君はスイートハート

篠宮華

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 体温計は37.7℃の発熱を表示した。

「ひゃー!冷てー!」
「こら、静かにしなさい」

 おでこに解熱のためのシートを貼ると、秋斗は子どものように声を上げるから、それをたしなめる。
 口を尖らせて、私に貼ってほしいと言い出したときにはぎょっとしたけれど、体がだるくて自分で貼れないと言われてしまえば、明らかな嘘だとしても従わざるを得ない。さすがに了承したときに、満面の笑みを浮かべて、抱きつかんばかりの様子だったのは止めたけれど。
 というより、二人だけだったら特に問題ないけれど、今はその様子を目を丸くしたお兄さんが見つめているから、落ち着かないのだ。

「お兄さん、コーヒーか何か飲まれますか?」
「ああ、ありがとう」

 私はその視線を振り切るように立ち上がって、飲み物を準備するために台所に向かった。

「で、兄ちゃん、急にどうしたの?」

 ソファに体を沈めて、ぼやっとした顔のまま尋ねる秋斗に、ローテーブルの正面に座っているお兄さんは思い出したように答える。

「いや、お前がこの間送ってくれた企画書、親父がもう少し詳しく知りたいっていうから、丁度こっちに出張に来たついでに聞いておこうと思ってさ。それから、大学からお前宛の手紙。あとは…」

 矢継ぎ早に話すお兄さんの話を頷きながら聞く横顔は、相変わらずぼぅっとしているけれど真剣で、さっきまではしゃいでいた様子と随分違う。どんなことを話しているのかはわからないけれど、これが所謂‘お仕事モード’なのかと、薬缶に入れた水が溢れるほど見入ってしまう。慌てて半分ほど水を流し、火にかけた。

——まだまだ知らないことがあるんだ。

 ふとそんな気持ちが胸をよぎる。以前は少し不安にもなったその思い。けれど、今となっては、新しく知る一面があることを嬉しく思う。
 誰かを、何かを、全部、何もかも知り尽くすことなど出来るわけがないのだから。



 お湯が沸く音にはっとさせられて、コーヒーを入れる作業を再開した。インスタントコーヒーだから、口に合うかわからないけれど、秋斗の部屋にあったものだから、きっとお兄さんも飲んでくれるだろう。せめてと思い、ゆっくりとお湯を注いだ。
 ちゃんと蒸らして、丁寧に入れたコーヒーを持って行くと、そこにはソファに横になり、腕で目元を覆った秋斗と、こめかみを抑えるお兄さんの姿があった。
 カップを置くと、お兄さんが抑えた声でありがとうと言った。秋斗からは反応がない。

「彼、どうしたんですか?」
「いや、熱があるやつに話す内容じゃなかったな。仕事のことを一気に詰め込みすぎてしまった」

 なんだかぐったりした様子で寝転ぶ秋斗にスポーツドリンクを入れたコップを渡そうと膝を叩くけれど、やっぱり動かない。それにしても熱があって今さっきまで寝ていた人が急に起こされて、おまけに難しい話をたくさんされたらそりゃダウンするに決まっている。無理に起こすことも出来ずため息をついて、ブランケットを取りに寝室へ向かう。首元までかけると「ありがとー…」という言葉の後、もぞもぞと身動ぎしてしばらく、静かな寝息が聞こえ始めた。

 何秒かの沈黙の後、それを興味深げに見ていたお兄さんがふと口を開いた。

「心を許してるんだね。秋斗は、君に」
「へ?」
「いや、春野さんの動きと秋斗の反応がさっきからあまりにも自然で驚いているんだ」

 自分の弟とさっき顔を合わせたばかりの女の人が親しくしていたら、きっと複雑な気持ちになるのだろう、とはっとした私は、なんと返せば良いかわからなくなる。
 そんな私の心情を沈黙から察したのか、お兄さんは頭を掻きながら「いや、いい意味でね」と言う。

