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やっと見つけた
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さすがにこれはない、って思われたかな……。婚約も見直し、いや、もう公式発表を待たずに破棄になるかな。
アシュレイ様がそんな事思うわけがないとわかっているのに、溜め息の正体について心の憶測はどんどん悲観的な方へと流れて行く。
ああ嫌だな。こんな事考えてしまうなんて、アシュレイ様に失礼だ。
たとえ婚約が破棄されるとしても、きっとアシュレイ様は最後まで優しいはず。そういう人じゃないか。
と、心の中で繰り返し言い聞かせる。
顔を上げられないまま俯いていると、
「――エメ」
名前を呼ばれた。
その声は、瞳と同じ穏やかさで。
だけど、やっぱり私は顔を上げられなくて、膝の上で拳を固く握り込んだ。
コツリ、という小さな音の後に衣擦れの音がしたのはその時だった。
俯いた暗く狭い視界に、アシュレイ様の靴先が映る。床についた片膝も。
――え……、 跪いて……?
瞠目すると同時に、膝の上で握り込んでいた拳がアシュレイ様の温かな手に包まれた。
「エメ……。駄目だよ、そんなに強く握っては。傷がついてしまう」
そう言って、アシュレイ様の手が私の拳をやんわり開かせ、一本一本の指をゆっくり伸ばしていく。
「君の悪いところは、自分を大事にしない事だね。ロペス嬢を助けた行為はとても尊いし、エメが彼女を見捨てられなかった事も理解してるけど……引き換えのように自身の命をああも軽々しく扱うなんて……私はね、今けっこう怒っているんだよ」
「……っ」
ピリ、とした空気に思わず身が竦む。
「……ああ、ごめんね。怖がらせたかったわけじゃないんだ。私が怒っているのは主にそんなエメを囮に使ってしまった自分自身にだから……本当にごめん。君に甘えて、君を危険に晒したのは他でもない私だ……」
そんな事ないと何度も頭を振る私に、兄上の言う通りエメはとんだお人好しだよ、と苦笑する声色を耳が受け取る。
そうだ、と一度立ち上がったアシュレイ様が、窓へ歩み寄るとカーテンを開いた。窓から差す月明かりが彼の美しい姿を浮き上がらせる。
柔らかな光は斜めに伸びて、私の足下まで濃い暗闇を払ってしまった。
戻って来たアシュレイ様が、再度私の足下へ跪く。
私の手を取るとくるりと裏返した。手のひらを月明かりに晒してじっと見つめたと思うと渋面になる。
「あ、やっぱり。ほらここ、爪で傷がついてる。もう強く握っては駄目だからね?」
くっきりついた爪跡の下辺りをアシュレイ様の親指が労わるようにゆっくり撫でるから、少しだけ擽ったい。
「……ねえ、エメ。君は今、なにを恐れているの?」
その言葉にハッとする。つい顔を上げてしまったら、アシュレイ様と目が合った。月明かりを背に、逆光にもかかわらずその瞳がどこまでも真っ直ぐに私を貫くのがわかる。まるで何もかも見透すみたいに。
その視線に耐えきれなくて、唇を噛んだ私はまたもや俯いた。
「……私は、」
喉が、声が震える。
「うん……」
空気に溶けるような静かな相槌。
「私は……この国に来た時、三年を終えて無事に卒業出来たら故郷へ帰ってそこで職を得、以後死ぬまでずっとひとりで生きて行くのだと……諦めていました。家督は弟が継ぐとはいえ、私も辺境伯家の娘として本当は家族の役に立ちたかった。領地の発展のためにどこか良い条件の貴族家に嫁げれば良かった。なのに、私にはそれすら望む事が出来なくなって、もちろん家族はそんな事は僅かも望んでいなくて、ただ私の幸福を願ってくれたけど、それでも私はあの人たちの役に立ちたかった。結局は余計に迷惑をかけてしまって、だからもうこの先ずっと私は諦めながら生きて行くのだろうな、と漠然と考えていました……」
うん、と返る。
話が曖昧すぎてきっと意味なんてわからないだろうに、それでも真摯に耳を傾けてくれることがわかってしまって、安心すると同時に申し訳なさで胸がチクチク痛む。
「諦めるという作業は難しい事ではありません。心から切り離してしまえば良い。実に単純な作業で、だから初め、第二王子殿下の婚約者と聞いた時はあまりに想定外だったので驚きましたし、実は母からもきつく命じられていたのです、王子には決して近づくな、と。なのに学園の校門を潜った途端、殿下に話しかけられて、何かわけありな様子で、信じられない事に触れられても嫌じゃなくて。手作りお菓子が本当に本当に感動するくらい美味しくて、この優しい方のために出来る事があるなら、って。でもいずれセレッサ嬢の件にカタがつけばこの婚約も白紙に戻るだろうと……諦めて…………そう、諦めたかった。望んだらいけないから……」
