馬車が来る夜は

右京之介

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馬車が来る夜は (後編)

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             馬車が来る夜は (後編)

                             右京之介


 前編からのつづき。

 一度、拳銃で撃たれてくたばったのに、またここでくたばるのかよ。
 二度も死んでしまうのかよ。
 徒手空拳――もはや何の武器もない。
 俺の日頃の行いが悪いのは分かっている。
 だからこんな目に遭うのだろう。
 だが、他の連中はいい奴ばかりじゃないか。
 俺は地獄に落ちてもいいから、みんなは許してやってくれよ。
 神でも仏でも火でも太陽でもかまわないから、
 俺たちはどうすればいいのか教えてくれよ。
 マサは天を仰いだ。
 そのとき、キヨミズが振り向いた。
「マサさん、ご安心ください!」
「どうした?」
「助っ人が来てくれました!」

 ブラックジーンズに黒の革ジャン。全身黒ずくめのその男は栗毛色の馬に乗って馬車の後方から現れた。成型車から馬車に向かって宙を飛んでいたゾンビを、持っていた日本刀で上段から一気に両断する。ゾンビは上半身と下半身が分かれて、血と内臓をまき散らしながら地面に落下した。
 馬車に取り付いていたゾンビが危険を察知したのか、つぎつぎに成型車へと飛んで戻っていく。黒ずくめの男は器用に馬を操りながら、宙を舞うゾンビを下から狙いを付けて、つぎつぎにぶった切って行く。もはや、男は手綱を握っていない。足で体のバランスを取りながら、両手で鋭い日本刀を掴み、軽々と振り回している。馬車が通った後にはゾンビの死体と死体の一部が散乱し、流れた血液がテカテカと闇の中で光っている。終わることなく、血と体液が空中に飛び散る。あたりには赤い霧が漂っているようだ。男はすでに返り血で全身が真っ赤だった。それでもゾンビの殺戮をやめない。ゾンビのズタズタになった皮膚も、粉々になった骨も宙に拡散していく。
 肺が胃が腸が心臓が肝臓が脾臓が膵臓が小腸が大腸が十二指腸が膀胱が空中に舞う。
「すげぇ、内臓祭りじゃー!」マサが歓喜する。
 ゾンビたちにとって、黒ずくめの男は死神であった。天敵であった。
「キヨミズさんよー、あの人は誰だー!?」 
 マサが大声で叫んだためか、黒ずくめの男が馬車の方を見る。
 マサと目が合った。
 「アニキ…」
 
 組の地位を取り戻すため、一人で日本刀だけを持って、殴り込みをかけたアニキ。
 相手の組長のすぐ前でボディガードに返り討ちにされたアニキがそこにいた。
 ブラックジーンズに黒の革ジャン。殴り込んだときと同じ服装だ。
 この服装で兄は無念にも死んで行ったんだ。
「アニキ! アニキじゃないですか。俺です、マサですよー!」
 マサは窓から思いっきり顔を突き出して叫ぶ。両手を懸命に振る。
 男はマサの方をチラッと見ただけで、ふたたびゾンビに向かっていく。
「アニキ! アニキ! 俺のことを忘れたのですかー!?」
 マサはわめくが、男は振り向いてはくれない。
「マサさん…」とキヨミズの声。「おそらく、あの方には生前の記憶がないと思います」
「なんでだ?」
「分かりません。あの世とこの世の狭間にあるこの世界ではいろいろなことが起こります。肉体がないために、お腹が減らないし、眠くもならないかと思うと、肉体がないのに痛みがあり、ケガをし、疲れる。記憶が残っていたり、残っていなかったりしても、不思議ではありません」
 黒ずくめの男のおかげで大量のゾンビが成敗されていく。馬車に群がっていたゾンビがつぎつぎに戻って行くが、成型車の体積は半分くらいにまで減ってきている。
「そうか。俺のことをアニキは覚えてないのか。悲しいなあ。――キヨミズさんはアニキのことを知ってたんだな」
「マサさんのアニキ分だとは知りませんでしたが、何度かあの方には助けていただいてます。襲われて逃げ切れなかったとき、どこからともなく現れて助けてくださるのです」
「その後は名前も告げずに去っていくと…」
「はい、おっしゃる通りです」
 ゾンビの肉片と体液が宙を舞う。
 もはや、奴らにマサたちを喰らうという意志はない。
「アニキらしいや。ゾンビ共もアニキを知ってるんだな」
「はい、いまや奴らの天敵ですから」
「さんざんやられてきたのだろう。奴らにも学習能力があるというわけだ。しかし、アニキはなんで、こんなところにいて、こんなことをやっているんだ?」
「どうでしょうか。ただ単に、弱い者いじめは許さないとか」
「そうかもな。それもアニキらしいな。弱者をイジメるような奴らには容赦なかったからな。暴れ出したら、誰も止められなかった。信念がすごいんだ」
「その凝り固まった信念のために、安らかに成仏することなく、自らの意思でこの世界にいらっしゃるのではないでしょうか」
「あのゾンビ共がいなくなるまで斬りまくるのか。そうかもしれないな。それにしても、あの刀さばきはすごい。生前に剣の流派は聞いてなかったが、俺には無理だ。できっこない」

 徳さんとレンくんは突然現れた男に驚いていたが、マサの知り合いと分かって、安心した表情を浮かべている。さくらと花ちゃんは窓から顔を出して男に声援を送っている。
 がんばれ、がんばれ、がんばれー。
 花ちゃんがさくらに訊く。
「ねえ、さくらちゃん、あの人はマサさんのお友達?」
「そうみたいだね。すごいね」
 花ちゃんは少しずつお話をしてくれるようになっていた。
 さくらが振り向いて、マサに言う。
「マサさんのお友達、すごいじゃん! 花ちゃんも喜んでるよ。マサさんを見直したよ!」
「へへへ。そうかい」マサうれしそう。

 がんばれ、がんばれ、がんばれー!
 花ちゃんが小さな声で応援している。
 がんばれ、がんばれ、がんばれー!
 さくらが花ちゃんの声に重ねる。
 
 やがて成型車は速度を緩めて、蛇行を始めた。もはや、その体積は三分の一にまで減っている。強固な石垣のように組み合わさっていたゾンビが斬られたり、傷つけられたりしたことにより、成型車のあちこちには隙間ができ、今にも分解しそうである。男から成型車を死守しようと戻ったため、もはや馬車にはゾンビが一体もしがみついていない。そして、傷だらけになりながらも、キヨミズが操る馬車は疾走をやめない。
 
 黒ずくめの男が馬で並走しながら成型車に狙いをつけている。
 刀を持ち変えて、姿勢を低くした。
「タイヤだ」マサがつぶやく。
 男は日本刀を煌めかせると、タイヤに斬りつけた。血しぶきとともに一体のゾンビの首が飛んで行く。タイヤを成型している残りのゾンビのバランスが崩れ、五体ほどのゾンビがバラバラになり、後輪に巻き込まれて、グシャグシャと潰れていく。左前輪を失った成型車は前に傾き、その部分を構成していたゾンビが地面に擦られて血みどろになる。
「さすがアニキ! やっぱりタイヤを狙うか!」マサは自分の予想が当たってうれしい。「あのタイヤゾンビ、斬られても笑ってやがる。気味の悪い奴だ」
「あの日本刀は特別な何かですか?」徳さんがマサに訊く。
「どうだろう。アニキが日本刀を集めていて、大切に保管していたことは知っていたが」
「あれだけ斬っても切れ味が落ちないのは不思議ですな」
「アニキの魂が宿ってるんだろうなあ。すげえなあ、アニキは」
 アニキのことを語るとき、マサの目はキラキラ輝いていた。

 左前方のゾンビの顔面を道路でズルズル引きずりながら成型車は行く。顔面はすでに半分くらいにまで削られている。成型車が通った後にはゾンビの血の道が、まるでナメクジが這った跡のようにできていて、ヌラヌラと光っている。
 引き返して来た男は、次に左後方のタイヤを切り裂いた。二つのタイヤを失った成型車は大きく左に傾くが、それでも止まらない。数体のゾンビを道路との摩擦で失いながらも成型車は執拗に走り続ける。もはや、何が目的か分からない。
 ただ、馬車を追って走り続ける幽霊車。
 男は成型車の右から前から後ろからさんざんに日本刀で斬り付け、やがて、中心にいた一体の大柄なゾンビの首を刎ねた。
「キヨミズさん、あいつは何だ?」
「おそらく、首領格のゾンビでしょう」
「ゾンビ軍団は滅亡したというわけか」
「いいえ、首領格のゾンビはたくさんいるようです。だから、また奴らは来ます」
 成型車は解体され、全滅した。
 男は血だらけの日本刀を布で拭い、鞘に納め、首領ゾンビの首を馬の鞍に結びつけると、もはや車の形を成していない成型車の残党である数体のゾンビを蹴散らし、去って行った。マサの方はチラリとも見なかった。

「キヨミズさんよ、アニキはずっとこんなことを続けるのかなあ」マサが訊く。
「ゾンビがいなくならない限りは続けるのでしょう」
 キヨミズが返事をするが、その声は穏やかだ。
 ゾンビがいなくなって、馬車には束の間の平和が訪れている。
「終わりを迎えるのはゾンビが一体残らずいなくなったときか、それともアニキの信念が薄れたときだろうな。いや、アニキの信念は薄れないだろうから、ゾンビの存在によるだろうな」
 マサは自問自答する。マサの表情も久しぶりに穏やかになっていた。

 この世界からゾンビがいなくなったとき、
 アニキは自分の意思であの世へ行くのだろう。
 この世界に何の未練も残すことなく、何の憂いも残すことなく。
 あの馬を乗り捨て、あの日本刀を投げ捨てて。
 果たして、アニキを待っているのは地獄なのか天国なのか?

 あの世とこの世の狭間にあるこの世界は、長年ここにいるキヨミズにさえ、分からないことだらけだ。あちこち傷だらけだったマサや徳さん、レンくんの体はいつの間にか元に戻り、たくさんの血を浴びていたさくらと花ちゃんもきれいな姿に戻り、着ている制服もパジャマも新品のようによみがえった。キヨミズのシルクハットも戻り、ボックスコートもきれいになっている。傷ついていた二頭の馬も元気を取り戻し、あれだけ攻撃を受けてボロボロになっていた馬車もいつの間にか修復されて、元のきれいなままに戻っている。

 そして、曲がっていた楓くんのシャーペンも真っすぐに戻っていた。
 成型車に体当たりして死んでいった二頭の馬の死骸は見当たらない。
 ゾンビの体や体液が飛び散っていたはずの道にはもう何も落ちていない。
 あいつらはどこへ行ってしまったのか?
 この道はただ闇に続いている。
 馬車を追うように何本もの光帯が宙にうねっていた。
 
 ゾンビとの戦いが終わってすぐのことだった。
 後ろからものすごい勢いの小型馬車がやってきた。
「何だ、また新手が来たのか!?」マサが立ち上がって、身構える。
 何か武器はないか?
 愛用のドスはゾンビに持って行かれてなくなったが、ちぎれていた馬車のムチはなぜか修復されて元に戻っていた。
「キヨミズさんよー、そのムチを渡してくれんかー!」
 新手の小型馬車はたちまち馬車のすぐ後ろについた。
 追い抜くタイミングを計っているようだ。
「マサさん、あれは敵じゃありません。ムチは不必要ですよ」キヨミズが答える。
「ああ、カンテラ三つの即死馬車か」マサは軽口を叩く。
「確かにカンテラは三つですが、あれは歓喜馬車です」
「なんだ、それは?」
「社会に貢献し、人々を助け、天命を全うした人が一直線に天国へ行く馬車です」
「ほう、俺と正反対の生き方をした人が乗るのか」
 歓喜馬車は速度をあげると、一気に追い抜いて行った。
「へえ、そんな馬車があるのか」
 マサはすれ違う瞬間、馬車をのぞき込んだ。
 二人の上品そうな見知らぬ老婦が乗っていたが、二人とも穏やかに微笑んでいた。
「楽しい天国界が待っているのだから、笑いも止まらんだろうよ」ケチをつけるマサ。
「マサさん、嫉妬してるの?」さくらがからかう。
「そうじゃねえよ。まあ、俺は何回生まれ変わっても乗れないだろうけどな」
 歓喜馬車はたちまち小さくなっていった。
 三つのカンテラが揺れていた。

 花ちゃんは丸くなって寝ていた。
「キヨミズさんよ、俺たちは肉体がないから寝ないんじゃないのか?」
「そのはずですが、花ちゃんはまだ小さいから寝るのでしょう」
「なんだか、いい加減だな」マサはボヤく。「まあ、いい加減なのはキヨミズさんじゃなくて、この世界だけどな。――おお、花ちゃんの光帯も伸びてきたな」
 花ちゃんの小さな指先を見てマサが感心する。
「そのことだけど…」さくらが三人を見渡して訊く。「花ちゃんを追いかけてる光帯が、一本しか見えないのはどうしてだろう?」

 馬車の後を何本もの色とりどりの光帯がクネクネと飛んで追いかけている。センスの悪いマサは色付きのソーメンと称したが、おしゃれな店の入り口で見かけるネオンチューブのようだ。他の馬車の光帯も交じっているのだが、この馬車に届いている光帯は、もっとも接近している数本だと思われた。その光帯は馬車の乗客が出す光帯と結び付こうと、懸命に追いかけて来ている。

 さくらの指先から出ている光帯はかなり長く太くなっている。さくらの生きようとする気持ちが大きく育ってきたからである。それを追う赤い光帯は、さくらの両親のものであり、緑色の光帯は先生と友人たちが放つものである。特に濃くて大きな光帯は、大親友である蘭の強烈な祈りが具象化したものと思われる。

 一方、レンくんの光帯は青色だ。それを追う特に青い光帯が両親のものと思われた。身寄りがない徳さんの分と、誰からもよく思われてないマサの光帯は見当たらない。
 本人がそう言うのだから、そうなのだろう。
 
 花ちゃんの指先から出る光帯はオレンジ色だ。しかし、この馬車を追ってくる光帯の中にオレンジ色のものは一本しかない。それはかなり大きな一本であるが、他の光帯は見当たらない。
「あれはお母さんから来ている光帯だろう」徳さんが後ろを見上げながら言う。
「やっぱり、そうですよね。お父さんはいないのかなあ」
 さくらは花ちゃんの寝顔を見る。
 ゾンビとの戦いに疲れたのだろう。座席の隅ですやすやと眠っている。
 
「シングルマザーじゃないのか?」マサが言う。「よくあるだろ。離婚して子供とアパートに住んでいるところに無職の男が転がり込んできて、昼間からゴロゴロしているうちに、連れ子をイジメて逮捕されるパターンだ。そいつは今頃、刑務所だな。しつけのためにやったとか言い訳をしても捕まるってわけだ」
「じゃあ、実のお父さんは?」さくらが訊く。
「実の父親とは連絡は取ってないのだろう。だから、花ちゃんが病気かケガで死にそうになっていることも知らない」
 マサは適当なストーリーを滔々と述べる。だが、マサの言うように、よくあるパターンだから、さくらは本当のことのように思えてきた。
「花ちゃん、かわいそう」さくらは花ちゃんの安らかな寝顔を見る。
「こういうケースだと、実の父親からは毎月の養育費ももらってないだろうな」
「難しい病気とか大きなケガだったら、医療費が大変だね」
「そうだな。だがな、こうしてカンテラ二個の馬車に乗ってるということは、懸命に治療が続けられてるんだろ」

 花ちゃんの光帯が、お母さんの光帯に呼応するかのようにぐんぐん大きくなっている。
「これはすごいな」マサはそれを見て驚く。
「寝ていてもお母さんのことを考えているのだろうな」
「お母さんの夢を見ているのかもね」
「ああ、そうだな」マサは反社の人間とは思えないような柔和な表情をしていた。
 さくらは驚く。マサさんもこんな顔になるんだ。

「キヨミズさんよー」マサが話しかける。「この馬車は止まれないのか?止まれば、あの光帯が追いつけるだろ」
「速度を緩めることはできますが、止まることはできません。私ができることは馬車の速度を上げるだけで、止まることはできないのです。乗り換えの時は馬車が勝手に動き出します」
「そうか。そりゃ面倒だな。いい考えだと思ったのだがな」マサはすっかり修復された窓から光帯を見上げる。「なんだか、光帯が近づいてないか?」と不思議そうな顔をする。みんなも見上げてみるが、確かに光帯の飛ぶスピードが増していて、先ほどよりもかなり馬車に近くなっている。
「そうですな。これはもしかして、もしかして…」徳さんの声が少しうれしそうだ。
 たちまち光帯は馬車の後ろのすぐ上空にまで到達している。
「近づいて来ているのは三人全員の分ですな。これはすごい偶然だ」
 光帯のうちの二本が結びついて、大きな一本になった。さらに他の二本も合わさって大きな一本になった。
「あの大きな一本はさくらくんのご両親と、レンくんのご両親の光帯だろう」
「徳さん、両親の一本って、どういうことですか?」さくらが訊く。
「家族や血縁関係にある光帯は、やがてまとまって一本になるのだよ。その一本はとても大きくなる。一+一が二になるのでなく、三にも四にもなるというわけだ。受ける側もそうだ。もし、さくらくんと花ちゃんが姉妹なら、二人の光帯は大きな一本になっているはずなのだよ。大きくなった方がより早く、確実に結びつく。急を要するときなんかは、家族同士なら助かる可能性が高くなるのだよ」

 さくら、花ちゃん、レンくん、三人を追う光帯がすぐ近くまで来ている。
 さくら、花ちゃん、レンくん、三人が指から放つ光帯が今までになく太く伸びている。
 さくらを追う赤と緑の光帯が一本になった。
 花ちゃんを追うオレンジの光帯がより太くなった。
 レンくんを追う青い光帯もより太くなった。

