魔鏡の池

右京之介

文字の大きさ
上 下
1 / 1

魔鏡の池

しおりを挟む
                          「魔鏡の池」

                                          右京之介

                                                           
                                                        1
             
食品スーパーイコイの五台並んだレジコーナーは、買い物カゴやカートを押した客でいっぱいだった。
近くに同業者が出店したことで、急激に売り上げが低迷していたため、起死回生を狙って始めた、毎週金曜日の特売の効果が顕著に現れていたからだ。
明日の朝礼の店長のうれしそうな顔が、今から目に浮かぶようだった。
端にある一番レジを担当している星原奈保子は、お客が財布から小銭を出そうと、もたついている間、ふと、うなじの辺りに手をやった。
子供の頃からしばしば起きる錯覚。
奈保子はかなりのショートカットにしているため、頭の後ろには、手でかき上げるほどの髪はない。この店は主に食品を扱っているため、髪が長い人は後ろで縛るように指導されているが、縛るほどの長さもないため、その必要はない。
しかし、なぜか、うなじに手が伸びて長い髪の感触を確かめようとする癖があった。
また、ときどき背中の肩甲骨の辺りに長い毛の存在を感じることもあった。
子供の頃の写真は数枚しか残っていない。奈保子には両親がいなかったために、おじとおばに育てられた。二人ともあまり子供が好きではなかったようで、どこかに連れて行ってもらったなどという楽しい思い出はほとんどない。
無表情で写っている写真が数枚。
バックの景色を見ても、見覚えはなく、どこで撮ったかは覚えてない。
そして、そのいずれの写真も髪は短く、自分自身にもロングヘアにしていたという記憶もない。
しかし、髪を長く伸ばしている人のような仕草が出てしまう。
ふと、長い髪をなでつけるような仕草が出てしまう。
お客がお金を揃える間、何もない空間を無意識に手が往復していた。

奈保子はチラッと腕時計を確認した。
――五時五十分。
今日は早番のため、六時で交代する。交代要員は毎日六時から九時まで働いている近所の男子高校生の林くんだ。なんでも、オートバイが欲しくて、親にお金の無心をしたところ猛反対されて大喧嘩となり、話し合いの末、半分なら出してやるから、残り半分は自分で稼げと言われたらしい。
時給七百円じゃなかなか貯まらないでしょうと言うと、すでにお小遣いやお年玉を貯め込んでいるので、もう少し働いたら、目標の金額に達するんだと自慢げに語っていた。
高校生にしてはかなり大きなオートバイを買うらしい。それがどれだけすごい性能を持ったマシンなのかを、目を輝かせながら講義されたが、さっぱり理解できなかった。
「おばさん、メカに弱いねえ」とバカにされたが、メカに強い中年のおばさんなんて、電気屋に嫁いだ人くらいで、めったにいないだろう。
少なくとも、奈保子の周りには一人もいなかった。
「そのバイクは二人乗りなの?」
「当たり前じゃん! チビのスクーターじゃないんだからね」
「じゃあ、買ったら後ろに乗せてね」
彼はまばたきを止めて、UFOから片手を上げて出てきた異星人でも見るような目で奈保子をみつめた。

カゴに入った商品の上に有料レジ袋を乗せた時、その彼が背中からトントンと叩いてきた。
「おばさん、お待たせ。交代だよ」
全然似合わないオレンジ色のエプロンに、これまた似合わないオレンジ色の紙の帽子をかぶっている。帽子を取ると中からは、ツンツンととんがった茶色い髪が出てくる。たぶん、もっとカッコいいスタイルで仕事をしたいのだろうが、店の制服は決まっているし、オレンジ色はこの店のシンボルカラーだから、さすがのヤンキー高校生くんも文句は言えないようだ。
奈保子は特売品のレタスが売り切れたことと一円玉が少なくなってきたことを、手短に話して引継ぎを済ますと、
「じゃあ、がんばってね、林くん!」と、お返しに背中をドンと叩いて交代を済ませた。
彼は「おばさん、痛ェなあ」と言いながらも、名札についているバーコードから、自分の名前をレジスター内にインプットした。
若者よ、もうすぐ大きなオートバイに乗れるのだからがんばるんだよ。
一番レジには、まだまだ行列がつづいていた。

 同じく六時上がりだった仲間と、着替えを済ませた奈保子は、軽くお化粧を直し、買い物カゴを持って店内を回っていた。
一人暮らしだから、そんなにたくさんの食料は必要としないし、別段グルメでもない。少しでも安い方がいいに決まっている。今日は昨日の夜に作った五目ご飯があるから、あと少しのオカズだけでよかった。
夕方になって値下げシールが貼られた見切り商品を選んでカゴに放り込む。ときどき、顔見知りのお客さんが奈保子に気づき、会釈をして通り過ぎていく。
デザートのフルーツを選んでいるときに、一人のお母さんがカートを押してやってきた。カートには女の子が乗っている。
小さな子供ならカートの手すり部分に立って乗ることができた。カートはすでに商品で一杯だ。あとは奈保子と同じように、デザートを買うだけなのだろう。
二人の会話を聞いていると、明日、親子でフルーツケーキを作るようだ。何のフルーツをメインにするかの相談をしていた。
 奈保子はしばらくフルーツを取る手を休めて、楽しそうな二人を眺めていた。
この子は大人になったら、今日と明日の日のことを思い出すのだろうか。
お母さんとおいしそうなフルーツを選んだときのことを。
お母さんとキッチンで、かわいいエプロンをしながら、ケーキを作ったときのことを。

奈保子には、しばしば思い出す子供のときの光景があった。
場所はどこだか分からない。
自分の家の中だったのか、家族で遊びに行った他人の家だったのか。
お父さんとお母さんに微笑みかけられて座っている自分。
何を言われたのか、少し照れている自分。
手には本を持っているような感覚がある。
両親に絵本を読んでもらっていたのかもしれない。
その部屋には、朝なのか夕方なのか分からないが、柔らかい日差しが差し込んでいた。
その日差しが、部屋全体をやさしく包んでいるような気がしていた。
物心ついた頃から、奈保子には両親がいなかったはずだ。
なのに、思い出の光景には、お父さんとお母さんが出てくる。
そして何度も、二人の顔を思い出そうとするのだが、顔の部分に霞がかかったようではっきりしない。
しかし、奈保子はその絵本の光景を思い出すだけで、心が安らいだ。

