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ミュージカル小説 ~踊る公園~ (後編)
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「ミュージカル小説 ~踊る公園~」 (後編)
右京之介
前編からのつづき。
砂猫親分は上機嫌だった。
砂猫公園に完成したドッグランが予想以上に好評だからだ。
花や樹木に溢れた公園にはカラフルな遊具があり、三十台のキッチンカーがあり、くつろげる天然芝があり、五十基のベンチがあり、約二十メートルの巨大噴水もある。
これらは設置されてから日が経つが、今でもたくさんの人たちが街中から来てくれている。それに加えて、ドッグラン目当てに犬好きの人たちが他の街からもワンサカやって来ていた。犬だからワンサカである。
親分は、法華が撮ってきたスマホの写真を覗き込んでいる。
「おいおい、日本中の犬が集まってるんじゃないのか」
親分が軽口を叩くほど、ドッグランは繁盛している。天然芝を敷き詰めた二百坪という広大なスペースにもかかわらず、犬で渋滞しそうなくらい混んでいる。
これだけ整った敷地で遊べて、入場料がタダともなれば、人も犬も集まって来るというものだ。そして彼らはキッチンカーで食事をしてくれる。
「犬たちは余程遊び場に飢えていたのだろうな――なあホッケ」
親分は感慨深げに言う。今日の事務所は法華と二人だけだ。
「最近は住宅が増えるばかりで、公園は減って来ましたから、特に大型犬は走り回る場所がありません。広い砂浜に行くには遠すぎますから、近くにドッグランができて、みんな喜んでますよ」法華もうれしそうだ。
「二百坪もあれば足腰が立たなくなるくらい走れるだろうよ」親分の軽口は止まらない。
「犬専用の水飲み場も作りましたから、暑い夏でも安心です。それに親分がおっしゃってたフリスビーを犬に投げて遊んでる人も多いですよ」
「おお、そうか。さっそくフリスビーを持参して公園に来たわけか」
「いいえ。公園内で販売してます」
「なに? 園内にペットショップでも作ったのか?」
「桃賀さんが管理人室で売ってます」
「総長がフリスビーを!? どこから仕入れたのか知らんが、さすが総長は先見の明があるな」
「一枚千円ですから良心的ですよ」
「まあ、あの人は腐るほど金を持ってるから、そんなに儲けなくていいんだ。道楽でヤクザの総長をやってて、趣味で公園の管理人をやってるのだからな」
「年金もいっぱいもらってるそうです」
「若い頃から稼ぎが多かったから、たくさんもらえるのだろうよ」
桃賀総長の晩年の人生が羨ましい二人は思わず黙り込む。
親分は高級ふわふわティッシュを取って口元を拭うと、高級ゴミ箱に向けて投げつけた。いつものように入らず、すかさず法華が拾いに行く。他の三人は出払っているので、法華が拾うしかなかった。
そこへ茂湯が事務所に入って来た。「只今、戻りました!」
「おお、モユユか。向こうはどうだった?」
「へい、親分。神々公園にもドッグランができてました」
神々公園が砂猫公園の動向を常に注視しているように、砂猫組も神々公園をこっそり視察している。今日は茂湯が子分を数人引き連れて、偵察に行っていたのだ。
「やっぱりそうか」親分の予想通りだ。
「人工芝を敷いた小さくてセコいドッグランでした。小学校の教室くらいの大きさですよ。あまりにも狭いので大型犬の持ち込みは禁止らしいです」
「そうか」親分は笑い出す。「相変わらず神々教はやる事なす事がマヌケだな」
「走り回っているのは、拾ってきたばかりのような汚い小型犬ばかりで、飼い主も薄汚いオバハンばかりでした。しかも入場料を二千円も取ってました」
「ほう、それはセコイのう。そんな中途半端なドッグランなら設置しなけりゃいいのにな。うちに対抗しようと必死なようだが、空回りしとるな――ところで屋台村はどうだった?」
「オープン当初の勢いはなくなって、最近は閑散としてます。昼間から近所のオヤジが酒を喰らってるくらいで、行列なんか見かけません」
「全組員に号令をかけて、神々公園の屋台の評価を星一つでネットに投稿させたのがよかったな。ネット時代に相手の店を蹴落とすにはあの作戦が一番だな」
神々教をセコいと批判するが、自分たちがやってることもセコいとは気づいていない。そんな繊細な神経では、この業界で長年やっていけない。
他人に厳しく、自分に甘い――当然の哲学である。
そこへ墓魏が勢いよく駆け込んで来た。
「親分、ものすごく大変です!」デカい体の墓魏のデカい声が事務所内に反響する。
「ああ、またボギーの大変が始まったか」親分は床に座り込み、英国製のゴミ箱を抱えるようにして、爪を切っている。「いつになればお前に平和と安らぎの日が訪れるんだ?」
「振津が襲われました!」
「何、プリッツが!? そりゃマジで大変じゃないか!」親分は驚いてゴミ箱を蹴り倒す。誤作動を起こしたゴミ箱が赤く点滅する。
「容態はどうなんだ?」法華は冷静に尋ねる。
「おお、そうだ。プリッツの容態はどうなんだ? 生きとるのか? この世にいないのか? 成仏できないでこのあたりに浮かんでるのか?」
親分は立ち上がって、天井付近を見渡すが、凶暴な顔の歴代組長の写真と目が合って、落
着きを取り戻す。
「かなり出血したため、意識不明の重体だったのですが、意識は先ほど戻りました。命に別状はありません。背中をグサッ、ズズズーッと二か所に渡って切り付けられたようです」
「グサッ、ズズズーッというのはどういう状況なんだ?」
「肩甲骨のあたりを二本の鋭利な刃物でグサッと刺されて、そのまま背中を腰へ向かって、ズズズッと引き裂かれたようです」
「うぅ。ボギーの説明を聞いてるだけで背中がムズムズするな」
「どこで襲われたんだ?」法華が場所を訊く。
「振津の自宅のそばだ。昨日の夜、事務所を出て帰る途中だったそうだ」
「そのとき、子分は何をしてたんだ?」今度は茂湯が尋ねる。子分の不甲斐なさに怒りを感じているようだ。
「どうやら振津は一人で歩いていたらしい。そこを背中から忍び寄って来た奴にやられたというわけだ。犯人の顔は見てないそうだ」
「背中から武器を持ってこっそり襲うとは、任侠のプライドもないのか」親分は激怒する。「任侠なら正面から正々堂々と勝負すべきだろう。しばらくは一人で出歩かないよう、全組員に向けて通達を流すんだ」
親分は三人の幹部組員に指示を出した。
その後、担ぎ込まれた病院にお見舞いに行く話が出たが、
「振津から親分に伝言があります」墓魏が言い出した。「もう大丈夫なので見舞いには来ないでくださいということです」
「いや、待て。わしは義理と人情を大切にする昔ながらのヤクザだ。冠婚葬祭などの義理を欠くことはせん。見舞いもそうだ。たとえ子分の見舞いであってもちゃんと行くぞ」
「親分」法華が説得を始める。「何者による犯行か分かりませんが、親分が見舞いに行くところを狙ってくるかもしれません。腕利きのスナイパーを配備しているかもしれません。今病院に近づくのは非常に危険です」
親分の意向は絶対だが、命にかかわることは例外である。親分にどやされること覚悟で法華は進言している。親分もそんな法華の思いをたちまち理解した。
「ホッケよ、よく分かった。プリッツの身辺は奴の子分たちに護衛してもらうことにしよう――よしっ、プリッツのケガの快復のために、みんなで神社に行って御祈願しようや。困ったときの神頼みだ」
親分と三人は近所の神社へ出かけた。全身が穢れていると自覚している四人は手水舎で全身がビショビショになるくらい手と口を清めまくり、大量のお賽銭を賽銭箱に突っ込み、振津の一日も早い回復を願ってお祈りを捧げ、大吉が出るまでおみくじを引き続け、病気平癒と魔除けのお守りを大人買いして、帰って来た。
帰ってみると、事務所が入るビルの前に佐々川刑事と和木刑事が立っていた。
さっそく警察が来るとは、魔除けのお守りの効果がなかったということだ。
「砂猫親分」佐々川がニヤッと笑って、声をかけてきた。「お久しぶりですね」
「ほう。これは佐々川のダンナと和木のダンナじゃないですか」
小さな暴力団だが組員全員が警察に顔を知られている。もちろん、逆に刑事たちの顔は知っている。親分は余裕のあるところを見せる。決してうろたえてはいけない。こんなところでマウントを取られてはいけない。たとえ何の用事で来たのか分からなくても。
「振津幹部は気の毒だったな」当然ながら、振津の事件はすでに知っているようだ。
「ああ、何とか命は取りとめたようだがな。それよりも、なんでマル暴じゃないダンナがここに来るんだい?」親分は用件を探る。
三人の子分は口を挟まずに成り行きを見守る。
「そちらではまだ犯人は分からないでしょう」今度は和木が話してくる。「我々も分かってません。だから情報提供をしてあげるために来たのですよ」
「ほう。それは親切なことですな」
さっき買った魔除けのお守りのヒモを指に引っかけて、二人の目の前でクルクル回してみる。
だが、二人の刑事には何の変化もない。
これは何だという目で見ている。
「魔除けは効かんな。たちまち苦しみ出すと思ったのだがな――神さんよ、わしらにとって、こいつらは魔だぞ。せめて、お腹が痛くなるくらいにできないかね」
「何だって? 情報を聞きたくないのですか?」
「いや。聞かせてもらうじゃないか、和木刑事君」
和木は咳払いを一つして、話し出した。
「振津幹部は背中を鋭利な刃物で切り付けられました。背中からその破片が検出されました」
「ナイフの欠片か?」
「いいえ。牡蠣の破片です」
「海のミルクと言われている、あの牡蠣か? レモンをかけて喰ったらうまい、あの牡蠣か? 新鮮じゃないものを喰うと下痢する牡蠣か?」
「下痢する牡蠣です。あの牡蠣の殻を鋭利になるまで加工して、武器として使用したと思われます」
「つまり、二つの牡蠣の殻を両手で持って肩甲骨の辺りをグサッと刺して、ズズズーッと腰まで下ろして、皮膚を着ていた服もろとも引き裂いたと?」
「うちの優秀な鑑識と医師の見立てによるとそのようです」
「そちらで思い当たる犯人はいないか?」佐々川が訊く。「漁業関係者かもしれん」
「いないな」親分は三人の子分を見る。子分も首を振る。「牡蠣漁師に迷惑をかけた覚えはないし、恨まれる覚えはない。それどころか、わしは生牡蠣が好きで毎年たくさん消費しておる」
「振津幹部は小柄だっただろ。だからこの犯行は後ろから襲えば、女でもできる」
「女の仕業だと!?」
「そうだ。思い当たる女はいないか?」
親分と三人の子分の脳裏に去来するのは、女性信者が多数在籍している神々教のことだった。先日も法華が一人の女性信者を連れ出し、夫の元へ送り届けたばかりだ。その後はどうなったのか分からないが、その仕返しとして振津が信者によって襲われた可能性はある。しかし証拠はない。現場には何も残されてないだろうし、犯行を誰かに目撃されるといったミスは犯してないはずだ。
信者の半分以上は女だ。しかも教祖のためなら何でもやる連中だ。佐々川の言うとおり、女の犯行かもしれない――親分は虚空を見上げる。
一方、佐々川刑事と和木刑事は教団玄関にロケット弾を撃ち込まれた事件もいまだ追っている。犯行車両の中には捜査を攪乱するためのペットボトルや吸い殻が散乱していた。それらはこいつらの総長である桃賀が管理している砂猫公園から集められたことが分かっている。空き缶の回収をしている師家木から聞いた情報だった。
しかし、こいつらの犯行という直接の証拠はないし、こんなマヌケな面をした連中に時限式ロケット弾など作れない。砂猫組に協力をしている組織でも存在するのか?
お互いの腹の探り合いは続く。
六人はビルの前で話し合っている。六人全員の人相も柄も悪いため、道行く人たちは厄介事に巻き込まれないよう、足早に通り過ぎて行く。間違ってもスマホを向ける通行人はいない。
佐々川は砂猫組の四人を見て思う。
この街で砂猫組と神々教が対立していることは周知の事実だ。できれば両者の争いが激しくなって共倒れしてくれないか。無関係な市民を巻き込まなければそれでいい。警察の手間も省けるというものだ。毒を以て毒を制すというやつだ。
敵対しているもの同志が相撃ちとなり、共倒れしてしまうのは、西部劇なんかではよくある設定なのだが、現実ではそんなにうまくいかない。
しかし、四大幹部の一人である振津が襲われたことで、こいつらはまたやり返すはずだ。黙っているなんて、ヤクザとしてのメンツが立たないだろう。
やられたらやり返すのがこいつらの流儀だ。
さて、砂猫組はこれからどう出やがるのか。
密かに抗争の激化を願う悪徳刑事であった。
“ぼくは恐ろしい光景を見てしまった。ぼくの大好きなこの街をパトロールしていたときのことだ。男の人が女の人に背後からおそわれたのだ。男の人が誰かは分かった。たぶん暴力団の組員だ。人相が悪かったから分かる。この街の住民はやさしくて穏やかな人がほとんどだ。だからぼくはこの街が好きなんだ。人相が悪いのはみんな暴力団の人だ。女の人はよく知らない。でもどこの人かは分かる。暴力団と対立している神々教団の人だと思う。対立している理由は分からないけど、こうやって上空からパトロールしていたら、いろいろなことが分かるんだ。なんといっても、ぼくは神々教団のヘビーウォッチャーだからね。もちろん今回の事件の証拠写真は上空からちゃんと撮っておいたよ。ぼくの街を汚す人たちは許さないからね――周人”
♪♪♪♪♪
ヤクザの四人と刑事の二人がビルの前で歌って、踊り出す。
刑事の二人は手に手錠を持っている。
砂猫組の四人は手ぶらだ。ドスを持とうとしたが、銃刀法違反の現行犯で捕まりたくないので、止めることにした。手錠に対して提灯だと釣り合いが取れないので、これもやめておいた。足腰にガタが来ている親分のために、いつも通り、上半身だけ動かすパラパラのようなダンスだ。刑事の二人にも了承してもらった。二人もやがて年を取ってガタが来るため、分かってくれたようだ。
♪ここは俺たちヤクザの事務所前~
任侠道をひた走り~
義理と人情を大切に~
砂猫組を守って来た~
地域に貢献して~
街の発展に手を貸した~
地元民に愛されているヤクザだぜ~
子供たちのヒーローだぜ~
パチパチ、パチパチ(手拍子の音)
♪この街を守るのは俺たち警官さ~
ヤクザに思うようにはさせないぜ~
愛と正義と希望に満ち溢れた警察官さ~
法に盾突く奴は許さない~
警察に盾突く奴も許さない~
お前たちが何と言おうと~
いつかこの街から追い出してやる~
首を洗って待っていやがれ~
カシャカシャ、カシャカシャ(手錠を振る音)
♪♪♪♪♪
神々教の教団本部の四階の幹部部屋には穴田、広報の何和、外国人幹部のメイソン、女性幹部の百合垣、八丈島が集まっていた。五人全員が幹部服である濃い紅色の作務衣を着て、ソファーに向かい合って座っている。幹部による報告会である。
「砂猫公園のドッグランに比べて、うちのドッグランはやたらと小振りになってしまったな」穴田が嘆く。
「向こうに対抗して作れと教祖様に言われましたが、その教祖様が犬嫌いですから、仕方がありません」百合垣が事情を説明する。
「なぜ、教祖様は犬が嫌いなのですか?」メイソンが訊く。「過去に噛まれたり、追いかけられたりしたことがあるのですか?」
「教祖様がサル年のお生まれだからだよ」八丈島が言う。「アメリカでは犬と猫の仲が悪いらしいが、日本では犬と猿の仲が悪いとされていて、犬猿の仲とも言う。つまり、十二支の影響だよ。神様の所へ挨拶に行こうとして、犬と猿が競い合ったのだよ。それ以来、仲が悪くなったのさ」
「なるほど、そういう事情ですか。アメリカに十二支はありませんから、知りませんでした」
メイソンは納得する。入信してそんなに日が経ってないため、知らないことも多い。
「サル年の教祖様は犬が嫌いだから、当初は犬を喜ばせるドッグランなど作らなくてもいいと言われていた。しかし、砂猫公園のドッグランが大盛況だと聞いて、やむなく作るように指示されたのだよ。だが、作るのなら、せめて派手に作らないようにと言われたため、地味なものになってしまったのだよ」
八丈島がメイソンに対して、丁寧に教えてあげる。
「教祖様のご希望なら仕方がありませんね」メイソンは納得せざるを得ない。
「砂猫組は永遠の天敵ですからな」何和が補足する。「砂猫公園への対抗処置として作らないわけにはいかないのだよ。向こうが公園を新たに整備してくれば、こちらも黙って見てないで、さらに公園を整備する。たとえ教祖様が犬嫌いだと言われてもな。だから、仕方なく中途半端なドッグランが出来上がったというわけだ。私も教祖様と同じで犬は大嫌いだから、教祖様の気持ちはよく分かる。いやあ、控えめなドッグランでよかったなあ。ウジャウジャたむろしている犬なんか見たくないものなあ」
何和は、さりげなく教祖と同じ犬嫌いだとアピールしてくる。
百合垣は何和のセコさに気づき、怒りで顔を歪める。
「きっと砂猫組の連中はうちの公園の偵察に来ているはずです。うちのドッグランを見て、砂猫組は笑ってるでしょうね。大きさも小さく、人工芝ですからね。私はそれが悔しいです」
メイソンも彼女の気持ちが理解できたためか顔を歪めた。
「ところで、受付嬢の山賀弥生の行方はまだ分からんのか?」穴田が問う。
百合垣が冷静さを取り戻す。「鋭意、捜査中ですが、まだ手掛かりも掴めてません」
「家には帰っていないのか?」
「はい。数人の信者を自宅近辺に張り込ませてますが、家族共々どこへ雲隠れしているのか、誰も戻って来てないようです」
「そうか」今度は穴田の顔が怒りで歪む。「おそらく砂猫組の仕業だろう。うちが向こうの組員の足を洗わせて、社会復帰させていることへの意趣返しに違いない。この仇は公園で取ってやろう。神々公園の価値を砂猫公園が到底追い付けないくらいに上げるんだ。そのためにこれからもしっかりとパフォーマンスをしていこう――百合垣さん、観光バスの手配は済んでるかな?」
「はい。北海道から沖縄まで津々浦々、抜かりありません」
その頃、師家木は一人で砂猫公園のベンチに座って、熱心にドッグランを眺めていた。
「よお、シケモク!」
名前を呼ばれて、あわててベンチから立ち上がる。
「これは砂猫組の茂湯のダンナ、ご無沙汰しております!」
立ち上がって、長身の茂湯と向き合う。
「昨日、会ったばかりだろ」
「ああ、そうでしたか。さっきまでこの高級ベンチで昼寝をしてたので、まだ寝惚けてまして、頭がちゃんと回りません」
「お前はいつも寝惚けてるようなもんじゃないか」
「確かにそうですが、仕事はしっかりやってますので」
「ああ、そうだな。お前が拡声器でキッチンカーの宣伝をしてくれたお陰で今日も大盛況だ。見てみな、ほとんどのキッチンカーに行列ができている。ありがとよ」
三十台のキッチンカーが並ぶ壮大な光景を二人はしばらく眺める。
「茂湯さん、新しくできたこのドッグランも最高ですね」目の前にドッグランが広がっている。「犬が楽しそうに走ってますよ」
「お前も走って来るか?」
「さっき走りました」
「走ったのかよ」
「はい。たくさんの犬に追いかけられて、アイドルになった気分でした」
「そうか。ところで、お前は神々教団からいくらもらってるんだ?」
「――えっ!?」師家木は驚いて言葉を失う。
「お前があんな真剣な目付きでドッグランを眺めていたら、バレるに決まってるだろ。神々教団に頼まれて、偵察をしていたのだな?」
「茂湯さん、この通りです!」師家木はいきなり天然芝の上に大の字で寝転んだ。「茂湯さん、俺を殺してください!」
「シケモク。わざとらしいパフォーマンスはやめろ」茂湯がなだめる。目は笑ってる。
「すいません」師家木はノロノロと立ち上がる。「金に目がくらんでしまいまして。ドッグランの客の入りを報告すると五千円くれるというもので」
「お前にまた一つ仕事を頼みたいのだが、三万円出そう」
「三万円!? よっ、茂湯のアニキ! 待ってました!」
師家木は茂湯に名前を呼ばれたときから、仕事の依頼をされると読んでいた。ドン臭くても、金のニオイには敏感だ。大の字パフォーマンスが見抜かれることくらい予想していた。さすが天然芝は寝転ぶと気持ちがいいなあと感じる余裕すらあった。茂湯の目が笑っていることも気づいていた。
「――で、どのようなお仕事で?」師家木は茂湯の前で揉み手をする。
「バラしてもらいたい」
「いや、俺に人殺しは無理です! しかも三万円だなんて値切り過ぎです。不良外国人でも引き受けませんよ。三万円ならぶん殴って、蹴飛ばすのが精一杯ですよ」
「シケモク、よく聞け。バラすのは人じゃない。柵だ」
神々公園内を二人の信者が歩いていた。
いつもは紺色の作務衣姿の信者だが、人の目があるため、公園内の見回りはジーンズとシャツといったラフな格好で行っている。いかにも友人同士であるかのように仲良くおしゃべりをしながら歩いているが、絶えず左右に目を配り、公園に不利益を及ぼすような人物はいないかを探ってる。特に柄の悪そうな、いかにも砂猫組のような奴らには気を付けて監視するように指示をされている。
突然、二人の前を一匹の茶色い犬が走り過ぎた。
公園内ではペットのリードを外すことは禁止している。唯一ペットを自由にできる場所は新設されたドッグランだけのはずだが。
二人はドッグランに目をやった。
柵の一部が壊されて、中で遊んでいた犬たちが次々に外へ飛び出して行く。
やっとリードを外されて、走り回れると思ったドッグランは狭かった。しかも足元は草の香りもしない人工芝で走りにくい。我慢して遊んでいるうちに、柵の一部に大きな穴が開いた。
犬たちは思った。(外に出られるじゃん)
ドッグランを出てみると広い。なんといっても柵がない。何も遠慮することなく、どこまでも走れる。それぞれのご主人様があわてて追いかけて来るが無視をして振り切る。
やがて、犬たちは神々公園から外へ出た。
行く手をさえぎるものは何もない。
そうか。これが自由というものか。
やっと自由を手に入れたぞ!
♪♪♪♪♪
犬が歌って、踊り出す。
首に首輪を付けているが、リードは付いていない。
小さい犬も大きい犬も足並みそろえて踊り出す。
日本の犬も外国の犬もみんな仲良く踊り出す。
白い犬も黒い犬も茶色い犬も一糸乱れず踊り出す。
♪ワンワン、ワンワン、ワンワン~
やっと自由を手に入れた~
どこへ行こうか西東~
何が待ってる北南~
邪魔なリードは置いて来た~
趣味の悪い犬用の服も脱いで来た~
めんどくさい飼い主、さようなら~
毎日の御飯が心配だけど~
何とかなるさ、この日本~
平和な日本、ありがとう~
ビュンビュン、ビュンビュン(追いかける飼い主がリードを振り回す音)
♪あれだけ愛情を注いできたのに~
なんで急に逃げちゃうの~
私たちは家族じゃないの~
止まりなさい、そこの犬たち~
振り向きなさい、私の子供たち~
いくらお金をかけてきたか分かってるの~
家族で一番高いものを食べさせてきたのに~
恩をアダで返すというのはこのことよ~
早く戻ってらっしゃい~
あなたのおうちはこっちですよ~
ビュンビュン、ビュンビュン(追いかける飼い主がリードを振り回す音)
♪♪♪♪♪
師家木は笑いが止まらない。
ドッグランの柵の一部をバラすだけで三万円。
神々教は砂猫公園を一日見張って、ドッグランの客の入りを報告すると五千円くれると言った。それに比べると、なんて楽チンだろう。一瞬で終わったのだからな。もちろん誰かに見られるようなヘマはしてない。さっと蹴って、バキッと壊してやった。
茂湯のダンナからいい仕事をもらった。日頃から茂湯さんと信頼関係を築いていてよかった。信頼関係があるなら、ライバルである神々教の仕事をなぜ引き受けたのかという矛盾は横に置いておこう。なんといっても今、茂湯さんから請け負った仕事は成功したのだ。
神々教と思われる陰気な奴ら二人がウロウロしていたので、見つからないように、すばやく黄金の左足で柵に渾身の蹴りをドカドカと入れてやった。
柵はあっけなく壊れた。
中学のとき、一週間だけサッカー部だったのが、こんな時に役に立った。
あの頃、俺の左足から繰り出される豪快なシュートを見て、誰かがあれは黄金の左足だと名付けたのだ。その後、グレてしまって、学校に行かなくなったのだが、あのままサッカーを続けていれば、海外からたくさんのスカウトが来たに違いない。あるいは日本代表となって、日の丸を背負い、今頃世界と戦っていたかもしれない。
少なくとも、ドッグランの柵を蹴飛ばしてナンボという仕事はしてなかったはずだ。
どっちの人生がよかったのか?
そんなこと知るわけない。今は三万円を何に使うかで頭が一杯だ。なじみの高級寿司店に行くとするかな。高いネタの寿司を思いっきり喰ってやる。ただし、三万円を越えないように気を付けよう。
穴の開いた柵から逃げ出す犬の群れと、追いかける飼い主の集団に紛れて、師家木はスキップをしながら、神々公園を後にした。
♪♪♪♪♪
師家木が走りながら、歌って、踊り出す。器用だ。
♪三万円、三万円、三万円ったら三万円~
高級寿司を三万円~
トロにトロにトロにトロ~
ウニにウニにウニにウニ~
できるだけお茶は飲まずに胃袋を開けておく~
その隙間にまで高級寿司を詰め込むぜ~
ああ、やっぱりソロで踊るのは空しいな~
観客が一人もいないもんなあ~
鳴り物が何もないもんな~
しょうがない、自分で叫ぶか~
パッパラ、ラッパッパ~(口でトランペットを吹く声)
♪♪♪♪♪
師家木は一週間に一度は訪れている高級寿司店の暖簾をうれしそうにくぐった。
「はい、いらっしゃませ!」大将が大きな声で出迎えてくれる。「おっ、これは師家木さん。いつものようにカッパ巻き二貫でよろしいですか?」
「いや、今日は違うんだ」
「奮発して、かんぴょう巻き二貫で?」
「トロとウニと時価のネタをくれ」
「えっ!?」大将は疑わしい目で師家木を見る。
「まあ待て。これを見ろ」師家木はズボンのポケットから、茂湯にもらった三万円を出した。
「おぉ!」大将は驚いた。師家木が万札を持って来るのを初めて見たからだ。「へい、さっそく握ります! トロとウニとノドグロ一丁!」
そうか。本日の時価はノドグロか。メニューを見ないで頼んだから、知らなかったなあ。
師家木は垂れてくるヨダレを手の甲で拭うと、気合を入れるため、出されたおしぼりで顔面をゴシゴシと擦り、ズボンのベルトを緩めた。
「死ぬほど喰ってやる」
飛鳥井教会のバザー会場。
「恵子おばちゃん、こんにちは」
相変わらずの低い声で話しかけたのは茂湯だった。
「あら、茂湯さん、いらっしゃい」
長身の茂湯を見上げて、恵子おばちゃんはいつもの丸っこい笑顔を向けてくる。
今日のバザーもたくさんの人が集まっている。毎回毎回手作りのグッズがよく集まるものだし、毎回毎回こんなにたくさん買いに来る人がいるものだと茂湯は感心する。
だが、売っている商品を見渡しても、欲しいと思う物は何もない。ほとんどがかわいい商品なのだから、仕方あるまい。
“かわいい”とは真逆の世界に生きているのだから。
恵子おばちゃんはバザーの販売員として打って付けだろう。よく笑うし、愛想はいいし、よくしゃべる。
しかし、愛想はいいといっても、振津が刺された件を訊いたところで無駄だろう。普段がおしゃべりだからと言って、顧客情報をベラベラと話すことはしない。口は堅い。秘密厳守を徹底しているから、長年この商売をやっていけるのだろう。
恵子おばちゃんの表の仕事は教会前でのバザーの開催だが、裏の仕事は殺し屋の斡旋だ。ちょっとばかし人様と違う道に生きる俺たちのような人間しか、彼女の正体は知らない。普段の彼女の姿からは想像もつかない商売である。
もちろん電話帳には載っていない。SNSやツイッターなんかもやってない。顧客はすべて口コミや紹介で増やしているらしい。
そして、恵子おばちゃんは贔屓をしない。ちゃんと金さえ払えば仕事は引き受けてくれる。だから、ときには争っている者同志の双方から仕事を受け、殺し屋同士が殺し合うこともある。勝負は強い方が勝つという弱肉強食の世界だ。決して、請け負った値段が高い方が勝つとは限らない。
茂湯は告解室で恵子おばちゃんと向き合った。ピンク色のエプロンは外している。
まさかこんな場所で人殺しの相談をしているとは、世間の皆さんは夢にも思わないだろう。しかし、ここだと誰かに聞かれる心配はない。内緒の話し合いをするにはピッタリの場所だ。神様がどう思っているのか知らないが。たぶん怒り心頭だろうが。
この部屋には何度も入り、何度も殺人の依頼をしているが、何度来ても気持ちのいい場所ではない。殺された連中の怨念が告解室に渦巻いているからに違いない。怨念なんぞ見えないが、そんな感じがしている。
恵子おばちゃんはここに来ても表情や振る舞いに変化はなく、いつもと変わらない普通のおばちゃんの顔をしているのだから、返って恐ろしい。さっさと話を決めて、こんな不吉な所から帰りたいものだ。
数々の修羅場をくぐり抜けてきた茂湯でさえ、そう思う。
「神々教の幹部を一人懲らしめていただきたい」さっそく、仕事の依頼をする。「一般信者が着る紺色の作務衣と違って、濃い紅色の作務衣を着た幹部だ。ただし、八丈島という人は除外していただきたい」
話はスムーズに進んだ。なぜ八丈島をターゲットから外すのかという理由は訊いてこない。必要以上に詮索をしてこないのは、いつものことだ。
「どの程度にいたしましょうか?」
「殺さなくてもいい。振津のケガと同程度で頼む」
振津の名前を出して、カマをかけてみるが、恵子おばちゃんの表情はニコニコ笑ったままだ。相変わらず、喰えないおばちゃんだ。
振津を襲ったのは神々教の奴らに違いない。しかし、奴らに現役のヤクザを襲う度胸も腕もない。恵子おばちゃんに頼んで、殺し屋を差し向けたと思っているのだが、さすがに尻尾を掴ませない。
「あら、振津さんがケガをなさったの?」恵子おばちゃんはとぼけてくるが、
「まあな」そのまま受け流す。「とにかく死なない程度の重傷ということでお願いしたい」
「分かりました。さっそく手配をしましょう」
「料金は明日振り込むことでいいかな?」
「もちろんです。茂湯さんはお得意さんですから、前金なんていただきませんよ――先日のロケット弾はよかったでしょう。元過激派に依頼したのよ」
「あれは驚いた。俺も後で見に行ったが、教団の玄関がスッ飛んでた」
「あれだけ大きな仕掛けをしておいて、何も証拠は残さなかったでしょう」
そりゃそうだろう。こっちはロケット弾一発に少なくない金を払ってるんだ。
「そうだな。警察はあの事件の捜査をまだ継続しているらしい。しかし元過激派とやらも、ロケット弾を時限発射できるだけの頭脳を持っているなら、世の中の役に立つことに使えばいいのにな」
自分が世の中に何も役に立ってないことを自覚している。しかし、自分を含めて、周りに優秀な頭脳を持った人物が一人もいない茂湯は彼らの才能の無駄遣いを不思議に思う。
「世の中にはいろいろと変わった人がいるからねえ」
おばちゃん自身が変わってると気づかないのか?
