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194、羊角の策。
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ビルが立ち並ぶ街並みに入り、車を暫く走らせた男はとあるホテルの地下駐車場に車を入れる。
そして屋敷を出た時と同じ様に後部座席を開けて羊角を促した。
着いたとも、早く出ろとも言わず、ただ本人が出るのを静かに待つ男。
羊角はそんな男にふっと笑みを向けてから少女に向き直る。
自分を抱き締めてくれる小さな体。片手で包めてしまう小さな手。
その手をゆっくりと離させ、小さく「行ってきます」と言って車を出た。
男には声をかけず、羊角はエレベーターに向かってゆく。
その様は何時もの優しいお姉さんでも、少し残念な感じの使用人とも違う。
普通とは少し違う世界に生きた人間独特の雰囲気を放っていた。
近寄りがたい空気を持つ、美人な夜の住人が、そこに存在している。
「ふーん、成程。ありゃ惚れた理由も解るかな」
男はそんな羊角を見送りながら、少し楽しげな様子で呟く。
勿論別に羊角に惚れたという訳では無いが、それでも何かしらの琴線に触れたらしい。
少女は首を傾げながら車から出て、男の袖を小さく掴みながら羊角を見送っていた。
羊角はエレベーターに乗り込むと先ずロビーに向かい、自分が来たという事を伝える。
暫くすると一人の男性がやって来て、羊角の顔を見て笑顔を向けた。
歳は初老といったところか。老人というにはまだ若い容姿をしている。
頭に山羊の様な外に開く角があり、狭い道では引っ掛かりそうだ。
「やあ、会いたかったよ。来てくれてありがとう」
「・・・私も貴方に会いたいと思っていました」
山羊男の言葉に羊角は笑顔で応える。
ただその笑顔は今まで屋敷で誰も見た事が無い、怪しげな物を放っていた。
少なくとも周囲に居た男性従業員や男性客が、思わず目を奪われる程に。
その様子に山羊男は優越感に浸るような顔を見せ、羊角の腰を抱いた。
「まずはゆっくりと食事でもとりながら話そう」
「・・・そうしましょうか」
羊角は一瞬だけ、ほんの一瞬だけ嫌そうな顔をしたが、すぐに表情を元に戻す。
内心「現役離れると駄目ね」などと思いながら、腰を抱かれたままエレベーターに向かう。
腰を抱く手の触り方に吐き気を覚えながら我慢し、レストランの有る階層で降りた。
山羊男は羊角が我慢をしている事など気が付かず、腰を抱いたまま席に誘導する。
既にグラスが用意されている席に着くと、やっと手を放して椅子を引いた。
羊角は心の中だけで大きな溜め息を吐きながら、引かれた椅子に素直に座る。
「ここでの食事は確か初めてだったね」
「ええ、そうですね」
「気に入ってくれると良いのだが」
「ふふ、これだけのホテルの食事ですもの。期待させて頂きますね」
表面上は和やかに、たあいない会話をしながら食事が進む。
ただし羊角は会話の節々に相手の情報を引き出す言葉を混ぜ、目の前の人間が自分をどう思っているのか、その真意がどうあるのかを探っていた。
そしてそれは羊角にとって予想通りな、ありがたい考えを持っている事が解る。
この人は、自分を愛してなどいない。惚れてもいない。
ただ自分に都合の良い女を、傍に置いておきたいだけだ。
昔の私を知っているから、そして私であれば簡単に御せると思っていると。
そう、解ってしまう。そして昔の自分がどれだけ馬鹿だったのかも、同時に認識するしかない。
こんな男に惚れた自分に腹を立てながら、怒りを隠して会話を続ける羊角。
けど羊角は、それで良いと思っている。その方が良いと思っている。
下手に目の前の男が本気で自分に惚れている方が面倒だったと。
自分の性格を良く理解している羊角は、相手が惚れてくれていない方が助かると。
今は恨みを持つとはいえ、一度は好意を持った相手。
本当は彼も辛かったのでは。あの時は理由があったのでは。
もしかしたら、今度こそ本当に、私を愛してくれるのでは。
そんな事を、帰ると決めた今でもそんな事を考えかねないと思っている。
それは態々相手の機嫌を損ねない様にしながら、確かめる必要の無い好意を確かめてしまった事からも伺えるのだ。