近所に住む同級生の奥田さんがこのスーパーで働いていて、当時、専業主婦だった奈保子が離婚して途方に暮れているとき、だったらうちに来ない? と声を掛けてくれた。
それ以来、レジ係り一筋でがんばっている。
気がつくと、勤務してすでに十年が経つ。
バックヤードで青果物のパック詰め担当している奥田さんの次に古くなった。
その間に、何度店内改装をしただろうか。
そのたびにお客さんは増えて行ったのだが、今回の他社の出店は効いた。ここから至近距離にオープンしたからだ。しばらくは、金曜特売で対抗していこうという作戦らしい。  
昔から地元に密着しているため、新しい店に浮気したお客さんもふたたび戻って来てくれると思うのだが、この店がなくなってしまったら大変なことになる。チェーン店方式のスーパーではないため、ここにしか店舗はない。
五十五歳。独身。何も資格や特技はないため転職には厳しい年齢だ。
この店は若い奥さんのパートが多いため、子供の急病や学校の行事でよく欠員が出る。奈保子は原則として、毎週月曜日が休みだったが、そんなときは曜日に関係なく、代わりに出勤してあげていたため、仲間からは感謝され、歴代の店長からは重宝がられていた。
なんのことはない、ダンナも子供もいなくて、ヒマなだけだ。
年金の支給まであと十年。
家にいるより、少しでも外で稼いだ方がいいに決まっている。

                             2              

今日は火曜日のため出勤の予定だったが、先週の月曜日に休日出勤をしたため代休となり、昨日と今日で二連休になった。こうして、ときどき連休になる。
店長としては、今日も出てほしいと思っているのだろうが、労働基準法には勝てない。奈保子は久しぶりの連休にヒマを持て余し、若者が集まる通りをブラブラしていた。と
いっても、最初からここに来る予定はなく、歩いているうちに入り込んでしまったのだ。交代要員のヤンキー高校生の林くんのような男子がウロウロしている。平日の昼間から学校や仕事に行かないで何をしているのだろうか。
ふと、人ごみの中に、林くんが歩いているかのような錯覚がする。
まさか、背中をトントンと叩いてこないだろうけど。
午後二時。まだ授業中のはずだ。真面目に通学していたらの話だが。
年齢からすると、私に林くんくらいの息子がいてもおかしくない。いや、もうとっくに成人している子供がいてもおかしくない。並んで歩くと親子かそれ以上になるということか……。かなりわびしい。
買い物もせずに、バカな想像をしながら歩いていた奈保子は正気に戻り、一軒の店にふと目をやった。
若者向けの店が並んでいる中で、そこだけ異質な雰囲気を感じたからだ。
二十坪あるかないかの広さ。左側に大きなショーウィンドウがあり、右側に入り口がある。店構えは他の店と変わらなかった。しかし、売っているものが、若者好みの古着やアクセサリー類ではなかった。
“古道具屋 ショウハイ堂”
入り口の木製のドアは、開いたままになっていて、中には種々雑多の商品が、きれいに陳列されていた。
奈保子が知っている古道具屋というのは、いろいろなものが乱雑に置いてあったり、ぶら下がっていたり、中にはこんなものが売り物になるのかというようなガラクタが並んでいたりと、とにかく変わった店というイメージしかなかった。
しかし、この店は違っていた。
場所が場所だけに、きれいでおしゃれな店にしてあるのだろうか。看板がなければ、古道具屋とは分からず、他の店と同じような若者向けの雑貨屋で通用しそうだ。それにショウハイ堂という名前。なぜ、古道具には似合わないカタカナの名前なのだろうか。

 奈保子は古道具に興味があるわけでもなく、何か気になる商品を見つけたわけでもないのに、なぜか導かれるような気がして、その店へ入って行った。
入ってすぐ横の壁に、古物商許可番号の書かれたプレートと美術商共同組合員証のプレートが並んで張ってあった。
ちゃんとした店だ。
そして、店内は明るいオレンジ色系でライトアップされていた。
確かに、店内にはいろいろな古道具が並んでいる。
ランプ、掛け軸、羅針盤、蓄音機、書画、茶道具、陶器、ガラス食器など、和洋折衷の物が所狭しと置かれている。
中には少しだけだが古着類もあった。
若者の街の店にこんなおばさんが入ってきたら、変に思われるのだろうか。
それとも、古道具屋さんだから、ちょうど似合っているのだろうか。
入ってしまってから、自虐的にそんなことを思っていると、奥から店主と思われる人物が出てきた。
「いらっしゃいませ」
着物を着た茶髪のお兄さんだった。
着物と茶髪は似合わない気がするが。
「何かお探しですか?」
意外に若い人が出てきて驚いたため、適当に返事をする。
「いえ、前から気になっていた店でしたので、ついつい…」
若いといっても三十歳くらいだろうか。
なぜ、若いのに古道具屋さんをやっているのか興味が湧き、あれこれと訊いてみた。
ずうずうしいのは、おばさんの性分である。
その結果、分かったことは――。
 お父さんが先祖代々の古道具屋さんを他の街でやっていて、息子の彼はここに暖簾分けをしてもらったという。ショウハイ堂のショウハイとは中国語で子供のことらしい。
「ショウは小さいという字で、ハイは、万、億、兆、京の次のガイの土偏を子偏に変えた字です」
店主は奈保子の表情を伺いながら言う。
奈保子は頭の中に数字の単位を羅列してみたが、さっぱり分からない。
スーパーイコイで一万円以上の商品というと、秋に売り出す特製マツタケと年末に売る高級カズノコだけだ。
店主は少し困った顔をして、ふたたび説明した。
「咳という字の口偏を子偏に変えた字です」
頭に思い浮かべてみると、なんとなく分かったような気がした。
では、書いてみなさいと言われても困るが。
一応、奈保子が納得したような顔をしたので安心したのか、茶髪の店主はこの店の経緯を話し始めた。
自分はこの若者向けの通りで古着だけを売りたかったのだが、競合店も多いため、仕方がなく、いろいろな古道具類を扱っているうちに、興味と愛着が出てきて、ほらこの通り、古着は隅の方に追いやられたわけですと、ニコニコしながら説明してくれる。
確かに、この店の中でカラフルな棚に陳列された古着コーナーだけが浮いて見える。
「暖簾分けされた子供が経営しているからショウハイ堂です。それと、古道具を扱う大人からしたら、まだまだ幼い子供だから、ショウハイ堂と付けました。漢字だと読んでもらえないので、カタカナ表記にしてみました。自分では気に入っている名前です。こうして名前の由来を聞かれると、話のきっかけにもなりますしね」
親から受け継いだと思われる商売人の笑顔が、すっかり板についている。

