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3『経験は必要?』
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オープン前の店内で、太陽の光りに照らされているガラスのグラスを手に取り、拭きながら、店内の配置を教えている千場店長と郷田さんをちらっと見た。
今日から郷田さんが一緒に働く。
店舗経験ないので慣れるまで大変だろうなぁ。
郷田さんは緊張しているようで、千場店長の発する言葉を逃さないように、メモを必死で取っている。
郷田さんは、はやく仕事を覚えるために、慣れるまで通しでの勤務になる。
なので、暫くの間、店長とふたりきりになることはない。
「この棚は食器類を置いていて……窓から見えるところは季節商品を置くことが多いんだ」
「はい」
「ポップは、うちの店舗スタッフが作ってくれたり、本社から届いたりしたものを使ったりするから覚えておいて」
「了解しました」
真面目に聞いている郷田さんをついつい見入ってしまう。
やっぱり、タイプだ。
絵に描いたように、筋の通った人って感じがするし。
それに比べて千場店長は……って、どうして店長と郷田さんを比較してしまうのだろう。
意識を振り払うように、掃除に励んだ。
千場店長と郷田さんはバックヤードへ行った。
でも、懐かしいな。
私が新入社員の時にも、千場店長は色々教えてくれた。
入社した時のことを思い出す。
初めて店に行って制服を着た時は、嬉しさと緊張が入り交じっていた。そんな私に店長は「リラックスだぞ」と笑顔をくれた。
この人の下で働くなら、きっと仕事は楽しくなるのではないか。
期待に胸を膨らませた。
接客の基本を教えてくれ、お辞儀の角度や笑顔の作り方やお客様に声をかけるタイミングなど、本当に勉強になった。
厳しい時もあったし細かく教えてくれることもあった。
すっごく怒られた日もあったけど、そういう日は、仕事が終わると何事もなく笑顔で食事に連れて行ってくれたのだ。
もちろん、ふたりきりじゃなかったけど。
……初めは店長を尊敬していた。
いまも仕事ができる部分はリスペクトしているけど。
しかし、ある時から皆から好かれているのを見て、あんまりいい気分にはならなかった。
店長はカッコイイし、仕事はできるし、気配りもできる。完璧な人だけど、そんな完璧な人なんていないのではないか?
そうやって正論めいたことを並べてしまったけど、実際は違う。
私にないものを持っている店長に、妬んでいたのかもしれない。そうしている内に苦手意識が湧いてきたのだ。
店にいる時の店長は爽やかだ。
千場店長はやっぱり、部下とコミュニケーションを取るのがうまい。部下だけじゃない。
偉い人にも好かれているみたいだ。
私とは大違い。
部下には優しいし、接客でも笑顔を絶やさない。
完璧すぎるから、近づけない。近づきたくなかったのだ。
違う種類の人間だと思えば思うほど、苦手意識が湧いてきたのに、千場店長はふたりきりになると、やたらとプライベートのことを聞いてくるようになった。
そんな矢先、店長に弱みを握られてしまい、もう一週間になる。
……やつは、しつこい。
キス以上はいまのところ求められてないけど、毎日のおやすみメールは続けている。
ふたりきりになれば、俺様口調になって命令される。
ハグされて……キスをしたそうに顔を近づけてくるのだ。
こんな微妙な関係は、いつまで続くんだろう。
恋人じゃないのに、束縛されるのはやっぱりおかしい気がする。
開店まであと20分だ。
バックヤードに戻ると、郷田さんが座って商品カタログをじっと見ている。
郷田さんの胸にはマネージャーの文字が書かれているネームプレートがついている。
私は研修中と書かれていたプレートだったから、少しは安心できたけど、郷田さんはいきなり『マネージャー』の肩書がついているから緊張しているだろうな。
「郷田さん、わからないことがあれば遠慮なく聞いてくださいね」
こちらまで伝わってくるプレッシャーを少しでもほぐしてあげたくて声をかけると、顔を私のほうに向けて微かにほほ笑んだ。
「ありがとうございます。心強いです」
まっすぐに見つめられると照れてしまう。
表情に出さないように頷いた。
「郷田は接客の経験はないの?アルバイトとかでも」
千場店長が私と郷田さんの間を割って話しかけてくる。
「ええ。アルバイトはデーター入力とかそんなのばかりでした」
「まあ、出世するためにはうちの会社だと店舗経験は必須だからな」
諭すように言った千場店長は優しい笑顔を向けた。こうして見ると爽やかないい店長なんだけどな。
「大丈夫だ。天宮だって接客は大苦手だったけど、いまじゃベテランさんなんだ。きっと郷田も店での仕事が好きになると思うぞ」
千場店長は接客の楽しさを教えてくれたし、商品の愛も教えてくれた。私がこうやって働いていられるのは千場店長のおかげだと思う。
「さ、開店しよう」
千場店長の掛け声で私はロッカーのダイヤルに手をかけた。
「天宮、鍵のこと教えてあげて。報告のメール作るから」
「了解しました」
店長はパソコンデスクに座ってメーラーを立ち上げた。
「郷田さん、鍵は早番の人が開けるんですよ。鍵はこのロッカーで暗証番号が☓☓◯◯△です」
「はい」
「あとは開店5分前には鍵を解錠します。その時に店内に音楽をかけるのをお忘れなく」
「わかりました」
郷田さんは頭がよさそうだからすぐに仕事に慣れるだろう。
フォローできるよう私も頑張らなきゃ。
*
この一週間、郷田さんとは勤務パターンが同じことが多かった。
郷田さんは私より1歳年上で勝手に親近感を覚えていた。
お昼もほとんど一緒で、今日も同じタイミングでのランチタイムだ。
私と郷田さんは、バックヤードのテーブルに向かい合って座る。
手作り弁当を広げると、郷田さんは頬を赤く染めて覗きこんできた。
男性と食事をするなんて慣れてないから恥ずかしい。あまり慣れない。
「天宮さん、料理上手いんですね」
「いえ、適当なんですよ」
「うまそうだな……」
まっすぐに見つめてくる。
「もしよければ味見してみますか?」
まだ手を付けていないお弁当を差し出す。
嬉しそうな顔をしたから私は「どうぞ」という風に、にこっとほほ笑む。
郷田さんは、手を伸ばしてきて厚焼き玉子を選んだ。
玉子を摘んだタイミングで千場店長がバックヤードに入ってきた。
こちらを見る。
続いて後ろから三浦さんが来た。
「あら、ラブラブー」
からかうように言って発送用紙を取ると店頭に戻っていく。
千場店長は笑っているが目は怒っている気がした。
「とても美味しい。天宮さんって家庭的な女の子なんですね」
郷田さんに褒められた私は顔が熱くなる。
千場店長はなにも言わずに、私を睨んで店頭に行った。
*
郷田さんが転勤してきた次の週の水曜日。
仕事を終えて20時から郷田さんの歓迎会が開かれていた。座敷席の個室で私と宇野ちゃんが郷田さんを挟んで座り、目の前には、三浦さんがいる。三浦さんの隣には千場店長。その隣は安倍っちだ。
乾杯を済ませると、郷田さんから一言をもらうことになり、郷田さんは立ち上がった。
「皆さん、未熟者ではありますが一生懸命精進してまいりますのでよろしくお願いします」
「っていうか、郷田君、硬いって!!」
三浦さんはケラケラ笑っている。
恥ずかしそうに座った郷田さん。うわ、眼鏡男子の照れたところ……萌だわ。
「硬いですかね?」
私の顔を覗きこんでくる郷田さんに、ドキッとしてしまう。
あぁ、萌ぇ。あのさらさらの黒髪触りたい。肌も綺麗で眉毛も凛々しい。まさに、王子様だ。
「天宮さん、どうかされましたか?」
「へ、いや。素敵だと思いますよ。私はチャラチャラしたタイプの方は苦手なので、真面目な方がいいと思いますよ」
ちらっと千場店長を見ると笑って話を聞いているが、目は笑っていない。私の言葉が癇に障ったのか。
「へぇー。じゃあ、千場店長もストライクゾーンだね?」
三浦さんが聞いてくると、私は全力で否定する。
「ち、千場店長は真面目ではないと思います!」
千場店長は「ははは」と笑いつつも眉毛をピクリとさせた。
「えー、真面目でしょ。昨日だって遅くまで残ってたみたいだし。いつも仕事熱心だし。店舗メンバーには、めっちゃ優しいし」
宇野ちゃんが必死で言う。
「チャラチャラしてないですよー。すっごくカッコイイですよ」
安倍っちもキャピキャピしながら言っている。
それにしても、やっぱり女子には圧倒的に人気があるらしい……。
私にとってはセクハラ大王なのに。
店長はお酒に強い。顔色を変えずに飲んでいた。
「僕も、千場店長は素敵だと思います」
郷田さんの意外な言葉に私は目をまん丸くしてしまう。
たしかに男性にも人気があるのは認めるけど。
絶対に作られたキャラなのを皆はわかっていない。
ふたりきりになると爽やかさは消えて、意地悪になるんだから。
人の弱みに付け込んでエロい要求をしてくることを皆は知らないから、騙されているのだ。
「仕事もできるしコミュニケーション能力が優れている。僕には欠けているところです」
郷田さんも私と同じように、人と関わるのが苦手だと思っているんだ。
じっと郷田さんを見つめると郷田さんも私を見つめ返してくれた。
なにこれ……通じ合ってる?
