【文庫化】室長を懲らしめようとしたら、純愛になりました。

ひなの琴莉

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1巻

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   第一章 東京とうきょうは怖いです


 東京の人は、何かに追われているのか歩くのがとても速い。
 時間すらものすごいスピードで流れているような気がする。
 ぼんやりと空を見上げると、高層ビルばかりが目に入り、自分の存在がちっぽけに思えた。
 少し立ち止まるだけで、あっという間に人波に呑み込まれる。スマホで地図を確認していると、誰かとぶつかってしまった。

「すみません」

 謝ろうと頭を上げたが、衝突した相手はもういない。

「お姉さん、こういう仕事興味ない?」

 別の方向から声をかけられ振り返ると、スーツを着た男性が人のいい笑みを浮かべて立っていた。
 差し出された名刺をつい受け取ってしまう。

「話だけでも聞いてみない? 時給も奮発するから」

 垢抜あかぬけない私に声をかけるなんて……これは、もしかしたら危ないスカウト? 
 ニヤリと笑った顔が怖い。断ったら態度を豹変ひょうへんさせそうだ。うっかり立ち止まったのがまずかった。

「今、時間がないので」
「じゃあ、明日はどう?」
「急いでいるので、すみません」

 私は逃げるようにその場から立ち去った。
 しばらく早足で歩いていると、今度はポケットティッシュを渡される。これは使い道があるからと躊躇ちゅうちょなく受け取ったが、セクシーな格好をした女の子の広告がついていた。
 東京って、怖い。来なきゃよかった。
 でもどうしても、あれ以上札幌さっぽろでは暮らせなかったのだ。
 どこにいても、何をしていても、最近別れた元彼との思い出が浮かんできてしまうから……
 生活する場所を変えたとはいえ、心の傷はそう簡単にはえない。けれど、私は過去を忘れて生まれ変わりたかった。
 なんとか待ち合わせの恵比寿えびす駅にたどり着いて、仕事帰りの会社員の姿を眺めながら友人の到着を待つ。
 平日だというのに、駅周辺はお祭りでもあるのかと思うほどにぎわっていた。
 修学旅行で東京に来た時は、目に入るものすべてが刺激的で楽しかったのに、実際に生活するとぜんぜん違う。
 理想と現実はかけ離れているんだよね、いつどんな時も。
 ぼんやりと人混みを見ていると、グレーのパンツスーツにボブヘアーの細身な美女が、こちらに手を振りながら近づいてくる。
 あんな綺麗な知り合いはいない、と目をそらす。しかし、彼女は目の前にやってくると、勢いよく私にハグをした。

鈴奈すずな、久しぶり! 全然変わってないね」

 満面の笑みを向ける彼女のことを、食い入るように見つめる。

「えっ、涼子りょうこ?」
「そうだよ!」
「全然わからなかった! すっかり都会の色に染まっちゃって。めちゃくちゃ美人になったね」
「うふふ、ありがとう」

 学生時代は、炭水化物が大好きなぽっちゃり女子だった涼子。
 そんな彼女は、無駄な贅肉ぜいにくが落ちて、化粧も上手になって、仕事のできそうなキャリアウーマンになっていた。
 東京の空気に触れ続けていると、こんなふうに変貌へんぼうするのか。

「とりあえずご飯食べよう。まだ仕事決まってないんでしょ? ご馳走ちそうするから」
「ありがとう、涼子様」

 手を合わせておがむようなポーズを取ると、涼子は「あはは」と笑いながら背中をバシバシと叩く。

「そんな、涼子様だなんてやめてよ。さっき電話で予約しておいたから行くよ」

 ごちゃごちゃした人混みを迷わず進む涼子に、尊敬の眼差しを向ける。
 素敵な女性に変身した涼子はどんなところに連れて行ってくれるのだろう。

「涼子って今どこで働いてるの?」
三道さんどう商事だよ」
「『三道商事』といえば誰もが知っている大手商社だよね! すごい」
「営業部なんだけど、周りは男ばっかり。負けないで食らいついて頑張ってるよ」

