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1『弱みを握られました』
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今日は年に一度の全国優秀店舗表彰式が、会社近くのホテルで盛大に行われていた。二百人ほどの社員がパイプ椅子に座り壇上を見つめている。
最優秀店舗は、今年も私の勤めている店舗だった。
『スマイルCookingstudio』――全国に八十店舗ある料理教室だ。そこで使用している調理器具等を『カラフルbyスマイルCookingstudio』という日用雑貨店で販売しているが、私はそこで販売員として働き二年目になる。
三十階建てのビルの一階に店舗があり、同じビルの十階と十一階に本社が入っている。
就職活動中は、面接を何度受けても落ち続けていたが、諦めないで頑張り続けると最後に大手企業に就職ができた。
接客が苦手だけど、なんとか仕事に励んでいる毎日である。
私は店舗代表として表彰式に参加させてもらっていた。
優秀店舗の発表が終わり、引き続き個人に送られる社長賞がアナウンスされる。
「本年度の社長賞は、三年連続で最優秀店舗になりました千場一樹(ちばいつき)店長です。壇上へどうぞ」
大きな拍手の中、壇上堂々と向かっていくのは、私が働いている店舗のイケメン店長だ。
「やっぱり、千場店長かぁ」
「カッコイイし、仕事もできるし最高だよね」
女性社員のヒソヒソ話が拍手に混じって聞こえてくる。
店長の身長は一八〇センチ。スラーっとしたモデル体系。爽やかな笑顔がトレードマークだ。
ふわっとした茶髪に、綺麗な二重。鼻は筋が通っていて、唇の形もいい。
頬にあるホクロが彼の童顔をセクシーに見せている。
そして、誰に対しても愛想がいい。
あの容姿で有名店の店長で愛想がいいとなると、ひたすらモテまくりである。ただ、私にはいつも上から目線で何かとしつこくて過保護だ。
上司だから仕方がないかもしれないけれど、うざくて仕方がない。
店舗内ではいつもどんな人がお嫁さんになるか、そういう話題ばかり。
本社でも大人気らしく、更には、お客さんからもプレゼントをもらったりしている。こんなところで働いてないで、芸能人になればよかったのではと思ってしまう。
私は黒髪ストレートヘアー。目は二重で大きいけれど眼鏡で隠れている。小さな鼻と口であまり目立たない顔立ちをしている。
人見知りで、愛想よく笑えない。
性格も外見も地味な私と、店長は真逆のタイプだ。だから、私は千場店長のことが苦手なのだ。
「では、千場店長、一言挨拶をお願いします」
司会者に促された彼はスタンドマイクの前に行き、キラッキラの笑みを浮かべて口を開いた。
「このように素晴らしい賞を頂きありがとうございます。売上に貢献できたことは大変に嬉しく思っており、我が店舗スタッフが力を合わせた結果だと思っております」
まるで、テレビドラマのワンシーンみたい。あの人は何をやっても完璧すぎる。
私は、どこか冷めた目で千場店長のことを見つめていた。
授賞式が終わると、そのままホテルで懇親会になる。立食形式で美味しそうな食材が並んでいた。
社長の挨拶が終わると社長は社員のところに自ら進んで話しかけに行く。偉い人とあまり話すことがないから緊張していると、こちらに近づいてきた。
「天宮さん、しっかりやっているかな?」
「はい。店長にご指導して頂き頑張っております」
下っ端の私にも挨拶してくれたことに感動してしまう。
「よろしく頼むよ」
社長は手を上げてまた違う社員の元へと行く。
お皿に適当に料理を盛って壁際に寄った。
料理に舌鼓を打ちつつ、店長の姿を探す。
(あ、いた)
大勢の人がいるから見つけるのが大変かと思いきや、彼のいる場所は目立つ。大体、美人な女性に囲まれているのだ。
なんとなく眺めていると目が合った。
私は反射的にそらす。
千場店長が女性社員の輪の中から抜け出して私に向かって歩いてくる。逃げようと思うけど、逃げ場所がない。
私の背中には壁があって立ち止まっているしかなかった。
「お疲れ。天宮」
「お疲れ様です。受賞……おめでとうございます」
目を合わせないようにして話をする。顔をまともに見ることができない。
イケメンは嫌い。
私にだけ意地悪な店長なんて……大嫌い。
あからさまに嫌な態度を取っているのに千場店長は顔を近づけてきて耳元で囁く。
「今夜、ふたりだけでお祝いでもするか?」
口元をクイッと上げて人を馬鹿にしたように見てくる。
普通の人ならイケメンに誘われて恋に落ちるだろうけど、私はこんな手には引っかからない。絶対に千場店長になびかない私をからかうのが楽しいらしい。
「結構です」
顔をそむけて冷たく受け流す。
すると、店長はくすっと笑った。
「おまえは相変わらず冷たい女だな。この俺が誘ってやってんのに」
私と千場店長がふたりで話しているだけなのに、女性社員の視線が痛い。なるべく近づいてこないでほしい。
そう思っていると、積極的な女性社員が千場店長に近づいてきた。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
誰かがいれば愛想がいい。
ふたりきりだと狼のように鋭い視線を向けてくる。
女性社員と千場店長の会話が盛り上がってきたところで、私はそれとなくその場から離れた。
また壁際に寄ってため息をつく。
あー、苦手。店長と、本当に関わりたくない。
上から目線だし、他の人達は千場店長の本性を知らないのだ。
皆、騙されているのに。小さな溜息をついた。
息が詰まる懇親会を終えると、私は誰よりもはやく帰宅した。
*
太陽の光が差し込んできて、眩しさで目が覚める。
ベッドの上にはいたけど、布団もかけずに横になっていた。
今日も中途半端に寝てしまったらしい……。
いつも遅くまで小説を書いてから寝るため、毎日寝不足気味だ。おまけに昨日は授賞式があって疲れていたのかもしれない。気も使ったし。
慌てて出勤準備を済ませる。
シャワーを浴びて、身近宅をするとバターロールを咥えた。
私は、築三十五年の1DKの部屋にひとり暮らしをしている。
八畳の居間にはふたりがけのソファーとローテーブルがあり、テレビを置いてあるだけだ。六畳の寝室にはベッドとパソコンデスク、本棚がある。
必要最低限の物しか置いていない。
雑貨は職業柄、嫌いではないけど、シンプルが一番だ。
そして、家を出る間際に、タンスの上に置いてある亡くなったお母さんとおばあちゃんの写真に挨拶をする。
「行ってきます。今日も一日よろしくね」
家を出ようとしたところで思いとどまる。
玄関にいた私は履きかけの靴を脱いだ。
メモリースティックを忘れるところだった。
一度寝室に行き、デスクトップパソコンから抜いたメモリースティックをバッグの内ポケットに入れる。
隙間時間も有効利用するために、小さなノートパソコンを購入したのだ。
ランチで時間があったり、帰りに電車が空いていたら小説を書いたりしている。
それと、カフェにパソコンを持参して書くことにも憧れて買ってみた。
家を出て駅までは全力疾走する。
なんとか電車に間に合い、ぎゅうぎゅう詰めの車内に飛び乗った。
毎朝、バタバタしながらの出勤をどうにかしたいと思いつつ、いつも同じことを繰り返してしまう。
気がつけば、三月も中旬である。
今日は、人事異動の発表日だ。
(どうか、店長が変わりますように)
ふたりきりになるとやたらと話しかけてきて、からかわれる。
ぼんやりと考えていると、電車は駅に到着する。
満員電車から降りると、駅近くにある職場が入っているビルへ向かった。
店舗の正面からは入ることができないので、ビルの社員連絡口から入る。セキュリティーカードをかざすと自動ドアが開いた。
薄暗い廊下を歩いて店舗の裏口まで歩いて行く。
今日は9時からのシフトだ。開店は10時からなのだが、色々と準備があるため、はやいシフトがある。
「ハァー……」
憂鬱でたまらない。
早番だと、店長とふたりきりになるからだ。
もうすぐ店舗裏の廊下を歩いていると、ポンポンと肩を叩かれた。
嫌な予感がして振り向くと、千場店長が意地悪な笑顔を浮かべて立っている。
げっ。
「天宮、おはよう」
「お、おはようございます」
「あ。いま……げって思った?」
(ったく、なんでわかるのよ!)
目を合わせたくないから、下を向いて足早に店に向かう。
店舗前について鍵を開けて店に入ると、千場店長は勝ち誇ったようにククっと笑う。
「逃げても無駄だ。嫌でも開店までの一時間は、俺とふたりきりだし」
「……っ」
うわぁ、関わりたくない。
ぷいっと顔を背けて、更衣室に逃げ込んだ。
バックヤードには、店長のパソコン机と書類を入れるロッカーが2棚ある。
ふたり掛けの小さなテーブルがあり、奥にある扉は商品の在庫置き場になっている。
そして小さな更衣室がありそこで着替えをするのだけど、鍵がないから安心できない。あの人がいつドアを開けて入ってくるかと、いつもヒヤヒヤしている。
「おーい、天宮。お前のペチャパイ、少しは成長したか?」
更衣室の壁の向こうから聞こえる。私は悔しくて顔が真っ赤になった。
「よけいなお世話ですっ!」
「チェックしてやろうか?」
「セクハラで訴えますよ」
あはははと楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
そんなに私をイジメて楽しいのだろうか。悪趣味だ。
店舗の制服は、白いブラウスに茶色のスカートに緑のエプロンをする。
男性は、白いブラウスにネクタイをし茶色のパンツ。
鏡を見ながら背中まである真っ黒な髪の毛を、シュシュでひとつに束ねた。
化粧はよくわからないから、ファンデーションとピンク色のリップだけ。コンタクトはあまり好きじゃないから、眼鏡のまま普段も過ごしている。
着替えを終えて更衣室から出ると、千場店長はパソコンの前に座っていた。
一日の売上目標のチェックや、本社から送られてくるメールを確認しているようだ。
目を逸らして「掃除してきます」と言うと店頭へ出た。
丁寧に商品のホコリを掃除する。
物は生き物を扱うように大事にするタイプだ。もう2年前に亡くなってしまったけど……育ててくれたお婆ちゃんの教えである。
掃除は嫌いじゃない。
接客をするくらいなら、掃除をしている方がいい。
「今日は人事異動の発表日だな。うちの店って全国に80箇所あるだろ?離れ離れになるかもな。寂しいか?」
チリトリを持って近づいてきた千場店長は、やたら私に近づいて話しかけてくる。店長は私が店長を好きだと勘違いしてるのかもしれない。
ツンデレだと思われているとか?