耳が熱くなるのを感じて俯く。
あぁ……恋の予感。
「郷田、褒め過ぎだぞ。サラリーマンだからって気を使わなくていいから」
千場店長は、爽やかに笑った。
「あ、いえ」
郷田さんは気まずそうにして、眼鏡を中指で上げた。
歓迎会はお開きになった。
皆で店を出て次はどこに行こうとか話している隙に私は輪から抜けてきた。
はやく帰って小説を書きたい。早歩きで駅に向かっていく。
少しお酒を飲んで頬が熱くなっている。だから、春の夜に吹いているまだ温かくなりきっていない空気が気持ちいい。
赤信号になり待っていると「天宮」と私を呼ぶ声がした。
振り返ると不機嫌そうな千場店長がいる。
「な、なんでしょうか?」
「一緒に帰るぞ」
途中まで方向は一緒なはずだけど、誰かに見られて他の人に勘違いされても困る。
「皆はどうしたんですか?」
「二次会に行った」
「店長も行ったらどうです?」
「俺は、天宮と帰る。色々言いたいことあるし」
まるで文句でもありそうな口調だ。
そして平然と手を繋いでくる。
必死で振り払う。
「あのっ。一緒に歩いてたら、皆に誤解されるじゃないですかっ!公衆の場でやめてください!!」
「ったく……そんなに怒るなっつーの。じゃあ、公衆の場じゃないなら、いいんだな?」
手は離してくれたけど、ニヤリと笑った。
そういう意味で言ったんじゃないのに。
信号は緑に変わる。無視しながら前をまっすぐ見て小走りするが、足が長い千場店長は余裕で隣についてきた。
「冷たいな、天宮」
「前からですけど」
「前以上に、冷たい」
「……」
自覚してるんだ。
私があえて突き放してるのをわかってくれたみたい。じゃあ、もう付きまとって来ないでほしい。
電車に乗ると、三駅で店長が住んでいるところの最寄り駅についた。
ドアが開く。
「家まで送る」
「結構です」
「上司命令」
「……会社じゃない。プライベートタイムです」
「あっそ。じゃあ、交換条件」
……と、言い合いしているうちにドアは閉まってしまった。
まさか、家にあがるとか、言わないでしょうね?
*
電車を降りて駅から自宅までの道を歩いている間、私は変な緊張感に襲われていた。
男性を家に入れたことなんてない。
家に入れてしまえばなにをされるかわからない。
やはりなにがなんでも、千場店長を部屋の中に入れるのは阻止しなければ!
私は街灯の下で、ピタッと立ち止まる。
「もう。近くまで来たので、ここで結構です。お気遣いありがとうございました」
「……あ?」
「千場店長に家がバレるのが、嫌なので」
「ここまで送ってやったんだから、お茶を出すのが常識だろ」
「私は送ってなんて頼んでいません」
「さっさと歩けって」
私の背後に回って背中を押してくる。あ~もう、本当に迷惑。
「店長!」
振り向いて怒ると、傷ついた顔をされる。その顔は、映画のスクリーンにも映えるほどに、綺麗だ。
イケメンは……嫌いじゃないけど、店長がなぜ私にこだわるのかがわからない。面白半分でしつこくしているのだろうか。
「では、玄関までですよ!」
「ああ、とりあえずな」
ってなわけで。
予想がついているかもしれないが、玄関の前でも同じやり取りをして(内容は割愛)
……店長は、私の家のリビングのソファーに座ってくつろいでいる。
「綺麗にしてるな」
じろじろと部屋の中をチェックしている。いまのところリビングにいてくれるからいいけど、ベッドルームには絶対に入れたくない。
「お茶、一杯だけですよ。飲んだら、か・な・ら・ず、帰ってください」
お茶を出すと千場店長は「いただきます」と言ってズズズ―っと、のんびり飲む。
「店長。帰ってくださいよ?」
私の話なんて聞いちゃいない。
都合の悪いことは聞こえないらしい。この、自己中男めっ!