うん、と言う柔らかな声。
「なのに、アシュレイ様に触れられたら嬉しくて、心が満たされて、もっと、って。いつの間にかもっと触れてほしいな、もっとこの方のそばにいたいな、なんて法外な願いばかり持つようになって、でもアシュレイ様に嫌われるのが怖くて言わないといけない事も言えなくて……問題を先延ばしにするせいでアシュレイ様がどれだけ迷惑を被るか……それがどれだけ誤った判断かわかっているのに、それでも言えなかった……」
わかってるよ、と言うかのように、私の手を包むアシュレイ様の手にやんわり力が入る。
「ねえ、エメ? 君が怖がっているのは、私のそばにいられなくなる事で合ってる……?」
言葉なく、こくりと頷いた。
「もうひとつ聞かせて? とても大事な質問なんだけど、エメはどうして勉強が好き?」
脈絡のない質問に、俯いたまま面食らう。なぜアシュレイ様が急にそんな事を聞いてくるのかわからず、だからこそ困惑しつつも考えるよりも先に答えが自然と口をついて出ていた。
「勉強をして新しいことを知るたびに目の前の閉じた世界がどんどん広がって、まるで背中に一枚ずつ羽根が生えていくみたいな、そうしてやがてたくさんの羽根が翼となってどこまでも飛んでいけそうな、わくわくと胸が躍るような気持ちがしたんです」
目の前で、息を呑む気配がした。次いで、やはり……という囁く声が聞こえ、
「――ああ、やはり…………やはりエメ、君だった。君が七年前、私を助けてくれた女の子だったんだね……」
感慨と確信の籠った声に、私は弾かれたように顔を上げた。
震える唇を動かし、どうして、とアシュレイ様を見れば、どこか泣きそうな顔で微笑んでいた。
「助けてくれた女の子についてひとつ覚えている事があってね。今まで誰にも話したことはなかったのだけど、あの日校舎裏へ向かった私は、誰もいないそこで小さな手に枝を握り、地面に向かって熱心に何かを書きつけている金髪の女の子の後ろ姿と出会ったんだ。何をしているのかと訊ねたら、さっき授業で教師が言っていた事を書いている、と。私より幾らか歳下に見える幼い子供が記憶を頼りに驚くような早さでどんどん地面に書きつけていくんだ。それも正確に。他の子たちは皆遊びに夢中になっているというのにね。だから興味をひかれた私はその子に訊ねたんだ。どうして勉強が好きなの? と。そうしたらその子は手を止めることなくこう言った。 ――勉強はまるで背中に一枚ずつ羽根が生えていくようなもので、いつか翼になればどこまでも飛んでいけそうな気がしてすごくわくわくする、と」
目を見開いて言葉を失う私に、
「……やっと見つけた」
沁み入る声で、あの時の男の子がそう言った。
「こんな近くにいたなんて……ずっとあの時の子がエメだったら良いのに、って思ってたから……本当に嬉しいよ。それにエメが私を助けてくれた子なのだから、私と離れるなんて怖がらなくても……、」
「――違う! そんなんじゃない! 違うんです……!!」
潤む声に居た堪れなくなった私は、アシュレイ様の話を遮ると激しく頭を振った。
「そんな……あれはそんな……美談にして良いものじゃない……っ、あれは……っ」
「……エメ?」
どうしたの、と戸惑う声に、ハッと我に返る。
これを言ったら幻滅されるだろうか。そうはならなくても、もうこの国にはいられないかもしれない。
ああ、頭の中も心の中ももうぐちゃぐちゃだ。
……でも。だからと言って嘘は吐けない……。アシュレイ様にだけは嘘を言いたくない。誤魔化したくない。そんな不誠実な事、やってはいけないんだ。
「あれは……あの時の犯人は……アシュレイ様、あなたを狙ったのではないのです。本来は私を襲うはずだった……」
え、とアシュレイ様が瞠目する。
夜空に流れる雲が隠したのか、室内に差していた月明かりがすうっと細くなって消えた。
「――あなたは、私のせいで心に深い傷を負わなければならなくなったのです……アシュレイ様」
震えて不明瞭なはずの小さな声は、やけにはっきり響いた後、暗闇に溶けた。
アシュレイ様がそんな事思うわけがないとわかっているのに、溜め息の正体について心の憶測はどんどん悲観的な方へと流れて行く。
ああ嫌だな。こんな事考えてしまうなんて、アシュレイ様に失礼だ。
たとえ婚約が破棄されるとしても、きっとアシュレイ様は最後まで優しいはず。そういう人じゃないか。
と、心の中で繰り返し言い聞かせる。
顔を上げられないまま俯いていると、
「――エメ」
名前を呼ばれた。
その声は、瞳と同じ穏やかさで。
だけど、やっぱり私は顔を上げられなくて、膝の上で拳を固く握り込んだ。
コツリ、という小さな音の後に衣擦れの音がしたのはその時だった。
俯いた暗く狭い視界に、アシュレイ様の靴先が映る。床についた片膝も。
――え……、 跪いて……?
