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番外編「君はプライベートラバー」
前編
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かさりと紙を捲る音しかしない部屋の邪魔にならないようにと、パソコンのキーボードを控えめに叩く。
斜め横に座る上司は手元の書類に目を落としたまま、眼鏡の奥の切れ長の目を細める。二人きりのこの空間は、いつだって生真面目だ。
この人のもとで働き始めて、もうすぐ2年が経とうとしている。
仕事の鬼と揶揄される上司につくことになったその日には、プレッシャーに押し潰されそうなこともあったし、仕事のペースの速さについていけなくて苦しんだこともあったけれど、それもいつからか自分を高めるために必要な緊張感のひとつなのだと感じることができるようになったのは、ひとえにその人徳のおかげだ。
…と、眉間に皺を寄せたままの上司を眺めて心の中でひとりごちて、最近自分へのご褒美として新しく買ったゴールドピンクの時計に目をやってから、声をかけた。
「常務、そろそろお時間です」
「ああ、ありがとう」
どんなに忙しいときでも、誰が相手でも、この人はお礼(プラス優しい微笑み!)を忘れたことがない。当たり前と言われればそこまでだけど、他部署の役付きの中には、お礼のおの字もない人もいる。
つくづく、出来た人だと思う。
だからその時、全く予想だにしなかったのだ。そんな上司の、いうなれば突飛な行動など。
「あ、そうだ。日下部さん」
「はい」
まるでたった今思いついたかのような表情で私を見て、口を開く。
「今日、この会議の後、時間ある?」
「今日は…特に予定は入っていません。そのまま直帰することも可能です」
「いや、僕じゃなくて君」
「は、私ですか?」
「うん。ちょっと話があって。飯でもどうかなと思ってね。花の金曜日に申し訳ないけれど」
2年間、一番近くで仕事をしてきたという自負はあるけれど、ご飯に誘われたことは初めてで、あまりに驚いた私は、その秀麗な顔をまじまじと見つめ返してしまった。沈黙に耐えられなくなって、よく考えもしないまま、よくわからない返事をしてしまう。
「…それは、勤務時間外ということですか」
「勤務時間内に時間を割くとなると、君にも無理を強いることになるんだ。それは心苦しい」
大真面目な顔でそんな風に言われたら、何があっても断れない。そのことを、この上司はよく知っている。
「わかりました。どこかご希望のお店はありますでしょうか」
「いや、もう予約してあるんだ。君はついてきてくれるだけでいい」
「…お店の予約は、私の仕事の範疇です」
「うん。確かに‘仕事’なら、日下部さんの役割だけど、今日はそうじゃないから」
話の内容がはっきりと掴めないままで、怪訝そうな顔をする私を一瞥してからふっと笑って、上司は立ち上がった。ダークグレーにストライプの、一目で高級だとわかるスーツはとても似合っている。
「さっさと終わらせよう」
* * *
会議は終了予定時刻きっかりに終わった。
いつもに増して、ばしばし話をまとめる様子には、その後に待つ食事のことを忘れてしまうくらいに惚れ惚れした。
「行こうか、日下部さん」
黒い鞄を持って立ち上がった上司に促されて、常務室を後にする。
普段から一緒に行動しているから、別に怪しまれることもない。いや、怪しまれるようなことをしているつもりもないけれど、たまたま今日着てきていた白いブラウスも、紺色のシフォンスカートも気に入っているものでよかったと思ってしまう自分の薄情さに小さく溜め息をつく。
「お先にどうぞ」
エスコートされるようにタクシーに乗せられて告げられた行き先は、名の知れた超高層ビル。確か中には一流の飲食店が軒を連ねていたような…。
一体どういうつもりでこんなことになっているのか聞きたいけれど、隣でタブレットを操作し始める横顔には何も尋ねることができない。
考え込んでいるうちに、タクシーは目的地に到着する。