 話しながら歩き、駅からすぐ近くにあるビルの地下へとつながる階段を下りていく。
 涼子が連れてきてくれたのは、ムーディーな雰囲気の創作居酒屋だった。店の中心部には生花が飾られていて、さりげなくジャズが流れている。
 普段の私なら絶対に気軽に来ない、高級そうな店である。
 半個室に案内された私と涼子は、温かいおしぼりを受け取ってビールと料理を注文する。すぐにお通しと飲み物が運ばれてきて、乾杯かんぱいをした。

「大変だったね。鈴奈と正人まさとは、絶対に結婚すると思っていたのに」

 眉間にしわを寄せて険しい顔をする涼子に、私は苦笑いをして頷いた。
 まさか東京でひとり暮らしをしながら、就職活動をする未来が待っているとは想像していなかった。今でも、夢なのではないかと思っている。

「十五歳から九年間も付き合っていたんだよね?」

 正人はキスもエッチもすべて初めてを捧げた相手で、私は彼以外の男性を知らない。
 周りからも「結婚は秒読みだね」なんて言われていて、一緒になるために二人で貯金をしていた。
 いつプロポーズをしてくれるのだろうと密かに期待する中、正人は上司とトラブルになり、仕事を辞めてしまった。
 当時私は旅行会社で事務として働いていたので、しばらく正人を養うことにした。
 愛する彼のために頑張ろう、困っている時に助け合うのが恋人だと思っていたから。
 ところがある日――
 面接に行ったはずの正人が家に帰ってきて、改まった様子で驚きの告白を始めたのだ。

『子供ができた』
『誰の?』
『俺の』
『はあ? 私は妊娠してないよ?』
『お前じゃない。由里子ゆりこが……』

 由里子は私の親友である。
 小学校の時、席が近くて仲よくなったのをきっかけに、いつも一緒に遊んでいた。
 信頼しきっていたのもあり、私と正人が同棲どうせい中の家に何度も泊めていたのだ。
 二人は私の目を盗んで、こっそりと愛をはぐくんでいたという。

『別れてほしいって、お前が傷つくと思って言えなかったんだ』

 私は、頭が真っ白になり黙り込んだ。

『貯金、悪いけど出産費用に当てさせてほしい』
『冗談でしょう? あれは、二人で結婚するために貯金してたんだよ』
『お前は、生まれてくる子供を見殺しにするつもりか?』
『……見殺しって、そんな言い方するなんて卑怯ひきょうすぎる』

 私はそのまま家を飛び出し、友人の家でお世話になった。
 冷静になればなるほど、許せないという感情と悲しみが押し寄せて……
 あんな男忘れてやると、必死で働いていた。けれど、札幌にいると正人と出かけた場所が沢山あって、幸せだった頃の記憶がよみがえり、苦しくておかしくなってしまいそうだった。
 耐えきれなくなり、大好きだった仕事を辞めて、へそくり貯金で上京することに決めた。
 完全に勢いで東京にやってきた私は、ひとまず家賃が安いワンルームアパートで生活を始めた。ボロボロのアパートだが、無職なので我がままは言っていられない。
 次は就職だと意気込んで面接を受けるも不採用ばかり。
 途方に暮れていた時、東京で働いている友人の坂上さかがみ涼子を思い出した。
 電話をかけて事情を話すと会ってくれることになり、今日に至っている。


「正人も由里子も人間として、やっちゃいけないことをしたよね。人伝に聞いたら、正人、仕事を転々としているみたいよ」
「……そうなんだ」

 つい心配になるが、正人は過去の人。
 他の女性の夫なのだから関わるべきではない。
 私は、嫌な気持ちを流すようにビールを飲み込んだ。

「そうそう。鈴奈は就職活動どう?」
「それが決まらないの。貯金もなくなってきたし、不安しかないよ。旅行会社は諦めようかと思ってる」
「じゃあさ、私の働く会社で契約社員を募集しているんだけど、受けてみたら?」
「涼子の会社って大手商社だよね。私なんかが受かるわけないよ」
「そんなことないって。仕事内容は事務だから、職種はピッタリじゃない?」

 涼子が印刷した募集要項を手渡してくれる。受け取って確認すると、社会保障はもちろん、バースデー休暇や産休、育休もついていて、福利厚生はしっかりしている。
 契約社員だがさすが大手企業だ。給与も申し分ないが、こういった会社には優秀な大学を卒業した人ばかり働いているイメージがある。

