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こんにちは、ジュディス様
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騒めきの続く中、アシュレイ様と並んで学園の門扉を潜る。
エントランスの手前でちょうど幼馴染組三人と会ったので挨拶を交わし、セシル様に恋人繋ぎを揶揄われた後アシュレイ様と別れて自分のクラスへ向かった。
向かう途中ずっと騒がしかったのだけれど、教室に入ると女子寮の時と同じく一瞬静まり返った後、騒然となった。
なんか知らん奴入って来た、みたいに訝しげな反応から私と気づいて、お前か!? みたいな流れで。
「エメ、おはよう。一瞬誰かと思ったけど……うん、すっごく似合ってる」
最初に声をかけてくれたのはカミーユで、にこにこしながら褒めてくれた。
「ありがとう、カミーユ。昨日アシュレイ殿下が切ってくれたんだ。私に切らせてって言うからお任せしたんだけど、すごい器用だよねえ」
と言うと、全員が驚く。 ……って、うん、まあそうなるよね。お前、王子に髪切らせたんか、って。
「あわわ……独占欲つよ……」
呆然とカミーユが呟いてるけど、 ……んん? そっち? 独占欲……?
ていうか、独占欲と言えばむしろおたくのジュリアンさんの方こそじゃなくて? ほら、ちょっと悔しげに「僕もカミーユの髪を切れるよう理髪師に弟子入りすべきだろうか……?」なんて思い詰めた顔で自問自答してますよ……?
「あっ、エメ! 前髪切ったのね、なかなか良いじゃない」
教室に入るなり駆け寄って来たのはケイトで、ニコルは私をちらりと見たあと自分の席に行きかけたと思ったら勢いよく振り返った。
「……っ!? お前エメか!?」
思わず噴出する私とみんな。
「お手本にしたいくらいの見事な二度見だったね」
「いや、だって。知らん奴いんなと思ったけど、なんか顔の下半分エメじゃね? って」
「顔の、下半分……っ」
駄目だ……なにその表現……っ、言いたいことはわかるけど!
もうそれからは授業が始まるまでみんなで笑い転げてしまった。
でも、そのおかげであっさり素顔が受け入れられたし、今までどことなく壁を感じていた人たちの警戒心が一気に薄らいだので、心の中でニコルに感謝を捧げた私である。
ー * ー ** ー * ー ** ー * ー
昼休み、いつものようにニコルとケイト、それにジュリアンとカミーユの五人で昼食をとった後、図書室へ行きたかった私はひと足先に皆と別れ、第二棟へと向かった。
借りたかった本を借りて教室へ戻ろうとした時、ふと窓から外を見下ろした私は、そこにクールビューティー・ジュディス様がひとり、木陰のベンチに腰を下ろして本を読んでいるのを発見した。
読書中に声をかけたら鬱陶しいかな、と逡巡するも、生徒会の中でジュディス様とはまだあまり話した事がなかったからこれは好機なのでは、と心を奮い立たせて図書室を飛び出す。
走ってはいけないうえにどうも私は鈍臭いらしく、走ろうとすると転びそうになるので自分なりの早足で急ぎ、ジュディス様の前に立った。
「こんにちは、ジュディス様」
声をかけたら、顔を上げたジュディス様が縁なし眼鏡の奥で一瞬目を丸くすると、小首を傾げながら薄く微笑んだ。艶やかな亜麻色の髪がさらりと肩から胸に流れ落ちる。
「――こんにちは、エメ様。髪を切られたのですね。ところで、どうされました?」
ジュディス様は、手に持っていた本に栞を挟むとぱたりと閉じて、膝の上に置く。
「……あの、今本に挟まれた栞、ひょっとしてミモザの押し花ですか?」
優しく明るい黄色がちらりと見えた気がしたのでつい訊ねてしまったのだけど、ジュディス様はわざわざ本から栞を取り出して見せてくれた。
「よくおわかりになりましたね。エメ様の仰る通り、ミモザです。花言葉の『友情』を表すように、とある友人からの贈り物なのですよ」
……あれ。ほんの一瞬、ジュディス様の瞳が切なげに揺れた気がしたのだけど……気のせいかな……?