「寂しくはありません」
「あっそ」
ひたすら無言で、この空間には私ひとりしかいないのよって感じで掃除をする。
「おいおい、ツンってするなって」
「……」
なにも答えないでいると、千場店長は眉毛をピクッと動かしてイラッとして再びバックヤードに戻った。
一体、あの人はなんなの?
気持ち悪いっ。なんで世間一般の女性は、あの人がいいのだろうか?
ひと通り掃除を終えると、バックヤードに行って在庫チェックをする。この在庫置き場の空気ったら、ジメッとしていてかなり居心地が悪い。
「……昨日の夜って、なにしてた?」
背後から声が聞こえてくる。千場店長は、狭い空間に一緒に入りたがる習性があるらしい。
「……仕事中なんで、プライベートなことはお答えできません」
冷たい口調で言ってやる。
「これは、上司と部下のコミュニケーションなんだけど」
カリカリカリ。
ボールペンでメモを取る音だけが、虚しく響く。
「おい、無視するな」
突然ある時から、千場店長はふたりきりになれば絡んでくるようになった。
平気でセクハラ発言はしてくるし、いつもプライベートのことを聞いてくる。
「アドレス交換しておこうか?俺が転勤になったら、色々聞きたいこと出てくるかもしれないだろうし」
「不明点があれば、新しい勤務先に連絡を入れますので、メールアドレスの交換は不要かと。さ、店長。開店です」
在庫置き場から出て、私は店の正面ドアの鍵を外した。
店内にはオルゴールの音色が流れている。
「お前は俺に恨みでもあるのか?」
「はい?」
開店してもなお言い合いは続く。
「どうして俺を避ける?」
「……嫌いだからです」
ハッキリと言うと千場店長は傷ついた顔をする。
「店長としては尊敬していますけど……」
「フォローなんてしなくていい」
ふたりきりだと言い合いをしてばかりだ。
もう、本当に疲れる。
そんなやり取りを繰り返していると、遅番の三浦桃江(みうらももえ)先輩が出勤してきた。
これでやっとふたりきりの空間から解放される。はぁ、長かった。
明るくてサバサバした性格の三浦さんは、目が大きくて唇が薄い美人さん。シュッとしたアゴのラインで揺れているボブが女子力を上げている。
華やかな人は苦手なのに、なぜか三浦さんは大丈夫だと思えた人で、仲良くしてもらっている。
「おはようございます!」
「おはよう。今日もよろしく」
千場店長はやはり他の人には愛想がいい。この違いはなんなの!?
レジに立っている私の隣に三浦さんが近づいてくる。
「三浦さん、おはようございます」
「店長と仲良くしてた~?」
腕をツンツンと突っつかれた。
「……はは。まあ」
愛想笑いをした私は内心「仲良くできるわけないじゃないっ」と思っていた。
もうひとりの遅番の宇野ちゃんも出勤してきた。
宇野ちゃんは細くてベリーショートが似合う天真爛漫系な女の子だ。
「おはようございます~」
そろそろ来店が多くなる時間だ。頑張らなきゃ。
*
「お昼入ります」
私はお客様がいない時を見計らって、昼休憩に入ることした。パソコンに向かっている店長に断りを入れる。
「ごゆっくり」
店長は一度私に振り向くと、私はすぐに目をそらした。
バックヤードのテーブルに座る。
手作り弁当を広げると、一足遅れて昼休みに入った同僚の宇野ちゃんが覗きこんでくる。気さくな性格の宇野ちゃんとの会話は楽しい。
店長に聞こえない程度の声で、会話をする。
「うわぁ、美味しそう」
「そうかな。私、コンビニとか苦手で……。だから、どうしても手作りになっちゃうだけなんだけどね」
「料理できる人ってポイント高いよ。はぁー私も料理できたら、店長のハートをゲットできるのかなぁ」
どうして、そこに行き着く?
皆、感覚がおかしい。千場店長は、ただの意地悪な人だと思うんだけど。
「15時になったら内事だね」
宇野ちゃんはコンビニ弁当を食べ始める。
「そうだね。18時に移動先が解禁になるんでしょ?」
「うん。今回はサプライズ人事があるかな」
「店長、いなくなればいいのに」
私がぼそっと呟くと、宇野ちゃんは苦笑いをした。
「えー……やだよ。部署異動したら、またライバルが増えちゃうもん」
あの人をアイドルのように崇めるのは、やめた方がいいと思うんだけど。どうしても、千場店長様ってなっちゃうらしい。
宇野ちゃんが一足先に戻ると、私は自分のバッグから小さなノートパソコンをテーブルに置いた。休憩時間中に少しでも小説を書いておきたい。文字を綴っていないと落ち着かないのだ。
メモリースティックをパソコンに挿して、昨日の続きを書く。
『硬くなった胸の蕾はブラジャーに擦れてますます膨れ上がった。係長は制服のボタンをひとつずつ外していく……』
「お疲れー」
「わ、お疲れ様です」
今度は三浦さんがやってきた。
慌ててメモリースティックを抜いてパソコンを閉じる。そして制服のポケットに慌てて入れた。
「驚かせちゃった?」
「いえ」
やっぱり職場では落ち着いて書けないな。明日から持ってくるのはやめようかな……。
三浦さんは会社近くのベーカリーからサンドイッチを買ってきたようで、食べはじめる。
「彩歩ちゃん。人事異動だねー。そろそろ、彩歩ちゃんが移動かな?」
「そうですよね。もう2年ですし可能性はありますよね……」
「それか、イケメン転勤してくればいいのにー。オフィスラブとか憧れるよね」
三浦さんは珍しく千場店長を崇めない人である。三浦さんいわく『イケメンだけど、店長には好きな人がいると思う。面倒くさい恋愛はしたくないの』と言っていた。
バックヤードから店内を見ると、混んできたようだ。
昼休みは1時間しっかり休めないことが多い。これは接客業の運命なのかもしれない。
「ちょっとはやめに戻りますね」
「はいはーい」
ランチを終えると、店長は接客中だった。
若い奥様らしき女性は、調理器具のアドバイスを店長から受けている。
奥様は顔を真っ赤にしながら店長にくっついて説明を聞いているが、内容をちゃんと把握しているのか。
数日前も来店していたし、店長目的というのが見え見えだ。
ちらっと様子を監視しつつ、レジに立っていた。
別のお客様が目の前に来て、カウンターに商品が置かれた。鍋のセットだ。
「贈り物でしょうか?」
「ええ。結婚祝いです」
「のしはお付けいたしますか?」
「いらないわ」
「こちらでラッピングさせてもらいますね。お待ちください」
商品を包装する。最後にリボンをつけて終わり。
「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
店長はキラキラした笑顔を作り頭を下げた。
15時になったが私は店長から呼ばれることはなかった。
ということは異動しないとのことだ。
まだこの店舗で頑張れってことなのかなと思いつつ働いていた。
18時になり早番の私は帰る準備をする。
更衣室から出ると、掲示板に人事異動の一覧が張り出されていた。
どんな内容か確認する。
営業企画部運営課郷田鉄郎(ごうだてつろう)
名前は聞いたことがあるけど、面識はない人だ。
しかも、男性だ。三浦さんはオフィスラブをしたいと言っていたけど……私もオフィスラブには憧れる。
そろそろ、恋をしてそれ以上のこともしてみたい。はやく大人な女性になってみたいものだ。ちゃんと好きになれる人が現れたらいいのだけれど。
「お互いに移動もなくまた一緒に働けるな。嬉しいだろ?」
耳元で囁かれた。
ビクッとして振り向くと店長がいて、至近距離で目が合う。
口元に笑みを浮かべいる。
「自惚れないでください。世界中の女性が千場店長を好きなわけじゃないですからね!」
キッと睨むと千場店長はむっとした顔をする。
「お前……偉そうに」
また言い合いになりそうなとき、バックヤードに宇野ちゃんが入って来た。
助かった。
「では、失礼します」
挨拶をして店を出て行った。
*
電車に乗ってしばらくすると、席が空いてきた。
端に座り、外を眺めつつぼうっと考える。
また店長と一緒に働くのか……。
郷田さんってどんな人なんだろう。
気が合う人だといいけど、転勤してくるほうは緊張しているだろうから親切にしよう。
通勤時間は約50分だ。会社の近くに住みたいけれど家賃が高すぎる。
まだ近いほうだし耐えなきゃなぁ。
駅を降りると、スマホにメールが届いた。
『春月さくら先生。お世話になっております。疑問点をまとめたファイルをお送りしますので、ご確認お願いします。原稿の戻しは明日15時までです。よろしくお願いします』
電子書籍でお世話になっている出版社からのメールだった。パソコンに送られてくるメールも、スマホで確認できるように転送している。
春月さくら……とは、私のペンネームだ。元々は『SaKuRa』で執筆活動していたのだが、電子書籍化するにあたって、苗字をつけたほうがいいと言われた。甘過ぎない名前にしようと思ったのと、漢字とひらがなを混ぜたペンネームにしたくて、考えてここに行き着いた。
仕事が終わってからの原稿修正は疲れるけど、自分の作品に表紙がつけられて配信されるのは、やっぱり嬉しい。読者様から感想をもらえると書いてよかったと思える。いい意見だけじゃないけれど、真摯に受け止め成長の糧にしている。
(よっし。今日も原稿、頑張るぞ)
家について早速パソコンの前に座る。家ではデスクトップを使用しているの。このほうが画面が大きくて見やすいし。
バッグからメモリースティックを出そうと探すが……。
「あれ、ない。ウソでしょ?」
慌ててバッグをひっくり返して中身を全て出すけれど、見当たらない。
たしかに朝持って行ったし、昼間も使った。……と言うことは、まさか、会社に置いてきてしまったとか?