茂湯は不思議そうに恵子おばちゃんを見つめる。
「ところで、神々教の幹部をターゲットにする依頼だけど、今なら学割があるんよ」
「見ての通り、俺は学生じゃない」誰が見ても中年のオヤジだ。
「知ってるわよ。茂湯さんじゃなくて、演者の方よ」恵子おばちゃんは笑う。
人殺しの話をさっきから笑いながらする恵子おばちゃん。
「演者というのは殺し屋のことか?」
「そうよ。殺し屋なんて言うと生々しいでしょ。だから演者。アーティストっぽくて、おしゃれでしょ」
「おしゃれかどうか分からんが、つまり演者が学生ということか?」
「そういうことよ。なんと二割引き。でも腕は立つよ。いかがかしら?」
「まあ、なんというか……」たとえ現役のヤクザでも人殺しの話となると、歯切れが悪い。
学生の殺し屋だって? マンガじゃあるまいし。
だが、恵子おばちゃんがここで冗談を言うはずはない。
「神々教の幹部を痛みつけてくれるのなら、属性は気にしない。では……、その……、学割というやつで頼む」
「ありがとう。じゃあ、二割引きということでよろしくね」
いつも口頭で取引は終わる。契約書はない。紙やメールなどの証拠は残さない。お互いの信用で成り立っている商売だ。だからクーリングオフもない。
「契約成立を祝して、缶ビールで乾杯しない?」
「いや、仕事中だから遠慮しておく」告解室から一刻も早く出たい。
「茂湯さんは真面目だねえ。真面目がスーツを着てるようなものだね」
真面目ならヤクザなんかやってない。
最後まで恵子おばちゃんは笑いながら、商談を済ませた。いつものことだ。
「さて、またガンガン売ってくるかね」
おばちゃんは戦闘服であるピンク色のエプロンを身に付けて、気合を入れた。
神々教の外国人幹部メイソンは夜道を一人で歩いていた。
一日の修行を終えて、帰宅途中だ。幹部服である濃い紅色の作務衣から、地味な茶色いジャケットに着替えている。
五メートルほど先のジュースの自動販売機の前に女子高生が一人で立っていた。
自販機の発する光により、制服を着て、カバンを持ち、テニスのラケットケースを脇に抱えていることが分かる。
クラブ活動の帰りなのだろうとメイソンは思った。きっと、どのジュースにするか悩んでいるのだろう。
「こんばんは、お嬢さん」メイソンはできるだけやさしく声をかけた。布教も修行の一環だ。「あなたは神や仏を信じますか?」
女子高生は一瞬ビクッとしてから、胡散臭そうな目でメイソンを睨みつけながら、しだいに後退して行く。
「ああ、すいません。わたしは神々教の者です」メイソンはあわてて謝罪する。「暗がりから急に声を掛けられたら、誰でも驚きますよね。得体の知れない外国人なら尚更ね」
笑顔を絶やさず、少しずつ歩み寄りながら話し掛ける。
女の子は立ち止まった。
身構えていた態度は軟化して、こちらに向き直り、その表情は穏やかなものに変わった。自販機が照らす顔は幼く、美しい。
メイソンは誤解が解けてよかったと安心した。
しかし、ここまでは女子高生の芝居だと気づいていない。
メイソンはすでに罠に落ちていた。
「カミやホトケですか?」女の子は先ほどの質問を復唱してくれる。「カミなら命です」
「えっ!? 神はあなたにとって、命ですか」メイソンは驚く。「それは素晴らしい」
「はい。女子高生にとって、前髪は命です。前髪だけのセットに毎朝二十分もかかります」
「ああ、そっちのカミですか。いやあ、あなたは面白いですね」
女子高生の冗談にメイソンは笑ってあげる。
これで彼女との距離が少し縮まったと勘違いする。だが、これも罠だ。
仕掛けてくる心理戦に気づかない。相手が若い女性だから、すっかり油断している。
「テニス部ですか?」笑顔を絶やさず、小脇に抱えているラケットケースを指差す。
メイソンはすっかりリラックスしている。女子高生が自分を信用して、心を開いてくれたと思い込んでいる。
これなら布教もうまく行くかもしれない。若い信者を一人獲得できる。
「いいえ、物理部です。こう見えてもリケジョです」彼女は答える。
こう見えても? メイソンは不思議がる。
ショートヘアで目がクリッとしたかわいい子で、頭は良さそうに見える。だから、こう見えてもと言う日本語表現はおかしいのではないか。だったら、謙遜しているのか?
いや、そんなことはどうでもいい。今は勧誘をしなくては。
一人でも多くの信者を増やす。それが今この瞬間、わたしに課せられている修行だ。一つ一つの修行を完遂して教祖に褒めてもらう。その一存で、こうして声をかけている。
彼女はメイソンの目をじっと見つめてくる。
メイソンは次に何を話そうかと、黙ったまま頭の中で話を組み立てる。
彼女はメイソンの目を自分の目に引き付けている間、左の脇に抱えているラケットケースのジッパーを右手でジリジリと開いていく。
闇夜の中、自販機の光に二人の姿が浮かび上がっている。他に通行人はいない。
彼女の左足が一歩前に出た。
メイソンはスカートから伸びる足を見た。緩んだ白い靴下を履いている。
ああ、これが話題のルーズソックスか。九十年代に流行したのが、最近になってリバイバルヒットしていると聞いた。こうして実物を見るのは初めてだ。
足元に気を取られていた時、ふと頭の左に何かを感じて、とっさに手を上げて、頭部を防御した。反射的に腰をかがめたが、左手に大きな衝撃を感じた。
手に当たってきたのはテニスラケットだった。
この子がわたしをラケットで殴り付けてきたのか?
だが、違和感を覚えた。
学生時代にテニスをやっていたから分かる。ガットがこんなに堅いはずがない。あれはナイロンやポリエステルで出来ていて、弾力があるはずだ。
だが、これはまるで金網じゃないか。
バチッという音がしたと思ったとたん、手に痛みが走り、左の上半身に大きな衝撃を感じ、足腰から力が抜けて、地面に倒れ込んだ。
何が起きたのか?
目のすぐ前にルーズソックスが迫って来る。
そうか。痴漢と間違われて殴られたのか。
ならば、わたしが悪いのか?
いや、わたしは宗教の勧誘をするために声をかけただけだ。これは修行なんだ。教祖様の指示なんだ。
修行だ、教祖様だといっても彼女には関係ないだろうけど、わたしにやましい気持ちはない。この子には指一本触れてないし、わたしはジャケットを着た常識のある格好をしている。言葉遣いも丁寧に接したはずだ。恐怖を与えた覚えはない。
だったらなぜ殴られるのか? ――分からない。
ああ、それにしても痛い……。
制服姿のその子が地面に転がるわたしを見下ろす。顔は笑っている。
ああ、恐怖を感じているのはこの子じゃない。わたしの方だ。
「これは……、いったい……、どういうことですか?」彼女の足元で声を振り絞る。
彼女の右手にはラケットが握られている。ガットが自販機の光を反射して光った。やはり金属製のようだ。おそらく電気を流されたんだ。だから感電して体が動かず、立ち上がることができない。
テニスラケット型のスタンガンか?
防犯グッズとして、こんな強力なものが売られているのか?
やり過ぎると死んでしまうじゃないか。
――いや、違う。おそらく市販なんかされてない。
そうか、これは自作だ。さっき物理部だと言ったではないか。
この子が自作した護身用グッズで攻撃されたのか。
だったら、なぜわたしを笑う。なぜすぐにこの場から離れない。
クレイジーだ。
突然、彼女が座り込んだ。
――ググッ。
仰向けになっているメイソンの顔面にラケットのガットが押し付けられる。
メイソンは手足をバタつかせて逃げようとするが、女の子は全体重をかけて押し付けてくる。
――バチッ!
ガットに電流が流れた。
メイソンは顔中に網目模様を付けながら、全身を震わせて、気を失った。
「あらら、なんだか焼いたばかりのステーキ肉みたいね」彼女は笑う。「でも安心して。私の計算によると、この程度の電流なら死なないはずだから。でも、もしも基礎疾患があって、重症化しちゃったらごめんなさいです」
女子高生はテニスラケットをケースに仕舞うと、自販機でペットボトルのお茶を買って、何事もなかったかのように歩き出した。
メイソンは肩を揺すられて目を覚ました。
ここはどこだったか?
わたしは何をしていたのか?
ああ、体中が痛い。
記憶を呼び覚まそうとしたが、顔の痛みで思い出した。
そうだ。女子高生に痴漢と間違われて、ラケット型スタンガンでやられたんだ。
だったら今、わたしの肩を揺すったのは誰だろう?
やがて、目の焦点が合ってきた。
私を見下ろしていたのは――。
「ああ、八丈島さん……」同じ神々教の幹部信者である八丈島だった。「こんな所で何を?」
「それはこちらのセリフですよ。偶然ここを通りかかったらメイソンさんが倒れていたというわけです。顔にひどいケガを負っておられたので、先ほど救急車を呼びました」
「そうですか。すいません」メイソンは起き上がろうとするが、体中が痺れて、力が入らない。「訳の分からない女子高生に襲撃されまして。過剰防衛とでも言いましょうか。いや、わたしは何もしてないのですが、変質者の外国人と勘違いされたみたいです」
「ほう、女子高生ですか?」八丈島は辺りを見渡す。「誰もいませんねえ」
「おそらく逃げたのでしょうね」自家製殺人ラケットを抱えたまま。
あれだと警察に持ち物検査をされても、武器だとは気づかれないだろう。見た目はただのテニスラケットだ。金属製のガットだが、手首を鍛えるために重くしてあるとでも、答えればいい。それに言い逃れはいくらでもできる。変な外国人が夜道で卑猥な言葉をかけてきたとでも言えばいいのだから。
警察は、カルト教団の外国人幹部と部活帰りの女子高生のどちらを信じるのか?
そりゃ、純情可憐な女子高生に決まっている。実に不利だ。人種差別はいけないと言っても通用しないだろう。
八丈島はそばに立ったままだ。
なんだか、おかしい。
なぜ八丈島さんはこの道を歩いていたのだろう。自宅とは逆の方向のはずだ。こんな狭くて人通りが少ない道を歩いて、どこへ行こうとしていたのか。
それに、さっき八丈島さんは救急車を呼んでくれたと言った。
ずいぶんと到着が遅いような気がする。
サイレンの音くらい聞こえても良さそうなものだが。
メイソンは網目の跡が付いている顔を触って、あまりの痛さに顔をしかめた。
クレイジーだ。
砂猫組の事務所に、神々教の外国人幹部が死亡したとの知らせが入った。
情報を持って来たのは、いつものように墓魏だ。
「昨日の夜の八時頃、道端で刺されて、死んでいたようです」
「昨日の夜の八時だと?」砂猫親分が三人の幹部組員に訊く。「その頃、わしらは何をやっておった?」
「はい」法華が答える。「我々四人揃って、夕方から近所の立ち飲み居酒屋で枝豆を肴に、ドンチャン騒ぎをしておりました。店を出たのは確か、夜中の一時頃です」
先日襲撃された振津はまだ入院中だ。
「そうだな。つまりわしらにはアリバイがあるということだ。誰に殺されたか知らないが、せっかく海の向こうからわざわざ日本にやって来てくれた外国人だというのに気の毒なことだ。カルト教団だから、恨んでる人も多いのだろう」自分たちを棚に上げる。「せいぜい成仏してほしいな。あちらの宗教でも成仏と言うのか? どうなんだ、モユユ」
「いや、どうなんでしょうか」茂湯は困った顔をする。「高卒インテリの振津に訊けば分かるのですが――まあ成仏と言うか、天に召されるという言い方をするんじゃないでしょうか」
「天使が降りて来て、天国に連れて行ってくれるんだな。さすがモユユ! DHAたっぷりの青魚が大好きなだけある――ところでボギー。他に何か情報があると言っておったな」
「砂猫公園に住み着いていたハトが一羽残らず、いなくなりました」
「なに! 公園を癒してくれていたハトがいなくなった!? その中に桃賀総長がかわいがっていたハトも含まれてるだろ」
「同じ時期に、神々公園の屋台村に新しくハト料理専門店がオープンしてました。偶然にしてはできすぎだと思うのですが」
「犯人は神々教じゃないか! うちの公園から盗み出したハトを料理して、振る舞ってるのだろう。タダで食材を手に入れやがって、宗教者の風上にも置けない連中だ。ここまで来ると外道だな」と外道が言う。「よしっ、ハトを補充しよう。イトーヨーカ堂へ行って、一番高いハトを買って来るんだ」
「イトーヨーカ堂にハトが売ってますか?」
「あそこの看板にハトの絵が描いてあるだろ」
「あれはハトを売ってるという意味ではなくて、ロゴマークです」
「だったら、ペットショップに行ってハトを仕入れて来い」
「どんなハトがいいですか?」墓魏が訊く。
「一番高級なハトにするんだ。ハトは平和のシンボルだろ。スイスのハトはどうだ。スイスは平和っぽいだろ。永世中立国だぞ。ハイジも住んでるだろ」
「分かりました。スイスのハトを手配して公園に放鳥します。それと親分、もう一つ報告があります。神々公園ですが、近々ディスコ大会が開催されるようです」
「デスコだと!?」親分の声が裏返る。
あえて、ディスコだと訂正しないところが墓魏のやさしさである。
茂湯と法華は苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「観光バスを手配して、北海道から沖縄まで全国津々浦々、ディスコ大会に参加する信者を集めるようです」
「デスコというのは、要するに踊りだな――よしっ、こちらも負けるな。砂猫公園に櫓を設置するんだ」
「櫓……ですか?」
「そうだ。向こうがデスコなら、こっちは盆踊りだ。日本人なら盆踊りだろ。櫓の周りをグルグル回って踊るんだ」
「親分」墓魏が訊く。「今は春ですけど、季節的にはどうなんでしょうか?」
「だったら、“春の盆踊り大会”と銘打って大々的に開催しようや――モユユよ、宣伝をしておいてくれ」
「へい」茂湯はパシリに使っている師家木の顔を思い浮べる。
また奴に拡声器を渡して、二日間程近所を練り歩かせるか。あれでキッチンカーの客がたくさん来たのだから、効果があるのだろう。二日間こき使って三万円だからコスパもいい。
「いいか。調達係のプリッツがいないから、みんなで協力してやるんだ――ところでプリッツはいつ退院してくるんだ?」
「あと二週間ほどかかるようです」法華が答える。
「医者を脅して、一週間に短縮してもらえ。プリッツのお母さんは日本舞踊の先生だろ。奴も踊りがうまいはずだ。先頭切って踊ってもらおうじゃないか」
何者かに襲われ、一時は意識不明に陥っていた振津を、無理矢理退院させて踊らせるなんてと法華は思ったが、親分の指示には従わなければならない。自分から言い出したとはいえ、盆踊り大会の開催が決まってテンションも上がっている。反対意見が言える雰囲気ではない。
「他にも盆踊りが踊れる人を呼ぼうや。公園の近所を回って、かき集めて来るんだ。町内には必ず踊りがうまいオバちゃんが一人はいるはずだ。何とか探し出せ」
「親分、春の盆踊り大会にはイチゴ幼稚園の園児も招待したらどうでしょうか?」
「おお、ホッケ。いいことを言う。さすが、おふくろさんが保育士さんだけのことはあるな。ぜひそうしようや!」
親分のチンパンジー顔がほころんだ。
「この街一番のエリート幼稚園の園児たちの明るい笑顔で、全国からやってくる陰気な顔の信者どもをぶっ飛ばそうや。盆踊りを盛り上げて、近所の人に喜んでもらう。それと、喰われたハトの成仏も願う。一石二鳥じゃないか。ハトだけにな」
♪♪♪♪♪
砂猫親分と三人の幹部が事務所の中で歌って、踊り出す。
全員指に派手な高級指輪をしている。いざというときは換金ができる。
いつものように七十歳の親分に合わせた、体にあまり負担がかからないダンスだが、入院中の振津の分も踊ろうと、四人は張り切っている。
♪神々教がデスコを仕掛けてきた~
負けるな、こっちは盆踊り~
でっかい櫓を立てるんだ~
日本古来の芸術さ~
誰もが知ってる盆踊り~
テンション上がる盆踊り~
夏の風物詩の盆踊り~
ハトの霊もパタパタ飛んで行く~
キラキラ、キラキラ(指輪が差し込む西日に反射する)
春に踊る盆踊り~
ご先祖様もビックリよ~
チビッ子たちも寄っといで~
ブレイクダンスよりも楽しいよ~
踊れなくても大丈夫~
オバちゃんたちが教えてくれるよ~
すぐに覚えて、キミもスターだ~
学校に行ったらモテモテだ~
は~、よいよい~
キラキラ、キラキラ(指輪が差し込む西日に反射する)
♪♪♪♪♪
砂猫親分は踊り疲れて、息も絶え絶えになっている。法華がすかさず、口に酸素マスクをあてがう。親分は息を切らしたまま、幹部たちに気合を入れる。
「ハアハアハア。盆踊り用に、振津の分も含めて五人分の浴衣を新調しようや」
「それは素晴らしいですね」三人の幹部が喜ぶ。
「ハアハアハア。いいか、最高級の生地を使った最高級の浴衣を特注するんだぞ。人間国宝の着物職人に依頼するんだ。わしは今から昼寝をするから、後は頼んだぞ。ハアハア」
三人の子分は夕方から昼寝をする親分の背中を黙って見つめた。
年老いた親分の睡眠時間は年老いた猫の睡眠時間と同じくらい長かった。
「シケモクよ、ようがんばって宣伝してくれたな」
砂猫親分は砂猫公園の過去最高の賑わいに満面の笑みを浮かべている。
親分と三人の子分と師家木は並んで、公園のど真ん中に設営された、高さ六メートルの巨大な櫓を見上げている。全員が浴衣姿だ。
「へい。砂猫親分のために命がけで宣伝しました!」師家木が直立不動で答える。
茂湯に頼まれた仕事だったが、ここは親分に媚びを売っておく。
拡声器を持って、近所を練り歩き、盆踊りの宣伝を二日間やって三万円。
今回もまたいい仕事だった。
そして、師家木もちゃっかり浴衣を着ている。盆踊りに着る浴衣を新調すると茂湯から聞いて、すぐ親分に取り入り、作ってもらったものだ。着てみるとなんとも似合わないが、人間国宝が最高級の生地で作った浴衣だと聞いたため、盆踊りが終わったら、密かにネットオークションで売ってやろうと企んでいるのだが、そんなことはおくびにも出さない。
「砂猫親分! あっしは声がガラガラになるまで叫び続けて、ご覧の通り、たくさんの人を公園に呼び込みましたよ」
元々酒焼けした声で何も変わってないのに、師家木は堂々とデカい声で自慢をする。
「それはご苦労だったな、シケモク。よくやってくれた」
人のいい親分は、組員でもない師家木を褒めてあげる。
親分に褒められた師家木は満更でもないという顔をする。
普段はなかなか人に褒められることがないため、うれしそうだ。
公園内に人相の悪い男たちが立っていても、気にする人はいない。なんといっても、町内で開催される盆踊り大会は実に十年ぶりで、老若男女たくさんの人が詰めかけていて、ワクワクしながら始まりを待っているからだ。浴衣を着ている人もたくさんいる。
イチゴ幼稚園の園児たちも浴衣を着て、勢ぞろいし、今か今かと始まりを待っている。子供たちにとっては、生まれて初めての盆踊りだ。
盆踊りが中止に追い込まれたのは、場所の問題もあったし、予算の都合もあった。今回は砂猫組が場所を提供して、お金も出しているのだが、みんなはそこまで詳しく知らない。
そればかりか、またもや管理人の桃賀のお陰だと思い込んで、管理人室には感謝のお礼に訪れる人で溢れ返っている。
「モモンガさん、盆踊りをありがとー」「モモンガさん、大きな櫓をありがとうございます」「モモンガさん、うちのおばあちゃんも喜んでます」「モモンガさん、そろそろ始まりますよ。一緒に踊りませんか?」
桃賀も、この盆踊りは神々教のディスコ大会に対抗して、暴力団砂猫組が開催したものだとは言えず、成り行きに任せていたら、いつの間にか、ご近所のヒーローにされていた。
「わしはもう年だから踊れんよ。勘弁してくれ」桃賀は逃げ回っている。
最初から踊るつもりなどないため、浴衣ではなく、いつもの灰色の作業着と灰色の帽子をかぶっているため、会場内ではすっかり浮いてしまっている。
お祭りには露店が付き物である。うまい具合に園内にはキッチンカーが三十台も並んでいる。すべてに声をかけて、今日だけの特別メニューに変えてもらっていた。
つまり、露店で売っているリンゴ飴、焼きトウモロコシ、お好み焼き、たこ焼き、綿菓子、ベビーカステラなどを提供してもらっているのだ。
盆踊りが始まる前に腹ごしらえをしておこうと、すでにキッチンカーには人だかりができてる。食べ物以外にも、お面やヨーヨーや風車などを売っている店もある。
砂猫親分は櫓を見上げて指示を出していた。
櫓といってもレンタルだ。噴水やドッグランと違って、公園に常設するわけではない。年に一度のものだ。だからレンタルで十分である。
しかし、当然ながら、見栄っ張りの親分の意向で最高級の櫓をレンタルした。
業者が持っている櫓で一番大きなものを借りたのだ。作業員が十人がかりで、一時間もかけて組み立ててくれた。櫓の周りには紅白幕が張られ、櫓から伸びるロープには色とりどりの提灯がぶら下がっている。提灯は陽が暮れると電気が点くことになっていた。
同じ時刻には噴水もライトアップされる。公園がいっそう華やぐことだろう。
三段の櫓のうち、二段目には二つの和太鼓、三段目には一つの和太鼓、合計三つの和太鼓が置かれていた。太鼓を叩くのは砂猫組の三人の組員だ。百人ほどいる組員の中で、子供が見ても泣かない顔ベスト3を選び出し、和太鼓の特訓を重ねてきたのだ。それでも人相は若干恐ろしいが、おめでたい席なので来園者には許してもらおうという魂胆だった。
そこへ若い男がやって来て、墓魏に耳打ちをした。
「親分」墓魏はさらに砂猫親分へ耳打ちをする。「神々公園へ偵察に行っていた子分が只今戻って来ました」
「おう、向こうのデスコ大会はどうだった?」
「まずまず人は集まっているようです」
「観光バスを使って、全国から信者を集めたらしいからな」
「しかし、柄の悪いヤンキーのような奴らがいっぱい来ていたそうです。おそらくディスコ大会ということで、ナンパでもしようと近所の不良が集まったのでしょう」
「そうか。柄が悪いのか」
親分は辺りを見渡す。
浴衣姿の上品そうなご婦人たちがたくさん来ている。
「やっぱり人間は品がないとダメだな。柄が悪いなんてとんでもない人間だな。何を喰ったら柄が悪くなるんだ。親の顔が見てみたいものだ」
自分たちを棚に上げて、批判する。
「子分によりますと、救急車が一台やって来て、ケガ人を運んで行ったそうです」
「さっそく柄の悪いヤンキー同士がケンカでも始めたのだろう。物騒な世の中になったものだな――ボギーよ、やはり平和が一番だな」
親分はそう言って、小指のない右手でうちわを持って、パタパタと仰ぐ。
やがて、スピーカーから歌が流れ出した。それに合わせて、三つの太鼓が叩かれる。
砂猫組が主催する春の盆踊り大会の開演である。
櫓の周りを、踊りに長けたご婦人方を先頭にした集団がグルグル回り出す。イチゴ幼稚園の園児たちも見よう見まねで、踊りながら付いて行く。
「ボギーよ。いよいよ始まったな」
「そうですね。無事に開催できてよかったです」
「この分だと、うちの勝ちだろ」
「へい。ヤンキーだらけで、救急車も出動した下品なディスコ大会に負けるわけありません」
いつの間にか、師家木が踊りの輪の中に入って踊っている。
「モユユよ。お前のパシリのシケモクの踊りは何だ。へっぴり腰じゃないか」
「へい、すんません。ちょっくら行って、蹴飛ばしてきます」茂湯は走り出す。「こらっ、 シケモク! もっと気合を入れて踊らんかい!」
組員三人が叩く和太鼓は初心者にしては様になっていて、スマホを向けて写真を撮る人まで現れている。仲間の組員である墓魏も法華もうれしそうだ。
「砂猫親分さん!」
親分が後ろから名前を呼ばれた。
そこには浴衣を着た年配の女性が立っていた。
「おお、これはプリッツのおふくろさんじゃないですか!」
「息子がいつもお世話になっております」深々と頭を下げる。
日本舞踊の師範代として、先ほどまで集団の先頭で踊ってくれていたのだ。
「盆踊りを盛り上げてくださって、ありがとうございます」親分も頭を下げる。「おふくろさんが抜けて、踊りの輪は大丈夫ですか?」
「はい。あの通りです」踊りの先頭では母に代わって、振津が踊っている。「なかなかの孝行息子でして」
踊りの輪は乱れることなく回っている。
「ほう、うまいものですね」法華が感心する。「ケガから復帰したばかりとは思えませんな」
「子供の頃から私の踊りを見て育ちましたからね」
振津が何者かに襲撃されて入院している間、この母親が付きっきりで世話をしていたという。母の代わりに踊ることは振津にとっての親孝行になる。
「それが、どこでどうなったのか、舞踊の道には行かなくて、任侠の道へと進んでしまいまして」
「おふくろさん。プリッツはよくやってくれてますよ」
「そうですか。安心いたしました――どうか親分さん、息子を一人前の極道者に育ててやってくださいまし」また頭を下げてくる。
「わしが預かったからには、しっかり面倒をみますから、ご安心ください」
「ありがとうござます」母親はホッとしたようで、扇子を取り出して、ゆっくり扇ぎだした。
黒くて大きな扇子である。
「なかなか立派な扇子ですな」親分が感心する。
「これは鉄扇ですのよ。新撰組の芹沢鴨がこれを振り回して、暴れていたそうです」
「ほう、鉄扇ですか」法華が感心する。「確か、親骨が鉄でできていると聞きましたが」
「さようでございます」母親は黒い扇子を広げて、親分と法華に見せてくれる。「物騒な世の中でございましょう。護身用にと思いまして、いつも携帯しておりますのよ――そう言えば、ここに来る前、神々教の公園のディスコ大会を見て参りましたのよ」
「おお、そうですか!」親分は驚く。「おふくろさんが偵察に行ってくださっていたとは。それはありがとうございます」
「向こうは砂猫組の天敵でございましょう。ですから、スパイに行って参りましたのよ。ディスコのお立ち台と言うのですか、あの上で派手に踊っている若者がいて、会場を盛り上げておりましたから、後ろからそっと近づいて、この鉄扇でブン殴ってやりました」
「ええっー!?」親分と法華は同時に驚く。
「そいつはどうなりましたか?」親分が恐る恐る尋ねる。
「さあ、どうでしょうか。顔を見られないようにさっさとその場を離れたのですが、こちらに来る途中で救急車とすれ違いましたから、きっと運ばれて行ったのでしょうね。鉄扇で思い切り殴りましたから、頭蓋骨にヒビでも入ったかもしれませんね。オホホホ」
親分は集団の先頭で踊っている振津を見て、この親にしてあの子ありだと思った。
この鉄扇で殴られたら痛いだろうなあ。
しかし、神々公園のディスコ大会はその事件をきっかけにして、しだいに盛り上がりが薄れ、予定の時間より早く閉幕となり、溢れた人々は砂猫公園へ向かい、盆踊り大会は一層の賑わいを見せることとなった。
おふくろさんの鉄扇の一撃のお陰である。
和太鼓を担当している三人の組員は一層気合を入れて叩き、振津は母親と仲良く集団の先頭で盆踊りの音頭を取っている。
ライトアップされた噴水は、いつもより高く水を吹き上げ、色とりどりの光を放つ提灯と相まって、公園内を幻想的なものに変えている。キッチンカーの行列は絶えず、ドッグランは夜遅くになっても犬が走り回り、五十基のベンチでは人々が語り合っていた。
暴力団主催の盆踊り大会は大盛況だった。
御簾の向こうに神々教の教祖が胡坐をかいて座っていた。
教祖の左右でロウソクが灯っている。ロウソクの光に照らされているとはいえ、御簾の中は薄暗く、かろうじて、座っているということが分かる程度だ。
正面に座っている穴田からもその姿ははっきりと見えない。いや、未だかつて、最高幹部の穴田でさえ、その姿をはっきりと見た者はいない。声からして高齢者だと分かる。穴田は教祖が七十代の半ばくらいだと思っている。
教祖の右後ろには陽の観音像が置かれ、輝きを発している。教会本部の各階に設置されているレプリカとは違う、本物の観音像である。奇妙なことに、その観音像だけははっきりと見て取れた。
教団本部の最上階の五階が教祖専用の住居兼修行スペースになっている。誰かが身の回りの世話をしているのだろうが、信者の間でも最上階の詳細はまったく分かっていない。
神々教は外国人幹部のメイソンの死が砂猫組の仕業だと思い込んだ。さらに、遊具の設置から始まった数々の公園戦争に負け続け、そして今回、ディスコ大会対盆踊り大会の戦いには、全国から多数の信者を呼び寄せたにもかかわらず、完全に敗れ去った。
砂猫組との公園戦争での連戦連敗を受け、教祖の怒りはより激しいものとなっている。
教祖が口を開くたびに、左右のロウソクが揺れる。
穴田にはそれがどういう仕組みになっているのか分からない。気を受けて揺れているのか、念力で動いているのか、それとも機械仕掛けなのか。
もしや催眠術のような効果があるのかもしれない。
いずれにせよ、教祖のカリスマ性を浸透させるためのパフォーマンスだろう。
ロウソクの揺れに気を取られることなく、教祖の話に集中する。
そして、教祖との謁見は約十五分で終わった。
穴田は教祖から叱責を受け、何としても挽回するようにと指示を受けた。
教祖は心臓のペースメーカーの電池交換をするため、近いうちに十日間だけ入院をする。
穴田はその間に砂猫組との完全決着を付けよと厳命された。
残された時間は少ない。
♪♪♪♪♪
穴田が一人道場で歌って、踊り出す。
手に火の付いたロウソクを持っている。
落として火災を起こさないように気を付ける。
♪神々教の天敵は砂猫組さ~
ふざけた名前の暴力団さ~
名前はかわいいけど、やることエグい~
名前はかわいいけど、組員はブサイク~
あんな奴らは街から一掃してやる~
ダニのいない街にしてやる~
平和を街に取り戻す~
それが我々の使命なのさ~
ユラユラ、ユラユラ(ロウソクが揺れる)
♪叩きのめせと教祖様に言われた~
言われたからにはやるしかない~
教団の力を見せて、コテンパンにやっつけてやる~
我々には教祖様がついている~
この街に二大勢力はいらない~
どちらかが潰れるべきだ~
それは砂猫組に決まってる~
これから生き残りを賭けた戦いが始まる~
ユラユラ、ユラユラ(ロウソクが揺れる)
♪♪♪♪♪
世間ではしばらくの間、平和が続いていた。平和は緩みと油断を生む。
あの日の午後、墓魏は一人で歩いていた。親分からは一人で出歩かないようにと、全組員へ向けてファックスが流されていた。しかし、神々教は黙ったままで、何も仕掛けて来ないし、何も変わったことは起きない。ぞろぞろと複数人で歩いていると、逆に意気地なしのように思われるのではないか。こちらが一人で歩いていても、奴らは何もできないだろう。
こっちは砂猫組四天王の墓魏様だ。同じ四天王でも襲撃された振津とは違う。あいつは周りに気を付けることなく、一人でブラブラと歩いていた。しかも、小柄だから絶好のターゲットにされたのだろう。
あいつに比べたら、俺は大柄だし、顔面は四天王で一番おっかない。閻魔様でも逃げ出す顔だと小学生の頃から言われていた。俺を生んだ母親に。
真っ昼間から、この俺を襲おうという物好きはおらんだろう。だからボディガードなんか必要ない。何が来ようと叩きのめしてやる。まあ、死なない程度に手加減してやるがな。
こんなヤクザ特有の見栄っ張りの性格が油断を生んだ。
墓魏は歩きながら一人の老人を追い越した。ゆっくりとシルバーカーを押している小柄な男性だ。グレーのニット帽をかぶり、茶色い眼鏡をかけている。買い物帰りか、散歩の途中だろう。
前から黄色いカートを押す、若い女性が歩いて来た。こちらはおそらく幼稚園か保育園の先生だろう。五、六人の子供を乗せることができるお散歩カートを押しているからだ。
「あっ、墓魏さんですよね」女性が声をかけてきた。ジャージ姿で髪はポニーテールにしていて、背中にはデイパックを背負っている。
俺の名前を知ってるということはイチゴ幼稚園の先生だろう。砂猫公園がイチゴ幼稚園のお散歩コースに採用してくれるよう交渉に行ったことがある。晴れてお散歩コースに認定されたのだが、あのときに出会った数人の先生の中の一人なのだろう。顔に見覚えはないが、普段から幼稚園の先生と知り合う機会などないから、そうに違いない。
「イチゴ幼稚園の方ですか?」一応、立ち止まって訊いてみる。
「はい、そうです。いつもお世話になってます」お辞儀をしてくる。
「園児たちを連れて散歩ですか?」
「はい。今日は天気がいいものですから……」お散歩カートを押しながら近づいて来る。
墓魏は三メートルほど前に来たお散歩カートの中を覗き込んだ。
園児は一人も乗ってなかった。
突然、お散歩カートの前面がバタンと倒れた。
何が起きた?