上司が名前を告げると、窓際の夜景が一望出来るとても綺麗な席へ通された。
隣のテーブルとはかなりの距離があるけれど、そもそも今日のお客は私と上司の二人だけのようで、店内は落ち着いたBGMのみが聞こえる、静かな雰囲気に満たされている。
「苦手なものはなかったよね」
「はい」
「お酒は?」
「飲めなくはないです」
満足そうに微笑んでから上司は低い声でウェイターにいくつか話をした。
いつもオフィスを背景にしているからか、夜景をバックにした上司の姿はなんだか色気を放っているような気がしてドキドキしていたけれど、会話の内容がどれも仕事のことに繋がってしまうせいかだんだんと冷静になってくる。次々と運ばれる料理はどれも美味しくて、お酒もどんどん進み、くだけた口調にならないようにすることが難しくなってくる。
「私、はじめは不安でした。常務の下で働くのが」
「…へぇ、どうして?」
「だって常務、仕事の鬼って言われていたから、ついていけるのかなって。今でも不安です。ちゃんとお力になれているかどうか」
「意外だな、そんなこと考えていたんだ」
心底驚いたように目を丸くするその様子をじっと見つめると、上司はグラスを傾けながら口の端を上げた。
「そろそろ本題に入ろうかと思うんだけど、いいかな」
「え?あ、はい」
テーブルの上で手を組む。
これは、上司が大きな取引先とかなり詰めたやり取りをしているときによくする癖。所謂、本気モードのときに出る仕草のひとつなのだ。
何かものすごく重大な話なのだと感じ、姿勢を正す。
しかし、その後に耳に入ってきた言葉に耳を疑った。
「単刀直入に言わせてもらうと、僕と結婚してほしい」
けっ…こん?
血の痕?……じゃなくて。
あまりに唐突な話に時間が止まる。
これはもしかしても、もしかしなくても、プロポーズというやつではないか。
今まで異性と付き合ったことがなかったわけではない。それでももちろんプロポーズなんてされたことはないし、ましてやその相手がプライベートでのお付き合いがほとんどない人、おまけに心から尊敬する上司だなんてまさに青天の霹靂。
「そっ、それはそのっ、どっ、どのようなっ、ご冗談で…」
舌を噛みそうになりながら必死に返すと、上司はくすくすと笑った。
「日下部さんはさっき僕のことを‘仕事の鬼’って言ったね」
「は、はい」
「そんな僕についてきている時点で、君も大概‘仕事の鬼’だよ」
「それと、その…結婚と一体どのようなご関係が?」
「2年前の今日は何の日か知っている?」
「今日…ですか」
脈絡なく話が進んでいくように思えるけれど、この人の話はちゃんと最後は納得いくように繋がるのだ。そのテンポにももう慣れた。
上司はグラスを持ち上げて、口を濡らすようにワインを飲んでから、何か面白いことでも見つけたようにいたずらそうに言う。こちらの緊張などおかまいなしだ。
「僕と君が初めて一緒に仕事をした日だよ」
言われてみれば。
2年前の今頃、当時同僚だった親友にも、同情の眼差しを向けられたのをよく覚えている。きっと異動にでもならない限り、あの人と仕事してたら毎日午前様だよ、と。実際にはそんなこともなかったけれど、確かに毎日とても忙しかった。
そんな上司はというと、見た目がよくて出世も間違いなしで一見とてもモテそうなのに、浮いた噂のひとつもない人で。もしかして、男の人が好きなのではないかという話が出るほどだったけれど、それは別の部署の手伝いをしているという弟さんが『兄ちゃんは仕事が恋人だけど、恋愛対象としては女の人を見てますよ』と大笑いしたことで否定された。それでもやっぱり異性関係の話はなかったから、この状況が全く受け入れられずにいる。
「僕の秘書として働いて、1年間以上続いた人はいなかった。僕は、君の仕事のセンスに一目置いている」
「…失礼ですが、常務は仕事とプライベートを混同しているかと」
「それは人聞きが悪いな。僕にとって仕事とプライベートは表裏一体の関係だ。僕の仕事を理解してくれる女性なら、プライベートな時間のあり方もわかってくれると思うけど」
…それは確かにそうなんだけど!