 そのとき、キヨミズから声がかかった。
「さくらさん、花ちゃん、レンくん、そろそろ準備をしてください」
 さくらはあわてて花ちゃんを起こす。
「花ちゃん、ママのところに帰るよ!」

 まだ若いママは離婚して、花ちゃんと二人で小さなアパートに住んでいた。結婚して三年目に花ちゃんを授かったのだが、夫は稼いだお金をほとんど家に入れず、ギャンブルに熱中し、言い争いが絶えない日々が続いていた。経済的に厳しくなったため、働きに出ると言い出したところで、夫と大喧嘩となり、ママは花ちゃんを連れて家を出た。行先は告げなかった。花ちゃんを連れ戻されることを恐れたからである。
 パート勤務をしながら花ちゃんを育てていたが、一人の男性が現れて、一緒に住むことになった。しかし、ママの男運は悪かった。元夫につづいてこの男も、ろくでなしであった。ママの収入を頼り、働かなくなったのだ。収入といってもパートだ。アパートの家賃を払ったら、残りはカツカツになる。ストレスのはけ口として、花ちゃんをイジメだした。ここまではだいたい、マサの想像通りである。しかし、想像と違って、同居男は逮捕されなかったのである。
 
 ママは男のイジメを止められなかった。おっかないということもあったが、そんな男でも好きだったからである。男がいなくなると、寂しくなると思っていたからである。イジメはしだいにエスカレートしていった。
 ある日、花ちゃんは耐えきれずに家出をした。一人でトボトボと歩いているうちに、横断歩道でトラックに轢かれた。轢いたトラックはそのまま逃げた。花ちゃんはすぐに病院に運ばれた。花ちゃんの全身にはアザがあった。アザによりイジメが発覚することを恐れた同居男も逃げた。その後の行方は分からない。
 花ちゃんがあまりしゃべってくれないのは、マサが言ったような死んだショックといこともあるが、度重なるイジメにより心を閉ざしてしまったからである。
 そのことをママはとても気にかけていた。男が悪いとはいえ、そんな男を選んだのは自分自身だからである。母親として責任を感じていたのである。

 ママが病院に駆け付けたとき、花ちゃんは集中治療室で懸命に死と戦っていた。
 このまま死んでしまったら、この子の人生は何だったのだろう。はしゃぎ回るような楽しいことはなく、おもちゃもたいして、買ってもらったこともなく、ほとんど、遊びに連れて行ってもらった記憶もないはずだ。
 ママは思う。
 何とか生きてほしい。たくさんの楽しい思い出を作ってあげたい。たくさんおいしいものを食べさせてあげたい。きれいなお洋服を着せてあげたい。お買い物も行こうね。公園も行こうね。まだ一度も見たことがない海にも行こうね。
 
 深夜の病室。ママは起きていた。お医者さんに今夜がヤマになると告げられたからだ。一刻も目は離せない。花ちゃんの付き添いはママだけだ。ママの身寄りはもう誰もいない。元夫の連絡先は知らない。同居していた男の連絡先も不通となった。静まり返った病室内は二人きりだ。花ちゃんと、花ちゃんに繋がれた機械が示す波線を交互に見つめる。波線が直線にならないように何度も祈る。
 朝まで眠らないように、ママはときどき立ち上がって体を動かし、頭から睡魔を追い出していた。ふたたび、ママが粗末なパイプ椅子に座って、花ちゃんの顔を見つめたとき、まぶたがピクリと動いた。
「花ちゃん!」
 ママはナースコールを鳴らした。
 
 やがて、馬車は左折して、乗り換え地点に入って行った。そこには一台の小さな馬車が止まっていた。カンテラの数は一つ。つまり、生還できた人が乗る馬車だ。そこには見たことがない御者が乗っていた。
 キヨミズが馬車から降りて、その御者の元へと向かう。二言、三言、言葉をかわすと自分の馬車に戻って来た。
「さくらさん、花ちゃんは起きたかな?」
「はい、起きてます」さくらが窓から顔を出して答える。
「では、さくらさん、花ちゃん、レンくんの三名はあちらの馬車に乗り換えてください。御者はアラシヤマ殿です」

 キヨミズとは正反対の髭を生やした大柄な御者がシルクハットをかぶって待っていた。
ボックスコートを着ていて、足にはブーツをはいている。アラシヤマですと名乗って、律儀に頭を下げた。顔に似合わず、キヨミズと同じく礼儀正しく、真面目そうな男だった。
 アラシヤマは御者台に座り、三人は小さな馬車に乗り込んだ。
 突然、空中で待機していた数本の光帯が三人を追って急降下して、馬車の車体を素通りして、車内に入り込んだ。馬車の中が色とりどりの光で満たされる。その光は窓から外にまで溢れ出した。
 徳さんとマサは驚きの表情でそれを見ている。
「なんだ、すげえな」マサの目はまん丸になる。
 空から飛んできた光帯は、三人の指先から出ていた光帯と馬車内で結びつき、派手にスパークすると、さらなる光を発した。その眩しさに、三人は目を開けてられず、手を取り合ったまま、目をギュッと閉じた。
 やがて、馬車全体が光に包まれた。
 絵本に出てくるおとぎの国の馬車のようだった。
 
 光の中からさくらが、花ちゃんが、レンくんが顔を出す。
「徳さん、マサさん、キヨミズさん、さようなら」
 三人が元気に手を振っている。こちらの三人も手を振り返す。
 やがて、三人を乗せた馬車は一つだけのカンテラを揺らしながら、
 この世と呼ばれる世界へと戻って行った。
 
 看護師が花ちゃんの病室に駆け込んできた。
「すぐに先生が来ますから!」
 花ちゃんを見ると、意識が戻り、ママと話をしていた。
「花はね、馬車に乗ったんだよ。お馬さんがいたよ」
 ママは花ちゃんが馬車をどこで知ったのだろうと思った。馬車があるところに連れて行ったことはない。いつか、テレビで見たのだろうか。
 ああそうか、どこかでシンデレラの童話を読んだか、聞かされたんだ。
「花ちゃん、それはかぼちゃの馬車でしょ?」
「かぼちゃ? 違うよ。馬車だよ。さくらちゃんとレンくんも一緒だったよ」
「さくらちゃんとレンくん?」
 花ちゃんにそんな名前のお友達はいない。
 夢の中で出会った子なのだろうと、ママは思った。
「それとね、マサさんのお友達は強いんだよ。刀をビュンビュン振り回すんだよ」
 マサさん? そんな子も知らない。さん付けで呼ぶということは大人の人かな。でも、花ちゃんの年頃だと中学生でも大人に見えてしまうから、ただの年上の人かもしれない。その人がチャンバラでもしていたのだろう。もしかして、スターウォーズごっこかも。きっと、刀はライトセーバーだ。
「ゾンビは怖かったよう」花ちゃんは思い出したのか、泣きそうな顔になる。
 ゾンビ? 何なんだろう。スターウォーズの中にゾンビは出てきたのかな。
「花はね、ゾンビに噛み付いたんだよ。臭かったよう」
 臭い? 夢の中で嗅覚は働くのだろうか? ニオイを感じたことはないけど。
 なんだか、変な夢だなとママは思った。
 
 花ちゃんは自分の両手と天井を交互に見つめている。
「爪が伸びてるの? 後から切ってあげるね」
 花ちゃんはママに光帯のことを教えてあげようと思ったのだが、また眠たくなってきた。さくらちゃんのこともたくさん教えてあげようと思った。他にも、ママにたくさん教えてあげたいことがあった。でも、それは後にすることにした。
「そろそろ、休ませてあげてください。おしゃべりは体力を消耗しますから」と、遅れて入って来た先生に言われた。
 意識が戻り、ヤマは越えたが、まだ病状は予断を許さないようだ。もうしばらく入院して様子を見るということだった。
「お母さんも休まれたらどうですか、寝ておられないでしょう」
 お医者さんに言われて、少し横になることにした。
 花ちゃんのベッドの下から、補助ベッドを引っ張り出して横になった。
「花ちゃん、ごめんね。ママが弱かったから、つらい目に遭わせちゃったね。ママはもうちょっとしっかりするね。これからは、あまり人に頼らないようにするね。だから、花ちゃん、これからもママをよろしくね」
 ママはすぐ眠りに落ちた。

 レンくんも病室で目を覚ましていた。ベッドのそばには両親がいた。先生と看護師さんも取り巻いていた。外から数人の友人が遠慮をしながら入って来た。意識が戻るまで、廊下で待ってくれていたそうだ。 
 ボクはどれだけの時間を眠っていたのだろうか。友人たちは順番に交代しながら夜通し廊下にいたらしい。廊下での祈りが何本もの光帯と化し、ボクの元に届いていたのだ。それは太くて濃い光帯だった。徳さんによると、かなり強く祈り込まないと、あんなに太く濃くならないらしい。ボクのことを思っていてくれる人がたくさんいた。普段、あまり話さないような友人まで駆け付けて、徹夜で祈ってくれていた。死んでしまおうなんて、ボクは本当にバカなことをしたと思う。
 
 ボクが首を吊ったのは子供の頃の思い出の場所だった。みんなで拾った物を持ち寄って作った秘密基地がある林の中。その頃は不法投棄について、今ほどは厳しくなく、あちこちにいろいろな物が落ちていた。それらをせっせと集めて、基地を完成させたのである。そんな楽しかった思い出の場所を、ボクは死の場所として選んで、木の枝にロープをかけた。しかし、木の枝が折れたかロープが切れて、ボクは落下した。
 
 今となっては、なぜ、死のうとしたのか、自分でもよく分からない。マサさんに指摘された通り、フラれたのは確かだ。当時、つき合っていた女性は短大を卒業したばかりの社会人で、当然、毎月の収入がそれなりにあった。ボクは学生で、バイトをしていたものの、自由になるお金はさほどなく、経済格差が生まれていた。デート代は割り勘か、彼女が支払う。あと二年もすると卒業して、ボクも社会人になるのだけど、彼女はそれが待てなかったらしい。たぶん、そうなのだろうが、今となっては確かめようのないことだ。なぜなら、いきなり結婚してしまい、音信不通になってしまったからだ。
 ある日、何かの用事で(その用事も何だったか、今では忘れてしまったのだが)、彼女にメールを送ったのだが返事がなく、電話をしても留守電だったので、思い切って会社に電話してみたところ休んでいて、病気か何かですかと訊いてみると、今日はお日柄がいいので、結納らしいですよと言われたのである。
 安物のドラマのような展開だった。主人公のはずのボクは、いきなり脇役にずり落ちてしまった。ボクの頭の中はパニックになって、真っ白になって、クエスチョンマークだらけになった。
 結納ってことは結婚? 誰と? どこで? なぜ? ボクは? ボクの立場は…?
 
 ちょうど、バイト先の人間関係がグチャグチャになって、授業がよく理解できなくなって、風邪が治らないし、自転車のキーは無くすし、チンピラにイチャモンを付けられるし、スマホの調子は悪くなるし、歯ぐきは腫れるし…。
 こうやって様々な(今、考えたらどうでもいい)、小さな不幸が複合して、ああ、もう死ぬしかないと結論付けて、それを実行してしまったのである。
 
 ボクが最期の場所に選んだ秘密基地は、子供の頃の思い出の場所だった。でも、ボクの思い出の場所が、みんなの思い出の場所でもあると気づいていなかった。
 自分の勝手さに情けなくなる。ボクが目を覚ましてからは、神聖な場所を汚したとして、友人たちからさんざん怒られた。
 退院して、まず初めにやったことは、その場所の掃除だった。積もった落ち葉を拾い、邪魔な枝を切り落とし、残骸と化していた秘密基地を片付け、きれいな更地に変えた。今後、ここをどう使うかはまだ決めていない。ゆっくり友人たちと相談したいと思う。

“たくさんの人がボクを待っていてくれました。ボクの命はボクだけのものではないと分かりました。ボクはまた生きることに決めました。この世に何らかの爪痕を残してやります。もちろん、正しい爪痕です。鉄砲玉のマサさん、ありがとうございました。これからボクはしっかり生きます。もちろん、あなたの分も…”
 
 二頭馬車はふたたび走り出した。乗客は徳さんとマサの二人だけになった。
「あんな子供達でも、いなくなると寂しくなるもんだな」
 マサがしみじみと徳さんに言う。
「そうですなあ。もともと寂しい道を走ってますからなあ。それに、光帯もいなくなりましたからなあ」
 徳さんは何も浮いていない空を見上げて、しみじみと答える。
「徳さん、前から思っていたのだが、あんたはやたらとこの世界に詳しい。もしかしたら、この馬車に乗ったことがあるのか?」
 徳さんは不自由な足をさすりながら言った。
「今回で二度目だよ。一度目は事故だった」
 やはり、そうか。マサは合点がいった。
 いつも引きずっている足は事故の後遺症なのだろう。
「最初に乗ったときもカンテラが二つの馬車だった。大昔の話だ。あの頃はまだ若かった。そのときは結婚したばかりの連れ合いがいて、光帯を飛ばしてくれたから、九死に一生を得た。もっとも、その後すぐにその連れ合いは亡くなったのだがね。そのとき一人の老人が乗っておった。その人は戦争で何度も死にかけて、何度も助かった人だった。だから、この馬車の常連客みたいなもんだな。その人にいろいろと教えてもらったというわけだ。カンテラの数の意味も、光帯のことも」
「じゃあ、その老人、今は?」
「そのときに会ったきりで、連絡は取り合ってないから分からんが、あのとき、既にかなりの年だったからな。もう、あの世に行っただろうな。三つのカンテラの馬車に乗ってな」

 徳さんは黄色い帽子をかぶりなおすと、フーッと大きく息を一つして、少し硬めの座席に深く腰をかけた。ゾンビとの戦いでグシャグシャになっていた帽子も元に戻っている。足をさすってみるが、さすがにこの古傷は治らんな。
「このシワだらけの手にも世話になったなあ」
 徳さんは両手をごしごしと摺り合わせて、ついでに顔もごしごしと擦った。
 振り向いてみると、さくらたちを乗せた馬車はもう遠くを走っていて、小さな点にしか見えない。いろいろあったあの馬車ともお別れだな。
 さくらくん、よかったなあ。もうすぐ、お父さんにも、お母さんにも、蘭ちゃんにも会えるぞ。花ちゃんはお母さんと会えるし、レンくんも両親と友人が待っている。
 よかった。本当によかった。

「徳さんよ、あんたは戻らなくていいのか?」マサが気にかける。
「いや、わしはもういい。これで二度目だからな」
「二度あることは三度あるってことわざがあるぞ。だから、もう一度生きてみたらどうだ?」
「あの通り、光帯は来ておらんし」
 馬車の後ろには何も見えない。暗い道が続いているだけだ。上空にあれだけきれいに輝いていた光帯は一本も飛んでいない。
 しばらくの間、二人は何も言わずに曇った空を見上げていた。
 そのとき…。
「光帯だ!」マサが叫んだ。「あんたの光帯じゃないのか? いや、あんたは身寄りがないのか。――じゃあ、誰のだ?」

 空に四本の光帯が出現した。一本は太い光帯で、三本は細く、四本とも黄色だ。薄暗い空がたちまち明るくなった。この馬車の後を離れずについてきている。
 間違いなく、この馬車の乗客のために現れた光帯だ。
「俺のはずはない。やっぱり、あれは徳さんの光帯だ。違うか?」
 徳さんはじっとその光帯を見ていた。
「どうやら、わしの光帯のようだ」
「そうだろ。俺というわけないからな。だが、あんた、身寄りがいたのか?」
「イギリスにな」
「何だ、いきなり外国の話か。金髪の嫁がいるのか?」
「いや、わしは若くして妻を失った。だが、子供が一人いる。娘だ。イギリス人と結婚して、向こうに住んでおるんだ。だから、日本にはわしの身寄りはいない。よほど向こうの生活が気に入ったのか、娘はもう何年も帰って来ていない。そういうわけだ。まさか、光帯が来るとは、思ってもみなかった。誰かが連絡を付けてくれたのだろうな。イギリスから祈ってくれておるのか、帰国して祈ってくれておるのか分からんが」
「キヨミズさんよー、イギリスから祈っても光帯は飛んでくるのか?」
 マサがゆっくりと馬車を操縦しているキヨミズに訊く。
「はい、この世界は時空を超越してますから、地球の裏側からでも届きます」
「ほう、そりゃ便利だな。――徳さんよ、光帯は四本あるぞ」
「おそらく、太い光帯は娘で、三本の細い光帯は孫だろう」
「あんた、孫がいたのか。そりゃいいな。だが、あの三本は同じ色で、同じ太さをしてるぞ」
「三つ子だ」
「そりゃ、すごい。今時、三つ子なんか聞かんぞ。少子化の時代にありがたい。少子化担当大臣に成り代わって御礼申し上げるぞ。――キヨミズさんよ、三つ子は光帯もそっくりになるのか?」
「私も見るのは初めてです」キヨミズも驚いている。
「そうか、それはお互い貴重な体験をしたな。で、徳さんよ、もちろん、帰るわな」
「いや、このまま向こうの世界に行くよ」
 徳さんの指先から光帯は出ていなかった。
 帰る気がないからである。

 徳さんは馬車を追って来ている一本の太い光帯に向けて話しかけた。
 娘の菊江が発している光帯だ。
“菊江よ、世話になったな。男手一つで育てられた人生はどうだったかね? わしの至らぬところがたくさんあっただろう。お母さんがいなくて、さびしい思いもたくさんしただろう。しかし、おまえは、わしの前で涙は見せなかったな。わしに心配かけまいとしていたんだな。ありがとよ。これから、おまえのお母さんに会いに行くよ。楽しみだ。――孫たちを頼むぞ。”