墓魏が目を凝らしてみると、銃口が見えた。
ウソだろ!
墓魏はとっさに地面へ伏せた。今までヤクザ同士の抗争に絡んで、二度銃口を向けられた経験があるため、体が自然に動いたのだ。経験のない一般人なら無理な動きだ。体が硬直して動けないはずだ。
お散歩カートから乾いた音とともに一発の弾丸が発射され、伏せている墓魏の頭上を通過して行き、ブロック塀にめり込んで止まった。細かな破片が飛び散る。
女はチッと舌打ちをすると、お散歩カートの前面を墓魏に向け直した。銃口からは薄っすらと白い煙が昇っている。
墓魏は目だけを左右に動かして、反撃するためのスペースを探した。
二発目が飛んでくる前に立ち上がり、転がってから、再び身を起こして体勢を整え、女に飛びかかる。
――頭の中で咄嗟にそう計算した。
だが、足がもつれてうまく立ち上がれなかった。
若い頃と違って、思うように体が動かないことを忘れていた。
お散歩カートの銃口が再びこちらを向いた。
つまり、すぐに連射できるということだ。
――マズい!
墓魏は体を起こせない。
せめて頭部だけでも守ろうと、うずくまったまま両手で頭を抱え込んだ。
若い女の前で丸まっているなんて、きっと俺は無様な格好なんだろうな。
こんなときでも体裁を気にする墓魏は根っからのヤクザ者だった。
すぐに、手に痛みが走るはずだ。もしかしたら片手くらいはすっ飛ばされるかもしれない。
せめて利き腕じゃない左手にしてくれんかな。
墓魏は覚悟を決めて目をつぶった。
その瞬間、墓魏の後ろから轟音が聞こえ、すぐ目の前の辺りでも凄まじい音が聞こえた。
目を開けてみるとお散歩カートが横転し、押していた女が血走った目で墓魏の後ろを睨みつけていた。
後ろに何がいるんだ?
墓魏が首だけを後ろに向けてみると、先ほど追い抜いた小柄な老人が立っていた。
シルバーカーの前面が開き、こちらも銃口が見えている。お散歩カートよりも大きな口径だ。
どうやらシルバーカーから発射された弾丸が女とお散歩カートをすっ飛ばしたらしい。
カートから発射された弾丸はあらぬ方向に飛んで行ったようだ。
老人が口を開いた。老人特有のしゃがれた声だ。
「そこの若いの」墓魏を見る。老人からすると若者らしい。「その女は幼稚園の先生なんかじゃない。かわいい顔をしておるが殺し屋だ」
墓魏はゆっくり立ち上がる。「あんたは?」
「シルバー人材センターから派遣されてきた同業者じゃ。ここはわしに任せなさい」
若い女と年老いた男がともに殺し屋だって!?
訳の分からない墓魏はのそのそと安全な場所まで避難する。
もはや体裁なんてどうでもいい。
命あっての物種だ。死んで花実が咲くものか。命は地球より重いんだ。
女はすかさずお散歩カートを起こして、老人のシルバーカーの正面に立った。
お互いの銃口が向かい合った。
墓魏は電信柱の陰から成り行きを見守っている。ここで警察に通報すると、すぐにパトカーのサイレンの音が聞こえ、二人ともいなくなるだろう。だが勝負の行方が気になる墓魏は静かに戦況を見つめる。
「おじいちゃん、よくも私を邪魔してくれましたね」若い女の眼光は鋭い。
「おねえちゃん、こちらも仕事なものでね。悪く思わないでくれ」じいさんは睨み返す。
お互いの銃口が火を噴いた。
墓魏は一瞬目を疑った。
これじゃ相撃ちじゃないか。
こいつらは相撃ち覚悟で相手を攻撃するのか?
プロの殺し屋というのはここまでやるのか?
お散歩カートから発射された弾丸はシルバーカーの前面の一部を吹き飛ばし、老人は地面に転がった。
シルバーカーから発射された弾丸はお散歩カートを粉砕し、女は倒れた。
やっぱり相撃ちじゃないか。
墓魏は恐る恐る電信柱の陰から顔を出した。へっぴり腰になっているが構わない。人通りの少ないこの道では誰も見ていないし、体裁なんか気にしている場合じゃない。
老人と女は倒れたまま、同時に顔を上げて、相手を確認している。お互いの武器は使い物にならなくなったようだが、二人とも生きていた。
女はどこかを負傷しているようで起き上がれない。
ここからは老人の動きの方が早かった。
倒れているシルバーカーのポケットから黒い何かを取り出した。
――手榴弾だ!
「やめろ!」墓魏がとっさに叫んだ。
老人はすばやくピンを抜くと、女に向けて投げつけた。
老人とは思えない速さだった。
轟音とともに白煙が立ち上がった。
煙が晴れ、あたりが澄み切ったとき、そこにはお散歩カートの残骸と女の肉片が散乱していた。
「じいさん、何をやってるんだ!」墓魏が怒鳴る。「若い女を手榴弾でぶっ飛ばすなんて、ヤクザでもやらないぞ!」電信柱の陰から出てくる。
「あんたを守るという仕事は果たしたぞ。今後は一人歩きをしないことだな」
老人は平然と言い、壊れたシルバーカーをガタガタ押しながらこの場を離れて行く。
「何だって! 待ってくれ、じいさん。この仕事を誰に頼まれた?」
「あんた、いい親分さんを持ったな」老人は振り返る。
「親分が!?」
「ああ。砂猫組の幹部クラスには全員わしらのような護衛が付いているはずじゃ」
小さな老人は静かに去って行った。
遠くからサイレンの音が聞こえてきた。弾丸の発射音と手榴弾の爆発音を聞いて、誰かが通報したのだろう。
上空にカラスが集まり出した。
墓魏はカートの破片と女の肉片が散乱する道路を前に呆然と立ち尽くす。
血のニオイが漂ってくる。カラスはこの光景を目で見て飛んで来たのか、ニオイを鼻で感じて飛んで来たのか分からないが、ご馳走にありつけると飛んで来たことは確かだ。
長年ヤクザ稼業を務めてきたが、こんな悲惨な現場を見たことはない。
さっきまで話していた女はもうこの世にいない。
これじゃ戦場じゃないかよ。
墓魏が空を見上げる。
忌々しいカラスめ。
パトカー、早く来いよ。カラスに肉片を喰われるじゃないか。
カラスは十羽くらいに増えている。
さっき通報しておいた方がよかったかなあと、墓魏は少し後悔する。
通報しておけば、あの女は死ななかったかもしれない。
そして、あの老人に怒りが向く。
あのジジイは容赦なく、若い女を殺しやがった。
だが、あの老人がいなければ、俺は殺されていたかもしれない。ヤクザ者が若い女に殺されるなんて無様だ。そう考えると複雑な心境だ。
シルバーカーを押す老人の背中はすでに小さくなっている。
何がシルバー人材センターだよ。
上空のカラスが騒がしくなった。
また増えたのかと思い、墓魏が見上げてみると、十数羽のカラスが逃げ惑っている。
今度は何が起きてるんだ?
思いもよらない事が立て続けに起きて、さすがの墓魏も頭が回らない。
すると、カラスの大群の中に奇妙な鳥を見つけた。白と黒が混ざったその鳥は大きかった。おそらく翼を広げた大きさは二メートルを越えている。
あんなデカい鳥が日本に生息してるのか?
誰かが内緒で飼育してるのか?
動物園から逃げ出したのか?
その鳥の名はオウギワシと言ったが、墓魏は知らないようだ。中央アメリカや南アメリカに分布する鳥で日本では見られない。サルやナマケモノを主食とする猛禽類最大の鳥だ。
カラスはあの鳥から逃げていたのか。
墓魏が巨大な鳥を目で追っていると、突然急降下を始めた。
その先ではあの老人がシルバーカーを押して歩いていた。
オウギワシはクマの爪よりも長い鉤爪で老人の両肩を掴むと宙に持ち上げた。小柄な老人は軽々と上がった。ナマケモノが持ち上がるのだから、老人も持ち上がる。
おそらく何が起きたのか分からなかったのだろう。十メートルほど上空で老人は首を曲げてこちらを見た。
墓魏と目が合った。
だが、その目にはもはや光はなかった。すでに死を覚悟していたのかもしれない。
オウギワシは空中で老人を離した。
なすすべのない老人はそのまま墜落し、道路にグシャリと叩きつけられた。
そして、おそらく死んだ。
道路には壊れたシルバーカーが残されていた。
墓魏は辺りを見渡した。
どこかにあの鳥を操っている殺し屋がいるはずだ。鳥がせっかく捕獲した獲物を途中で手放すはずはない。手放すように訓練されているはずだ。
しかし、人影は見えない。
墓魏は思った。
お散歩カートを使った女が俺を殺そうとした。その女をシルバーカーの老人が殺した。その老人を鳥が殺した。
ということは……。
あの鳥は俺からすると敵じゃないか。
墓魏は駆け出した。
ヤクザとして、若い女に殺されるのはカッコ悪いが、鳥に殺されるのはもっとカッコ悪い。
殺されるのなら、せめて人間に殺されたい。しかも俺は高い所が苦手だ。
上空を仰ぎながら、墓魏は走る。先ほどと違ってうまく走れる。頭も回るようになった。
どこに行ったのか、空にあの巨大鳥の姿はない。カラスも全員避難したようだ。
やがて、サイレンの音が近づいて来た。
「親分、非常に大変です!」墓魏がいつものように事務所に駆け込んで来た。
「おお、久しぶりに聞くボギーの大変だな」親分はヨダレを拭ったティッシュを英国製ゴミ箱に投げるが入らず、法華が拾いに行く。「今日はどうした?」
「俺がお散歩カートに襲われて、シルバーカーのじいさんが鳥に連れ去られました!」
「お前は何を言っとるんだ? 話をまとめろ」親分は呆れた顔を向ける。
「つまり、俺がお散歩カートを押している女……」
「まあ待て。お散歩カートとは何だ?」
「たくさんの園児を乗せることができる業務用の乳母車みたいなものです」
「ああ、よく街で見かけるな。園児が散歩しとるわ」
「そのカートを武器にしている女の殺し屋に狙われたのですが、シルバーカーを武器とするじいさんの殺し屋に助けられたと思ったら、デカい鳥を武器にする殺し屋にじいさんが殺されたというわけです」
「つまり、お前は三人の殺し屋を相手にしてきたということか?」
「ええまあ、そんなところです」親分は勘違いしているようだがスルーする。
「すごいじゃないか、ボギー! お前は死んでないのだな?」
「へい。この通り、実体はあります」足元には影が伸びている。
「プリッツが襲われたから、モユユに頼んで、幹部のみんなには殺し屋をボディガードとして付けてもらっていたのだよ。どうやらうまくいったようだな」親分はしてやったりの表情だ。
「親分、ありがとうございます!」砂猫組四天王はお礼を言う。
「しかし、鳥を操る殺し屋は最後まで姿を見せませんでした」墓魏が困惑気味に言う。「ビルの屋上かどこかで見ていたのでしょうけど」
「墓魏を助けたじいさんを襲ったということは」茂湯が言う。「鳥使いは神々教の奴らが雇ったのだろう」
「人間よりも大きくて、恐ろしい鳥でした」
「そりゃ、怖いな」親分がチンパンジー顔を歪める。「いいか、みんな。これからも単独行動は慎め。それと各自、デカい鳥にさらわれないように、歩くときは頭上に気を付けるんだ」
「へい!」「へい!」「へい!」「へい!」
「お散歩カートを押していたのは、見るからに幼稚園の先生みたいな女でした。まさかあれが殺し屋だったとは思いませんでした」
「どう見ても殺し屋に見えない奴が返って怪しいんだ」法華が説明する。「怪しまれないから、ターゲットには簡単に近づける。いかにも殺し屋という奴は最初から警戒されるからな。だから、かわいいネエチャンとか、ヨボヨボのバアサンなんかには要注意だ。人を見かけで判断したらひどい目に遭う。みんな気を付けようや」
「それと親分、いいニュースもあります」墓魏が嬉しそうに言う。
「おっ、どうした?」
「地域のお母さん方に、お子さんが公園デビューをするとしたら、砂猫公園と神々公園のどちらがいいかというアンケートを、回覧板を使って行いました結果……」
「――結果?」
「六人対一人で、砂猫公園の圧勝でした!」
「おお!」
親分とみんなから歓声が上がった。
「一人というのは神々教の信者だろ」
親分はうれしそうに言い切った。
♪♪♪♪♪
親分と四天王が事務所で歌って、踊り出す。
振津が退院してきたので全員が揃っている。
快気祝いの意味も含まれている。
手にはいつもの提灯を持っている。
♪振津と墓魏が襲われた~
砂猫組に盾突く不届き者め~
全員蹴散らし、成敗してやる~
俺たちの恐ろしさを見せてやる~
鬼がかわいく見える俺たちさ~
ビュンビュン、ビュンビュン(提灯を振る音)
♪デカい鳥なんかへっちゃらさ~
焼き鳥にして喰ってやる~
何人前できるか分からんが~
ビールのつまみにしてやるぜ~
羽根は毟って羽毛布団にしてやるぜ~
ビュンビュン、ビュンビュン(提灯を振る音)
♪小さい子供にも大人気の砂猫公園~
若いカップルにも大人気の砂猫公園~
熟年夫婦にも大人気の砂猫公園~
ワンちゃんにも大人気の砂猫公園~
神々教は来るんじゃないぞ砂猫公園~
来るなと言っても来るだろう砂猫公園~
ビュンビュン、ビュンビュン(提灯を振る音)
♪♪♪♪♪
神々教団の女性幹部の百合垣は幹部室にいた。耳が見えるくらいのショートヘアで、眼光はいつも冷たく、鋭い。今日も幹部服である濃い紅色の作務衣を着ている。
幹部室には何者かに刺殺された外国人幹部のメイソンの遺影が置かれていた。
机に座って向き合っているのは幹部の穴田で、こちらも相変わらず能面のような冷たい顔をしている。その隣には広報の何和が座っているが、こちらも今日は珍しく神妙な顔つきをしている。
教祖と謁見した穴田が、早急に砂猫組と完全決着を付けるように、強い口調で言われたからだ。
期限は十日間。教祖が心臓のペースメーカーの電池交換をするため、十日間だけ入院する。その間に結果を出さなくてはならない。
もう一人の幹部である八丈島の姿はない。いつものように修行の一貫として、教団内を清掃して歩いている。最古幹部の八丈島だけは教祖の部屋の掃除が許されていた。そして、八丈島も教祖の部屋の掃除に訪れたとき、砂猫組を叩きつぶすように申し渡されていた。
三人の幹部は善後策を講じるため、先ほど幹部室に集まった。
このまま砂猫組にやられっぱなしというわけにはいかない。何といっても相手は、公安委員会から指定もされていない小さな暴力団だからだ。正式な認可を受けている巨大宗教法人が、無指定の弱小チンピラ集団に負けるわけにはいかない。
お互いの公園を比較してみると、遊具は砂猫公園の方が数も多く、豪華で、こちらの人工芝に対して、向こうは天然芝を敷き詰め、水飲み場に対抗して、向こうは巨大な噴水を造り上げた。今や閑古鳥が鳴いている屋台村だが、向こうの三十台のキッチンカーは大賑わいで、五十基ものベンチはいつも混んでいて、小型犬しか使えないこちらの小さなドッグランと違って、広大なドッグランはいろいろな種類の犬が走り回っているという。また向こうはうちの陰気な公園と違って、夜遅くまでクリスマスのイルミネーションみたいに輝いているし、LEDで赤く光るゴミ箱もある。
オープン当初はイチゴ幼稚園のお散歩コースに採用されるという快挙を成し遂げたし、散歩をしている写真が月刊すてきな幼稚園の表紙に掲載された。
こちらの方が関わる人数が多く、資金もあるというのに、この様である。
そして、今回のディスコ大会での惨敗だ。
神々公園でのディスコ大会は観光バスをチャーターして全国から信者を集めたにもかかわらず、先頭を切って踊っていた若い信者が、後ろから何者かに凶器で殴打されて昏倒するという事件が起きたため、急遽中止となった。その結果、集まっていた一般の人たちが盆踊りをしていた砂猫公園に向かい、向こうは大いに盛り上がったという。
教祖の機嫌が悪くなるのも無理はない。
そもそも公園を建設した土地は信者からの寄付によるものであった。先祖代々受け継いできた土地を教団のために活用してくださいと、古参信者から申し出て来たものである。決して教団側から催促したものではない。その信者が不治の病に罹り、今わの際に言い残したのである。
しかし、寄贈された土地は活用されることなく、長年放置されてきた。活用方法が見当たらなかったからである。教団本部を拡張する話も出たが、宗教団体に対する世間の目は近頃厳しくなっている。正当に寄付がなされた土地であっても、無理に奪い取ったと思われてしまう。
そんなとき、敵対する砂猫組が公園を建設して賑わっているという情報が入って来た。
やっと土地の活用方法が見つかった。
こちらも公園を作り、地元の皆様に喜んでもらおうと考えた。
教団のイメージアップになるし、うまくいけば信者数の拡大にもつながる。
土地を寄付してくれた信者もあの世で喜んでくれることだろう。
教祖にはそういう思惑があった。
しかし、公園戦争に次々と破れていることで、その思惑はしだいに薄れていった。
信者としては、そんな教祖の気持ちを充分に汲み取り、行動していかなければならない。
「偶然も三回繰り返されれば、必然になります」百合垣の目が光った。
「分かった。少しずつ切り崩して行こう」穴田も無表情で答える。
何和はいつものことだが、無駄に多く話し始める。
「うちがあんなヤクザもんに負けるわけありませんよ。金に糸目を付けずにやってやりましょうよ。今うちの教団は大ピンチなんですよ。こんなときのために莫大な寄付金を募っているのですよ。協力してくれる信者はたくさんいますし、何といってもうちには神仏が付いてます。毎日たくさんのお供え物を貢いでます。最高級のメロンまで捧げてます。お線香は百本くらい立ててます。ご加護はバッチリですよ。我々が見放されるはずはありません。アーメン&ナンマイダ~ですよ」
♪♪♪♪♪
穴田と百合垣の熟年コンビと中年の何和が歌って、踊り出す。
穴田は手に緑色が映える榊を持ち、百合垣は手に十字架を持ち、何和は木魚を持っている。
神々教はその名の通り、いろいろな神々を祭っている多神教である。
鳴り物がバラバラでも問題はない。
天罰もバチも当たらないだろう。
♪教祖様は怒り心頭~
だけど残された時間はあとわずか~
十日間しかないんだぞ~
憎き砂猫組め、撲滅してやる~
シャカシャカ、シャカシャカ(榊を振る音)
♪蟻の穴から堤も崩れる~
小さなことからコツコツと~
デカい激流になって押し流す~
いつか猫も尻尾をまいて逃げ出すよ~
カキンカキン、カキンカキン(十字架がぶつかる音)
♪この街に公園は二つもいらないよ~
一つだけで十分さ~
いらないのはもちろん砂猫公園~
神々公園は子々孫々まで永久不滅だよ~
ポクポク、ポクポク(木魚を叩く音)
アーメン&ナンマイダ~
アーメン&ナンマイダ~
アーメン&ナンマイダ~
♪♪♪♪♪
俺が椅子に座り、コーヒーを注文したとき、ウェイトレスのねえちゃんはこう言った。
「もしかして、盆踊りで太鼓を叩いていた方じゃないですか?」
「ああ。そうだ」
ものすごくかわいい子だったが、俺はあえてぶっきらぼうに答えた。ヘラヘラしていては舐められる。これがヤクザの矜持というものだ。和太鼓の演者として、子供が見ても泣かない顔ベスト3に選ばれたというプライドもある。チャンスとばかりにここでナンパなんか始めると、墓魏のアニキに怒られる。
「すごくカッコよかったですよ。私、見惚れちゃいました」
見惚れちゃいましたなんて言われると……。
いや、俺はヤクザ歴六ヶ月で、まだ修行中の身だ。こんな素人のねえちゃんに翻弄されてはいけない。日本男児の名がすたるというものだ。
「コーヒーは?」急かしてやる。
「あっ、すいません。只今お持ちいたします」
ウェイトレスは足早に去って行って、足早に戻って来た。
そもそもこのウェイトレスは元来おっちょこちょいなのか、まだ仕事に慣れてないのかよく分からないが、とにかく急いで持って来たコーヒーを俺のテーブルの上にぶちまけやがった。そのとき見ていたスマホはとっさに避けて無事だったのだが、シャツにブルーマウンテンコーヒーが数敵飛んできて、茶色い染みを作った。
必死に謝るウェイトレスに加えて、オーナーという男がやって来て、クリーニング代だと言って、一万円札を渡そうとする。俺の来ていたシャツは派手で高そうだったが、実は安い。服を選ぶときはブランドやデザインはどうでもいい。安いが高そうに見える。これが鉄則だ。ヤクザには見栄が大切なんだと墓魏のアニキによく言われている。墓魏のアニキは砂猫親分に言われているらしい。
オーナーが余りにしつこいため、一万円は受け取った。たかが九百円のシャツに一万円の値が付いたようなものだ。もちろんクリーニングなんかに出すわけない。九百円のシャツに二百円のクリーニング代をかけてどうする。五回クリーニングに出したら赤字じゃねえか。
だが、このドジなウェイトレスとの出会いは一度で済まなかった。
翌日、俺がパチンコを打ってると隣の席に若い女が座った。そこは場末の薄汚れたパチンコ屋で、若い女の姿を見かけることはない。変わった女もいるものだと横目で見てみると、あのコーヒー屋のウェイトレスだった。
そして、その女も俺を横目で見ていた。
――ものすごく気まずい。
なんといっても、俺は昨日のブルーマウンテンコーヒーの染みの付いたシャツをそのまま着ていたからだ。
「あっ、昨日のお客様ですよね!」
耳元で大きな声を張り上げてくる。そうしないと聞こえないからだ。
「ああ、まあ、そうだけど。今からクリーニングに出そうと思ってたんだ」シャツの袖をつまみながら、とっさに言い訳をする。女より小さな声で。
「ここにはよく来られるのですか?」
「まあ、たまにな――アンタは?」
「私もたまに来ます」
それはウソだ。
俺はたまに来ない。しょっちゅう来る。このパチンコ屋は俺の庭みたいなものだ。だが、たまに来るというこの女を見かけたことは一度もない。
つまり、お互いウソを吐いているということだ。
いったい何が目的なんだ? 新米のヤクザに金なんかないぞ。
怪しんだ俺は、その後もいろいろと話し掛けてくる女に、適当に返事をしているうち、諦めたのか、失礼しますと言って帰って行った。
だが、この女とは三度目の出会いが待っていた。
三度目は行きつけの居酒屋だった。あの女が店員でいたのだ。
「コーヒーショップとここを掛け持ちでバイトしてます」注文を取りに来た女はそう言った。
俺はこの寂れた居酒屋の常連客だったが、今までこの女を見かけたことはない。
コーヒー屋、パチンコ屋に続いて、居酒屋での出会い。
三回も出会いが続くと、これは運命に違いない、などと俺様が考えるわけない。安物のトレンディドラマじゃあるまいし、一般の野郎ならともかく、俺はヤクザだ。新米だけど現役のヤクザだ。罠にかかったり、足元をすくわれたりするのは恥だ。何事も慎重に対処しなければならない。
墓魏のアニキにもよく言われている。カタギにもヤバい連中がいるから気を付けろと。
最近は何かと物騒だから一人で行動するなと、親分からのファックスにも書いてあった。しかし、俺は下っ端だから気にすることなく、一人で出歩いている。
だが、この奇妙な女は何を目的としているか分からない。新人ヤクザの俺から組の何かを聞き出そうとしているのかもしれない。だったら、それは無駄なことだ。そもそも俺が組の極秘情報なんか知ってるわけないからだ。
何を言ってきても、適当に聞き流しておこう。そう心に決めていた。
しかし、なにぶん女の見かけがかわいいため、この決断をするには強い意志力を必要とした。怪しい女には強靭な大和魂で立ち向かってやるぜ。
そして、女は予想通り、俺に仕掛けてきた。
居酒屋の会計をしているとき、女は一枚のメモを渡してきたのだ。
俺はメモを黙って受け取ると店を出た。
そのまま読まずに捨てようと思ったのだが、仕掛けてきた罠に引っかかってやろうと思った。下心などない。ただヒマだったからだし、裏に何があるのか興味が沸いたからだ。俺みたいなチンピラに、敵対する大手暴力団が何かをやってくるとは思えない。だが、万一ということもある。もしそうだとしたら、裏をかいて、逆にとっ捕まえてやれば、俺の手柄になるじゃないか。きっと墓魏のアニキにも褒められるに違いない。そう思ったのだ。詐欺で言う、騙されたフリ作戦だ。
メモには用件が書かれてなく、明日の時間と待ち合わせ場所であるみたらし団子屋の名前だけ書いてあった。
――みたらし団子屋だって!?
