うわさ話は恋の種

篠宮華

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第二話 気の合う後輩からの申し出

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 フロアの電気は、まだついていた。
 もしいなかったら何食わぬ顔をして帰るつもりだった。でも、いる気がした。真面目で責任感の強い彼のことだから、どんなに忙しくてもきっと仕事の質を落とすことはしない。それがちょっと心配でもあるところで。

 矢野直人やのなおと。1つ年下の後輩。
 若手期待のホープ。上司からの信頼も厚く、視野が広い。我が部署のエース。
 2年前に指導係についたときは、頭もいいし仕事も速いのに、人見知りな性格が災いして、どうも他の社員とぎくしゃくしていたけれど、今はそんな様子は微塵も感じられない。
 でも、私と同じラノベが好きで、映画化されたときに3回も観に行ったこととか(その度に号泣していたらしい)、おにぎりは具の入っていない塩むすびが好きなこととか、そういう些細なギャップ情報を一体どれくらいの人が知っているだろう。そう考えると、いつもなんだかちょっと嬉しくて、指導係を外れてからもよく話をしていた。
 今朝、大きな案件の納期が前倒しになったとかで部長に呼び出されていたから(にっこり笑って受け答えしていたから部長はほっとしていたけど、あれは絶対怒っていた)きっと残業だろうとは思っていた。
 ただ、何か手伝えることがあればと思って戻ったら、ほぼ終わっていると言うではないか。だから差し入れに持ってきた缶コーヒーと塩むすびを渡した。
 けど。
 矢野くんは、隣で塩むすびを持ったまま固まって、ぼんやりと何か考え事をしている。

「大丈夫?」
「え?」
「疲れちゃったよね。こんな無茶ぶり、他の人だったら応えられてないと思う」
「それはまあ……でも、どこかの先輩が熱く指導してくださったおかげで、多分俺、結構有能なんですよ」

 茶化すような返事が返ってきたから、「またまたー!」と笑って返したけれど、何だかちょっと様子がいつもと違って。
 それが分かるくらいには、彼のことをちゃんと見てきたつもりだった。
 でも、次の瞬間、急に肩を掴まれて正面に向かい合わせにされるとは思っていなかったから、「うぉっ」とか、変な声が出てしまった。椅子のキャスターが小さく音を立てて、お互いの膝と膝がぶつかりそうな距離に近づく。

「…美緒先輩は、何歳までに結婚したいとかあるんですか」
「ん?な、なに?」
「年下とか年上とかそういうの気にするタイプですか」

 突然矢継ぎ早に尋ねられて狼狽えていると、矢野くんは徐にスマホを操作し始める。

「明日何か予定ありますか?」
「明日、は…ないけど」
「じゃあちょっと付き合ってほしい場所あるんですけど」
「んん…?い、いいよ?」

 彼のそんな必死な表情を見たのは初めてで思わず頷く。今からでもよくない?と思ったけれど、今日はもう時間が遅い。どこにとか、何をしにとか、聞きたいことはたくさんありつつ、とりあえず梅おにぎりを口に運ぶと、漸く矢野くんも塩むすびを食べ始めた。




* * *




「とりあえず駅に集合でお願いします」というので、最寄り駅から電車に乗った。提示された集合時間が昼の11時だったので、まさかお洒落なバーに誘われることはないだろうし、カジュアルな服装でいいかと、深緑色の細身のスカートに白いブラウスを合わせた。

 改札を出てすぐ近くの柱の前に立つと、スマホが震えた。『もう着いてます?』というメッセージの後に「おはようございます!」とテンション高めに笑うクマのスタンプが送られてくる。これは彼の推しキャラだ。

「今着いたところです…と。あ、いた」

 返事を送信したところで、向かい側の柱の前に立ってスマホを操作する矢野くんを発見した。
 白いシャツにカーキ色のカーディガンを羽織って、細身の黒いボトムスを合わせた姿を見て、ややほっとする。フォーマルな恰好じゃなくてよかった。
 絶世の美男子!というわけではないけれど、背が高くて手足が長い矢野くんはスタイルがいい。そんなわけでいつものスーツ姿も一部の女性社員からは評価が高いらしいけれど、私服もなんだかどこかの雑誌のモデルのようで。
 同じように誰かと待ち合わせしているような女の子から ちらちらと視線を送られているけれど気づいていないんだろうな。
 …などと観察していると、こちらに気付いた矢野くんが近づいてきた。

「おはようございます」
「おはよう。結構待たせちゃった?」
「大丈夫です、俺も今来たところなんで」

 …いや、デートか!!
 妙に甘い雰囲気を纏ったやり取りを振り払うように、心の中で突っ込みを入れる。それなのに「美緒先輩の私服初めて見ました。可愛いですね」なんてさらりと言うから、また変な声が出そうになる。
 中高大と女子校育ちだったり変わり者の兄がいたりすると、誰かと付き合うとかそんな経験もなく。よく考えると、家族以外の異性と仕事以外で一緒に出掛ける経験も初めてかもしれないと思い至る。

「あ、ありがとう…」
「こちらこそ、突然誘ったのに来てくれてありがとうございます」

 緊張している私とは裏腹に、なんということはない様子で矢野くんはスマホで何かを確認している。「すぐそこなんで」と大きな商業施設のある方へ向かうので、買い物でもしたいのかなと思いつつ、とりあえず着いていった。

「昨日、あの後ちゃんと休めた?かなり遅かったけど」
「帰って風呂入って速攻寝たんで大丈夫です。美緒先輩こそ大丈夫でした?」

 先輩いつも、新作読むと余韻がヤバくて眠れないってLINEくれるじゃないですか、と笑いながら隣を歩く矢野くんを見上げる。仕事のときは分けられている前髪が今日は下りていて、ちょっと雰囲気が違う。