 徳さんは細い光帯を見ながら、三人の孫の顔を目の奥に焼き付けた。それは送られてきた写真の顔と同じだったのだが、孫たちはおじいちゃんの回復を祈ってくれているのだろう。徳さんの顔はすっかり好々爺の表情に変わっていた。
 
“いろいろなことがあった人生だったなあ。この馬車を降りて、待っているのは三途の川か。歩いては渡れんのだろうなあ。子供の頃に泳ぎの練習をしておいてよかった。
――さてさて、いったいどんな世界が待ってるのやら”

 さっきからマサさんが帰るようにと、必死に説得してくれている。いい人だと思う。しかし、反社の人間だ。おそらく、あなたはいい人だと言うと怒るだろう。
「せっかく光帯が来ているのだから、帰るべきだろ。なっ、徳さんよ。娘と孫に顔を見せてやりなよ。ブサイクな顔だけどよ」一言多い。
「もう一度、人生をやり直せよ。駐輪場でまだ働けるだろ。学生がいっぱい待ってくれてるだろ。さくらくんと花ちゃんとレンくんにもまた会えるぞ。まあ、こんなヤクザもんに説教されたら、気分も悪くなるだろうけどな」
「いや、そうじゃない。気を使ってもらって有り難いと思っておるよ」
 徳さんはマサの言うことを聞きながらも、キヨミズが操る馬車に身を任せることにして、黄色い帽子を目深にかぶると、腕を組んでゆっくり目を閉じようとした。
 しかし…。
 そのとき、さらに大きな光帯が現れた。
「徳さんよ、また来たぞ!」
 娘の菊江の光帯と同じくらい大きく濃い光帯…。
「うん? 誰だろう。さくらくんやレンくんにしては早すぎるな…」
 徳さんはあわてて体を起こすと、大きく目を見開いて新しい光帯を見つめた。光帯からその発する人物を読み取ろうとする。身内じゃなくても集中すれば、誰だか分かる。祈っている人物をここから逆にたどればいいのだから。そして、それは自分がよく知っている人物のはずだ。飛んできた念に対して、こちらからも念で返してみる。
 やがて、ぼやけていた風景が焦点を結んで、はっきりと現れた。
「あんたは…」

 “神様はすべての人間に対して平等なのです”と書かれた垂れ幕を横目に、杉本が自転車で通り過ぎた。 
 あんなにがんばっていた徳さんにも平等に病が襲った。毎日、乱れることなく、キチッと止めてあった自転車が、ここ数日間は白線をはみ出して、バラバラに止めてあった。徳さんの後に来た係りの人はやさしそうなだけで、生徒たちに注意をしないため、みんなは好き勝手に止めはじめた。杉本は毎朝、乱れた駐輪場を見るたびに嫌な気分になっていた。
――あれ?
 しかし、今日は以前の駐輪場のようにきれいに整列されていた。
 まさか…?
 杉本はキョロキョロと辺りを見回す。
「よぉ、不良!」
 後ろから声をかけられて振り向くと、黄色い帽子がいた。
「…徳さん! 病気じゃなかったのかよ!」
「ああ、もう大丈夫だ。心配かけたな」
「心配なんかしてねえよ」
 杉本は信じられない思いで、徳さんの足の先から帽子のてっぺんまでをながめた。
 足はちゃんと付いている。どうやら、幽霊じゃないようだ。
 黄色い帽子も白い軍手もいつもどおりだ。いや、軍手は新品のようだ。
 徳さんは杉本の視線に気づいた。
「ああ、これか。使い込んでいだ軍手をどこかになくしたみたいでな。新しいのにして、まあ、心機一転というわけだ。またここで世話になるつもりだから、よろしく頼むわ」
 元気そうな徳さんの顔を見て、杉本はうれしそうだ。
「ああ、がんばって働いてくれよ。それよりか、徳さんの代わりにきた奴はダメだったな。ちゃんと仕事をしねえ。自転車はグチャグチャだったぜ。みんなはやりたい放題、止め放題だ」
「そうかね。その人は元銀行員らしいぞ」
「そういう奴はだめだな。一人じゃ何にもできないタイプだ。俺、倒れてる自転車を何台か起こしてやったからな」
「ほう、やさしいじゃないか」
「俺は小さな親切が好きな不良なんだよ」
「ほう、そうか。今日は、早朝追試はないのか?」
「ああ、今日はないんだ」
「やっぱり、あの日は追試だったんじゃないか」
「なにが! 違うよ。俺はそこそこ勉強もいけるんだよ。それよりも、早く自転車の整理しろよ」
「おう、やってやるから、早く学校へ行けよ!」
「分かってるよ。じゃあな」

 杉本は自転車の前カゴからペッタンコのかばんを取り出して、マフラーを巻きなおすと、駅へと歩き出した。久しぶりに徳さんに会えたためか、いつもより足取りが軽いように見える。杉本は一度振り返ったが、徳さんが見ていることに気づいたのか、あわてて向き直って、また早足で歩き出した。
 その後姿に向って、徳さんがつぶやいた。
「不良よ。でっかい光帯をありがとよ。あんなもん見せられると、帰ってくるしかないだろうよ」
 徳さんは涙が出そうになっている顔を杉本に見られないように、黄色い帽子のひさしを少し下げた。年を取ると涙腺が緩くなるものだ。
 明日、娘と孫たちが帰国することになっている。
 わしの年齢からして、みんなと会えるのは今回で最後になるかもしれんなあ。
 いつのまにか、金色の黄砂は見えなくなっていた。

 徳さんは行ってしまった。馬車の乗客はマサだけになった。六人掛けの席にマサ一人しかいないため、馬車の中はすっかり広く見える。大型馬車の貸し切りだ。一人になったのに馬車の乗り換えはしないようだ。マサは大きく体を伸ばした。
 御者キヨミズと乗客マサの二人旅がつづく。

 これでよかったのだとマサは思う。徳さんの娘と孫がすでに日本へ来ているのかは分からないが、みんなで会うことは確かだろう。久しぶりの再会と病気からの生還に抱き合って喜ぶだろう。想像すると、さすがのマサにも笑みがこぼれる。
 あのクソ真面目な徳さんが抱き合って喜ぶのだからな。どんな顔をするのだろうな。黄色い帽子をかぶって、白い軍手は着けたままだろうな。きちっとした性格だから、外さないだろうな。
 
「マサさん」キヨミズが御者台から呼ぶ。「帰りつもりはありませんか?」
「ああ、この通りだ」マサは両手を広げて見せる。光帯は出ていない。帰る気はさらさらないようだ。「それに光帯が追いかけても来てないだろう。俺のことなんか誰も気にかけてないからな。つくづく向こうは薄情な世界だ」
 馬車の後を追う光帯は見えない。向こうの世界でマサは危篤状態だ。医療関係者の治療は続いているだろう。しかし、光帯が来ていないということは、関係者は誰もマサの回復を願っていないということだ。荷物が一つ消えたとでも思っているのかもしれない。
 仲間の組員なんかロクな奴がいないからな。俺みたいな下っ端の年寄り組員なんか、誰も気にかけちゃいない。考えてみたら、ひどい組に所属してるよな。義理と人情はどこへ行ってしまったんだ? 昔は良かったよなあ。
 
「まあ、一人でのんびり行くよ。どんな世界が待ってるのか分からんがな。――ところで、キヨミズさんはなんで、ここで運転手なんかやってるんだ?」
「それが、私にもよく分からないのです。おそらく急病で倒れたのでしょう。気がついたら、ここでこうして馬車の操縦をしてました」
「馬車の操縦の心得はあるのか? 免許を持ってるとか」
「馬車なんて乗ったことはないです。それどころか、間近で見たこともないです。馬車の運転免許は必要なのでしょうか?」
「いや、俺も知らん。馬車の教習所なんか聞いたこともないしな。なんでこの時代に馬車なんだ? 飛行機とか大きめのドローンでピューッと飛んで行けないのか?」
「それも分かりません。私の知るかぎり、この世界の乗り物は馬車と成型車だけです」
「成型車は違うだろ。あんなのは乗り物じゃねえよ。思い出すだろ、気味悪い」
「申し訳ありません」
「あんたは向こうの世界で何をやってんだ?」
「地方公務員です」
「だろうな。地方公務員か地方銀行員だと思ったぜ」
「どういうところが、ですか?」
「クソ真面目なところがだ。徳さんも真面目だったが、ちょっと種類が違うな。アンタは融通がきかない真面目さだな」
「それは私を褒めてらっしゃる?」
「もちろんだ。俺にはできない。戸籍係なんて」
「戸籍係とは言ってませんが」
「近いだろ」
「近いといえば近いですが…」
「戸籍係で働きすぎて、死んだというわけか」
「いいえ、逆だと思います。私はそれなりの地位についておりましたから、仕事のほとんどは決裁でして、毎日、ハンコを押すのが主な仕事で…」
「生きてるのか死んでるのか分からないような日々を送っていたわけか」
「そうです。文字通り、毎日、判を押したような生活でした」
「それが、神様から見て、働いてないというか、生きていないと判断されたんじゃないか。まあ、神様でも仏様でも天でも地でも太陽でもいいがな」
「はい、私もそう思います。だから、死んだ後もせっせと働かされているのだと思います」
「キヨミズさんに身内はいないのか?」
「…はい、おりません」
「だったら、戻れないのか?」
「この仕事が一段落したら戻れそうな気もしますが」
「どこまでが一段落か知らんが、あんたはもう十分働いただろ」
「そうですね。しかし、こればかりは私の一存で決められ…」
 そのとき、後ろから猛スピードで小型馬車がやって来た。
「早いな。また歓喜馬車か?」マサが振り向きながら言う。
 小型馬車は瞬く間にキヨミズの馬車を追い越して行った。
 一人の老人が乗っていた。その思い詰めたような表情からして、歓喜馬車ではないと思われた。付いていたカンテラは三つ、もはや、助かる見込みがない人が乗る馬車だった。
「いつかこの仕事を終えて、できれば元の世界に帰りたいのですがね。ただ、仕事を終えたとしても、お迎えの光帯が飛んできてくれないので難しいかも…。――マサさん、どうされましたか?」
 マサからの返事はなかった。
 キヨミズが心配して馬車内を見てみたが、マサはちゃんと座っている。
 ただ、目を閉じて何かを考えていた。

 シャン、シャン、シャン…。 
 今度は反対車線からやってくる馬車がだんだん近づいてくる。先ほどの死亡が決定した三つカンテラと違い、生還を果たした一つカンテラの馬車だ。鈴の音と馬のひづめの音と車輪が回る音がしだいに大きくなり、やがて、こちらの馬車の走る音と交わる。
 ドドーッ!
 二台の馬車が交差した。風圧で車体が揺れる。四頭の馬の足音が意外と高い音であたりに反響する。馬車の窓から半分身を乗り出していたマサの体も風で押された。
 馬車が遠ざかっていく。年配の女性が二人で乗っていたようだが、暗くてよく分からなかった。だが、確かにカンテラの数は一つの生還馬車だった。
 
「キヨミズさんよ、俺は帰るよ」マサがぼそっと言った。
「何か心変りがございましたか?」
「さっき追い越して行ったカンテラ三つの小型馬車に乗っていたのは、俺のオヤジだ」
「と言いますと…」
「俺の親分だ。これで俺に光帯が飛んで来ない理由が分かった。オヤジは死んだんだ。他の組員はともかく、オヤジから飛んで来ないのは、忙しいからかと思っていたのだが、死んだオヤジは俺に光帯を飛ばせなかったんだ」
「そういうことでしたか」
「オヤジは確かに高齢だったが、命にかかわるような持病はなかった。おそらく、オヤジは敵対する組に殺されたんだ。俺がしくじったから、報復として殺されたんだ。親を殺されて黙ってるわけにはいかない。ましてや、俺のせいで殺されたとなるとな。だから、俺はオヤジのカタキを取るために戻る。――で、その方法を考えていたのだが…」
 マサは立ち上がった。
「キヨミズさんよ、怒らないでくれ」
「マサさん、いったい何を…?」
 マサはドアを開けると外に出た。揺れる馬車にしがみつきながら後ろに回り、一つのカンテラを手に戻って来た。
「どうだ。これで四角い提灯は二つから一つになっただろう。生還できた人が乗る馬車に早変わりだ!」

 マサは何かが起きると期待して待った。キヨミズは困惑の表情を浮かべている。
 しかし、馬車には何事も起こらず、今まで通りに速度を緩めることなく、ましてやUターンすることもなく、走り続けている。
「キヨミズさんよ、カンテラとやらを外してもダメなのか?」
「分かりません。今までそんなことをした人はいませんから」
「…だろうな。みんなは俺と違って、お行儀がよろしいからな。――もし、あんたがこの件で何かの咎めを受けたなら、俺の名前を出してくれ。マサこと正田正人が勝手にやった。止められなかったと言えばいい。全部、俺の責任だ。咎めを受けるとしたら俺の方だ。――くそったれ!」
 マサは窓からカンテラを投げ捨てた。
 それは道路に激突して燃え上がったが、すぐに小さくなり、やがて見えなくなった。
 カンテラが一つになった馬車が暗い道を行く。
 乗客はマサ一人。

「マサさん、ここから道が変わります。しばらく、違う世界に入ります」
 腕時計を睨み付けていたマサだったが、キヨミズの声に窓を開けて外を見た。
 今までよりも辺りが暗くなったような気がする。
 空気も冷たく重く変わったような気がする。
「この地域を抜けると、またなだらかな道に戻ります。それまでの辛抱です」
「それはどのくらいの時間、続くんだ?」
「まちまちです。長かったり、短かったりします」
 マサは窓から真っ暗な道路を見下ろした。
 今までとは違って、黒っぽく、湿っぽい道に見えた。
「キヨミズさんよ、違う世界とは何だ?」
「――奈落です。そこには奈落の住人と呼ばれる奴らが住んでます」
「ゾンビみたいな連中か?」
「いえ、もっとひどいです」
「ゾンビよりひどい奴らがいるのか! どうなってるんだ、この世界は。――で、落ちたらどうなるんだ?」
「分かりません。落ちて帰ってきた人はいないと聞いております」

 マサはもう一度、顔を出して道路を見た。まるで、どす黒い川が漂っているような道路が続いていた。その川の上を馬車は滑るように進んでいる。馬車は浮遊しているのか?木の車輪を見てみるが、ちゃんと回転している。しかし車輪は馬車の下部とともに、跳ね上げた泥で真っ黒になっていた。
 こんな気持ち悪い所に人が住んでいるのか?
 何を喰ってるんだ?
 何が楽しいんだ?
「キヨミズさんよ、その住人も人を喰うのか?」
「いいえ。自分たちの世界に引きずり込むだけです」
「それだけでも十分気持ち悪いな。いっそのこと喰われた方がいいんじゃないのか。できれば、馬車をなるべく早くぶっ飛ばしてくれるかい」

 馬車のスピードが急に増した。
 二頭の馬はそれぞれ一声ずつ鳴くと、全身の筋肉をフル稼働して、今までよりもさらに力強く駆け出した。馬もこれからどういう世界に差しかかるのかを知っているようだ。
「どうなっているんだ?」マサは不安そうに訊いた。
「?まっていてください」キヨミズが穏やかに答える。「何箇所か奈落の世界があります。ここは特に険しい場所です。早急に通り過ぎないと大変なことになります」
「えっ!?」
 マサはもう一度身を乗り出して道路をのぞき込んだ。
「いや、あまり見ない方が…」
 しかし、キヨミズの忠告は遅かった。
 マサが見た光景はきっと夢に出ると思った。もちろん、いい夢ではなく悪夢の方だ。
 道路からは細くて青白い手がニョキニョキと生えていたのだ。
 おいでおいでをする手。何かを握り締めた手。虚空をつかもうとする手。ブルブル震えている手。閉じたり開いたりしている手。硬直している手。――すべての手が青白い。
 ゆら、ゆら。ひら、ひら。
 まるで植物のように暗い道路で無数の手が揺れている。
 青白い手が作る道を馬車は行く。
 前方を見ると、まだまだたくさんの手が二人を待っている。
 これからも奈落の世界はつづくようだ。
 やがて、青白い手は馬車を止めようと、回転している車輪に手をかけだした。
 
「奈落の住人たちが仲間を誘っているのです。奴らは仲間が何人いようと寂しいのです」キヨミズが静かに言う。
 高速で回転する車輪は無数の手をブチブチと引きちぎる。
 千切れた手が、指が、宙に舞う。馬車のすぐ横にまで跳ね上がってくる。
 マサはあわてて座席に戻った。
 窓の外では血だらけの手や指がピョンピョン跳ね上がっている。
「タイミングが悪すぎるだろ」マサは腕時計を見ながらつぶやく。
「何がでしょうか?」
「いや、こっちの話だ」

奈落の世界を馬車は行く。手がニョキニョキ生えた黒い道がずっと続いている。
馬車の後方で切断された手と指が跳ね上がっては、地面に叩き付けられている。
青白い手が何本も生えている向こうには、血と手の残骸が点々と続いている。
 何度も腕時計を確認していたマサが立ち上がった。
「キヨミズさんよ、まだ奈落は抜けないのか?」
「はい、まだのようです」
「忘れものはないかな?」マサは座席を見渡す。「手ぶらで乗ってきたのだから、何もないわな」
「キヨミズさんよ、世話になったな」
「いいえ、こちらこそお世話になりました。しかし、まだ先は長いですよ」
「ああ、だが、俺には時間がないんだ。この馬車から、いつ三つカンテラの即死馬車に乗り換えるように言われるのか分からんからな」
「はい、それは私にも分かりませんが」
「そのときは、自分の意思なんか通用しないだろ。最初、馬車に乗るときがそうだった。俺は必死に抵抗したんだ。だが、勝手に体が動いて、馬車に乗せられた。それに、走り出したら止められないと言ったな」
「はい、おっしゃる通りです」
「奈落がいつまで続くか分からないのなら、俺はこのあたりで失礼する」
「マサさん、いったい何をなさろうと?」
「十三分間だな?」
「――マサさん、それはダメです!」珍しくキヨミズがうろたえる。
「キヨミズさんよ、俺にはこれしか残されてないんだ」
「しかし、責任は取れません!」
「あんたの責任なんかどうでもいい。俺が取るから」
「いや、それよりも、どうなるか分かりません。帰れるのかどうかも分かりません。なによりも、今まで実行した人はおりませんから。だから、マサさん…」
「キヨミズさん、見ないふりをしてくれ。一生のお願いだから。といっても、一生はもう終わったようなものだが」