「有名大学卒業じゃないからなぁ」
「大学を卒業していたら応募資格があるの。ただ、三次審査まであるから簡単ではないかもしれないけど、受けてみなければ合否がどうなるかわからないよ」

 涼子はそう言って、私を勇気づけてくれる。
 私は募集要項をもう一度眺め、涼子に向き直った。
 もうのん気に選んでいる場合ではないのだ。それに、こんな条件のいい仕事、このチャンスを逃したら永遠に出会えないかもしれない。

「ありがとう。せっかくだからエントリーしてみる」
「うん! 合格するといいね。もし一緒に働けることになったらランチしよう」
「奇跡が起きるように祈ってね」

 涼子に感謝をしながら、もらった募集要項をバッグに入れる。
 それから他愛のない話をしていると、ピクルスをつまむ私に涼子が尋ねた。

「今住んでいるところは、大丈夫なの?」
「めちゃくちゃボロボロのアパートでさぁ。築六十年。安いからいいんだけど……」
「だけど?」
あえぎ声が聞こえてくるんだよね」

 私の言葉に涼子が微妙な表情を浮かべる。

あえぎ声?」

 私は思いっきり顔をしかめて頷く。
 壁が薄いせいか、営みの声が大きいせいかはわからないが、丸聞こえなのだ。
 入居する時にわかっていたら、いくら激安でも避けたのに……

「どんな人なのか会ったことがないからわからないんだけど、毎回相手が違うようなの」
「え! そんなことまでわかるの?」

 涼子が噴き出しそうになっている。

あえぎ声の質が違うの。甲高い声。ハスキーな声。かすれ声。叫ぶタイプとか、控えめに甘い声を出す人とか……」
「聴き分けられるようになっても、なんの役にも立たないじゃん」
「無駄なスキルが身についちゃった。年齢層もばらけてる気がするんだ。相当格好いい人なのかな」
「そんな最低な男いくら格好よくたってお断りよ」
「確かに。就職ができたら、まずはお金を貯めて引っ越しする」
「頑張って。健闘を祈る!」

 拳を握る私に、涼子は力強く頷いた。


 久しぶりに友人に会って話を聞いてもらったおかげで、リフレッシュできた。
 すっかり涼子にご馳走ちそうになってしまったので、就職が決まったらお礼をすると約束をして、私はアパートに帰った。
 二階建ての古いアパートの一階が私の部屋で、狭い玄関を入ってすぐにワンルームの部屋がある。
 丸いちゃぶ台と座布団、たたんである布団セット。
 小さな冷蔵庫とカラーボックス一つに、衣装ケース三つ。必要最低限の家具しかない。
 洗濯機は中古で購入してベランダに設置している。
 こぢんまりとしているが、ひとり暮らしなら充分。隣の声が聞こえなければ辛抱しんぼうできるのに……
 お金があったら、今すぐにでも引っ越ししたいくらいだ。
 ほろ酔い気分で座布団に座り、涼子からもらった募集要項に目を通す。
 バリバリのキャリアウーマンって感じで輝いていた涼子を見て、思わず過去の自分を思い返してしまった。
 札幌の旅行会社で事務として働いていた時は、残業があったりクレーム対応をしたりと大変だったけれど充実していた。休日や空き時間には英語の勉強をして、キャリアアップを目指していた。
 三道商事なら、きっと今までの経験や勉強してきたことが役に立つ気がする。
 それに、毎日生活するだけでやっとというこの生活から抜け出さないと、日払いのアルバイトをしなければいけない。そうなると、就職活動をする時間が減ってしまう。

「はぁ」

 ため息をついたら幸せが逃げていくと言うけど、つかないとやっていられない。
 今日はもう遅いし早く寝よう。布団を敷いていると……

『――ぁ。――っ、あぁ』

 うわ、また聞こえてきた。もう、いい加減にしてほしい。
 たまにならいいけど、二日に一回のペースで情事が行われている。しかも、一回の時間が長い。
 私は、布団を頭から被った。
 あーもう、私の睡眠不足をなんとかして!
 昨今では引っ越しの際、挨拶に行く人はあまりいませんよと不動産屋さんが言うので、私は隣の住人にお目にかかったことはなかった。
 隣の部屋から出てくる女性を見かけたことは何度かあるが、いつも違う人だった。
 おそらく家主は男性だろう。
 どうして、男の人って一途になれないの? 女性を取っ替え引っ替えするなんて、最低だ。
 ついつい正人と重ねてしまい、怒りがこみ上げてくる。
 結局その後、お隣さんの営みは、深夜三時頃まで続いたのだった。