まじまじと見ても、もう黄水晶の瞳はいつもと同じで凪いでいる。 ……やっぱり気のせいか。
気を取り直し、
「ご友人から……それは素敵ですね」
と答えたら、静かな微笑みが返ってきた。
「ええ、ありがとうございます。 ……ところで、エメ様は私に何か御用件がおありでしたか? ……ああ、その前に失礼しました。よろしければ、どうぞお掛けになってください」
隣にどうぞ、と手で促されたので、ありがたく座らせてもらう。
「ありがとうございます。 ……えっと、特に用事はなかったのですが、ジュディス様とはあまり話をした事がなかったので……。でも読書中でお邪魔でしたよね、すみません」
「ふふ、いえ。お気になさらず。夢中になっていたわけではなく暇潰し程度でしたから」
「そうですか? それなら良かった……。 ――あっ、そういえば聞いてみたいことがあったのです。ジュディス様のクラスメイトにブラッド・オールディス様がいらっしゃると思いますが、ジュディス様はオールディス様がどんな方かご存知ですか?」
そう。一度聞いてみたかったのだ。生徒会に未だ一度も姿を現さない、対人関係に難のあるというブラッド・オールディス様の事を。
クレア様にも聞こうと思いつつ毎回聞き逃していたので、ちょうどジュディス様がひとりでいてくれて良かった。
そのジュディス様はというと、片頬に手を当て、空に目を向けた。
「そうですね……オールディス様の事は私もあまりよくは存じ上げないのですが……」
えっ、同じクラスで生徒会でも一緒なのに? しかももう二学年なのに……。ブラッド・オールディスという人が謎すぎる。
「そういえば噂によると元はヒューイット侯爵家の次男なのだとか。 ……ちなみにエメ様はヒューイット侯爵家の特殊性をご存知ですか?」
「特殊性ですか? いいえ。 ……ひょっとして王国貴族名鑑にオールディス姓の記載がない事と関係が?」
そう訊ねると、ジュディス様の瞳が心なしかきらりと光った気がした。
「エメ様はもう既に我が国の貴族家を把握していらっしゃるのですね」
「いえ、把握とまでは。記憶の抜けも多いですし、ただ暗記しただけでアシュレイ殿下ほど完璧に覚えているわけではありませんので……」
「エメ様は他国から来られたばかりなのですから、普通は覚えていなくて当然なんですよ?」
「そうですか……? 実は特待生試験の二次が口述試験だったのですが、そこでこの家紋はどこの貴族家のものか、というような口頭問題がありまして」
種明かしをすると、感心したようにジュディス様が頷いた。
「ああ、そうだったのですか。それにしても、試験が最難関と謳われているのは学力だけでは突破出来ないようになっていたからなのですね。 ……他にもどんな?」
「ええと……サウスフェリの歴史や法律、産業、数ヶ国語を用いた会話など色々と」
思い出しながら言えば、そっと溜め息を吐いたジュディス様がしみじみと呟く。
「……合格者が無条件で王族の側近か配偶者になれるはずですね。人格に問題がなければ即戦力間違いなしですから」
「即戦力とまで言われると買い被りだと思うのですが……でもまあ、死ぬほど勉強しましたので合格出来たのはとにかく嬉しかったです」
それに、実際合格しなければ確実に私の未来は閉ざされていた。
あそこから逃げるために死に物狂いだった。家族以外、絶対秘密厳守の中で試験勉強に明け暮れ、秘密裏に試験を受けに行き、心身の疲労が極まって鼻血が止まらないわげっそり窶れるわで散々周りを心配させたけど、合格通知が届いた時は一気に視界が晴れた気分だった。
合格を私以上に喜んでくれた弟が、誰もいないところでこっそり泣いてくれたのを私は知っている。
王子の婚約者は全く意図していなかったけれど。でも今はアシュレイ様のそばにいられて良かったと思っている。
本当に頑張って良かった……。
と私までしみじみしてしまったけれど、オールディス様の事を聞いている途中だったと思い出して居住まいを正した。
「すみません、脱線してしまいました。それでヒューイット侯爵家の特殊性とは?」
「私が余計な質問をしたので話が逸れてしまいましたね、すみません。 ……はい。これはあまり公にはされていないのですが、ヒューイット家は裏で代々王家の諜報を担っていて、ヒューイット家を継ぐ一人を除いた他の子供たちは例外なく諜報機関に属するそうで、その際ヒューイット姓を名乗るのを許されず、出自も本当の名も隠されるのだと」
「つまり、オールディス様が真実ヒューイット侯爵家の次男であれば諜報機関に属している可能性が高く、それゆえに貴族名鑑に存在しないオールディス姓を名乗っている、と?」
そう確認すれば、ジュディス様がこくりと頷く。
「おそらくは。確証はありませんが、情報筋は確かなので可能性は高いかと」
確かな情報筋……ジュディス様すごいな……? あなたも諜報員になれるのでは……?