言い返すことも出来ず黙り込んで、正面に座る上司の顔をまともに見ることも出来ず俯く。
「うちの会社が、同族経営なのは知っているよね」
「…はい」
「もちろん部下のことは信頼しているけれど、やはり人を選ばなければならない場面は少なくない。だから探していたんだ。一番近くで、ずっと一緒にやっていける相手をね」
一番近くで、ずっと一緒にやっていける相手。
秘書冥利に尽きる言葉だけど、今は場面が違う。
綺麗な夜景も、美味しい料理も、遥か彼方にとんでいってしまうほどの衝撃なのだ。これは。
軽はずみにこたえることも出来ず、結局どうしようもなくなって、顔を上げたときに絡んだ視線。
その表情がいつもと違うことに、急に脈が速くなったように感じた。
明らかにいつもの強気と冷静さを欠いているその変化に気付くのはきっと自分くらいだと感じてしまったからだ。
多少なりとも緊張している。この上司が。
仕事の鬼なんて言われているけれど、それは彼が彼なりのやり方で会社を支えていこうとする強い気持ちの表れでしかないのだ。そして近くにいた私はそれに気付くことができたのかもしれない、とその時思った。
上司が席を立ち、私の隣に歩み寄る。
手を引かれて立ち上がり、夜景の広がる窓際に並んで立つ。
近過ぎず、でも、抑えた声がはっきりと聞こえる位置で、上司は私を見下ろして、言った。
「君は女性としても、とても魅力的だ」
「私は何も…」
「僕が女性の秘書についてもらうのは君が初めてだ。…全くの下心抜きだと思うか?」
眼鏡の奥の瞳にじっと見つめられて、顔が熱くなる。
「まぁもちろん、見た目が好みだったとしても、すぐに根を上げてしまうようならそこまでだと思っていた。でも君は気配りもできてどんなに辛いときにも笑顔を忘れない、内面も素晴らしい女性だった。僕はそう思っている」
恥ずかしげもなく言う姿は、店内が薄暗くなければ直視することができないほど美しい。
「誰よりも君に、隣にいてほしいと思った。好きなんだ。君のことが」
その細めた瞳に、視線が吸い寄せられる。その瞳の奥に小さな暖かさを感じたから。
それで十分だと。
急展開に飲み込まれ、流されていくだけだった心の中がすっとクリアになる。
「受けてくれる?」
「…ふつつか者ですが」
そのときのほっとしたような柔らかな微笑みを、私は生涯忘れることはないだろう。
斜め横に座る上司は手元の書類に目を落としたまま、眼鏡の奥の切れ長の目を細める。二人きりのこの空間は、いつだって生真面目だ。
この人のもとで働き始めて、もうすぐ2年が経とうとしている。
仕事の鬼と揶揄される上司につくことになったその日には、プレッシャーに押し潰されそうなこともあったし、仕事のペースの速さについていけなくて苦しんだこともあったけれど、それもいつからか自分を高めるために必要な緊張感のひとつなのだと感じることができるようになったのは、ひとえにその人徳のおかげだ。
…と、眉間に皺を寄せたままの上司を眺めて心の中でひとりごちて、最近自分へのご褒美として新しく買ったゴールドピンクの時計に目をやってから、声をかけた。
「常務、そろそろお時間です」
「ああ、ありがとう」
どんなに忙しいときでも、誰が相手でも、この人はお礼(プラス優しい微笑み!)を忘れたことがない。当たり前と言われればそこまでだけど、他部署の役付きの中には、お礼のおの字もない人もいる。
つくづく、出来た人だと思う。
だからその時、全く予想だにしなかったのだ。そんな上司の、いうなれば突飛な行動など。
「あ、そうだ。日下部さん」
「はい」
まるでたった今思いついたかのような表情で私を見て、口を開く。
「今日、この会議の後、時間ある?」
「今日は…特に予定は入っていません。そのまま直帰することも可能です」
「いや、僕じゃなくて君」
「は、私ですか?」