本当に全てを拒否するのであれば、相手の好意の再確認などする必要は無いのだから。
自分の心の弱さに情けなくなりながら、羊角は心の中で自分の優しい天使に謝っていた。
だが山羊男は羊角のそんな様子には気が付かず、機嫌良く食事と会話を続ける。
まるで目の前の相手が昔と変わらず、自分に執着して尽くすと確信しているかの様に。
そして食事が終わると、羊角にとってはやはりと思う言葉が投げられた。
「少し、二人っきりになれる所で続きを話さないか。今後の事も話したい」
「ええ、行きましょう」
また腰を抱かれながら、羊角は素直に付いて行く。
触り方が露骨になったと感じながら、笑顔を崩さずに堪える羊角。
そして「このホテルで一番良い部屋だよ」と言われながら入った部屋で、会話も無くいきなりベッドに押し倒された。
「ああ、君は変わらないな。とても綺麗だ・・・君の事を、ずっと忘れられなかった」
「・・・私も、貴方の事を忘れた事は有りませんでした」
「すまなかった・・・あの時の事は本当に」
「いいえ、謝る必要なんて有りません、だって――――」
羊角が優しく微笑んだ事でOKと受け取ったのか、山羊男はにこりと笑う。
だが、次の瞬間、青い顔をして股間を抑えてうずくまった。
羊角の膝蹴りが、綺麗に股間を捉えていた為だ。
うずくまる姿を冷たい目で見ると、すっと立ち上がる羊角。
「――――あなたの事を、殺せるんですから」
ドレスのスリットを上げ、太腿につけられたホルスターから拳銃を取り出す。
当然銃口は蹲る山羊男に向いており、向けられている側は今の状況に血の気が引いている。
「じょ、冗談だろう?」
「私がどういう人間かは、貴方が良くご存じでしょう」
「き、君がそんな事をすれば、君の雇い主が困る事になるぞ」
「それは貴方との関係を断っても同じ事でしょう。ならば貴方が死んだ方が楽なはず」
絶対零度。そんな言葉が似合う余りにも冷たい視線。
確実に外さない様にと、体の中央に狙いをつけてある銃口。
飛び掛かられない様に、的確な距離を開けた間合い。
羊角の態度の全てが、本気で撃つ気だと感じるに足るものだった。
「命乞いはしないんですか? お得意の心にもない謝罪は?」
「ひっ、や、やめ、すまな、た、頼む、許してくれ・・・!」
「旦那様や先輩を知って、本当に人として惚れる事の出来る人間とはどんな人間か、私は学ぶ事が出来た気がします。貴方は私が惚れるに値しない」
「ひ―――――」
引き金をゆっくりと引くその姿に、山羊男は泡を吹いて気絶してしまった。
そんな相手でも撃鉄は容赦なくガチンと落ちて――――何も起こらずに終わる。
「ふふっ、一発目に弾は入って無いわ。全く、肝の小さい男。いや、旦那様に度胸があり過ぎるだけかしらね。あの人ならこんなの、どうにかしてしまうだろうし」
羊角はけらけらと笑いながら拳銃をホルスターに仕舞う。
そしてごそごそと山羊男の懐を漁り、端末や手帳、鍵やカードを盗って行く。
部屋に置いてあった私物らしいカバンからも目ぼしい物を漁ると、暫く何も出来ない様に拘束して身動きが取れない様にし、静かに部屋を出ると端末を操作して誰かに電話をかけた。
「終わったわ」
『ご本人は今どうなってんだ?』
「気絶中。縛っておいたし暫くは発見されないでしょうから、貴方達相手には手遅れでしょ?」
『ははっ、お前が持って来た物が本当に使えるならな』
「大丈夫よ。彼、昔から大事な物は身近に置かないと気がすまない性格だったから」
通話先から聞こえる男性の声に自信の有る様子で応える羊角。
すると少し先の通路から、屈強な大男が現れて羊角の行く道を塞ぐ。
だが羊角は大男に笑顔を向けると、先程盗った物を全て手渡した。
「はい、じゃあお願いね」
「不用心だな。カメラに映ってるかもしれないぞ」
「そんな事になるなら、貴方がここに現れる訳がないでしょ?」
「違いない。じゃあな。分け前はいずれ渡そう」
「要らないわ。私はただの平凡な使用人が性に合ってるみたいだから」
「そうか。残念だ。あんたをもう一度ぐらい抱かせて欲しかったんだがな」
羊角は大男の横をすり抜け、エレベーターに向かってゆく。
そして中に入って地下へのボタンを押すと、自分を見送る大男に笑みを向けた。