店は19時までの営業だ。時計を見ると19時20分。昔も一度忘れ物をして、店舗に戻ったことがあった。いまから行けば間に合うかもしれない。
メモリースティックを拾われて誰かに中身を見られては困る。私はなにも考えずに、急いで店舗へ戻った。
ビルについて社員通路口から店舗へ向かうと、まだ鍵は開いていた。
(助かった……)
時計は、20時45分。きっと店長だけが残っているだろうけど、ふたりきりになるのは仕方がない。どうか、店にメモリースティックがありますように……。
願いつつドアを開けると、パソコンに向かっている私服の店長がいた。
黒いコートを羽織っているということは、帰る寸前だったのだろうか。
「お、お疲れ様です……」
恐る恐る声をかける。
「おお、天宮どうした?」
振り返った店長は、何食わぬ顔で返事した。すぐにパソコンにすぐ向き直る。
その背中に向かって話しかける。
「ちょっと忘れ物を……」
まだ、仕事の途中なのだろうか。いつも遅くまで大変そうだ。
仕事に夢中になっている隙に、机を見たり床に落ちてないかと、目をキョロキョロさせる。
落とし物入れを見るがない。あれ、おかしいな。
しゃがんで、机の下を見たり、更衣室を見たりするけど、見つからず、だんだんと焦ってしまう。
(どこかで落としたのかな。会社じゃないとしたら……。どうしよう)
そんなに広くないバックヤードだし、落ちていたら誰か拾って落とし物入れに入れておいてくれるはずだけど。こんなに探してないということは、外で落としてしまったのだろうか。あぁ、バックアップを取っておくべきだった。
力なく立ち上がり、ふと店長が真剣に見ているパソコン画面に目が行く。
目が悪いからなにが書いてあるか見えないけど、やたら文字がぎっしり書かれているようだ。
なんの書類だろう。
一歩二歩と、そっと近づいていくと私は凍りついてしまった。
「……あああああ、ん……っ」
そんな一文が見えた。……もしかすると、店長が真剣に読んでいるのは……。
”もしかすると”じゃない。”おそらく”だ。だって……あんな破廉恥な文章がパソコン画面に映し出されているんだもの”確実に”私の書いたものだろう。
メモリースティックがパソコンに挿入されている。自分のモノじゃないと信じたいけど、小さなイルカのストラップがついていた。沖縄の水族館に行った友人からプレゼントされたモノだ。……やっぱり、私のメモリースティックだよね。絶望の文字が頭に浮かぶ。
いまここで自分のだと言わなければ、バレない。
店長なんかにバレるなんて絶対に嫌だ。バカにされて、からかわれるのが容易に想像できる。だから、そのまま帰ろうと思ったけど、出版社からのメールを思い出す。
――原稿の戻しは、明日15時までです。
今日の夜やらないと、絶対に間に合わない。出版社にメールをすれば、原稿はあるはず。戻してもらえばいい。……けれど、他に書いたものもあのメモリースティックの中にはある。
「なぁ、天宮」
「はい」
「俺、いまちょっと……ムラっとしてるんだ」
「……」
振り返らずに呟く千場店長の背中を見つめる。この人は一体、なにを言っているのだろうか。上司と部下が会社でふたりきりのシチュエーションは、小説でもよく書くけど……先の展開が読めない。しかも「ムラっとしてる」など言うヒーローなんてあまり見たことがない。
「『係長の荒い息が耳に届くだけで、私は潤ってくるのを感じた。係長の指は男性らしさを残しつつ、とてもしなやかで綺麗だ。その指で刺激されることを想像するだけで身体の力が抜けてくる気がした。』」
千場店長は、淡々と朗読をはじめる。
うわ、や、やめて!
私は、あまりの恥ずかしさに耳が熱くなってしまう。罰ゲームだ!拷問だよっ。一体、どんなプレイですか!ふえーん、帰りたいっ。
「この文章を読んでたら、変な気分になってきたんだよねぇ」
千場店長は朗読をやめると、椅子を回転させて振り返った。突っ立っている私を下から覗いてくる。
しかも勝ち誇ったような憎たらしい整ったお顔だ。
真っ赤になっているだろう私を見てこの文章を書いたのが誰か確信したかもしれない。
「床に落ちていたから、誰かの私物だと思うけど……。明日、聞いてみよっかな」
独り言のように呟いてメモリースティックを抜き、デスクの引き出しに入れてしまった。
そして、鍵を掛けてしまう。
デスクの鍵は店長が管理しているから、店長以外の人が開けるのは不可能だ。
もう、泣きそう……。
立ち上がった千場店長は、固まって動けずにいる私に近づいて顔を覗き込む。
「ところで……忘れ物はあったのか?」
「い、え……」
「忘れ物なんてお前らしくないな?」
「……あ、あの」
あのメモリースティックは私のモノだとわかっているくせに、わざとらしく聞いてくる。本当に意地悪だ。
明日、皆の前で誰のモノか聞かれたら知らないふりをすればいい。
でも、これから書こうとしていたアイディアやプロットも入っている。アイディアはいつも降って湧いてくるわけじゃない。私にとってみれば、財産だ。
大変苦労してまとめた原稿もある。
……絶対にあのメモリースティックは、持って帰らなければいけない。
意を決して伝えよう。
「て、店長!」
「ん?」
「その、あの……」
い、言えないっ。言いたくないっ!
私が書いたなんて正直に言ったら、店長はなにを言い出すかわからない。
呼吸が苦しくなってくるけど、言わなければ……私の小説を書く夢はここで終わってしまう。
大袈裟かもしれないけど、追い詰められてそんな気分になっていた。
「もしかして」
千場店長の一言一言に心臓がおかしくなりそう。
私は千場店長を恐る恐る目を見つめる。
「さっきのエロ小説って……天宮が書いたオチ?」
「え……?」
私は明らかに動揺し、声をひっくり返してしまう。背中に汗が流れてもうベチャベチャだ。
さらに、距離を縮めてくる。
私は後ずさるが、躓いて転けそうになった。
千場店長が抱きしめる形で助けてくれる。
背中には手が添えられていて、顔がドアップだ。
「……っ!!!」
「天宮の背中、すっごい汗。コートの上からでも熱くなってるのわかるぞ。まさか、天宮も興奮しちゃったとか?」
からかうように言う千場店長を必死で睨む。
頬に触れてこようとするから、私は髪の毛が乱れるほど頭を横に振る。
「は、離れてくださいっ!」
「そんな、セクハラをされたような声、出すなって。助けてあげただけだろーが」
そう言ってくすりと笑い、意地悪な顔を近づけてくる。
あと5センチでキスされちゃいそうな至近距離だ。ずれた眼鏡を直してくれると視界がはっきりする。
腹が立つほど綺麗な顔にドキッとしてしまう。
店長とここでじゃれ合っている場合じゃない。
はやくメモリースティックを取り返して帰りたい。
店長は私を解放すると、ククッと喉を震わしながら笑っている。
「帰るぞ」
そう言うと、店長はドアに向かって歩き出す。
私は唖然としつつも、千場店長の腕を反射的に捕まえた。
「ん?」
首だけこちらに向けて、じっと見つめられる。
「あれ。まだ俺と一緒にいたいのか?飯でも一緒に食う?」
のんきな店長の声が耳を通り抜ける――。
私の人生は今日で終わりだ……。
でも、仕方がないだ。どーしても、メモリースティックを返して欲しい。
バックアップをしていなかったことを後悔しつつ、私は店長の腕を離した。息を大きく吸う。もう、勢いで言ってしまえ!!
「メ、メモリースティック……わ、私のですっ!」
目をつぶり両手に握りこぶしを作って、思い切り言うとシーンとなった。
カチカチカチ――。
時計の針の音が聞こえる。
耳が熱くなってジンジンする……。空気の流れが止まってしまったかのように、息苦しくなった。
そっと目を開けると、店長はテーブルに腰をかけて私を見ている。
「ふーん。天宮って……ああいう小説書くんだ。へぇー」
「お願いします!誰にも言わないでください」
店長にバレてしまったのは、百歩譲って仕方がない。でも、他の社員に知られるなんて絶対に無理っ。
普段地味な私なだけに、根っからの変態だと思われてしまう。
「うちの社員で知ってる人は?」
「誰にも言ってません……」
「言いたくないのか?」
私はすがるようにコクリと頷く。
「なるほどねぇー」
なにか企みを含んだ声だ。
店長は顎に手を当てて私を見る。
なにか、よからぬことを言いそうな顔をしている。
「交換条件」
「こうかん……じょうけん?」
綺麗な顔は悪魔になったかのように、ずるーい表情になる。
ほら、やっぱり、店長は腹黒い。皆、騙されてますよと叫んでやりたいが、いまは身を守るため、交換条件を聞くしかない。
「……交換条件とはたとえば、どんなものでしょうか?」
「そうだな」
店長は、右の口元をクイっと上げる。その顔と言えば、もう『悪』にしか見えない。
サタン!鬼!デビル!
「まずは、アドレス交換」
千場店長は、スマホをズボンのポケットから出した。
『まずは』と言うキーワードが気になるが、アドレス交換をしてメモリースティックを返してもらえるなら、容易いご用だ!