そこで何をやろうというのか。俺に甘味処は似合わないけど、行ってやろうじゃないか。口の中が甘ったるくなって、気持ち悪くなったら、後で塩でも舐めときゃいい。
何が待ち受けているのか分からないが、乗り掛かった舟だ。
俺は意地でも行くことに決めた。
翌日、みたらし団子屋にあの女はいなかった。
代わりにいたのは俺の母親だった。
俺が高校を卒業して以来、一度も会ってない母親がそこでパート従業員として働いていたのだ。背中に店名が書かれたえんじ色の和服の制服を着ている。
俺はあの女と母親の仕掛けた罠にかかったのか?
この俺様が二人の女にまんま騙されたのか?
最初はそう思った。
だが、母親の表情を見て、違うことが分かった。
母親も俺がここに来ることを知らなかったのだ。
「あんた、どうしてここが分かったの?」
母親は困惑した顔で俺に訊いてきた。
俺も出されたお茶をすすりながら困惑した。
いったいあの女は何者だったのか?
母親はお盆の上にみたらし団子を乗せたまま、俺を見下ろしていた。
♪♪♪♪♪
母子で歌って、踊り出す。
母も息子も手にだんごの串を持っている。
店内には甘い香りが漂っている。
厨房では小豆が煮られている。
♪サヨナラだけが人生じゃない~
山あり、谷あり、野あり、川あり~
母の元に戻っておいで~
家には俺の居場所がない~
お前がいないと母ちゃんはさびしいよ~
一人で生きていけるさ、母ちゃんなら~
あたしはもう五十代半ばなんだよ~
まだまだ行けるさ、人生八十年~
ヒュンヒュン、ヒュンヒュン(だんごの串を振り回す音)
♪決めつけないでよ、最近は体がしんどくて~
俺には俺の道がある~
その道はやさしいお前に似合わない~
まだ見習いの俺なのさ~
やさしいゆえに見習い止まり、お前が一番分かっているはず~
それを言うなよ、母ちゃんよ~
まっとうな仕事に就くことが親孝行だと思わないのかい~
今さら引き返せないぜ、この人生~
ヒュンヒュン、ヒュンヒュン(だんごの串を振り回す音)
♪♪♪♪♪
幹部の穴田が道場で若い信者たちを前に話している。
痩せた体から出るとは思えないほど、その声には迫力があり、説得力もある。
「我々を邪魔しようとする組織はあちこちに存在します。それらはすべて悪に染められています。その組織に属する者たちは悪に洗脳されているのです。悪魔が乗り移っているのです。恐れてはいけません。逃げずに戦わなくてはいけません。すべてはこの世を平和にするために、人々に安らぎを与えるために、無心の境地で立ち向かっていくのです。それが我々に課せられた使命なのです」
紺色の作務衣を着た四十人ほどの若い男女は胡坐をかいたまま、微動だにせずに、穴田の話を聞いている。正面の祭壇に置かれているレプリカの陽の観音像が信者を見守っている。
「人には必ず弱点があります。金や酒、異性や地位、名誉、健康、家族など人によって様々です。その弱点を探り出して、利用し、足を洗わせて、うちに入信させてください。狙いは若い人です。ベテランになると、今さら環境が変わることを好みません。若ければ、信念もしっかりしてない場合が多くあります。偶然を装って近づいてください。偶然も三回繰り返されれば、必然になると、百合垣幹部が言ってました。一度にまとめて行う必要はありません。一人ずつ、確実に行ってください。小さく開いた風穴はいずれ大きくなります。そして悪の組織を崩壊に導くのです。いいですか、みなさん。これは修行です。成功するとランクアップできます。我々がやってることは善です。そして何よりも、これは教祖様の願いであります」
「ははーっ!」
教祖様という名前が出た瞬間、四十人の信者は全員床にひれ伏した。
墓魏、振津、法華、茂湯の四天王の各組から少しずつ組員がいなくなり、最近では櫛の歯が欠けたようになっている。出て行ったのはすべて若い組員だ。
「どうせ神々教のしわざだろう。公園戦争で全戦全敗してるから、何とか別の方法でうちにダメージを与えたいのだろう――やり方がセコい。セコ過ぎる。正々堂々と公園で勝負して来いというんだ。まったくしつこくて、懲りない連中だ。ロケット弾をぶち込んだくらいじゃダメか」
親分は、砂猫組が脱出本舗を使って神々教の信者を還俗させていることを棚に上げ、チンパンジー顔を真っ赤にして怒っている。あまり怒ると脳の血管が切れるのではないかと幹部組員は冷や冷やして見ている。
「確か、ボギーの舎弟も先日いなくなったのだな」
「へい。まだ入って半年だったのですが、雑用も率先してやるような見込みのある男でした。ところが突然いなくなりまして」
「神々教の信者になったのか?」
「いいえ。若い衆に調べさせると、どうやら音信不通だった母親に偶然会ったみたいです。そこで話し合った結果、カタギになって、母親の世話をしながら、真面目に働くことに決めたようです」
「偶然会ったんじゃないだろ。きっと神々教が罠を仕掛けやがったんだ」
「俺もそう思います。あいつの唯一の心配は病弱な母親の存在だったですから」
「どこかでそれを調べやがったんだな。だが、足を洗ったのは、最終的には本人の意志だろうよ。仕方がないな。親孝行は大事だしな。親孝行をしようと思ったら、もう親は他界している。人生はそんなもんだ。しかし、奴は間に合ってよかったじゃないか」
義理と人情を大切にする親分である。
「そう言えば、親分」墓魏がポツンと言う。「神々公園のドッグランがついに閉鎖したそうです」
「何!」一度は治まった親分の顔が再び赤くなる。また脳の血管が心配になる。「ボギーよ、それを早く言わんかい!」
「へい。特に大変だとは思わなかったものですから」
「大変じゃないか! ボギーは大して大変じゃないことを大変だと言い、本当に大変なことを大したことがないと言う。今回は、あまりにもめでたくて大変じゃないか。入場料を二千円も取る人工芝の小型犬用ドッグランなら、つぶれて当然だ。しかも柵が壊れて三十匹の犬が逃げ出して、今も三匹が見つからず、ネットニュースになったのだからな。きっと天罰が下ったのだろうよ。神に見放された神々教だな」
ドッグランの柵は、茂湯が親分の命令を受け、パシリの師家木に頼んで、黄金の左足で蹴り壊してもらったのだが、親分は神様の天罰のせいにする。
「そのドッグランの跡地ですが、凧揚げをする場になったようです」
「凧揚げ!? この令和の世に凧揚げをする子供がいるのか?」
「需要があるのか分かりませんが、跡地に凧揚げ場と書かれた看板が立っていて、入場料は一時間二百円と大きく書かれていたそうです」
「誰が金を払ってまでして、公園で凧を揚げるんだ? 河原に行くとタダだろ――よしっ、こっちも負けてられないぞ。凧揚げに対抗するものと言えば何だ?」
親分は四人を見渡す。
「ドローンじゃないでしょうか」法華が言う。
「おお、さすがホッケ。わしもドローンだと思ったぞ。意見が一致したな。ドッグランの隣の辺りにドローンを飛ばして遊べる場所を作ることにしよう。天然芝をそのまま利用して、もちろん入場無料だ。UFOの発着場みたいに近代的で、カッコいいデザインにして、NASAの全面協力で作ったと、看板に書いておこうや」
「NASAですか?」法華が訊く。
「おおそうだ。NASAと書いておけば、何となくすごいだろ。黙ってたら分からん。わざわざ英語を使って、NASAに電話で問い合わせる物好きな奴はおらんだろ」
「親分」振津が提案する。「いろいろなコースを作って、ドローンで競争させるのはどうでしょうか」
「おお、プリッツ。冴えてるじゃないか。ミニ四駆のレース場みたいにするんだな。よしっ、ぜひそうしよう」
「親分」茂湯も提案する。「初心者用にドローン教室を開くのはどうでしょうか」
「おお、モユユもいいことを言うな。さっそく先生と生徒を募集しようや」
「それと親分、まだあります」墓魏が言う。「凧揚げ場の一角にプレハブ小屋が建っていて、小荷物の預かり所になってます」
「公園に荷物を預けてどうするんだ。金は取るのか?」
「へい。荷物一個につき百円だそうです」
「そもそも公園に来る人なんか、近隣の人たちだろう。わざわざ公園に預けなくても家に持って帰ればいいじゃないか。神々教の連中はそこまでして小銭が欲しいのか? 公園内に預かり所を作るという発想が貧困だな」
「親分」茂湯が提言する。「どうせ荷物を預かるのなら、宅配便の荷物を預かったらどうでしょうか。昼間家を不在にしている人が公園に取りに来れば、再配達をしてもらったり、郵便局まで足を運んだりする必要はありませんよ」
「おお、モユユ。相変わらず冴えてるな。今日もDHAたっぷりの青魚を喰って来たか。しかし、近所の人たちの不在の荷物が一日に十個も二十個も来ないだろ。こちらはわざわざ預かり所を建てるようなことはせずに、桃賀総長に頼んで、管理人室の片隅に置いてもらおうや。総長は朝が早いから、夜遅くじゃないと来れない人は朝に来てもらおうや」
「それと親分。今思い付いたのですが、近所のお子さんを預かるのはどうでしょうか? 保育園のように終日預かるのではなく、母親が買い物や美容室に行っている間、数時間だけ公園で預かるのです」
「おお、プリッツ。さすが高卒のインテリ。公園に託児所とは素晴らしいひらめきだ。そちらはプレハブ小屋を建てようや。中をたくさんのオモチャでいっぱいにするんだ。いいか、調達担当のプリッツよ。一番高くて豪華なプレハブ小屋を買うんだぞ。子供が好きそうなお菓子の家みたいなプレハブにしようや――北欧のプレハブはどうだ?」
「北欧ですか?」
「そうだ。あの地域は高級家具が有名だから、プレハブも高級そうじゃないか」
「分かりました。手配します」
「それと、小さなお子さんを預かるから、安全には気を付けようや。震度10でも平気な耐震構造で、中は床暖房付きで、シャンデリアがぶら下がってるプレハブを探すんだ」
「へい、分かりました」
そう返事をしたが、そんなプレハブがあるのかと振津は不安になる。
相変わらず無理難題を押し付けて来る親分だったが、北欧に売ってなければ、普通のプレハブを改装して、それらしく作ればいいか――振津はそう決めた。
「ところで託児所といえば、お前らの中で子供の相手ができる者はいるか?」
親分は四人を見渡す。
凶悪な顔が並んでいる。
そばの鏡で自分の顔も見てみる。
チンパンジーが映っている。
「――いないな。よしっ、子供の世話ができる女性を雇おう。雇用によって地域貢献もできるぞ。これだけ世の中に貢献しているのだから、そろそろわしを人間国宝にしてくれんかなあ。ダボス会議にも呼んでほしいなあ。スイスのハトをたくさん仕入れたのになあ」
三日後、砂猫公園の管理人室の隣に最高級プレハブ小屋が新設された。
残念ながら北欧には、お菓子の家に似た、シャンデリア付きの小屋はなかったが、オプションで床暖房を付けてもらい、地震に強く、安心安全な公園託児所が出来上がった。
親分には北欧から直輸入したと言ってある。北欧から三日で届くわけないのだが、人の良い親分は気づかない。芸大生に頼んで、プレハブ小屋の壁面にムーミンの絵を描いたので、北欧のものだと信じている。
さっそく数人の子供が預けられ、いろいろなオモチャで遊んでいる。子供の相手をしてるのは新しく雇用された近所の主婦二人だ。給料ははずんである。
管理人室には“宅配便預かり所”の看板が掲げられ、“ドローンあります”と書かれた紙も貼られた。
公園内にドローンで遊べる場所を作ることになったため、管理人の桃賀がさっそく販売を始めたのだ。あちこちにいろいろなコネを持つ桃賀はドローンを格安で卸してくれる業者を見つけた。
ドッグランで使う一枚千円のフリスビーは二百枚も売れた。五百円で仕入れているから十万円の儲けだ。今もよく売れている。こんなに犬を飼ってる人が多いのかと桃賀は驚いている。
公園内で使用するドローンは100グラム以下の登録義務のないトイドローンと呼ばれている小さなものであり、値段も1万円以下の商品を売っていた。仕入れ値はこちらもコネを最大限利用して、約半額の値段である。
今日もドローンは十機ほど売れていた。フリスビーと合わせると年金を上回る収入になるだろう。来春は確定申告に行かないとダメだなと思う。
桃賀は高級ベンチに座りながら、新設されたドローン飛行練習場を見ている。
案内板には、NASAが責任監修した練習場だとデタラメが書いてあるが、アメリカからこんな地方の公園まで苦情は来ないだろう。
練習場では一人の講師の前に七人の子供が並んで、ドローンの操縦方法を学んでいる。管理人室に貼っていた講師と生徒募集の貼り紙を見て応募してきた子供たちだ。もちろん保護者の承諾を得ており、今もお母さんたちは桃賀と並んでベンチに座り、子供たちの成り行きを見守っている。
やがて、数機の小さなトイドローンがいっせいに飛び上がった。空中に浮いただけでも子供たちから歓声が上がる。お母さんたちからも感動の声が聞こえた。テレビなどでドローンを見る機会はあるが、実際間近で見たのは初めてだったのだろう。
北欧風の公園託児所とドローン飛行練習場。
この新たな施設を見ると、神々教の連中も驚くだろう。
桃賀はニコニコしながら、ドローンの指導している講師に近づいて行った。
「みんな、すぐにうまくなるものだねえ」
講師はその声に振り返った。
「あっ、モモンガさん。こんにちは」
「はい、こんにちは。周人くんの指導がいいから、うまいのだろうね」
「いえ、そんなことないです。みんなの覚えがいいからです」
二人は並んで子供たちが飛ばす小さなドローンを見上げている。後ろから見るとおじいさんと孫だ。
この講師は名前を周人と言い、小学五年生だった。ドローン教室の講師募集の貼り紙を見て応募してきたのだが、ドローン歴は三年になるというベテランだった。お父さんがドローンを持っていて、小さい頃から、近所の河原で教わっていたという。他に応募してくる人がいなかったためすぐに採用となった。教えてくれるのなら小学生でも構わない。
「周人という名前は誰が付けたんだい?」桃賀は訊いてみた。
「お父さんが付けてくれました」周人はハキハキと答える。
「お父さんはサッカーが好きなのだろう」
「いいえ。シュークリームが好きなんです」
「では、周人君は将来パティシエになるのかな?」
「いいえ。地方公務員です」
「ほう。安定した職業でいいねえ」
「ぼくはこの街が大好きなんです。だから公務員になって、この街の平和を守りたいんです」
「それはヒーローみたいでいいねえ」
小学生のため現金での給料は出せず、代わりに毎回図書カードを渡すことで、本人と両親には納得をしてもらい、契約にこぎつけた。
ドローン飛行練習場にはレースコースが併設されていて、今教わっている子供たちがうまくなると、そこでレースを始める予定だった。
“ぼくが教えている生徒はみんな子供で、三十人くらいだ。みんな初心者だ。ドローンにはさわったことのない子ばかりだ。だから最初は安全について教えた。ドローンの事故は二種類ある。落ちてきたドローンにぶつかる事故とプロペラで手をケガする事故だ。両方とも危険なので、最初にしっかり教えた。みんなはよく分かってくれたと思う。それと、ぼくのことは先生と呼んでくれる。ちょっぴり恥ずかしいけど、偉くなったような気分だ。もちろん学校に行ったら本物の先生がいて、病院に行っても本物の先生がいる。ぼくはここで講師の仕事をすることになったけど、今まで通り、街のパトロールも続けている。特に目を離さないように気をつけているのは神々教団だ。ぼくは教団のヘビーウォッチャーなんだ。この街の平和を守るために必要なことなんだ――周人”
♪♪♪♪♪
桃賀とお母さんが見守る中、講師の周人と七人の子供が歌って、踊り出す。
講師と子供といっても、あまり年齢は変わらない。
手にはドローンのコントローラーを持っている。
♪ドローンよ、飛べ飛べ、空高く~
鳥に負けるな、雲に負けるな~
野を越え、山越え、ビルを越え~
充電が切れるまで飛んで行け~
NASAが責任監修した練習場~
ホントかウソか知らないけれど~
宇宙の果てまで飛んで行け~
カシャカシャ、カシャカシャ(コントローラーを操作する音)
♪見下ろす川と池と田んぼと畑~
学校と山と古墳群~
道路と車と行き交う人々~
みんな小さく見えている~
みんなこちらを見上げてる~
鳥になった気分だよ~
王様になった気分だよ~
カシャカシャ、カシャカシャ(コントローラーを操作する音)
七機のトイドローンが空中で見事にホバリングしていた。
♪♪♪♪♪
毎週土曜日に開催されている飛鳥井教会のバザー会場。
一人の太った男が敷地内に張られたテントを覗き込んでいた。神々教団の幹部何和である。先ほどまで、ここには砂猫組の茂湯がいた。茂湯と行き違いになったことを何和は知らない。また茂湯も自分が帰った後で、何和が教会を訪れたことを知らない。
敵対する者同志がニアミスをしていた。
茂湯は仕事の依頼のために恵子おばちゃんの元を尋ねたのだが、何和はただ教会の前を通りかかり、繁盛している様子を見て、ちょっと寄ってみたただけである。
茂湯は仕事の依頼を終えると、目に付いた五百円の赤いミサンガを買った。
「恵子おばちゃん、ミサンガとは懐かしいな」
茂湯は小物類の中に色とりどりのミサンガが並べているのを見つけた。
「そうでしょう。平成の初めに流行ったものだから、今の若い人の中には知らない子もいるのよ。Jリーグ発足当時だったから、ずいぶんと昔だわねえ。私も年を取るわよねえ」
「確か、手首に巻いたミサンガが切れたら、願いが叶うんだよな」
「そうそう。私もいくつか巻いてたもの」
「願いは叶ったのか?」
「叶ったり、叶わなかったりだね」
「じゃあ、あんまり意味がないんじゃないのか」
「叶った方だけを信じればいいのよ」
「なるほどな。恵子おばちゃんはポジティブだな。じゃあ、俺も一つ買って行くかな」
「茂湯さんにも叶ってほしい願い事があるわけ?」
「まあ、いろいろとな」
茂湯は赤いミサンガを手に取った。
「あら何和さん、珍しいわね」
恵子おばちゃんが、コースターを手に取っていた何和に声をかけた。つい先ほど茂湯が帰って行ったばかりだが、当然口にはしない。二人ともお得意さんだから、お互いの秘密は厳守だ。
たとえ敵同志であっても、双方から仕事を受けて、双方から利益を得ている。
したたかなおばちゃんである。
「ちょっと通りかかったものでね」何和はボテッとした顔を向ける。「前に来たときよりも種類が増えてますね」
「出品してくれる作家さんの数が増えたからね」
作家の一品物を狙って買いに来る人も多いらしい。
あたりを見渡してみると、年配者もいれば、若い学生も来ている。
「それに最近は食べ物も売ってるからね」
隣のテントでは、全身ヒョウ柄の格好をした小太りのおばさんが手作りビスケットを品定めしていた。
「今は何が売れてるのですか?」何和が恵子おばちゃんに訊く。
「スマホのアクセサリーだね。ストラップとか、落下防止のベルトとかリングとか、よく出てるよ」
「へえ、そうですか」
「やっぱり女性客が多いから、傾向としてかわいい物が売れるね」
「私のようなおじさんはついて行けないなあ」
「主婦も多いから実用品もけっこう売れてるよ」
「ちょっとしたキッチン用品とかですか。ああ、アイデアグッズも置いてありますね。あったら便利というやつですねえ。うちにもけっこうあるんだけど、買っただけで使わない物も多いんですよ。だったら買わなきゃいいと思うんですけど、買うことで満足するのでしょうねえ」
その後も何和は無駄な話を延々として、何も買わずに帰って行った。
いったい何をしに来たのだろう、おそらくヒマだったのだろうと、恵子おばちゃんは思ったが、あんな人でもお得意さんだ。神々教に帰ると、ちょっとした幹部らしい。
またいつか仕事をくれるだろう。
恵子おばちゃんは何和の大きな背中を見送りながら思った。
何和の後ろを全身ヒョウ柄のおばさんが歩いていた。さっきバザーで見かけたおばさんだ。何気なく振り返ってみて、気付いたのだ。教団幹部として、マスコミの尾行には気を付けている。だから常に背後には気を配っている。
手作りビスケットを見ていたようだが、買ったのだろうか。
おばさんは、ヒョウ柄のバケットハットをかぶり、ヒョウ柄のレギンスを穿き、ヒョウ柄のパンプスを履き、ヒョウ柄のバッグを肩から掛けている。もっとも目立つのはヒョウを真正面から見た絵が胸元に大きく描いてあるTシャツである。しかしおばさんが太っているため、ヒョウの顔は横に伸びて丸顔になっている。メタボのヒョウだ。
何和はふと思った。
背中の絵のデザインはどうなっているのか?
前がヒョウの顔なら、後ろはヒョウのお尻の絵なのか?
そこに尻尾は生えているのか?
何和はスマホを操作しているフリをして、歩く速度を緩め、ヒョウ柄おばさんを先に行かせた。おばさんが追い抜いて行く時、香水の匂いがしたが、高い香水なのか、安物の香水なのか、何和には分からなかった。
何和は顔を上げて、前を歩いて行くヒョウ柄おばさんの大きめの背中を見た。
尻尾の生えたヒョウの絵が描いてあった。
ヒョウのお尻も横に伸びていた。
やっぱり背中にも絵が描かれていたか。
何和は自分の予想が当たって喜ぶ。
その瞬間、おばさんが振り向いた。
「あら、お兄さんはさっきバザーにいた方ですよね」
ヒョウ柄おばさんがズカズカと近づいて来る。
酒焼けしているのか、ハスキーな声をしている。
「はあ、そうですけど」何和は驚いて立ち止まる。
デカいヒョウの迫力に何和の体は動かない。
太ったヒョウに睨まれた太ったウサギのようだ。
「何かお買いになったの?」
さらにヒョウは近づいて来る。
「いいえ。何も……」
ヒョウ柄おばさんがすぐ前に来た。
ニヤリと笑った口からは銀歯が見えた。なぜか銀歯の先端が鋭く尖っていた。
そして、何和は左脇腹に痛みを感じた。
見ると、おばさんの手が刺さっていた。
――刺された!?
外国人幹部のメイソンを思い出した。何者かに刺殺されたのだが、いまだに犯人は捕まっていない。まさかこのおばさんに刺されたのか?
おばさんはゆっくり手を引いた。何和の腹から、血の滴る長い爪が五本出てきた。ご丁寧なことに、爪にもヒョウの絵が描かれていた。
腹がカッと熱くなり、全身の力が抜けて行く。
おばさんは何和のすぐ目の前に立っている。まるで恋人同士が向かい合っているようだ。
おばさんは何和の頭をガシッと掴み、右に傾けた。露わになった左の首筋に銀歯で噛み付いた。
こいつはゾンビかよ。噛み付くために歯の先端を尖らせていたというのか。
ヒョウの爪と牙の犠牲となり、崩れ落ちる何和の背中に何かがスプレーされた。
香水か? おばさんの間では背中に香水を振り撒くのが流行っているのか?