 奈保子はそろそろ帰ろうと店内を見渡していた。話を聞かせてもらったので、せっかくだから何か買って行ってあげようと思ったからだ。
といってもあまり高価な物は買えない。小さな物を探していて、ある商品に目がいった。
直径十センチほどの何の変哲もない小さな鏡だ。これなら安そうだ。
「それは魔鏡というものです」
ただの鏡だと思っていたのに、なんだか仰々しい名前を言われたので、あわてて手を引っ込める。
「何をするものですか?」と訊いてみて、自分でもおかしいと思った。
鏡だから自分を映すのだろう。
しかし、店主は笑いもせず、大事そうに魔鏡なる鏡を手に取った。
裏には何か植物の彫刻が施されている。
「表面に細かい凹凸があって、こうやって光を反射させると――。ほら、あそこを見てください」
壁に仏さんの像が浮かび上がった。
鏡に自分を映すのではなく、鏡自身が映ったのだ。
「このように光さえあれば、どこにでも映して、お祈りができます。小さいから持ち運びもできます。中にはマリアや十字架が浮かぶものもあります。隠れキリシタンが密かに所持し崇拝していたようです」
奈保子は一目で気に入った。しかし、そんな特殊な鏡なら、高いだろうなと思った。
そんな気持ちを察してか、茶髪の店主は笑いながら言った。
「実はこれ、仕入れ値はタダなんです。蓬莱山の麓にある大きな池をご存知ですか?」

 知っている。
知っているも何も、今から五十年前、そこでとても悲しい出来事が起きた。
私にとっても、地元の人たちにとっても、忘れられない出来事。
当時の新聞にはトップニュースで報道された。
私の写真も大きく載った。
ときどき、夢の中にも出てくるあのときの光景。
あのとき、私はどうなったのだろうか?
ずぶ濡れの私は……?
泣きながら走った私は……?
そして、弥生ちゃんは……?
記憶がそこだけ切り取られたように飛んでいた。
あの忌まわしい池がどうしたというのだろうか。

奈保子が一瞬の回想から現実に戻り、店主に向って、そこならよく知っていますと言ってうなずくと、それなら話が早いとばかりに語り出した。
「その池を埋め立てて、宅地にすることが市議会で決まったのです。年が明けて池の水を抜いたところ、泥の中からこの魔鏡が出てきました。そこで、市の担当者とコネがあった父が貰い受けて、私のところにやってきたというわけです」
店主は、魔鏡をひょいと奈央子の手のひらに乗せた。
「そういうわけなので、一万円でいいですよ」
奈保子は、魔鏡に自分の顔を映してから裏返してみた。
端の方にひらがなで、“げん”と書かれていた。
作った人の名前だろうか。それともどこかの地名だろうか。
その横には、昭和四十八年一月二十七日製作と彫られていた。
奇しくもそれは、今から五十年前の年だった。

                            3

 奈保子はその夜から金しばりに襲われた。
朝方だろうか、ベッドの上で横を向いて寝ていると、背中に何かの気配を感じた。一人暮らしのため、家には他に誰もいない。
体を動かそうにも、固まって動かなかった。声も出せない。
閑静な住宅街。近所の家々は静まり返っている。何も物音がしない部屋の中。
私の背中に誰かがいる。
これが金しばりというものか。
冷静なもう一人の自分が状況を判断する。
金しばりといっても目玉は動かせた。ベッドのシーツ、壁から天井へと目を這わせる。――異変は何もない。
ただ、暗闇に包まれているだけだ。そして、闇の中には何も見えない。
落ち着いて、全身の力を抜いた。
そして、一気に起き上がった!
ウゥ……。
金しばりが解けて、背中から気配が消えた。
肩で息をしながら後ろを振り向くが誰の影もない。
タンスの上で、ミシッという音がした。
その音は天井を這い回り、エアコンの送風口のあたりで、再びギッと音を立てた。
部屋の中を音が移動している。背中から抱きついていた物の正体かもしれない。
奈保子は、ふと、うなじの辺りに手をやった。
長い髪の錯覚が起きる。
さっき抱きつかれていた背中に、サラサラと長い髪がかかってきた。

 翌日は、寝ているときに左足をズルズルと引っぱられた。
目を覚ますと、体が半分、ベッドからずり落ちそうになっている。
あわてて枕をつかもうとしたが、金しばりにあっていて体が動かない。
昨日の要領で、一度全身の力を抜いた。そして、ありったけの力を右足に込めて動かすと、脱出できた。
そして、またもや、ミシッという音が部屋中を飛び回る。
音の方向を目で追っているうちにやってきた長い髪の幻影。
両手を背中に回してみるが、もちろんそこまで髪はかかっていない。
シンとする夜中の街。
みんなは平和そうに寝ているというのに、この部屋には魔物がいる。
あの魔鏡を買ってからだ。こんな現象が始まったのは。
奈保子はベッドから起き出して居間に行くと、壁に下げていた魔鏡をはずして手に取った。
蛍光灯に反射して、仏さんの像が天井に浮かび上がる。
仏さんというのは我々を守ってくれる存在じゃないの?
どうして化け物が出るのよ。
何か他に秘めたものがあるの?
だったら教えてよ。
奈保子は仏さんにさんざん毒づいて、最後に、いい加減にしないと割っちゃうよと脅しておいた。
ずうずうしいのは、おばさんの特権だ。
やはり、あのときの事故と関係しているのだろうか。 
この魔鏡の発見場所も、事故が起きた現場も、あの池だった。
そして、魔鏡の裏に記された日付と、あの事故のときの日付は数日しか、ずれていない。
偶然の一致とは思えなかった。

「ねえ、金しばりにあったことある?」
奈保子は休憩室でお弁当を食べながら、パート仲間のユウちゃんに訊いてみた。同級生の奥田さんも一緒だったが、何となくこういう話は若い子の方が知っていると思ったからだ。
ユウちゃんはまだ学生でも通用しそうな童顔で小柄な女性だが、すでに子供は三人もいた。
「ありますよー。高校生のとき、昼寝していたら、かかっちゃいましたー。奈保子さんもかかったんですかー?」
「えっ。あれは、かかるって言うの? まあ、いいけど。昨日来たのよ、夜中に」
本当は毎晩来ているのだが、不気味がられてはいけないので、昨日だけのことにしておいた。
「でも、手先から少しずつ動かしていったら逃げられますよー」
「なんとか逃げたんだけどね」
ユウちゃんは箸を持つ手を休めて、話してくる。オカルトに興味があるのか、目がまん丸になってくる。
奥田さんは話に加わらず、嫌な顔をしながら、黙々と箸を動かしている。
「そのとき、音しませんでしたー? ラップ音って言うんですけど」
「した、した。ミシミシ言っていたわよ」
「でしょ! でしょ! それと小さい光の玉を見ませんでしたー?」
「うーん。玉は見えなかったね」
「今度見ておいてくださいよー。ちっちゃいのがフワフワ浮いているはずですよー」
ユウちゃんは箸を完全にお弁当箱のフタの上に置いて話してくる。両手をテーブルについて、上半身は完全にこちらに乗り出している。たぶん両足は爪先立ちになっているはずだ。
「テレビカメラが偶然キャッチした映像を見たことがあるんですけど、怖かったですよー」
「でも、どうして金しばりに会うのだろうね」
「霊が何かを訴えているらしいですよー。何か言っていませんでしたー?」
「霊とか玉と会話できたら怖いでしょ」
「いいな、いいなー。私のところにも来てくれないかなー。ねえ、奈保子さん、私の家にも来るように話しておいてくださいよー。エート、住所はねえ……」
ユウちゃんの言葉は、無人駅を通過する特急列車のように、奈保子の頭の中を順番に素通りしていく。
奈保子は適当に返事をしながら、別の事を考えていた。
やっぱり、何かの霊が家にいるのか……。
でも、霊が何かを訴えてきているにしても、今まではこんなことはなかった。ここ数日の間に変化があったといえば、あの魔鏡を買って帰ったことくらいだ。魔鏡に何かが憑いていたのだろうか。
あの茶髪の店主は何も言っていなかったはずだ。何か知っていたら教えてくれただろう。
話した感じでは、隠し事をして他人を陥れようとする人ではなかったからだ。
奈保子はまた無意識に首の後ろに手をやっていた。背中にも感じる長い毛の錯覚。
ふと、我に返ると、ユウちゃんは自分のケータイ番号を私に告げている。
霊に電話をかけてほしいらしい。
魔鏡のことはユウちゃんに黙っておこう。
教えてしまうと、家までビデオカメラを持って見学に来るだろう。
そして、きっとそれをSNSにアップするはずだ。