 ドドーッ!
 反対車線から来た馬車と交差する。風圧で車体が揺れた。なるべく早く奈落の世界を通り過ぎようと、お互いの馬車が全速力で走っていたため、いつもより揺れは大きい。マサは腕時計で時間を確認した。これが最終チェックだった。やがて、マサは足の屈伸を始めた。傷だらけだった足もなぜかきれいになっている。だが、疲労は感じる。
「キヨミズさんよ、肉体がないのに体が鈍るのはおかしいよな」
 キヨミズからは返事がないが、かまわずマサは続ける。
 キヨミズが納得していないことは分かっている。
「俺は学生時代、陸上部だったんだ。走り高跳びをやってたんだ。因数分解と同じで、そんなもの将来は何も役に立たないと思ってた。ところが、今は高跳びをやっててよかったと思う。こんなときに役に立つとはな。努力は裏切らないというのは本当だぞ、キヨミズさん!」

 マサは馬車のドアを開けた。生ぬるい風が吹き込んでくる。なるべく下を見ないようにする。ウジャウジャとした青白い手を見る趣味はない。手しか見えていないため、ゾンビより気持ち悪い。手以外はどうなってるのか? 頭は付いているのか? 体は存在しているのか?――想像したくもない。
 反対車線からやってくるのは生還を果たした馬車だ。その馬車は正確に十三分毎にやって来る。マサは腕時計でそのことを何度も確認した。キヨミズがうろたえたところからすると、それを知っていたようだし、十三分間というインタバルも確かだということだろう。

 マサは反対車線から来る馬車と腕時計を交互に見ながらタイミングを計る。走り高跳びの経験を生かして、その馬車に飛び移ろうというのだ。屈伸運動をしたおかげで足も温まった。こちらの準備は万端だ。ただ、失敗して落下すると、奈落の住人に連れ去られてしまう。どんな世界かはキヨミズも知らないらしい。落ちて帰ってきた人はいないらしい。だから確かな情報はないのだろう。

 だが、マサは跳ばなければならない。
 カンテラを外して一つにしたが、馬車には何の変化も起きなかった。
 向こうに帰るとしたら、無理にでも帰還する馬車に向かって跳ぶしかない。
 オヤジのカタキを打つために元の世界に戻ってやる。
 あまりいいことがなかった人生の最後に一花咲かせてやるんだ。
 デカい花を咲かせてやるんだ。

「マサさん、私からあなたに餞別があります」キヨミズの声がする。
「なんだ、見ての通り、俺は忙しいんだ」
「ならば、私の独り言だと思って聞いてください。跳び出すタイミングは、こちらの馬の鼻先と、あちらの馬の鼻先が重なった瞬間です」
 マサはギョッとした目でキヨミズの背中を見る。
「なんで、アンタはそんなことを知ってる?」
 キヨミズは答えない。だが…。
「キヨミズさん、ありがとよ。恩に着るぜ」

 反対車線から二つの丸いライトを照らして、六人乗りの大型馬車が轟音をあげて近づいてきた。ラッキーなことに大型だ。大型なら飛びついて掴まる箇所も広いだろう。
――予定通り、十三分間だ!

 二十メートル…。
 十五メートル…。
 十メートル…。
 五メートル…。
 三メートル…。
 双方の馬の鼻先が重なった。
「キヨミズさん、また会おうや!」
 マサが反対から来る大型馬車に向かって跳んだ。
 走り高跳びの経験を生かしたきれいなフォームで跳んだ。

 二台の馬車の距離は二メートルもないだろう。跳ぶと一瞬で届く距離がマサにはとても遠くに感じられた。そして、とても長い時間、宙に浮かんでいる感じがした。全力で跳んだはずだが、少し距離が足らなかった。体に衝撃を感じた瞬間、右手が馬車の一部に触れた。それがどの部分かは分からないが、離さないように力を込めた。
 くそっ、届いたのは腕だけかよ!
 俺の握力、踏ん張れよ!
 幸いなことに左手もどこかを掴んでいた。上半身は馬車に密着している。だが、下半身は宙ぶらりんだ。なんとか両手で引き上げようとするが体が重い。くそっ、中年太りに良いことなんか何もない。
 だが、メタボ対策なんか俺の性に合うわけない。何がコンニャクダイエットだ! 何が半身浴だ! そんなことやってる反社はおらんぞ!
 馬車にしがみついてジタバタしていると、何者かに足を掴まれた。
 
 キヨミズが振り向くと、マサは奈落の底に引きずりこまれようとしていた。両足に何本もの青白い手が絡みついている。マサは馬車の一部にしがみついて、懸命に体を支えている。やがて、奈落の住人の手は下半身全体にまで伸びてきた。懸命に振りほどこうとするが、無数の手は離れてくれないようだ。マサは足をバタつかせる。しかし、あまりバタつかせると、体を支えている両手に負担がかかってしまう。
「しつこいな、この野郎。お前ら、ゾンビよりしつこいぞ!」
 馬車はマサと奈落の手を引きずりながら疾走していく。
「くそっ、まずいな。このままじゃ落ちる!」

 闇が馬車を包み込もうとしたとき、マサは右手をがっしりと掴まれて、馬車の御者台に引き上げられた。そこには髭を生やした大柄な御者が座っていた。
「おお、アラシヤマさんかー!」叫びながら、足にまとわりついていた手を蹴散らす。「これはありがたい、助かったぜ!」
 マサは間一髪のところを御者のアラシヤマに助けられた。
「あなたは、いつぞやお会いしたマサさんですね」
「ああ、いつぞやお会いしたマサさんだ。ちょっくら、お邪魔するぜ。――ところで、あの三人はどうなったんだ?」
 マサはさくら、花ちゃん、レンくんのことを尋ねる。
「はい、無事に元の世界にお送りいたしました」
「おお、そうかい。ありがとよ。また新たな人生を送るってわけだな。だが、レンくんに焼肉はおごれなくなったなあ」

 マサは御者台の横にしがみついて、奈落の住人に掴まれた足をさすりだした。
 何本もの手に掴まれたが、どうやらケガはないようだ。
「アラシヤマさんよ、これがルール違反だと分かってる。だがな、俺にはこうするしかなかったんだ。キヨミズさんにも止められた。だから、あの人に罪はない。もちろん、アンタにも罪はない。全部、この俺が悪いんだ。閻魔大王か誰かに訊かれたら、正田正人という輩が勝手に飛び移って来たと言ってくれ」
「はい、承知いたしました。キヨミズさんにも迷惑がかからないようにいたします」
「あんたも真面目そうだが、戸籍係か?」
「戸籍係と申しますと?」
「いや、何でもない。こっちの話だ」
 マサは疾走する馬車の側面を御者台から座席へと、慎重に横歩きしながら移動していく。
 
 小さくなっていく馬車を振り向いて見つめていたキヨミズも、マサがアラシヤマに助けられたことを確認して、前に向き直った。
「まったく、マサさんは最後まで世話の焼ける人だ」

 マサは息を切らしながら、馬車のドアを開けて中に入った。
 いきなりの闖入者に六人の乗客は驚く。
「いやあ、悪いな、皆さん。ノックもしないで入って来て。おまけに手土産もなくて」マサは全員を見渡すが、知っている顔はいない。「俺の名は鉄砲玉のマサという。アラ還のしがないチンピラだ。だが、カタギには手を出さないから安心してくれ。弱気を助け、強気をくじく昔気質の極道もんだ。あの世までの道中、ご一緒させていただく。よろしく頼むわ。――俺からの口上は以上だ」

 元の世界は「あの世」でいいのか? それとも「この世」か? 死んでから行く世界が「あの世」だから、あの世からすると「あの世」だろうな。まあ、どうでもいいか。とにかく、帰りの馬車には乗れた。体に異常はなさそうだ。下半身にケガはなかったが、奈落の住人に掴まれた感覚がまだ残っている。
 そのうちなくなるだろう。
 ゾンビといい、奈落の住人といい、気味の悪い奴らだった。
 マサは自分の足元を見る。片方の靴がなかった。
「住人の奴ら、持って行きやがったか。あの靴は高かったんだがなあ」

 満席で座れないため、マサは中腰になって立つ。
 つり革を探したが、あるわけない。
 補助席もない。観光バスじゃない。
 一人の若者が声をかけてきた。
「よろしかったら、どうぞ」席を譲ってくれる。
「おお、悪いな」定員オーバーはマサのせいだが、遠慮なく座る。
「兄さん、いい体をしてるな。何かやってたのか?」
「はい、ラグビーをやってました」立ち上がった若者は大きい。
「そうか、俺の組に来いよ。最近はヤクザの成り手がいなくてな。人材不足なんだ」
 マサは馬車の中でリクルート活動を始める。
「いえ、けっこうです」
「そうか、そりゃ残念だな。そのガタイならボディガードにも向いてるんだがな。鉄板入りのブリーフケースよりも役に立ちそうだ。――ところで、何をやったんだ?」
「歩いていて、車に轢かれました」
「どっちが悪いんだ?」
「それは向こうです。ボクは横断歩道を青信号で渡ってました。相手は信号無視で飲酒運転でしたから」
「それは大変だな。医療費とか損害賠償とか何とかいろいろかかるだろ。俺が仲介して、うまくまとめてやろうか?」
「いえ、それもけっこうです」
「そうか。金になると思ったんだがな。兄さんはガタイの割には遠慮深いな。最近はヤクザも不景気でな。俺もときどき、ウーバーイーツのバイトをやってんだ」
「はあ、そうですか」
 若者は立ったまま困惑している。
「それにしてもよ。俺も席を譲られるお年頃になったか。まったく悲しいもんだなあ。俺も若い頃は…」
 マサはブツクサと独り言を言うが、誰もが関わりたくないと思っているので、聞こえないふりをしている。そんなことを気にすることもなく、マサの迷惑な自己紹介は続く。
 七人を乗せた馬車が、あの世に戻るために闇の中を疾走している。

 マサが強引に脱出して無人になった馬車がゆっくりと走っていた。乗客がいなくなり、回送用になってしまった馬車にカンテラは付いていなかった。もともと二つ付いていたカンテラもマサがもぎ取ったため、一つになったはずだ。だが、カンテラは消えてしまっていた。あの世とこの世の狭間にあるこの世界ではいろいろと不思議なことが起きる。
 御者台で手綱を引いていたキヨミズが二頭の馬に話しかけた。
「キンカクよ。ギンカクよ」
 名前を呼ばれた二頭の馬がびくっとする。
「マサさんが行ってしまったな。しかし、このことは黙っておいてくれよ。途中で乗客を降ろすことは堅く禁じられているからな。私は何も見なかったことにしよう。だから、キンカクよ。ギンカクよ。おまえたちも、何も見なかったことにしてくれよ」
 キヨミズはニヤリと笑った。
 今、この馬車を前方から見た人がいたら驚いただろう。
 キンカク、ギンカクと呼ばれた二頭の馬もピンクの歯茎を見せてニヤリと笑ったのだから。
 乗客のいない回送馬車は吸い込まれるように乗り換え地点へ入って行った。それはキヨミズの意志ではなく、何者かの意志が働いているようだった。御者といえども、勝手に馬車を動かせないからだ。誰の意志かはキヨミズにも分からない。馬車の後部には、いつの間にか三つのカンテラが出現していた。次は、もはや命が助からない人を迎えに行くのだろう。
 キヨミズは馬車を回転させると、現世に向かって駆け出した。
「キンカクよ。ギンカクよ。マサさんの最後の言葉を覚えておるか?あの人は、さようならと言わずに、また会おうと言った。分かるか、この意味が。次に私と会うとしたら、この馬車の中でだ。あの世に運ばれるときだ。つまり、マサさんは死ぬために、あの世に戻って行ったのだよ。それが良いことなのか、悪いことなのか、私には分からない。しかし、ここにマサさんという人がいた。この馬車に乗っていたことは確かなんだよ」
 
「また暴力団の抗争か? 撃ち合った三人の組員が即死」
十四日の午後六時半ごろ、市内のタヌジ公園で近所の住民から銃声のようなものを数回聞いたと通報がありました。警察官が駆けつけたところ、三人の男性が銃弾を受けて倒れており、病院に運ばれましたが、全員の死亡が確認されました。捜査関係者によりますと、死亡したのは暴力団桃組の正田正人組員(六十)で頭部を拳銃のような物で撃たれており即死。敵対する二人の組員も、それぞれ腹部と頭部を撃たれ、いずれも即死状態であり、身元の確認を急いでいます。そのうちの一人は組長との情報もあります。また、一匹の黒い犬も倒れていましたが、命に別状はないようです。警察は先日の組長殺害事件の報復ではないかとして、捜査を進めています。

 最初に回復したのは聴力だった。
 お父さんの声が聞こえてきたのだ。
「さくら、聞こえるか。早く目を覚ましてくれ。お母さんがな、大変なことになったんだ。お父さんは困ってるんだ。早く戻って来てくれ」
(えっ、お父さん。お母さんがどうかしたの?)
 口を動かしたつもりだが、動いてないし、声も出てこない。
 お父さんはベッドの脇に座り、事故後、意識が回復しないさくらの顔を覗き込んでいた。さくらは酸素マスクを装着していて、マスク越しに見ると、眠っているように穏やかな顔をして横たわっていた。二本の点滴チューブが腕につながれて、液体がポトリポトリと瀕死の重傷を負っているさくらの体内に吸収されていっている。他にも体からは数本のコードが伸びていて、ベッドの脇のモニターや装置類と繋がっている。モニターに映る数値が音もなく変わり、赤と緑の波線が緩やかに動いている。一定の数値を下回るとアラームが鳴り、昼夜を問わず、看護師が駆けつけてくれることになっている。
 
 廊下に誰かが走る音が響く。病院内で走ることは禁じられている。走るときは、よほどの緊急時だ。その足音はこちらの病室に向かっている。人には予感というものがあるが、得てしてそれは当たらない。しかし、悪い予感となると、たちまち的中してしまう。足音がドアの前で止まったとき、お父さんは顔面蒼白になり、パイプイスから立ち上がった。
「お父様、至急、奥様の病室にお越しください!」
(かすみさんの声だ! お母さんもここに入院しているの!? かすみさん、大変なことって何? ねえ、教えて、かすみさん!)
 目が見えないさくらは頭の中で絶叫した。

 次に回復したのは視力だった。
 病室の中に飾られている千羽鶴が見えた。クラスメイトと先生が折ってくれていたものだ。光帯から覗いて見たときには未完成だった。あれからみんなで折りつづけてくれて、千羽になったのだろう。おそらく、これだけではないはず。まだ、私の意識が戻らないのだから、千羽に達したら、また持ってきてくれるのだろう。みんなでいったい何羽折ってくれているのだろう。どれだけ祈り続けてくれるのだろう。
 お父さんは出て行ったようで誰もいない。部屋中を見渡したが、お母さんがどうなっているのか、手がかりはない。顔の横にナースコールが置いてあった。せっかく、こちらの世界に戻って来れたというのに、まだ体は動かせない。霊体と肉体がまだうまく連動していない気がする。ほんの数センチほどズレて、くっ付いている感じだった。
 
 自分の命は助かったというのに、お母さんが大変だなんて。
 お母さんに何が起きたのだろう。
 しばらく待ってみるが、体にはまったく力が入らず、耳と目しか機能していないので、どうなっているのか分からない。
 何とか知る方法はないか?
 さくらはまだはっきりしない頭で懸命に考えた。
 そうだ。もしかしたら、霊体だけを分離して動かせるかもしれない。
 幽体離脱だ。
 双子のお笑い芸人がやっていたけど、徳さんたちと一緒に馬車に乗っている間、私たちはずっと霊体だけの存在だったではないか。肉体を動かすときとは少し違う感覚で体を動かしていた。体を動かそうという指令が脳に伝わる前に、霊体が動くという感じだ。物理的に脳がないのだから、そうなるのだろう。
 
 さくらは天井を見つめたまま、あの感覚を呼び戻そうと懸命にもがいた。
 霊体と肉体が完全に密着していないので、できるはずだ。
 早くしないとお母さんが…。
 体中がギシギシときしみ始めた。
 天井が目の前に迫ってきた。
――浮いた!
 やがて、肉体から霊体が完全に抜けて、自分自身が病室の天井付近に浮かんだ。
 私はベッドの上に横たわるもう一人の自分を見下ろしていた。
 もう一人の自分はパジャマ姿だったが、今、浮かんでいる私は制服を着ている。
 事故に遭ったときの姿に戻るようだった。

 お父さんは、さくらと同じ病棟内にあるお母さんの病室に向かって走っていた。さくらの病室を飛び出したとたん、廊下で待機していた数人の親戚に囲まれた。事故の知らせを受けて、各地から集まってきてくれたのだ。
「どうした?」
 訊いてきたのはお父さんの兄、つまり、さくらのおじさんだ。
「よく分からんが、妻の身に何か起きたらしい」
 お父さんは簡単にそう言うと、駆け出した。何人かの親戚も後を追う。その中にはお母さん方の親戚もいた。小さな子供たちも来てくれていた。
「私たちはさくらちゃんの病室に残るから!」
 親戚たちはお母さんの病室とさくらの病室の二手に分かれて、事態を見守ることにした。

