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1.深夜勤務
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しおりを挟む「樋口、電話が鳴っている」
そのまま樋口に押し倒された格好で、俺はそう告げる。
平静を装ったつもりだったが、樋口はどう感じただろう?
ちらりと番線を確認して、それから表情を崩すことなく俺に向き直った。
どうやら電話は完全無視。
ええい、無視するなっ。俺たちはコールがきたら応える。そのために夜勤についているんだろうが。
俺は樋口を押しやって受話器に手を伸ばそうとした。──が。
樋口はそれをやんわりと制する。
「樋口」
夜勤当番なんだから出るのが当然だろう?
そう目で訴えたものの、樋口は完全に俺の意思なんて無視している。
押しのけてしまえばそれで終わり。
そのはずだがどうしても振り払えない。どうやらうまい具合に押さえ込まれているらしい。そういやこいつ、柔道だの空手だの有段者という話をはるか昔にしていたような。
樋口に押さえ込まれた身体は痛くはないが、背中に当たる乱雑な文房具がちくちくと痛い。
「どけよ樋口。ファイルだのボールペンだのが当たって背中がいてぇんだよ」
しかし俺の言葉に反応はない。
ただ口の端をにいっと釣り上げて、ぐっと顔を近づけた。
「そういうなよ。ほらほら。散々お褒めいただいた顔だ。しっかり堪能しろ」
いや、堪能してくれという表情じゃないよな……。
珍しく笑みを浮かべているとはいえ、その目はどう見ても笑っていない。
「え、もしかして怒っている?」
敢えて確認するかのようにつぶやくと、樋口はますます口の端を吊り上げ、ますます目に怒りを浮かべる。
なんだよ。
なんだなんだなんだ。
ちゃんとそうやって怒っている表情もできるんじゃないか。
不機嫌な顔は見せても、感情の起伏らしいものを見せることはなったあの樋口が、ちゃんと怒っている。
その事実に幾分気持ちが高揚するのを止められなかった。
「美人だの、整っているだの、うるさいんだよ」
え、怒りの原因はそこ?
「どいつもこいつも、顔のことしか口にしない」
吐き捨てるように言って、なおも俺の腕を締め上げる。
そこには常ではない、怒りといら立ちに満ちた樋口の姿があった。
その瞬間、ぞくりと体中に何かが走った。
樋口にしてみればうんざりしていたのかもしれない。
俺にしてみればうらやましいことでも、樋口にとっては不愉快でしかなかったのかもしれない。
それでも。樋口が嫌がっていたとしても。
常では見られない、感情もろだしの樋口の顔を見て、妙な高揚感を覚えていた。
樋口のそれとは別に、俺は楽しくなってきて思わず笑う。
「へぇ、いいじゃん」
そんな俺の様子に意表を突かれたのか、少しばかり樋口はひるんだ。
「何が」
「感情むき出しの樋口の顔」
そう言われて、ようやく今の状況が『樋口らしくない』ということに気が付いたらしい。
樋口はバツの悪そうな顔をして視線をそらした。
本当は、こんな顔もできるんじゃないか。
仕事のために作り上げた顔ではなく、すべてを拒否するような不機嫌気味の顔でもなく。
「そっちのほうがいい」
笑う俺に対して樋口はわずかに戸惑いを見せていたが、すぐさまいつもの無表情を決め込んだ。
あ、また戻った。
このまままた、いつもの樋口に戻ってしまうのだろうかと思った。が。
「お前、何? 倒されて、この状況で『いい』って」
再び向けてきた樋口の目は、獲物を追い詰める肉食獣に似たそれだった。
あ、やべ。
なんだろう。ちょっとまずい状況に陥っている気がする。
そんな思いがしっかり顔に出ていたのだろう。畳みかけるように追い詰めるかのような物言いをする。
「状況把握が甘いのはお前の欠点だな」
「あー、うん。お前が有段者ってこと、すっかり忘れていたんだよ」
仕事以外で会話をしたのは入社時の懇親会のときくらいだったしな。
懇親会でそんなことを言っていたような気がするが、忘れていても当然だろう?
不機嫌な王子様は入社当時から不機嫌な王子様だった。
細くて折れそうに見えても、実はしなやかで強靭。
それは入社のときに感じていたはずだ。こいつは手ごわいって、あの時そう思っていたのに。──甘く見ていた。
その結果が、これ。
「……俺が悪かったよ。いくらでも謝るよ。すまんすまん。だからこの状況は勘弁してくれ。押し倒されるのは慣れてねぇ」
早く解放してほしくてまくしたてた俺を、樋口はじっと見つめながら微かに声を立てて笑う。
本当に。
今日は見たことのない樋口をいくつもいくつも見せてくる。
そしてもっとさらにたくさん見たいと思う自分がいる。
……って、なんだ俺。どうした俺。
早く。早く早く早く。この状況から逃れなきゃいけない。
でないと。
──でないと?
何とか押しのけようとして、さらに力を籠める。
まるで力くらべのように押し合いをする。
「ふーん。押し倒すのは慣れているわけだ」
「珍しく饒舌だな、樋口。いいから、どけって」
多分、力の押し合いではほぼ互角。
そのことは樋口もすぐに気が付いたのだろう。
ぐぐいと上から体重をかけてくる。
そのまま樋口は前のめりになり、耳元に唇を寄せてきた。
二人しかいないフロア。
囁かずとも聞こえるのに、あえて耳元に声を吹き込んできた。
「たまにはいいんじゃないのか? 押し倒されるのも」
ぞくりと背筋に何かが走る。
恐怖ではない。そうではなくて、男には感じたことのないある種の高揚感。
それは耳元に感じる樋口の吐息のせいか、それともふと見せた樋口の妖艶な笑みのせいか。
いやそもそもなんだ、その思わせぶりな言動は。
だがもっとやばいのは俺だろ。高揚感って。何を俺は。
状況を捉えるのに必死な俺の耳に再びコールが響く。
「はい、法人サポート部です」
それが合図とでもいうように、樋口は俺の拘束を解き、平然と電話に出ていた。
なんで、そんな。
思わず耳元をなぞる。
俺の耳元で意味深な言葉を囁いたその吐息の余韻も冷めやらぬ直後。俺から離れる間際。
追い打ちをかけるようにかすかに触れて離れた。
今でもはっきりと感触が残っている。
囁く吐息と樋口の唇が触れた感覚が。
なんだよおい。俺はからかわれたのか?
いずれにせよ、いいようにあしらわれたのは間違いない。
拘束は解かれているにも関わらず、起き上がることもできずに天井を見上げていた。
俺は樋口に完敗したことを悟った。
ああくそ。お願いだ。誰かリベンジの機会を俺にくれ。
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