                        4

かつて、蓬莱山の麓に大きな池があった。名前はない。地元ではため池と呼ばれていた。
周りは田んぼや畑だったので、水源として使われていたし、魚も生息していたので、ときどき釣り人も見かけられた。
今から五十年前、星原奈保子は五歳だった。近所に住む同じく五歳の福道寺弥生ちゃんと、この池のほとりで遊んでいた。
雑草や藻は生えておらず、水は透き通っていて、底の砂地の模様までよく見えた。ときどき、ピュッと魚が通り過ぎた。
そこで何の遊びをしていたのだろうか。
カエルでも捕まえようとしていたのか、泳いでいる魚を見ようとしていたのか、記憶は定かでない。
どういう経緯があったのか、二人はケンカになった。
そして、二人とも池に転落した。
池は底が見えているくらいだったが、五歳の子供にとっては意外と深かった。
奈保子は強引に口の中に入り込んでくる水と格闘しながら、両手と両足を懸命にバタつかせていた。
たぶん、ほんの数秒のことだっただろうが、その時間は永遠に思えた。
やがて、意識が薄れ出して、体に力が入らなくなった。
自然にまぶたが閉じてしまい、あたりが真っ暗になった。
もうダメだと思ったとき、一筋の光が見えた。
なんの光だろう?
その光を見つめているうちに、体は岸にたどり着いて、ヨロヨロと立ち上がることができた。
弥生ちゃんは……?
咳き込みながら、ため池を見下ろしたとき、水面には、うつ伏せになった弥生ちゃんの黒い髪が広がっていた。
それはまるで、真っ黒なクラゲが足を伸ばしたように、ユラユラと浮いていた。
そして、クラゲの周りには花びらが浮いていた。
――弥生ちゃんが大変だ!
でも、私一人では助けられない。
ずぶ濡れの私は走った。
泣きながら、弥生ちゃんの家へ走った。
弥生ちゃんの両親は共働きで留守だが、おばあちゃんがいるはずだ。
そのおばあちゃんは、耳が遠くて呼び鈴を押しても、なかなか出てこない。
玄関先に置いてある牛乳箱の中に隠してある鍵を取り出して、家に入り込んだ。
全身から滴をポタポタとしたたらせて私を見て、おばあちゃんは悲鳴を上げた。
「おばあちゃん、私だってば!」
「――えっ? ああ、奈保子ちゃん!」
「えっ? 違うよ。あっ、そうだよ。――あの、弥生ちゃんが……」

気が動転しているらしい奈保子から、なんとか事情を聞き出したおばあちゃんがあわてて警察に連絡して、救助に向ってもらったが、弥生の息はすでに切れていた。
 
 それ以来、奈保子はずっと悩み続けていた。
あのとき、二人はケンカになって池に転落した。
果たして、二人は偶然落ちたのだろうか?
私が……。
私が弥生ちゃんを押したのではないだろうか?
そして、勢い余って、自分も落ちたのではないだろうか?
でも、それを認めることが怖くて、勝手に落ちたと自分に言い聞かせているのではないか。
弥生ちゃんはもういない。証拠はないし、目撃者もいない。
警察に事情を聞かれたときも、おじとおばに事情を聞かれたときも、分からないで通した。
気がついたら二人とも池の中に落ちていたと、泣きながら証言した。
実際に岸辺には、二人が足を滑らせた跡がついていた。
本当はどうだったのだろうか?
私が突き落としたというのに、二人は足を滑らせて偶然に落ちたと、無理矢理信じ込んでいるうち、そのイメージが確立されてしまったのではないか?
子供の頃からのその罪悪感が、長い髪の幻想となって現れているのではないか?
私は子供の頃からショートカットだ。
でも、長い髪の幻想が首の後ろに、肩の上に、背中の真ん中にゆらりと伝う。
あの水面に広がる弥生ちゃんの長い髪。
長い髪にまとわりつく花びら。
漂う、漂う。
長い髪がユラユラと漂う。
うつ伏せの弥生ちゃんは、両手を広げて浮いていた。

                               5

 翌日、奈保子が出勤してくるのを待っていたかのように、ユウちゃんが話しかけてきた。就業までには、まだ少し時間がある。
「奈保子さーん、私、あれから夜中の一時まで寝ないで考えてみたんですけど、最近変な物を買ってません?」
ユウちゃんには透視能力があるのかと思ったが、奈保子は黙っていた。古道具屋さんで買った物があるなんて言うと、彼女はその気になってしまう。
当たったのは偶然に違いない。
「毎日の食料しか買ってないけどね」と言ってごまかす。
「うーん、そうですかー。じゃあ、その食料の中に変な霊が憑いていたんじゃないですかー?」
「食べ物に霊が憑いていたら、怖くて何も食べられないじゃない」
「そうですねー。でも、奈保子さんに悪さをする霊が、何かから飛び出てきたと思ったんですけど、違うのかなー」
「一生懸命に考えてくれたのは有難いけどね。――あっ、ほら、もう時間だよ」
奈保子とユウちゃんはあわててオレンジのエプロンを着ると、朝礼の場に向った。
パート従業員を前にして、店長の機嫌は良かった。
一時落ち込んでいた売り上げが徐々に回復し出したからだ。
コンピューターから排出された昨日の各売り場の売り上げ数字を、うれしそうに読み上げている。
しかし、奈保子はさっきユウちゃんに言われたことが気になっていた。
“何かから霊が飛び出てきた”
その何かは魔鏡しかない。
昨晩も金しばりにあった。
目を凝らして闇の中を見たが、ユウちゃんが言っていた光の玉なんか見えなかったし、こちらから訊いたわけではないが、霊は何も語らなかった。いつものように全身に力を込めて金しばりから逃げ出すと、ラップ音が部屋を駆け回るのを目で追いかけた。その音はミシミシというだけで、人の声には聞こえなかった。
霊はいったい私に何を伝えたいのだろうか。
最初に現れたとき、霊はただ私の背中にたたずんでいた。
その次は足を引っぱられた。
昨日は肩を揺すられた。
霊の行動はだんだんエスカレートしていく。
そして、霊は今夜もやって来る。
ラップ音を立てながら寝室を駆けまわる。私に何かを告げるために。
最後に店長は、数字が載った用紙を片手で振り回しながら大声で叫んだ。
「今日もこの調子でがんばって行きましょう! えい、えい、おー!」
毎朝朝礼の最後にやる儀式だ。最初は嫌だったが、慣れというものは恐ろしい。古株の奈保子は右手を振り上げて大声で復唱した。隣で奥田さんもやっている。
「えい、えい、おー!」「えい、えい、おー!」
パートのおばさん連中の声が高い天井に反響した。
しかし、叫びながらも奈保子は頭の中で違うことを考えていた。
“あの古道具屋さんにもう一度行ってみよう”