テーブルを挟んで私はカーペットに座った。そして、千場店長を見上げる。
「随分、郷田と仲がいいみたいだな?」
威圧的な言い方だ。
仲よくしていけない理由なんてないのに。
「……そうですか?」
「弁当までわけてただろ。俺には手料理を一度も作ってくれたことすらないのに」
まるで彼氏から束縛を受けているような気持ちになる。私はなにも悪いことをしていないのに、罪悪感が出てきた。
「あんまり熱い視線で見ると、郷田も勘違いすると思うけど」
私はそんな目で郷田さんを見ていたのだろうか。
恥ずかしくなって耳が熱くなる。
「ああいうのがタイプなのか」
ぼそっと呟いた千場店長は、面白くなさそうに頭を掻いた。
郷田さんはまさにタイプではあるけど、恋愛感情にまでは至っていない。まだ出会ったばかりだし、お互いのことをなにも知らないのだ。
千場店長は、お茶を一口飲んでテーブルに置くと、ソファーの肘掛けに肘をついて私を見つめてくる。
その視線に不覚にもドキッとしてしまう。イケメンすぎるでしょ。男も女も容姿がいいのは得だ。
私ももっと美人だったら人生違っていたのだろうか。
「天宮って、いままでどんな男と付き合ったの?どんなキスして、どんなエッチしたの?」
「……は?」
なにを聞いてくるのかと思えば……。
平気でセクハラ発言をしてくるんだから。
男性経験なんてゼロだし、千場店長にされたあれがファーストキスだったのだ。
バージンって、いまどき珍しいのかな。
私は、千場店長から目をそらしてもじもじとする。
「どうした?」
「え?いや……」
「じゃあさ、好きな人はいるのか?やっぱり、郷田?」
「す、好きな人なんていませんっ!」
勢いよく言って店長を睨むと、店長の顔は少し安心した表情になる。
「好きな人がいないってことは、彼氏もなしか」
「そ、そうですけど」
「ふーん」
このまま一緒にいると、根掘り葉掘り聞かれてしまう。
追い返そうと思って立ち上がり近づいていくと、手をギュッと捕まれて千場店長のほうへ引っ張られた。
バランスを崩し店長の胸の上に倒れてしまう。
「わ、やっ!」
思い切り抱きしめられた。
店長の胸板に頬をつけているこの格好は、まるで甘えてるみたいだ。彼氏でもない人に、抱きしめられるなんて。
――でも、ちょっと気持ちいい。男の人にされる抱擁って、こんな感じなんだ。(これは事故だけど)
筋肉質で硬い胸だ。普段から鍛えているのだろうか。
千場店長っていい匂い。爽やかな洗いたてのシーツみたいだ。
モテル男ってこんな感じなのね。
「天宮。気持ちいいことしようか」
甘くて怪しい声が耳に届く。
脳味噌がとろけてしまいそう。
思わず頷いてしまいそうになった。
しかし、はっと我に返る。
「無理ですっ」
「なんで?」
なんでって……当たり前のように言うなんてありえない。
どうしてこんなに偉そうなのだろう。
「シャワーも浴びてないし、明日も仕事ですし、はやく帰ってください」
「じゃあ、一緒にシャワーを浴びちゃえばいいだろ。あまってる歯ブラシある?」
ケロッとした態度に、イラッとする。なんなのこの人。
「店長」
低い声で言うと、やっと解放してくれる。
自由になった私は立ち上がり、店長を見下ろす。
「ケジメがない。だらしない。いい年して流れでお泊りしようなんて考え、おかしいです!私はそういう人間が大嫌いです」
「はあ?」
店長は、ニヤリとする。
「随分、強気だな。別にいいけど。小説のこと、バラせばいいだけだし」
ギクってなった私は、眉毛がピクピクと動く。
店長は立ち上がり、私の目の前に立った。
そして、私が着ていたカーディガンのボタンをひとつずつ外しはじめる。
「い、いやっ!なにするんですかっ!」
「俺とシャワー浴びなきゃ、バラすぞ」
最低。
勝ち誇ったような笑顔が心底憎いと思った。
「……ダメですっ」
エッチな小説を書いてるなんて……皆に知られたくない。三浦さんにも郷田さんにも……。
千場店長は、泣きそうになる私を面白そうに見ている。
ボタンに手をかけたままで見つめられた。
「どうする?
ずるい顔をして問いかけてきた。千場店長とシャワーを浴びるのは、心から嫌だ。でも、エッチな小説を書いていることを知られるのはもっと辛い。
迷った挙句、私は涙目で千場店長を見る。
「……一緒に入ります……」
「よし。じゃあ、脱がすぞ。それとも自分で脱ぐか?」
「……」
「やっぱり、脱がせてやる。これも楽しみのひとつだし」
店長はボタンを嬉しそうにひとつずつ外し、カーディガンを脱がせた。
キャミソールだけになり、肩に触れる外気が冷たくて身体を震わせる。
自分の身体を抱くような格好をして隠すと、千場店長は前から手を回してウエストにあるスカートのホックを外してチャックを降ろした。
スカートが、すとんと落ちた。
ショーツとキャミソール姿になってしまい、羞恥心で胸がいっぱいになる。
もう無理だ。泣きそう。
「……綺麗な、肌だ」
店長は私の肩にそっと触れる。
ザワザワとした。
初めての感覚に全身に鳥肌が立つ。
「意地悪」
「ん?」
「店長の意地悪!」
思いっきり言うと、涙がボロボロこぼれてきた。
「俺と一回エッチしたって減らないだろーが」
千場店長は私が経験済みだと信じて疑わない様子だ。
私は店長を睨むと、思い切り声を上げた。
「処女です!ファーストキスはあなたです!」
シーンと、部屋が静まり返る。
下着姿で泣いている部下と、唖然としている上司。
なんとも間抜けな絵だ。
私が書く小説には、こんなシーンは出てこない。
ヒロインがバージンだとカミングアウトしなくても、ヒーローは察してくれる。優しいヒーローにたっぷり甘やかされて愛されるんだもの。
「俺が……天宮のファーストキスの相手だと?」
態度は偉そうだけど、なんだかとても嬉しそうに問いかけてくる。
ニヤリと笑って両手で私の頬を包んでくる。
店長の熱が伝わってきた。
涙がポロッと落ちてしまう。
「マジでか。そっか……。バックヤードでしたあのキスが天宮のファーストキスだったんだな」
親指で私の涙を拭った千場店長は、私を愛しくてたまらないような顔をした。
そして頭を撫でてふわりと抱きしめてくれる。
いつもは強引なのに、突然優しくなったら……心が揺れそうになってしまう。でも、ここで、流されてはいけない。
身体を引き離して千場店長を睨みつけた。
「店長は、いままでそうやって強引に迫って……突然優しくなったりして、女性を口説いていたのでしょうか?」
頭をぽりぽりと掻いて、考えている。
「まあ、そうかもな。年上が多かったし。年下でバージンなんて経験ないし」
「そうですか。しかし、私は絶対に店長を受け入れません。遊び相手にはなりたくないです」
キッパリと言ってやると、千場店長はふーっと溜息をついてソファーにどかっと座った。
こんなに言っているのに、まだ帰らない気でいるの?
「じゃあさ。本気だって言ったら、抱かせてくれるの?」
いきなり真面目な顔で言われるから、言い返せない。
男性にそんなこと言われたことがなくて、免疫がないから、あまりからかわないでほしい。
目を泳がせてしまう。
千場店長は、イライラオーラ全開で私を睨んでくる。
「て、店長に限って、私なんかを本気で好きになるハズはないです!」
「人の気持ちを勝手に決めないでくれる?」
「でも、私は……店長は無理です」
「あっそ。でも交換条件は続行だから」
「とにかく、もうそろそろお帰りください。これから小説を書くので」
「大人しくしてるから、いいよ書いて」
「帰ってください!」
「なんか、本貸して。読んで待ってるから」
「あの……、聞いてます?」
「聞いてるっつーの。だから、本貸して」
呆れた。
私は、折れた。
背を向けて、脱がされた服を着る。
「天宮ってさ、バージンなのに……ああいう小説書いてるってことだろ?あれは、願望なわけ?」
……願望?
