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2.酒は飲むとも飲まれるな
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しおりを挟む海藤はとりあえずさっぱりさせようと思ったのか、バスルームの奥へと消えていく。
さて、どんな反応をするやら。
その瞬間を思うと自然と意地の悪い笑みが浮かんでしまう。
そんな俺の隙をついたかのように、携帯が鳴る。
反射的に時計を確認するのはいつもの癖だ。確認するまでもなく、こんな夜中にプライベートの電話にかけてくるような人間はひとりしかいない。
俺はベッドヘッドに置いてあった携帯を手にしていつものように前置きなしに電話に応対する。
「今、3時半」
俺の不機嫌そうな声にも相手は全く動じず、それどころか薄笑いでも浮かべて、高層ビルの一角から街並みでも見下ろしているんだろう。
そんな様子が頭に思い浮かび、ますます不機嫌になる。
『どうせまた不機嫌そうな顔をしているんでしょう?』
そんな俺を見透かしたような言葉を投げつけられてしまう。
「そっちは昼間かもしれないが──」
こっちは夜中。
そう続くはずだった言葉は盛大に開け放たれたドアによって中断される。
「な、んじゃこりゃぁぁぁぁぁぁっ!!!???」
さすがに俺も携帯を握り締めたまま、目を丸くした。
ま、あれを見ればそれなりに大騒ぎすると思ったが、ここまで派手にやってくれるとは。
怒れるゴールデンレトリバーは、すっかり服は脱ぎ捨てて、素っ裸で仁王立ちしている。
その格好から察するに、アレに気がついたのはシャワーを浴びる直前か。
『陽?』
どうやら相手にも海藤の声は届いたらしい。訝しげな声をなげてくる。
「何だといわれてもな。とりあえずその見苦しいモノを隠せ」
『陽? 誰と話をしているの?』
海藤は怒りに我を忘れているのか、俺の言うことなんてこれっぽっちも聞いていない。
「うるさいっ! それよりこれだよ。これは何だ? どういうつもりだ!?」
携帯片手に応答する姿は海藤にとって非常に不真面目に映ったらしい。明かに『怒っています』と全身で語っている。
しかも、あごのすぐ下あたりににくっきりとついた紅い痕を指差して。
ちょうどワイシャツでも隠れにくいそれは、暫くの間海藤の首を綺麗に飾ることだろう。
格好のネタを前にして女性陣が大騒ぎする姿が目に浮かぶ。
俺は少々気持ちを晴れやかにし、笑いを押し隠して平然と言ってのける。
「俺がやったとでも? ──ああ悪い。今、同僚と一緒にいる」
『同僚? 陽が? ……珍しいわね』
「こんなことをするヤツがお前以外にいるか!?」
何とも意味深な物言いだ。
「普通そういうことをする相手として思いつくのは彼女じゃないのか?」
「いないから言っているんだろう! こんなことをするヤツはほかに思いあたんねぇんだよ! これじゃ週明けに会社に行ったら何と言われるかわからないじゃないか!」
まさかそれが目的ですともいえず、俺は黙って聞いていた。
それと同時に携帯からも怒りがひしひしと伝わってくる。
『陽、あなたどこにいるのよ。相手、誰? 男?』
「だから、同僚。酔っ払って絡まれて介抱していただけだ。酒でも残っているんだろ。まだ絡まれてる」
「俺はからんでなんかいないし、そもそも人と話しているときに電話なんてするな!」
『何で介抱していたはずなのに、口ゲンカなんてしているのよ』
「それは違うだろう、海藤。お前が人の電話に割り込んでいるんだ。──相手が仕掛けてくるんだから仕方がないだろう? 俺に文句を言われても困る」
「そもそもこんなことする樋口が悪い!」
ここまでくるとヒステリーに通じるものがあるなと冷静に分析している自分がいる。しかも会話が混ざっていて、面倒くさい。
面倒だという思いはそのまま行動で出た。
今にもつかみかからんばかりに接近していた海藤を引き寄せて、足を払った。
「う、わ!」
以前もこうして自分の下に倒したことはあるが、今回は左足で体重をかけ、一切の動きを封じて口元を無理やり抑えた。
とりあえず海藤は後回しだ。
しかし俺のそんな心遣いは全くの無駄に終わる。
『電話越しに痴話ゲンカを聞くことになろうとはね』
からかい半分、苛立ち半分。電話の相手は自分が世界の中心にいなければ気が済まない。電話の向こうで笑っていながら目だけは怒っているだろう姿が目に浮かぶ。
「その表現は心外だな」
『私は陽以上に心外。──悪いけど、もうすぐ出かけなきゃ。いいわけはそちらに行ってからゆっくり聞かせてもらう』
そう一方的に言い捨てられて電話は切られた。
冗談だろう?