しかし、諜報関係者なのか……。という事は、対人関係に難があって姿を現さないというのも表向きの理由であって実は違うのか……?
「オールディス様を私は未だにお見かけした事がないのですが、どういう外見をしてらっしゃるのでしょうか」
「そうですね……実を言うと、オールディス様だけはそこにいても全く印象に残らなくて……。特徴がないと言いますか、妙に憶えられないのですよね……ある日は黒髪だったかと思えばある日は茶色で、なのに変わったなという印象が残らない。不思議で文字通り捉えどころがない方ですね」
ほえー、と声は出さないけどぽっかり口を開けてしまった。
その話が本当ならオールディス様、凄すぎない? 彼、まだ学生よ? 今でもそれ程なのに数年先とかどうなってるんだろう……凄腕の諜報員とか……? ただどんな方か知りたかっただけなのに安易に藪を突いたらうっかり蛇が出て来た、みたいな感じになっちゃって……ていうかこれ、私知っちゃって良かったのかな……消されたりしない?
そんな思考が顔に出ていたのだろう、ジュディス様がくすりと笑う。嫌な感じではなく、とても柔らかな笑みだった。
「エメ様って意外と考えている事が顔にお出になるのですね」
「今朝も同じ事をアシュレイ様に言われました。お恥ずかしい限りで」
貴族は表情から思考を読み取られる事を良しとしないし、王子の婚約者なんて言ったら尚の事悟られてはいけないのに。薄氷の上に砂上の楼閣を建てて住んでるようなものだからなあ、貴族って。
僅かの油断や隙が命取りになりかねない社会なのは重々承知しているのだけど、前髪で表情を隠していた弊害だなあ、これ。
こんなんじゃアシュレイ様の足を引っ張ってしまうな……。
反省しきりの私に、ジュディス様はまた柔らかく微笑む。
「なぜ? 良いじゃないですか。少なくとも私はそういうエメ様の方が好感を持てますけど。それに、要は使い分ければ良いのです。信用している人の前では素直に、そうでなければ微笑みながらも油断せず」
なるほど、と納得した私は深く頷く。
「確かに。使い分け、良いですね。そう出来るよう鋭意努力します。 ……ちなみにジュディス様も使い分けてらっしゃるのですか?」
「私ですか? そうですね……自分ではそうしているつもりなのですけど、以前、身内だと思っていた人に言われたのは、君はいつも何を考えているのかわからなくて気味が悪い、と」
淡々と語られるそれに、私は真顔でへえ、と呟いた。
「気味が悪い……? 自分の見る目の能力のなさを棚に上げて随分な言いようですね」
ジュディス様がぱちりと瞬く。
「……え?」
「だって、何を考えているかわからないってなんですか。わからないならわかるまでなぜとことん話そうとしないのでしょうか。小さな子供だって、わからなかったらなぜなぜどうして、と訊きますよ。もちろん世の中には微塵も話の通じない化け物みたいな輩も存在しますが、ジュディス様はどう見てもそういう類ではないでしょう?」
いつも冷静なジュディス様も、さすがにちょっとたじろぐ。
「え、 ……っと、たぶん、そうだと思いますが……」
「ですよね。なら、その人はジュディス様ときちんと納得出来るまで話し合おうとされましたか?」
「えっ、いえ、それは……」
「してませんね。相談も話し合いもする気もない癖にわからないと勝手に思い込んで決めつけて、自分の怠惰をジュディス様のせいにしたんですよ、最低じゃないですか。つまり結局はその人がただ自分の感情を拗らせて勝手に拗ねて諦めただけなんですよ。それを言うに事欠いて気味が悪いなどと……」
身内と思えるほど親しかったのなら尚更言ってはいけない言葉だったはずなのに。後悔していればまだ良いけど、どうなんだろう。とはいえそこまで詮索する権利はないし、 ……って、いけない、また私は……。だいぶ余計な事を言ってしまった。もう黙ろう。
「何も知らない癖にすごく余計な事を言ってしまいました……私こそなんだかんだでその方を勝手に決めつけてしまいましたね、申し訳ありません」
うう……情けない……。
ショボショボに萎れて深々と頭を下げたら、頭上からクッ、と喉の鳴る音がした。
……ん?
