってよくわかった。
どうしたらいいのかはわからない。でも、後戻りをしたくないことは間違いない。
なかったことにはしたくないのだ。
ただこの笑みがもう一度みたい。俺に向けて欲しい。
その感情をなんというのかわからない。
恋だと呼ぶには安易過ぎるような気がする。
強いて言うなら。
俺は惹かれるように立ち上がった。
強いて言うなら、強い欲求。願望。それだけが俺を支配する。
なかったことにはしない。
「海藤」
「俺は、なかったことにするつもりはない」
樋口と声がかぶり、俺の真剣な様子に樋口がほんの少し怯んだときだった。
ほとんど無意識。
樋口の手を引き寄せて唇を重ねたのは。
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