「そうね、貴方相手なら、お礼に一度ぐらいは良いわよ?」
そう、怪しげな、男を引き付ける笑みを見せて扉が閉まる。
依存している相手でなければ発揮される、羊角の才能と言っても良い女としての力。
大男はその笑みに背筋をぞくりとさせながら、自らも足を動かしてホテルから去ってゆく。
「はっ、怖い女だ。あのオッサンも馬鹿だな。あの女をずっと抱えてりゃ、破滅する様な事にはならなかっただろうに。さって、久々に大口の仕事だ。大儲けさせて貰うとしようか」
大男はそう口にしながら、仲間らしき男達の乗るワゴン車に乗り込む。
車はすぐに走り去って行き、その後の事は羊角の関知する事では無いのだろう。
ただ解る事は、これで一人の人間の人生が終わる出来事が起きるという事だけだ。
「てーんし、ちゃーん! たーだっいまー!」
地下駐車場に戻った羊角は、もう完全に普段の羊角であった。
少女を目にするなりぱたぱたと駆け出し、少女も応える様に駆け出す。
そしてお互い手の届く距離になると、きゃーっと騒ぎながら抱き締めあった。
「終わったのか?」
「ええ、終わりました」
「んじゃ帰るか」
何が有ったのか。本当に大丈夫なのか。屋敷に迷惑は掛からないのか。
そんな問いは何一つせず、後部座席の扉を開く男。
抱き締める少女の体温と男の行動に、羊角はやっぱりここに帰ってきて良かったと感じる。
それと同時にもうここ以上の仕事場や、雇い主と上司には会えないだろうなと。
「・・・はぁ、本当に敵わないですねぇ、お二人には」
「あん?」
「何でもないですよぉ。さてさて帰りましょうかぁ。さあ運転手さん、早く出して下さいなぁ」
「へーへー、解りましたよお嬢様方」
羊角はテンション高めに車に乗り込み、どさくさ紛れに少女を膝に乗せる。
キャッキャとじゃれつきながら、早く早くとせかす羊角。
男は溜め息を吐きながら運転席に座り、車を屋敷に向けて走らせるのであった。
後日、とある資産家の脱税や密売など、様々な犯罪の証拠がニュースで流れる。
更に不可解な事に彼の資産になる換金物は全て売却されてあり、だがその資金の行方が解らなくなっていて、彼自身の保有資金もその全てが行方不明らしい。
資金が消えた事もあり、どこぞのマフィアから切られた、というのが大体の結論になっている。
当人は即日に拘束され、保釈の為の金も払えず、そのまま裁判を受ける事が決定したそうだ。
本人は身に覚えが無いと主張してはいる案件も有るが、犯罪の証拠がきっちりと有るせいで、世間が彼に同情の声を向ける様子は無かった。
「はっ、ざまあみろ」
有罪はほぼ確定で、下手をすれば終身刑。
金を払って雇える弁護士も居らず、覆すのは絶望的。
そんなニュースを眺めながら、羊角は珍しく汚い言葉を口にしていた。
このまま刑務所に入れば、利用価値の無いあの男は殺されるだろうと確信しながら。
「・・・しかし、どうしようかしらね。これ見たら先輩は絶対気がつくわねぇ」
だがその割には気落ちした様子で項垂れる羊角。
羊角にとっては、先の一言で全てが終わった物だと思っている。
ただ一つ懸念する事が有ると知れば、この後の女の反応だった。
それは何故か。実は羊角は、女に大きな嘘をついていたのだ。
羊角は昔の恋人と男との差が解らないと、そう言っていた。
だがもしそれが本当ならば、今回の事はこんなに簡単に運べていない。
つまりは「全てを知っていて知らない振り」をしてやって来たのだ。
明らかに羊角が関わった形跡があるのに、その調査が屋敷まで伸びて来ない。
それは既に対策をしているからであり、公的な機関にもコネが有るという事だ。
それも良い意味ではなく、明らかに黒い関係で。
ある意味では男と女の友人よりも深い所で生きてきた経験があり、友人よりもえげつない手を平気で使う。いや、使って来た羊角。
今回の事でそれが完全にばれるだろうなと、そこに気を重くして項垂れているのだ。
「廊下真ん中で何を項垂れているんだ、お前は」
「あ、せ、先輩、えーと、その・・・」
「どうでも良い。今のお前がお前だ」
「――――はい、ありがとう、ございます」
羊角は女に言い訳をしようとしたが、そんな物は要らないという女。
それでも羊角は何かを言おうと思い、何も出て来ずに素直に礼を口にした。