いや、これは香水じゃない……。
ここまで考えたところで、何和の意識は消えた。何和は油断していたとはいえ、何ら抵抗もできず、地面に転がった。
ヒョウ柄おばさんは唇に付着した何和の血をペロリと舐めると、ヒョウ柄バッグから飴を数粒取り出した。
「お兄さん、アメちゃんは好きかい?」ハスキーな声で問いかける。
おばさんはもはや何の反応もない何和の背中に向けて、数粒のアメちゃんを放り投げると、早足で歩きだした。
アメちゃんは背中で発火して、スプレーされたガソリンに引火し、神々教幹部の何和を火だるまにした。
ちょうどそのとき、茂湯は教会を出て、事務所へと向かっていた。
手首に巻いていたミサンガが、さっそく願いが叶ったかのように切れて、足元に落ちた。
茂湯は赤いミサンガを不思議そうに見下ろして、ニヤリと笑った。
「神々教に何か不吉なことが起きたかもしれんな」
砂猫公園の一週間の閉鎖が決まった。保健所による指導である。
茂湯に電話がかかって来たのは、夜中の一時過ぎのことだった。
「茂湯のアニキ、大変です」
「おお、シケモクか。どうした?」
「夜分にすいません」
「かまわん。俺たちは夜行性だ。さっさと用件を言え」
「砂猫公園に生ゴミが放置されました」
「なんだそんなことか。一万円払うから、お前が掃除しておいてくれ」
「多すぎて、一万円じゃ割に合いません」
「どのくらいあるんだ?」
「デカいトラック一杯分です」
「なんでそういうことになるんだ!?」
「俺が公園の高級ベンチで寝ていたら、大型トラックが侵入してきまして、荷台から大量の生ゴミをズルズルと下ろし始めたのです。俺は止めようと身を挺してトラックの前に躍り出ると、両手を広げて通せんぼうを……」
「ホントか?」
「いや、ウソです。十秒くらいで終わったので止められなくて。すいません。でも写真は撮りました。逃げるように去って行くトラックの後ろからスマホで写しました。ナンバーもバッチリ写ってます」
「写真を撮るときバレなかったのか? 音はトラックのエンジンで誤魔化せるとして、フラッシュが光っただろ」
「夜中の一時に自動消灯するまで、クリスマスのイルミネーションみたいに公園全体がピカピカですから気付かれてません」
「そうか。親分が夜中にイチャつくカップルのために作ったのだったな。その写真を持って警察に行ってくれるか。どうせ盗難車だろうけど、被害届を出そうや」
「俺が行くのですか?」
「ああ、シケモクじゃ信じてもらえないか。俺が行っても門前払いだろうからな。誰かカタギの知り合いはいないのか?」
「行きつけのお花屋さんの店員さんならいます」
「行きつけ? お前は花をめでる顔じゃないだろ。変な草の栽培でもしてるのか?」
「違いますよ。俺は花が好きで、家庭菜園もやってるんですよ。その店員さんに行ってもらいますよ」
「だったら、佐々川刑事か和木刑事を尋ねるように言ってくれ。どちらでもいい。似たようなもんだからな――で、生ゴミは今どういう状態なんだ?」
「すごい悪臭を放ってます。臭いに釣られて、夜中だというのにカラスが上空を舞ってます」
「闇夜のカラスがよく見えるな」
「変わったハトも飛んでます」
「それは親分御用達のスイスのハトだから気にするな」
「ネズミも来てます。ハエも飛んでます。ハクビシンかイタチみたいな奴とか、小動物もチョコチョコ走り回ってます」
「リスじゃねえのか?」
「リスは生ゴミを喰いますか?」
「生ゴミの中にヒマワリの種が入ってるんじゃないのか」
「野良猫も野良犬もやって来て、公園が動物園状態です。見渡す限り、人間は俺だけです」
「ニオイが酷いのなら、しばらくキッチンカーの営業は無理だな。これも神々教の野郎どもの仕業だろう。姑息な嫌がらせをしやがって、覚えてやがれ」
強烈な悪臭が漂ったため、近隣の人たちによって保健所に通報がなされ、砂猫公園は清掃と消毒のため、しばらくの間、閉鎖されることになった。
そして、砂猫組は神々教に大掛かりな反撃を仕掛けることになる。
建築資材置き場の地下。
色白で体格のいい中年の男が十一人の男たちを見渡している。この男は集団の親方だ。
男たちはまちまちの格好で休憩用の小さなスペースに座って、おのおの缶コーヒーを飲んでいた。
「お前とお前は」親方は二人の若い男を指差す。「経験のない新人だな」
「はい」二人のうちの色が黒くヒョロ長い男が返事をする。「今日からお世話になります」
もう一人の太った若者も挨拶をする。「なにぶん初めてですが、よろしくお願いします」
親方は二人から目を離さない。
「なんでお前らが未経験の新人だと分かったのかと不思議に思っただろう」
「はい、思いました」最初に返事をした方が答える。
「ここには俺を含めて十二人の男がいる。みんなを見てみろ。色が黒いのはお前ら二人だけだ」
男たちは体格こそいいが、みんな日に焼けておらず、色が白い。
「俺たちは日の当たらない場所を専門にして、全国を回ってるんだ。だからみんな色白だ。お前ら二人だけは色が黒いから、分かったというわけだ」
「はあ、そういうことですか」
「俺たちの仕事場は地面の下だ。地下鉄、下水道、鍾乳洞、鉱山、遺跡の発掘なんてこともやる。岩手の益彩都古墳を見つけたのは俺たちだ」
「へえ、そうなんですか」「それはすごい」二人は目を見合わせる。
「歴史的価値の高い古墳を見つけたから金一封でもくれるのかと期待したのだが、もらったものは、地元のお土産屋が便乗して作った古墳饅頭を一人に一箱だ」
「しかも饅頭はマズかった。わしは一口喰って吐き出した」年配の男が茶化すと、みんなはゲラゲラ笑い出し、俺もそうだったと同調する者が続出した。
その笑い声は部屋中に響く。
二人の新人は思った。
この地下の部屋で歌を歌ったら、反響してうまく聞こえるだろうな。
年配の男が思い出したように言った。
「そういえば親方、さっき社長から差し入れをもらいました」
「ものは何だ?」
「日本酒を十二本ですわ」部屋の隅にダンボール箱が置いてある。
「酒だと!? 今は仕事中じゃねえか。飲めるわけない。酔っぱらって仕事をすれば、ヘタすりゃ命取りだからな。まったく気が利かない社長だ。あいつは普段から酒を飲みながら仕事をしてるのか。どうせ、紙パックに入った安物の酒だろ」
「いいえ。越乃寒梅の純米大吟醸を十二本です」
「なんだと!」親方を始めとして、全員が驚き、そして喜ぶ。
一本一万円以上はする高級酒だからだ。
「施主はさすがに金を持ってますね」年配の男が感心する。
「いや、あの社長は施主じゃない」親方が言う。「この資材置き場は社長のものだが、施主は別にいるんだ」
「へえ、そうなんですか」
「それが奇妙な話でな」みんなは今から怪談話を聞くかのように黙り込み、耳を傾ける。「ある日、コレモンが社長の元を訪ねて来たらしい」
コレモンと言って、親方は人差し指で右の頬を切るマネをする。
「そして、この資材置き場の一部を掘らせてくれと頼まれたらしい。心配しなくても、掘った後はすぐに埋めるからと言われたそうだが、社長は当然断った。何かを埋めると思ったからだ。自分の会社の敷地に変な物を埋められたら、たまったもんじゃないからな」
「ヤクザもんが埋めるとしたら」年配の男が言う。「処理に困った死体とか拳銃とか不法薬物といった物でしょうな。そりゃ、社長も断りますわな」
「ところが引き受けた」
「えっ!? それはなんでですか?」
「おそらく金だろう。金しかないだろうな。つまりだ、ここを掘って埋めるだけでかなりの大金をもらえるというわけだ。社長は指を咥えて見ているだけでいい。もし後から変な物が出てきても、知りませんでした、勝手に埋められたのでこちらも被害者ですと、しらばっくれればいいからな。ただ、俺も興味本位で訊いてみたが、いくらもらうのかは教えてくれなかった。おそらく俺たちの賃金の何十倍ももらうのだろう」
「金額を言ってしまうと、わしらがやる気をなくして、仕事をボイコットしてしまいますからな」
「そういうことだ。こうやって、十人の地下工事のプロを集めるのは容易ではないからな。もっとも、新人が二人含まれているけどな」
「親方。ではこの差し入れは?」みんなが高級酒の入ったダンボール箱を見る。
「施主から社長に差し入れが届いた。それを社長は自分からの差し入れのように振る舞った。そんなところだろう。セコい社長がやりそうなことだ」
みんなは不愛想な社長の顔を思い浮べて、親方の考えに納得する。
「仕事が終わったら、各自一本ずつ持って帰ろうぜ」親方が立ち上がった。「飲めねえ奴がいたら、俺がもらって帰るから、遠慮しないで言ってくれ」
全員が大酒飲みだったため、誰からも返事はなかった。
朝の打ち合わせは終わった。地下職人たちは飲んでいた缶コーヒーの缶をゴミ袋にまとめて、それぞれの持ち場へと散って行った。
「おい、新人の二人は俺に付いて来い」
親方は二人を呼び留めた。三人は一緒に歩き出す。
「いいか、おまえら。さっき言ったようにここから穴を掘る。掘って掘って掘りまくる。掘った後は埋める。埋めて埋めて埋めまくる。埋めるタイミングは施主からの連絡待ちだ。一日仕事が終われば体はヘトヘトになる。だが、後で越乃寒梅の純米大吟醸が待ってるというわけだ。自分へのご褒美というやつだ――頼んだぞ、新人!」
♪♪♪♪♪
親方と新人二人が暗い地下で歌って、踊り出す。
声は大きく反響する。ヘタでもうまく聞こえる。
もちろん地上に声が漏れることはない。
親方はツルハシを担ぎ、新人は手にスコップを持っている。
♪俺たちは地を行くモグラだよ~
誰にもマネできない地下工事人~
西から東へ掘り進む~
硬い岩盤なんのその~
俺たちの手にかかれば木っ端みじん~
モグラにはモグラのプライドがある~
ひたすらトンネルを突き進む~
カチャカチャ、カチャカチャ(ツルハシとスコップを合わせる音)
♪道の向こうまでは長くて遠い~
だけど俺たち挫けない~
いつかは見える輝くゴール~
至福の時が待っている~
うまい酒が待ってるだろう~
キレイなネエチャンが待ってるだろう~
きっと涙が溢れるだろう~
カチャカチャ、カチャカチャ(ツルハシとスコップを合わせる音)
♪♪♪♪♪
“ぼくのドローンは神々教の教団本部の上空をホバリングしている。よく街をパトロールしているのだが、パトロールコースの終点はいつもここだ。建物は趣味の悪い黄金色に塗られている。ときどき酔っぱらいが建物の壁を削り取って、小さな黄金色のかたまりにして、宝石店に金塊だと言って売り付けに行く。もちろんただの塗料のかたまりだと、すぐに見抜かれて追い返されるのだけどね。たった今、本部の裏口の地下出入口から大きな車が出て来た。あんな大きな車は教祖専用車に違いない。信者があんなに大きくて立派な車に乗るわけない。自分より大きな車に乗るなんて、教祖が許さないだろう。教祖なんてそんなもんだ。いつも威張っている。自分が偉いと思っている。人類が救えると思っている。玄関ではなく、裏口から出て来たということは、秘密の行動に違いない。どこに行くのか後を付けてみよう――周人”
ぼくはドローンを手元に戻し、自転車を漕ぎ出した。ハンドルの中央にドローンのコントローラーを取り付けている。ドローンを操作しながら、自転車を運転するのだ。ぼくくらいのベテランになるとそれくらいは簡単なんだ。でも今は車の尾行に集中しなければならないから、ドローンはぼくの背中のリュックの中でお昼寝中だ。
車道と歩道を交互に走りながら、教祖が乗った車を追いかける。これだと渋滞に巻き込まれないし、尾行に気づかれることもない。一石二鳥の作戦だ。でも、自転車で尾行するマスコミはいないだろうし、尾行する小学生もいないだろうけどね。
だからバレることはないはずだ。
やがて教祖専用車は街の総合病院に入って行った。入って行く場所はこちらも裏口にある特別な出入口だった。つまりVIP待遇だ。でも大物だからVIPなのではなく、きっと大金を積んだのだろう。あるいは病院関係者に信者がいるのかもしれない。
信者からすると教祖は大物だろうが、一般の人からするとただの人だ。
その後、ぼくの家の門限にギリギリ間に合うまで病院の裏口で張り込んだけど、教祖専用車は出て来なかった。きっと入院したに違いない。
翌日、ぼくは病院の受付に行ってみた。
神々教団のヘビーウォッチャーとして、教祖のことが気になったからだ。
どんな病気なのか、ケガなのか。天下の教祖様でも体の具合が悪くなることがあるのか。具合が悪くなったら、病院なんかに行かないで、自分の超能力で治せばいいじゃないか。その前に、超能力があるんだったら、病気にかからないんじゃないのか。
そんなことを考えながら、ぼくは正面玄関から入った。
受付には若い女性が一人で座っていた。
「おねえさん、ちょっと訊きたいんですけど、ここに神々教の教祖さんが入院してますよね」
「キミは家族の人じゃないでしょ。だったら、そういうことは患者さんのプライバシーに関わってくるから言えないんだよね」
「そうだろうと思った。でもそこを何とか」ぼくはおねえさんの目の前で健気に手を合わせる。同情を引く作戦だ。「学校の自由研究のテーマに教祖さんを選んだんだけど、ネットで調べても教祖さんのことは詳しく載ってなくて」とっさにデタラメを並べる。
「じゃあ、教祖に直撃インタビューするわけ?」大きな目で訊いてくる。
「そうじゃなくて、お付きの人なんかがいたら話したいなあと。いろいろと取材がしたいなあと――ねえ、おねえさん、お願いしますよ、一生のお願いだから」
「キミが一生を賭けるといっても規則があるから、病院としてはダメなんだよね」
「ぼくはずっとお年玉を貯めてるんだ。もし教えてくれたら、おねえさんをお寿司屋さんに招待してあげるよ。もちろん回転寿司じゃなくて、高級なお寿司屋さんだよ」
「うーん。お寿司は捨てがたいけど、諦めてくれるかなあ」
「じゃあ、いつ頃退院するのかだけ教えてよ」
「ペースメーカーの電池交換だけだから十日間だね」
「あっ、やっぱり入院してるんだ」
「あっ!」おねえさんはしまったという顔をして、両手で口を押さえる。
まさかこんな簡単に教えてくれるなんて、きっとぼくがイケメンだからだろう。
「でもおねえさんはキレイだから約束は守って、高級寿司店には連れて行ってあげるよ。ぼくは周人という名前なんだ。よくこの街を自転車で走ってるよ。砂猫公園のドローン飛行練習場を知ってる? NASAが責任監修した練習場なんだけど、ぼくはそこでドローンの講師もやってるから、お寿司が食べたくなったら、声をかけてね――じゃあね美人さん、バイバーイ!」
ぼくは唖然とするおねえさんにウィンクをすると、病院を出て自転車で走りだした。
「ペースメーカーの電池交換て、何だろう? まさか教祖はアンドロイドなのか!?」
走りながら、巨大な総合病院を振り返る。たくさんの窓が見える。
あの中のどこかに教祖がいるはずだ。きっといい部屋だろうから、上の方だろうな。でも大丈夫。ぼくにはドローンがあるからね。
周人の相棒であるドローンは背中のリュックで出番を待っていた。
教祖が入院をして、教団に不在となる十日間。
信者たちが暗躍を始めた。
神々教団の幹部室には穴田と百合垣の二人がいるだけだった。
何者かに刺殺されたメイソンの遺影の隣には、同じく何者かに刺されて、焼き殺された何和の遺影が置かれている。
八丈島は最上階のフロアの掃除に行っていた。最上階のフロアの掃除は八丈島にしかやらせてもらえず、穴田や百合垣といった幹部でも足を踏み入れることはできない。それだけ教祖の信用が厚いというわけである。
教祖が入院中の間に、砂猫組との決着を付けよという指示が出された。
穴田によると、御簾越しに見えた教祖の表情はとても厳しいものだったという。
公園をめぐっての戦いは続いている。信者から寄付された大事な土地に造られた公園だが、砂猫組も代々守って来た土地の上に造られた公園だ。
信者と組員との戦いでもあり、公園同士の戦いでもあり、土地にまつわる因縁の対決でもある。近所の住民にとって、二つの公園がしだいに整備されていく状況は大歓迎である。しかし裏では、血で血を洗うような戦いが繰り広げられていることを知らない。
しかし、神々公園と砂猫公園の戦いは、神々公園が一方的に押されていた。
神々公園のディスコ大会に対抗して開催された、砂猫公園の季節はずれの盆踊りは大盛況だった。小荷物の預かり所をマネして宅配便の預かり所が作られたし、北欧風の豪華な託児所まで完備された。さらに、凧揚げ場に対抗して、ドローン飛行練習場も作られた。絶対にウソだろうが、NASAが責任監修したと書いてあるらしい。
何もかもが劣っている。
警察はメイソンと何和を殺した犯人をいまだ捕まえることができない。教団も捜査には最大限協力しているが、尻尾も掴めないらしい。先ほども担当の佐々川刑事と和木刑事がやって来たが目ぼしい情報は入ってないと言っていた。
だが教団幹部は知っていた。
犯人は恵子おばちゃんが斡旋したプロの殺し屋だ。どこのどういう殺し屋かは分からないが、こちらも殺し屋を使って、砂猫組の二人の幹部を襲撃してもらっている。しかし、向こうの幹部はケガをしただけで、死ぬことなく、のんきに盆踊りを踊っていた。もともとガタイが強くて丈夫だからなのか、ただ悪運が強いだけなのかは分からない。
砂猫組の組員の足を洗わせる作戦とともに、さらなる殺し屋への依頼を強化することで、穴田と百合垣の意見は一致した。
二人は二つの遺影に線香を上げた。
そして、今日は踊らないことでも二人の意見は一致した。
おしゃべりの何和がいなくなったことで、幹部室内はすっかり静かになっていた。
あんな奴でもいなくなると寂しいものだと穴田は思った。
男はプリンターが排出した用紙を持って来ると、八丈島の目の前に置いた。
「こちらでよろしかったでしょうか?」
八丈島が紙を手に取り、顔に近づけた。老眼が進んでいるようだ。
「はい。この仏像で間違いありません。このレプリカを二体お願いします」
写っていたのは神々教団が所有する陽の観音像の写真である。本物の観音像は教団本部の最上階である五階に住む教祖の元に置いてあるのだが、一階から四階までの各階にはレプリカの観音像が置いてある。それはいずれも黄金色に輝いていて、どれが本物かの見分けは付かなかった。
その四体のレプリカ像を作成してくれたのが、この会社である。3Dプリンターを使って作ってくれたのだが、信者は霊験あらたかな観音像として、日夜崇拝している。イワシの頭も信心からと同じことであるが、信仰心に富む信者は疑うことを知らない。
「前回の四体の観音像とまったく同じ仕様でよろしいでしょうか?」
八丈島の前に座った作業着姿の男が確認をしてくる。
「はい。そのようにお願いします」
「ではそのときのデータを元に、観音像二体の作成をさせていただきます」
「支払いは前回と同じく振り込みでいいですかな?」
「はい。同じ口座へお願いします」
「振り込みの名義ですが、私の個人名でもいいですかな?」
「八丈島さんの個人名ですか? ああ、はい構いませんよ」業者としては確実に代金が入ればいい。
「代金は前払いにしますし、現物は私がここまで引き取りに来ます。領収書はそのときにもらう形でいいかな?」
「はい。それでも構いませんよ」男はニコリと笑う。
「わがまま言ってスマンね。いろいろと訳アリでしてね」
八丈島は苦笑しながら、業者に感謝をした。
「神々教団様はうちのお得意様ですから、何なりとおっしゃってください」
「それはありがとう。助かります」
帰り際、八丈島はレプリカ観音像の出来上がりの日にちを訊いた。
教祖が退院して来る日までは十分に間に合った。
脱出本舗の主任でもある法華は神々教団から次々と信者を還俗させて、教団にじわじわとダメージを与えていた。もちろんそれに応じての収入も莫大なものになっている。何といっても、一人を連れ出すのに百万円だ。失敗すると倍返しだが、いままで失敗はしたことはない。法華のシノギはまるでギャンブルだが、勝ち続けているというわけだ。
しかし神々教も黙って見ているわけではない。砂猫組の若手組員に接触して、足を洗わせている。法華のように依頼者から金品を授受しているわけではなさそうだ。あくまでも砂猫組に対抗するための嫌がらせに過ぎない。
組に入りたての新人は落としやすい。入ってみたものの自分のイメージとは違い、戸惑っている者もいるからだ。組員になったからといって、その日から高級車を乗り回せるわけない。そんな時代ではない。誰しも見習いからのスタートだ。
そんなことも知らずに入って来た若者の弱点を、神々教は突いてくる。信者は全国に点在している。その多数の信者を使って念入りにリサーチをしているのだろう。小さな組にはできない人海戦術だ。
しかし、砂猫組が還俗させた信者の数と、神々教が抜けさせた組員の数には大きな差がある。圧倒的に砂猫組の方が勝っている。そもそも砂猫組に入ってくる新人組員の数は少ない。世の中にはたくさんのチンピラや半グレがいるのだが、ヤクザが昔のように羽振りがいいと思っている連中は今や少ないし、事実羽振りはよくない。暴対法以降、業界には不景気の風が吹いていて、一向に止みそうにない。
だが、法華の気分はいい。
今回はまとめて五人の信者を連れ戻すことに成功したからだ。
五人が仲良く入信したのだが、元々信仰心があったわけではなく、教祖への憧憬や尊敬なども皆無だった。ただ世の中が嫌になった者同志が声を掛けあって入ったという。となると、連れ戻すことは簡単だ。無理矢理拉致に近いことをしなくても、すんなりと付いて来てくれた。
成功報酬として、五人それぞれの家族から百万円を受け取ったから、五百万円のアガリだった。現金一括で五百万円は大きい。
五人がこれからどんな人生を歩むことになるのか、また教団に戻ることになるのか、そんなことはどうでもいい。教団から連れ出して、依頼人に届けるまでが仕事だからだ。その後のことなんか、知ったことではない。また戻れば、また連れ戻すまでのことだ。当然、新たな料金はいただく。
法華は自宅マンションへ向かって歩いていた。さっきまではボディガードも兼ねた子分が二人付いていたのだが、一人で大丈夫だからと言って帰ってもらった。
親分からは一人で出歩かないように言われているが、聞かなかったことにする。
振津と墓魏が何者かに襲われた。砂猫組の幹部四天王のうち二人が襲われたのだから、次は自分か茂湯だろう。だから、わざと一人で歩いてやる。自分をおとりにして、敵をおびき寄せて、反撃してやる。頼まれたわけじゃないが、振津と墓魏のカタキ討ちをしてやるつもりだ。このまま組が舐められるのを見ているわけにはいかない。やられたらやり返すのが業界の掟だ。そして、掟と約束は守るために存在する。
親分の意に逆らうが、こちらも命を賭けている。あの親分なら分かってくれるはずだ。
いつもは移動に車を使っているが、ここ最近はこうして歩いている。いつでも相手になってやろうと身構えて歩いているのだが、残念なことにこういうときに限って、何も起こらない。
夕暮れ時、前からバイオリンケースを持った若い女性が前からゆっくりと歩いてくる。グレーのパンツスーツ姿で、長い黒髪をしている。いかにもお嬢様というタイプだ。
俺とは住んでる世界が違うなと法華は思った。
だが、人を見かけで判断してはいけない。かわいいネエチャンなんかには気を付けろと、先日みんなの前で自分が演説をぶった通りだ。となると、このお嬢様は危険だ。この近所には音大もなければ、バイオリン教室も楽器店もないし、コンサート会場もないからだ。
だったら、なぜバイオリンを持ち歩いているのか?
若い女が立ち止まって、こちらを見た。
「法華様ですよね」バイオリン女は鈴を転がすような美しい声を出した。
ふん、やっぱり来やがったか。
女と向かい合った法華は身構えた。
振津を襲ったのはこいつかもしれない。背中を切られていたはずだ。
バイオリンケースに中の何らかの武器が入っているのかもしれない。
「ああ、そうだが」こちらも立ち止まって返事をしてやる。
そちらは俺の名前を知っているようだが、俺にはアンタのようなお嬢様に知り合いはいない。罠にかかってやろうじゃないか。
「私に頂戴できますでしょうか?」
「何をだ?」
「法華様のお命を」
お命頂戴だと?
お前、三流の時代劇じゃねえぞ。
女はバイオリンケースを抱え上げて、中から何かを取り出そうとする。
俺は手ぶらだ。武器なんかを持って歩いていたら、たちまち警察に連行されてしまうからだ。俺たちは職質の常連客だから、警察は俺を見つけると、久しぶりの友人に会えたように、いつもうれしそうな顔をして寄って来る。俺はあいつらが大嫌いなんだが、あいつらは俺たちのことが大好きなんだ。特に暴力団追放月間になるとやたら張り切りやがる。あれはノルマがあるんじゃないかと、俺は睨んでいる。
さて、目の前の女をどうするかだ。
とっ捕まえて、二人のカタキを討ってやろうと歩いていたのだが、相手が気味悪すぎる。
――逃げるか?
いや待て。ヤクザが若いネエチャンを前に逃げるのはカッコ悪いし、逃げるところを動画に撮られてネットで拡散されるのもみっともない。
どうしたものかと考えていると……。
「こんにちは」
今度は後ろから挨拶をされた。
テニスのラケットケースを抱えた制服姿の女子高生が立っていた。
――新手の殺し屋かよ。
まさかこの俺が二人の若い女性に挟まれちまうなんて、モテ期の到来かよ。
だが、これでも五十人ほどの子分を抱える暴力団の幹部なんだぞ。
――さて、どう逃げるかだ。
俺は逃げることに決めた。二人は荷物を持っている。おそらく人殺し用の武器だ。一方、俺は手ぶらだ。走れば逃げ切れる。すっかり中年だが少しは走れる。ここは、動画を撮られるよりも命の方が大事だ。どうせ後ろ姿だろうから、拡散されても、あの動画は俺じゃないとシラを切っておけばいい。
俺は女子高生の方を見た。
あの子の脇を走ってすり抜けてやるか。こっちの女の方が華奢だからな。
だがその子は俺を見てなかった。バイオリンの女を見ていたのだ。
「こんな所で会えるなんて光栄ですよ、バイオリニストのお姉さん」
「私も同感よ。女子高生のテニス部の殺し屋さん。あなたが履いてるルーズソックスは私の時代に流行ったものよ」
「ああ、これね。今学校で流行ってるよ。再会できてうれしいでしょう」
二人はお互い近づいて行く。
それぞれがバイオリンケースとラケットケースに手を突っ込んでいる。
――おいおい、待てよ。俺はここにいるぞ。砂猫組四天王の一人だぞ。
法華は戸惑って、二人を交互に見つめる。
女子高生がこちらを見た。
「私はおじさんの味方です。今から敵を仕留めます。ケガをすると危ないですから、おじさんは向こうへ行っててください」
「はい」俺は素直に従った。
女子高生が“仕留める”なんて言葉を使うのか?
普通は“かわいい”とか“ヤバい”とか“マジで?”とかだろ。
テニスの女子高生が俺の味方ということは、親分が俺の護衛として雇ったのだろう。おそらく後を付けてたのだろうが、俺としたことがまったく気付かなかった。つまり、この子はプロだ。
ならば、バイオリンの女は神々教が雇ったに違いない。俺を殺そうと自宅マンションの近くで待ち伏せしていたのだろう。
そして、殺し屋同士がここで対峙した。
だがこれは学校の演劇部の出し物ではない。今から二人は殺し合いを始めるのだ。
俺はスマホを取り出した。ヤバくなったら通報するためだ。ヤクザが警察に助けを求めるのはカッコ悪いが、そんなことは言ってられない。若い女性の命にかかわることだ。
「おじさん」テニス女子がまた呼んだ。「警察に通報するのはやめてくださいね」
「はい」俺はまた素直に従って、スマホを片付けた。
今から殺し合いをするというのに、この女は余裕があるじゃねえか。
バイオリンの女性がバイオリンケースから手を出した。弓を持っていた。
テニスの女子もラケットケースから手を出した。テニスラケットを持っていた。
「お姉さんはさっき私のことをテニス部と言いましたよね」
「あら、違ったかしら?」
「私は物理部なんです。こう見えてもリケジョなんです」
「それはごめんなさいね。でもあなたはここで死んじゃうから、もう物理部には戻れないわね。物理の大家アインシュタイン先生がいる天国へ送ってあげるわ」
「お姉さんこそ、二度とその手でバイオリンは持てませんよ。ストラディヴァリウスを弾きたかったでしょうにね」
何だこれは。お嬢様同士の喧嘩か?
法華は呆れる。今までの緊張感がたちまち緩んだ。
まさか素人相手のドッキリじゃないだろうな。
だがその甘い考えはたちまち一蹴された。
突然バイオリン女が動いた。まるでフェンシングのように真っすぐ付き出された弓は、テニス女子の左手の二の腕を掠め、制服のブラウスを引き裂いた。
女子高生の白くて細い腕から血が流れ出す。
これはマジじゃねえかよ!
なんだよ、あの弓は。何か改造が施してあるのか? それともバイオリンの弓というのは元々あんなに鋭いものなのか? だったら演奏するとき危ないじゃないか。
法華は、バイオリンのような高級楽器とは無縁の人生を送って来たため分からない。バイオリンの演奏を趣味にしている組員なんかいない。
だが、あんなもので突っつかれたら痛いに決まってる。
おじさんは向こうへ行っててくださいと言われたことを思い出して、放置自転車の陰に隠れる。姿は丸見えだが、他に身を隠す物は見当たらない。何も無いよりかマシだろう。邪魔な放置自転車が役に立つこともある。
ところで俺はどっちを応援すればいいんだ?
そうか。おじさんの味方だと言ってきたテニス女子か。
いや待て。そもそも殺し合いを応援してもいいのか?
止めないとダメだろ。
暴力はダメだ。絶対ダメだ。何事も話せばわかる。
現役暴力団幹部の俺が言っても説得力はないが……。
今度は女子高生がテニスラケットを手に、スカートの裾を翻して、バイオリン女に向かって行った。左腕から流血したまま、右手に持ったラケットを、体をしならせて、大きく振りかぶる。物理部にしてはうまい。まるでアスリートだ。
しかしバイオリン女は弓を横にしてラケットを受け止め、ニヤッと笑った。まるで攻撃を予想していたかのようだ。弓は大きくしなったが、折れることはなかった。
だが、瞬間バチッという音がして、バイオリン女は弾かれたように地面へ投げ出された。さすがに弓は放さず、弓を持っている右手を左手で押さえている。
「まさか……、ラケットがスタンガンだったとは……、私の不覚ですわ。この弓が……、金属性だと見抜いていたのですね」
スタンガンだって! 俺も初めて見たぞ。武器なんて、ドスしか見たことないぞ。
強烈な電流が走り、右半身が痺れているのだろう。バイオリン女の言葉は不明瞭だ。
それでも女はヨロヨロと立ち上がった。高級そうなパンツスーツは汚れている。
「あなた……、物理部とおっしゃったわね。それはお手製のラケットかしら?」
「そうですわよ、お姉さま」テニス女子がからかう。「痺れ具合はいかがかしら?」
「ご心配無用ですわ。私にはまだ左半身が残ってますわ。あなたの左腕は使えなくなったけど、右腕はまだ使えるようにね」
「ふーん。見かけによらず、ご気丈なお嬢様ですこと――じゃあ、これはどうかな」
いきなりテニス女子は地を蹴ると、体重を乗せて、バイオリン女の頭に向け、強烈なスマッシュを放つように、再びラケットを叩きつけた。
バイオリン女はとっさに弓を縦にして構えた。弓の先端はガットの隙間を通り抜け、テニス女子の右胸に突き刺さった。
それでもテニス女子はラケットを横に倒して、弓をがっしりと押さえ込んだ。バイオリン女は弓を取られまいと手に力を入れた。
そのときラケットに再び電流が走った。バイオリン女は耐えようとしていたようだが、電圧が最大限に上げられたことを知らない。
衝撃で吹き飛ばされ、仰向けのまま、動かなくなった。
グレーのスーツのあちこちが焦げて、微かに白い煙を漂わせている。唯一の武器である弓は手から離れて、傍らに転がっていた。
法華は放置自転車の陰に隠れて戦況を見守っていた。自転車のフレームを握っている手は汗でビショビショだ。
「おじさん、もう出て来てもいいよ」テニス女子が声を掛けてきた。
だが法華もヤクザだ。威厳を示さないといけない。
「ああ、おう、そうか。もう終わったのか。あんた、なかなかやるじゃないか」
テニス女子は傷ついた左腕にハンカチを器用に巻きつけて止血している。
「あんた、右胸も刺されただろう」法華もさすがに心配する。
「大丈夫だよ。戦闘用のブラをしてるから。ブラウスには穴が開いちゃったけどね」
戦闘用のブラ? そんな下着を売ってるのか。トリンプの新作か? いや、ないだろう。物理部だから自作なのだろう。それよりもバイオリン女だ。早く通報してやろう。
法華はスマホを取り出した。
呼ぶのは救急車か? いや、死んでるから葬儀屋か? とりあえず事件だから警察か?
テニス女子は俺の混乱を見抜いたかのように言ってきた。
「救急車で大丈夫だよ」
「あんたは大丈夫だろうけど、あのバイオリンの人は……」
「あの人、死んでないよ。だから救急車で大丈夫なんだよ」
「あれで生きてるのか? 体中から白煙が上がってるぜ」
「ウチの計算によると死なないはずなんだ」テニス女子は腰に付けた小さな箱を見せる。ラケットと繋がったバッテリーのようだ。「気絶する程度の電気しか流してないから。体のあちこちをヤケドしてると思うけどね。でも計算上だから分からないなあ。もしかしたら危険な状態かもしれないから、後はおじさん、頼んだよ」
法華は自分のスマホを使わず、倒れているバイオリン女のスーツのポケットからスマホを見つけて、救急車を手配した。これだとこちらの痕跡は残らない。
「じゃあ、おじさん。またのご利用をお待ちしてまーす」
法華は何事もなかったかのように去って行く女子高生の小さな背中を見て思った。
恐ろしい。ヤクザよりも恐ろしい。
法華と同じように、教団に盾突く奴を返り討ちにしてやろうと、一人で歩いている男がいた。砂猫組四天王の最後の一人である茂湯である。こちらも先ほどまでボディガードが付いていたのだが帰らせた。
一人歩きは親分から止められているが、幹部が二人もやられている。黙って見ているわけにはいかない。守りに入るわけにはいかない。常に攻め続けるヤクザでないと舐められる。ヤクザは舐められたら終わりだ。力がないと思われて、信用がなくなり、シノギもうまくいかなくなる。
法華と同じように、自分をおとりにして、敵を誘い出そうとしていた。その法華の目の前で、殺し屋同士が戦っていたことはまだ知らない。
茂湯は自宅までをブラブラと歩いている。のんびり歩いているように見えるが、目をあちこちに向けて、どこからかかってこられても対処できるよう、集中力を研ぎ澄まして、臨戦態勢に入っている。
茂湯も丸腰で何の武器も持っていない。法華と同じように職質の常連だから、武器なんか持っていたら留置場送りだ。たとえドライバー一本でもだ。警察のヤクザへの風当たりは近年特にキツい。あれこれと因縁を付けて捕まえる。
どっちが外道か分からないと茂湯は思う。
ヤクザに恨みでもあるのか? あるだろうな。社会を大いに乱してるからな。
しかし茂湯は百八十センチを越えるガタイをしている。これが唯一の武器と言えよう。
前方には誰も歩いてない。後ろに目をやると、背中の曲がった老婆が一人で杖をついて歩いている。茶色い着物を着て、白い和装バッグを持った小柄なおばあさんだ。
まさか、あのおばあさんが殺し屋なんてことはないだろう。
年金ももらってるだろうから、金には困ってないはずだ。
あの年になって、何が楽しくて人を殺すんだ?