「うん。ちょっと話があって。飯でもどうかなと思ってね。花の金曜日に申し訳ないけれど」
2年間、一番近くで仕事をしてきたという自負はあるけれど、ご飯に誘われたことは初めてで、あまりに驚いた私は、その秀麗な顔をまじまじと見つめ返してしまった。沈黙に耐えられなくなって、よく考えもしないまま、よくわからない返事をしてしまう。
「…それは、勤務時間外ということですか」
「勤務時間内に時間を割くとなると、君にも無理を強いることになるんだ。それは心苦しい」
大真面目な顔でそんな風に言われたら、何があっても断れない。そのことを、この上司はよく知っている。
「わかりました。どこかご希望のお店はありますでしょうか」
「いや、もう予約してあるんだ。君はついてきてくれるだけでいい」
「…お店の予約は、私の仕事の範疇です」
「うん。確かに‘仕事’なら、日下部さんの役割だけど、今日はそうじゃないから」
話の内容がはっきりと掴めないままで、怪訝そうな顔をする私を一瞥してからふっと笑って、上司は立ち上がった。ダークグレーにストライプの、一目で高級だとわかるスーツはとても似合っている。
「さっさと終わらせよう」
* * *
会議は終了予定時刻きっかりに終わった。
いつもに増して、ばしばし話をまとめる様子には、その後に待つ食事のことを忘れてしまうくらいに惚れ惚れした。
「行こうか、日下部さん」
黒い鞄を持って立ち上がった上司に促されて、常務室を後にする。
普段から一緒に行動しているから、別に怪しまれることもない。いや、怪しまれるようなことをしているつもりもないけれど、たまたま今日着てきていた白いブラウスも、紺色のシフォンスカートも気に入っているものでよかったと思ってしまう自分の薄情さに小さく溜め息をつく。
「お先にどうぞ」
エスコートされるようにタクシーに乗せられて告げられた行き先は、名の知れた超高層ビル。確か中には一流の飲食店が軒を連ねていたような…。
一体どういうつもりでこんなことになっているのか聞きたいけれど、隣でタブレットを操作し始める横顔には何も尋ねることができない。
考え込んでいるうちに、タクシーは目的地に到着する。
上司が名前を告げると、窓際の夜景が一望出来るとても綺麗な席へ通された。
隣のテーブルとはかなりの距離があるけれど、そもそも今日のお客は私と上司の二人だけのようで、店内は落ち着いたBGMのみが聞こえる、静かな雰囲気に満たされている。
「苦手なものはなかったよね」
「はい」
「お酒は?」
「飲めなくはないです」
満足そうに微笑んでから上司は低い声でウェイターにいくつか話をした。
いつもオフィスを背景にしているからか、夜景をバックにした上司の姿はなんだか色気を放っているような気がしてドキドキしていたけれど、会話の内容がどれも仕事のことに繋がってしまうせいかだんだんと冷静になってくる。次々と運ばれる料理はどれも美味しくて、お酒もどんどん進み、くだけた口調にならないようにすることが難しくなってくる。
「私、はじめは不安でした。常務の下で働くのが」
「…へぇ、どうして?」
「だって常務、仕事の鬼って言われていたから、ついていけるのかなって。今でも不安です。ちゃんとお力になれているかどうか」
「意外だな、そんなこと考えていたんだ」
心底驚いたように目を丸くするその様子をじっと見つめると、上司はグラスを傾けながら口の端を上げた。
「そろそろ本題に入ろうかと思うんだけど、いいかな」
「え?あ、はい」
テーブルの上で手を組む。
これは、上司が大きな取引先とかなり詰めたやり取りをしているときによくする癖。所謂、本気モードのときに出る仕草のひとつなのだ。
何かものすごく重大な話なのだと感じ、姿勢を正す。
しかし、その後に耳に入ってきた言葉に耳を疑った。
「単刀直入に言わせてもらうと、僕と結婚してほしい」
けっ…こん?
