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第十三話 誤解したままで
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突然入った矢野くんの出張。
矢野くんと一緒に過ごす時間は本当に心地よくて、付き合い始めてからというもの、しょっちゅう矢野くんのマンションに入り浸っていた。もはや同じ家に帰るのが当たり前のようになりつつあったから、一緒に過ごす予定がなくなってしまったのはとても残念だった。
最近は、クライアントの「矢野くんなら」という希望で契約が継続している案件もあるようで、それも致し方ないということはよくわかっているつもりだし、恋愛のせいで仕事に支障が出ないようにしたいとは常々思っているから、出張についてどうこう言うことはないけれど。
Yシャツを鞄に詰めている矢野くんの隣で、靴下を畳む。
「準備、手伝ってもらってありがとうございます」
「手伝うってほどのことしてないよ」
矢野くんは、溜め息をついた。
「なんか腑抜けてました 俺。美緒さんと一緒にいるのが当たり前になり過ぎて、出張って聞いたとき『頑張ろう』よりも、心底『面倒臭い』って思っちゃいました」
「それは私もそうだよ。そもそも急過ぎるし」
「……でも、俺がうじうじしてたら駄目ですよね。ちゃんと働いてきます」
ものすごく凹んでいる様子だったけれど、負のオーラをどうにか振り切ろうと頑張っているようだ。
明日の出張は、まさに矢野くんがとってきた大口案件で、しかも矢野くんが続けて担当するなら契約継続するという相手との打ち合わせと商談だ。会社的にも頑張ってほしいといったところだろう。
その仕事ぶりの頼もしさに目を細めつつ頭を撫でると、漸く顔を綻ばせて、矢野くんは「そういえば…」と口を開いた。
「今日会った夏目さんって、どんな方なんですか?」
その言葉に一瞬体が強張る。またか、と。
今週幾度となく答えたその質問が矢野くんから出たということに、内心肩を落としながら答える。
「あー、私の兄の友達。変な絡み方しないでって言っておくね」
「……友達…ほんとにそれだけ?」
「へ?」
「いや……すいません、それだけですよね。忘れてください」
ちょっと気まずそうに口をつぐんだ矢野くんの、らしくない様子を見て、上手く言い表せないもやもやした気持ちになる。
———これはもしかしなくても、ちょっと面倒なことになっている?
実は、夏目さんが異動してきてから、まだ2日目にも関わらず、その見た目と、妙に社交的な性格と、馴れ馴れしい接し方のせいで、他の社員からあらぬ詮索をされ続け、結構面倒な目に遭ってきた。
「付き合ってるのでは」とか「元カレなのでは」とか根拠のない噂が立っているらしいと聞いたけれど、それについてはきっぱりと、一生懸命否定し続けて、私の周辺では少しずつ落ち着いてきたと思っている。
ただ、その噂話がなかなか綺麗になくならないせいで、周りの人たちを適当にあしらい続けるのに疲れ果てているのは事実だった。だからこそ、週末は矢野くんとゆっくりして心も体も休めたいと思っていたのに。
予定がなくなった上に、当の本人にそんな言葉をかけられて、なんだかやるせない気持ちになる。
「…もしかして、なんか疑ってたり、変な風に思ってたりする?」
「え?」
「私と夏目さんに何かあるとか、そういう」
「……いや、まあ、今日実際にお会いして、仲良さそうだなとは思いましたけど、そんな疑いは、」
「私と夏目さんはこれまでもこれからも何もないよ。周りの人からいろいろ噂されるのも嫌だけど、もし矢野くんに誤解されてるならそれが一番嫌」
一気に伝えると、矢野くんの「誤解してるつもりはないですけど…」という小さな返答の後、部屋がしーんと静まり返ってしまった。でも、誰よりも「変な噂が立って災難ですね」と、笑って流してほしい相手だったのだ。
———だって、私は矢野くんの彼女なんだから。
少しして、矢野くんは、荷物を入れた鞄のジッパーを閉めてから、私の手を握って言った。
「…俺の知らない美緒さんのことも知ってるんだろうなと思ったら、なんかちょっと悔しくなっただけです。すいません」
「矢野くんの知らない私?」
「お兄さんのご友人ってことは、今より前の、学生時代の美緒さんとかそういうことも知ってるんだろうなって」
「そりゃ知ってるかもしれないけど…でもそれは逆だってそうでしょ」
「わかってます。だからほんとにただの理不尽な嫉妬」
ごめんなさいと頭を下げられたけれど、許すとか許さないとかの問題ではないような気がして、小さく頷くことしかできなかった。矢野くんはそんな私の顔をじっと見つめてから、言う。
「明日結構早いんで、今日はちょっと早めに寝ますね。美緒さんもそうしませんか?」
「…うん、そうする」
幸いなことに、もう入浴も夕飯も終えている。
本当にこれでいいのかわからないけれど、これ以上微妙な空気の中でいても埒があかないような気もした。
その日は、同じベッドに横になったけれど、いつものように抱き合って眠ることはなかった。隣に寝息とぬくもりを感じるのに、触れ合うことはない。なんだかじわじわと寂しさが胸に広がっていくようで。
でも、幸か不幸か体は疲れていたから、静かに眠りに落ちていった。
次の日の朝、目を覚ますと、もう矢野くんは出発した後だった。
ダイニングテーブルには矢野くんが握ったのであろう、私の好きな梅のおにぎりが置かれていた。近くに残されていた書き置きには「鍋に味噌汁も入ってます」と書かれている。