俺が一発蹴飛ばしたら終わりだろう。いや、老婆を蹴飛ばしてはいけない。弱きを助け、強きを挫くのが任侠道に生きる者の務めだ。社会的弱者を標的にするなんて、ヤクザの風上にも置けない不逞の輩だ。チンピラ以下の存在だ。
しかし法華が人を見かけで判断してはダメだと言っていた。若い奴がばあさんに変装してるかもしれないから気をつけよう。犯人がばあさんに変装している推理小説もある。
茂湯は前後左右に気を配りながら歩いている。
だが、忘れていた。歩くときは頭上に気を付けるんだと親分に言われたことを。
突然あたりが暗くなった。太陽が雲に隠れたわけではない。何かが茂湯の頭上を覆い隠したのだ。プーンと獣の臭いがした。
見上げると、頭のすぐ上をデカい鳥が飛んでいた。オウギワシである。大きさは二メートルを越えていた。クマの爪よりも長い鉤爪でこちらを狙っている。
茂湯は、鳥というとカラスとスズメとハトしか知らない。外国の鳥なんか知るはずもない。
「なんだ、こいつは!?」
頭を覆い隠しながら、中腰になる。あたりを見渡すが逃げ込める場所はない。
「墓魏が言ってたのはこの鳥か。確かじいさんが連れ去られたのだな」
デカい鳥と言っても、茂湯はじいさんと違って大柄だ。
「拉致はされないだろうけど、あの爪で掴まれたら痛いだろうな」デカい鳥は上空を舞って、こちらに狙いを付けている。「どうすればいいんだ?」
いきなり鳥が急降下を始めた。
「やべぇぞ!」とりあえず、丸くなって頭を守る。
そのとき大柄な茂湯が突き飛ばされて転がった。
「次は何だよ!」顔を向けると、先ほどの腰の曲がったおばあさんが立っていた。
「これこれ、お若いの。ここはあたしに任せて、ちょっと離れてなさい」
「やたらと力が強いおばあちゃんはどなたさんで?」
「あたしゃ、殺し屋だよ。お若いのが生まれる前からこの稼業をやってるから、あっちで黙って見物してなさい」隠れるための看板を指差す。
「へい。分かりやした」茂湯は思わず、おばあちゃんに従ってしまう。
現役ヤクザが腰の曲がったおばあちゃんに助けられるなんてと思いつつ、看板の後ろに隠れた。その看板には“死亡事故現場”と書かれていて、看板の下にはいくつかの花束がお供えしてあった。
まさか、おばあちゃんはここで誰かを殺したのか?
ナンマイダ~と手を合わせておく。
オウギワシは攻撃する相手をおばあちゃんへと変えて襲いかかる。だがおばあちゃんは二メートル越えの巨大な鳥を前にして、なすすべもなく、倒れ込んだ。
おばあちゃん、弱いじゃねえかよ!
茂湯は焦る。このまま助けに行くべきか。
おばあちゃんからは黙って見ているように言われた。
しかし、亀のように丸くなったおばあちゃんの上にオウギワシが覆いかぶさり、今にもくちばしで頭を突こうとしている。
弱者がやられているというのに、ヤクザが黙って見ているわけにはいかない。任侠道がすたるというのはこのことだ。
茂湯は死亡事故看板の陰から飛び出した。
その瞬間、数発の発射音が聞こえた。
オウギワシの背中の四ヶ所から血しぶきが噴水のように上がった。
何が起きた!?
茂湯は立ち止まった。鳥は痙攣を始めた。
「これこれ、お若いの」声だけが聞こえる。
おばあちゃんがデカい鳥の下敷きになっていた。
「この鳥をどけてくれんかね。息苦しくてかなわん」
茂湯は苦労して、死んでいる大きな鳥を横に押しのけた。
うつ伏せになっているおばあちゃんの背中には四つの穴が開いていて、茶色い着物の奥から四つの銃口が見えていた。鳥は至近距離から四発の銃弾を受けて、絶命したようだ。つまり、おばあちゃんが簡単に倒れ込んだのは、鳥を呼び寄せるための作戦だったのだ。体を張った作戦に茂湯は感心する。
おばあちゃんは背中が曲がっているように見えていたが、とんでもない武器を仕込んでいたようだ。銃口からはまだ煙が上がっている。
「どっこいしょ」おばあちゃんは体を起こして、その場に座り込んだ。
「おばあちゃん、大丈夫だったかい?」茂湯が声をかけるが……「待ってくれ、何をするんだ!」
おばあちゃんが茂湯に杖を向けた。両手でしっかりと握っている。
茂湯は長年この業界にいる。だから今眉間を狙っている杖が弾丸を発射できる武器だとすぐに気付いた。
なぜ、俺に銃口を向けるのか?
味方じゃなかったのか?
デカい鳥をやっつけてくれたじゃないか。
「お若いの。あたしが三つ数えたら、座るんだよ」
「へっ!?」訳が分からないがここでも素直に従う。
「ひとーつ、ふたーつ、みーっつ」
茂湯がしゃがんだ瞬間、杖は火を噴いた。
飛び出した弾丸は一直線で茂湯の頭上を通り過ぎ、ちょうど後ろに建っているアパートの二階の廊下に飛んで行って、一人の男の胸に命中した。
男は弾かれたようにその場へ倒れ込んだ。
「なんだ!」茂湯はしゃがんだまま、後ろを振り返る。「おばあちゃん、あの男は!?」
「ああ、この鳥の飼い主さ。あそこから人間には聞こえない音を出す笛でも吹いて、この大きな鳥を操っていたのだろうよ。恐ろしい殺し屋さ」
いや、おばあちゃんの方が恐ろしいんだけどと、茂湯は言いそうになる。
「というわけでな。あたしゃ、ここで帰るとするから、鳥の後始末は頼んだよ――どっこいしょっと」おばあちゃんが立ち上がった。
茂湯はスマホを取り出した。
呼ぶのは警察か? 動物園か? 焼き鳥屋か? 何人前の焼き鳥になるのか? 塩で喰うのか? タレで喰うのか? そもそもこいつは喰ったらうまいのか? 頭が回らない。
おばあちゃんは白い和装バッグから薄羽織を取り出すと、さっと肩から羽織って、背中の四つの銃口を隠し、何事もなかったかのように杖をついて歩き出した。
唖然と見送る茂湯。
現役ヤクザがあんなヨボヨボのおばあちゃんに助けられるとは情けない。
これでは仲間に合わせる顔もないと落ち込む。
しかし、仲間の法華が物理部の女子高生に助けられたことをまだ知らない。
茂湯は去って行くおばあちゃんの曲がった背中を見て思った。
恐ろしい。ヤクザよりも恐ろしい。
その頃、振津は三人の子分を引き連れて歩いていた。
何者かに襲われて以来、親分から一人歩きはするなと言われ、常に子分と一緒に行動している。特に屈強な三人を選んでいる。
法華と茂湯は犯人を誘い出すと言って、一人で行動しているらしいが大丈夫だろうか。
三人の子分はあちこちに目をやりながら、振津を取り囲むようにして歩いている。
前から一人の女性が歩いてくるが、三人は気に留めない。
ごく普通の中年のおばさんだったからだ。殺気も何も感じられない。白いエプロンをしているため、どこか近くの鮮魚店の人が、配達か何かで出歩いていると思った。
ところが、その女性が声を掛けてきた。
「あら、振津さんですね。こんにちは。私はアコヤと申します」
「アコヤさん?」振津は立ち止まって、不思議そうな顔をするが、三人の子分たちは知り合いだと思って、囲みを解く。近くで見ても、女性は怪しいところがなかった。
「もしかして、おふくろの?」
「あっ、そうです、そうです。お母様のところの者です」アコヤと名乗ったエプロン女が近づいて来る。
振津の母親は日本舞踊の師範代として、先日の公園の盆踊り大会でもその腕を披露して、参加者を沸かせていたし、息子である振津も先頭で踊り出し、意外な才能の片鱗を見せて、親分たちを驚かせていた。
振津はこの女性が母親の踊りの弟子であり、あの盆踊りの中にいて、踊っていたのだろうと思った。子分たちも緊張から解放されて、二人の会話に耳を傾けている。
「盆踊りを盛り上げていただきましてありがとうございます」振津はお礼を言う。
「えっ、盆踊り? あー、はいはい。盆踊りはよかったですねえ」
近づいて来たアコヤは振津と向かい合った。ニコニコ笑っている。
その笑顔を見て、振津も子分も油断をした。
アコヤがさりげなく、エプロンのポケットから何かを取り出した。
そのとき……。
「ちょっと待ちな!」女のハスキーな声がした。
全員が一斉に振り向くと、全身ヒョウ柄のおばさんが立っていた。
ヒョウの顔が描かれたTシャツを着て、ヒョウ柄のバケットハットをかぶり、ヒョウ柄のレギンスを穿き、ヒョウ柄のパンプスを履き、ヒョウ柄のバッグを肩から掛けている。
おばさんが太っているため、Tシャツのヒョウの顔は横に伸びて丸顔になっている。メタボのヒョウだ。
「あんたを背中から刺して、意識不明の重体に陥らせたのはその女だよ」
「何!」振津は振り向くが、アコヤはたちまち目の前から離れて、距離を取り、「邪魔するんじゃないよ、ヒョウ柄女が!」大声で叫んだ。
「お兄ちゃんたち」ヒョウ柄おばさんがアコヤから目を離さないで言った。「ここは私に任せて、ちょっと下がってなさい」
「いや、待ってくれ。この女が俺を刺したのなら、それなりの代償を払ってもらう」振津は納得がいかない。子分が見ているため、良いところも見せなくてはいけない。
「お兄ちゃんの気持ちも分かるけど、私はあんたたちの親分から雇われてるんだよ。だから、気楽に見物しててよ――それとも何かい。お兄ちゃんは砂猫親分に逆らうのかい?」
なんで逆らうことになるのか、よく分からないが、親分の名前を出されたんじゃ仕方がない。引き下がるとするか。
「おい、お前ら」振津は子分を見る。「このお姉さん方が今から喧嘩を始めるらしいから、お言葉に甘えて、見物と行こうや。親分の顔も立てなきゃならないしな」
振津は三人の子分を従えて、近くにあったお地蔵さんの後ろに避難する。
「何かあったらお地蔵さんが守ってくれるだろう」
「でもアニキ、お地蔵さんが守るのは子供じゃなかったですか?」
「大人はダメなのか?」
「正確な年齢制限があるのか知りませんが、それにお地蔵さんはあまり強くなさそうですよ。もっと強そうな仏さんの方がよくないですか?」
「この辺りにはお地蔵さんしか見当たらないから、いいことにしようや――お地蔵さん、お地蔵さん、俺たちを守ってください。ヤクザもんだけど、人間はみな平等です。もし不安なら不動明王さんとか毘沙門天さんとか強そうなお友達を連れて来てください」四人はお地蔵さんの後ろから祈りを捧げた。「裏側からすいませんね」
「あの女たちは今からどうやって喧嘩をするのでしょうかね?」子分の一人が訊く。
「ぜいぜい口喧嘩だろう。女の口喧嘩はおっかないぞ。その後は髪の引っ張り合いだろうよ。もしかしたら平手打ちが飛び出るかもしれんぞ」
振津は笑ったが、数分後、その顔は恐ろしさで凍り付くことになる。
アコヤはいつの間にか、両手に牡蠣の貝殻を持っていた。よく切れるように貝殻のエッジは鋭く砥がれている。振津の背中を引き裂いた牡蠣だ。
一方、ヒョウ柄おばさんは長い爪を見せ、ニッと笑った口元からは先端が鋭く尖った銀歯を見せる。神々教団の幹部何和を仕留めた爪と歯だ。
双方が、あらかじめ手の内である武器を見せつけるとは、勝つ自信がある証拠か?
アコヤが先に動いた。
すばやく地を蹴ると、ヒョウ柄おばさんに正面から向かって行き、両手に持った牡蠣を頭上から振り下ろした。
しかし、ヒョウ柄おばさんはその体型からは想像できないほどの速さで横に移動して、牡蠣攻撃をかわした。
「あら、やるじゃない。ヒョウ柄さん。じゃあ、これはどうかな?」アコヤは二つの牡蠣を投げつけた。
至近距離から投げられたため、避けきれず、一つの牡蠣がヒョウ柄おばさんの頬を傷つける。
「痛ェな!」ヒョウ柄おばさんは大きな声で叫ぶと、手の甲で血を拭い、ネイルサロンでヒョウの絵を描いてもらった長い爪で襲いかかる。
アコヤは次々と繰り出されて行く爪攻撃から必死に逃げて距離を取った。
と同時にエプロンのポケットから黒い塊を取り出す――新鮮なウニだった。
アコヤはウニを野球のボールのように投げつけた。
その後もポケットから次々に武器を取り出す。
ヒトデを手裏剣のように投げ、カメノテをまきびしのようにバラ撒き、ワカメをムチのように操る。
「アニキ、あのエプロンのポケットは四次元ポケットみたいですぜ」子分が驚いている。
「ああ、いろいろなものが出てくるな」振津もお地蔵さんの裏で感心している。「だが、二人の戦いはどう見てもマンガの世界だな」
ヒョウ柄おばさんはアコヤの波状攻撃を受け、ヒョウ柄のTシャツも、ヒョウ柄のレギンスも、ヒョウ柄のバケットハットもズタズタになっている。
それでも頭を下げ、姿勢を低くして、アコヤに迫って行く。
そして、鋭く尖った銀歯を見せて笑ったかと思うと、手に持っていたスプレーを吹きかけた。
「何だい、これは。安物の香水かい?」アコヤは液体がかかったエプロンを見ながら笑ったが、ニオイからたちまちその正体に気づく。
「ガソリンかよ!」あわててエプロンを外す。
ヒョウ柄おばさんはヒョウ柄バッグから飴を数粒取り出した。
「あんた、アメちゃんは好きかい?」
アコヤに向けて、数粒のアメちゃんを放り投げた。
アメちゃんはたちまち発火して、エプロンを燃やすが、その業火はアコヤの体にも引火した。
アコヤは叫び声を上げながら、地面を転げ回って、火を消そうとする。しかし、火は消えてくれない。それどころかますます燃え上がり、全身に火が回った。
そして、アコヤはついに力尽きて動かなくなった。
やがて自然に鎮火して、あたりに静寂が戻った。
「お兄ちゃんたち」ヒョウ柄おばさんが呼びかける。「もう大丈夫だよ。出ておいで」
振津と三人の子分がお地蔵さんの裏からひょっこりと顔を出す。
真っ黒こげになっているアコヤは地面にうつ伏せで倒れ込み、全身からブスブスと煙を上げている。
その姿を見て、四人は声も出せない。女の口喧嘩どころではなかったからだ。
ヒョウ柄おばさんはスマホで電話をしている。
「とりあえず、俺たちは助かったな」やっとのことで振津が声を出す。
「お地蔵さんのお陰ですね」子分が震える声で答える。
「ああ、弱っちいお地蔵さんもやればできるんだよ」
四人は足をもつれさせながら、お地蔵さんの裏から這うように出てきた。
「ああ、お兄ちゃんたち」ヒョウ柄おばさんがスマホを切った。「今救急車を呼んだから、さっさとズラかった方がいいよ。あたしも早く帰って、晩御飯の支度をしなけりゃいけないからね――じゃあ、またどこかで会いましょう。砂猫親分によろしくね」
四人は帰って行くヒョウ柄おばさんの大きな背中を見て思った。
恐ろしい。ヤクザよりも恐ろしい。
「ただいまー!」ヒョウ柄おばさんが玄関のドアを開けて、大きな声を廊下に響かせた。
「おかえりー!」奥から娘の声が聞こえた。こちらも大きな声だ。
「ごめんね、遅くなって。今からご飯の支度をするからね」
娘が廊下に出てきた。
「あんた、大丈夫? ブラウスが破れてるよ」
娘のブラウスの左腕と右胸の部分が破れていた。
「大丈夫だよ。たいした傷じゃないよ。戦闘用ブラも装着してたからね。私としたことがバイオリンのお姉さんに手こずっちゃった――それよりもお母さんだってヒドいよ。頬に傷ができてるし、洋服のあちこちが破れてるよ」
「あたしもシーフードババアに手こずっちゃってね」
「お母さんが手こずるなんて、強敵だったんだね。ちゃんと仕留めた?」
「うん。今頃はいい具合に焼けてるよ――焼けてるで思い付いたんだけど、今夜は焼肉でいい?」
「えぇー! 昨日も焼肉だったじゃない」
「だって、昨日も一人の男を火だるまにしてやったんだもん。我慢して食べてよね」
「じゃあ、食べてあげるかな」
「あんた、焼肉なんて一般家庭じゃ高級料理なんだからね」
「母娘で大儲けしてるからいいじゃん」
「そだね」母はニコッと笑って、鋭く尖った銀歯を見せた。
♪♪♪♪♪
砂猫組四天王が歌って、踊り出す。
親分は加わってないので、いつものように下半身だけでなく、全身を使って踊れる。
もっとも、四人とも中年だから激しい踊りは元よりできない。
手に扇子を持って、扇いでいる。
♪俺たちは世にも恐ろしいヤクザだよ~
だけどもっと怖い連中がいる~
幼稚園の先生に女子高生にバイオリンのお嬢様~
おばあちゃんにおじいちゃん~
海女さんにヒョウ柄おばさん~
変な鳥使いだって出てきたよ~
こいつらみんな殺し屋さ~
パタパタ、パタパタ(扇子を扇ぐ音)
世の中は狭そうで、広いぜ~
変な奴らがいっぱいいるぜ~
怖い奴らがいっぱいいるぜ~
油断してちゃ、いけないぜ~
みんな、せいぜい気を付けるんだな~
バッタリ遭ったら逃げるが一番~
プライド捨てて、スタコラサッサ~
自分の命が最優先なのさ~
パタパタ、パタパタ(扇子を扇ぐ音)
♪♪♪♪♪
砂猫組の事務所にある巨大な神棚。そこは神様も仏様も一緒くたになっていて、天照大神の神像の隣に観音像も安置されている。
黄金色に輝く高さ約二十センチの“陰の観音像”である。
近所の以暮寺が台風の被害に遭って、五重塔が倒壊したとき、再建のために寄付をしたところ、お礼として授けられたものだ。
まさか観音さんもヤクザの事務所を守る破目になるとは思いもよらなかっただろう。
“陰の観音像”の隣には高さ約五十センチの観音像が並んでいる。
“陽の観音像”である。
同じく五重塔の再建のために寄付をした神々教が返礼として授けられたものである。
観音像の大きさの違いは寄付金の違いによるものだ。
別々に安置されていたのだが、ここに陰陽二体の観音像が揃ったのである。
砂猫親分と神々教団の八丈島が神棚を見上げている。
「なかなか壮観な眺めですな」
親分が神仏三体を見上げながら、目を細めて、鼻をかんだティッシュペーパーを英国製の最高級ゴミ箱へ、適当に投げつけた。
ところが、たまたま入ってしまい、ゴミ箱全体がLEDで赤く光り出した。
八丈島はいったい何が起きたのかと、ゴミ箱を見つめるが、光っただけでその後は何も起きないので、無駄な機能なのだと得心した。
「退職金の代わりにいただいてきました」
神々教にあった陽の観音像は、先ほど八丈島が事務所に持って来たものである。
「あのケチンボな教祖がよくくれましたね」
教祖が入院中の間にレプリカと勝手にすり替えたとは言わない。そのレプリカは本物の観音像に劣るとはいえ、大金を払って作製してもらった精巧なものである。見た目では分からない。これからもずっと教団本部最上階の教祖の移住スペースに飾られ続けるだろう。
「しかしね、八丈島さん。人間というものは欲を掻いたらイカンね」
「おやおや、親分さんらしくもない」八丈島は不思議がる。欲の塊のような親分がどうしたのか? らしくもないことを言い出す。
「いや、この年になってつくづくそう思うようになって来たよ」
「ほう、そうですか。私はまだそんな境地に達してませんなあ」八丈島は笑う。
八丈島は砂猫親分よりも随分と年上である。
「八丈島さん、せっかく持って来てもらったが、陰陽どちらかの観音像を差し上げますよ。わしが二つも持っておったら、バチが当たるかもしれん」
「親分はバチを恐れるほど、焼きが回ったのですか?」
「そうかもしれんな」
今、事務所内は子分に席を外させたので、二人きりである。
子分に聞かれないから、こんな本音を言うのだろうと、八丈島は思った。
「では、陰の観音像をいただきましょうか」
「小さい方でいいのですか?」
「陽の観音像は見飽きましたからな」
親分は手を伸ばして、約二十センチの陰の観音像を手元に下ろすと、フッと息を吹きかけてホコリを飛ばし、八丈島に手渡した。
八丈島は両手でうやうやしく、観音像を受け取る。
神棚では天照大神の神像と陽の観音像が並んで事務所を見守ることになった。
親分がポツリと言った。
「八丈島さんと暴れ回ってた頃が懐かしいよ」
管理人の桃賀は公園のベンチに座ってドローン教室を眺めていた。
砂猫公園内で開催されているドローン教室の講師は小学五年生の周人が務めている。給料の代わりに毎回図書カードを渡していた。何回か開催しているので、けっこう貯まったのではないだろうか。
周人と何やら話し込んでいた老人がやって来て、桃賀の隣に座った。
神々教団の元幹部である八丈島である。
「周人くんはしっかりしとるでしょう」桃賀が孫の自慢をするように言った。
「教団のことをいろいろと訊かれましたよ」
「この街の平和を乱すのは許さないと言っておったなあ――ところで、八丈島さんは教団に未練はないのかね?」
「はい、それはありません。いろいろと風穴を開けて、教団を弱体化させました。相手が巨大すぎるため、それが精一杯でした。完全崩壊に持ち込みたかったのですが、まだ時間がかかりそうです。小さな種だけは蒔いて来たつもりです」
「しかし、教祖はけっこういい年だ。後継者は決まってないのでしょう。あの巨大組織が弱体化するのも、時間の問題だと思うがね」
二人の老人は、公園内を飛んでいる数機の小さなドローンを見上げながら話している。傍から見れば、のんびりと過去を振り返っているように見えるだろう。
「その時間を一分一秒でも縮めたいですな」
「八丈島さんと暴れ回ってた頃が懐かしいねえ」桃賀が笑い出す。
「日々、命の駆け引きをしていた頃には戻りたくないですがね」八丈島も釣られて笑う。
「砂猫組を定年退職された後に、神々教へ再就職され、今年はそこも定年退職――さて、次はどこへ行かれるのかな?」
「一仕事終えてから、小さな無人島でも買って、釣り三昧の生活を送ろうと思ってます」
「ほう、それは素晴らしい」
八丈島は桃賀総長への挨拶を済ませると、砂猫公園を後にした。
荷物はボストンバッグ一つだった。
八丈島はバッグをあえてヒョイヒョイと軽く振りながら歩いているが、実はかなりの重量がある。本物の陰と陽の黄金の観音像が入っているからだ。二つを売りに出せば、無人島くらい買える金額になる。
元同僚である砂猫親分をレプリカで騙すのは忍びなかったが、陰陽どちらかの観音像を差し上げますと言われたときは驚いた。親分も年を経て、欲が薄れてきたのか。
陽の観音像だけでもよかったのだが、思いがけず陰の観音像も手に入り、本物の陰陽が揃った。業者に作らせた二体のレプリカの陽の観音像はそれぞれ、神々教と砂猫組事務所に置かれることになった。
さて、陰陽の観音像を土産にこの街を去ろう。
この街ではさんざん悪いことをしてきた。この街を出る寸前までロクなことをして来なかった。私を恨んでる人間も多いだろう。墓場まで持って行くべき事柄も多い。
しかし、もう一つやるべきことが残っている。
死後、私がどういう裁きを受けるのか、閻魔大王様の気分しだいだ。
“ぼくがウォッチしている神々教のことをかなり詳しく教えてくれる人に出会った。八丈島さんというおじいさんだ。管理人のモモンガさんの友達らしい。モモンガさんに会うため公園に来ていたらしく、いろいろと話をしているうちに、教団の幹部だった人だと分かったんだ。そこでぼくは神々教団のヘビーウォッチャーだと自己紹介して、女の人が牡蠣の貝殻で男の人を後ろから襲ってる写真を見せてあげた。ドローンで撮影したものだ。八丈島さんは写真を見て驚いていた。他にも撮ったのと訊かれたけど、残念ながらスクープ写真はこれしかない。写真を見せてあげた代わりに、ぼくは八丈島さんから重要な情報を手に入れた。
ぼくは大好きなこの街の平和を守りたいんだ。そのためにある作戦を決行する。ずっと前から決めていたことなんだけど、八丈島さんも協力してくれることになった。とても心強い。作戦の日にちは決めてある。時間が限られているから、今日八丈島さんと出会えたのは奇跡とも言うべきことで、とてもうれしい。ああ、決行が待ち遠しいなあ。晴れることを祈って、久しぶりにてるてる坊主でも作ろうかな――周人”
その日警察署内は朝からバタバタしていた。
出勤してきた佐々川刑事は、廊下を行き交う誰かを捕まえて事情を訊こうとするが、みんなは足早に去って行く。
俺はそんなに嫌われてるのかと落ち込む。
仕方なく捜査第一課の部屋に入り、デスクワークをしている和木刑事の前に座った。
「おはようさん。朝から何の騒ぎだ?」
「ああ、おはようございます」和木は手を止める。「何だか、デカいものを盗まれたようです。前代未聞の出来事ですよ」
「今どき銀行強盗は流行らんぞ」
「いいえ。盗まれたのは金銭ではなく、消防車です。水槽付きポンプ車が三台です」
「何だそれは!? ――ああ、ありがとう」
後輩がお茶を運んで来た。ズルッと一口飲む。
「消防署から直接盗んだのか?」
「まさか。現場に臨場中、運転席に誰もいなくなった頃を見計らって、三台とも乗り逃げされたようです」
「火事は本当だったのか?」
「小さなゴミ箱が燃えていたそうです」
「そんなボヤなのに、なんで水槽付きポンプ車が三台も出動するんだ?」
「大きな火事だから、たくさんの消防車を出動させてくださいと、複数の通報があったそうです」
「そいつらもグルというわけか」
「おそらくそうでしょう。すべて公衆電話からの通報だそうです」
「このご時世、そんなにたくさん公衆電話があちこちにあるのか?」
「駅前を始めとして、数ヶ所から掛かって来たそうです」
「組織ぐるみの犯行だというのか。それで、容疑者と消防車はどうなった?」
「両方とも見つかってません」
「容疑者はともかく、デカい消防車が三台だぞ。なんで見つからないんだ?」
「それが分からないんです」
佐々川はもう一口お茶を飲んで、太い腕を組む。
「なあ、和木よ。消防車なんてどうやって隠すんだ?」
「その辺に青空駐車していたらすぐに見つかりますからね。倉庫に入れるとしても、大型の消防車が三台ですから、かなり大きなスペースが必要です」
「上から何かをかぶせて隠すか」
「あっ、そういえばホームセンターから複数のブルーシートが盗難にあったという通報もあったようです」
「それだ!」佐々川はお茶を噴き出しそうになる。「盗んだ三台の水槽付きポンプ車はどこかでブルーシートをかけて保管されてるんだよ。それだと、ヘリコプターから見ても分からないし、そばから見ても建築資材か何かにしか見えないだろうよ」
「そのホームセンターですけど、他にもガードフェンスが盗まれてます」
「安全第一と書いてある黄色と黒色のシマシマのやつだな。それを置いて、人が近づけないようにしてあるんだろ。間違ってブルーシートを捲られたらバレるからな」
「他にも、速乾セメントとバスクリンとアヒルのオモチャが同じ日に盗まれたそうです」
「アヒルのオモチャだと?」
「はい。お風呂に浮かべるアレです」
「ああ、アレな」
佐々川はさらに一口お茶を飲んで、虚空を見上げる。
「うーん。消防車の赤色。ブルーシートの青色。ガードフェンスの黒色と黄色。速乾セメントの白色。バスクリンの緑色。アヒルのオモチャの黄色――カラフルだが、どういう意味だ?」
「さあ、分かりませんね」和木はデスクワークに戻った。
街の総合病院の特別室にはトイレもお風呂も大型テレビも大型冷蔵庫も完備されており、ホームシアターを使い、白い壁に映像を投影して、映画を楽しむこともできた。もちろんマルチスピーカーにより、さまざまな方向から音が聞こえるようになっている。