「ふふふっ、ふ、駄目、もう……ふっ、ふふっ」
あれっ、なんか笑ってる?
きょとんとしながら顔を上げれば、本当に肩を震わせて笑うジュディス様がいた。
「エメ様って面白い方ですね。アシュレイ様が可愛い可愛いと溺愛されるのも頷けます」
「えっ? おもしろ……くはないと思うんですが……」
また面白いって言われた。なぜ。
いったい何が面白かったんだ? わからない。全然わからない。
釈然としないまま首を捻っていると、ようやく笑いのおさまったジュディス様が私の向こうに別の人を見るみたいに黄水晶の瞳を眇めた。
「先程お見せしたミモザの栞、あれをくれた友人を含めてエメ様が二人目です。私以上に私の事で怒ってくれたのは」
「……え?」
「まあ、話したのもエメ様で二人目なんですけどね」
と、茶目っ気を滲ませてちらりと笑う。釣られて私も笑ってしまった。
「なんですか、それ。 ……でも、良いご友人なんですね」
「そうですね。『お前がなに考えてるかわからないって? そいつ馬鹿か。お前、めちゃくちゃわかりやすいだろうが』とその友人は呆れてましたね」
あら。
お前呼び。ひょっとして友人って男の人なのかな。
「すごい。ご友人さん、ジュディス様の事よく見てらっしゃるんですね」
そう言えば、ジュディス様から返ってきたのは薄っすらとした笑み。でもどこか照れているようなふうにも感じた。
「幼馴染なんですよ。かなり歳が離れていますので、幼馴染と言って良いのかわかりませんが」
なんと、ここにも幼馴染が……!
幼馴染率高い。
ていうか、友人と言うのはなぜなのか。 ……あ、栞の花言葉……? 『友情』か。
「歳が離れていてもそういう関係性を保てるなんて素敵じゃないですか。 ……その方とは今でも交友がおありで?」
「……ええ、まあ。もういい歳なのに伯爵家の次男を良い事に未だ婚約者のひとりも持たず仕事ばかりで」
「そうなんですか。ご結婚に興味がおありではないとか?」
「いえ。遊ぶわけでもなく、『今はまだ待っているから』と。何を、と聞いても全然教えてくれないですし、私の事はわかりやすいだなどと言う癖に自分は隠すなんて」
伏し目がちに、狡い、と呟いたジュディス様は何かを諦めたかのように、そっと溜め息を吐いた。
――ん? あれ、待てよ。花言葉……だとしたら、ひょっとして。
「……ジュディス様」
私は憂いに瞳を揺らす彼女へ耳打ちする。
「『友情』という意味の他にミモザの花言葉をご存知ですか…….?」
え、と訝しげに目線を寄越したジュディス様に、私は片眼を閉じてみせ、それからひっそりと打ち明けた。
「それは、 ――『秘密の恋』」
黄水晶の一双は見開かれ、それからやがて、その瞳の端はじわじわと薄紅に染まっていったのだった。
エントランスの手前でちょうど幼馴染組三人と会ったので挨拶を交わし、セシル様に恋人繋ぎを揶揄われた後アシュレイ様と別れて自分のクラスへ向かった。
向かう途中ずっと騒がしかったのだけれど、教室に入ると女子寮の時と同じく一瞬静まり返った後、騒然となった。
なんか知らん奴入って来た、みたいに訝しげな反応から私と気づいて、お前か!? みたいな流れで。
「エメ、おはよう。一瞬誰かと思ったけど……うん、すっごく似合ってる」
最初に声をかけてくれたのはカミーユで、にこにこしながら褒めてくれた。
「ありがとう、カミーユ。昨日アシュレイ殿下が切ってくれたんだ。私に切らせてって言うからお任せしたんだけど、すごい器用だよねえ」
と言うと、全員が驚く。 ……って、うん、まあそうなるよね。お前、王子に髪切らせたんか、って。
「あわわ……独占欲つよ……」
呆然とカミーユが呟いてるけど、 ……んん? そっち? 独占欲……?