やっぱり帰って来て良かったと、好きになった人の格好良さを噛みしめながら。
そして屋敷を出た時と同じ様に後部座席を開けて羊角を促した。
着いたとも、早く出ろとも言わず、ただ本人が出るのを静かに待つ男。
羊角はそんな男にふっと笑みを向けてから少女に向き直る。
自分を抱き締めてくれる小さな体。片手で包めてしまう小さな手。
その手をゆっくりと離させ、小さく「行ってきます」と言って車を出た。
男には声をかけず、羊角はエレベーターに向かってゆく。
その様は何時もの優しいお姉さんでも、少し残念な感じの使用人とも違う。
普通とは少し違う世界に生きた人間独特の雰囲気を放っていた。
近寄りがたい空気を持つ、美人な夜の住人が、そこに存在している。
「ふーん、成程。ありゃ惚れた理由も解るかな」
男はそんな羊角を見送りながら、少し楽しげな様子で呟く。
勿論別に羊角に惚れたという訳では無いが、それでも何かしらの琴線に触れたらしい。
少女は首を傾げながら車から出て、男の袖を小さく掴みながら羊角を見送っていた。
羊角はエレベーターに乗り込むと先ずロビーに向かい、自分が来たという事を伝える。
暫くすると一人の男性がやって来て、羊角の顔を見て笑顔を向けた。
歳は初老といったところか。老人というにはまだ若い容姿をしている。
頭に山羊の様な外に開く角があり、狭い道では引っ掛かりそうだ。
「やあ、会いたかったよ。来てくれてありがとう」
「・・・私も貴方に会いたいと思っていました」
山羊男の言葉に羊角は笑顔で応える。
ただその笑顔は今まで屋敷で誰も見た事が無い、怪しげな物を放っていた。
少なくとも周囲に居た男性従業員や男性客が、思わず目を奪われる程に。
その様子に山羊男は優越感に浸るような顔を見せ、羊角の腰を抱いた。
「まずはゆっくりと食事でもとりながら話そう」
「・・・そうしましょうか」
羊角は一瞬だけ、ほんの一瞬だけ嫌そうな顔をしたが、すぐに表情を元に戻す。
内心「現役離れると駄目ね」などと思いながら、腰を抱かれたままエレベーターに向かう。
腰を抱く手の触り方に吐き気を覚えながら我慢し、レストランの有る階層で降りた。
山羊男は羊角が我慢をしている事など気が付かず、腰を抱いたまま席に誘導する。
既にグラスが用意されている席に着くと、やっと手を放して椅子を引いた。
羊角は心の中だけで大きな溜め息を吐きながら、引かれた椅子に素直に座る。
「ここでの食事は確か初めてだったね」
「ええ、そうですね」
「気に入ってくれると良いのだが」
「ふふ、これだけのホテルの食事ですもの。期待させて頂きますね」
表面上は和やかに、たあいない会話をしながら食事が進む。
ただし羊角は会話の節々に相手の情報を引き出す言葉を混ぜ、目の前の人間が自分をどう思っているのか、その真意がどうあるのかを探っていた。
そしてそれは羊角にとって予想通りな、ありがたい考えを持っている事が解る。
この人は、自分を愛してなどいない。惚れてもいない。
ただ自分に都合の良い女を、傍に置いておきたいだけだ。
昔の私を知っているから、そして私であれば簡単に御せると思っていると。
そう、解ってしまう。そして昔の自分がどれだけ馬鹿だったのかも、同時に認識するしかない。
こんな男に惚れた自分に腹を立てながら、怒りを隠して会話を続ける羊角。
けど羊角は、それで良いと思っている。その方が良いと思っている。
下手に目の前の男が本気で自分に惚れている方が面倒だったと。
自分の性格を良く理解している羊角は、相手が惚れてくれていない方が助かると。
今は恨みを持つとはいえ、一度は好意を持った相手。
本当は彼も辛かったのでは。あの時は理由があったのでは。
もしかしたら、今度こそ本当に、私を愛してくれるのでは。
そんな事を、帰ると決めた今でもそんな事を考えかねないと思っている。
それは態々相手の機嫌を損ねない様にしながら、確かめる必要の無い好意を確かめてしまった事からも伺えるのだ。
本当に全てを拒否するのであれば、相手の好意の再確認などする必要は無いのだから。
自分の心の弱さに情けなくなりながら、羊角は心の中で自分の優しい天使に謝っていた。
だが山羊男は羊角のそんな様子には気が付かず、機嫌良く食事と会話を続ける。