そりゃ、カッコイイ人に胸きゅんワードは言われたい。
素敵なシチュエーションでのキスやハグは憧れていた。大好きな人との甘い時間を過ごしたいと、乙女の妄想は果てしない。
……けど、現実は違う。私は地味で口下手。人見知り。男性に誘われることなんてなかった。
唯一、こうやって私に触れてこようとする人は店長くらいだ。
でも、店長は女の人が寄ってきて選びたい放題で、可愛くてイケてる女の子に飽きちゃったから、私に執着しているのだろう。
振り向いて店長を睨む。
「願望ではありませんが、妄想ですよ!」
寝室にある本棚から、嫌がらせのように大好きな作家の恋愛小説を持ってきて手渡した。
「絶対に執筆の邪魔はしないでくださいね」
「ああ」
表紙を見た千場店長は「恋愛小説?」と質問してくる。
「ええ。ピュアなんです。泣かないでくださいね。書いてきます」
私は、パソコンのある寝室に移動した。
そして、小説を書き始める。
店長は言った通り、大人しく読書をしている。こういうところは、聞き分けがいい。だから、集中して書くことができた。
*
さて、寝る準備をしようかと振り返ると……あ、そうだ。千場店長がいたんだった。そっと近づいていくと、千場店長はソファーでぐっすり眠っている。
時間は深夜1時半。
やっぱり、最初から帰る気がなかったのだろう。
憎たらしいほど、綺麗な顔だ。
無防備で可愛いとさえ思ってしまう。
こんなに美しい顔立ちなのだから、店長は女に生まれてくればよかったのに。
風邪をひかれたら困るから、タオルケットをかけた。
(さて、シャワー浴びてこようかな)
バスルームに行って服を脱ぐが、リビングに店長がいるのだと思うと急にドキドキしはじめた。
もし、起きて覗かれたらどうしよう。
身体を見られるのは絶対にイヤ。やっぱり、起こしておこうかな。
もう一度服を着てリビングに行くと彼はいない。
帰ったのかと思ったのも束の間。
「店長……、ちょっと!!」
寝室に置いてあるパソコンをじっと見ている。私の書きかけの小説を勝手に読んでいた。しかも読んでいたシーンは、ピンクのシーン。
拳を口に当てて、くすくすと笑い出す。
変なことを書いただろうかと不安になった。
「あのさー……。この体勢で挿入って厳しくない?お互い体操選手って設定ならいけるかもしれないけど」
「え……?」
「ちょっとおいで」
警戒心を持たずに近づくと、私が書いたシーンを再現する。
片足をベッドに膝つかせて、もう片方の太ももを持ち脚を開きつつ、足の甲にキスをするというシーン。
「ここで腰を動かしてから」
何度か腰を動かした千場店長は、足の甲にキスをしようと持ち上げられた。
「い、痛いっ!!!」
股関節が外れる!
私は、ベッドに転がってしまった。
「ほらな?これじゃあ、主人公は気持ちよくなれないぞ」
ベッドの端に座って背中をぽんぽんと撫でてくる。
脚を開かれたショックと、痛みで動けないんですけど。
このシーンを書いてた時は寝ぼけていて……。
後から読み返すとワケが分からない時があるものだ。
やっと起き上がった私は、自分の無防備さに愕然としている。
おいでと言われて素直に近づいた自分が腹立たしい!と、同時に千場店長のセクハラ行為にイライラが沸き上がってくる。
可愛い顔して……なんてはしたないことをしてくるの?
「セクハラ大王!」
思いっきり大きな声で言うと、千場店長はきょとんとした。
「ここ職場じゃないし」
「でも、あなたの部下には変わりありませんっ」
「だってさー、天宮の小説のレビューに書かれてたぞ。”ふたりが恋に落ちるまでの描写はとても好きですが、エッチシーンが下手すぎて驚きました。作者さんは経験がない少女なのでしょうか”って。バレバレだな」
店長は、あははと豪快に笑う。
そのレビュー、私も見た。ギクって思った。読者は鋭い。
R18の小説を読んだり、エッチなビデオを見たりして、自分なりに勉強はしているけど、経験には勝てない。
そんな私を諭すように言ってくる。
「天宮。経験だよ」
「経験……」
「経験に勝るものはない。小説は想像で書く世界だけど、リアルな描写が入ってくるから面白いんじゃないかな?」
その通りだ。なにも言い返せない。
店長は的を得たことを言う。
「バージンの天宮が一生懸命エロいこと想像して書いているっては、オレ的にはたまんないけど……。天宮が作家として花開くために……経験してみない?」
「えっ……?」
先日担当さんからもらったメールで『キスシーンがリアルでした。丁寧でドキッとしましたよ』と褒めてもらった。
そのことを思い出すと、経験は必要なのかもしれないとも思える。
でも、経験と言っても……私には彼氏がいない。
経験するためには相手を探さなきゃいけないのだ。セフレなんて嫌だし。彼氏を作ると言っても簡単にできるものではない。
途方に暮れる話に目眩がする。
初めては大好きな人とって思っていたけれど、いますぐ運命の人には出会えないだろうし。
『作家として花開く』というキーワードは頭に残る。
でも、なんだか千場店長に上手く乗せられているような気が……。
「どうしたの?黙って」
「いえ、経験は必要なのかもしれないですね。私も大人な女性なわけですし。ただ、好きじゃない人とするのは抵抗があります」
「……それってさ、郷田がイイって遠まわしにアピールしてる?」
すごく不機嫌な顔をして私を睨んでくる。
でも、別にそういうわけじゃないんだよなぁ。
郷田さんは素敵だけど決して恋しているわけじゃない。
「郷田がどんな奴かイマイチわからないけど。まあ、真面目でいい奴だとは思うけどさ。でも、反対だ。天宮は俺を好きになればいい」
「……」
いきなり真面目な顔をされるから、心臓がキュンキュンと動き出した。
――でも、簡単に信じられない。
だって……人を好きになると裏切られた時が怖いから。
千場店長はソファーに座って大きなあくびをした。
「じゃあ、おやすみ」
「……おやすみなさい」
自分勝手すぎる千場店長のペースにまんまとハマってしまった。
すぐに千場店長の気持ちよさそうな寝息が聞こえてきた。
*
結局、寝不足……。
同じ部屋にいると思うと緊張して眠れなかった。
店長はソファーでぐっすり眠っている。
朝陽に照らされると綺麗な顔が、より一層美しい。仮にも、寝顔って不細工な人が多いのに店長は完璧だ。
「あ……」
でも、寝癖を発見してちょっと笑ってしまう。それに、ヒゲも少しだけ生えていてなんだか無防備なのだ。
こういうのを見ると店長も人間なんだなって思った。
「起きてください」
私はすばやく服に着替え洗面を終えてから、店長を起こす。
眠そうに目をこすって私を見つめる。
きょとんとした顔から、私だと認識するとニッコリと笑う。まるで、母親を見つけた時の赤ん坊みたいだ。やばい、母性心がくすぐられる。
いつも憎たらしいからギャップ萌えしてしまうのだ。
「おはよう、天宮」
「遅刻しちゃいますよ!ほら、パン焼いたんでパッと食べてください」
私はあなたがここにいるから、いつもよりはやく起きて準備をしたんだからねっ。簡単に作った料理を置いて、私はカーペットに正座した。
「天宮の手料理か」
食べないでニヤニヤしてみている。
「食べないなら、さげますか?」
「食うよ。嬉しくて喜びを噛み締めてんだって。遠慮なくいただきます」
パンにかじりつく千場店長は、豪快でありながら品がある。
食事する仕草イコールセックスと聞いたことはあるが、千場店長はどんな風に女性を喜ばせるのだろう。
パンを食べ終えると、時計を確認した店長は慌てて立ち上がる。
「ご馳走様。彩歩の料理、気に入ったから……また作ってくれ。家に寄ってから会社行くわ」
千場店長颯爽といなくなった。
……しかも、下の名前で呼び捨てされたし。
ほんっと腹立つ。
店長が出て行ってから30分後に、私も出社した。
会社に到着すると千場店長はすでに来ていた。
私は2番乗りだった。
ホワイトボードに売上目標を書いている千場店長は、振り返った。
「彩歩。いろいろと、ありがとう」
「いえ」
「今度は俺がご馳走してやるから、楽しみにしておけよ」
千場店長の家に行くということかな?