 古道具屋ショウハイ堂は、相変わらず異質な佇まいを見せて建っていたので安心した。
もしかしたらあれは夢の中のできごとで、来てみたらそんな店はありませんよと言われそうな気がしていたからだ。それじゃ丸っきり、ユウちゃんが好きそうなオカルトになってしまう。
店主も相変わらず、よく似合う和服姿で出てきた。
「先日の魔鏡はいかがでしたか?」
奈保子のことを覚えてくれている。
「リビングに飾っていますよ。お守り代わりにと思って」
本当はお守りどころか、魔鏡が来てから毎晩、変な出来事が起きている。
でも、それは黙っておこう。
何の根拠もないし、せっかくお父さんから貰い受けた物なのに、気を悪くされたら大変だ。
しかし、あの魔鏡に何かがあることは確かだ。
ユウちゃんじゃないけど、夜遅くまで一生懸命に考えてみた。
そして、一つの考えに至った。
ユウちゃんは、何かから霊が飛び出てきたと言った。
つまり、あの魔鏡が霊の出口になっている。
ということは、どこかに入口があるはずだ。

「先日、あの魔鏡は池の中から見つかったと聞きましたが、あれ一枚だけだったのですか?」
茶髪の店主は、ただの中年のおばさんの質問に、思わずホウと感心した声が聞こえてくるような顔をした。
奈保子は図星を指したと思った。
「いえ、もう一枚あると思われます」
かつて魔鏡が置いてあった売り場には、勾玉の首飾りが並べてあった。
店主はそれをジャラリと手に取って言う。
「あの魔鏡がため池から見つかったとき、私も父もその場にはいませんでした。かなり泥が堆積していて、その中から出てきたそうです」
奈保子は子供の頃を思い出した。あの事故以来、ため池には行っていない。あの頃は池の底が透けて見えるくらいに澄み切っていたのに、五十年の歳月が池を汚してしまったのか。
「だから、もっと深く掘れば出てくるかもしれませんが、水を抜いてそのまま埋め立てたそうです」
あのとき、早く池がなくなってしまえばいいと思っていた。
用事があるときも、あの池をわざと遠回りして通っていた。
弥生ちゃんのゆらゆらとした黒髪を思い出してしまうからだ。
五十年の年月が経ち、弥生ちゃんの記憶も薄れてしまった頃に、埋め立てられるとは皮肉なことだった。
「ところで、あの魔鏡の裏に書いてあったことを覚えておられますか?」
店主の声に奈保子の意識はふいに現在に戻った。
「確か、昭和四十八年の日付と、ひらがなで、“げん”と書いてあったと思いますが」
「そうです。“げん”です。私がもう一枚あると言った根拠はそれです。たぶん、もう一枚には“おう”と書かれているはずです」
「げんとおう――ですか?」
「いや、逆です。おうげん。おうかんの古い言い方です。往還、つまり、行って帰ることです」
やはり魔鏡の仕業だ。
まだ池に沈んでいるであろうもう一枚の魔鏡が入り口になって、家にある魔鏡から霊が出て来てるんだ。
「二つの鏡は対になっていた。つまり、夫婦茶碗ならぬ夫婦鏡のようなものですね」
店主のそんな軽いジョークも、奈保子の頭の中には入って来なかった。
二つの鏡が呼応し合っている。
なぜ、あの池に二つの魔鏡が沈んでいたの?
あの池で何が起きたの?
弥生ちゃんの黒髪がユラユラ広がるため池で――。

                              6

 子供の頃から奈保子には両親がいなかった。
しかし、柔らかい日差しを浴びながら、両親に絵本を読んでもらっている光景が幾度となく浮かんでくる。
辛いことや悲しいことがあったときは、その光景を思い出して、心を休めている。
夫と離婚したときも、仕事でちょっとしたミスをしたときも、その光景に包まれて温かい気持ちになり、何度救われたか分からない。
でも、私の両親はどうしたのだろう?
死んでしまったのか、私を置いてどこかへ行ってしまったのか記憶にはない。もし死んでいたら、どこかに仏壇があるはずだし、お墓もあるはずだ。
私を育ててくれたおじとおばは既に他界している。仏壇もお墓のことも聞いたことはない。いつか訊こうと思っていたのだが、訊いてはいけないような気がして、その機会もなく、相次いで逝ってしまった。
「私は小さい頃、何て言ってた?」
同僚であり、幼稚園からの同級生である奥田さんに尋ねてみた。
「亡くなったって聞いたけどねえ。自分では覚えてないの?」
「その辺の記憶がすっぽりと抜けてるんだよね」
奥田さんは呆れることもなく、真剣に思い出してくれている。
「なんだか二人とも病気で亡くなったらしいよ。伝染するような病気だったのかもね。あまりにも悲しい体験だったから、記憶が飛んだのかもしれないね。そういうことがたまにあるみたいだし」
両親の死のショックで、記憶がなくなってしまった?
もしかしたら、外で遊んで家に帰ってみたら、二人が死んでいたのかもしれない。
それを見たショックで記憶が飛んだ?
戸籍謄本や住民票を見れば、死亡年月日が分かる。しかし死因までは記載されていない。
「ご両親が病気で亡くなったというのは、奈保ちゃんから聞いたんじゃなくて、学校の先生か近所の人から聞いたと思う。――そうだ、花屋のおばあちゃんに訊いてみたら?」