VIP待遇である神々教の教祖はその特別室で眠っていた。
先ほど、元教団幹部の八丈島が病院に内緒で持ち込んだワインに睡眠薬を入れて飲ませたからだ。
酒に目がない教祖は明日にペースメーカーの電池交換の手術を控えていたが、何も気にすることなく、ハーフボトルの高級ワインを飲み干した。
教祖の名前を呼び、返事がないことを確認してから、八丈島は窓際に立った。
病院の広大な駐車場が見えた。ほとんどのスペースが車で埋まっている。今の時間は診察がないため、大半は見舞客か業者の車だ。
カーテンを引いて、窓を開けた。涼しい風が部屋に入って来る。
窓から身を乗り出すようにして、八丈島は自分の姿を外へ見せる。
この駐車場のどこかに潜んでいる人物へのメッセージだ。
“教祖はこの最上階の部屋にいる。そして、今は熟睡している。看護師の定期検温は終わっている。お付きの信者は廊下で待機している。しばらくこの部屋には誰も入って来ない――作戦を決行するなら今だ”
八丈島は二体の観音像が入ったボストンバッグを手に部屋を出て行く。
一度だけ教祖を振り返った。
かつて愛した女性が静かな寝息を立てて眠っていた。
砂猫公園に並ぶ三十台のキッチンカーの脇に、突如として、ブルーシートがかけられた何かが置かれた。それは三つあった。
その何かは他と比べてかなり大きかったため、新しい遊具が設置されるのか、それとも新しく大型のキッチンカーが増えるのかとみんなは期待をしていたのだが、黄色と黒色のガードフェンスで囲まれて、近づけないようになっていた。
しかし深夜、ヒマな人間が近寄って、こっそりしゃがんでブルーシートをめくってみた。
「何だこれは、消防車じゃねえか。消防車タイプのキッチンカーなんてあるのか? 何を売るんだ? 水か? 消火器か? ホースか? 消防士のコスプレグッズか?」
独り言を言っていると……。
「おい、シケモク!」
師家木は名前を呼ばれて、あわてて立ち上がった。
「おお、これは茂湯のダンナ、夜分にお疲れ様です。公園のパトロールですか?」
誤魔化しながら、立ち上がって、長身の茂湯と向き合う。
「お前、この中を見たな」茂湯に睨まれる。
「あっ、いえ。俺のメシの種の空き缶とか空き瓶がないかなあと思いまして」
「あったのか?」
「いいえ。消防車しかありませんでした」
「見たならこうする」茂湯は上着のポケットに手を入れる。
「待ってください!」師家木は手を合わせて命乞いをする。「茂湯のアニキ、命だけはご勘弁を!」
茂湯の手には車のキーが握られていた。
「これからお前も俺たちの仕事に付き合ってもらう」
「へっ? 今からどこへ行くのですか?」
「神々公園だ――ブルーシートを外してくれ。謝礼は弾むぞ」
「えっ、謝礼!? それを先に言ってくださいよ」茂湯は気前がいいということを知っている。新しい仕事のゲットだ。「三台ともシートを外しちゃえばいいですか?」
「いや、他の二台はもう取り掛かっている」
師家木が暗がりに目を凝らしてみると、いつの間にか、多数の砂猫組の組員が集まって、テキパキと動いている。その中には砂猫親分の姿もあった。
やがて三台の水槽付き消防ポンプ車はブルーシートとガードフェンスを積み込んで、神々公園に向けて、深夜の道を走り出した。
先頭の消防車は茂湯が運転して、師家木は助手席に座っている。
夜中に連れ出された師家木は今から何が始まるのか分からないが、謝礼と聞いて、やる気満々の表情を浮かべていた。また、生まれて初めて乗る本物の消防車に興奮していた。
「茂湯のアニキ! サイレンは鳴らさないのですか?」
「どこを押せば鳴るのか分からないんだ」
その頃、神々公園の周辺住民が大きな振動で目を覚ました。
地震だと思ったのだが、しばらく待っていても、スマホの地震速報が流れて来ない。あわててラジオをつけてみても何も言わない。外を見ても街灯はついているし、異常はないようだ。
なんだ寝惚けていたのかと思い、時間を確認しただけで、住民たちはふたたび眠りについた。
午前三時の出来事だった。
建築資材置き場の地下から掘り進められていたトンネルは神々公園の地下に到達したところで爆破され、約二十メートル四方に渡って、地盤沈下を発生させていた。
今、その沈下区域を数人の男が取り囲み、トラックから下ろされた速乾セメントを水と一緒に、次々と投下している。陥没部分の底を固めるためだ。
そこへ三台の水槽付き消防ポンプ車が到着した。
消防ポンプ車は速乾セメントが固まっていることを確認して、放水を始める。水槽に水を積んでいるため、水源を探す必要はない。
三本のホースの中の一本を持っているのは師家木だ。両足を踏ん張って、放水をしている。
憧れの消防車に乗れたどころか、こうしてホースも持たせてもらっている。
「これじゃ、まるでヒーローじゃないか。これで謝礼までもらえるんだから言うことないなあ」三本のホースから大量の水が注ぎこまれている。「これが昼間だったら、キレイな虹が見えるのになあ。真っ暗だから残念だなあ――だけど、俺たちはこんな夜中に何をやってるんだ?」
近くで成り行きをみている若手組員に訊いてみる。
「お兄ちゃんよ、これは何のおまじないだ?」
「いやあ、俺も分からないっス」
「分からないっスか。当事者が分からないなら、部外者の俺は分からんな。砂猫公園なら新しいアトラクションだろうけど、ここは敵陣の神々公園だからなあ」
独り言を言っていると……。
「おい、シケモク!」
師家木は名前を呼ばれて、あわてて振り向く。
「これは茂湯のダンナ!」
「何をブツクサ言ってるんだ。しっかりホースを持って、狙いを定めろ」
「へい、すんません!」
そして、消防ポンプ車のすべての水槽が空になったとき、神々公園の真ん中に池が出現した。
そこへ、組員たちが“バスクリン森の香り”を投げ入れていく。
師家木も全身をバスクリンの粉だらけにしながら、がんばって働いている。
やがて、透明の真水が緑色に変わり、あたりに爽やかな森の香りが漂ってきた。
「おい、シケモク!」茂湯が呼んでいる。
「へい、アニキ、何でしょう?」
いつもはニコチンのニオイを漂わせている師家木だが、今は体中から爽やかな森の香りがするため、まるで天使になったような気分でいる。
きっと天国界はこんな香りなんだろうなあ。
「シケモクよ、池はだいたい出来上がった」
周りでは、消防車強奪チームとセメント投入チームと放水チームとバスクリン投入チームが、お互いの健闘を称え合っている。
「最後の仕上げをお前に任せたい」
「えっ、仕上げって何ですか!?」師家木が驚く。
茂湯は右手を差し出した。黄色いアヒルが乗っていた。
「これを池の真ん中に浮かべてくれ」
「そんな大役を俺に……」師家木はアヒルを握り締めて涙ぐむ。天使の涙が頬を伝う。
「頼んだぞ!」
師家木は涙を拭った。「このシケモク、命がけで大役を果たします!」
そう言って、森の香りがする緑色の池の中をザブザブと歩いて行くと、ちょうど真ん中に黄色いアヒルをそっと浮かべた。
池の周りに集まった組員から拍手が沸く。
砂猫親分も目を細めて拍手を送っている。
「ようやった。ようやったぞ、シケモク!」
師家木は池の真ん中でたたずんでいる。
「ああ、親分までもが俺に拍手を。ありがとう、みんな、ありがとう! 俺は日本一の幸せ者です! 生きててよかったです!」
師家木は池の真ん中で両手を振って声援に答えると、黄色いアヒルが転覆しないように、そっと岸まで戻って来た。
神々公園のド真ん中に池ができた。
この池の造成は、神々教団によって砂猫公園のハトが喰われて、生ゴミがぶちまけられ、キッチンカーの営業ができなくなったことに対する大規模な嫌がらせであった。
というよりも、嫌がらせを遥かに越えた一大プロジェクトであった。
消防車からアヒルまで、全部かっぱらって来たものだから、材料費はタダだった。
この池を元に戻すには大変な手間と資金がかかるだろう。
水を抜き、底のセメントを取り除き、土を入れ、地面を平らにして、人工芝を張り替えなければならないからだ。
池に浮かんだ黄色いアヒルが、穏やかな夜風に揺れていた。
♪♪♪♪♪
砂猫組の組員たちが深夜だというのに歌って、踊り出す。
師家木も仲間に入れてもらっている。
ここは敵の公園内だがかまわない。
手には作業用の軍手をはめている。
♪完成したぜ、神々公園の人工池~
盗難品で作ったけれど~
作ってしまえばこっちのものさ~
もとに戻すのは一苦労~
ざまあみろだぜ、神々教団~
俺たちに逆らうから、こんな目に遭うのさ~
俺たちは砂猫組、相手が悪かったなあ~
アヒルも鳴いてる、ガア、ガア、ガア~
パンパン、パンパン(手にした軍手をはたく音)
やがて、資材置き場から神々公園まで穴を掘って爆破させた地下職人たちも、地上に出てきて合流する。こちらも軍手をはめている。
♪穴を掘り続けて数週間~
やっと貫通したと思ったら~
いきなり爆破の指令が来た~
なんだこの池、わけわからん~
なんで森の香りが漂ってるんだ~
なんでアヒルが浮いてるんだ~
柄の悪い人たちだけど~
楽しそうだから一緒に踊ろう~
パンパン、パンパン(手にした軍手をはたく音)
深夜の神々公園はむさ苦しい男たちの歌と踊りで活気付いていた。
高齢の砂猫親分だけは睡眠不足と疲労が蓄積して、起きているのか寝ているのか分からないような状態で、幹部四天王が両手両足を必死に支えながら、踊りを続けていた。まるでマリオネットのようであった。
♪♪♪♪♪
佐々川刑事と和木刑事は神々公園を見に来ていた。
神々公園の真ん中へ勝手に池を掘られたと、神々教団から被害届が出されたからだ。
ロケット弾発射事件や遺体の放置事件やデカい鳥の処分などで、それどころではなかったため、公園の外から、一夜にして勝手に掘られたという池を見るだけにした。
池の周りには、信者らしき数人の人物と警察官が集まっている。
三台の水槽付き消防ポンプ車と一緒に、ブルーシートやガードフェンスやセメントの袋や大量のバスクリンの容器が放置されていた。
その不思議な遺留品の数々を、佐々川は捜査車両の助手席から双眼鏡で眺めている。
運転席には和木が座っていて、朝ごはんを食べていた。
「赤色の消防車と青色のブルーシートと黒色と黄色のガードフェンスと白色の速乾セメントと緑色のバスクリンと黄色のアヒルのオモチャを使って完成したのが、この神々公園の池というわけか――和木、何を喰ってるんだ?」
「紫色がないと思いまして」
「だから紫芋を喰ってるのか」
街の総合病院の特別室。
八丈島によって開け放たれた窓から、五機のドローンが病室内に侵入してきた。五機すべてに携帯電話が装着されている。
五機の飛行音が病室に響くが、外部に漏れるほどの大きさではない。
小型カメラが映し出す映像を元に五機は広い病室内を飛び回り、教祖が眠っているベッドを見つけ出し、五機すべてが仰向けで寝る教祖の体の上に着陸して、プロペラを停止した。
右手、左手、右足、左足、腹部。
病室の中がふたたび静かになった。
教祖は八丈島が盛った強力な睡眠薬で眠り続けている。
やがて、五台の携帯電話が同時に最大出力で発する電波によって、教祖の体内で稼働しているペースメーカーは誤作動を起こした。
教祖は弾かれたように、ベッドから転がり落ちた。
廊下で待機していた信者が物音を聞きつけて、特別室に飛び込んで来た。
同時に五機のドローンが窓から飛び去った。
「失礼します! 今の大きな音は何ですか――あっ、教祖様!」
“ぼくは今日ドローンを使って、一匹のダニを退治しました。ぼくの大好きな街の平和を乱す存在だったからです。八丈島さんに協力してもらって、作戦は成功しました。これでまた、ぼくの街が少しだけキレイになりました。でもまだまだこれからもキレイにしていくつもりです。将来は市役所に就職して、この街を守ります。八丈島さん、ありがとう。さびしくなったら、いつでもこの街へ遊びに来てね。お土産なんかいらないよ――周人”
神々公園では、砂猫組によって無理矢理造成された池の埋め立てが始まっていた。
経費を節約するためか、業者に依頼するのではなく、近隣から集められた信者が手に手にスコップを持って、工事を行っている。池はかなり埋められたが、この後に人工芝を張らなければならない。人海戦術ではまだまだ時間がかかりそうだった。
一方、砂猫公園では青々とした天然芝が広がり、フランスの城のような滑り台も、イタリアにあるような噴水も、北欧風の託児所も混んでいるし、キッチンカーには行列が絶えず、ドッグランもドローン練習場も相変わらず、大人気だった。
そんな喧騒を横目に、師家木は鼻唄交じりに、ゴミ箱から空き缶をかき集めていた。メシの種にするためだ。公園はオープン以来ずっと混み合っているので、廃品回収の仕事は順調だ。
管理人の桃賀も回収を手伝ってくれている。こちらも絶好調だ。ドッグランで使うフリスビーが売れまくり、ドローンも連日完売が続いているからだ。
「シケモクさん、公園がキレイになって助かるよ」
「桃賀さんもありがとね――いやあ、大漁、大漁。よっこいしょ!」
師家木は空き缶で一杯になった透明のビニール袋を肩に担ぎ上げて、ふと空を見上げた。
スイスのハトが数羽、ドローンを避けながら、飛んでいた。
♪♪♪♪♪
スイスのハトが歌って、踊り出す。
わたしたちは平和の象徴のハトなのよ~
スイスから日本にやって来たのよ~
ヨーロ レイヒー
歌声はヨーデルよ~
だけど日本も良いところよねえ~
ポー、ポー、ポー(ハトの鳴き声)
人々に安らぎをもたらすわよ~
砂猫公園を平和にするわよ~
神々公園には行かないわよ~
だからいつまでもキレイにしておいてね~
頼んだわよ、シケモクさん~
バサバサバサ(ハトが羽ばたいて飛んで行く音)
♪♪♪♪♪
~グランドフィナーレ~
♪♪♪♪♪
砂猫親分と泣く子がさらに号泣する砂猫組四天王、ボギーこと墓魏、プリッツこと振津、モユユこと茂湯、ホッケこと法華が歌って、踊り出す。
全員、手にドスを持っている。
神々教の幹部信者の四人、穴田、何和、百合垣とメイソンが歌って、踊り出す。
作務衣は軽くて動きやすいため、ダンスにはキレがある。
全員、手に木魚を持っている。
教会のバザーを主催する恵子おばちゃんとスタッフと客が歌って、踊り出す。
高校生からおばちゃんまで、年齢も服装はバラバラだが、
みんな一つの輪になって、とても楽しそうだ。
佐々川刑事と和木刑事と警官たちが歌って、踊り出す。
しっかり整列していて、全員手に拳銃を持っている。
警官だけあって、息は切れず、ダンスも一糸乱れない。
鑑識員が犯行現場で歌って、踊り出す。
帽子をかぶり、マスクをしている。
手には白い手袋をはめて、足はビニールのカバーで覆われている。
三十台のキッチンカーの従業員が歌って、踊り出す。
手にはスプーンやフォークや包丁やピーラーなどを持っている。
カチャン、カチャンと音を出している。
桃賀とお母さんたちが見守る中、
ドローン講師の周人と七人の子供が歌って、踊り出す。
手にはドローンのコントローラーを持っている。
親方を先頭に地下職人が歌って、踊り出す。
手にツルハシやスコップやバケツを持っている。
主に年配者だが、若者に負けじとばかりに体を動かす。
神々教の教祖が踊り出す。
ペースメーカーの電池交換をしたばかりの上、
ベッドから転がり落ちて、全身打撲のため、動きは緩慢だ。
だが、しつこく生きている。
あら、私が死んだと思ってた?
公園戦争はこれからも続いて行く。
(了)
右京之介
前編からのつづき。
砂猫親分は上機嫌だった。
砂猫公園に完成したドッグランが予想以上に好評だからだ。
花や樹木に溢れた公園にはカラフルな遊具があり、三十台のキッチンカーがあり、くつろげる天然芝があり、五十基のベンチがあり、約二十メートルの巨大噴水もある。
これらは設置されてから日が経つが、今でもたくさんの人たちが街中から来てくれている。それに加えて、ドッグラン目当てに犬好きの人たちが他の街からもワンサカやって来ていた。犬だからワンサカである。
親分は、法華が撮ってきたスマホの写真を覗き込んでいる。
「おいおい、日本中の犬が集まってるんじゃないのか」
親分が軽口を叩くほど、ドッグランは繁盛している。天然芝を敷き詰めた二百坪という広大なスペースにもかかわらず、犬で渋滞しそうなくらい混んでいる。
これだけ整った敷地で遊べて、入場料がタダともなれば、人も犬も集まって来るというものだ。そして彼らはキッチンカーで食事をしてくれる。
「犬たちは余程遊び場に飢えていたのだろうな――なあホッケ」
親分は感慨深げに言う。今日の事務所は法華と二人だけだ。
「最近は住宅が増えるばかりで、公園は減って来ましたから、特に大型犬は走り回る場所がありません。広い砂浜に行くには遠すぎますから、近くにドッグランができて、みんな喜んでますよ」法華もうれしそうだ。
「二百坪もあれば足腰が立たなくなるくらい走れるだろうよ」親分の軽口は止まらない。
「犬専用の水飲み場も作りましたから、暑い夏でも安心です。それに親分がおっしゃってたフリスビーを犬に投げて遊んでる人も多いですよ」
「おお、そうか。さっそくフリスビーを持参して公園に来たわけか」
「いいえ。公園内で販売してます」
「なに? 園内にペットショップでも作ったのか?」
「桃賀さんが管理人室で売ってます」
「総長がフリスビーを!? どこから仕入れたのか知らんが、さすが総長は先見の明があるな」
「一枚千円ですから良心的ですよ」
「まあ、あの人は腐るほど金を持ってるから、そんなに儲けなくていいんだ。道楽でヤクザの総長をやってて、趣味で公園の管理人をやってるのだからな」
「年金もいっぱいもらってるそうです」
「若い頃から稼ぎが多かったから、たくさんもらえるのだろうよ」
桃賀総長の晩年の人生が羨ましい二人は思わず黙り込む。
親分は高級ふわふわティッシュを取って口元を拭うと、高級ゴミ箱に向けて投げつけた。いつものように入らず、すかさず法華が拾いに行く。他の三人は出払っているので、法華が拾うしかなかった。
そこへ茂湯が事務所に入って来た。「只今、戻りました!」
「おお、モユユか。向こうはどうだった?」
「へい、親分。神々公園にもドッグランができてました」
神々公園が砂猫公園の動向を常に注視しているように、砂猫組も神々公園をこっそり視察している。今日は茂湯が子分を数人引き連れて、偵察に行っていたのだ。
「やっぱりそうか」親分の予想通りだ。
「人工芝を敷いた小さくてセコいドッグランでした。小学校の教室くらいの大きさですよ。あまりにも狭いので大型犬の持ち込みは禁止らしいです」
「そうか」親分は笑い出す。「相変わらず神々教はやる事なす事がマヌケだな」
「走り回っているのは、拾ってきたばかりのような汚い小型犬ばかりで、飼い主も薄汚いオバハンばかりでした。しかも入場料を二千円も取ってました」
「ほう、それはセコイのう。そんな中途半端なドッグランなら設置しなけりゃいいのにな。うちに対抗しようと必死なようだが、空回りしとるな――ところで屋台村はどうだった?」
「オープン当初の勢いはなくなって、最近は閑散としてます。昼間から近所のオヤジが酒を喰らってるくらいで、行列なんか見かけません」
「全組員に号令をかけて、神々公園の屋台の評価を星一つでネットに投稿させたのがよかったな。ネット時代に相手の店を蹴落とすにはあの作戦が一番だな」
神々教をセコいと批判するが、自分たちがやってることもセコいとは気づいていない。そんな繊細な神経では、この業界で長年やっていけない。
他人に厳しく、自分に甘い――当然の哲学である。
そこへ墓魏が勢いよく駆け込んで来た。
「親分、ものすごく大変です!」デカい体の墓魏のデカい声が事務所内に反響する。
「ああ、またボギーの大変が始まったか」親分は床に座り込み、英国製のゴミ箱を抱えるようにして、爪を切っている。「いつになればお前に平和と安らぎの日が訪れるんだ?」
「振津が襲われました!」
「何、プリッツが!? そりゃマジで大変じゃないか!」親分は驚いてゴミ箱を蹴り倒す。誤作動を起こしたゴミ箱が赤く点滅する。
「容態はどうなんだ?」法華は冷静に尋ねる。
「おお、そうだ。プリッツの容態はどうなんだ? 生きとるのか? この世にいないのか? 成仏できないでこのあたりに浮かんでるのか?」
親分は立ち上がって、天井付近を見渡すが、凶暴な顔の歴代組長の写真と目が合って、落
着きを取り戻す。
「かなり出血したため、意識不明の重体だったのですが、意識は先ほど戻りました。命に別状はありません。背中をグサッ、ズズズーッと二か所に渡って切り付けられたようです」
「グサッ、ズズズーッというのはどういう状況なんだ?」
「肩甲骨のあたりを二本の鋭利な刃物でグサッと刺されて、そのまま背中を腰へ向かって、ズズズッと引き裂かれたようです」
「うぅ。ボギーの説明を聞いてるだけで背中がムズムズするな」
「どこで襲われたんだ?」法華が場所を訊く。
「振津の自宅のそばだ。昨日の夜、事務所を出て帰る途中だったそうだ」
「そのとき、子分は何をしてたんだ?」今度は茂湯が尋ねる。子分の不甲斐なさに怒りを感じているようだ。
「どうやら振津は一人で歩いていたらしい。そこを背中から忍び寄って来た奴にやられたというわけだ。犯人の顔は見てないそうだ」
「背中から武器を持ってこっそり襲うとは、任侠のプライドもないのか」親分は激怒する。「任侠なら正面から正々堂々と勝負すべきだろう。しばらくは一人で出歩かないよう、全組員に向けて通達を流すんだ」
親分は三人の幹部組員に指示を出した。
その後、担ぎ込まれた病院にお見舞いに行く話が出たが、
「振津から親分に伝言があります」墓魏が言い出した。「もう大丈夫なので見舞いには来ないでくださいということです」
「いや、待て。わしは義理と人情を大切にする昔ながらのヤクザだ。冠婚葬祭などの義理を欠くことはせん。見舞いもそうだ。たとえ子分の見舞いであってもちゃんと行くぞ」
「親分」法華が説得を始める。「何者による犯行か分かりませんが、親分が見舞いに行くところを狙ってくるかもしれません。腕利きのスナイパーを配備しているかもしれません。今病院に近づくのは非常に危険です」
親分の意向は絶対だが、命にかかわることは例外である。親分にどやされること覚悟で法華は進言している。親分もそんな法華の思いをたちまち理解した。
「ホッケよ、よく分かった。プリッツの身辺は奴の子分たちに護衛してもらうことにしよう――よしっ、プリッツのケガの快復のために、みんなで神社に行って御祈願しようや。困ったときの神頼みだ」
親分と三人は近所の神社へ出かけた。全身が穢れていると自覚している四人は手水舎で全身がビショビショになるくらい手と口を清めまくり、大量のお賽銭を賽銭箱に突っ込み、振津の一日も早い回復を願ってお祈りを捧げ、大吉が出るまでおみくじを引き続け、病気平癒と魔除けのお守りを大人買いして、帰って来た。
帰ってみると、事務所が入るビルの前に佐々川刑事と和木刑事が立っていた。
さっそく警察が来るとは、魔除けのお守りの効果がなかったということだ。
「砂猫親分」佐々川がニヤッと笑って、声をかけてきた。「お久しぶりですね」
「ほう。これは佐々川のダンナと和木のダンナじゃないですか」
小さな暴力団だが組員全員が警察に顔を知られている。もちろん、逆に刑事たちの顔は知っている。親分は余裕のあるところを見せる。決してうろたえてはいけない。こんなところでマウントを取られてはいけない。たとえ何の用事で来たのか分からなくても。
「振津幹部は気の毒だったな」当然ながら、振津の事件はすでに知っているようだ。
「ああ、何とか命は取りとめたようだがな。それよりも、なんでマル暴じゃないダンナがここに来るんだい?」親分は用件を探る。
三人の子分は口を挟まずに成り行きを見守る。
「そちらではまだ犯人は分からないでしょう」今度は和木が話してくる。「我々も分かってません。だから情報提供をしてあげるために来たのですよ」
「ほう。それは親切なことですな」
さっき買った魔除けのお守りのヒモを指に引っかけて、二人の目の前でクルクル回してみる。
だが、二人の刑事には何の変化もない。
これは何だという目で見ている。
「魔除けは効かんな。たちまち苦しみ出すと思ったのだがな――神さんよ、わしらにとって、こいつらは魔だぞ。せめて、お腹が痛くなるくらいにできないかね」
「何だって? 情報を聞きたくないのですか?」
「いや。聞かせてもらうじゃないか、和木刑事君」
和木は咳払いを一つして、話し出した。
「振津幹部は背中を鋭利な刃物で切り付けられました。背中からその破片が検出されました」
「ナイフの欠片か?」
「いいえ。牡蠣の破片です」
「海のミルクと言われている、あの牡蠣か? レモンをかけて喰ったらうまい、あの牡蠣か? 新鮮じゃないものを喰うと下痢する牡蠣か?」
「下痢する牡蠣です。あの牡蠣の殻を鋭利になるまで加工して、武器として使用したと思われます」
「つまり、二つの牡蠣の殻を両手で持って肩甲骨の辺りをグサッと刺して、ズズズーッと腰まで下ろして、皮膚を着ていた服もろとも引き裂いたと?」
「うちの優秀な鑑識と医師の見立てによるとそのようです」
「そちらで思い当たる犯人はいないか?」佐々川が訊く。「漁業関係者かもしれん」
「いないな」親分は三人の子分を見る。子分も首を振る。「牡蠣漁師に迷惑をかけた覚えはないし、恨まれる覚えはない。それどころか、わしは生牡蠣が好きで毎年たくさん消費しておる」
「振津幹部は小柄だっただろ。だからこの犯行は後ろから襲えば、女でもできる」
「女の仕業だと!?」
「そうだ。思い当たる女はいないか?」
親分と三人の子分の脳裏に去来するのは、女性信者が多数在籍している神々教のことだった。先日も法華が一人の女性信者を連れ出し、夫の元へ送り届けたばかりだ。その後はどうなったのか分からないが、その仕返しとして振津が信者によって襲われた可能性はある。しかし証拠はない。現場には何も残されてないだろうし、犯行を誰かに目撃されるといったミスは犯してないはずだ。
信者の半分以上は女だ。しかも教祖のためなら何でもやる連中だ。佐々川の言うとおり、女の犯行かもしれない――親分は虚空を見上げる。
一方、佐々川刑事と和木刑事は教団玄関にロケット弾を撃ち込まれた事件もいまだ追っている。犯行車両の中には捜査を攪乱するためのペットボトルや吸い殻が散乱していた。それらはこいつらの総長である桃賀が管理している砂猫公園から集められたことが分かっている。空き缶の回収をしている師家木から聞いた情報だった。
しかし、こいつらの犯行という直接の証拠はないし、こんなマヌケな面をした連中に時限式ロケット弾など作れない。砂猫組に協力をしている組織でも存在するのか?