「あ、ここです」

 矢野くんが立ち止まったのは、喫茶店の前だった。
 予約をしていたのか店員さんに何か話してから、店内へ進んでいく。所謂‘純喫茶’と言われるような場所。あまり知られていない、穴場のようなそこに、すたすたと入っていく姿が意外ではあったけれど、実は一度来てみたいと思っていたから、なんだかわくわくした。
 席に座ってからも、思わず店内をきょろきょろと見回してしまう。

「なんか雰囲気のある場所だね。よく来るの?こういうとこ」
「いや、今日初めてです」

 メニュー表を開いて私の方に向けながら、矢野くんは「先輩はこれがいいと思う」とフルーツパフェを指差した。

「わ、美味しそう」
「これ、モデルらしいですよ、『腹戦』の2巻に出てきた‘そよ風と光のフルーツパフェ’の」
「ええぇっ…!こ、これが…!」

 『腹戦』とは『お腹が空いたので戦いはやめます!』というライトノベルである。いろいろな美味しいものを食べながら、魔法使いの主人公が仲間との絆を深めていくというなんとものんびりとした作品で、矢野くんと仲良くなったのも、お互いにこの作品が好きだということがきっかけだった。
 クールで表情も硬い(硬かった)彼がそんなほのぼの系の作品が好きだというギャップと、自分と同じ作品を好んでいるという事実に、一気に距離が縮まった気がしたのを覚えている。

「うん、これにする。間違いない」
「で、俺はこれにするんで、シェアしましょう」

 矢野くんが指差したのはミックスサンド。

「こっちは、4巻に出てきた‘太陽を閉じ込めたピラミッド’のモデルらしいんで」
「あの…!?やば過ぎる…」
「ちなみに、このパンケーキはスピンオフで出てきた‘円盤の過去’、こっちのサイダーは‘サファイヤ色の夢’のモデル」
「うわぁ…どれも食べたいけど、全部は無理だ…どうしよう」
「また来ればいいじゃないですか」

 わなわなしている私の肩をぽんと叩いて、矢野くんは言った。

「で、制覇しましょうよ。一緒に」

 どうということもない触れ方ではあったのだけれど、なんだか「職場の先輩と後輩」の感じを越えているような気がして、どういうつもりなのだろうかとその瞳をまじまじと見つめてしまう。
 それなのに、何事もなかったように運ばれてきたお水を口にして「このお店、結構聖地として有名らしいんで、そのうち、あの時食べたこれってもしかしてってなるかも」といつもと変わらない様子でにやっと笑うから、なんとなく流してしまう。
 運ばれてきたパフェとサンドイッチは、あっという間に食べきった。もちろんすごく美味しかったけれど、甘いものとしょっぱいものを両方食べられたのがよかった。シェアってすごい。
 その後は好きな本の話が止まらなくなり、近くにあった大型書店に移動することになった。

「俺、ちょっと見たいのあるんですけど」
「ああ、私も気になってるのあるから、それぞれでいいんじゃない?また後で合流するとか」
「了解です」

 何の本だろう。
 ちょっぴり気になったけれど、じっくり選びたいかと思い、とりあえずその場を後にする。
 うろうろしながら雑誌やムック本のコーナーを何気なく眺めていると、時短レシピや、簡単にできるお菓子作りの本が目についた。最近はキッチンアイテムが付録についているものもあって面白い。
 この頃、仕事が忙しいことを言い訳に自炊もあまりしていなかった。こういうものがあったら少しは楽しく、栄養を考えた食事ができるのだろうかと考えながら、本を手に取ると、あっという間に戻ってきた矢野くんに後ろから声をかけられた。

「まさか…先輩、料理するんですか」
「‘まさか’って…失礼な」
「いやそうじゃなくて、まさかって言うのは花嫁修業的な何かかっていう…」
「あ、違う違う。最近自炊してないなって思って」

 矢野くんは合点がいったような顔をして、私が持っていた耐熱容器つきのムック本を手にとった。

「俺、結構自炊するんですよね」
「へー!あんなに忙しいのにえらいね。作り置きとかもするの?」
「はい。でも、今週やっぱ忙しくて、せっかく作ったのに結局家であんまり食べられなかったんでダメになりそうなやつあって」

 この子器用だもんなあ。
 キッチンに立つ矢野くんのことは、なぜか簡単に想像することができた。

「もしよければなんですけど、今度飯食べに来ません?」
「え、どこに?」
「俺の家に。ここから近いし」

 確かに近い。矢野くんの住む駅近の新築アパートには、彼がまだ入社したばかりでひどく体調を崩した時に行ったことがあった。熱が出ているのに仕事をしようとするので、今は寝て早く治しなさい!と叱った記憶がある。

「ゲームあるし、先輩の好きなハーゲンダッツも常備してますよ。あーでも酒はないです。俺、家じゃあんまり飲まないんで」

 お酒は飲まないということは、酔った勢いで何かがどうこうなるということはない。それならいいか。
……いやいや違うでしょ。
 一杯飲んだだけで酔っぱらってしまうので、飲みの席を苦手としている私のことを察して、そんな風に言ってくれたかもしれない後輩の配慮に対して、ほんの少しでも邪なことを考えてしまった自分の頬を叩きたくなった。考えすぎだ。

「行こうかな。矢野くんの手料理ってことだもんね」
「はい。まあ、あんまり期待はしないでほしいですけど」

 頭を搔きながら小さく笑って、矢野くんは「で、この本、買うんですか?」と私に尋ねた。


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