メールが届いたって無視すればいいんだし。
「わかりました。アドレス交換をすれば、メモリースティックを返してもらえますね?」
「とりあえずね」
『とりあえず』ってなによと思いつつスマホをバッグから出すと、手から抜き取られた。
「あ、ちょっと」
「わりぃ。ボタン押しちゃった。メールが見えちゃったんだけど……春月さくら先生って誰?」
「店長には関係ありません」
「交換条件」
勝ち誇ったように言われた。
絶対にわざとボタンを押して見たくせに。
この人めちゃくちゃ性格悪い。悪すぎる。
電子書籍を出してるなんて言ったら、また色々聞かれそうだし、言っていいものか悩む。
私は口を固く閉じてジトっと睨んだ。
「あーそう。言わないのか。じゃあ朝礼で発表決定」
余裕たっぷりに、くすくすと笑っている。
史上最悪。絶体絶命。
苦手な上司に弱みを握られてしまうなんて、私はつくづくついていない。
「月に一本ペースで……電子書籍を出しています。そのメモリースティックの中には大事な原稿が入ってるんです……。なので返してください」
すがるように言う私を見て、千場店長はなんだか満足そうな顔をしている。
アドレスを登録し終えるとスマホを返してくれた。
そうかと思うと、ニヤリとする。
「そりゃ、詳しく知りたいね。天宮のその可愛い頭の中で、どんなエロいことを考えているのか」
頭をポンポンと撫でられる。
嫌味な言い方に私はついムッとなって言い返してした。
「たしかにエッチな想像はしていますけど、愛があるというのが前提なんです。女の子は身体だけじゃなく、心も気持ちよくなりたい生き物なんです!」
知ったかぶりだ。
経験がないくせにエッチを語るなんて100年は早過ぎるかもしれない。
千場店長は私をじっと見つめる。
「男もできれば好きな人としたいけど」
意味ありげに言ってテーブルから立ち上がった。
間近で見るとやっぱり背が高くて、スタイルが抜群だと改めて感心してしまう。
千場店長は、デスクの前まで行って引き出しの鍵を開いた。
中にあるメモリースティックを出すと、小さなイルカのストラップが揺れている。
もうすぐ返してもらえるのだ。
思わず唾をごくっと飲み込む。
私の目の前に立った千場店長は、そのストラップを睨む。
「このストラップは誰からもらった?」
なんでいちいち答えなきゃいけないのよ。
イラッとして私はわざとらしくため息をつくと、ちょっと傷ついた顔をされる。
この人の扱い方がいまひとつわからない。
悲しそうな顔をされるのは、弱い。
「答えられないような人から、もらったわけ?」
「……沖縄に旅行した友人から貰ったんです!」
怒り気味に言う。
いちいち、うるさいんだもの。
「男友達か?」
「女友達です。一体、なんなんですか!」
「気になったから聞いただけだ」
不機嫌な顔をして、ふてぶてしい態度をされる。
腹が立って思い切り叫びたいけれど、ぐっと堪えた。
ここで刺激をしたらもっと時間がかかるかもしれない。
なるべく笑顔を作るようにして、にこっとほほ笑んだ。
「店長、返していただけますか?」
「じゃあ、次は……」
「え……まだ交換条件が続いているんですか?」
「当たり前だ」
千場店長は、自分の頬を人差し指でポンポンと叩いて、ニコッとする。
「……は?」
「頬にキスしろ」
従えることと、従えないことがある。
好きでもない人と、いや、むしろ嫌いな人に、たとえ頬にでもキスなんてしたくない。
完全にセクハラ!セクシャルハラスメントっ!!
もう、こんな遊びに付き合っていられない。
「もう、いい加減にしてくださいっ。こんなの交換条件でもなんでもありませんよ!イジメです!」
「あっそ。じゃあ、明日みんなに言っちゃう?」
終わった。
もう、最悪だ。
こうして、どんどんと店長の要求は大きくなっていくのだろうか。
「天宮いいんだな?」
弱みを握られた人間は、従うしかない。
圧力に抵抗する気力は、もうすでに出てこなかった。
「わかりましたってば!」
大嫌い大嫌い。
大大大っ嫌い!
そんな気持ちのまま、私は店長に近づいて頬を見つめる。
きめ細かい綺麗な肌をしている。
男のくせにつるっつるだ。
私は、顔を傾けて右頬に近づいていく。
ドキドキするのは、店長を好きなワケじゃない。
『あり得ない状況』に心臓が過剰反応しているのだ。
――頑張れ、私。
右頬にチュッと触れたかどうか、わからないくらいの軽いキスをした。
離れて様子をうかがうと、店長は勝ち誇った顔をしている。
私は右手を差し出した。
「メモリースティックを、返してください」
「左にも」
「……え?」
ふたりきりの閉店後のバックヤードというシチュエーション。
私の小説に出てくる主人公は、喜んでキスをするだろうけど、私は全く萌えない。
「おい、左」
「……っ」
催促してくる。
「天宮」
ったく。しつこい!
そう思いつつ、時間がもったいないと考えて左頬にもキスをした。
すぐに離れる。
「はい、よくできました」
頭をポンポンと撫でられる。
一瞬、ふんわりとした優しいモノに包まれたような気持ちになったが我に返る。
「さ、触らないでっ!」
思い切り反抗的な態度を取ったのに、千場店長は余裕たっぷりな笑みを向けてきた。
「そんなに怒るなって。はい。大事なメモリースティック」
やっとメモリースティックを返してくれた。
急いで帰ろうとバッグにメモリースティックを入れる。
怒りや、悲しみや、羞恥心や……色んな感情が混ざり合って頭の中は混乱していた。でも、大切なデータが戻ってきた安堵感が一番大きい。
安心しているのも束の間。千場店長は私に顔を思い切り近づけてくる。
そして耳元で囁いた。
「今日で終わったと思うなよ。これからも交換条件は続くからな?」
「……」
「わかったか?」
千場店長を無視して帰ろう。
目をそらした私はドアへ向かおうと歩き出すと腕を思い切り掴まれた。
身体を引き寄せられる。
んっ。
唇が触れ合った。
え……?あ……?え……?
うっそー!
キス……されちゃっている?
パニック状態に陥ってしまった。
触れ合うだけのキスは、舌まで入ってくる濃厚なキス変わっていく。
優しすぎる舌使いに私はびっくりして目を強く閉じた。
粘膜を愛撫するようなキスは、ぴちゃぴちゃと音を立てている。
頭の中が真っ白になり、千場店長のことしか考えられなくなって……。胸がすごく苦しい。
体温が一気に上昇し、くらくらしてきた。
やばい。立っていられないかも。
腰のあたりから力が抜けそうになった時、唇が離れた。
店長は至近距離で私を見つめる。
ビジュアルが最高にいい上に、あんなキスするなんて。
千場店長はこうやって女性を次々に虜にしているのだろうか?
でも、私はそんな罠にはハマるもんか!
「キス上手いじゃん。純粋なフリして意外と経験豊富?だから、ああいう小説書けるんだろ?ますます天宮に興味が湧いてきた」
口角をクイッと上げている表情は、極悪人にしか見えない。
経験が豊富だなんて……、ヒドイ。
私の小説は完全なる妄想の世界なのに。
なんでこんな人にファーストキスを奪われたんだろう。
悔しくて涙が滲んでくる。
視界もぼやけてきた。泣き顔なんて見せたくない。
……最低最低最低最低!
千場店長なんて、最悪!
「天宮……?」
涙に気がついたのか、急に声音が優しくなった。
けど、腹が立って店長の胸を思いっきり押す。
「おっ!」
店長がフラッとした隙に、私はその場から逃げるように去った。
全力で駅前まで走ると、やっと私は立ち止まる。
「ファーストキス……、うぅ……」
誰よりもロマンチックな展開を望んでいたのに、付き合ってもいない職場の上司に……弱みを握られてキスするなんてありえない。
その場にしゃがみこんでしまいたい気分だったが、店長が追いかけて来たら困るからと、なんとか足に力を入れて歩き出す。
店長のバカっ。
キスだけでもかなりショッキングだった。
このまま、どんどん要求されたら……なんて考えると、身震いがする。
――意外と経験豊富?
もしかして、店長は私の身体を狙ってる?
いつも美人ばかり抱いていて飽きたから、地味で冴えない私みたいな人を、抱いてみたくなったのか。
それだけは、やめてほしい。
プライドを捨ててでも正直に経験がないと伝えないと、危険かもしれない。
それとも、小説を書いていることを皆に言っちゃおうか。
そうすれば交換条件はなくなる。
いやいやいや、でも、やっぱり……言えない。
恥ずかしいし、どんな反応が返ってくるか怖い。
私の書く小説は、恋愛の延長線上に身体の関係が発生する。
むやみに「あんあん」書いているわけじゃない。
だけど、理解してもらえるかな。
もっと、自分のやっていることに自信を持ちたい。
改札を通り抜けるとタイミングよく電車が到着し、乗り込んだ。
*
家に帰って小説を書くが、店長にされたキスを思い出して筆が止まってしまう。無意識に唇を指で触れている。
千場店長の唇は、ものすごく柔らかかった。しかも、爽やかな香りと味は、思わず虜になってしまいそうだ。
あの綺麗な顔がドアップで近づいてきて。
私の唇にチュッ……あぁー嫌だ。
キスされた場面が頭の中で何度もリピート再生される。
そのたびに心臓が激しく動き出す。
過剰反応しすぎて気分が悪い。
でも、集中しなければと、気合いを入れる。
1時間後には、なんとか原稿の修正を終えて提出することができた。
「ふぅー、終わった……」
パソコンから離れてベッドに横になる。今日は一段と疲れた気がするのは、店長に色々と命令されたからだろう。
――今日で終わったと思うなよ。これからも交換条件は続くからな?
交換条件だなんて、腹黒男めっ!
あんたみたいな仮面男は、大嫌いっ。店長としたキスを思い出してイラッとする。唇を腕でゴシゴシ拭いた。
千場店長は、ああやって色んな女性とキスをして、関係を持っているのだろうか。
そんなことを考えると胃のあたりが重くなった。
千場店長が他の女性とキスする場面なんて想像したくない。
明日からが憂鬱だな。
スマホが震えたので画面を確認すると『千場一樹』の文字が表示されている。
『天宮へ。小説書けたか?春月さくらで調べたら色々出てきた。読ませてもらうから。寝る前におやすみメールよろしく。一樹』
私はスマホを持ったまま固まる。
おやすみメールって……なにそれ。学生の恋愛みたいじゃない。
キモ!