 妻に何が起きたのか、かすみさんに尋ねようとしたが、怖くて訊けなかった。
 最悪のケースが頭をよぎる。
 まさか、さくらより先にお母さんが…?
 お父さんの前をナースのかすみさんが走っている。さくらが大好きで憧れている近所のお姉さんだ。将来はかすみさんのようなナースになりたいと、いつも言ってたっけ。
 ふいに、さくらの笑顔が浮かぶ。
 お父さんは走りながら思った。今まで何の問題もなく、幸せに暮らしていたのに、なぜこんなことが起きるのか。娘につづいて、妻までも事故に遭うなんて。ドラマでも見ているような錯覚におちいる。いや、ドラマでもこんな無理な設定はない。事実は小説より奇なりというが本当だ。こんな奇怪なことが起きているのだから。
 不幸というものは立て続けに起きるものらしい。よくニュースで、事故や火事に遭った家族が出てきて、気の毒に思うことがあった。しかし、まさか、自分の家族がこんな目に遭うとは夢にも思わなかった。
 もう、さくらとお母さんの声は聞けないのか。
 もう、さくらとお母さんの笑顔は見れないのか。
 お父さんは泣きそうになりながら、廊下を走っていた。

 不眠不休でさくらの付き添いをしていたお母さんは、久しぶりにお風呂に入って、着替えをしようと家へ戻る途中、横断歩道で自転車と一緒に車にはね飛ばされた。お母さん側の信号は青だった。いつもすばしっこいお母さんが避けられなかったのだから、よほど疲れていたのだろう。さくらが入院しているのは、二十四時間看護をしてくれる病棟だったから、付き添う必要はなかった。病院から家までは近い。緊急の際はすぐに連絡をすると言われていたが、家にいても、さくらのことが気になって何もする気が起きず、病室に戻ってきて、ずっとそばにいた。かすみさんには、そろそろ休むようにと言われて、その日の夜に、お父さんが交代に来てくれる予定だったのだが…。
 事故に遭ったお母さんは、さくらにつづいて意識不明の重体に陥った。
 そして、今、容態が悪化した。
「ご主人、万が一のために覚悟をしておいてください」
 ドクターが冷静に告げた。
 
 肉体からふたたび抜け出すことができたさくらの霊は、市民病院の正面玄関の上空に浮いていた。真下に二頭立ての大型馬車が止まっている。さくらがここから乗ったのと同じ、あの世行きの馬車だ。その馬車に、今、一人の女性が乗り込もうとしている。緑色のダウンジャケットを着た中年女性。さくらのお母さんだった。
「――お母さん!」
 さくらは頭上から大声で叫んだが聞こえない様子だ。
「それに乗ったらダメ!」
 馬車が迎えに来たということは、お母さんは死んじゃったのだろうか。
 あのダウン姿は…。外出中に事故に遭ったのかもしれない。
「お母さん、こっち! こっちを見て!」
 私のときと同じだ。自分の意思に反して、勝手に体が動くのだろう。私の声は聞こえないようだ。最初は不思議そうにあたりを見渡していたお母さんだったが、御者が手を上げて合図すると、それに答えるように軽く頭を下げ、吸い込まれるように乗り込んでいった。いつもの手順だ。
「お母さん、待って! 行かないで! 私はここにいるから!」
 さくらの声もむなしく、馬車は走り出した。

 シャン、シャン、シャン…。 
 お母さんを乗せた馬車が行ってしまう。叫んでも止まってくれないため、さくらは馬車の前に回り込んで止めようと、地面に降り立った。しかし、二頭の馬は、さくらを見て、歯をむき出しにして突進してきた。
 そうか、この馬は私の姿が見えるんだ。楓くんが動物は霊が見えると言ってたっけ。
 きっと、この御者も私が見えてるんだ。会ったことがない青白い顔をした若い御者だった。無表情にさくらの方を見ている。キヨミズさんかアラシヤマさんだったら、融通がきいたかもしれないのに…。
「止まって!」
 さくらは両手をあげて、通せんぼをしたが、御者が振り上げた鞭に打たれた馬は、さらに力強く地面を蹴り、馬車はさくらの霊体をすり抜けていった。
 お母さんが行ってしまう…。
 やがて、馬車は市民病院の敷地から道路へ出て大きく左折し、二十メートルほど進んで、ダダッと飛び上がった。少しだけ積っていた雪片も一緒に舞い上がる。
 それでも、さくらは追いかけた。何とか、すがり付いてやろうと馬車の後を追った。
 突然、何かに体が弾き返されて、地面に倒れ込んだ。
 その瞬間、分かった。
 この地域からは勝手に出れないんだ。
 何らかの境界線が引かれてるんだ。
 突破するには、あの馬車に乗らないとダメなんだ。
 そのための馬車なんだ。
 
 さくらは大好きなお母さんに何もしてあげることができず、小さくなってうずくまった。自分の無力さに愕然として、立ち上がれない。せっかく幽体離脱してきたのに、もう追いかけられない。真冬の寒気が背中を包むような気はする。しかし、肉体から離れた霊体は寒さを感じてくれない。あんなに嫌いだった冬の寒さを感じることはできない。
 さくらは、ふと、空を行く馬車の後姿を見上げた。
 去っていく馬車が下げているカンテラの数は二つだった。
 まだ、希望は残っていた。

 消毒液といろいろな薬品が混ざったようなニオイがする。嗅覚も回復した。 
 自分の肉体に戻ったさくらだったが、聴覚、視覚、嗅覚が回復しただけで、まだ、手足を動かすことも、声を発することもできずにいた。以前、一度だけ金しばりにあったことがある。目は見えていたし、音も聞こえていた。同じことが起きている。あのときは、昼寝をしていたんだっけ。近くでお母さんが掃除機をかけていたので呼ぼうと思ったけど、全然声を出せずに、どうなるかと思った。確か、手の先から少しずつ動かしていって、はずしたんだっけ。
 早く体を動かさないと、早く追いかけないとお母さんが死んじゃう。
 さくらは意識を指の先に集中して、少しずつ動かしてみた。
――なんとか動きそうだ。さらさらとしたシーツの感覚が分かった。触覚も戻りはじめたようだ。お母さんの顔を思い浮かべながら、懸命に指先を動かす。馬車のカンテラは二つだった。ということは、まだ戻れる可能性がある。お母さんの肉体は生死の境をさまよってるはずだ。今なら、お母さんを助けられる。私はこうして帰ってきた。だから、お母さんも帰って来れるはずだ。ぜったい、私がお母さんを連れて帰るんだ!
 さくらは、さっきはずした肉体と霊体を、今度は懸命にくっつけようとしていた。
 お母さんを助ける方法は、たった一つしかなかったからだ。

 お父さんはベッドの脇に腰をおろして、苦しそうに荒い息をするお母さんの顔を見つめていた。さくらと同じように、腕に2本の点滴をして、体につながれた数本のコードが装置へ伸びている。顔には酸素マスクをしていた。ベッドの脇に置かれているモニター類も、さくらの病室にあるものと同じだった。
 こんなところまで、親子で似なくてもいいのに…。
 嫉妬するくらいに仲の良かった二人。
 近所の人に友達親子だと言われて喜んでいた二人。
 なにも、二人仲良く不幸になることはないだろう。
 お父さんは運命を呪った。
 お医者さんからは覚悟をしておくように言われた。
 だが、覚悟なんかできない。なにをどうすればいいのかも分からない。
 突然、お葬式のシーンが浮かんだが、すぐに打ち消す。悪いことは考えないようにする。今夜は一晩中、親戚の連中と一緒に、さくらとお母さんの病室の間を行ったり来たりすることになるだろう。
 
 さっきまで、一緒に付き添ってくれていたかすみさんは、何か変化が起きたらすぐにナースコールを押してくださいと言い残して出て行った。ベッドの頭の方には、担当医師の名前とともに担当看護師としてかすみさんの名前が書いたプレートが取り付けてある。しかし、夜間は看護師の数が不足する。何人もの患者さんを担当しているので、いくら親しいからといっても、付きっきりというわけにはいかない。付いてもらっても、何もしてもらえることはない。ただ、回復を待つだけだ。
 プレートの横の壁に、長方形で中央にオレンジ色のボタンが付いたナースコールが掛けてある。お父さんはそれをチラッと見たが、押すことがないことを祈った。

 体中にビクンと衝撃が走り、体が動かせるようになった。
 肉体と霊体がしっかり連結したらしい。
 とたんに、さくらの全身を苦痛が襲う。息苦しい。意識して大きく息を吸い込まないと呼吸ができない。そして、呼吸をするたびに胸と手足に激痛が走る。体が重く、だるく、熱い。かなりの熱を帯びているようだ。
 かろうじて命を取りとめた重体の肉体――私の体はこんなに壊れていたのか。
 車とぶつかって、宙に放り出されて、地面に叩きつけられたんだ。これくらい壊れていても不思議ではない。飛んで行って対向車に轢かれたスマホはぺしゃんこになっていた。私がぺしゃんこになっていてもおかしくなかった。それほど大きな事故に遭ったのだ。
 さくらは首を横に向けた。小さな台の上にサインペンが置いてあった。痛みに耐えながら右手を伸ばし、ペンを掴んだ。紙を探すが見当たらないので、震える手で左手の甲にメモをした。ベッドの横に設置された機械が規則正しい音を立てて、口につながれた酸素マスクに酸素を送り込んでいる。そのお陰でかろうじて呼吸ができている。
 私は今、この人工呼吸器に生かされている。
 
 さくらは徳さんの言葉を思い出していた。
“家族や血縁関係にある光帯はやがてまとまって一本になるのだよ。一+一が二になるのでなく、三にも四にもなるというわけだ”
 お母さんを助ける方法は一つしかない。
 お母さん、待ってて。今、そっちに行くから!
 
 さくらはサインペンを離すと、激痛をこらえながら、手を動かして、指先に巻いてあったコードをはずし、体につながっているチューブとコード類をすべて引き抜いて、振り回した。モニターの数字がゼロになり、すべての波線が直線に変わった。点滴液を撒き散らしながら、チューブが踊る。飛び散った液がシーツに染みを作っていく。たちまち、管にエアーが入り、アラームが鳴り出した。
 つづいて、一度息を吸い込むと、足を動かして、ベッド脇の装置を力いっぱいに蹴りあげた。ドミノのように数台が順番に派手な音をたてて倒れ、点滴のビンが砕けて、それぞれ違うアラーム音を鳴らし始める。キャスター付きの装置が滑り、壁に激突して倒れる。装置に接続されていた白いホースが外れ、蛇のようにうねり、圧力で液体が天井にまで跳ね上がった。
 手足を少し動かしただけなのに激痛が全身を走る。
 くいしばっている奥歯がギシギシと音を立てる。
 さくらは最後の力を振り絞って、両手で顔面に装着されている酸素マスクをもぎ取ると、薄れゆく意識の中で、すぐ横に置いてあるナースコールのオレンジボタンを押した。
「かすみさん…」

 あんなに仲が良くて、いつも楽しそうな家族に、なぜ、つぎつぎとこんな不幸が襲うのか?
 かすみは、私もかすみさんのようなナースになりたいなとニコニコしながら話すさくらと、その横でいろいろ教えてやってくださいねと、うれしそうに言うお母さんと、笑ってうなずいていたお父さんの顔を思い浮かべていた。しかし、今は青い顔をしながら、二つの病室の間を走り回っているお父さん。お父さんのことを思うと、いつも笑顔の表情しか浮かんでこない。それが今は…。
 お父さんの笑顔が戻るのは、いつになるのだろう。いや、お父さんに笑顔は戻るのだろうか。二人つづけての事故。担ぎ込まれたさくらちゃんと、お母さんの血の気を失った顔。呼びかけても反応しない顔。眠っているかのような顔。仲のいい親子が、仲良く瀕死の重体に陥るなんて、あまりにもひどすぎる運命。そして、二人の運命に翻弄されている可哀想なお父さん。
 
 久しぶりにイスに座ったかすみは、他の患者さんのスケジュールを確認しようとしたが頭に入らず、同じ町内にあるごく平凡な家族に訪れた不幸を、いまだに信じられない気持ちで思い返していた。
 そのとき、深夜の静かなナースステーション内に、突然、アラーム音が響いた。つづいて、どこかの病室から何かが倒れて、ガラスが割れる音がして、廊下に反響した。
「電源異常です。装置停止のランプが点滅してます!」先輩ナースの叫び声がする。
「いったい何が起きたの!?」呼応したナースも叫んでいる。
 かすみは、新米ナースとはいえ、突然のことでパニックになりそうになる自分に腹が立った。しかし、冷静さを取り戻す時間はなかった。机の脚に自分の足をぶつけながら、あわてて立ち上がったとき、ナースコールが鳴った。
 再び、先輩の叫び声。
「かすみさん、出て!」
「はい!」
 駆け寄ろうとしたとき…、
(かすみさん…)
 コール受信機から、消え入りそうなさくらの声がした。

 運は味方してくれたとさくらは思った。
 ふたたび乗り込んだ馬車は、さくらの計算どおり、二つのカンテラを付けた二頭馬車であり、御者はキヨミズさんだったからだ。あまり話さない無愛想な人だが、お母さんを運んで行った青白い顔をした若い御者のように、まったく知らない人よりマシだろう。またキヨミズさんに当たるということは、この地域を担当しているのかもしれない。宅配便のような地域担当制が敷かれているのだろう。だが、この地域を抜けるときも、馬車に乗れば突破できる。以前のように弾き返されることはない。
「キヨミズさん、またお世話になります」と頭を下げる。
 キヨミズは手に持っている閻魔帳とさくらの顔を見比べた。
「あなたは何ということをやらかしたのですか」キヨミズがブスッとした表情で言う。こちらを非難する気持ちが感じられる。なぜ、馬車に乗ることになったのかが、閻魔帳には書かれているのだろう。
「キヨミズさん、一生のお願いがあります!」
 かまわずに、さくらは言った。
 
 今ごろ、かすみさんたちは私の体の治療をしてくれているはずだ。
 ごめんなさい、かすみさん。せっかく、治してもらって、良くなりかけた体なのに、また、ヒドイ目に遭わせてしまって。でも、お母さんを助ける方法は、これしかなかったから。私が瀕死の重体に陥って、もう一度生死の境をさまようしかなかったから。
 もう一度、死者を運ぶ馬車に乗るしかなかったから。
 かすみさん、本当にわがままですいません。
 私が死んじゃったら、カンテラが三つ付いた馬車に乗換えをさせられて、あの世へ一直線になってしまいます。もう戻れなくなります。
 そうなると、お母さんを助けてあげられなくなります。
 お母さんと私が死んじゃったら、お父さんは一人ぼっちになります。
 それだけは嫌なんです。私は二人とも大好きなんです。
 だから、許してください。私の体をお願いします!
 
 かすみさんが知らないこと。それは空を飛ぶ馬車のこと。二つカンテラの馬車に乗った人は生死の境にいる人。つまり、お母さんが生死の境にいる。しかも、とても危ない。お父さんはお医者さんから覚悟を求められた。それだけヒドい状態だということだ。
 かすみさんが知らないこと。それは光帯のこと。今、病院にはたくさんの親戚が来てくれている。お父さんと親戚の人たちが祈ることで、たくさんの光帯が馬車の元へ飛んで行くはずだ。でも、それでは間に合わない。お母さんが出す細い光帯は一本しかないからだ。これでは結びつきが悪い。太く大きくする必要がある。でも、お母さんも光帯のことを知らない。生きたいという思いを強く持ち、強烈に念じることで光帯が強靭になることも知らない。
 馬車の後を追いかけて来た光帯とすばやく、そして、確実に結合するには、もっと太くて大きな光帯が必要だった。さくらの出す光帯と合わせれば、それは可能なはずだった。
 
 さくらは徳さんの言葉を思い出していた。
“家族や血縁関係にある光帯は、やがてまとまって一本になるのだよ。大きくなった方がより早く、確実に結びつく。急を要するときなんかは、家族同士なら助かる可能性が高くなるのだよ”
 今が急を要するときだ。急がなければならない。
お母さんが向こうの世界に行ってしまう前に、私の光帯と結合させなくてはならない。早く、早く、お母さんが乗る馬車へ!
 
 シャン、シャン、シャン…。
 市民病院の正面玄関を出て、左折した馬車は静かに空中に飛び立った。さくらにとっては二度目の飛行だ。馬車が上昇するとともに、自分の胸には緩やかな高揚感が訪れた。この馬車がどういう役目の馬車か知っている。どこへ行こうとしているかも知っている。
何が何だか分からなかった一度目と違って、不安が少なくなったからだ。だが、安心はできない。大切なのはこれからだ。
 やがて、馬車は前方に出現した道に乗って走り始めた。
 しばらく駆けると、遠くに一台の馬車が見えてきた。
 まだ、小さくてよく見えないが、おそらくあれがお母さんの乗った馬車だろう。
「キヨミズさん、一生のお願いがあります! 急いでください! あの馬車に私のお母さんが乗ってるんです!」
「一生のお願いですか…」キヨミズはそのセリフを誰かから聞いた気がした。
「キヨミズさん、分かってますよ。死にかけている私の一生なんて、もう終わったようなものだと言いたいのでしょうけど、それでも、急いでください!」

 さくらが叫んでも、馬車のスピードはさほど変わらない。
「キヨミズさん、聞いてるんですか!?」
 聞こえているのかどうか、御者はピクリともせずに手綱を操っている。
 さっき、キヨミズさんに、何ということをやらかしたのかと言われた。
 きっと、キヨミズさんは怒っている。だから、返事をしてくれない。せっかく生還したのに、また戻って来たことに対して怒っている。しかも、それは病気にかかったり、事故に遭ったというものではなく、私が延命機器を引き千切り、自死に近い行為に及んだためだ。あまりにも命を軽視しすぎている。でも、それは私にも分かっている。最初、馬車に乗ったとき、散々な目に遭い、さっきも激しい苦痛と戦ってきたのだから、死ぬときも、生きるときも大変な苦痛を伴うということは身をもって分かっている。
 でも、お母さんを助けたい。二人で生還したい。お父さんを喜ばせたい!
 