    ◆


 涼子が働いている三道商事にエントリーし、私は奇跡的に面接を通過していった。そして、今日はいよいよ最終面接である。
 黒のスーツに身を包み、ふんわりとしたセミロングの髪の毛を後ろで一つにまとめる。上品な印象になるよう気をつけて化粧をした。
 アパートを出て駅に向かうと、ホームは人でごった返していた。
 さすが通勤の時間帯だ。
 電車がやってくると、人々がなだれ込むように乗り込む。押しつぶされそうになる中、私はなるべく端に立ちバランスを取っていた。
 走り出して電車が揺れると、後ろに立っている人が体重をかけてくる。
 ……あれ?
 ふいにお尻の辺りに違和感を覚え、意識を集中させた。
 顔を動かして後ろを確認すると、すぐ後ろにスーツを着た男性がぴったりとくっついている。
 手の平を押しつけて、ヒップラインをなぞっている気がするけど……これってもしかして痴漢ちかん
 どこにでもいそうな中年のサラリーマン風の人なのに、こんなことするなんて。
 今までの人生で痴漢ちかんに遭ったことはなかったが、もしそういう場面に遭遇したら、手を思いっきりつかんで、警察に突き出してやろうと思っていた。
 私は無駄に正義感が強く、悪者は絶対に退治しなければいけないと考えている。
 けれど、実際に触られてみると恐ろしくて声が出せない。
 ……怖い。とても気持ち悪い。
 背中にうっすらと汗をかき、体が小刻みに震える。
 怖がっている素振りを見せたら、犯人をさらに付け上がらせるかもしれない。平気なふりをして、うつむいて耐えるしかなかった。
 面接会場である三道商事の最寄り駅まで、あと二駅ある。
 余裕を持って出てきたけれど、次の駅で降りれば、到着がギリギリになってしまう。絶対に面接に遅刻なんてありえない。
 我慢するしかない、と目をつむった――その時だった。

「やめろ」

 突然頭上から低い声が聞こえてきて、顔を上げると、背が高くて仕立てのいいスーツを着た男性が痴漢ちかん男の手をつかんでいた。

「なっ、なんだよ、お前!」
「一部始終を見ていました。薄汚い真似はやめたほうがいい」

 顔を真っ赤にしてわめ痴漢ちかん男に、男性は冷静に切り返す。
 一瞬、何が起こっているのか理解できず、私はぼうっと男性を見つめた。

「お、俺は何もしていない! 言いがかりだ!」

 痴漢ちかん男はちらっと私を見て、男性にがなり立てた。
 他の乗客は男性に疑いの目を向ける。
 このままではいけないと思い、私は勇気を出して震える唇を開いた。

「……私、この人にお尻を触られました」

 痴漢ちかん男を指差すと、軽蔑のもった乗客の目が一斉に彼を見た。
 痴漢ちかん男はたじろいだ様子だったが、同時に電車が駅に停車し、逃げるように去っていく。

「っ! 待ちなさい」

 私を助けてくれた男性は、痴漢ちかん男を追おうと踏み出した。しかし、私はその腕をぎゅっとつかんで引きとめる。

「捕まえなくていいのですか?」

 男性はそう私に尋ねたが、ここで痴漢ちかん男に時間を取られ、面接に遅れるわけにはいかない。
 悪を放っておくのは自分のポリシーに反することだけど、今はどうしても面接を優先させたかった。

「どうしても行かなければならない用事があるので諦めます。本当は警察に突き出したかったのですが……」
「そうですか。あなたがそう言うのなら」
「助けてくださり、ありがとうございました」