メールを無視して、シャワーを浴びに行く。
一日の汚れを落とすつもりで、固形石鹸をいっぱい泡立てて丁寧に洗っていく。指先も一本ずつ綺麗にした。
頭もしっかり洗って、お風呂上りにはお気に入りのオーガニックオイルでマッサージする。柑橘系の香りでリフレッシュだ。
寝る前に、白湯をコップ一杯飲んでストレッチをした。
小説を提出した時は、自分を丁寧に手入れする。そうすると、身体が楽になるのだ。
「さて、今日ははやく寝よう」
時計は……もう、二時だ。結局、今日も遅くなってしまった。
ベッドに横になって天井をぼんやりと見つめる。
そっと、唇を指でなぞった。
これから、どんな要求をされるのだろう。
……店長とあまり関わらないようにしないと。
いままで以上に――。
最優秀店舗は、今年も私の勤めている店舗だった。
『スマイルCookingstudio』――全国に八十店舗ある料理教室だ。そこで使用している調理器具等を『カラフルbyスマイルCookingstudio』という日用雑貨店で販売しているが、私はそこで販売員として働き二年目になる。
三十階建てのビルの一階に店舗があり、同じビルの十階と十一階に本社が入っている。
就職活動中は、面接を何度受けても落ち続けていたが、諦めないで頑張り続けると最後に大手企業に就職ができた。
接客が苦手だけど、なんとか仕事に励んでいる毎日である。
私は店舗代表として表彰式に参加させてもらっていた。
優秀店舗の発表が終わり、引き続き個人に送られる社長賞がアナウンスされる。
「本年度の社長賞は、三年連続で最優秀店舗になりました千場一樹(ちばいつき)店長です。壇上へどうぞ」
大きな拍手の中、壇上堂々と向かっていくのは、私が働いている店舗のイケメン店長だ。
「やっぱり、千場店長かぁ」
「カッコイイし、仕事もできるし最高だよね」
女性社員のヒソヒソ話が拍手に混じって聞こえてくる。
店長の身長は一八〇センチ。スラーっとしたモデル体系。爽やかな笑顔がトレードマークだ。
ふわっとした茶髪に、綺麗な二重。鼻は筋が通っていて、唇の形もいい。
頬にあるホクロが彼の童顔をセクシーに見せている。
そして、誰に対しても愛想がいい。
あの容姿で有名店の店長で愛想がいいとなると、ひたすらモテまくりである。ただ、私にはいつも上から目線で何かとしつこくて過保護だ。
上司だから仕方がないかもしれないけれど、うざくて仕方がない。
店舗内ではいつもどんな人がお嫁さんになるか、そういう話題ばかり。
本社でも大人気らしく、更には、お客さんからもプレゼントをもらったりしている。こんなところで働いてないで、芸能人になればよかったのではと思ってしまう。
私は黒髪ストレートヘアー。目は二重で大きいけれど眼鏡で隠れている。小さな鼻と口であまり目立たない顔立ちをしている。
人見知りで、愛想よく笑えない。
性格も外見も地味な私と、店長は真逆のタイプだ。だから、私は千場店長のことが苦手なのだ。
「では、千場店長、一言挨拶をお願いします」
司会者に促された彼はスタンドマイクの前に行き、キラッキラの笑みを浮かべて口を開いた。
「このように素晴らしい賞を頂きありがとうございます。売上に貢献できたことは大変に嬉しく思っており、我が店舗スタッフが力を合わせた結果だと思っております」
まるで、テレビドラマのワンシーンみたい。あの人は何をやっても完璧すぎる。
私は、どこか冷めた目で千場店長のことを見つめていた。
授賞式が終わると、そのままホテルで懇親会になる。立食形式で美味しそうな食材が並んでいた。
社長の挨拶が終わると社長は社員のところに自ら進んで話しかけに行く。偉い人とあまり話すことがないから緊張していると、こちらに近づいてきた。
「天宮さん、しっかりやっているかな?」
「はい。店長にご指導して頂き頑張っております」
下っ端の私にも挨拶してくれたことに感動してしまう。
「よろしく頼むよ」
社長は手を上げてまた違う社員の元へと行く。
お皿に適当に料理を盛って壁際に寄った。
料理に舌鼓を打ちつつ、店長の姿を探す。
(あ、いた)
大勢の人がいるから見つけるのが大変かと思いきや、彼のいる場所は目立つ。大体、美人な女性に囲まれているのだ。
なんとなく眺めていると目が合った。
私は反射的にそらす。
千場店長が女性社員の輪の中から抜け出して私に向かって歩いてくる。逃げようと思うけど、逃げ場所がない。
私の背中には壁があって立ち止まっているしかなかった。
「お疲れ。天宮」
「お疲れ様です。受賞……おめでとうございます」
目を合わせないようにして話をする。顔をまともに見ることができない。
イケメンは嫌い。
私にだけ意地悪な店長なんて……大嫌い。
あからさまに嫌な態度を取っているのに千場店長は顔を近づけてきて耳元で囁く。
「今夜、ふたりだけでお祝いでもするか?」
口元をクイッと上げて人を馬鹿にしたように見てくる。
普通の人ならイケメンに誘われて恋に落ちるだろうけど、私はこんな手には引っかからない。絶対に千場店長になびかない私をからかうのが楽しいらしい。
「結構です」
顔をそむけて冷たく受け流す。
すると、店長はくすっと笑った。
「おまえは相変わらず冷たい女だな。この俺が誘ってやってんのに」
私と千場店長がふたりで話しているだけなのに、女性社員の視線が痛い。なるべく近づいてこないでほしい。
そう思っていると、積極的な女性社員が千場店長に近づいてきた。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます」
誰かがいれば愛想がいい。
ふたりきりだと狼のように鋭い視線を向けてくる。
女性社員と千場店長の会話が盛り上がってきたところで、私はそれとなくその場から離れた。
また壁際に寄ってため息をつく。
あー、苦手。店長と、本当に関わりたくない。
上から目線だし、他の人達は千場店長の本性を知らないのだ。
皆、騙されているのに。小さな溜息をついた。
息が詰まる懇親会を終えると、私は誰よりもはやく帰宅した。
*
太陽の光が差し込んできて、眩しさで目が覚める。
ベッドの上にはいたけど、布団もかけずに横になっていた。
今日も中途半端に寝てしまったらしい……。
いつも遅くまで小説を書いてから寝るため、毎日寝不足気味だ。おまけに昨日は授賞式があって疲れていたのかもしれない。気も使ったし。
慌てて出勤準備を済ませる。
シャワーを浴びて、身近宅をするとバターロールを咥えた。
私は、築三十五年の1DKの部屋にひとり暮らしをしている。
八畳の居間にはふたりがけのソファーとローテーブルがあり、テレビを置いてあるだけだ。六畳の寝室にはベッドとパソコンデスク、本棚がある。
必要最低限の物しか置いていない。
雑貨は職業柄、嫌いではないけど、シンプルが一番だ。
そして、家を出る間際に、タンスの上に置いてある亡くなったお母さんとおばあちゃんの写真に挨拶をする。
「行ってきます。今日も一日よろしくね」
家を出ようとしたところで思いとどまる。
玄関にいた私は履きかけの靴を脱いだ。
メモリースティックを忘れるところだった。
一度寝室に行き、デスクトップパソコンから抜いたメモリースティックをバッグの内ポケットに入れる。
隙間時間も有効利用するために、小さなノートパソコンを購入したのだ。
ランチで時間があったり、帰りに電車が空いていたら小説を書いたりしている。
それと、カフェにパソコンを持参して書くことにも憧れて買ってみた。
家を出て駅までは全力疾走する。
なんとか電車に間に合い、ぎゅうぎゅう詰めの車内に飛び乗った。
毎朝、バタバタしながらの出勤をどうにかしたいと思いつつ、いつも同じことを繰り返してしまう。
気がつけば、三月も中旬である。
今日は、人事異動の発表日だ。
(どうか、店長が変わりますように)
ふたりきりになるとやたらと話しかけてきて、からかわれる。
ぼんやりと考えていると、電車は駅に到着する。
満員電車から降りると、駅近くにある職場が入っているビルへ向かった。
店舗の正面からは入ることができないので、ビルの社員連絡口から入る。セキュリティーカードをかざすと自動ドアが開いた。
薄暗い廊下を歩いて店舗の裏口まで歩いて行く。
今日は9時からのシフトだ。開店は10時からなのだが、色々と準備があるため、はやいシフトがある。
「ハァー……」
憂鬱でたまらない。
早番だと、店長とふたりきりになるからだ。
もうすぐ店舗裏の廊下を歩いていると、ポンポンと肩を叩かれた。
嫌な予感がして振り向くと、千場店長が意地悪な笑顔を浮かべて立っている。
げっ。
「天宮、おはよう」
「お、おはようございます」
「あ。いま……げって思った?」
(ったく、なんでわかるのよ!)
目を合わせたくないから、下を向いて足早に店に向かう。
店舗前について鍵を開けて店に入ると、千場店長は勝ち誇ったようにククっと笑う。
「逃げても無駄だ。嫌でも開店までの一時間は、俺とふたりきりだし」
「……っ」
うわぁ、関わりたくない。
ぷいっと顔を背けて、更衣室に逃げ込んだ。
バックヤードには、店長のパソコン机と書類を入れるロッカーが2棚ある。
ふたり掛けの小さなテーブルがあり、奥にある扉は商品の在庫置き場になっている。
そして小さな更衣室がありそこで着替えをするのだけど、鍵がないから安心できない。あの人がいつドアを開けて入ってくるかと、いつもヒヤヒヤしている。
「おーい、天宮。お前のペチャパイ、少しは成長したか?」
更衣室の壁の向こうから聞こえる。私は悔しくて顔が真っ赤になった。
「よけいなお世話ですっ!」
「チェックしてやろうか?」
「セクハラで訴えますよ」
あはははと楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
そんなに私をイジメて楽しいのだろうか。悪趣味だ。
店舗の制服は、白いブラウスに茶色のスカートに緑のエプロンをする。
男性は、白いブラウスにネクタイをし茶色のパンツ。
鏡を見ながら背中まである真っ黒な髪の毛を、シュシュでひとつに束ねた。
化粧はよくわからないから、ファンデーションとピンク色のリップだけ。コンタクトはあまり好きじゃないから、眼鏡のまま普段も過ごしている。
着替えを終えて更衣室から出ると、千場店長はパソコンの前に座っていた。
一日の売上目標のチェックや、本社から送られてくるメールを確認しているようだ。
目を逸らして「掃除してきます」と言うと店頭へ出た。
丁寧に商品のホコリを掃除する。
物は生き物を扱うように大事にするタイプだ。もう2年前に亡くなってしまったけど……育ててくれたお婆ちゃんの教えである。
掃除は嫌いじゃない。
接客をするくらいなら、掃除をしている方がいい。
「今日は人事異動の発表日だな。うちの店って全国に80箇所あるだろ?離れ離れになるかもな。寂しいか?」
チリトリを持って近づいてきた千場店長は、やたら私に近づいて話しかけてくる。店長は私が店長を好きだと勘違いしてるのかもしれない。
ツンデレだと思われているとか?