 その花屋さんは何年も前に廃業していた。
文字が薄れて、何の店かは分からなくなっているが、看板だけはかかっている。その看板をはずすだけで、かなりの金額がかかるというので、そのままにしてあるという。入口は半分シャッターが下りている。シャッターには花の絵が描いてあって、その当時の名残がうかがえる。一目見れば営業はしてないことが分かるので、お客さんが入ってくることはないのだろう。
ここに元店主であるおばあちゃんが一人で住んでいる。
花屋はとっくに閉めているが、近所の人たちは、いまだに親しみを込めて花屋のおばあちゃんと呼んでいる。
奈保子は奥田さんに言われて、このおばあちゃんに自分の両親のことを訊きに来た。もう九十歳近いだろうか、この辺りでは一番のお年寄りだからだ。しかし、体は元気で、頭もしっかりしていた。
訊いてみると、やはり奈保子の両親は病死していた。病名は分からないという。二人はほぼ同時に亡くなったらしい。お葬式に行った記憶はないというから、身内だけで済ませたのだろう。身内といっても、おじとおばしか知らないが。
それにしては、仏壇もお墓もありませんがと言うと、おばあちゃんは、そういうものを作らない宗教もあるからねと教えてくれた。
私の両親はそんな宗教に入っていたのだろうか。
「亡くなったのは、あんたが三歳くらいのことだよ」
三歳――?
あの絵本を読んでもらっている記憶はそれより前の記憶なのか?
一歳か二歳。
そんなに小さい頃の記憶なのだろうか。
花屋のおばあちゃんからの情報はそれくらいしかなかった。
その後は、お互い久しぶりに会ったために、いろいろと世間話をしていた。
一人暮らしのおばあちゃんも話し相手がほしかったのだろう。手土産に持参した和菓子をつまみながら話がはずんだ。そしていつしか、埋め立てられたため池の話になった。そこで、奈保子は意外な事実を聞かされた。
弥生ちゃんがため池に落ちて溺死した一ヶ月程前に、弥生ちゃんの両親がその池で亡くなっていたのだ。
奈保子にはそんな記憶もなかった。
知っていたら、あの池では遊ばなかっただろう。
いや、もしかして子供同士で何らかの供養をしてあげようと、出掛けたのかもしれない。
「当時、弥生ちゃんの両親は家具屋さんをやっていてね、二人で車に乗って家具を配達しているうちに、あの池に落ちたんだよ。雨でタイヤが滑ったみたいだね」
「二人で家具を配達ですか?」
「そうよ。大きな家具は従業員が運んでいて、二人は女性でも持てる程の小さな物を軽トラックで運んでいたらしいよ」
手で持てる小さな物……?
「二人は落ちてどうなったのですか?」
「警察が来て車を引き上げたけど、もう亡くなっていたらしいね」
「あの……、家具はどうなったのでしょうか?」
「まあ、どうだかねえ。ちゃんと車に乗せてあったら、一緒に引き上げたのだろうけどね」
「小さい物は……?」
「小さかったら、沈んじゃったんじゃないかね。あるいは、プカプカ浮いてどこかへ行ってしまったか。あのため池は弥生ちゃんと両親の三人が悲劇にあった池なんだよ」
 花屋のおばあちゃんは悲しそうに語った。
 手で持てる小さな物こと魔鏡は、弥生ちゃんの両親が運んでいたものではないのか?
魔鏡の裏に書かれた五十年前の日付と、往還を意味する“おう”と“げん”という文字。
何かがつながりそうだ。
もう一つ、聞きたいことが浮かんだ。
「おばあちゃん、子供の頃、私の髪の毛は長かったですか?」
「髪の毛?――ああ、あんたは昔っから、短いままだったよ。ほら、弥生ちゃんが池に落ちたとき、あんたがずぶ濡れになって走る姿を店先で見かけたんだよ。何事かと思ってね。そのとき、あんたの短い髪が頭にべったりと張り付いておったなあ」

                          7

 その夜も奈保子は金しばりにあった。
横を向いて寝ているときに、背中から抱きつかれたのだ。何度目かの金しばりだったが、直接、体を押さえられたのは初めてだった。昨晩は肩を揺すられたと思ったら、今夜はさらに強引な行動に出てきている。
逃げようと思えば逃げられた。いつものように、タイミングを計って全身に力を入れればいいだけだ。
しかし、今夜は違った。かろうじて指先や口が動くようになるくらいで止めておいた。
一つの考えがあったからだ。
ユウちゃんが言っていたっけ。
「霊が何かを訴えているらしいですよー。何か言っていませんでしたー?」
いったい私に何を訴えているというのか?
魔鏡を手にしてから現れだした霊。
霊が最初に現れたとき、私の背中にたたずんでいただけだった。
それが、足を引っぱり、肩を揺すられて、背中から抱きつかれた。
霊の行動が日に日にエスカレートしていく。
私に何かを気づかせようと、霊が急いでいる。
奈保子は背中に重さを感じながら霊に訊いた。
「あなたは何を焦っているの?」
――スッ。
とたんに、背中が軽くなった。霊が離れたのだ。
おそらく、霊は私の声が聞こえて、理解ができる。
金しばりがはずれた奈保子はもう一度言った。
「あなたは何を訴えたいの?」
ミシッ、ミシッ、ミシッ。
ラップ音が部屋を走る。
半身を起こした奈保子は音がする方向に向って言った。
「あなたはいったい誰なの?」
ラップ音が壁で止まった。
そして、霊は低い声で答えた。
「ほしはら なおこ」
奈保子は叫んだ。
「それは……、それは私の名前です!」

 今から五十年前、五歳だった福道寺弥生は、ため池に友達の星原奈保子を連れてやって来た。家の近くできれいな花を見つけたため、池で死んだお父さんとお母さんにお供えしようと、摘んで持って来たのだ。
そして、池にその花を投げ込んだとき、二人はささいなことでケンカになった。ため池のほとりに立っていた奈保子と弥生は、もみ合って池に転落した。
そこに、“往”と“還”の二対の魔鏡が沈んでいた。
弥生の肉体を抜けた魂は“往”の魔鏡に入り、“還”の魔鏡から出て奈保子の肉体に入り込んだ。
まったく知らなかった奈保子の肉体であったが、そこにはまだ魂が残っていたときの記憶があり、感性があり、香りがあった。弥生の魂はうまく肉体と連結した。
一方、奈保子の魂も魔鏡を介して、弥生の肉体に向かったが、すでに溺死していて、入り込むことは不可能だった。
弥生の体はうつ伏せのまま、長い髪を広げて池に浮いていたのだ。
彼女の周りを、さっき投げ入れた花から散った花びらが取り囲んでいた。