瞠目すると同時に、膝の上で握り込んでいた拳がアシュレイ様の温かな手に包まれた。
「エメ……。駄目だよ、そんなに強く握っては。傷がついてしまう」
そう言って、アシュレイ様の手が私の拳をやんわり開かせ、一本一本の指をゆっくり伸ばしていく。
「君の悪いところは、自分を大事にしない事だね。ロペス嬢を助けた行為はとても尊いし、エメが彼女を見捨てられなかった事も理解してるけど……引き換えのように自身の命をああも軽々しく扱うなんて……私はね、今けっこう怒っているんだよ」
「……っ」
ピリ、とした空気に思わず身が竦む。
「……ああ、ごめんね。怖がらせたかったわけじゃないんだ。私が怒っているのは主にそんなエメを囮に使ってしまった自分自身にだから……本当にごめん。君に甘えて、君を危険に晒したのは他でもない私だ……」
そんな事ないと何度も頭を振る私に、兄上の言う通りエメはとんだお人好しだよ、と苦笑する声色を耳が受け取る。
そうだ、と一度立ち上がったアシュレイ様が、窓へ歩み寄るとカーテンを開いた。窓から差す月明かりが彼の美しい姿を浮き上がらせる。
柔らかな光は斜めに伸びて、私の足下まで濃い暗闇を払ってしまった。
戻って来たアシュレイ様が、再度私の足下へ跪く。
私の手を取るとくるりと裏返した。手のひらを月明かりに晒してじっと見つめたと思うと渋面になる。
「あ、やっぱり。ほらここ、爪で傷がついてる。もう強く握っては駄目だからね?」
くっきりついた爪跡の下辺りをアシュレイ様の親指が労わるようにゆっくり撫でるから、少しだけ擽ったい。
「……ねえ、エメ。君は今、なにを恐れているの?」
その言葉にハッとする。つい顔を上げてしまったら、アシュレイ様と目が合った。月明かりを背に、逆光にもかかわらずその瞳がどこまでも真っ直ぐに私を貫くのがわかる。まるで何もかも見透すみたいに。
その視線に耐えきれなくて、唇を噛んだ私はまたもや俯いた。
「……私は、」
喉が、声が震える。
「うん……」
空気に溶けるような静かな相槌。
「私は……この国に来た時、三年を終えて無事に卒業出来たら故郷へ帰ってそこで職を得、以後死ぬまでずっとひとりで生きて行くのだと……諦めていました。家督は弟が継ぐとはいえ、私も辺境伯家の娘として本当は家族の役に立ちたかった。領地の発展のためにどこか良い条件の貴族家に嫁げれば良かった。なのに、私にはそれすら望む事が出来なくなって、もちろん家族はそんな事は僅かも望んでいなくて、ただ私の幸福を願ってくれたけど、それでも私はあの人たちの役に立ちたかった。結局は余計に迷惑をかけてしまって、だからもうこの先ずっと私は諦めながら生きて行くのだろうな、と漠然と考えていました……」
うん、と返る。
話が曖昧すぎてきっと意味なんてわからないだろうに、それでも真摯に耳を傾けてくれることがわかってしまって、安心すると同時に申し訳なさで胸がチクチク痛む。
「諦めるという作業は難しい事ではありません。心から切り離してしまえば良い。実に単純な作業で、だから初め、第二王子殿下の婚約者と聞いた時はあまりに想定外だったので驚きましたし、実は母からもきつく命じられていたのです、王子には決して近づくな、と。なのに学園の校門を潜った途端、殿下に話しかけられて、何かわけありな様子で、信じられない事に触れられても嫌じゃなくて。手作りお菓子が本当に本当に感動するくらい美味しくて、この優しい方のために出来る事があるなら、って。でもいずれセレッサ嬢の件にカタがつけばこの婚約も白紙に戻るだろうと……諦めて…………そう、諦めたかった。望んだらいけないから……」
うん、と言う柔らかな声。