血の痕?……じゃなくて。
あまりに唐突な話に時間が止まる。
これはもしかしても、もしかしなくても、プロポーズというやつではないか。
今まで異性と付き合ったことがなかったわけではない。それでももちろんプロポーズなんてされたことはないし、ましてやその相手がプライベートでのお付き合いがほとんどない人、おまけに心から尊敬する上司だなんてまさに青天の霹靂。
「そっ、それはそのっ、どっ、どのようなっ、ご冗談で…」
舌を噛みそうになりながら必死に返すと、上司はくすくすと笑った。
「日下部さんはさっき僕のことを‘仕事の鬼’って言ったね」
「は、はい」
「そんな僕についてきている時点で、君も大概‘仕事の鬼’だよ」
「それと、その…結婚と一体どのようなご関係が?」
「2年前の今日は何の日か知っている?」
「今日…ですか」
脈絡なく話が進んでいくように思えるけれど、この人の話はちゃんと最後は納得いくように繋がるのだ。そのテンポにももう慣れた。
上司はグラスを持ち上げて、口を濡らすようにワインを飲んでから、何か面白いことでも見つけたようにいたずらそうに言う。こちらの緊張などおかまいなしだ。
「僕と君が初めて一緒に仕事をした日だよ」
言われてみれば。
2年前の今頃、当時同僚だった親友にも、同情の眼差しを向けられたのをよく覚えている。きっと異動にでもならない限り、あの人と仕事してたら毎日午前様だよ、と。実際にはそんなこともなかったけれど、確かに毎日とても忙しかった。
そんな上司はというと、見た目がよくて出世も間違いなしで一見とてもモテそうなのに、浮いた噂のひとつもない人で。もしかして、男の人が好きなのではないかという話が出るほどだったけれど、それは別の部署の手伝いをしているという弟さんが『兄ちゃんは仕事が恋人だけど、恋愛対象としては女の人を見てますよ』と大笑いしたことで否定された。それでもやっぱり異性関係の話はなかったから、この状況が全く受け入れられずにいる。
「僕の秘書として働いて、1年間以上続いた人はいなかった。僕は、君の仕事のセンスに一目置いている」
「…失礼ですが、常務は仕事とプライベートを混同しているかと」
「それは人聞きが悪いな。僕にとって仕事とプライベートは表裏一体の関係だ。僕の仕事を理解してくれる女性なら、プライベートな時間のあり方もわかってくれると思うけど」
…それは確かにそうなんだけど!
言い返すことも出来ず黙り込んで、正面に座る上司の顔をまともに見ることも出来ず俯く。
「うちの会社が、同族経営なのは知っているよね」
「…はい」
「もちろん部下のことは信頼しているけれど、やはり人を選ばなければならない場面は少なくない。だから探していたんだ。一番近くで、ずっと一緒にやっていける相手をね」
一番近くで、ずっと一緒にやっていける相手。
秘書冥利に尽きる言葉だけど、今は場面が違う。
綺麗な夜景も、美味しい料理も、遥か彼方にとんでいってしまうほどの衝撃なのだ。これは。
軽はずみにこたえることも出来ず、結局どうしようもなくなって、顔を上げたときに絡んだ視線。
その表情がいつもと違うことに、急に脈が速くなったように感じた。
明らかにいつもの強気と冷静さを欠いているその変化に気付くのはきっと自分くらいだと感じてしまったからだ。
多少なりとも緊張している。この上司が。
仕事の鬼なんて言われているけれど、それは彼が彼なりのやり方で会社を支えていこうとする強い気持ちの表れでしかないのだ。そして近くにいた私はそれに気付くことができたのかもしれない、とその時思った。
上司が席を立ち、私の隣に歩み寄る。
手を引かれて立ち上がり、夜景の広がる窓際に並んで立つ。
近過ぎず、でも、抑えた声がはっきりと聞こえる位置で、上司は私を見下ろして、言った。
「君は女性としても、とても魅力的だ」
「私は何も…」
「僕が女性の秘書についてもらうのは君が初めてだ。…全くの下心抜きだと思うか?」
眼鏡の奥の瞳にじっと見つめられて、顔が熱くなる。
「まぁもちろん、見た目が好みだったとしても、すぐに根を上げてしまうようならそこまでだと思っていた。でも君は気配りもできてどんなに辛いときにも笑顔を忘れない、内面も素晴らしい女性だった。僕はそう思っている」
恥ずかしげもなく言う姿は、店内が薄暗くなければ直視することができないほど美しい。
「誰よりも君に、隣にいてほしいと思った。好きなんだ。君のことが」
その細めた瞳に、視線が吸い寄せられる。その瞳の奥に小さな暖かさを感じたから。
それで十分だと。
急展開に飲み込まれ、流されていくだけだった心の中がすっとクリアになる。
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「…ふつつか者ですが」
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