まるで目の前の相手が昔と変わらず、自分に執着して尽くすと確信しているかの様に。
そして食事が終わると、羊角にとってはやはりと思う言葉が投げられた。
「少し、二人っきりになれる所で続きを話さないか。今後の事も話したい」
「ええ、行きましょう」
また腰を抱かれながら、羊角は素直に付いて行く。
触り方が露骨になったと感じながら、笑顔を崩さずに堪える羊角。
そして「このホテルで一番良い部屋だよ」と言われながら入った部屋で、会話も無くいきなりベッドに押し倒された。
「ああ、君は変わらないな。とても綺麗だ・・・君の事を、ずっと忘れられなかった」
「・・・私も、貴方の事を忘れた事は有りませんでした」
「すまなかった・・・あの時の事は本当に」
「いいえ、謝る必要なんて有りません、だって――――」
羊角が優しく微笑んだ事でOKと受け取ったのか、山羊男はにこりと笑う。
だが、次の瞬間、青い顔をして股間を抑えてうずくまった。
羊角の膝蹴りが、綺麗に股間を捉えていた為だ。
うずくまる姿を冷たい目で見ると、すっと立ち上がる羊角。
「――――あなたの事を、殺せるんですから」
ドレスのスリットを上げ、太腿につけられたホルスターから拳銃を取り出す。
当然銃口は蹲る山羊男に向いており、向けられている側は今の状況に血の気が引いている。
「じょ、冗談だろう?」
「私がどういう人間かは、貴方が良くご存じでしょう」
「き、君がそんな事をすれば、君の雇い主が困る事になるぞ」
「それは貴方との関係を断っても同じ事でしょう。ならば貴方が死んだ方が楽なはず」
絶対零度。そんな言葉が似合う余りにも冷たい視線。
確実に外さない様にと、体の中央に狙いをつけてある銃口。
飛び掛かられない様に、的確な距離を開けた間合い。
羊角の態度の全てが、本気で撃つ気だと感じるに足るものだった。
「命乞いはしないんですか? お得意の心にもない謝罪は?」
「ひっ、や、やめ、すまな、た、頼む、許してくれ・・・!」
「旦那様や先輩を知って、本当に人として惚れる事の出来る人間とはどんな人間か、私は学ぶ事が出来た気がします。貴方は私が惚れるに値しない」
「ひ―――――」
引き金をゆっくりと引くその姿に、山羊男は泡を吹いて気絶してしまった。
そんな相手でも撃鉄は容赦なくガチンと落ちて――――何も起こらずに終わる。
「ふふっ、一発目に弾は入って無いわ。全く、肝の小さい男。いや、旦那様に度胸があり過ぎるだけかしらね。あの人ならこんなの、どうにかしてしまうだろうし」
羊角はけらけらと笑いながら拳銃をホルスターに仕舞う。
そしてごそごそと山羊男の懐を漁り、端末や手帳、鍵やカードを盗って行く。
部屋に置いてあった私物らしいカバンからも目ぼしい物を漁ると、暫く何も出来ない様に拘束して身動きが取れない様にし、静かに部屋を出ると端末を操作して誰かに電話をかけた。
「終わったわ」
『ご本人は今どうなってんだ?』
「気絶中。縛っておいたし暫くは発見されないでしょうから、貴方達相手には手遅れでしょ?」
『ははっ、お前が持って来た物が本当に使えるならな』
「大丈夫よ。彼、昔から大事な物は身近に置かないと気がすまない性格だったから」
通話先から聞こえる男性の声に自信の有る様子で応える羊角。
すると少し先の通路から、屈強な大男が現れて羊角の行く道を塞ぐ。
だが羊角は大男に笑顔を向けると、先程盗った物を全て手渡した。
「はい、じゃあお願いね」
「不用心だな。カメラに映ってるかもしれないぞ」
「そんな事になるなら、貴方がここに現れる訳がないでしょ?」
「違いない。じゃあな。分け前はいずれ渡そう」
「要らないわ。私はただの平凡な使用人が性に合ってるみたいだから」
「そうか。残念だ。あんたをもう一度ぐらい抱かせて欲しかったんだがな」
羊角は大男の横をすり抜け、エレベーターに向かってゆく。
そして中に入って地下へのボタンを押すと、自分を見送る大男に笑みを向けた。
「そうね、貴方相手なら、お礼に一度ぐらいは良いわよ?」
そう、怪しげな、男を引き付ける笑みを見せて扉が閉まる。
依存している相手でなければ発揮される、羊角の才能と言っても良い女としての力。