「なのに、アシュレイ様に触れられたら嬉しくて、心が満たされて、もっと、って。いつの間にかもっと触れてほしいな、もっとこの方のそばにいたいな、なんて法外な願いばかり持つようになって、でもアシュレイ様に嫌われるのが怖くて言わないといけない事も言えなくて……問題を先延ばしにするせいでアシュレイ様がどれだけ迷惑を被るか……それがどれだけ誤った判断かわかっているのに、それでも言えなかった……」
わかってるよ、と言うかのように、私の手を包むアシュレイ様の手にやんわり力が入る。
「ねえ、エメ? 君が怖がっているのは、私のそばにいられなくなる事で合ってる……?」
言葉なく、こくりと頷いた。
「もうひとつ聞かせて? とても大事な質問なんだけど、エメはどうして勉強が好き?」
脈絡のない質問に、俯いたまま面食らう。なぜアシュレイ様が急にそんな事を聞いてくるのかわからず、だからこそ困惑しつつも考えるよりも先に答えが自然と口をついて出ていた。
「勉強をして新しいことを知るたびに目の前の閉じた世界がどんどん広がって、まるで背中に一枚ずつ羽根が生えていくみたいな、そうしてやがてたくさんの羽根が翼となってどこまでも飛んでいけそうな、わくわくと胸が躍るような気持ちがしたんです」
目の前で、息を呑む気配がした。次いで、やはり……という囁く声が聞こえ、
「――ああ、やはり…………やはりエメ、君だった。君が七年前、私を助けてくれた女の子だったんだね……」
感慨と確信の籠った声に、私は弾かれたように顔を上げた。
震える唇を動かし、どうして、とアシュレイ様を見れば、どこか泣きそうな顔で微笑んでいた。
「助けてくれた女の子についてひとつ覚えている事があってね。今まで誰にも話したことはなかったのだけど、あの日校舎裏へ向かった私は、誰もいないそこで小さな手に枝を握り、地面に向かって熱心に何かを書きつけている金髪の女の子の後ろ姿と出会ったんだ。何をしているのかと訊ねたら、さっき授業で教師が言っていた事を書いている、と。私より幾らか歳下に見える幼い子供が記憶を頼りに驚くような早さでどんどん地面に書きつけていくんだ。それも正確に。他の子たちは皆遊びに夢中になっているというのにね。だから興味をひかれた私はその子に訊ねたんだ。どうして勉強が好きなの? と。そうしたらその子は手を止めることなくこう言った。 ――勉強はまるで背中に一枚ずつ羽根が生えていくようなもので、いつか翼になればどこまでも飛んでいけそうな気がしてすごくわくわくする、と」
目を見開いて言葉を失う私に、
「……やっと見つけた」
沁み入る声で、あの時の男の子がそう言った。
「こんな近くにいたなんて……ずっとあの時の子がエメだったら良いのに、って思ってたから……本当に嬉しいよ。それにエメが私を助けてくれた子なのだから、私と離れるなんて怖がらなくても……、」
「――違う! そんなんじゃない! 違うんです……!!」
潤む声に居た堪れなくなった私は、アシュレイ様の話を遮ると激しく頭を振った。
「そんな……あれはそんな……美談にして良いものじゃない……っ、あれは……っ」
「……エメ?」
どうしたの、と戸惑う声に、ハッと我に返る。
これを言ったら幻滅されるだろうか。そうはならなくても、もうこの国にはいられないかもしれない。
ああ、頭の中も心の中ももうぐちゃぐちゃだ。
……でも。だからと言って嘘は吐けない……。アシュレイ様にだけは嘘を言いたくない。誤魔化したくない。そんな不誠実な事、やってはいけないんだ。
「あれは……あの時の犯人は……アシュレイ様、あなたを狙ったのではないのです。本来は私を襲うはずだった……」
え、とアシュレイ様が瞠目する。
夜空に流れる雲が隠したのか、室内に差していた月明かりがすうっと細くなって消えた。
「――あなたは、私のせいで心に深い傷を負わなければならなくなったのです……アシュレイ様」
震えて不明瞭なはずの小さな声は、やけにはっきり響いた後、暗闇に溶けた。
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