ていうか、独占欲と言えばむしろおたくのジュリアンさんの方こそじゃなくて? ほら、ちょっと悔しげに「僕もカミーユの髪を切れるよう理髪師に弟子入りすべきだろうか……?」なんて思い詰めた顔で自問自答してますよ……?
「あっ、エメ! 前髪切ったのね、なかなか良いじゃない」
教室に入るなり駆け寄って来たのはケイトで、ニコルは私をちらりと見たあと自分の席に行きかけたと思ったら勢いよく振り返った。
「……っ!? お前エメか!?」
思わず噴出する私とみんな。
「お手本にしたいくらいの見事な二度見だったね」
「いや、だって。知らん奴いんなと思ったけど、なんか顔の下半分エメじゃね? って」
「顔の、下半分……っ」
駄目だ……なにその表現……っ、言いたいことはわかるけど!
もうそれからは授業が始まるまでみんなで笑い転げてしまった。
でも、そのおかげであっさり素顔が受け入れられたし、今までどことなく壁を感じていた人たちの警戒心が一気に薄らいだので、心の中でニコルに感謝を捧げた私である。
ー * ー ** ー * ー ** ー * ー
昼休み、いつものようにニコルとケイト、それにジュリアンとカミーユの五人で昼食をとった後、図書室へ行きたかった私はひと足先に皆と別れ、第二棟へと向かった。
借りたかった本を借りて教室へ戻ろうとした時、ふと窓から外を見下ろした私は、そこにクールビューティー・ジュディス様がひとり、木陰のベンチに腰を下ろして本を読んでいるのを発見した。
読書中に声をかけたら鬱陶しいかな、と逡巡するも、生徒会の中でジュディス様とはまだあまり話した事がなかったからこれは好機なのでは、と心を奮い立たせて図書室を飛び出す。
走ってはいけないうえにどうも私は鈍臭いらしく、走ろうとすると転びそうになるので自分なりの早足で急ぎ、ジュディス様の前に立った。
「こんにちは、ジュディス様」
声をかけたら、顔を上げたジュディス様が縁なし眼鏡の奥で一瞬目を丸くすると、小首を傾げながら薄く微笑んだ。艶やかな亜麻色の髪がさらりと肩から胸に流れ落ちる。
「――こんにちは、エメ様。髪を切られたのですね。ところで、どうされました?」
ジュディス様は、手に持っていた本に栞を挟むとぱたりと閉じて、膝の上に置く。
「……あの、今本に挟まれた栞、ひょっとしてミモザの押し花ですか?」
優しく明るい黄色がちらりと見えた気がしたのでつい訊ねてしまったのだけど、ジュディス様はわざわざ本から栞を取り出して見せてくれた。
「よくおわかりになりましたね。エメ様の仰る通り、ミモザです。花言葉の『友情』を表すように、とある友人からの贈り物なのですよ」
……あれ。ほんの一瞬、ジュディス様の瞳が切なげに揺れた気がしたのだけど……気のせいかな……?