奈保子は動かないで、壁で止まっているラップ音の方向を見た。
「つまり、私は……」
壁から低い声が聞こえてきた。
「あなた は やよい ちゃん」

 私は、かつて長い髪の福道寺弥生だった。 
私が長い間、感じていた長い髪の記憶は弥生ちゃんの記憶。
子供の頃から短い髪だったのに、首のうしろや背中にかかる長い髪の感覚は弥生ちゃんの記憶だった。
弥生ちゃんが溺れたとき、私は弥生ちゃんの家に走った。
何も知らず、弥生ちゃんの魂を体内に秘めたまま。
そこで、私は知るはずのない弥生ちゃんの家の鍵を、古い牛乳箱の中から探し出した。
私が家に入って行くと、おばあちゃんが言った。
「ああ、奈保子ちゃん!」
私は奈保子のはずだった。
しかし、まだ魂の奥底の部分ではうまくつながっていなかったらしく、
「えっ? 違うよ。あっ、そうだよ。――あの、弥生ちゃんが……」
自分が誰なのかが、とっさに理解ができなかった。

その後、福道寺弥生は星原奈保子として五十年を生きた。

「あなた に あやまりに きました」

 あのとき、二人は池に向って花を投げた。
しかし、一本の花だけが遠くに飛ばずに落ちてしまった。
弥生はそれを池の中まで拾いに行こうとしたが、奈保子が危ないからと止めた。
そこでケンカになり……。

「わたし は あなたを おしたのです」

押された奈保子は池に転落し、バランスを崩した弥生もつづけて落ちてしまった。

「わたし が あなたを ころしたのです」

何もない壁から低い声が聞こえてくる。
奈保子はベッドの上に座りなおして、壁と向き合った。
いつも見慣れているザラザラとした薄茶色の壁。
そこに、福道寺弥生が来ている。
五十年前に二人を襲った悲惨な事故。
ずっと、私が弥生ちゃんを押したのではないだろうかと悩んでいた。
だから、その後ろめたい思いが、私に長い髪の幻想を呼んでいると思っていた。
でも、違った。
弥生ちゃんが私を押したという。

「わたし には じかん が ないのです」

年忌――死者の冥福を祈って命日に行う供養。 
一周忌、三周忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌とつづき、最後は五十回忌で終わる。
それはなぜか?
死んで五十年が過ぎると、完全にあの世の住民となるからだ。
そして、五十年が過ぎると、この世に帰ることが不可能になる。

「わたし が あなたを ころしたのです。ずっと このことを つたえようと おもってました でも……」  

 伝達方法がなく、あきらめていた。
しかし、偶然にも霊の通い路としての役目を持つ、あの魔鏡がふたたび陽を浴びた。

「ごめんなさい あなたを そんなめに あわせてしまって」

 私は弥生ちゃんの魂を持った星原奈保子。
確かに、それは衝撃的な告白だった。
ときどき頭の中を、意味不明な記憶が錯綜していた。
それは、かすかに残っている弥生ちゃんの過去の記憶の断片だった。
しかし、それは私の人生に何の苦悩も障害も与えなかった。
私が誰なのかは、たいしたことじゃない。
恋をして、結婚して、離婚も経験した。
子供もなく、今は一人暮らしだ。
他人と比べると、少しだけ寂しいかもしれない。
たかがスーパーのパートのおばさんかもしれない。
でも、決して後悔することなく、私は私なりに精一杯生きてきた。
そして、悲しいときや、落ち込んだときは……。
あの光景――。
柔らかい日差しを浴びながら、両親に絵本を読んでもらっている光景。
私には両親の記憶がまったくないというのに、あの温もり、あのやすらぎ。
あれは、弥生ちゃんの記憶だったんだ。
私はあの記憶のおかげでどんなに救われたことか。
私はあの幼い記憶のおかげで、今までしっかりと生きてこられたんだ。

奈保子は薄茶色の壁に向かって話した。
「弥生ちゃん。私はあなたの魂を持っていてよかった。だから、私に謝らないで。もう会えないのかもしれないけど元気でね。あれから五十年もたったけど、私たちはずっと友達のままだからね」
 
 やがて、何も見えなかった壁に、五歳のころの弥生が浮かび上がった。 
 弥生は笑っている。
今まで低く聞こえていた壁からの声が、五歳のころの声に戻った。
「奈保ちゃん、ありがとう。あの頃は楽しかったね」
「うん、楽しかったね。弥生ちゃん、また一緒に遊びたいね」
「最後に話ができてよかった。――私はもう行くね」
「待って! 最後に弥生ちゃんに訊きたいことがあるの。――場所を教えてほしいの」

ラップ音は消えて、壁は元の何の変哲もない壁に戻り、部屋に静寂が訪れた。
もう何も言わなくなった壁を見ているうちに、奈保子の頭の中には弥生とのたくさんの想い出が蘇ってきた。
そして、ベッドの上に座ったまま朝を迎えた。

                              8

「おーい、おばさーん!」
奈保子は周りを見回して、おばさんと呼ばれる人種が自分しか歩いてないのに気づいて、仕方なく後ろを振り返った。
大きなオートバイにまたがったヤンキーの林くんが、ヘルメットのフードを少し上げて、照れた顔をしながら手を振っていた。
あたりにエンジン音がグォングォンと響いている。
「あらっ、ついに買っちゃったの?」
「エヘヘ、バレた?」
「バレたって、林くんが呼んだのでしょ。――あらっ、この予備は私のために買ったのね」
奈保子はバイクの横に下がっているヘルメットを指差した。
「何言ってるんだよ! これはさあ、彼女とさあ……」
「彼女なんていないでしょ!」
「ヘルメットにおばさんの臭いが付くだろ」
「後でファブリーズすればいいでしょ。さあさあ、乗せなさい」
「まったく、信じられねえよ」
 奈保子はよっこいしょと言って、後部座席にまたがった。

 山の頂上へ向って、新品のオートバイが登って行く。
奈保子は後部座席から、大声で林くんの後頭部に叫ぶ。
「将来、彼女ができて乗せてあげたときに、転んだらダメでしょー。これは予行演習だと思ってがんばってねー。私は見ての通り、転んでもケガするようなヤワな体形じゃないから安心してねー」
しかし、林くんは運転に集中していて答えてこない。免許取立てには厳しいほどの急カーブが続いていたからだ。
やっと直線の登りになったところで、林くんが顔をやや後ろに向けて叫んだ。
「それよりさー、おばさん、何で花を持っているの!?」
「着けば分かるよー!」

 頂上には大きな墓地が広がっていた。
「おばさん、マジかよ。墓だらけじゃねえかよ」
「あらっ、知らなかったの。けっこう有名な墓地なんだけどね。ここに来る途中にも、案内看板が出てたでしょ」
「そんなの見ている余裕はねえよ」
林くんはあきれた顔をして、風が吹き渡る墓地を見渡した。
お墓参りに来た人たちが、花やバケツを持って歩いている。
「まったく、初デートがデカい墓場なんて聞いたことねえよ」
そう言って、新しいヘルメットを脱ぎ始めた。
奈保子は林を置いて、管理人がいる小さな建物に向ったが、すぐに戻ってきた。
「誰もいないみたいだから、林くん手伝ってね」
「えっ、何をするわけ?」
「探すの――」
私のお墓をね。