「寂しくはありません」
「あっそ」
ひたすら無言で、この空間には私ひとりしかいないのよって感じで掃除をする。
「おいおい、ツンってするなって」
「……」
なにも答えないでいると、千場店長は眉毛をピクッと動かしてイラッとして再びバックヤードに戻った。
一体、あの人はなんなの?
気持ち悪いっ。なんで世間一般の女性は、あの人がいいのだろうか?
ひと通り掃除を終えると、バックヤードに行って在庫チェックをする。この在庫置き場の空気ったら、ジメッとしていてかなり居心地が悪い。
「……昨日の夜って、なにしてた?」
背後から声が聞こえてくる。千場店長は、狭い空間に一緒に入りたがる習性があるらしい。
「……仕事中なんで、プライベートなことはお答えできません」
冷たい口調で言ってやる。
「これは、上司と部下のコミュニケーションなんだけど」
カリカリカリ。
ボールペンでメモを取る音だけが、虚しく響く。
「おい、無視するな」
突然ある時から、千場店長はふたりきりになれば絡んでくるようになった。
平気でセクハラ発言はしてくるし、いつもプライベートのことを聞いてくる。
「アドレス交換しておこうか?俺が転勤になったら、色々聞きたいこと出てくるかもしれないだろうし」
「不明点があれば、新しい勤務先に連絡を入れますので、メールアドレスの交換は不要かと。さ、店長。開店です」
在庫置き場から出て、私は店の正面ドアの鍵を外した。
店内にはオルゴールの音色が流れている。
「お前は俺に恨みでもあるのか?」
「はい?」
開店してもなお言い合いは続く。
「どうして俺を避ける?」
「……嫌いだからです」
ハッキリと言うと千場店長は傷ついた顔をする。
「店長としては尊敬していますけど……」
「フォローなんてしなくていい」
ふたりきりだと言い合いをしてばかりだ。
もう、本当に疲れる。
そんなやり取りを繰り返していると、遅番の三浦桃江(みうらももえ)先輩が出勤してきた。
これでやっとふたりきりの空間から解放される。はぁ、長かった。
明るくてサバサバした性格の三浦さんは、目が大きくて唇が薄い美人さん。シュッとしたアゴのラインで揺れているボブが女子力を上げている。
華やかな人は苦手なのに、なぜか三浦さんは大丈夫だと思えた人で、仲良くしてもらっている。
「おはようございます!」
「おはよう。今日もよろしく」
千場店長はやはり他の人には愛想がいい。この違いはなんなの!?
レジに立っている私の隣に三浦さんが近づいてくる。
「三浦さん、おはようございます」
「店長と仲良くしてた~?」
腕をツンツンと突っつかれた。
「……はは。まあ」
愛想笑いをした私は内心「仲良くできるわけないじゃないっ」と思っていた。
もうひとりの遅番の宇野ちゃんも出勤してきた。
宇野ちゃんは細くてベリーショートが似合う天真爛漫系な女の子だ。
「おはようございます~」
そろそろ来店が多くなる時間だ。頑張らなきゃ。
*
「お昼入ります」
私はお客様がいない時を見計らって、昼休憩に入ることした。パソコンに向かっている店長に断りを入れる。
「ごゆっくり」
店長は一度私に振り向くと、私はすぐに目をそらした。
バックヤードのテーブルに座る。
手作り弁当を広げると、一足遅れて昼休みに入った同僚の宇野ちゃんが覗きこんでくる。気さくな性格の宇野ちゃんとの会話は楽しい。
店長に聞こえない程度の声で、会話をする。
「うわぁ、美味しそう」
「そうかな。私、コンビニとか苦手で……。だから、どうしても手作りになっちゃうだけなんだけどね」
「料理できる人ってポイント高いよ。はぁー私も料理できたら、店長のハートをゲットできるのかなぁ」
どうして、そこに行き着く?
皆、感覚がおかしい。千場店長は、ただの意地悪な人だと思うんだけど。
「15時になったら内事だね」
宇野ちゃんはコンビニ弁当を食べ始める。
「そうだね。18時に移動先が解禁になるんでしょ?」
「うん。今回はサプライズ人事があるかな」
「店長、いなくなればいいのに」
私がぼそっと呟くと、宇野ちゃんは苦笑いをした。
「えー……やだよ。部署異動したら、またライバルが増えちゃうもん」
あの人をアイドルのように崇めるのは、やめた方がいいと思うんだけど。どうしても、千場店長様ってなっちゃうらしい。
宇野ちゃんが一足先に戻ると、私は自分のバッグから小さなノートパソコンをテーブルに置いた。休憩時間中に少しでも小説を書いておきたい。文字を綴っていないと落ち着かないのだ。
メモリースティックをパソコンに挿して、昨日の続きを書く。
『硬くなった胸の蕾はブラジャーに擦れてますます膨れ上がった。係長は制服のボタンをひとつずつ外していく……』
「お疲れー」
「わ、お疲れ様です」
今度は三浦さんがやってきた。
慌ててメモリースティックを抜いてパソコンを閉じる。そして制服のポケットに慌てて入れた。
「驚かせちゃった?」
「いえ」
やっぱり職場では落ち着いて書けないな。明日から持ってくるのはやめようかな……。
三浦さんは会社近くのベーカリーからサンドイッチを買ってきたようで、食べはじめる。
「彩歩ちゃん。人事異動だねー。そろそろ、彩歩ちゃんが移動かな?」
「そうですよね。もう2年ですし可能性はありますよね……」
「それか、イケメン転勤してくればいいのにー。オフィスラブとか憧れるよね」
三浦さんは珍しく千場店長を崇めない人である。三浦さんいわく『イケメンだけど、店長には好きな人がいると思う。面倒くさい恋愛はしたくないの』と言っていた。
バックヤードから店内を見ると、混んできたようだ。
昼休みは1時間しっかり休めないことが多い。これは接客業の運命なのかもしれない。
「ちょっとはやめに戻りますね」
「はいはーい」
ランチを終えると、店長は接客中だった。
若い奥様らしき女性は、調理器具のアドバイスを店長から受けている。
奥様は顔を真っ赤にしながら店長にくっついて説明を聞いているが、内容をちゃんと把握しているのか。
数日前も来店していたし、店長目的というのが見え見えだ。
ちらっと様子を監視しつつ、レジに立っていた。
別のお客様が目の前に来て、カウンターに商品が置かれた。鍋のセットだ。
「贈り物でしょうか?」
「ええ。結婚祝いです」
「のしはお付けいたしますか?」
「いらないわ」
「こちらでラッピングさせてもらいますね。お待ちください」
商品を包装する。最後にリボンをつけて終わり。
「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
店長はキラキラした笑顔を作り頭を下げた。
15時になったが私は店長から呼ばれることはなかった。
ということは異動しないとのことだ。
まだこの店舗で頑張れってことなのかなと思いつつ働いていた。
18時になり早番の私は帰る準備をする。
更衣室から出ると、掲示板に人事異動の一覧が張り出されていた。
どんな内容か確認する。
営業企画部運営課郷田鉄郎(ごうだてつろう)
名前は聞いたことがあるけど、面識はない人だ。
しかも、男性だ。三浦さんはオフィスラブをしたいと言っていたけど……私もオフィスラブには憧れる。
そろそろ、恋をしてそれ以上のこともしてみたい。はやく大人な女性になってみたいものだ。ちゃんと好きになれる人が現れたらいいのだけれど。
「お互いに移動もなくまた一緒に働けるな。嬉しいだろ?」
耳元で囁かれた。
ビクッとして振り向くと店長がいて、至近距離で目が合う。
口元に笑みを浮かべいる。
「自惚れないでください。世界中の女性が千場店長を好きなわけじゃないですからね!」
キッと睨むと千場店長はむっとした顔をする。
「お前……偉そうに」
また言い合いになりそうなとき、バックヤードに宇野ちゃんが入って来た。
助かった。
「では、失礼します」
挨拶をして店を出て行った。
*
電車に乗ってしばらくすると、席が空いてきた。
端に座り、外を眺めつつぼうっと考える。
また店長と一緒に働くのか……。
郷田さんってどんな人なんだろう。
気が合う人だといいけど、転勤してくるほうは緊張しているだろうから親切にしよう。
通勤時間は約50分だ。会社の近くに住みたいけれど家賃が高すぎる。
まだ近いほうだし耐えなきゃなぁ。
駅を降りると、スマホにメールが届いた。
『春月さくら先生。お世話になっております。疑問点をまとめたファイルをお送りしますので、ご確認お願いします。原稿の戻しは明日15時までです。よろしくお願いします』
電子書籍でお世話になっている出版社からのメールだった。パソコンに送られてくるメールも、スマホで確認できるように転送している。
春月さくら……とは、私のペンネームだ。元々は『SaKuRa』で執筆活動していたのだが、電子書籍化するにあたって、苗字をつけたほうがいいと言われた。甘過ぎない名前にしようと思ったのと、漢字とひらがなを混ぜたペンネームにしたくて、考えてここに行き着いた。
仕事が終わってからの原稿修正は疲れるけど、自分の作品に表紙がつけられて配信されるのは、やっぱり嬉しい。読者様から感想をもらえると書いてよかったと思える。いい意見だけじゃないけれど、真摯に受け止め成長の糧にしている。
(よっし。今日も原稿、頑張るぞ)
家について早速パソコンの前に座る。家ではデスクトップを使用しているの。このほうが画面が大きくて見やすいし。
バッグからメモリースティックを出そうと探すが……。
「あれ、ない。ウソでしょ?」
慌ててバッグをひっくり返して中身を全て出すけれど、見当たらない。
たしかに朝持って行ったし、昼間も使った。……と言うことは、まさか、会社に置いてきてしまったとか?