まじまじと見ても、もう黄水晶の瞳はいつもと同じで凪いでいる。 ……やっぱり気のせいか。
気を取り直し、
「ご友人から……それは素敵ですね」
と答えたら、静かな微笑みが返ってきた。
「ええ、ありがとうございます。 ……ところで、エメ様は私に何か御用件がおありでしたか? ……ああ、その前に失礼しました。よろしければ、どうぞお掛けになってください」
隣にどうぞ、と手で促されたので、ありがたく座らせてもらう。
「ありがとうございます。 ……えっと、特に用事はなかったのですが、ジュディス様とはあまり話をした事がなかったので……。でも読書中でお邪魔でしたよね、すみません」
「ふふ、いえ。お気になさらず。夢中になっていたわけではなく暇潰し程度でしたから」
「そうですか? それなら良かった……。 ――あっ、そういえば聞いてみたいことがあったのです。ジュディス様のクラスメイトにブラッド・オールディス様がいらっしゃると思いますが、ジュディス様はオールディス様がどんな方かご存知ですか?」
そう。一度聞いてみたかったのだ。生徒会に未だ一度も姿を現さない、対人関係に難のあるというブラッド・オールディス様の事を。
クレア様にも聞こうと思いつつ毎回聞き逃していたので、ちょうどジュディス様がひとりでいてくれて良かった。
そのジュディス様はというと、片頬に手を当て、空に目を向けた。
「そうですね……オールディス様の事は私もあまりよくは存じ上げないのですが……」
えっ、同じクラスで生徒会でも一緒なのに? しかももう二学年なのに……。ブラッド・オールディスという人が謎すぎる。
「そういえば噂によると元はヒューイット侯爵家の次男なのだとか。 ……ちなみにエメ様はヒューイット侯爵家の特殊性をご存知ですか?」
「特殊性ですか? いいえ。 ……ひょっとして王国貴族名鑑にオールディス姓の記載がない事と関係が?」
そう訊ねると、ジュディス様の瞳が心なしかきらりと光った気がした。
「エメ様はもう既に我が国の貴族家を把握していらっしゃるのですね」
「いえ、把握とまでは。記憶の抜けも多いですし、ただ暗記しただけでアシュレイ殿下ほど完璧に覚えているわけではありませんので……」
「エメ様は他国から来られたばかりなのですから、普通は覚えていなくて当然なんですよ?」
「そうですか……? 実は特待生試験の二次が口述試験だったのですが、そこでこの家紋はどこの貴族家のものか、というような口頭問題がありまして」
種明かしをすると、感心したようにジュディス様が頷いた。
「ああ、そうだったのですか。それにしても、試験が最難関と謳われているのは学力だけでは突破出来ないようになっていたからなのですね。 ……他にもどんな?」
「ええと……サウスフェリの歴史や法律、産業、数ヶ国語を用いた会話など色々と」
思い出しながら言えば、そっと溜め息を吐いたジュディス様がしみじみと呟く。
「……合格者が無条件で王族の側近か配偶者になれるはずですね。人格に問題がなければ即戦力間違いなしですから」
「即戦力とまで言われると買い被りだと思うのですが……でもまあ、死ぬほど勉強しましたので合格出来たのはとにかく嬉しかったです」
それに、実際合格しなければ確実に私の未来は閉ざされていた。
あそこから逃げるために死に物狂いだった。家族以外、絶対秘密厳守の中で試験勉強に明け暮れ、秘密裏に試験を受けに行き、心身の疲労が極まって鼻血が止まらないわげっそり窶れるわで散々周りを心配させたけど、合格通知が届いた時は一気に視界が晴れた気分だった。
合格を私以上に喜んでくれた弟が、誰もいないところでこっそり泣いてくれたのを私は知っている。
王子の婚約者は全く意図していなかったけれど。でも今はアシュレイ様のそばにいられて良かったと思っている。
本当に頑張って良かった……。
と私までしみじみしてしまったけれど、オールディス様の事を聞いている途中だったと思い出して居住まいを正した。
「すみません、脱線してしまいました。それでヒューイット侯爵家の特殊性とは?」
「私が余計な質問をしたので話が逸れてしまいましたね、すみません。 ……はい。これはあまり公にはされていないのですが、ヒューイット家は裏で代々王家の諜報を担っていて、ヒューイット家を継ぐ一人を除いた他の子供たちは例外なく諜報機関に属するそうで、その際ヒューイット姓を名乗るのを許されず、出自も本当の名も隠されるのだと」
「つまり、オールディス様が真実ヒューイット侯爵家の次男であれば諜報機関に属している可能性が高く、それゆえに貴族名鑑に存在しないオールディス姓を名乗っている、と?」
そう確認すれば、ジュディス様がこくりと頷く。
「おそらくは。確証はありませんが、情報筋は確かなので可能性は高いかと」
確かな情報筋……ジュディス様すごいな……? あなたも諜報員になれるのでは……?