どこか連れて行ってくれるのかな?
ふたりだけの秘密はどんどん増えていくのだろうか?
今日から郷田さんが一緒に働く。
店舗経験ないので慣れるまで大変だろうなぁ。
郷田さんは緊張しているようで、千場店長の発する言葉を逃さないように、メモを必死で取っている。
郷田さんは、はやく仕事を覚えるために、慣れるまで通しでの勤務になる。
なので、暫くの間、店長とふたりきりになることはない。
「この棚は食器類を置いていて……窓から見えるところは季節商品を置くことが多いんだ」
「はい」
「ポップは、うちの店舗スタッフが作ってくれたり、本社から届いたりしたものを使ったりするから覚えておいて」
「了解しました」
真面目に聞いている郷田さんをついつい見入ってしまう。
やっぱり、タイプだ。
絵に描いたように、筋の通った人って感じがするし。
それに比べて千場店長は……って、どうして店長と郷田さんを比較してしまうのだろう。
意識を振り払うように、掃除に励んだ。
千場店長と郷田さんはバックヤードへ行った。
でも、懐かしいな。
私が新入社員の時にも、千場店長は色々教えてくれた。
入社した時のことを思い出す。
初めて店に行って制服を着た時は、嬉しさと緊張が入り交じっていた。そんな私に店長は「リラックスだぞ」と笑顔をくれた。
この人の下で働くなら、きっと仕事は楽しくなるのではないか。
期待に胸を膨らませた。
接客の基本を教えてくれ、お辞儀の角度や笑顔の作り方やお客様に声をかけるタイミングなど、本当に勉強になった。
厳しい時もあったし細かく教えてくれることもあった。
すっごく怒られた日もあったけど、そういう日は、仕事が終わると何事もなく笑顔で食事に連れて行ってくれたのだ。
もちろん、ふたりきりじゃなかったけど。
……初めは店長を尊敬していた。
いまも仕事ができる部分はリスペクトしているけど。
しかし、ある時から皆から好かれているのを見て、あんまりいい気分にはならなかった。
店長はカッコイイし、仕事はできるし、気配りもできる。完璧な人だけど、そんな完璧な人なんていないのではないか?
そうやって正論めいたことを並べてしまったけど、実際は違う。
私にないものを持っている店長に、妬んでいたのかもしれない。そうしている内に苦手意識が湧いてきたのだ。
店にいる時の店長は爽やかだ。
千場店長はやっぱり、部下とコミュニケーションを取るのがうまい。部下だけじゃない。
偉い人にも好かれているみたいだ。
私とは大違い。
部下には優しいし、接客でも笑顔を絶やさない。
完璧すぎるから、近づけない。近づきたくなかったのだ。
違う種類の人間だと思えば思うほど、苦手意識が湧いてきたのに、千場店長はふたりきりになると、やたらとプライベートのことを聞いてくるようになった。
そんな矢先、店長に弱みを握られてしまい、もう一週間になる。
……やつは、しつこい。
キス以上はいまのところ求められてないけど、毎日のおやすみメールは続けている。
ふたりきりになれば、俺様口調になって命令される。
ハグされて……キスをしたそうに顔を近づけてくるのだ。
こんな微妙な関係は、いつまで続くんだろう。
恋人じゃないのに、束縛されるのはやっぱりおかしい気がする。
開店まであと20分だ。
バックヤードに戻ると、郷田さんが座って商品カタログをじっと見ている。
郷田さんの胸にはマネージャーの文字が書かれているネームプレートがついている。
私は研修中と書かれていたプレートだったから、少しは安心できたけど、郷田さんはいきなり『マネージャー』の肩書がついているから緊張しているだろうな。
「郷田さん、わからないことがあれば遠慮なく聞いてくださいね」
こちらまで伝わってくるプレッシャーを少しでもほぐしてあげたくて声をかけると、顔を私のほうに向けて微かにほほ笑んだ。
「ありがとうございます。心強いです」
まっすぐに見つめられると照れてしまう。
表情に出さないように頷いた。
「郷田は接客の経験はないの?アルバイトとかでも」
千場店長が私と郷田さんの間を割って話しかけてくる。
「ええ。アルバイトはデーター入力とかそんなのばかりでした」
「まあ、出世するためにはうちの会社だと店舗経験は必須だからな」
諭すように言った千場店長は優しい笑顔を向けた。こうして見ると爽やかないい店長なんだけどな。
「大丈夫だ。天宮だって接客は大苦手だったけど、いまじゃベテランさんなんだ。きっと郷田も店での仕事が好きになると思うぞ」
千場店長は接客の楽しさを教えてくれたし、商品の愛も教えてくれた。私がこうやって働いていられるのは千場店長のおかげだと思う。
「さ、開店しよう」
千場店長の掛け声で私はロッカーのダイヤルに手をかけた。
「天宮、鍵のこと教えてあげて。報告のメール作るから」
「了解しました」
店長はパソコンデスクに座ってメーラーを立ち上げた。
「郷田さん、鍵は早番の人が開けるんですよ。鍵はこのロッカーで暗証番号が☓☓◯◯△です」
「はい」
「あとは開店5分前には鍵を解錠します。その時に店内に音楽をかけるのをお忘れなく」
「わかりました」
郷田さんは頭がよさそうだからすぐに仕事に慣れるだろう。
フォローできるよう私も頑張らなきゃ。
*
この一週間、郷田さんとは勤務パターンが同じことが多かった。
郷田さんは私より1歳年上で勝手に親近感を覚えていた。
お昼もほとんど一緒で、今日も同じタイミングでのランチタイムだ。
私と郷田さんは、バックヤードのテーブルに向かい合って座る。
手作り弁当を広げると、郷田さんは頬を赤く染めて覗きこんできた。
男性と食事をするなんて慣れてないから恥ずかしい。あまり慣れない。
「天宮さん、料理上手いんですね」
「いえ、適当なんですよ」
「うまそうだな……」
まっすぐに見つめてくる。
「もしよければ味見してみますか?」
まだ手を付けていないお弁当を差し出す。
嬉しそうな顔をしたから私は「どうぞ」という風に、にこっとほほ笑む。
郷田さんは、手を伸ばしてきて厚焼き玉子を選んだ。
玉子を摘んだタイミングで千場店長がバックヤードに入ってきた。
こちらを見る。
続いて後ろから三浦さんが来た。
「あら、ラブラブー」
からかうように言って発送用紙を取ると店頭に戻っていく。
千場店長は笑っているが目は怒っている気がした。
「とても美味しい。天宮さんって家庭的な女の子なんですね」
郷田さんに褒められた私は顔が熱くなる。
千場店長はなにも言わずに、私を睨んで店頭に行った。
*
郷田さんが転勤してきた次の週の水曜日。
仕事を終えて20時から郷田さんの歓迎会が開かれていた。座敷席の個室で私と宇野ちゃんが郷田さんを挟んで座り、目の前には、三浦さんがいる。三浦さんの隣には千場店長。その隣は安倍っちだ。
乾杯を済ませると、郷田さんから一言をもらうことになり、郷田さんは立ち上がった。
「皆さん、未熟者ではありますが一生懸命精進してまいりますのでよろしくお願いします」
「っていうか、郷田君、硬いって!!」
三浦さんはケラケラ笑っている。
恥ずかしそうに座った郷田さん。うわ、眼鏡男子の照れたところ……萌だわ。
「硬いですかね?」
私の顔を覗きこんでくる郷田さんに、ドキッとしてしまう。
あぁ、萌ぇ。あのさらさらの黒髪触りたい。肌も綺麗で眉毛も凛々しい。まさに、王子様だ。
「天宮さん、どうかされましたか?」
「へ、いや。素敵だと思いますよ。私はチャラチャラしたタイプの方は苦手なので、真面目な方がいいと思いますよ」
ちらっと千場店長を見ると笑って話を聞いているが、目は笑っていない。私の言葉が癇に障ったのか。
「へぇー。じゃあ、千場店長もストライクゾーンだね?」
三浦さんが聞いてくると、私は全力で否定する。
「ち、千場店長は真面目ではないと思います!」
千場店長は「ははは」と笑いつつも眉毛をピクリとさせた。
「えー、真面目でしょ。昨日だって遅くまで残ってたみたいだし。いつも仕事熱心だし。店舗メンバーには、めっちゃ優しいし」
宇野ちゃんが必死で言う。
「チャラチャラしてないですよー。すっごくカッコイイですよ」
安倍っちもキャピキャピしながら言っている。
それにしても、やっぱり女子には圧倒的に人気があるらしい……。
私にとってはセクハラ大王なのに。
店長はお酒に強い。顔色を変えずに飲んでいた。
「僕も、千場店長は素敵だと思います」
郷田さんの意外な言葉に私は目をまん丸くしてしまう。
たしかに男性にも人気があるのは認めるけど。
絶対に作られたキャラなのを皆はわかっていない。
ふたりきりになると爽やかさは消えて、意地悪になるんだから。
人の弱みに付け込んでエロい要求をしてくることを皆は知らないから、騙されているのだ。
「仕事もできるしコミュニケーション能力が優れている。僕には欠けているところです」
郷田さんも私と同じように、人と関わるのが苦手だと思っているんだ。
じっと郷田さんを見つめると郷田さんも私を見つめ返してくれた。
なにこれ……通じ合ってる?