 依然、お母さんが乗っていると思われる馬車との距離は縮まらない。さくらは振り向きもしないキヨミズの小さな背中を見つめた。
 このオッサンに何を言ってもダメだ。頭が固くて、融通がきかない。いっそのこと、蹴飛ばしてやろうか?
 ダメだ。キヨミズさんが馬車から落っこちたら大変だ。私には操縦できない。
 せっかく、お母さんの馬車が見えているのに追いつけない。
 二頭の馬は御者の合図にしたがって、忠実に一本道を駆けていた。
 たてがみが風になびいて、尻尾がリズミカルに揺れている。
――そうだ。操縦している御者がダメなら、動力源の馬だ!
「こらっ、馬、速く走れー!」さくらはありったけの声で叫ぶ。「速く走らないと、馬刺しにして喰うぞーっ!」
 さくらの叫び声が馬に届いたのか、二頭の馬はビクンと体を震わせて、尻尾をブルンと回した。首についている鈴がシャンシャンと鳴る。すると、どうだろう。馬車のスピードが速くなっていくではないか。さくらの悲痛な叫びが届いたのか!?
「いいぞー、馬! その調子、その調子。キミたちはやればできる子なんだよ、馬ーっ!」

 お母さんは、なぜ、自分が馬車で運ばれているのか、どこへ行こうとしているのかが分からず、外の風景を不安そうな目で追っていた。しかし、そこは薄暗い地帯が広がっているだけで住宅は見当たらない。山もなければ川もない、草木が一本も生えてない無の荒野だった。
 いったいどこを走っているのだろう?
 たしか、さくらの看病の帰り道、交通事故に遭い、救急車に乗せられた。そこまでは覚えている。だが、その後のことだ。気がついたら、馬車の中だった。御者に声をかけてみたが、その大柄で髭面の男はアラシヤマと申しますと挨拶をしてくれただけで、他には何も答えてくれない。だから、行先さえも分からない。
 今まで通ったこともない真っ暗な道を二頭馬車が走り続けている。
 乗客は他に誰もいない。お母さん一人だった。
 
 広がっている曇り空。方向を確かめようと、太陽を捜したが見つからない。曇っていても太陽の位置はだいたい分かりそうなものだが、太陽そのものが存在しないような不気味な空が続く。ときどき、反対車線からやってくる馬車とすれ違うが、その馬車もどこに行くのか分からない。逆に走って行くということは、元の世界に戻るということなのだろうか。
――さくらは、どうしたのだろう。
 容態に変わりはないのだろうか。まだ、意識は戻らないのだろうか。
 白い病室とさくらの白い顔。白いホースと白いチューブが繋げられた小さな体。
 いろいろな機械に囲まれたベッドを思い出す。
――お父さんは、どうしたのだろう。
 今夜、さくらの看病を交代すると言っていたが、ちゃんと看ていてくれてるのだろうか。それとも、さくらと私の病室の間を走り回っているのだろうか。
 さくらが事故に遭ってから、すっかり痩せてしまったお父さんの姿を思い出す。
 お父さん、しっかりご飯を食べてね。
 そのとき――。
(お母さーん…)
 ふと、幻聴を聞いた。

 さくらはしだいに縮まっていく距離が待ちきれず、馬車の窓から顔を出して叫んでいた。前方を走る馬車はかなく大きく見えるようになっていた。
「お母さーん!」
 冷たい風が頬に当たる。薄暗い闇に目印の二つカンテラが揺れている。お母さんのところまでもう少しだ。でも、まだ先は長いはずだ。前に乗ったときはそうだった。なかなか向こうの世界に着かなかった。いや、最後まで到着することはなかった。だから、時間が足らないということはないはずだ。前回も向こうの世界に着く前に戻って来たではないか。今回も間に合う。ぜったいに。
 焦ることはない。落ち着いていこう!
 肝心なのは、どうやって向こうの馬車に乗るかだ。おそらく勝手に乗り換えなんかできないはずだ。仕方がない。キヨミズさんに馬車をうまく近づけてもらって、飛び移ってやる。キヨミズさんが従わなかったら、また、馬を脅かせばいい。馬刺しをチラつかせてやれば、私の命令に従うはずだ。とりあえず、今はお母さんに私の存在に気づいてもらうことが先決だ。
「お母さーん、お母さーん!」
 さくらは窓から大声で叫び続けた。

 お母さんは、後ろから猛スピードで追ってくる一台の馬車に気づいた。自分が乗っているのと同じタイプの馬車の姿が闇の中に浮かび上がる。二つの丸いライトがこちらの馬車を照らしている。やがて、二台の馬車のひづめの音と車輪の音が交わり出す。
 この馬車たちは、なぜ、こんなところを走っているのだろう。馬車なんて、乗るのは初めてだし、観光地でしか見たことないのに…。
 馬車…?
 ふと、お母さんは、さくらが言っていたことを思い出した。
(ねえ、お母さん。うちの近所に馬車を持ってる家ある?)
 あのとき、さくらは、なぜ、私に馬車のことを訊いたのだろう。確か、沢井のおばあさんの話をしているときに、急に馬車の話をし出したんだ。そして、あのおばあさんは亡くなった。
(ねえ、お母さん、お化け見たことある?)
 お化け…?
 私は事故に遭って、もう死んでしまったということなのか…?
 お化けになって、どこかに運ばれているのだろうか…?
 おばあさん、馬車、お化けと聞いて、落語の三題噺みたいとからかったのだが、
 あのとき、さくらは何かを知っていたのだろうか…?
 
 お母さんはまた後ろの馬車が気になり振り向いた。すると、その馬車の右側の窓から、半分、身を乗り出して、手を振りながら、大声で何かを叫んでいる人がいる。
 長い髪からして、若い女性のように見える。
(お母さん…?)
 私を呼んでいる?
 さっきの幻聴と同じ声…?
 お母さんも右側から身を乗り出して、後ろから来る馬車を見た。
 そこに、さくらが乗っていた。

「こらっ、馬! もっと向こうの馬車に近づけろ! キヨミズさんの言うことなんか聞かなくていいから、私の言うことを聞きなさい! 私は常連客だぞ!」
 さくらはまだ怒ってるであろうキヨミズの背中を見た。そのとき、御者台の左横の隅にネームプレートが見えた。“KIYOMIZU”と書かれている。以前、見つけたものだ。だが、その下に馬の名前も書いてあるではないか。
“KINKAKU”“GINKAKU”
 そうか、これがお馬さんの名前か。
「おい、キンカクとギンカク!」二頭の馬の背中がビクッとする。「分かってるだろうね。言うことを聞かないと馬刺しだよ! うちのお父さんは馬刺しが大好きなんだからね!お腹を壊すまでいっぱい食べるんだぞ! よーし、行けー! キンカクとギンカクー!」
 さくらが闇の中、大声で叫びつづける。
 
 やがて、さくらの馬車がお母さんの馬車に追いついた。
 お母さんの馬車の後ろをさくらの馬車が追いかける。
「どうも、キヨミズさん!」
 キヨミズはギョッとした。助手席にさくらがドカッと座り込んできたからだ。
「今から向こうの馬車に乗り移るので、ギリギリまで近づけてくれますか」
 さくらは前を走る馬車の後部を指さすと、御者台から立ち上がって、馬に飛びつき、四つん這いで、馬のお尻から背中へと移動を始める。揺れている馬の背中は不安定で危なっかしい。
 キヨミズがあわてて止める。
「待ってください、さくらさん! まさか、馬の頭を踏み台にして、あちらの馬車に飛び移るつもりですか?」
「飛び移るつもりです!」四つん這いのまま、振り向いて叫ぶ。
 さくらはすでに一頭の馬の首にまたがっている。キンカクかギンカクのどちらか分からないが、ここで振り落とされてはいけない。両手両足を使って馬首にしがみつく。馬が嫌がって首を振る。シャン、シャン、シャンと首の鈴が鳴る。受験勉強中から幾度となく聞いていた鈴の音が耳のすぐそばで鳴っている。だが、さくらは首に抱きついて離さない。
「それはいけません。規則違反です!」
 相変わらず、キヨミズさんは生真面目だ。融通がきかないオッサンだ。こうするしか方法はないのだから、何とか見逃してほしい。今までさんざんわがままを言ってきたのだから、ここで、わがままが一つくらい増えてもいいでしょう。

 さくらは断固として馬の首から離れない。
 それどころか、立ち上がろうとしている。
 馬が興奮したため、馬車が蛇行を始める。
「さくらさん! 馬の頭を踏み台にしても、常に動いているのですから、不安定すぎます。馬の頭から跳んでもうまく行くか分かりません」ここでキヨミズは諦めた。「二台の馬車を並行にさせますから、客室から客室へと平行移動してください。それと、この難事は向こうの馬車ではなくて、私の方が引き受けます。ですので、お母さんをこちらの馬車へと呼んでください。今から向こうに連絡を取ってみますから――アラシヤマ殿!」

 二台の馬車は前後して走っているが多少の距離はある。しかし、無線や拡声器を使わなくても会話はできるようだ。テレパシーのようなものが働いているのかもしれない。
「アラシヤマ殿、私のわがままを聞いていただけますか?」
「キヨミズ殿がわがままを言うとは思えません。乗客のわがままであろう」
「その通りです。アラシヤマ殿にウソは通用しませんな。実は二人を会わせたいのです」
「ええと…」アラシヤマが閻魔帳を見る。「おお、こちらのご婦人と馬の首にしがみついているお嬢様とは母娘関係でしたか。二人を会わせて、発する光帯を大きくなさろうということですな」
「おそらくそうだと思われます。アラシヤマ殿には迷惑はかからないようにいたします。そちらのご婦人をこちらの馬車に移していただきたい。勝手に馬車から逃げ出したとでも報告しておけばよろしいかと。何かあった場合、責任は私がすべて引き受けます」
「了解いたしました」アラシヤマが承諾する。

 さくらは馬の首にしがみつきながら、ウルウルと感動していた。
「キヨミズさん、ありがとう! お母さんの分もお礼を言っておきます。ありがとう!生真面目で、融通がきかないオッサンと言ってごめんなさい!」
「ほう、そんなことを言っておったのですか」
「ああ、それは冗談で…」
 さくらは会話がテレパシーで筒抜けになっていることを忘れていた。

「では、キヨミズ殿が私の右側に並走していただけるかな」アラシヤマから指示が来た。
 やがて、キヨミズの馬車が速度を上げ、二台の馬車は並走をはじめた。アラシヤマが操縦する左の馬車から、反対車線を走る右の馬車へと、お母さんが跳ぶという作戦だ。  
 お母さんはすでに馬車のドアを開け、タイミングを計っている。
 さくらもドアを開け、受け入れる準備をしている。
「お母さん、早く跳んで!」馬の首から馬車の乗客席に戻ったさくらが叫ぶ。「私が受け止めてあげるから!」
「ちょっと、簡単に言わないでよ。――ああ、ダメ、ダメ。無理、無理」
「お母さん、下を見るからだよ」
「でも、怖いし…」
「キッチンの走り幅跳びの写真を思い出してよ。何のために飾ってるの!?」
「あれは青春の思い出なんだけど、実はただの地方大会だし…」

 二人の御者が連絡を取り合いながら、うまく操縦してくれているため、馬車はその間を一メートルほどに保ちながら並走している。
「お母さん、見てよ。ひょいと跨ぐだけの距離だから。今、反対車線から馬車が来たら、私の馬車と正面衝突するんだよ。マッドマックスみたいに木っ端みじんになるんだよ。――早くしてよ!」
 さくらをまた事故に遭わすわけにはいかない。――それは分かってるけど。
 二台の馬車はうまくスピードを合わせて、飛び移るには絶妙の位置を保ってくれている。反対車線から来る馬車はまだ見えてない。
 お母さんは前方を見た。風に前髪がさらわれて目を覆う。右手でドアの枠を掴みながら、左手で髪をかき上げ、視界を良好にする。さくらに目をやった。両手を広げて、待ってくれている。
「お母さん、下なんか見ないで、この私を見て。このかわいい私だけを見て!」
「分かった。アンタに母親というものの根性を見せてあげる!――それっ!」
――お母さんが跳んだ!
 キッチンに飾ってある走り幅跳びの写真のように美しいフォームで跳んだ。
 さくらがお母さんの手をうまくつかんで、全身で体を抱き止めた。衝撃で二人は馬車の中を転がった。体をあちこちぶつけて痛かったが、やっと止まった。
 二人は顔を見合わせて笑い合った。親子で笑い合うなんて、何日ぶりだろうか。
「ああ、走り幅跳びをやっててよかった~。きっと、この日のためにやってたんだね。やっぱり、努力は裏切らないね。あの炎天下の元、練習したものねえ。汗が止まらないのに、あの頃は水分を摂ったらダメだって、ヒドイよねえ。熱中症なんか無い時代だったからね。ウサギ跳びもさせられたしねえ。あれ、関節とか筋肉に悪いんだよね」
 緊張から解放されたお母さんは饒舌になり、訳の分からないことをしゃべる。
「キヨミズさん、アラシヤマさん、キンカクちゃん、ギンカクちゃん、ありがとー!」
 さくらが絶叫した。
 
 二台の馬車は前後が入れ替わり、キヨミズの馬車が前を、アラシヤマの馬車が後ろを行く。二人を乗せた馬車と乗客がいない馬車が走る。前の馬車のカンテラの数は二つ。後ろの馬車のカンテラは消えてしまっていた。さくらたちが乗る馬車の後方に数本の光帯が出現した。あの光帯と結びつけば、母娘は元の世界に生還できる。
 
 どこかに無くしたと思っていたさくらの時計はお母さんが事故現場で見つけて、持ってくれていた。かなり離れた溝の中に落ちていたらしい。同じように飛んでいったスマホは車に轢かれてぺしゃんこになったのに、時計はガラス面に少し傷がついているだけで、壊れずにちゃんと時を刻んでくれていた。若い警察官が証拠として押収しようとしたのを、強引に奪い取ってきたらしい。
 お母さんが、「だって、いつ返してもらえるか分からないでしょ!」と言うと、怒った警官が「娘さんの形見として持って帰るのですか?」と、つい口を滑らせてしまい、逆上したお母さんは「うちの娘はまだ死んでません!」と叫んで、股間に蹴りを入れてやったという。公務執行妨害で捕まるんじゃないかと心配したお母さんは現場から逃走して、さくらの回復を願いながら、ずっとその時計をしていたという。
――そして、数日後。
 お母さんはその事故現場の近くで、さくらの時計を腕にしたまま事故に遭った。
 
 後列の席に座っているさくらは、並んで座っているお母さんに状況を簡単に説明した。これは死者を送る馬車だということ。でも、二つのカンテラをつけた馬車はまだ望みがあり、元の世界に戻れるということ。それを駐輪場の徳さんに教えてもらったということ。そして、二つカンテラの馬車に乗ってお母さんを追いかけるために、もう一度、自分の体を危篤状態にしてきたことも…。
 お母さんはそれを聞いて泣きそうな顔になった。
 泣きそうな顔で、ほんとにさくらはバカだと言った。
 また、お父さんの心配事が増えちゃうじゃないと言った。
 でも、さくらは全然後悔してないよと笑って答えた。
 
 そして、先ほどから馬車を追いかけて来ている色とりどりの光帯のことも話した。さくらに向かって来ているのは、クラスメイトや先生の祈りが具象化したもので、特に大きい光帯は悪友の蘭ちゃん。お母さんに向かって来ているのは、たぶん、ママ友と近所のお茶飲み友達のもの。特に太くて大きな二つの光帯はお父さんがお母さんとさくらに対して祈ってくれているもの。同じく大きな数本の光帯は病院に集まってくれている親戚縁者のものだと思うと説明した。
 お母さんはこのとんでもない事実を素直に受け止めてくれた。
 
 祈る側が発する光帯と受け取る側が発する光帯が結合すると生還できるのだが、今回は祈る側の光帯の本数が圧倒的に多い。それだけたくさんの人たちが祈っているから当然なのだが、受け取る側が発する光帯はさくらの分とお母さんの分とで、わずかに二本だけしかない。しかし、家族や血縁関係にある光帯がまとまって一本になると、その一本はとても大きくなり、双方の光帯は確実に結びつき、大きくスパークする。
 お母さんはさくらからその説明をされて、なぜここにさくらがやって来たかが理解できた。理解できても、さくらはバカだという思いは変わらなかった。
 
 突然、アラシヤマからキヨミズに連絡が来た。
 緊迫した声だ。
「キヨミズ殿、大変です」
「どうされました?」
「成型車が出現しました」

 二台の馬車が連なって、闇の道を行く。その後から成型車が追って来ていた。
「キヨミズ殿、ここは私が引きつけます。しんがりを務めます。その間にお逃げください!」
 アラシヤマはキヨミズからの返事も聞かず、馬車の速度を落とす。そばまで来ていた成型車がすぐ後ろにつく。しかし、乗客が乗っていないことに気づくと、前を行くキヨミズの馬車を狙って、追い抜きにかかる。
 奴らは人を喰う。
 アラシヤマは、そうはさせまいと、馬車を蛇行させて妨害する。
「アラシヤマ殿、かたじけない!」
 キヨミズが馬に命令して、馬車の速度を上げる。
「また成型車が…」さくらは絶句する。
「それはどういうものなの?」お母さんが興味深そうに訊く。
「ぜったいに見ない方がいいよ」
 さくらは忠告するが聞き入れず、好奇心旺盛な中年のオバサンは右の窓から顔を出し、視力2,0の目で確認するも、何体もの青白い死体が絡み合っている奇怪な車を見て驚愕し、左の窓から顔を出して、ゲーゲーと激しく嘔吐した。
「――ほらね」
 