 奈保子は林に福道寺弥生の名前を教えた。
「その人のお墓が見つかったら、教えてちょうだいね」
いったい、お墓は何基あるのだろうか。この中から探すのは大変だ。
二人で手分けをすることにしたが、しばらく探してみて分からなかったら、管理人さんが戻るのを待つことにしよう。きっとお墓の地図のような物があるだろう。
林くんはブツクサ言いながらも、奈保子とは逆方向に歩き出した。
奈保子もお供えをする花束を抱えながら、石畳を歩き出した。
そのとき――。
「おばさーん、おばさんは絶対俺のこと尊敬するぜー!」
林くんが二十メートルほど向こうから叫んでいる。
「えっ、どうしたのー!?」
「もう見つけたぜー。弥生さんのお墓ー!」
二つの大きなお墓に挟まれて、小さなお墓がポツンと建っている。
「ほら、そこから見えるー? これがそうだよー!」
林くんが自慢げに指を差している。
奈保子は花束を持って、全力で駆け出した。
「そんなに急がなくても、墓は逃げないぜー!」
たった二十メートルの距離を、おばさんとは思えない猛スピードで、
胸ポケットに入れた魔鏡の重さを感じながら、懸命に走った。

                          (了)
しおりを挟む

この作品は感想を受け付けておりません。

あなたにおすすめの小説

がんばれ宮廷楽師!  ~ラヴェルさんの場合~

やみなべ
ファンタジー
 シレジア国の宮廷楽師としての日々を過ごす元吟遊詩人のラヴェルさんよんじゅっさい。  若かりし頃は、頼りない、情けない、弱っちいと、ヒーローという言葉とは縁遠い人物であるも今はシレジア国のクレイル王から絶大な信頼を寄せる側近となっていた。  そんな頼り?となる彼に、王からある仕事を依頼された。  その時はまたいつもの戯れともいうべき悪い癖が出たのかと思って蓋を開けてみれば……  国どころか世界そのものが破滅になりかねないピンチを救えという、一介の宮廷楽師に依頼するようなものでなかった。  様々な理由で断る選択肢がなかったラヴェルさんは泣く泣くこの依頼を引き受ける事となる。  果たしてラヴェルさんは無事に依頼を遂行して世界を救う英雄となれるのか、はたまた…… ※ このお話は『がんばれ吟遊詩人! ~ラヴェル君の場合~』と『いつかサクラの木の下で…… -乙女ゲームお花畑ヒロインざまぁ劇の裏側、ハッピーエンドに隠されたバッドエンドの物語-』とのクロスオーバー作品です。  時間軸としては『いつサク』の最終話から数日後で、エクレアの前世の知人が自分を題材にした本を出版した事を知り、抗議するため出向いた……っという経緯であり、『ラヴェル君』の本編から約20年経過。  向こうの本編にはないあるエピソードを経由されたパラレルの世界となってますが、世界観と登場人物は『ラヴェル君』の世界とほぼ同じなので、もし彼等の活躍をもっと知りたいならぜひとも本家も読んでやってくださいまし。 URL http://blue.zero.jp/zbf34605/bard/bardf.html  ちなみにラヴェル君の作者曰く、このお話でのラヴェルさんとお兄ちゃんの扱いは全く問題ないとか…… (言い換えればラヴェル君は本家でもこんな扱われ方なのである……_(:3 」∠)_)

死亡フラグだらけの悪役令嬢〜魔王の胃袋を掴めば回避できるって本当ですか?

きゃる
ファンタジー
 侯爵令嬢ヴィオネッタは、幼い日に自分が乙女ゲームの悪役令嬢であることに気がついた。死亡フラグを避けようと悪役令嬢に似つかわしくなくぽっちゃりしたものの、17歳のある日ゲームの通り断罪されてしまう。 「僕は醜い盗人を妃にするつもりはない。この婚約を破棄し、お前を魔の森に追放とする!」  盗人ってなんですか?  全く覚えがないのに、なぜ?  無実だと訴える彼女を、心優しいヒロインが救う……と、思ったら⁉︎ 「ふふ、せっかく醜く太ったのに、無駄になったわね。豚は豚らしく這いつくばっていればいいのよ。ゲームの世界に転生したのは、貴女だけではないわ」  かくしてぽっちゃり令嬢はヒロインの罠にはまり、家族からも見捨てられた。さらには魔界に迷い込み、魔王の前へ。「最期に言い残すことは?」「私、お役に立てます!」  魔界の食事は最悪で、控えめに言ってかなりマズい。お城の中もほこりっぽくて、気づけば激ヤセ。あとは料理と掃除を頑張って、生き残るだけ。  多くの魔族を味方につけたヴィオネッタは、魔王の心(胃袋?)もつかめるか? バッドエンドを回避して、満腹エンドにたどり着ける?  くせのある魔族や魔界の食材に大奮闘。  腹黒ヒロインと冷酷王子に大慌て。  元悪役令嬢の逆転なるか⁉︎ ※レシピ付き

私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?

水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。 日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。 そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。 一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。 ◇小説家になろうにも掲載中です! ◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています

ふたりの秘密

板倉恭司
恋愛
妻の行動を全て支配しようとする隆之。晴美は、そんな夫の狂気にも似た要求に、必死で耐えていた。

【取り下げ予定】愛されない妃ですので。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。 国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。 「僕はきみを愛していない」 はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。 『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。 (ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?) そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。 しかも、別の人間になっている? なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。 *年齢制限を18→15に変更しました。

気絶した婚約者を置き去りにする男の踏み台になんてならない!

ひづき
恋愛
ヒロインにタックルされて気絶した。しかも婚約者は気絶した私を放置してヒロインと共に去りやがった。 え、コイツらを幸せにする為に私が悪役令嬢!?やってられるか!! それより気絶した私を運んでくれた恩人は誰だろう?

人生の全てを捨てた王太子妃

八つ刻
恋愛
突然王太子妃になれと告げられてから三年あまりが過ぎた。 傍目からは“幸せな王太子妃”に見える私。 だけど本当は・・・ 受け入れているけど、受け入れられない王太子妃と彼女を取り巻く人々の話。 ※※※幸せな話とは言い難いです※※※ タグをよく見て読んでください。ハッピーエンドが好みの方(一方通行の愛が駄目な方も)はブラウザバックをお勧めします。 ※本編六話+番外編六話の全十二話。 ※番外編の王太子視点はヤンデレ注意報が発令されています。

【完結】貧乏令嬢の野草による領地改革

うみの渚
ファンタジー
八歳の時に木から落ちて頭を打った衝撃で、前世の記憶が蘇った主人公。 優しい家族に恵まれたが、家はとても貧乏だった。 家族のためにと、前世の記憶を頼りに寂れた領地を皆に支えられて徐々に発展させていく。 主人公は、魔法・知識チートは持っていません。 加筆修正しました。 お手に取って頂けたら嬉しいです。

処理中です...