俺の下で、怒りで真っ赤な顔をしてもがいていた海藤は、隙をついて身体を起こして俺につかみかかってきた。
「お前どういうつもりだよ!」
しかし俺はいつものようにやり返す気力を残していなかった。
痴話ゲンカ? これと?
冗談じゃない。からかうネタにはなってもこいつに甘い睦言を吐くなんて絶対にありえない。こういう単純バカは一番苦手で一番不得手なんだ。
いつもならば気分転換にとからかい半分で言い返すが、今となっては面倒でただ黙って見つめているだけだった。
面倒。
そう確かに面倒だ。言い訳なんてごめんだ。そもそも言い訳をしなければならないような人間関係を形成すること自体面倒。
つまり海藤は俺が面倒と思うことの集大成ってことか。
「樋口? 俺はどういうつもりかと聞いているんだけど」
いっこうに反応しない俺に少々トーンダウンして再度問いかけてくる。
それがさらに俺をいらつかせた。
だから、すぐそばにあったバスタオルを投げつけて言い捨てた。
そのまま真っ直ぐ指を刺す。
「それは。スーツの仕返しのつもり。ささやかな復讐。それぐらいいいだろう? あのスーツは今年新調した俺の気に入りで、大枚はたいて買ったシロモノだ。ついでに言うと先ほどのやり取りのせいで、俺はゲイと間違われ、言い訳に奔走しなければならなくなったしな。それにその見苦しいモノをさっきから目の前で披露されているのも不愉快だ」
俺の言葉に暴れまくっていたゴールデンレトリバーは、途端にしゅんとした。
慌ててタオルを腰に巻く。
「えっと。今の彼女、か?」
「だったら、何」
「いや。もしさっきので誤解されたんなら、申し訳ないなぁと」
……こいつって、莫迦?
俺は相変わらず冷たい視線を投げていたが、海藤の人のよさにあきれ果てていた。
自分がされたことはもうどうでもいいのか? 先ほどまでの怒りはどこに行ったんだ? 大体この変わりようはなんだってんだ。
「なんなら俺、きちんと説明するけど」
あまりにお人よしな発言。
あ。もう。こんな莫迦に付き合っていられない。
俺はそのままシーツを捲り上げてベッドで丸まった。
シーツは意外にも柔らかで、急激に眠気が訪れる。
「おい樋口」
「うるさい。とりあえず俺は寝る。帰るなら勝手に帰れ。静かに眠らせろ」
先ほど海藤に抱えられた状態だったため、俺はろくに寝ていない。
冗談じゃない。腹が立つ。眠い。あとのことを考えるとさらに面倒。
その時点で俺はすでに海藤の存在自体をシャットアウトした。
俺と海藤の関係が微妙に変わったのはこのころ。
勿論このとき俺は海藤に特別な感情を抱いた覚えはない。
もうひとつ言っておくなら俺はゲイではないし、性的対象は女性であり、男で欲情することはない。
それは海藤だって同じこと。
のはず。
とにかく。やはり後から考えてみればターニングポイントはここだったといえるだろう。
2、3時間ほど眠りに落ち、目が覚めたそこには寝る前と同じ体制で暴れるゴールデンレトリバーが座っていた。
海藤は帰っていなかった。
熟睡していた俺とは異なり、海藤は一晩中起きていたようだった。
何を考えていたのかは、俺もわからない。
ただ、珍しく真剣に、思案顔で空を見つめていた。
──だからといって知的な論理を繰り広げていたというわけではないだろうが。
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