 アラシヤマが操る馬車は誰も乗客がいない回送車だ。回送車はいずれ、乗り換え地点で方向転換をしなければならないが、それはアラシヤマが決めることではない。何かの力がそれを決める。しかし、それは次の乗り換え地点で起こるはずだ。そこを逃すと、さらに次の地点まではかなり先になるからだ。
「それまでこの馬車が耐えられるかどうか…」
 アラシヤマは前を走る馬車と後ろから追ってくる成型車を見比べた。
 キヨミズの馬車を逃がすために、何とか時間を稼がなければならない。
 御者台の横からムチを取り出した。

 馬車と成型車の激しい競り合いが続く。成型車から剥がれて、立ち上がったゾンビたちが、妨害を繰り返す邪魔な馬車に飛び移ろうと、タイミングを計っている。そのゾンビたちの足元を狙って、アラシヤマがムチを振るった。たちまち、数人のゾンビがなぎ倒されて、落下する。しかし、すぐに新たなゾンビがムクリと剥がれて立ち上がる。ムチをいったん手元に寄せると、勢いをつけて、ふたたび足元を狙う。また、ゾンビが落下していく。――これではキリがない。

 アラシヤマは二頭の馬に馬車の運行を任せると、立ち上がって、馬車内を後ろへと移動しはじめる。御者がいなくなったのを見て、成型車の屋根にしがみついていたゾンビがニヤッと笑い、飛び出すタイミングを計る。
 しかし、二頭の馬はゾンビよりも優秀だった。アラシヤマが不在の間、馬は馬車をさらに蛇行させたり、速度を上げたり、緩めたりして、ゾンビに飛ぶ機会を与えず、侵入を防いでくれていたのだ。屋根の上でタイミングを外されているゾンビが地団駄を踏んで悔しがる。地団駄を踏まれた足元のゾンビが痛みで顔をしかめる。変顔がさらに変顔になる。
 アラシヤマは馬車の後部から二つのカンテラを外して、馬車内の乗客席内に戻ってきた。焦れたゾンビが成型車ごと体当たりをしてくる。その衝撃でアラシヤマが転倒する。背中から床に転がり、あやうく両手に下げたカンテラを落としそうになるが、体勢を整えて、何とか死守する。

 大丈夫だ。割れてないし、火も消えてない。もう少しだ…。
 アラシヤマはよろけながらも御者台に戻り、二つのカンテラを足元に置いた。馬車が回送車になるとカンテラは消える。火が消えるのではなく、カンテラそのものが消滅してしまう。どういう仕組みなのか、アラシヤマにも分からないのだが、消える前に取り外して来たのだ。
 ふたたび、アラシヤマがムチを使い、攻撃を開始した。ムチに叩きつけられたゾンビは、つぎつぎに落ちて行くが、新手がつぎつぎに起き上がってくる。ゾンビも多少は学習能力を有している。そのため、しだいに足元への攻撃も避けられるようになってきた。アラシヤマが今度は頭部を狙い始めると、ゾンビはムチ打たれた苦痛に顔面を歪めながら、次々と落下していく。しかし、成型車の体積にさほどの変化はない。
 
 道路の前方を見る。キヨミズの馬車が疾走している。後ろの窓からあの母娘が不安げにこちらを見ている。何としても、あの二人を守らなければならない。二人をあの世に向かわせてはいけない。自分の体を傷つけてでも、母親に会いに来たあの娘のためにも。すべての責任を引き受けたキヨミズ殿のためにも。
 キヨミズ殿、何とか、逃げおおせてくれ!
 
 あと少しだ…。
 よしっ、これならどうだ!
 アラシヤマはムチで成型車のタイヤを狙い打った。しかし、それはうまくいかなかった。タイヤを成型しているゾンビが器用なことに、ムチを口で受け止めたからだ。くちびるの両端が裂けて血が飛び散るが、咥えたまま、ムチを離さない。しばらく引っ張り合いが続いたが、アラシヤマは力尽きて、ムチを手放した。宙で波打ったムチは成型車の前輪にからめ取られていく。
「なんの!」
 アラシヤマはもう一本のムチを取り出して、ふたたび攻撃を行う。
 全身に何筋ものミミズバレを作りながら、何体ものゾンビが倒れていく。
 あたりがゾンビの血しぶきと噴出する体液で霞む。
 やがて、二本目のムチも引き千切られた。
 
 いよいよだな…。
 前方と成型車の距離を目分量で測る。
 アラシヤマの髭面に余裕の笑みが漏れた。ようやく時間稼ぎができたためだ。足元から燃えている二つのカンテラを持ち上げた。すかさず、一つを成型車に向けて、力いっぱい投げつける。カンテラは成型車の前面下部で派手に割れ、中の石油に引火して燃え上がる。ムチが巻き付いていたゾンビにも飛び火し、タイヤがバーストする。
 成型車が傾いたところで二つ目を投げつける。これは中ほどの側面に当たり、燃え上がった。ゾンビが発する腐敗ガスに引火し、成型車は大爆発を起こした。熱風でアラシヤマのシルクハットが吹き飛び、髭がチリチリ焦げる。

「ハイヤーッ! 速度を上げよー!」
 アラシヤマが叫んで、馬車が全力で駆け出す。
 ムチがなくなった今、大声で馬を操作するしかない。
 馬車はやがて見えてきた乗り換え地点に入り、素早く方向転換をすると、逆方向に走り出した。アラシヤマの操縦ではなく、何者かの力による誘導である。この地点に到達するまでに決着をつける必要があった。
 
 左手に道路から逸脱した成型車とすれ違う。
 成型車は爆発により、バランスを崩して横転し、組み合わさっていたゾンビはバラバラになり、地面に投げ出されていた。あちこちで倒れたゾンビがウネウネと這いずり回っている。起き上がった数体のゾンビは頭と手をフラフラさせながら一か所にまとまろうとしている。ふたたび成型車を組み上げるつもりだろう。組み上がった成型車は再び走り出すことが可能だ。
 しかし、そこは奈落の世界だった。
 地面から青白い手がニョキニョキ出てきて、ゾンビを奈落へと引きずり込んでいく。 ゾンビたちは絶叫するが、さらなる手が何本も何本も生えてきて、その体を包み込み、ズルズルとからめ取っていく。ゾンビも反撃をする。つぎつぎに生えてくる手を、引っこ抜いては引き千切る。
 道路上にはゾンビのどす黒い肉片と、青白い手の残骸が散乱し、あたりに悪臭を漂わせていた。ゾンビは絶滅寸前だった。もはや、成型車を作り出すことは不可能だった。

 アラシヤマはこのタイミングを狙っていた。この乗り換え地点の手前に奈落の世界が存在している。何度も走っているうちに分かったことだ。その場所でゾンビと奈落の住人を相打ちさせようと企んでいたのだ。この奈落の世界がある地点までは何とかして、キヨミズの馬車を守り、逃すために時間を稼ごうと、成型車につぎつぎと攻撃を加えていた。企みはうまくいった。キヨミズの馬車は逃げおおせた。そして、二頭の馬もこの馬車もよく耐えてくれた。アラシヤマはゾンビたちが追ってこないことを確認すると、久しぶりに手綱を緩めた。もはや、馬車には何の武器も残っていなかった。 
 
 しんがりの役目は無事に終えた。これでキヨミズ殿の馬車も安心であろう。
 あとはゆっくりと母娘の光帯を結合させればよい。
 アラシヤマの髭面から、ふと笑みが漏れた。
 回送馬車は現世に向かって走り出した。
 次に乗せる人はどんな人だろうか? 
「最近はわがままな客人が多いような…」
 カンテラはまだ出現していない。
 閻魔帳にも次の客の明細は掲載されていなかった。
 アゴを触ると、数本の焦げた髭が抜け落ちた。

 全身黒ずくめの男が抜き身のままの日本刀を手に栗毛色の馬に乗って現れた。マサのアニキ分だ。バラバラになって倒れているゾンビと引き千切られた何本もの手に驚く。誰の仕業なのかと不思議がる。何体かのゾンビは焦げており、強烈な悪臭だ。その間を、男は馬を駆って行き来する。まだモゾモゾと動いているゾンビを見つけると、容赦なく斬り付け、息の根を止める。奈落から生えている手も、かまわずに馬の足で蹴散らし、宙に蹴り飛ばす。道路清掃をきれいに終えたところで、男はあたりを見渡し、転がっていた大きなゾンビの頭を拾い上げて、ニヤリと笑った。労せずして、首領格のゾンビの首が手に入ったからである。男は日本刀を拭い、鞘に納めると、首を鞍に結びつけて、いずこへか去って行った。

 かすみはベッドに横たわるさくらを見つめていた。
 隣にはお父さんが立っている。
「申し訳ありません」お父さんが謝る。
 大きな音に驚いて、かすみが駆けつけてみると、病室内はグチャグチャに乱れていた。アラームは鳴り響き、機器は倒れ、チューブやコードは外れ、点滴を窓や天井にまで撒き散らしていた。酸素マスクが外れたさくらは土気色の顔をして、呼吸も荒く、危篤状態に陥っていた。誰もこの病室には出入りしていない。これがさくら自身の仕業だということは明白だった。おそらく、意識が回復してすぐに暴れたのだろう。そして、それは意図的に計算されたものだと思われた。ベッドの上にある照明は無事。お父さんが持ってきていたポータブルCDプレーヤーも無傷。ベッドの脇にある花瓶も倒されることなく、花は咲いている。自分の命に直接関わる物だけが被害を受けていたからだ。
 これでは自死と捉えられても仕方あるまい。

 お父さんの謝罪の言葉にかすみからの返事はない。
 さくらちゃんは何をしてくれたの?
 かすみは怒っていた。
 お父さんはかすみの怒った顔を初めて見た。

 かすみの仕事は患者さんの命を守ることだ。患者さんの痛みや苦しみを少しでも和らげてあげることだ。そんなナースになるために、毎日遅くまで勉強をして、正看護師の資格を取った。
 そんなかすみをさくらは間近で見ていたはずだ。
 さくらはかすみに憧れていると目を輝かせて言った。
 さくらはかすみさんのようなナースになりたいと何度も言っていた。
 あの目は何だったのか?
 あの言葉は何だったのか?
 なぜ、こんなに自分の命を軽視するのか?
 かすみはそんなさくらを許せなかった。

 ふと、かすみの目がさくらの左手に向いた。
 手の甲にサインペンで何か書いてあった。
“いのって”

 かすみはお父さんと目を合わせた。
「祈ってくださいということでしょうけど、どういう意味でしょうか?」
「…いや、どうなのでしょう」お父さんにも分からない。
「自分で自分を危篤状態に追い込んでおきながら、なぜ、他人に祈るようにお願いをするのでしょう?」
 かすみはさくらの意味不明な行動に何らかの意味が隠されていると感じた。
 だが、いくら考えても、それが何かは分からなかった。

 できる限りの医学的治療は行われている。残された家族や親戚にできることは祈ることしかなかった。祈りにはかすみも加わっている。さくらとお母さんのことを思い、無事に帰って来れるように、仕事の合間を見て、祈りを捧げている。この病院から発せられる祈りと、さくらの友人たちから発せられる祈りが合わさり、最大の光帯となって、今、馬車を追いかけはじめた。しかし、そのことをかすみは知らない。

 さくらとお母さんを乗せた二頭馬車が行く。
 馬車の後を何本もの光帯が追いかけている。
 さくらは思った。きっと、かすみさんは怒っている。病室をメチャクチャにしてきた。自分の体も瀕死の重体にしてきた。命を何だと思っているのかと怒ってるはずだ。ナースの仕事が分かっているのかと怒っているはずだ。
 無事に生還できたら、かすみさんに馬車のことを話そう。光帯のことも、“いのって”の意味も、カンテラの意味も、ゾンビの怖さも、奈落の不気味さも、キヨミズさんのやさしさも話そう。徳さんの思いやりも、花ちゃんのかわいさも、レンくんの正直さも、マサさんの男気も、アラシヤマさんの勇気も話してあげたい。そして、それは、お父さんにも教えてあげたいと思った。 
 かすみさんは信じてくれるだろうか。そんな世界があることを。
 信じてくれたなら、私がなぜそんな行為をしたのかも、分かってくれるはず。
 お母さんをすぐに助けるためには仕方がなかったのだと、分かってくれるはずだ。
 
 でも、こんな荒唐無稽な話を信じてくれないかもしれない。
 すべて夢の中の出来事だと笑われてしまうかもしれない。
 私だって、そんな世界は体験しなければ信じないと思うからだ。
 でも、かすみさん、これだけは信じてほしい。
 かすみさんのようなナースになりたいという思いは変わらないことを。
 たくさんの人を助けたいという思いは変わらないということを。

 お母さんは馬車を追いかけてくる光帯を見上げた。
 あの中にお父さんの光帯もあるはずだ。
 お父さんはさくらの病室とお母さんの病室で必死に祈ってくれているはずだ。容態がすぐれない二人の病室の間を行ったり来たりしているはずだ。先ほどからフラフラと揺れてる光帯がある。きっと、ウロウロしているから揺れてるんだ。あれが、お父さんから来ている光帯だとお母さんは信じている。
 私たちが死んだら、お父さんは一人ぼっちになってしまう。
 さくらと帰ろう。一緒に帰ろう。
 また、家族三人で楽しく生きたい。
 毎日、笑って過ごしたい。
 お父さんを一人にしたくない。
 お母さんも必死に祈った。

 さくらは自分の光帯とお母さんの光帯を見比べた。かなり大きく太くなりつつある。いずれ、この二本は結合して巨大な光帯になるはずだ。そのとき、馬車の後方を飛んできている光帯と合わさって、二人は生還することができる。
「お母さん、もう少しだよ。がんばって!」
 最初、お母さんは指先から出ている光を不気味がっていた。しかし、さくらの説明を聞いて、がぜん、張り切り出した。今は、いとおしそうに光帯を見つめ、何とか大きく太くしようと熱心に祈りを込めている。その結果、お母さんの光帯はさくらの光帯と同じくらい大きく長くなっていた。
「ほら、さくら見てよ。こんなに伸びたよ。これは乙女の祈りの結果ね」
「アラフォーが何を言ってんの? 乙女の祈りって、彫刻のタイトルみたいじゃん」
「でも、さくらよりお母さんの光帯の方が大きいよ」
「えっ、そんなことないよ…」

 そのとき、馬車のドアがノックされた。
「わっ、ゾンビが来た!」お母さんがのけぞる。「何かないの!?」
 武器になる物を探す。――何もない。
「そうだ!」お母さんは自分の靴を脱いだ。「これでやっつけてやろう。ヒールで踏まれると痛いらしいから、殴られても痛いはずだ」右手で持ってかまえた。
「お母さん、それハイヒールじゃなくて、スニーカーだから」
「あっ、忘れてた。ネットで買ったんだ」
「新発売の軽くて薄いやつでしょ。そんなスリッパみたいな靴でどう戦うの?」 
 ふたたび、ノックの音がした。
 お母さんはあわてて座席の隅に避難する。
 指先の光帯はすっかり短くなってしまっている。
「お母さん、大丈夫だよ。ゾンビがノックして入るわけないよ」
「じゃあ、誰よ。また、変な魔物?」
「分からないけど。――どうぞ、お入りください!」
「なんで、入れるのよ!」お母さんが叫ぶ。

 一人の男が入って来た。
「お邪魔します」
「キヨミズさん!」今度はさくらが叫んだ。御者台を見ると無人だった。
「操縦はどうなってるのですか?」
「はい。自動操縦システムです」キヨミズは平然と答える。
「馬というのは頭のいい動物で、何度も走っているうちに道を覚えますし、馬車の速度加減も心得てます。ですから、どうぞご安心ください」
 確かに二頭の馬が馬車を引いているが…。
 ゾンビだと信じて、腰が抜けそうになっていたお母さんが、何とか立ち上がって、座席に腰かけた。右手に脱いだスニーカーを持ったままだった。
 さくらも隣に座り込む。
「それよりも、これを見てください」
 キヨミズが手を広げて見せた。――光帯が伸びていた。
「キヨミズさんは家族がいなかったんじゃないですか?」さくらが訊く。
「実は、縁を切った息子がいるのです。若い頃に狼藉を働きまして、私が勘当したのです」
 狼藉…?
 時代劇でしか聞かないような言葉に母娘は戸惑うが、何か勘当されるくらいの悪いことをしたのだろうと想像する。だが、そんな息子であっても、キヨミズさんは心を向けていた。時間が経過して狼藉を許そうと思い直したのかもしれない。だから、キヨミズさんの指先から光帯が出現したのだろう。
「私の光帯が伸びてきたということは、あそこに息子の光帯が来ているのではないかと思います」上空を指さす。

 馬車を追いかける光帯はかなりの本数にまで増えている。その中に息子の光帯も加わったのではないか、とキヨミズは考えているのである。
「実は以前より微かながら、私の光帯も出ておりました。今飛んできている息子の光帯に私の光帯が呼応して、さらに伸び出したのですよ」
 キヨミズはうれしそうだ。

「誰かが息子と連絡を取ってくれたのでしょう。病院関係者かもしれません。私が生きて戻れたら、まず息子に謝罪をしたいと思っております。確かに、息子の言動には納得できない部分がありました。だからといって、勘当したのはやりすぎだったのではないかと、最近では思い始めておりました。縁を切ったと申しましても、法的には親子のままです。やり直すことは、いくらでも可能だと思います。実は、妻とは息子が小さい頃に離婚いたしまして、父子家庭だったのでございます。それは、それは、苦労が絶えませんでした。と申しますのも、私は料理が苦手なのです。ですので、料理本をたくさん購入したしまして、毎日、格闘いたしました。しかし、息子ときたら、その料理が口に合わないというのです。そこで私は申しました。男なら何でも食べなさいと。しかし、息子はコンビニにお弁当を買いに行こうとするのです。そこで私は…」
 あまりにもクソ真面目でクソ長い話に、母娘は口を開けて爆睡していた。