大男はその笑みに背筋をぞくりとさせながら、自らも足を動かしてホテルから去ってゆく。
「はっ、怖い女だ。あのオッサンも馬鹿だな。あの女をずっと抱えてりゃ、破滅する様な事にはならなかっただろうに。さって、久々に大口の仕事だ。大儲けさせて貰うとしようか」
大男はそう口にしながら、仲間らしき男達の乗るワゴン車に乗り込む。
車はすぐに走り去って行き、その後の事は羊角の関知する事では無いのだろう。
ただ解る事は、これで一人の人間の人生が終わる出来事が起きるという事だけだ。
「てーんし、ちゃーん! たーだっいまー!」
地下駐車場に戻った羊角は、もう完全に普段の羊角であった。
少女を目にするなりぱたぱたと駆け出し、少女も応える様に駆け出す。
そしてお互い手の届く距離になると、きゃーっと騒ぎながら抱き締めあった。
「終わったのか?」
「ええ、終わりました」
「んじゃ帰るか」
何が有ったのか。本当に大丈夫なのか。屋敷に迷惑は掛からないのか。
そんな問いは何一つせず、後部座席の扉を開く男。
抱き締める少女の体温と男の行動に、羊角はやっぱりここに帰ってきて良かったと感じる。
それと同時にもうここ以上の仕事場や、雇い主と上司には会えないだろうなと。
「・・・はぁ、本当に敵わないですねぇ、お二人には」
「あん?」
「何でもないですよぉ。さてさて帰りましょうかぁ。さあ運転手さん、早く出して下さいなぁ」
「へーへー、解りましたよお嬢様方」
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キャッキャとじゃれつきながら、早く早くとせかす羊角。
男は溜め息を吐きながら運転席に座り、車を屋敷に向けて走らせるのであった。
後日、とある資産家の脱税や密売など、様々な犯罪の証拠がニュースで流れる。
更に不可解な事に彼の資産になる換金物は全て売却されてあり、だがその資金の行方が解らなくなっていて、彼自身の保有資金もその全てが行方不明らしい。
資金が消えた事もあり、どこぞのマフィアから切られた、というのが大体の結論になっている。
当人は即日に拘束され、保釈の為の金も払えず、そのまま裁判を受ける事が決定したそうだ。
本人は身に覚えが無いと主張してはいる案件も有るが、犯罪の証拠がきっちりと有るせいで、世間が彼に同情の声を向ける様子は無かった。
「はっ、ざまあみろ」
有罪はほぼ確定で、下手をすれば終身刑。
金を払って雇える弁護士も居らず、覆すのは絶望的。
そんなニュースを眺めながら、羊角は珍しく汚い言葉を口にしていた。
このまま刑務所に入れば、利用価値の無いあの男は殺されるだろうと確信しながら。
「・・・しかし、どうしようかしらね。これ見たら先輩は絶対気がつくわねぇ」
だがその割には気落ちした様子で項垂れる羊角。
羊角にとっては、先の一言で全てが終わった物だと思っている。
ただ一つ懸念する事が有ると知れば、この後の女の反応だった。
それは何故か。実は羊角は、女に大きな嘘をついていたのだ。
羊角は昔の恋人と男との差が解らないと、そう言っていた。
だがもしそれが本当ならば、今回の事はこんなに簡単に運べていない。
つまりは「全てを知っていて知らない振り」をしてやって来たのだ。
明らかに羊角が関わった形跡があるのに、その調査が屋敷まで伸びて来ない。
それは既に対策をしているからであり、公的な機関にもコネが有るという事だ。
それも良い意味ではなく、明らかに黒い関係で。
ある意味では男と女の友人よりも深い所で生きてきた経験があり、友人よりもえげつない手を平気で使う。いや、使って来た羊角。
今回の事でそれが完全にばれるだろうなと、そこに気を重くして項垂れているのだ。
「廊下真ん中で何を項垂れているんだ、お前は」
「あ、せ、先輩、えーと、その・・・」
「どうでも良い。今のお前がお前だ」
「――――はい、ありがとう、ございます」
羊角は女に言い訳をしようとしたが、そんな物は要らないという女。
それでも羊角は何かを言おうと思い、何も出て来ずに素直に礼を口にした。
やっぱり帰って来て良かったと、好きになった人の格好良さを噛みしめながら。
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