しかし、諜報関係者なのか……。という事は、対人関係に難があって姿を現さないというのも表向きの理由であって実は違うのか……?
「オールディス様を私は未だにお見かけした事がないのですが、どういう外見をしてらっしゃるのでしょうか」
「そうですね……実を言うと、オールディス様だけはそこにいても全く印象に残らなくて……。特徴がないと言いますか、妙に憶えられないのですよね……ある日は黒髪だったかと思えばある日は茶色で、なのに変わったなという印象が残らない。不思議で文字通り捉えどころがない方ですね」
ほえー、と声は出さないけどぽっかり口を開けてしまった。
その話が本当ならオールディス様、凄すぎない? 彼、まだ学生よ? 今でもそれ程なのに数年先とかどうなってるんだろう……凄腕の諜報員とか……? ただどんな方か知りたかっただけなのに安易に藪を突いたらうっかり蛇が出て来た、みたいな感じになっちゃって……ていうかこれ、私知っちゃって良かったのかな……消されたりしない?
そんな思考が顔に出ていたのだろう、ジュディス様がくすりと笑う。嫌な感じではなく、とても柔らかな笑みだった。
「エメ様って意外と考えている事が顔にお出になるのですね」
「今朝も同じ事をアシュレイ様に言われました。お恥ずかしい限りで」
貴族は表情から思考を読み取られる事を良しとしないし、王子の婚約者なんて言ったら尚の事悟られてはいけないのに。薄氷の上に砂上の楼閣を建てて住んでるようなものだからなあ、貴族って。
僅かの油断や隙が命取りになりかねない社会なのは重々承知しているのだけど、前髪で表情を隠していた弊害だなあ、これ。
こんなんじゃアシュレイ様の足を引っ張ってしまうな……。
反省しきりの私に、ジュディス様はまた柔らかく微笑む。
「なぜ? 良いじゃないですか。少なくとも私はそういうエメ様の方が好感を持てますけど。それに、要は使い分ければ良いのです。信用している人の前では素直に、そうでなければ微笑みながらも油断せず」
なるほど、と納得した私は深く頷く。
「確かに。使い分け、良いですね。そう出来るよう鋭意努力します。 ……ちなみにジュディス様も使い分けてらっしゃるのですか?」
「私ですか? そうですね……自分ではそうしているつもりなのですけど、以前、身内だと思っていた人に言われたのは、君はいつも何を考えているのかわからなくて気味が悪い、と」
淡々と語られるそれに、私は真顔でへえ、と呟いた。
「気味が悪い……? 自分の見る目の能力のなさを棚に上げて随分な言いようですね」
ジュディス様がぱちりと瞬く。
「……え?」
「だって、何を考えているかわからないってなんですか。わからないならわかるまでなぜとことん話そうとしないのでしょうか。小さな子供だって、わからなかったらなぜなぜどうして、と訊きますよ。もちろん世の中には微塵も話の通じない化け物みたいな輩も存在しますが、ジュディス様はどう見てもそういう類ではないでしょう?」
いつも冷静なジュディス様も、さすがにちょっとたじろぐ。
「え、 ……っと、たぶん、そうだと思いますが……」
「ですよね。なら、その人はジュディス様ときちんと納得出来るまで話し合おうとされましたか?」
「えっ、いえ、それは……」
「してませんね。相談も話し合いもする気もない癖にわからないと勝手に思い込んで決めつけて、自分の怠惰をジュディス様のせいにしたんですよ、最低じゃないですか。つまり結局はその人がただ自分の感情を拗らせて勝手に拗ねて諦めただけなんですよ。それを言うに事欠いて気味が悪いなどと……」
身内と思えるほど親しかったのなら尚更言ってはいけない言葉だったはずなのに。後悔していればまだ良いけど、どうなんだろう。とはいえそこまで詮索する権利はないし、 ……って、いけない、また私は……。だいぶ余計な事を言ってしまった。もう黙ろう。
「何も知らない癖にすごく余計な事を言ってしまいました……私こそなんだかんだでその方を勝手に決めつけてしまいましたね、申し訳ありません」
うう……情けない……。
ショボショボに萎れて深々と頭を下げたら、頭上からクッ、と喉の鳴る音がした。
……ん?