耳が熱くなるのを感じて俯く。
あぁ……恋の予感。
「郷田、褒め過ぎだぞ。サラリーマンだからって気を使わなくていいから」
千場店長は、爽やかに笑った。
「あ、いえ」
郷田さんは気まずそうにして、眼鏡を中指で上げた。
歓迎会はお開きになった。
皆で店を出て次はどこに行こうとか話している隙に私は輪から抜けてきた。
はやく帰って小説を書きたい。早歩きで駅に向かっていく。
少しお酒を飲んで頬が熱くなっている。だから、春の夜に吹いているまだ温かくなりきっていない空気が気持ちいい。
赤信号になり待っていると「天宮」と私を呼ぶ声がした。
振り返ると不機嫌そうな千場店長がいる。
「な、なんでしょうか?」
「一緒に帰るぞ」
途中まで方向は一緒なはずだけど、誰かに見られて他の人に勘違いされても困る。
「皆はどうしたんですか?」
「二次会に行った」
「店長も行ったらどうです?」
「俺は、天宮と帰る。色々言いたいことあるし」
まるで文句でもありそうな口調だ。
そして平然と手を繋いでくる。
必死で振り払う。
「あのっ。一緒に歩いてたら、皆に誤解されるじゃないですかっ!公衆の場でやめてください!!」
「ったく……そんなに怒るなっつーの。じゃあ、公衆の場じゃないなら、いいんだな?」
手は離してくれたけど、ニヤリと笑った。
そういう意味で言ったんじゃないのに。
信号は緑に変わる。無視しながら前をまっすぐ見て小走りするが、足が長い千場店長は余裕で隣についてきた。
「冷たいな、天宮」
「前からですけど」
「前以上に、冷たい」
「……」
自覚してるんだ。
私があえて突き放してるのをわかってくれたみたい。じゃあ、もう付きまとって来ないでほしい。
電車に乗ると、三駅で店長が住んでいるところの最寄り駅についた。
ドアが開く。
「家まで送る」
「結構です」
「上司命令」
「……会社じゃない。プライベートタイムです」
「あっそ。じゃあ、交換条件」
……と、言い合いしているうちにドアは閉まってしまった。
まさか、家にあがるとか、言わないでしょうね?
*
電車を降りて駅から自宅までの道を歩いている間、私は変な緊張感に襲われていた。
男性を家に入れたことなんてない。
家に入れてしまえばなにをされるかわからない。
やはりなにがなんでも、千場店長を部屋の中に入れるのは阻止しなければ!
私は街灯の下で、ピタッと立ち止まる。
「もう。近くまで来たので、ここで結構です。お気遣いありがとうございました」
「……あ?」
「千場店長に家がバレるのが、嫌なので」
「ここまで送ってやったんだから、お茶を出すのが常識だろ」
「私は送ってなんて頼んでいません」
「さっさと歩けって」
私の背後に回って背中を押してくる。あ~もう、本当に迷惑。
「店長!」
振り向いて怒ると、傷ついた顔をされる。その顔は、映画のスクリーンにも映えるほどに、綺麗だ。
イケメンは……嫌いじゃないけど、店長がなぜ私にこだわるのかがわからない。面白半分でしつこくしているのだろうか。
「では、玄関までですよ!」
「ああ、とりあえずな」
ってなわけで。
予想がついているかもしれないが、玄関の前でも同じやり取りをして(内容は割愛)
……店長は、私の家のリビングのソファーに座ってくつろいでいる。
「綺麗にしてるな」
じろじろと部屋の中をチェックしている。いまのところリビングにいてくれるからいいけど、ベッドルームには絶対に入れたくない。
「お茶、一杯だけですよ。飲んだら、か・な・ら・ず、帰ってください」
お茶を出すと千場店長は「いただきます」と言ってズズズ―っと、のんびり飲む。
「店長。帰ってくださいよ?」
私の話なんて聞いちゃいない。
都合の悪いことは聞こえないらしい。この、自己中男めっ!