「…一人で食べても美味しくない」
溢れた独り言は床に落ちた。
矢野くんと一緒に過ごす時間は本当に心地よくて、付き合い始めてからというもの、しょっちゅう矢野くんのマンションに入り浸っていた。もはや同じ家に帰るのが当たり前のようになりつつあったから、一緒に過ごす予定がなくなってしまったのはとても残念だった。
最近は、クライアントの「矢野くんなら」という希望で契約が継続している案件もあるようで、それも致し方ないということはよくわかっているつもりだし、恋愛のせいで仕事に支障が出ないようにしたいとは常々思っているから、出張についてどうこう言うことはないけれど。
Yシャツを鞄に詰めている矢野くんの隣で、靴下を畳む。
「準備、手伝ってもらってありがとうございます」
「手伝うってほどのことしてないよ」
矢野くんは、溜め息をついた。
「なんか腑抜けてました 俺。美緒さんと一緒にいるのが当たり前になり過ぎて、出張って聞いたとき『頑張ろう』よりも、心底『面倒臭い』って思っちゃいました」
「それは私もそうだよ。そもそも急過ぎるし」
「……でも、俺がうじうじしてたら駄目ですよね。ちゃんと働いてきます」
ものすごく凹んでいる様子だったけれど、負のオーラをどうにか振り切ろうと頑張っているようだ。
明日の出張は、まさに矢野くんがとってきた大口案件で、しかも矢野くんが続けて担当するなら契約継続するという相手との打ち合わせと商談だ。会社的にも頑張ってほしいといったところだろう。
その仕事ぶりの頼もしさに目を細めつつ頭を撫でると、漸く顔を綻ばせて、矢野くんは「そういえば…」と口を開いた。
「今日会った夏目さんって、どんな方なんですか?」
その言葉に一瞬体が強張る。またか、と。
今週幾度となく答えたその質問が矢野くんから出たということに、内心肩を落としながら答える。
「あー、私の兄の友達。変な絡み方しないでって言っておくね」
「……友達…ほんとにそれだけ?」
「へ?」
「いや……すいません、それだけですよね。忘れてください」
ちょっと気まずそうに口をつぐんだ矢野くんの、らしくない様子を見て、上手く言い表せないもやもやした気持ちになる。
———これはもしかしなくても、ちょっと面倒なことになっている?
実は、夏目さんが異動してきてから、まだ2日目にも関わらず、その見た目と、妙に社交的な性格と、馴れ馴れしい接し方のせいで、他の社員からあらぬ詮索をされ続け、結構面倒な目に遭ってきた。
「付き合ってるのでは」とか「元カレなのでは」とか根拠のない噂が立っているらしいと聞いたけれど、それについてはきっぱりと、一生懸命否定し続けて、私の周辺では少しずつ落ち着いてきたと思っている。
ただ、その噂話がなかなか綺麗になくならないせいで、周りの人たちを適当にあしらい続けるのに疲れ果てているのは事実だった。だからこそ、週末は矢野くんとゆっくりして心も体も休めたいと思っていたのに。
予定がなくなった上に、当の本人にそんな言葉をかけられて、なんだかやるせない気持ちになる。
「…もしかして、なんか疑ってたり、変な風に思ってたりする?」
「え?」
「私と夏目さんに何かあるとか、そういう」
「……いや、まあ、今日実際にお会いして、仲良さそうだなとは思いましたけど、そんな疑いは、」
「私と夏目さんはこれまでもこれからも何もないよ。周りの人からいろいろ噂されるのも嫌だけど、もし矢野くんに誤解されてるならそれが一番嫌」
一気に伝えると、矢野くんの「誤解してるつもりはないですけど…」という小さな返答の後、部屋がしーんと静まり返ってしまった。でも、誰よりも「変な噂が立って災難ですね」と、笑って流してほしい相手だったのだ。
———だって、私は矢野くんの彼女なんだから。
少しして、矢野くんは、荷物を入れた鞄のジッパーを閉めてから、私の手を握って言った。
「…俺の知らない美緒さんのことも知ってるんだろうなと思ったら、なんかちょっと悔しくなっただけです。すいません」
「矢野くんの知らない私?」
「お兄さんのご友人ってことは、今より前の、学生時代の美緒さんとかそういうことも知ってるんだろうなって」
「そりゃ知ってるかもしれないけど…でもそれは逆だってそうでしょ」
「わかってます。だからほんとにただの理不尽な嫉妬」
ごめんなさいと頭を下げられたけれど、許すとか許さないとかの問題ではないような気がして、小さく頷くことしかできなかった。矢野くんはそんな私の顔をじっと見つめてから、言う。
「明日結構早いんで、今日はちょっと早めに寝ますね。美緒さんもそうしませんか?」
「…うん、そうする」
幸いなことに、もう入浴も夕飯も終えている。
本当にこれでいいのかわからないけれど、これ以上微妙な空気の中でいても埒があかないような気もした。
その日は、同じベッドに横になったけれど、いつものように抱き合って眠ることはなかった。隣に寝息とぬくもりを感じるのに、触れ合うことはない。なんだかじわじわと寂しさが胸に広がっていくようで。
でも、幸か不幸か体は疲れていたから、静かに眠りに落ちていった。
次の日の朝、目を覚ますと、もう矢野くんは出発した後だった。
ダイニングテーブルには矢野くんが握ったのであろう、私の好きな梅のおにぎりが置かれていた。近くに残されていた書き置きには「鍋に味噌汁も入ってます」と書かれている。
「…一人で食べても美味しくない」
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