店は19時までの営業だ。時計を見ると19時20分。昔も一度忘れ物をして、店舗に戻ったことがあった。いまから行けば間に合うかもしれない。
メモリースティックを拾われて誰かに中身を見られては困る。私はなにも考えずに、急いで店舗へ戻った。
ビルについて社員通路口から店舗へ向かうと、まだ鍵は開いていた。
(助かった……)
時計は、20時45分。きっと店長だけが残っているだろうけど、ふたりきりになるのは仕方がない。どうか、店にメモリースティックがありますように……。
願いつつドアを開けると、パソコンに向かっている私服の店長がいた。
黒いコートを羽織っているということは、帰る寸前だったのだろうか。
「お、お疲れ様です……」
恐る恐る声をかける。
「おお、天宮どうした?」
振り返った店長は、何食わぬ顔で返事した。すぐにパソコンにすぐ向き直る。
その背中に向かって話しかける。
「ちょっと忘れ物を……」
まだ、仕事の途中なのだろうか。いつも遅くまで大変そうだ。
仕事に夢中になっている隙に、机を見たり床に落ちてないかと、目をキョロキョロさせる。
落とし物入れを見るがない。あれ、おかしいな。
しゃがんで、机の下を見たり、更衣室を見たりするけど、見つからず、だんだんと焦ってしまう。
(どこかで落としたのかな。会社じゃないとしたら……。どうしよう)
そんなに広くないバックヤードだし、落ちていたら誰か拾って落とし物入れに入れておいてくれるはずだけど。こんなに探してないということは、外で落としてしまったのだろうか。あぁ、バックアップを取っておくべきだった。
力なく立ち上がり、ふと店長が真剣に見ているパソコン画面に目が行く。
目が悪いからなにが書いてあるか見えないけど、やたら文字がぎっしり書かれているようだ。
なんの書類だろう。
一歩二歩と、そっと近づいていくと私は凍りついてしまった。
「……あああああ、ん……っ」
そんな一文が見えた。……もしかすると、店長が真剣に読んでいるのは……。
”もしかすると”じゃない。”おそらく”だ。だって……あんな破廉恥な文章がパソコン画面に映し出されているんだもの”確実に”私の書いたものだろう。
メモリースティックがパソコンに挿入されている。自分のモノじゃないと信じたいけど、小さなイルカのストラップがついていた。沖縄の水族館に行った友人からプレゼントされたモノだ。……やっぱり、私のメモリースティックだよね。絶望の文字が頭に浮かぶ。
いまここで自分のだと言わなければ、バレない。
店長なんかにバレるなんて絶対に嫌だ。バカにされて、からかわれるのが容易に想像できる。だから、そのまま帰ろうと思ったけど、出版社からのメールを思い出す。
――原稿の戻しは、明日15時までです。
今日の夜やらないと、絶対に間に合わない。出版社にメールをすれば、原稿はあるはず。戻してもらえばいい。……けれど、他に書いたものもあのメモリースティックの中にはある。
「なぁ、天宮」
「はい」
「俺、いまちょっと……ムラっとしてるんだ」
「……」
振り返らずに呟く千場店長の背中を見つめる。この人は一体、なにを言っているのだろうか。上司と部下が会社でふたりきりのシチュエーションは、小説でもよく書くけど……先の展開が読めない。しかも「ムラっとしてる」など言うヒーローなんてあまり見たことがない。
「『係長の荒い息が耳に届くだけで、私は潤ってくるのを感じた。係長の指は男性らしさを残しつつ、とてもしなやかで綺麗だ。その指で刺激されることを想像するだけで身体の力が抜けてくる気がした。』」
千場店長は、淡々と朗読をはじめる。
うわ、や、やめて!
私は、あまりの恥ずかしさに耳が熱くなってしまう。罰ゲームだ!拷問だよっ。一体、どんなプレイですか!ふえーん、帰りたいっ。
「この文章を読んでたら、変な気分になってきたんだよねぇ」
千場店長は朗読をやめると、椅子を回転させて振り返った。突っ立っている私を下から覗いてくる。
しかも勝ち誇ったような憎たらしい整ったお顔だ。
真っ赤になっているだろう私を見てこの文章を書いたのが誰か確信したかもしれない。
「床に落ちていたから、誰かの私物だと思うけど……。明日、聞いてみよっかな」
独り言のように呟いてメモリースティックを抜き、デスクの引き出しに入れてしまった。
そして、鍵を掛けてしまう。
デスクの鍵は店長が管理しているから、店長以外の人が開けるのは不可能だ。
もう、泣きそう……。
立ち上がった千場店長は、固まって動けずにいる私に近づいて顔を覗き込む。
「ところで……忘れ物はあったのか?」
「い、え……」
「忘れ物なんてお前らしくないな?」
「……あ、あの」
あのメモリースティックは私のモノだとわかっているくせに、わざとらしく聞いてくる。本当に意地悪だ。
明日、皆の前で誰のモノか聞かれたら知らないふりをすればいい。
でも、これから書こうとしていたアイディアやプロットも入っている。アイディアはいつも降って湧いてくるわけじゃない。私にとってみれば、財産だ。
大変苦労してまとめた原稿もある。
……絶対にあのメモリースティックは、持って帰らなければいけない。
意を決して伝えよう。
「て、店長!」
「ん?」
「その、あの……」
い、言えないっ。言いたくないっ!
私が書いたなんて正直に言ったら、店長はなにを言い出すかわからない。
呼吸が苦しくなってくるけど、言わなければ……私の小説を書く夢はここで終わってしまう。
大袈裟かもしれないけど、追い詰められてそんな気分になっていた。
「もしかして」
千場店長の一言一言に心臓がおかしくなりそう。
私は千場店長を恐る恐る目を見つめる。
「さっきのエロ小説って……天宮が書いたオチ?」
「え……?」
私は明らかに動揺し、声をひっくり返してしまう。背中に汗が流れてもうベチャベチャだ。
さらに、距離を縮めてくる。
私は後ずさるが、躓いて転けそうになった。
千場店長が抱きしめる形で助けてくれる。
背中には手が添えられていて、顔がドアップだ。
「……っ!!!」
「天宮の背中、すっごい汗。コートの上からでも熱くなってるのわかるぞ。まさか、天宮も興奮しちゃったとか?」
からかうように言う千場店長を必死で睨む。
頬に触れてこようとするから、私は髪の毛が乱れるほど頭を横に振る。
「は、離れてくださいっ!」
「そんな、セクハラをされたような声、出すなって。助けてあげただけだろーが」
そう言ってくすりと笑い、意地悪な顔を近づけてくる。
あと5センチでキスされちゃいそうな至近距離だ。ずれた眼鏡を直してくれると視界がはっきりする。
腹が立つほど綺麗な顔にドキッとしてしまう。
店長とここでじゃれ合っている場合じゃない。
はやくメモリースティックを取り返して帰りたい。
店長は私を解放すると、ククッと喉を震わしながら笑っている。
「帰るぞ」
そう言うと、店長はドアに向かって歩き出す。
私は唖然としつつも、千場店長の腕を反射的に捕まえた。
「ん?」
首だけこちらに向けて、じっと見つめられる。
「あれ。まだ俺と一緒にいたいのか?飯でも一緒に食う?」
のんきな店長の声が耳を通り抜ける――。
私の人生は今日で終わりだ……。
でも、仕方がないだ。どーしても、メモリースティックを返して欲しい。
バックアップをしていなかったことを後悔しつつ、私は店長の腕を離した。息を大きく吸う。もう、勢いで言ってしまえ!!
「メ、メモリースティック……わ、私のですっ!」
目をつぶり両手に握りこぶしを作って、思い切り言うとシーンとなった。
カチカチカチ――。
時計の針の音が聞こえる。
耳が熱くなってジンジンする……。空気の流れが止まってしまったかのように、息苦しくなった。
そっと目を開けると、店長はテーブルに腰をかけて私を見ている。
「ふーん。天宮って……ああいう小説書くんだ。へぇー」
「お願いします!誰にも言わないでください」
店長にバレてしまったのは、百歩譲って仕方がない。でも、他の社員に知られるなんて絶対に無理っ。
普段地味な私なだけに、根っからの変態だと思われてしまう。
「うちの社員で知ってる人は?」
「誰にも言ってません……」
「言いたくないのか?」
私はすがるようにコクリと頷く。
「なるほどねぇー」
なにか企みを含んだ声だ。
店長は顎に手を当てて私を見る。
なにか、よからぬことを言いそうな顔をしている。
「交換条件」
「こうかん……じょうけん?」
綺麗な顔は悪魔になったかのように、ずるーい表情になる。
ほら、やっぱり、店長は腹黒い。皆、騙されてますよと叫んでやりたいが、いまは身を守るため、交換条件を聞くしかない。
「……交換条件とはたとえば、どんなものでしょうか?」
「そうだな」
店長は、右の口元をクイっと上げる。その顔と言えば、もう『悪』にしか見えない。
サタン!鬼!デビル!
「まずは、アドレス交換」
千場店長は、スマホをズボンのポケットから出した。
『まずは』と言うキーワードが気になるが、アドレス交換をしてメモリースティックを返してもらえるなら、容易いご用だ!