「そういえば、秋斗から急に引越しすると聞いたときも驚いたよ。理由が理由だったしね」
「理由?」
「大学卒業の目途が立ったからずっと好きだった子に会いに行く、と」

 秋斗から聞いてはいたけれど、改めて誰かから、おまけに実のお兄さんからその話を聞くと恥ずかしくなってまたまた返す言葉がない。
 お兄さんはコーヒーを一口飲んでから、話し続ける。

「秋斗から、仕事の話は聞いている?」
「いえ、特に何も」
「うちの会社、今は親父がトップで総指揮しているんだけど、実質的2番手で動いているのは俺と秋斗だったんだ。だから正直秋斗に会社を離れられるのはきついものがあった。でも、こいつの決心は固くてね」

 そんなこと一言も聞いたことがない。

「す、すみません…」
「いや、春野さんが謝るところじゃないよ。詳しくは知らないけれど、こいつが君を待たせていたんだろ?」

—— ん?待たせていた?

 そんな約束めいたことをした記憶はなかったけれど、お父さんの話や会社の話など、新しい情報についていけていない私は、曖昧に頷く。
 それにしても、大学に通いながら会社の中枢で働くというのは大変なことなのではないかと思う。寝顔を見て、頑張っていたのね、とそのふわふわの髪を撫でたくて仕方なくなるけれど、今は我慢する。

「でも、そんな大学生に社員の人たちはついてきてくれるんですか?」
「ああ、始めは難しかったと思う。でもこいつ、仕事できるからね」

 さらっと言う口調には嘘偽りない信頼が見えて、静かに眠る横顔が、なんだかいつもと違うものに見えてくる。

「普通、学生なら学生らしく過ごしてほしいところだけど、そんなわけで秋斗に俺も親父も頼りすぎた。だから、ひとり暮らしの資金は全面的に支援するから、その代わりに九州を離れても、仕事は続けてくれと頼み込んだんだ」
「そうだったんですか・・・」
「でも秋斗は最後まで渋ったよ。俺があんまりうるさくいろいろ言ったせいで、ついに‘東京へ行けるならもう何だっていい、全部辞めてやる’って言い出してね。その時初めてこいつの本気を知った。そこからは大慌てだったよ」

 話をするお兄さんは、その時の様子を思い出したように楽しそうに笑っている。
 いつも一歩先を読むような秋斗のそんな考え無しな言動はどうしても想像がつかず、思わず首を捻った。

「でも今日来てみて、かなり安心したよ。家事能力ゼロだった秋斗がどうにか生活してるのはきっと春野さんのおかげなんだと思う。今も体調崩してはいるけど幸せそうだし。小さい頃から誰かに甘えられるタイプじゃなかったから、それもかなり驚いたけどね」

 お兄さんは苦笑しながら残りのコーヒーを一気に飲み干し、胸ポケットから小さなケースを取り出した。
 中から名刺を取り出して、机にすっと置く。

 NMコーポレーション 常務 野宮春馬

 肩書きと名前、連絡先のみが書かれたシンプルなものだった。

「もし何かあったら、すぐに連絡してくれ。全面的に協力するから。これからも秋斗をよろしく頼むよ」
「こっ、こちらこそ、よろしくお願いします!」

 心強い言葉に頷くと、にっこりと笑った。

 顔は似ているけれど、笑ったときの雰囲気は全く違う。いや、とても素敵な笑顔なんだけど、やっぱり私が好きな人のそれとは違った。
 やっぱり特別なのだと、ソファで眠る愛しい人を振り返る。

「そろそろお暇しようかな。今日の便で向こうに戻らないといけないから」
「えっ!これからですか?大変ですね…」
「うん。でも幸せそうな秋斗と、将来自分の妹になるかもしれない人の顔が見られたし、まだまだ頑張れそうだ」

 思わず頬を熱くすると、お兄さんは楽しそうに笑った。


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