 お礼を言って改めて彼を見た私は、息を呑んだ。
 スーツの上からでもわかる引き締まった体躯と、すらりと長い手足。
 黒い短髪はかっちりとセットされ、キリッとした切れ長の目に銀縁の眼鏡をかけている。高い鼻梁びりょうと形のいい薄い唇が、知的な印象を高めていた。
 こんなに格好いい人、普通に生活していたら中々お目にかかれないだろう。
 とても真面目そうだし、仕事もできそうだ。しかも、爽やかないい香りがする。
 彼を見上げたまま、頬がどんどん熱くなっていく。自分を見つめたまま固まる私を不思議に思ったのか、男性は小首を傾げた。

「やはり気分が優れませんか?」
「い、いえ! 大丈夫です」

 私は慌てて彼から目をそらし、うつむく。
 ドキドキとうるさい心臓をなんとか落ち着かせていると、会社の最寄り駅に到着した。
 偶然にも男性も同じ駅で降りたので、私は長い足で人の波をって歩く彼を必死に追いかける。

「あ、あの、待ってくださいっ」

 呼び止めると、彼は階段の前で立ち止まり、少し驚いた様子でこちらを振り向いた。

「どうかしましたか?」
「お礼をさせていただきたいのですが、もしよければご連絡先を教えていただけませんか?」

 緊張で声が上ずる。男性は私をじっと眺めると、小さく首を横に振った。

「いえ、人として当たり前のことをしただけですから」
「で、でも……」
「本当に大丈夫ですから」

 彼はそう言って軽く会釈えしゃくをすると、足早に去っていき、あっという間に人混みの中に消えてしまった。



   第二章 コーヒーとチョコレート


「部長、データが完成しました」
「ありがとう。星園ほしぞのさんは仕事が速いから助かっていますよ」

 ランチを終えた私は、総務部長に書類を渡しに向かった。五十代前半の彼はいつも穏やかで、一緒に仕事がやりやすい。
『三道商事』に入社して三ヶ月。私は、本社の総務部に配属になり、主にデータ作成のアシスタントを行っている。
 四十階建てのビルの三十五階から最上階までを三道商事が使用し、下のフロアには他社やクリニック、飲食店が入っていて、一階にはコンビニがある。
 周辺には美味おいしいレストランもあって、時間が合えば涼子とランチをしている。
 こんなにいい環境で働けるなんてありがたい。
 入社してわかったのは、『三道商事』は本当に大企業であるということ。
 連結子会社も合わせると八万人近くが雇用されていて、この本社にもかなりの数の社員が働いている。
 長く働いている涼子ですら、社員数が多いため知らない人がいっぱいいるらしい。
 最初は、自分が東京で働いていることが信じられなかった。でも、オフィスの窓から建物がぎゅっと詰め込まれた景色を眺めると、本当に東京で働いているのだと実感する。
 同棲どうせいしていた彼氏に浮気されて、貯金も取られてしまいどん底だったけど、ここで頑張っていこう。
 そう気持ちを新たにして、一生懸命仕事にはげんでいた。

「星園さん、三十分後に大会議室へ行ってもらえますか?」

 総務部長が先ほど渡した書類から顔を上げて、私を見ていた。

「何かありましたか?」
「あ、いや。行ってくれたらわかるから、頼んだ」

 大きなミスでもしてしまったかな……
 結局、総務部長はその場では話してくれなかった。
 約束の時間になり大会議室へ向かうと、中には何人かの社員がいた。
 一体、何があるのだろう。
 私は一番後ろの席に座り、緊張しつつ前を向いていると、総務部長が入ってきた。

「突然集まってもらって申し訳ない。実は、経営企画室のアシスタントを急遽きゅうきょ募集することになった」

 途端に、大会議室にいた女性社員が色めき立ち、瞳をキラキラと輝かせる。
 経営企画室といえば、会社の主力部署と言っても過言ではないところだ。
 経営陣を補佐しながら、中期経営計画の策定や、融資や投資の審議など、会社経営の舵取りを行う部署である。

「というわけで、これから適性試験を行います」

 まさか、そんな部署の選考を受けることになるなんて……
 試験用紙と鉛筆が配られると、総務部長がストップウォッチを手に持った。

「それではよーい、始め」

 試験会場に、カリカリと鉛筆の音が響く。


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