テーブルを挟んで私はカーペットに座った。そして、千場店長を見上げる。
「随分、郷田と仲がいいみたいだな?」
威圧的な言い方だ。
仲よくしていけない理由なんてないのに。
「……そうですか?」
「弁当までわけてただろ。俺には手料理を一度も作ってくれたことすらないのに」
まるで彼氏から束縛を受けているような気持ちになる。私はなにも悪いことをしていないのに、罪悪感が出てきた。
「あんまり熱い視線で見ると、郷田も勘違いすると思うけど」
私はそんな目で郷田さんを見ていたのだろうか。
恥ずかしくなって耳が熱くなる。
「ああいうのがタイプなのか」
ぼそっと呟いた千場店長は、面白くなさそうに頭を掻いた。
郷田さんはまさにタイプではあるけど、恋愛感情にまでは至っていない。まだ出会ったばかりだし、お互いのことをなにも知らないのだ。
千場店長は、お茶を一口飲んでテーブルに置くと、ソファーの肘掛けに肘をついて私を見つめてくる。
その視線に不覚にもドキッとしてしまう。イケメンすぎるでしょ。男も女も容姿がいいのは得だ。
私ももっと美人だったら人生違っていたのだろうか。
「天宮って、いままでどんな男と付き合ったの?どんなキスして、どんなエッチしたの?」
「……は?」
なにを聞いてくるのかと思えば……。
平気でセクハラ発言をしてくるんだから。
男性経験なんてゼロだし、千場店長にされたあれがファーストキスだったのだ。
バージンって、いまどき珍しいのかな。
私は、千場店長から目をそらしてもじもじとする。
「どうした?」
「え?いや……」
「じゃあさ、好きな人はいるのか?やっぱり、郷田?」
「す、好きな人なんていませんっ!」
勢いよく言って店長を睨むと、店長の顔は少し安心した表情になる。
「好きな人がいないってことは、彼氏もなしか」
「そ、そうですけど」
「ふーん」
このまま一緒にいると、根掘り葉掘り聞かれてしまう。
追い返そうと思って立ち上がり近づいていくと、手をギュッと捕まれて千場店長のほうへ引っ張られた。
バランスを崩し店長の胸の上に倒れてしまう。
「わ、やっ!」
思い切り抱きしめられた。
店長の胸板に頬をつけているこの格好は、まるで甘えてるみたいだ。彼氏でもない人に、抱きしめられるなんて。
――でも、ちょっと気持ちいい。男の人にされる抱擁って、こんな感じなんだ。(これは事故だけど)
筋肉質で硬い胸だ。普段から鍛えているのだろうか。
千場店長っていい匂い。爽やかな洗いたてのシーツみたいだ。
モテル男ってこんな感じなのね。
「天宮。気持ちいいことしようか」
甘くて怪しい声が耳に届く。
脳味噌がとろけてしまいそう。
思わず頷いてしまいそうになった。
しかし、はっと我に返る。
「無理ですっ」
「なんで?」
なんでって……当たり前のように言うなんてありえない。
どうしてこんなに偉そうなのだろう。
「シャワーも浴びてないし、明日も仕事ですし、はやく帰ってください」
「じゃあ、一緒にシャワーを浴びちゃえばいいだろ。あまってる歯ブラシある?」
ケロッとした態度に、イラッとする。なんなのこの人。
「店長」
低い声で言うと、やっと解放してくれる。
自由になった私は立ち上がり、店長を見下ろす。
「ケジメがない。だらしない。いい年して流れでお泊りしようなんて考え、おかしいです!私はそういう人間が大嫌いです」
「はあ?」
店長は、ニヤリとする。
「随分、強気だな。別にいいけど。小説のこと、バラせばいいだけだし」
ギクってなった私は、眉毛がピクピクと動く。
店長は立ち上がり、私の目の前に立った。
そして、私が着ていたカーディガンのボタンをひとつずつ外しはじめる。
「い、いやっ!なにするんですかっ!」
「俺とシャワー浴びなきゃ、バラすぞ」
最低。
勝ち誇ったような笑顔が心底憎いと思った。
「……ダメですっ」
エッチな小説を書いてるなんて……皆に知られたくない。三浦さんにも郷田さんにも……。
千場店長は、泣きそうになる私を面白そうに見ている。
ボタンに手をかけたままで見つめられた。
「どうする?
ずるい顔をして問いかけてきた。千場店長とシャワーを浴びるのは、心から嫌だ。でも、エッチな小説を書いていることを知られるのはもっと辛い。
迷った挙句、私は涙目で千場店長を見る。
「……一緒に入ります……」
「よし。じゃあ、脱がすぞ。それとも自分で脱ぐか?」
「……」
「やっぱり、脱がせてやる。これも楽しみのひとつだし」
店長はボタンを嬉しそうにひとつずつ外し、カーディガンを脱がせた。
キャミソールだけになり、肩に触れる外気が冷たくて身体を震わせる。
自分の身体を抱くような格好をして隠すと、千場店長は前から手を回してウエストにあるスカートのホックを外してチャックを降ろした。
スカートが、すとんと落ちた。
ショーツとキャミソール姿になってしまい、羞恥心で胸がいっぱいになる。
もう無理だ。泣きそう。
「……綺麗な、肌だ」
店長は私の肩にそっと触れる。
ザワザワとした。
初めての感覚に全身に鳥肌が立つ。
「意地悪」
「ん?」
「店長の意地悪!」
思いっきり言うと、涙がボロボロこぼれてきた。
「俺と一回エッチしたって減らないだろーが」
千場店長は私が経験済みだと信じて疑わない様子だ。
私は店長を睨むと、思い切り声を上げた。
「処女です!ファーストキスはあなたです!」
シーンと、部屋が静まり返る。
下着姿で泣いている部下と、唖然としている上司。
なんとも間抜けな絵だ。
私が書く小説には、こんなシーンは出てこない。
ヒロインがバージンだとカミングアウトしなくても、ヒーローは察してくれる。優しいヒーローにたっぷり甘やかされて愛されるんだもの。
「俺が……天宮のファーストキスの相手だと?」
態度は偉そうだけど、なんだかとても嬉しそうに問いかけてくる。
ニヤリと笑って両手で私の頬を包んでくる。
店長の熱が伝わってきた。
涙がポロッと落ちてしまう。
「マジでか。そっか……。バックヤードでしたあのキスが天宮のファーストキスだったんだな」
親指で私の涙を拭った千場店長は、私を愛しくてたまらないような顔をした。
そして頭を撫でてふわりと抱きしめてくれる。
いつもは強引なのに、突然優しくなったら……心が揺れそうになってしまう。でも、ここで、流されてはいけない。
身体を引き離して千場店長を睨みつけた。
「店長は、いままでそうやって強引に迫って……突然優しくなったりして、女性を口説いていたのでしょうか?」
頭をぽりぽりと掻いて、考えている。
「まあ、そうかもな。年上が多かったし。年下でバージンなんて経験ないし」
「そうですか。しかし、私は絶対に店長を受け入れません。遊び相手にはなりたくないです」
キッパリと言ってやると、千場店長はふーっと溜息をついてソファーにどかっと座った。
こんなに言っているのに、まだ帰らない気でいるの?
「じゃあさ。本気だって言ったら、抱かせてくれるの?」
いきなり真面目な顔で言われるから、言い返せない。
男性にそんなこと言われたことがなくて、免疫がないから、あまりからかわないでほしい。
目を泳がせてしまう。
千場店長は、イライラオーラ全開で私を睨んでくる。
「て、店長に限って、私なんかを本気で好きになるハズはないです!」
「人の気持ちを勝手に決めないでくれる?」
「でも、私は……店長は無理です」
「あっそ。でも交換条件は続行だから」
「とにかく、もうそろそろお帰りください。これから小説を書くので」
「大人しくしてるから、いいよ書いて」
「帰ってください!」
「なんか、本貸して。読んで待ってるから」
「あの……、聞いてます?」
「聞いてるっつーの。だから、本貸して」
呆れた。
私は、折れた。
背を向けて、脱がされた服を着る。
「天宮ってさ、バージンなのに……ああいう小説書いてるってことだろ?あれは、願望なわけ?」
……願望?