メールが届いたって無視すればいいんだし。
「わかりました。アドレス交換をすれば、メモリースティックを返してもらえますね?」
「とりあえずね」
『とりあえず』ってなによと思いつつスマホをバッグから出すと、手から抜き取られた。
「あ、ちょっと」
「わりぃ。ボタン押しちゃった。メールが見えちゃったんだけど……春月さくら先生って誰?」
「店長には関係ありません」
「交換条件」
勝ち誇ったように言われた。
絶対にわざとボタンを押して見たくせに。
この人めちゃくちゃ性格悪い。悪すぎる。
電子書籍を出してるなんて言ったら、また色々聞かれそうだし、言っていいものか悩む。
私は口を固く閉じてジトっと睨んだ。
「あーそう。言わないのか。じゃあ朝礼で発表決定」
余裕たっぷりに、くすくすと笑っている。
史上最悪。絶体絶命。
苦手な上司に弱みを握られてしまうなんて、私はつくづくついていない。
「月に一本ペースで……電子書籍を出しています。そのメモリースティックの中には大事な原稿が入ってるんです……。なので返してください」
すがるように言う私を見て、千場店長はなんだか満足そうな顔をしている。
アドレスを登録し終えるとスマホを返してくれた。
そうかと思うと、ニヤリとする。
「そりゃ、詳しく知りたいね。天宮のその可愛い頭の中で、どんなエロいことを考えているのか」
頭をポンポンと撫でられる。
嫌味な言い方に私はついムッとなって言い返してした。
「たしかにエッチな想像はしていますけど、愛があるというのが前提なんです。女の子は身体だけじゃなく、心も気持ちよくなりたい生き物なんです!」
知ったかぶりだ。
経験がないくせにエッチを語るなんて100年は早過ぎるかもしれない。
千場店長は私をじっと見つめる。
「男もできれば好きな人としたいけど」
意味ありげに言ってテーブルから立ち上がった。
間近で見るとやっぱり背が高くて、スタイルが抜群だと改めて感心してしまう。
千場店長は、デスクの前まで行って引き出しの鍵を開いた。
中にあるメモリースティックを出すと、小さなイルカのストラップが揺れている。
もうすぐ返してもらえるのだ。
思わず唾をごくっと飲み込む。
私の目の前に立った千場店長は、そのストラップを睨む。
「このストラップは誰からもらった?」
なんでいちいち答えなきゃいけないのよ。
イラッとして私はわざとらしくため息をつくと、ちょっと傷ついた顔をされる。
この人の扱い方がいまひとつわからない。
悲しそうな顔をされるのは、弱い。
「答えられないような人から、もらったわけ?」
「……沖縄に旅行した友人から貰ったんです!」
怒り気味に言う。
いちいち、うるさいんだもの。
「男友達か?」
「女友達です。一体、なんなんですか!」
「気になったから聞いただけだ」
不機嫌な顔をして、ふてぶてしい態度をされる。
腹が立って思い切り叫びたいけれど、ぐっと堪えた。
ここで刺激をしたらもっと時間がかかるかもしれない。
なるべく笑顔を作るようにして、にこっとほほ笑んだ。
「店長、返していただけますか?」
「じゃあ、次は……」
「え……まだ交換条件が続いているんですか?」
「当たり前だ」
千場店長は、自分の頬を人差し指でポンポンと叩いて、ニコッとする。
「……は?」
「頬にキスしろ」
従えることと、従えないことがある。
好きでもない人と、いや、むしろ嫌いな人に、たとえ頬にでもキスなんてしたくない。
完全にセクハラ!セクシャルハラスメントっ!!
もう、こんな遊びに付き合っていられない。
「もう、いい加減にしてくださいっ。こんなの交換条件でもなんでもありませんよ!イジメです!」
「あっそ。じゃあ、明日みんなに言っちゃう?」
終わった。
もう、最悪だ。
こうして、どんどんと店長の要求は大きくなっていくのだろうか。
「天宮いいんだな?」
弱みを握られた人間は、従うしかない。
圧力に抵抗する気力は、もうすでに出てこなかった。
「わかりましたってば!」
大嫌い大嫌い。
大大大っ嫌い!
そんな気持ちのまま、私は店長に近づいて頬を見つめる。
きめ細かい綺麗な肌をしている。
男のくせにつるっつるだ。
私は、顔を傾けて右頬に近づいていく。
ドキドキするのは、店長を好きなワケじゃない。
『あり得ない状況』に心臓が過剰反応しているのだ。
――頑張れ、私。
右頬にチュッと触れたかどうか、わからないくらいの軽いキスをした。
離れて様子をうかがうと、店長は勝ち誇った顔をしている。
私は右手を差し出した。
「メモリースティックを、返してください」
「左にも」
「……え?」
ふたりきりの閉店後のバックヤードというシチュエーション。
私の小説に出てくる主人公は、喜んでキスをするだろうけど、私は全く萌えない。
「おい、左」
「……っ」
催促してくる。
「天宮」
ったく。しつこい!
そう思いつつ、時間がもったいないと考えて左頬にもキスをした。
すぐに離れる。
「はい、よくできました」
頭をポンポンと撫でられる。
一瞬、ふんわりとした優しいモノに包まれたような気持ちになったが我に返る。
「さ、触らないでっ!」
思い切り反抗的な態度を取ったのに、千場店長は余裕たっぷりな笑みを向けてきた。
「そんなに怒るなって。はい。大事なメモリースティック」
やっとメモリースティックを返してくれた。
急いで帰ろうとバッグにメモリースティックを入れる。
怒りや、悲しみや、羞恥心や……色んな感情が混ざり合って頭の中は混乱していた。でも、大切なデータが戻ってきた安堵感が一番大きい。
安心しているのも束の間。千場店長は私に顔を思い切り近づけてくる。
そして耳元で囁いた。
「今日で終わったと思うなよ。これからも交換条件は続くからな?」
「……」
「わかったか?」
千場店長を無視して帰ろう。
目をそらした私はドアへ向かおうと歩き出すと腕を思い切り掴まれた。
身体を引き寄せられる。
んっ。
唇が触れ合った。
え……?あ……?え……?
うっそー!
キス……されちゃっている?
パニック状態に陥ってしまった。
触れ合うだけのキスは、舌まで入ってくる濃厚なキス変わっていく。
優しすぎる舌使いに私はびっくりして目を強く閉じた。
粘膜を愛撫するようなキスは、ぴちゃぴちゃと音を立てている。
頭の中が真っ白になり、千場店長のことしか考えられなくなって……。胸がすごく苦しい。
体温が一気に上昇し、くらくらしてきた。
やばい。立っていられないかも。
腰のあたりから力が抜けそうになった時、唇が離れた。
店長は至近距離で私を見つめる。
ビジュアルが最高にいい上に、あんなキスするなんて。
千場店長はこうやって女性を次々に虜にしているのだろうか?
でも、私はそんな罠にはハマるもんか!
「キス上手いじゃん。純粋なフリして意外と経験豊富?だから、ああいう小説書けるんだろ?ますます天宮に興味が湧いてきた」
口角をクイッと上げている表情は、極悪人にしか見えない。
経験が豊富だなんて……、ヒドイ。
私の小説は完全なる妄想の世界なのに。
なんでこんな人にファーストキスを奪われたんだろう。
悔しくて涙が滲んでくる。
視界もぼやけてきた。泣き顔なんて見せたくない。
……最低最低最低最低!
千場店長なんて、最悪!
「天宮……?」
涙に気がついたのか、急に声音が優しくなった。
けど、腹が立って店長の胸を思いっきり押す。
「おっ!」
店長がフラッとした隙に、私はその場から逃げるように去った。
全力で駅前まで走ると、やっと私は立ち止まる。
「ファーストキス……、うぅ……」
誰よりもロマンチックな展開を望んでいたのに、付き合ってもいない職場の上司に……弱みを握られてキスするなんてありえない。
その場にしゃがみこんでしまいたい気分だったが、店長が追いかけて来たら困るからと、なんとか足に力を入れて歩き出す。
店長のバカっ。
キスだけでもかなりショッキングだった。
このまま、どんどん要求されたら……なんて考えると、身震いがする。
――意外と経験豊富?
もしかして、店長は私の身体を狙ってる?
いつも美人ばかり抱いていて飽きたから、地味で冴えない私みたいな人を、抱いてみたくなったのか。
それだけは、やめてほしい。
プライドを捨ててでも正直に経験がないと伝えないと、危険かもしれない。
それとも、小説を書いていることを皆に言っちゃおうか。
そうすれば交換条件はなくなる。
いやいやいや、でも、やっぱり……言えない。
恥ずかしいし、どんな反応が返ってくるか怖い。
私の書く小説は、恋愛の延長線上に身体の関係が発生する。
むやみに「あんあん」書いているわけじゃない。
だけど、理解してもらえるかな。
もっと、自分のやっていることに自信を持ちたい。
改札を通り抜けるとタイミングよく電車が到着し、乗り込んだ。
*
家に帰って小説を書くが、店長にされたキスを思い出して筆が止まってしまう。無意識に唇を指で触れている。
千場店長の唇は、ものすごく柔らかかった。しかも、爽やかな香りと味は、思わず虜になってしまいそうだ。
あの綺麗な顔がドアップで近づいてきて。
私の唇にチュッ……あぁー嫌だ。
キスされた場面が頭の中で何度もリピート再生される。
そのたびに心臓が激しく動き出す。
過剰反応しすぎて気分が悪い。
でも、集中しなければと、気合いを入れる。
1時間後には、なんとか原稿の修正を終えて提出することができた。
「ふぅー、終わった……」
パソコンから離れてベッドに横になる。今日は一段と疲れた気がするのは、店長に色々と命令されたからだろう。
――今日で終わったと思うなよ。これからも交換条件は続くからな?
交換条件だなんて、腹黒男めっ!
あんたみたいな仮面男は、大嫌いっ。店長としたキスを思い出してイラッとする。唇を腕でゴシゴシ拭いた。
千場店長は、ああやって色んな女性とキスをして、関係を持っているのだろうか。
そんなことを考えると胃のあたりが重くなった。
千場店長が他の女性とキスする場面なんて想像したくない。
明日からが憂鬱だな。
スマホが震えたので画面を確認すると『千場一樹』の文字が表示されている。
『天宮へ。小説書けたか?春月さくらで調べたら色々出てきた。読ませてもらうから。寝る前におやすみメールよろしく。一樹』
私はスマホを持ったまま固まる。
おやすみメールって……なにそれ。学生の恋愛みたいじゃない。
キモ!
メールを無視して、シャワーを浴びに行く。
一日の汚れを落とすつもりで、固形石鹸をいっぱい泡立てて丁寧に洗っていく。指先も一本ずつ綺麗にした。
頭もしっかり洗って、お風呂上りにはお気に入りのオーガニックオイルでマッサージする。柑橘系の香りでリフレッシュだ。
寝る前に、白湯をコップ一杯飲んでストレッチをした。
小説を提出した時は、自分を丁寧に手入れする。そうすると、身体が楽になるのだ。
「さて、今日ははやく寝よう」
時計は……もう、二時だ。結局、今日も遅くなってしまった。
ベッドに横になって天井をぼんやりと見つめる。
そっと、唇を指でなぞった。
これから、どんな要求をされるのだろう。
……店長とあまり関わらないようにしないと。
いままで以上に――。
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