「ふふふっ、ふ、駄目、もう……ふっ、ふふっ」
あれっ、なんか笑ってる?
きょとんとしながら顔を上げれば、本当に肩を震わせて笑うジュディス様がいた。
「エメ様って面白い方ですね。アシュレイ様が可愛い可愛いと溺愛されるのも頷けます」
「えっ? おもしろ……くはないと思うんですが……」
また面白いって言われた。なぜ。
いったい何が面白かったんだ? わからない。全然わからない。
釈然としないまま首を捻っていると、ようやく笑いのおさまったジュディス様が私の向こうに別の人を見るみたいに黄水晶の瞳を眇めた。
「先程お見せしたミモザの栞、あれをくれた友人を含めてエメ様が二人目です。私以上に私の事で怒ってくれたのは」
「……え?」
「まあ、話したのもエメ様で二人目なんですけどね」
と、茶目っ気を滲ませてちらりと笑う。釣られて私も笑ってしまった。
「なんですか、それ。 ……でも、良いご友人なんですね」
「そうですね。『お前がなに考えてるかわからないって? そいつ馬鹿か。お前、めちゃくちゃわかりやすいだろうが』とその友人は呆れてましたね」
あら。
お前呼び。ひょっとして友人って男の人なのかな。
「すごい。ご友人さん、ジュディス様の事よく見てらっしゃるんですね」
そう言えば、ジュディス様から返ってきたのは薄っすらとした笑み。でもどこか照れているようなふうにも感じた。
「幼馴染なんですよ。かなり歳が離れていますので、幼馴染と言って良いのかわかりませんが」
なんと、ここにも幼馴染が……!
幼馴染率高い。
ていうか、友人と言うのはなぜなのか。 ……あ、栞の花言葉……? 『友情』か。
「歳が離れていてもそういう関係性を保てるなんて素敵じゃないですか。 ……その方とは今でも交友がおありで?」
「……ええ、まあ。もういい歳なのに伯爵家の次男を良い事に未だ婚約者のひとりも持たず仕事ばかりで」
「そうなんですか。ご結婚に興味がおありではないとか?」
「いえ。遊ぶわけでもなく、『今はまだ待っているから』と。何を、と聞いても全然教えてくれないですし、私の事はわかりやすいだなどと言う癖に自分は隠すなんて」
伏し目がちに、狡い、と呟いたジュディス様は何かを諦めたかのように、そっと溜め息を吐いた。
――ん? あれ、待てよ。花言葉……だとしたら、ひょっとして。
「……ジュディス様」
私は憂いに瞳を揺らす彼女へ耳打ちする。
「『友情』という意味の他にミモザの花言葉をご存知ですか…….?」
え、と訝しげに目線を寄越したジュディス様に、私は片眼を閉じてみせ、それからひっそりと打ち明けた。
「それは、 ――『秘密の恋』」
黄水晶の一双は見開かれ、それからやがて、その瞳の端はじわじわと薄紅に染まっていったのだった。
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