 お母さんはさくらの腕時計をそのまま付けていた。事故現場から拾ってきたものだ。あやうく、さくらの形見になるところだったのだが、お母さんもその時計をして事故に遭ったのだから、お父さんからすると、母娘二人の共通の形見になるところだったのである。しかし、どうやら、それは避けられたようだ。
 その腕時計の針が逆回転を始めた。
 お母さんがそのことに気づき、さくらが覗き込む。
「私の時計、どうなっちゃったのだろう?」
 キヨミズさんにも確認してもらったが、不思議そうに時計を見つめて言った。
「私もこんな現象は初めて見ました」
 この世界にはキヨミズにも分からないことがたくさんあった。
「おそらく、この世界と向こうとでは時間が経過する速度が違うのではないでしょうか。針が逆回転して、時間が戻るということは、こちらの世界の方が、時が経つのは早いのではないかと思います」
「じゃあ、向こうに戻ってみると?」さくらが問う。
「はい、向こうに戻ってみますと、意外と時間が経っていなかった。意識がなかったのはわずか一日だった。といったことが起きているのかもしれません」
「へえ、そうなんだ。不思議だね、お母さん」
「つまり、私は年を取らずに若いままということ? 若いママということ?」
「……」さくらは黙り込む。
「……」キヨミズも黙ったまま御者台に戻っていく。

 しだいに、時間が元にいた世界に近づいていく。
 しだいに、三人は元にいた世界に近づいていく。

 さくらは帰りの小型馬車の窓から空を見上げている。
 もうすぐ到着するというのに浮かない顔をしている。
「お母さん、ここはどこなんだろう?」
 隣の座席でボーッとしていたお母さんがさくらの顔を見る。
「どこって、あの世とこの世の間の世界なんでしょ。さくらは二回目なんだから、お母さんよりよく知ってるでしょ」
「そうなんだけど。――でも、変なんだよ」
「そりゃ、変でしょ。長くここにいるキヨミズさんでも、分からないことがたくさんある世界なんだとさくらも言ってたでしょう」
「だけど、おかしいんだよ」
「おかしいって、さくらはさっきから何を言ってるの?」
「お母さん、あそこを見て」さくらが空を指さした。
 お母さんが見上げる。
「――えっ、えっ、どういうこと? ねえ、さくら、どういうこと? ここはどこ?」
 お母さんはうろたえた。
「ほら、おかしいでしょ」
 さくらは空を見上げたままだ。
 お母さんも空から目を離さない。
 空には大きな地球が浮かんでいた。
 
 かすみがベッドで横たわる男性に声をかけた。
「お目覚めの第一声が、ああ疲れたですか。長い間、あんなにぐっすりとお休みになっていたのに、まだ疲れが残っていますか?」
 顔つきからして、気難しそうな人だと思っていた男性患者は、意外にも笑顔で返事をしてくれた。
「看護師さん、私はほんとうに疲れたのですよ」
「でも、三日間も熟睡されてましたよ」
「たった三日間? 本当ですか?――いや、もっと時間は経過していたと思ったのですがね」
 つい先ほどのこと。
 三日間、昏睡状態がつづいていたこの患者さんの病室に入ったとたん、声が聞こえて、驚いたかすみは先輩ナースを呼びに走った。どういう状況だったのかと訊かれたが、よく見てなくて、ただ声がしただけですと答えたら、こっぴどく叱られた。二人で戻ってみると、患者さんの意識が回復していて、あわててドクターを呼びに行ったというわけだ。
 いつまでも新人の気分が抜けてないと、ドクターにも怒られて落ち込んでいたのだが、患者さんの笑顔に助けられた。先輩ナースとドクターが出て行って静かになった病室で、かすみは意識が戻ったこの男性に自己紹介をして、新人ですがよろしくお願いしますと挨拶をすると、私も新人の患者ですからと返された。真面目そうな顔からは想像できないジョークだった。
「何か、悪い夢でも見てらしたのですか?」かすみは訊く。
「そうなのです。まったく休みもなく、変な格好をさせられて、さんざんこき使われる夢を見てました。私はあまり仕事をしてなかったですから、バチが当たったのかもしれません。もっと真面目に働けばよかったと後悔いたしました」
 そう言って、笑った。色が黒くて、いかつい顔だが、笑うと想像以上に柔和になる。
「そうなんですか。でも、確か五十九歳ですよね。だったら、あと一年は働けるじゃないですか」
「いや、嘱託も入れると六十五歳までですから、あと六年もありますよ」
 そう言って、今度はガッカリという表情を見せた。真面目な中にも、おどけたところがある。見かけによらず、親しみやすい感じだ。職場ではみんなに信頼されているのだろう。
 かすみは、ふと、ベッドに取り付けてあるネームプレートを見た。
“清水 精一郎”
 その横に担当ドクターとかすみの名前が書いてある。
「でも、精一郎という名前じゃないですか。だったら、名前負けしないように精一杯働かないとダメですよ」
「まったく、誰が付けたのだか、皮肉な名前でしてね。怠けても何も言われない怠一郎ならよかったのだがね」
「でも、サボっていたら、またバチが当たって、こき使われますよ。早く元気になって…」
 そのとき、廊下からうれしそうな声が聞こえてきた。
「さくらはよくがんばったからな…」今から退院する家族が廊下を歩いて行く。
「ほら、聞こえましたか、精一郎さん。早く元気になって、今の子みたいに退院してくださいね」
(さくら? …どこかで聞いたことがあるような…)
「そうですねえ」うわの空で返事をする。
「そんな気の抜けた返事しないでくださいよ。家で息子さんが待っておられるのでしょ? ドクターとも相談したのですが、退院の目標は一ヶ月後ですからね。それまで、一緒にリハビリをがんばりましょうね、キヨミズさん!」

 大きな花束を抱えたおかげで、さくらの顔は見えなくなった。
「お父さん、この花束、大きすぎない?」
 一足先に退院していたお母さんが文句を言った。
「いいだろう。久しぶりに家族三人が元気に揃うのだから、奮発したんだよ」
 病室にはさくらとお母さんの面倒を見てもらっていたかすみさんも来ていた。
「一時はどうなることかと思いましたよ。お二人の病室を行ったり来たりで、大変でした。お父さんも行ったり来たりで大変でしたよ」
 かすみは笑いながら言った。
 この三人に笑いながら話ができるようになって、よかったと思った。
 お母さんはすぐに意識が戻り、奇跡的な回復を見せて、ドクターを驚かせた。そして、お母さんに合わせたかのように、さくらもまた驚異的な早さで体が回復していった。二人ともあと数ヶ月間はリハビリのために通院しなければならないが、完治するのは時間の問題だった。
 まるで、病人のような青い顔をして、病室の間を走り回っていたお父さんの顔もすっかり赤味が差して、元気そうだ。まだ、二人の病院の送り迎えがありますから、これからも大変ですよと言って笑っている。
 お父さんとお母さんはかすみに向かって、たいへんお世話になりましたと頭を下げた。
 さくらも花束ごと頭を下げた。
「さくらちゃんも、お母さんも、もう来ちゃダメですよ」
「えっ?」
 さくらが花束ごと首をかしげた。
「病院はヒマな方がいいんです。ヒマということは、みんな、ケガも病気もなくて、健康に生活しているということですから」
かすみはいつか先輩ナースが患者さんに言っていたセリフをそのまま使った。でも、いつか自分のオリジナルのセリフを考えて、もっともっと患者さんを元気付けてあげようと思っていた。
 
 いったん回復していたさくらの容態が悪化し、重体に陥った。原因はさくらがお母さんに会いに行くために、暴れてベッドの周りに配置されていた機械類を蹴飛ばして破壊したためである。しかし、さくらはそんなことは全然覚えておらず、無意識のうちにやらかしたということになっていた。
 院内では大問題となり、アラームのセンサーの感度を良くしたり、数を増やしたり、機械を最新のものと入れ替えたりと、大幅な病室内の変更を強いられた。また、一日一回行われていた装置の数値チェックも二回に増やされた。
 さくらはそれを聞いて、かなり罪悪感を覚えたのだが、ともあれ、ふたたび意識は回復し、今日、退院の運びとなったのである。大学入学共通テストには何とか間に合いそうだった。まだ、骨折した左手が不自由だが、右手を使えば試験は受けられる。勉強の勘を取り戻すのに時間がかかりそうだったが、意識が戻ってからはベッドの上で少しずつ問題集を解いていた。せっかく覚えていた英単語が、ショックのあまり、全部すっ飛んでいたらどうしようかと心配したが、ちゃんと思い出せた。
 
 かすみさんは、他の患者さんが待ってますのでと言って、忙しそうに部屋を出て行った。その後ろ姿を見送りながら、さくらは思った。
 かすみさんにはお話ししたいことがたくさんあります。
 忙しいでしょうけど、いつか時間を取ってください。
 私の話を聞いて、かすみさんは驚くと思います。
 この世があって、あの世があって、その中間に私とお母さんは行って来たのです。
 私の大冒険をお話ししましょう。
 脇役のお母さんの話も少しね。
 魅力ある人物がたくさん登場しますよ。
 
 三人の家族はお世話になった病室をぐるりと見渡して、忘れ物はないかと確認し、かすみさんに言われたように、もう二度と来ないようにしようねと誓い合って、病院の玄関へ向かった。もちろん、大きな花束は忘れない。
「さくらはよくがんばったからな、大きな花束はそのご褒美だよ」お父さんが言う。
「そうよ。幸せの花束だね」お母さんが言う。
「ダサいネーミング」さくらはイチャモンをつける。
 
 さくらは退院したあと、真っ先に楓くんのお墓参りに行くつもりだった。お見舞いに来てくれたクラスメイトによれば、楓くんの体に似合わない小さなお墓だそうだ。毎日のように学校の誰かが訪れていて、お花が絶えないらしい。楓くんのお母さんがとても感謝しているという。私もその小さなお墓にきれいなお花を持って行ってあげようと思う。
 楓くんの肉体はそこに眠っている。
 でも…。
 楓くんとはまた会える。
 あの馬車に乗って、いつか私はあの世に行く。
 借りっぱなしのシャーペンを持って行く。
 ずっと先の話だけど、あの奇妙な世界を抜けた場所で待っていてくれるだろう。
 楓くん、そのときはまたアニメの話をしようね。
 
 楓のお墓の周りにも漂っていた金色のカーテンは姿を消していた。
 今も日本列島のどこかで北上し続けていることだろう。
 
 悪友の蘭は、さくらの意識が戻り、もう大丈夫だと分かったとたん、食欲が復活して、三日間で五キロも太ったらしい。もともと太いのだから、五キロ増えても、五キロ減っても、誰も気づかないと思うけど。
 バカ蘭、じゃなくて、蘭ちゃん。
 私はもう大丈夫だよ!
 だから、思いっきり食べていいよ!
 十キロ増えても、二十キロ増えても、私は我慢して笑わないようにするからね!
 
 その蘭がエレベーターの前で待ってくれていた。
 今日が退院の日だと聞いて駆けつけてくれたのだろう。
「――蘭! 来てくれたの!?」さくらが院内では迷惑なくらい大きな声で叫ぶ。
 だが、蘭はこっちを向いて黙ったままだ。
 なぜ、返事をしてくれないのだろう。
 元気な私に会えて、感極まったのだろうか。
 言葉が出てこないのだろうか。
 近寄ってみると、口をいっぱいにして何かを食べていた。
「アンタ、何を喰ってんの?」
 蘭は口をモゴモゴさせながら答える。
「芋ようかんと栗ようかんをダブルで実食」
 それじゃ、話せんわ。――さくらは呆れる。
「さくらが退院するって言うから、仕方なく奮発して食べてるんだ」
 よく分からん。――さくらはまた呆れる。
 蘭の胸にはいつものキラキラ光る十字架が揺れていた。

 でも、さくらは知っていた。
 さくらのことを誰よりも心配して、飲まず食わずで、何時間も教会で祈り続けてくれたことを。イエス様の前でひざまずいてくれていたことも。大きな光帯を飛ばしてくれたことも。蘭の祈りのおかげで、この世に絶対帰りたいという気持ちが芽生えたんだ。だから、蘭にはとてもとても感謝している。誰よりも感謝している。いつか蘭がピンチになったとき、今度は私が祈り、そして、命がけで助けてあげる。――命がけでね。

「蘭、大きな光帯をありがとね」
「えっ、コウタイって何?」
「まあ、こっちの話」
 蘭に今までのことを話しても信じてくれないだろうなあ。
「いいじゃない、教えてよ。コウタイって、おいしいの?」
「食い物じゃねーよ!」

 食い物か…。
 マサさんは光帯のことを色付きのソーメンと言っていた。白いソーメンの中に数本入っているピンクとかグリーンのソーメンのことだろう。確かにあれを巨大化すれば光帯になりそうだ。――マサさんは今頃、どこで何をしてるだろうなあ。
 
 蘭も加わって、出口へと歩き出す。意外とおしゃれな院内食堂の前を通り過ぎ、たくさんの患者さんが長椅子に座って待っている廊下を曲がると、案内板に“正面玄関はこちら”と書かれたプレートが張ってあった。
 さくらはお母さんに目配せをした。
“正面玄関”
 そこは、さくらが必死になってお母さんを止めようとした場所――。
 でも、お母さんに何もしてあげることができず、小さくなってうずくまった場所――。
 そして、お母さんを追いかけるために、もう一度、馬車に乗り込んだ場所――。
 お母さんは私の方を見てうなずいた。あのときと同じ緑色のダウンジャケットを着ている。今はその正面玄関を通って家に帰るところだった。
 
 蘭は歩きながら、私のお父さんに話しかけている。どこの馬刺しがおいしいのかを訊いているようだ。お父さんもうれしそうに教えている。
 
 私は抱えた花束の後ろから顔を出して、お母さんに話しかける。
「また玄関でキヨミズさんが待っていたりして」
「まさかね。もうあんな愛想の悪いオッサンには会いたくないよ」
「でも、意外と普段は愛想がいいかもね」
「それも、まさかだね。きっと無愛想で嫌な奴だよ。あの馬なら会ってあげてもいいけどね」
「キンカクちゃんとギンカクちゃんか。かわいかったね。私の言うこともよく聞いてくれたし」
「そうね。二頭ともよく走ってくれたねえ。でも、うちにもかわいい小梅ちゃんがいるから」
 二人は蘭とお父さんに聞こえないように、顔を近づけて小さな声で話し、
 蘭とお父さんに見つからないように、顔を見合わせてそっと微笑んだ。
 もうすぐ、白ネコの小梅にも会える。

 病室から玄関まではかなりの距離があった。さくらは、お父さんが奮発して買ったという大きな花束を抱きかかえるようにして持っていた。前がよく見えないため、足元に気をつけて歩かなければならない。お父さんとお母さんは大きな紙袋を持って歩いていた。蘭も一つ、持ってくれている。先生とクラスメイトが折ってくれた千羽鶴がたくさん詰まっている紙袋だ。千羽鶴といっても、みんなで千羽をはるかに超える鶴を折ってくれていた。みんなの気持ちが結集した千羽鶴のお陰で、さくらはお医者さんも驚くほど早く回復したと言ってもいい。
「お父さん、いくら花束だからって、こんなに大きいと重たいよ」
「そんなに文句を言うなよ。よくテレビのドラマでやってるだろ。大きな花束を抱えて退院するシーンを」
 廊下ですれ違う患者さんや看護師さんが大きな花束に気づいて振り返る。
 そのたびにお父さんは自慢げに胸を張る。その横で蘭が遠慮なく爆笑する。
 
 なんといっても、花屋のかわいい店員さんに色目を使って、たくさんサービスしてもらったんだからな。俺も四十歳を過ぎてしまったが、男性としての魅力はまだまだ捨てたもんじゃないな。というか、これからじゃないかな。五十代になったら、さらにダンディになって…。
 お父さんはあらぬ妄想を消そうと、頭をブンブン振り回す。
 今度はいつあの花屋に行こうかなあ。まだ、あの店員さんがいればいいなあ。
 
 お父さんはそんなことを思いながらニヤニヤして歩いているが、陰でさくらとお母さんにネズミ男と呼ばれていることを知らない。
 さくらは花束を持つのを手伝いもしないで、ニヤつきながら歩いているお父さんを見て、呆れ返っている。もう少し年相応のダンディになってくれないかなあと思っている。
 現実的なお母さんは、こんな大きな花を家のどこに飾ろうかと悩んでいる。
 こんな大きな花を生ける花瓶はないし、わざわざ買うのはもったいないし、洗面所やお風呂に浸しておくわけにもいかないし。
――あっ、そうだ!
 玄関に陶器でできた傘立てがある。あの中に水を入れて差しておこう。それだと、快気祝いに来た人にも見せられる。うん、なかなかいいアイデアだね。
 蘭はさっきお父さんから聞いた馬刺しに合うタレ“すりおろしショウガ”を家に帰ったらさっそく作ってみようと、ヨダレを垂らしそうになりながら歩いている。

「お父さん、こんな大きな花束を持って退院する人はドラマの中だけで実際にはいないよ。蘭ちゃんもさっきからこっち見て笑ってるし」
 周りからジロジロ見られて、耐えかねたさくらがまた文句を言った。
 そのとき、お父さんが立ち止まった。
「ほら、さくら、蘭ちゃん、お母さん、見てごらん。あの子も大きな花束を持ってるよ。今から退院するんじゃないかな」
 廊下の角に、小さな女の子が大きな花束を抱えて立っていた。
 お父さんの声に気づいて、その子が振り向いた。
「あっ、さくらちゃんだ!」
 花ちゃんが、さくらに向かって駆け出した。
                                                

                                (了)
 
 
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