そりゃ、カッコイイ人に胸きゅんワードは言われたい。
素敵なシチュエーションでのキスやハグは憧れていた。大好きな人との甘い時間を過ごしたいと、乙女の妄想は果てしない。
……けど、現実は違う。私は地味で口下手。人見知り。男性に誘われることなんてなかった。
唯一、こうやって私に触れてこようとする人は店長くらいだ。
でも、店長は女の人が寄ってきて選びたい放題で、可愛くてイケてる女の子に飽きちゃったから、私に執着しているのだろう。
振り向いて店長を睨む。
「願望ではありませんが、妄想ですよ!」
寝室にある本棚から、嫌がらせのように大好きな作家の恋愛小説を持ってきて手渡した。
「絶対に執筆の邪魔はしないでくださいね」
「ああ」
表紙を見た千場店長は「恋愛小説?」と質問してくる。
「ええ。ピュアなんです。泣かないでくださいね。書いてきます」
私は、パソコンのある寝室に移動した。
そして、小説を書き始める。
店長は言った通り、大人しく読書をしている。こういうところは、聞き分けがいい。だから、集中して書くことができた。
*
さて、寝る準備をしようかと振り返ると……あ、そうだ。千場店長がいたんだった。そっと近づいていくと、千場店長はソファーでぐっすり眠っている。
時間は深夜1時半。
やっぱり、最初から帰る気がなかったのだろう。
憎たらしいほど、綺麗な顔だ。
無防備で可愛いとさえ思ってしまう。
こんなに美しい顔立ちなのだから、店長は女に生まれてくればよかったのに。
風邪をひかれたら困るから、タオルケットをかけた。
(さて、シャワー浴びてこようかな)
バスルームに行って服を脱ぐが、リビングに店長がいるのだと思うと急にドキドキしはじめた。
もし、起きて覗かれたらどうしよう。
身体を見られるのは絶対にイヤ。やっぱり、起こしておこうかな。
もう一度服を着てリビングに行くと彼はいない。
帰ったのかと思ったのも束の間。
「店長……、ちょっと!!」
寝室に置いてあるパソコンをじっと見ている。私の書きかけの小説を勝手に読んでいた。しかも読んでいたシーンは、ピンクのシーン。
拳を口に当てて、くすくすと笑い出す。
変なことを書いただろうかと不安になった。
「あのさー……。この体勢で挿入って厳しくない?お互い体操選手って設定ならいけるかもしれないけど」
「え……?」
「ちょっとおいで」
警戒心を持たずに近づくと、私が書いたシーンを再現する。
片足をベッドに膝つかせて、もう片方の太ももを持ち脚を開きつつ、足の甲にキスをするというシーン。
「ここで腰を動かしてから」
何度か腰を動かした千場店長は、足の甲にキスをしようと持ち上げられた。
「い、痛いっ!!!」
股関節が外れる!
私は、ベッドに転がってしまった。
「ほらな?これじゃあ、主人公は気持ちよくなれないぞ」
ベッドの端に座って背中をぽんぽんと撫でてくる。
脚を開かれたショックと、痛みで動けないんですけど。
このシーンを書いてた時は寝ぼけていて……。
後から読み返すとワケが分からない時があるものだ。
やっと起き上がった私は、自分の無防備さに愕然としている。
おいでと言われて素直に近づいた自分が腹立たしい!と、同時に千場店長のセクハラ行為にイライラが沸き上がってくる。
可愛い顔して……なんてはしたないことをしてくるの?
「セクハラ大王!」
思いっきり大きな声で言うと、千場店長はきょとんとした。
「ここ職場じゃないし」
「でも、あなたの部下には変わりありませんっ」
「だってさー、天宮の小説のレビューに書かれてたぞ。”ふたりが恋に落ちるまでの描写はとても好きですが、エッチシーンが下手すぎて驚きました。作者さんは経験がない少女なのでしょうか”って。バレバレだな」
店長は、あははと豪快に笑う。
そのレビュー、私も見た。ギクって思った。読者は鋭い。
R18の小説を読んだり、エッチなビデオを見たりして、自分なりに勉強はしているけど、経験には勝てない。
そんな私を諭すように言ってくる。
「天宮。経験だよ」
「経験……」
「経験に勝るものはない。小説は想像で書く世界だけど、リアルな描写が入ってくるから面白いんじゃないかな?」
その通りだ。なにも言い返せない。
店長は的を得たことを言う。
「バージンの天宮が一生懸命エロいこと想像して書いているっては、オレ的にはたまんないけど……。天宮が作家として花開くために……経験してみない?」
「えっ……?」
先日担当さんからもらったメールで『キスシーンがリアルでした。丁寧でドキッとしましたよ』と褒めてもらった。
そのことを思い出すと、経験は必要なのかもしれないとも思える。
でも、経験と言っても……私には彼氏がいない。
経験するためには相手を探さなきゃいけないのだ。セフレなんて嫌だし。彼氏を作ると言っても簡単にできるものではない。
途方に暮れる話に目眩がする。
初めては大好きな人とって思っていたけれど、いますぐ運命の人には出会えないだろうし。
『作家として花開く』というキーワードは頭に残る。
でも、なんだか千場店長に上手く乗せられているような気が……。
「どうしたの?黙って」
「いえ、経験は必要なのかもしれないですね。私も大人な女性なわけですし。ただ、好きじゃない人とするのは抵抗があります」
「……それってさ、郷田がイイって遠まわしにアピールしてる?」
すごく不機嫌な顔をして私を睨んでくる。
でも、別にそういうわけじゃないんだよなぁ。
郷田さんは素敵だけど決して恋しているわけじゃない。
「郷田がどんな奴かイマイチわからないけど。まあ、真面目でいい奴だとは思うけどさ。でも、反対だ。天宮は俺を好きになればいい」
「……」
いきなり真面目な顔をされるから、心臓がキュンキュンと動き出した。
――でも、簡単に信じられない。
だって……人を好きになると裏切られた時が怖いから。
千場店長はソファーに座って大きなあくびをした。
「じゃあ、おやすみ」
「……おやすみなさい」
自分勝手すぎる千場店長のペースにまんまとハマってしまった。
すぐに千場店長の気持ちよさそうな寝息が聞こえてきた。
*
結局、寝不足……。
同じ部屋にいると思うと緊張して眠れなかった。
店長はソファーでぐっすり眠っている。
朝陽に照らされると綺麗な顔が、より一層美しい。仮にも、寝顔って不細工な人が多いのに店長は完璧だ。
「あ……」
でも、寝癖を発見してちょっと笑ってしまう。それに、ヒゲも少しだけ生えていてなんだか無防備なのだ。
こういうのを見ると店長も人間なんだなって思った。
「起きてください」
私はすばやく服に着替え洗面を終えてから、店長を起こす。
眠そうに目をこすって私を見つめる。
きょとんとした顔から、私だと認識するとニッコリと笑う。まるで、母親を見つけた時の赤ん坊みたいだ。やばい、母性心がくすぐられる。
いつも憎たらしいからギャップ萌えしてしまうのだ。
「おはよう、天宮」
「遅刻しちゃいますよ!ほら、パン焼いたんでパッと食べてください」
私はあなたがここにいるから、いつもよりはやく起きて準備をしたんだからねっ。簡単に作った料理を置いて、私はカーペットに正座した。
「天宮の手料理か」
食べないでニヤニヤしてみている。
「食べないなら、さげますか?」
「食うよ。嬉しくて喜びを噛み締めてんだって。遠慮なくいただきます」
パンにかじりつく千場店長は、豪快でありながら品がある。
食事する仕草イコールセックスと聞いたことはあるが、千場店長はどんな風に女性を喜ばせるのだろう。
パンを食べ終えると、時計を確認した店長は慌てて立ち上がる。
「ご馳走様。彩歩の料理、気に入ったから……また作ってくれ。家に寄ってから会社行くわ」
千場店長颯爽といなくなった。
……しかも、下の名前で呼び捨てされたし。
ほんっと腹立つ。
店長が出て行ってから30分後に、私も出社した。
会社に到着すると千場店長はすでに来ていた。
私は2番乗りだった。
ホワイトボードに売上目標を書いている千場店長は、振り返った。
「彩歩。いろいろと、ありがとう」
「いえ」
「今度は俺がご馳走してやるから、楽しみにしておけよ」
千場店長の家に行くということかな?
どこか連れて行ってくれるのかな?
ふたりだけの秘密はどんどん増えていくのだろうか?
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