お互いの腹の探り合いは続く。
六人はビルの前で話し合っている。六人全員の人相も柄も悪いため、道行く人たちは厄介事に巻き込まれないよう、足早に通り過ぎて行く。間違ってもスマホを向ける通行人はいない。
佐々川は砂猫組の四人を見て思う。
この街で砂猫組と神々教が対立していることは周知の事実だ。できれば両者の争いが激しくなって共倒れしてくれないか。無関係な市民を巻き込まなければそれでいい。警察の手間も省けるというものだ。毒を以て毒を制すというやつだ。
敵対しているもの同志が相撃ちとなり、共倒れしてしまうのは、西部劇なんかではよくある設定なのだが、現実ではそんなにうまくいかない。
しかし、四大幹部の一人である振津が襲われたことで、こいつらはまたやり返すはずだ。黙っているなんて、ヤクザとしてのメンツが立たないだろう。
やられたらやり返すのがこいつらの流儀だ。
さて、砂猫組はこれからどう出やがるのか。
密かに抗争の激化を願う悪徳刑事であった。
“ぼくは恐ろしい光景を見てしまった。ぼくの大好きなこの街をパトロールしていたときのことだ。男の人が女の人に背後からおそわれたのだ。男の人が誰かは分かった。たぶん暴力団の組員だ。人相が悪かったから分かる。この街の住民はやさしくて穏やかな人がほとんどだ。だからぼくはこの街が好きなんだ。人相が悪いのはみんな暴力団の人だ。女の人はよく知らない。でもどこの人かは分かる。暴力団と対立している神々教団の人だと思う。対立している理由は分からないけど、こうやって上空からパトロールしていたら、いろいろなことが分かるんだ。なんといっても、ぼくは神々教団のヘビーウォッチャーだからね。もちろん今回の事件の証拠写真は上空からちゃんと撮っておいたよ。ぼくの街を汚す人たちは許さないからね――周人”
♪♪♪♪♪
ヤクザの四人と刑事の二人がビルの前で歌って、踊り出す。
刑事の二人は手に手錠を持っている。
砂猫組の四人は手ぶらだ。ドスを持とうとしたが、銃刀法違反の現行犯で捕まりたくないので、止めることにした。手錠に対して提灯だと釣り合いが取れないので、これもやめておいた。足腰にガタが来ている親分のために、いつも通り、上半身だけ動かすパラパラのようなダンスだ。刑事の二人にも了承してもらった。二人もやがて年を取ってガタが来るため、分かってくれたようだ。
♪ここは俺たちヤクザの事務所前~
任侠道をひた走り~
義理と人情を大切に~
砂猫組を守って来た~
地域に貢献して~
街の発展に手を貸した~
地元民に愛されているヤクザだぜ~
子供たちのヒーローだぜ~
パチパチ、パチパチ(手拍子の音)
♪この街を守るのは俺たち警官さ~
ヤクザに思うようにはさせないぜ~
愛と正義と希望に満ち溢れた警察官さ~
法に盾突く奴は許さない~
警察に盾突く奴も許さない~
お前たちが何と言おうと~
いつかこの街から追い出してやる~
首を洗って待っていやがれ~
カシャカシャ、カシャカシャ(手錠を振る音)
♪♪♪♪♪
神々教の教団本部の四階の幹部部屋には穴田、広報の何和、外国人幹部のメイソン、女性幹部の百合垣、八丈島が集まっていた。五人全員が幹部服である濃い紅色の作務衣を着て、ソファーに向かい合って座っている。幹部による報告会である。
「砂猫公園のドッグランに比べて、うちのドッグランはやたらと小振りになってしまったな」穴田が嘆く。
「向こうに対抗して作れと教祖様に言われましたが、その教祖様が犬嫌いですから、仕方がありません」百合垣が事情を説明する。
「なぜ、教祖様は犬が嫌いなのですか?」メイソンが訊く。「過去に噛まれたり、追いかけられたりしたことがあるのですか?」
「教祖様がサル年のお生まれだからだよ」八丈島が言う。「アメリカでは犬と猫の仲が悪いらしいが、日本では犬と猿の仲が悪いとされていて、犬猿の仲とも言う。つまり、十二支の影響だよ。神様の所へ挨拶に行こうとして、犬と猿が競い合ったのだよ。それ以来、仲が悪くなったのさ」
「なるほど、そういう事情ですか。アメリカに十二支はありませんから、知りませんでした」
メイソンは納得する。入信してそんなに日が経ってないため、知らないことも多い。
「サル年の教祖様は犬が嫌いだから、当初は犬を喜ばせるドッグランなど作らなくてもいいと言われていた。しかし、砂猫公園のドッグランが大盛況だと聞いて、やむなく作るように指示されたのだよ。だが、作るのなら、せめて派手に作らないようにと言われたため、地味なものになってしまったのだよ」
八丈島がメイソンに対して、丁寧に教えてあげる。
「教祖様のご希望なら仕方がありませんね」メイソンは納得せざるを得ない。
「砂猫組は永遠の天敵ですからな」何和が補足する。「砂猫公園への対抗処置として作らないわけにはいかないのだよ。向こうが公園を新たに整備してくれば、こちらも黙って見てないで、さらに公園を整備する。たとえ教祖様が犬嫌いだと言われてもな。だから、仕方なく中途半端なドッグランが出来上がったというわけだ。私も教祖様と同じで犬は大嫌いだから、教祖様の気持ちはよく分かる。いやあ、控えめなドッグランでよかったなあ。ウジャウジャたむろしている犬なんか見たくないものなあ」
何和は、さりげなく教祖と同じ犬嫌いだとアピールしてくる。
百合垣は何和のセコさに気づき、怒りで顔を歪める。
「きっと砂猫組の連中はうちの公園の偵察に来ているはずです。うちのドッグランを見て、砂猫組は笑ってるでしょうね。大きさも小さく、人工芝ですからね。私はそれが悔しいです」
メイソンも彼女の気持ちが理解できたためか顔を歪めた。
「ところで、受付嬢の山賀弥生の行方はまだ分からんのか?」穴田が問う。
百合垣が冷静さを取り戻す。「鋭意、捜査中ですが、まだ手掛かりも掴めてません」
「家には帰っていないのか?」
「はい。数人の信者を自宅近辺に張り込ませてますが、家族共々どこへ雲隠れしているのか、誰も戻って来てないようです」
「そうか」今度は穴田の顔が怒りで歪む。「おそらく砂猫組の仕業だろう。うちが向こうの組員の足を洗わせて、社会復帰させていることへの意趣返しに違いない。この仇は公園で取ってやろう。神々公園の価値を砂猫公園が到底追い付けないくらいに上げるんだ。そのためにこれからもしっかりとパフォーマンスをしていこう――百合垣さん、観光バスの手配は済んでるかな?」
「はい。北海道から沖縄まで津々浦々、抜かりありません」
その頃、師家木は一人で砂猫公園のベンチに座って、熱心にドッグランを眺めていた。
「よお、シケモク!」
名前を呼ばれて、あわててベンチから立ち上がる。
「これは砂猫組の茂湯のダンナ、ご無沙汰しております!」
立ち上がって、長身の茂湯と向き合う。
「昨日、会ったばかりだろ」
「ああ、そうでしたか。さっきまでこの高級ベンチで昼寝をしてたので、まだ寝惚けてまして、頭がちゃんと回りません」
「お前はいつも寝惚けてるようなもんじゃないか」
「確かにそうですが、仕事はしっかりやってますので」
「ああ、そうだな。お前が拡声器でキッチンカーの宣伝をしてくれたお陰で今日も大盛況だ。見てみな、ほとんどのキッチンカーに行列ができている。ありがとよ」
三十台のキッチンカーが並ぶ壮大な光景を二人はしばらく眺める。
「茂湯さん、新しくできたこのドッグランも最高ですね」目の前にドッグランが広がっている。「犬が楽しそうに走ってますよ」
「お前も走って来るか?」
「さっき走りました」
「走ったのかよ」
「はい。たくさんの犬に追いかけられて、アイドルになった気分でした」
「そうか。ところで、お前は神々教団からいくらもらってるんだ?」
「――えっ!?」師家木は驚いて言葉を失う。
「お前があんな真剣な目付きでドッグランを眺めていたら、バレるに決まってるだろ。神々教団に頼まれて、偵察をしていたのだな?」
「茂湯さん、この通りです!」師家木はいきなり天然芝の上に大の字で寝転んだ。「茂湯さん、俺を殺してください!」
「シケモク。わざとらしいパフォーマンスはやめろ」茂湯がなだめる。目は笑ってる。
「すいません」師家木はノロノロと立ち上がる。「金に目がくらんでしまいまして。ドッグランの客の入りを報告すると五千円くれるというもので」
「お前にまた一つ仕事を頼みたいのだが、三万円出そう」
「三万円!? よっ、茂湯のアニキ! 待ってました!」
師家木は茂湯に名前を呼ばれたときから、仕事の依頼をされると読んでいた。ドン臭くても、金のニオイには敏感だ。大の字パフォーマンスが見抜かれることくらい予想していた。さすが天然芝は寝転ぶと気持ちがいいなあと感じる余裕すらあった。茂湯の目が笑っていることも気づいていた。
「――で、どのようなお仕事で?」師家木は茂湯の前で揉み手をする。
「バラしてもらいたい」
「いや、俺に人殺しは無理です! しかも三万円だなんて値切り過ぎです。不良外国人でも引き受けませんよ。三万円ならぶん殴って、蹴飛ばすのが精一杯ですよ」
「シケモク、よく聞け。バラすのは人じゃない。柵だ」
神々公園内を二人の信者が歩いていた。
いつもは紺色の作務衣姿の信者だが、人の目があるため、公園内の見回りはジーンズとシャツといったラフな格好で行っている。いかにも友人同士であるかのように仲良くおしゃべりをしながら歩いているが、絶えず左右に目を配り、公園に不利益を及ぼすような人物はいないかを探ってる。特に柄の悪そうな、いかにも砂猫組のような奴らには気を付けて監視するように指示をされている。
突然、二人の前を一匹の茶色い犬が走り過ぎた。
公園内ではペットのリードを外すことは禁止している。唯一ペットを自由にできる場所は新設されたドッグランだけのはずだが。
二人はドッグランに目をやった。
柵の一部が壊されて、中で遊んでいた犬たちが次々に外へ飛び出して行く。
やっとリードを外されて、走り回れると思ったドッグランは狭かった。しかも足元は草の香りもしない人工芝で走りにくい。我慢して遊んでいるうちに、柵の一部に大きな穴が開いた。
犬たちは思った。(外に出られるじゃん)
ドッグランを出てみると広い。なんといっても柵がない。何も遠慮することなく、どこまでも走れる。それぞれのご主人様があわてて追いかけて来るが無視をして振り切る。
やがて、犬たちは神々公園から外へ出た。
行く手をさえぎるものは何もない。
そうか。これが自由というものか。
やっと自由を手に入れたぞ!
♪♪♪♪♪
犬が歌って、踊り出す。
首に首輪を付けているが、リードは付いていない。
小さい犬も大きい犬も足並みそろえて踊り出す。
日本の犬も外国の犬もみんな仲良く踊り出す。
白い犬も黒い犬も茶色い犬も一糸乱れず踊り出す。
♪ワンワン、ワンワン、ワンワン~
やっと自由を手に入れた~
どこへ行こうか西東~
何が待ってる北南~
邪魔なリードは置いて来た~
趣味の悪い犬用の服も脱いで来た~
めんどくさい飼い主、さようなら~
毎日の御飯が心配だけど~
何とかなるさ、この日本~
平和な日本、ありがとう~
ビュンビュン、ビュンビュン(追いかける飼い主がリードを振り回す音)
♪あれだけ愛情を注いできたのに~
なんで急に逃げちゃうの~
私たちは家族じゃないの~
止まりなさい、そこの犬たち~
振り向きなさい、私の子供たち~
いくらお金をかけてきたか分かってるの~
家族で一番高いものを食べさせてきたのに~
恩をアダで返すというのはこのことよ~
早く戻ってらっしゃい~
あなたのおうちはこっちですよ~
ビュンビュン、ビュンビュン(追いかける飼い主がリードを振り回す音)
♪♪♪♪♪
師家木は笑いが止まらない。
ドッグランの柵の一部をバラすだけで三万円。
神々教は砂猫公園を一日見張って、ドッグランの客の入りを報告すると五千円くれると言った。それに比べると、なんて楽チンだろう。一瞬で終わったのだからな。もちろん誰かに見られるようなヘマはしてない。さっと蹴って、バキッと壊してやった。
茂湯のダンナからいい仕事をもらった。日頃から茂湯さんと信頼関係を築いていてよかった。信頼関係があるなら、ライバルである神々教の仕事をなぜ引き受けたのかという矛盾は横に置いておこう。なんといっても今、茂湯さんから請け負った仕事は成功したのだ。
神々教と思われる陰気な奴ら二人がウロウロしていたので、見つからないように、すばやく黄金の左足で柵に渾身の蹴りをドカドカと入れてやった。
柵はあっけなく壊れた。
中学のとき、一週間だけサッカー部だったのが、こんな時に役に立った。
あの頃、俺の左足から繰り出される豪快なシュートを見て、誰かがあれは黄金の左足だと名付けたのだ。その後、グレてしまって、学校に行かなくなったのだが、あのままサッカーを続けていれば、海外からたくさんのスカウトが来たに違いない。あるいは日本代表となって、日の丸を背負い、今頃世界と戦っていたかもしれない。
少なくとも、ドッグランの柵を蹴飛ばしてナンボという仕事はしてなかったはずだ。
どっちの人生がよかったのか?
そんなこと知るわけない。今は三万円を何に使うかで頭が一杯だ。なじみの高級寿司店に行くとするかな。高いネタの寿司を思いっきり喰ってやる。ただし、三万円を越えないように気を付けよう。
穴の開いた柵から逃げ出す犬の群れと、追いかける飼い主の集団に紛れて、師家木はスキップをしながら、神々公園を後にした。
♪♪♪♪♪
師家木が走りながら、歌って、踊り出す。器用だ。
♪三万円、三万円、三万円ったら三万円~
高級寿司を三万円~
トロにトロにトロにトロ~
ウニにウニにウニにウニ~
できるだけお茶は飲まずに胃袋を開けておく~
その隙間にまで高級寿司を詰め込むぜ~
ああ、やっぱりソロで踊るのは空しいな~
観客が一人もいないもんなあ~
鳴り物が何もないもんな~
しょうがない、自分で叫ぶか~
パッパラ、ラッパッパ~(口でトランペットを吹く声)
♪♪♪♪♪
師家木は一週間に一度は訪れている高級寿司店の暖簾をうれしそうにくぐった。
「はい、いらっしゃませ!」大将が大きな声で出迎えてくれる。「おっ、これは師家木さん。いつものようにカッパ巻き二貫でよろしいですか?」
「いや、今日は違うんだ」
「奮発して、かんぴょう巻き二貫で?」
「トロとウニと時価のネタをくれ」
「えっ!?」大将は疑わしい目で師家木を見る。
「まあ待て。これを見ろ」師家木はズボンのポケットから、茂湯にもらった三万円を出した。
「おぉ!」大将は驚いた。師家木が万札を持って来るのを初めて見たからだ。「へい、さっそく握ります! トロとウニとノドグロ一丁!」
そうか。本日の時価はノドグロか。メニューを見ないで頼んだから、知らなかったなあ。
師家木は垂れてくるヨダレを手の甲で拭うと、気合を入れるため、出されたおしぼりで顔面をゴシゴシと擦り、ズボンのベルトを緩めた。
「死ぬほど喰ってやる」
飛鳥井教会のバザー会場。
「恵子おばちゃん、こんにちは」
相変わらずの低い声で話しかけたのは茂湯だった。
「あら、茂湯さん、いらっしゃい」
長身の茂湯を見上げて、恵子おばちゃんはいつもの丸っこい笑顔を向けてくる。
今日のバザーもたくさんの人が集まっている。毎回毎回手作りのグッズがよく集まるものだし、毎回毎回こんなにたくさん買いに来る人がいるものだと茂湯は感心する。
だが、売っている商品を見渡しても、欲しいと思う物は何もない。ほとんどがかわいい商品なのだから、仕方あるまい。
“かわいい”とは真逆の世界に生きているのだから。
恵子おばちゃんはバザーの販売員として打って付けだろう。よく笑うし、愛想はいいし、よくしゃべる。
しかし、愛想はいいといっても、振津が刺された件を訊いたところで無駄だろう。普段がおしゃべりだからと言って、顧客情報をベラベラと話すことはしない。口は堅い。秘密厳守を徹底しているから、長年この商売をやっていけるのだろう。
恵子おばちゃんの表の仕事は教会前でのバザーの開催だが、裏の仕事は殺し屋の斡旋だ。ちょっとばかし人様と違う道に生きる俺たちのような人間しか、彼女の正体は知らない。普段の彼女の姿からは想像もつかない商売である。
もちろん電話帳には載っていない。SNSやツイッターなんかもやってない。顧客はすべて口コミや紹介で増やしているらしい。
そして、恵子おばちゃんは贔屓をしない。ちゃんと金さえ払えば仕事は引き受けてくれる。だから、ときには争っている者同志の双方から仕事を受け、殺し屋同士が殺し合うこともある。勝負は強い方が勝つという弱肉強食の世界だ。決して、請け負った値段が高い方が勝つとは限らない。
茂湯は告解室で恵子おばちゃんと向き合った。ピンク色のエプロンは外している。
まさかこんな場所で人殺しの相談をしているとは、世間の皆さんは夢にも思わないだろう。しかし、ここだと誰かに聞かれる心配はない。内緒の話し合いをするにはピッタリの場所だ。神様がどう思っているのか知らないが。たぶん怒り心頭だろうが。
この部屋には何度も入り、何度も殺人の依頼をしているが、何度来ても気持ちのいい場所ではない。殺された連中の怨念が告解室に渦巻いているからに違いない。怨念なんぞ見えないが、そんな感じがしている。
恵子おばちゃんはここに来ても表情や振る舞いに変化はなく、いつもと変わらない普通のおばちゃんの顔をしているのだから、返って恐ろしい。さっさと話を決めて、こんな不吉な所から帰りたいものだ。
数々の修羅場をくぐり抜けてきた茂湯でさえ、そう思う。
「神々教の幹部を一人懲らしめていただきたい」さっそく、仕事の依頼をする。「一般信者が着る紺色の作務衣と違って、濃い紅色の作務衣を着た幹部だ。ただし、八丈島という人は除外していただきたい」
話はスムーズに進んだ。なぜ八丈島をターゲットから外すのかという理由は訊いてこない。必要以上に詮索をしてこないのは、いつものことだ。
「どの程度にいたしましょうか?」
「殺さなくてもいい。振津のケガと同程度で頼む」
振津の名前を出して、カマをかけてみるが、恵子おばちゃんの表情はニコニコ笑ったままだ。相変わらず、喰えないおばちゃんだ。
振津を襲ったのは神々教の奴らに違いない。しかし、奴らに現役のヤクザを襲う度胸も腕もない。恵子おばちゃんに頼んで、殺し屋を差し向けたと思っているのだが、さすがに尻尾を掴ませない。
「あら、振津さんがケガをなさったの?」恵子おばちゃんはとぼけてくるが、
「まあな」そのまま受け流す。「とにかく死なない程度の重傷ということでお願いしたい」
「分かりました。さっそく手配をしましょう」
「料金は明日振り込むことでいいかな?」
「もちろんです。茂湯さんはお得意さんですから、前金なんていただきませんよ――先日のロケット弾はよかったでしょう。元過激派に依頼したのよ」
「あれは驚いた。俺も後で見に行ったが、教団の玄関がスッ飛んでた」
「あれだけ大きな仕掛けをしておいて、何も証拠は残さなかったでしょう」
そりゃそうだろう。こっちはロケット弾一発に少なくない金を払ってるんだ。
「そうだな。警察はあの事件の捜査をまだ継続しているらしい。しかし元過激派とやらも、ロケット弾を時限発射できるだけの頭脳を持っているなら、世の中の役に立つことに使えばいいのにな」
自分が世の中に何も役に立ってないことを自覚している。しかし、自分を含めて、周りに優秀な頭脳を持った人物が一人もいない茂湯は彼らの才能の無駄遣いを不思議に思う。
「世の中にはいろいろと変わった人がいるからねえ」
おばちゃん自身が変わってると気づかないのか?
茂湯は不思議そうに恵子おばちゃんを見つめる。
「ところで、神々教の幹部をターゲットにする依頼だけど、今なら学割があるんよ」
「見ての通り、俺は学生じゃない」誰が見ても中年のオヤジだ。
「知ってるわよ。茂湯さんじゃなくて、演者の方よ」恵子おばちゃんは笑う。
人殺しの話をさっきから笑いながらする恵子おばちゃん。
「演者というのは殺し屋のことか?」
「そうよ。殺し屋なんて言うと生々しいでしょ。だから演者。アーティストっぽくて、おしゃれでしょ」
「おしゃれかどうか分からんが、つまり演者が学生ということか?」
「そういうことよ。なんと二割引き。でも腕は立つよ。いかがかしら?」
「まあ、なんというか……」たとえ現役のヤクザでも人殺しの話となると、歯切れが悪い。
学生の殺し屋だって? マンガじゃあるまいし。
だが、恵子おばちゃんがここで冗談を言うはずはない。
「神々教の幹部を痛みつけてくれるのなら、属性は気にしない。では……、その……、学割というやつで頼む」
「ありがとう。じゃあ、二割引きということでよろしくね」
いつも口頭で取引は終わる。契約書はない。紙やメールなどの証拠は残さない。お互いの信用で成り立っている商売だ。だからクーリングオフもない。
「契約成立を祝して、缶ビールで乾杯しない?」
「いや、仕事中だから遠慮しておく」告解室から一刻も早く出たい。
「茂湯さんは真面目だねえ。真面目がスーツを着てるようなものだね」
真面目ならヤクザなんかやってない。
最後まで恵子おばちゃんは笑いながら、商談を済ませた。いつものことだ。
「さて、またガンガン売ってくるかね」
おばちゃんは戦闘服であるピンク色のエプロンを身に付けて、気合を入れた。
神々教の外国人幹部メイソンは夜道を一人で歩いていた。
一日の修行を終えて、帰宅途中だ。幹部服である濃い紅色の作務衣から、地味な茶色いジャケットに着替えている。
五メートルほど先のジュースの自動販売機の前に女子高生が一人で立っていた。
自販機の発する光により、制服を着て、カバンを持ち、テニスのラケットケースを脇に抱えていることが分かる。
クラブ活動の帰りなのだろうとメイソンは思った。きっと、どのジュースにするか悩んでいるのだろう。
「こんばんは、お嬢さん」メイソンはできるだけやさしく声をかけた。布教も修行の一環だ。「あなたは神や仏を信じますか?」
女子高生は一瞬ビクッとしてから、胡散臭そうな目でメイソンを睨みつけながら、しだいに後退して行く。
「ああ、すいません。わたしは神々教の者です」メイソンはあわてて謝罪する。「暗がりから急に声を掛けられたら、誰でも驚きますよね。得体の知れない外国人なら尚更ね」
笑顔を絶やさず、少しずつ歩み寄りながら話し掛ける。
女の子は立ち止まった。
身構えていた態度は軟化して、こちらに向き直り、その表情は穏やかなものに変わった。自販機が照らす顔は幼く、美しい。
メイソンは誤解が解けてよかったと安心した。
しかし、ここまでは女子高生の芝居だと気づいていない。
メイソンはすでに罠に落ちていた。
「カミやホトケですか?」女の子は先ほどの質問を復唱してくれる。「カミなら命です」
「えっ!? 神はあなたにとって、命ですか」メイソンは驚く。「それは素晴らしい」
「はい。女子高生にとって、前髪は命です。前髪だけのセットに毎朝二十分もかかります」
「ああ、そっちのカミですか。いやあ、あなたは面白いですね」
女子高生の冗談にメイソンは笑ってあげる。
これで彼女との距離が少し縮まったと勘違いする。だが、これも罠だ。
仕掛けてくる心理戦に気づかない。相手が若い女性だから、すっかり油断している。
「テニス部ですか?」笑顔を絶やさず、小脇に抱えているラケットケースを指差す。
メイソンはすっかりリラックスしている。女子高生が自分を信用して、心を開いてくれたと思い込んでいる。
これなら布教もうまく行くかもしれない。若い信者を一人獲得できる。
「いいえ、物理部です。こう見えてもリケジョです」彼女は答える。
こう見えても? メイソンは不思議がる。
ショートヘアで目がクリッとしたかわいい子で、頭は良さそうに見える。だから、こう見えてもと言う日本語表現はおかしいのではないか。だったら、謙遜しているのか?
いや、そんなことはどうでもいい。今は勧誘をしなくては。
一人でも多くの信者を増やす。それが今この瞬間、わたしに課せられている修行だ。一つ一つの修行を完遂して教祖に褒めてもらう。その一存で、こうして声をかけている。
彼女はメイソンの目をじっと見つめてくる。
メイソンは次に何を話そうかと、黙ったまま頭の中で話を組み立てる。
彼女はメイソンの目を自分の目に引き付けている間、左の脇に抱えているラケットケースのジッパーを右手でジリジリと開いていく。
闇夜の中、自販機の光に二人の姿が浮かび上がっている。他に通行人はいない。
彼女の左足が一歩前に出た。
メイソンはスカートから伸びる足を見た。緩んだ白い靴下を履いている。
ああ、これが話題のルーズソックスか。九十年代に流行したのが、最近になってリバイバルヒットしていると聞いた。こうして実物を見るのは初めてだ。
足元に気を取られていた時、ふと頭の左に何かを感じて、とっさに手を上げて、頭部を防御した。反射的に腰をかがめたが、左手に大きな衝撃を感じた。
手に当たってきたのはテニスラケットだった。
この子がわたしをラケットで殴り付けてきたのか?
だが、違和感を覚えた。
学生時代にテニスをやっていたから分かる。ガットがこんなに堅いはずがない。あれはナイロンやポリエステルで出来ていて、弾力があるはずだ。
だが、これはまるで金網じゃないか。
バチッという音がしたと思ったとたん、手に痛みが走り、左の上半身に大きな衝撃を感じ、足腰から力が抜けて、地面に倒れ込んだ。
何が起きたのか?
目のすぐ前にルーズソックスが迫って来る。
そうか。痴漢と間違われて殴られたのか。
ならば、わたしが悪いのか?
いや、わたしは宗教の勧誘をするために声をかけただけだ。これは修行なんだ。教祖様の指示なんだ。
修行だ、教祖様だといっても彼女には関係ないだろうけど、わたしにやましい気持ちはない。この子には指一本触れてないし、わたしはジャケットを着た常識のある格好をしている。言葉遣いも丁寧に接したはずだ。恐怖を与えた覚えはない。
だったらなぜ殴られるのか? ――分からない。
ああ、それにしても痛い……。
制服姿のその子が地面に転がるわたしを見下ろす。顔は笑っている。
ああ、恐怖を感じているのはこの子じゃない。わたしの方だ。
「これは……、いったい……、どういうことですか?」彼女の足元で声を振り絞る。
彼女の右手にはラケットが握られている。ガットが自販機の光を反射して光った。やはり金属製のようだ。おそらく電気を流されたんだ。だから感電して体が動かず、立ち上がることができない。
テニスラケット型のスタンガンか?
防犯グッズとして、こんな強力なものが売られているのか?
やり過ぎると死んでしまうじゃないか。
――いや、違う。おそらく市販なんかされてない。
そうか、これは自作だ。さっき物理部だと言ったではないか。
この子が自作した護身用グッズで攻撃されたのか。
だったら、なぜわたしを笑う。なぜすぐにこの場から離れない。
クレイジーだ。
突然、彼女が座り込んだ。
――ググッ。
仰向けになっているメイソンの顔面にラケットのガットが押し付けられる。
メイソンは手足をバタつかせて逃げようとするが、女の子は全体重をかけて押し付けてくる。
――バチッ!
ガットに電流が流れた。
メイソンは顔中に網目模様を付けながら、全身を震わせて、気を失った。
「あらら、なんだか焼いたばかりのステーキ肉みたいね」彼女は笑う。「でも安心して。私の計算によると、この程度の電流なら死なないはずだから。でも、もしも基礎疾患があって、重症化しちゃったらごめんなさいです」
女子高生はテニスラケットをケースに仕舞うと、自販機でペットボトルのお茶を買って、何事もなかったかのように歩き出した。
メイソンは肩を揺すられて目を覚ました。
ここはどこだったか?
わたしは何をしていたのか?
ああ、体中が痛い。
記憶を呼び覚まそうとしたが、顔の痛みで思い出した。
そうだ。女子高生に痴漢と間違われて、ラケット型スタンガンでやられたんだ。
だったら今、わたしの肩を揺すったのは誰だろう?
やがて、目の焦点が合ってきた。
私を見下ろしていたのは――。
「ああ、八丈島さん……」同じ神々教の幹部信者である八丈島だった。「こんな所で何を?」
「それはこちらのセリフですよ。偶然ここを通りかかったらメイソンさんが倒れていたというわけです。顔にひどいケガを負っておられたので、先ほど救急車を呼びました」
「そうですか。すいません」メイソンは起き上がろうとするが、体中が痺れて、力が入らない。「訳の分からない女子高生に襲撃されまして。過剰防衛とでも言いましょうか。いや、わたしは何もしてないのですが、変質者の外国人と勘違いされたみたいです」
「ほう、女子高生ですか?」八丈島は辺りを見渡す。「誰もいませんねえ」
「おそらく逃げたのでしょうね」自家製殺人ラケットを抱えたまま。
あれだと警察に持ち物検査をされても、武器だとは気づかれないだろう。見た目はただのテニスラケットだ。金属製のガットだが、手首を鍛えるために重くしてあるとでも、答えればいい。それに言い逃れはいくらでもできる。変な外国人が夜道で卑猥な言葉をかけてきたとでも言えばいいのだから。
警察は、カルト教団の外国人幹部と部活帰りの女子高生のどちらを信じるのか?
そりゃ、純情可憐な女子高生に決まっている。実に不利だ。人種差別はいけないと言っても通用しないだろう。
八丈島はそばに立ったままだ。
なんだか、おかしい。
なぜ八丈島さんはこの道を歩いていたのだろう。自宅とは逆の方向のはずだ。こんな狭くて人通りが少ない道を歩いて、どこへ行こうとしていたのか。
それに、さっき八丈島さんは救急車を呼んでくれたと言った。
ずいぶんと到着が遅いような気がする。
サイレンの音くらい聞こえても良さそうなものだが。
メイソンは網目の跡が付いている顔を触って、あまりの痛さに顔をしかめた。
クレイジーだ。
砂猫組の事務所に、神々教の外国人幹部が死亡したとの知らせが入った。
情報を持って来たのは、いつものように墓魏だ。
「昨日の夜の八時頃、道端で刺されて、死んでいたようです」
「昨日の夜の八時だと?」砂猫親分が三人の幹部組員に訊く。「その頃、わしらは何をやっておった?」
「はい」法華が答える。「我々四人揃って、夕方から近所の立ち飲み居酒屋で枝豆を肴に、ドンチャン騒ぎをしておりました。店を出たのは確か、夜中の一時頃です」
先日襲撃された振津はまだ入院中だ。
「そうだな。つまりわしらにはアリバイがあるということだ。誰に殺されたか知らないが、せっかく海の向こうからわざわざ日本にやって来てくれた外国人だというのに気の毒なことだ。カルト教団だから、恨んでる人も多いのだろう」自分たちを棚に上げる。「せいぜい成仏してほしいな。あちらの宗教でも成仏と言うのか? どうなんだ、モユユ」
「いや、どうなんでしょうか」茂湯は困った顔をする。「高卒インテリの振津に訊けば分かるのですが――まあ成仏と言うか、天に召されるという言い方をするんじゃないでしょうか」
「天使が降りて来て、天国に連れて行ってくれるんだな。さすがモユユ! DHAたっぷりの青魚が大好きなだけある――ところでボギー。他に何か情報があると言っておったな」
「砂猫公園に住み着いていたハトが一羽残らず、いなくなりました」
「なに! 公園を癒してくれていたハトがいなくなった!? その中に桃賀総長がかわいがっていたハトも含まれてるだろ」
「同じ時期に、神々公園の屋台村に新しくハト料理専門店がオープンしてました。偶然にしてはできすぎだと思うのですが」
「犯人は神々教じゃないか! うちの公園から盗み出したハトを料理して、振る舞ってるのだろう。タダで食材を手に入れやがって、宗教者の風上にも置けない連中だ。ここまで来ると外道だな」と外道が言う。「よしっ、ハトを補充しよう。イトーヨーカ堂へ行って、一番高いハトを買って来るんだ」
「イトーヨーカ堂にハトが売ってますか?」
「あそこの看板にハトの絵が描いてあるだろ」
「あれはハトを売ってるという意味ではなくて、ロゴマークです」
「だったら、ペットショップに行ってハトを仕入れて来い」
「どんなハトがいいですか?」墓魏が訊く。
「一番高級なハトにするんだ。ハトは平和のシンボルだろ。スイスのハトはどうだ。スイスは平和っぽいだろ。永世中立国だぞ。ハイジも住んでるだろ」
「分かりました。スイスのハトを手配して公園に放鳥します。それと親分、もう一つ報告があります。神々公園ですが、近々ディスコ大会が開催されるようです」
「デスコだと!?」親分の声が裏返る。
あえて、ディスコだと訂正しないところが墓魏のやさしさである。
茂湯と法華は苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「観光バスを手配して、北海道から沖縄まで全国津々浦々、ディスコ大会に参加する信者を集めるようです」
「デスコというのは、要するに踊りだな――よしっ、こちらも負けるな。砂猫公園に櫓を設置するんだ」
「櫓……ですか?」
「そうだ。向こうがデスコなら、こっちは盆踊りだ。日本人なら盆踊りだろ。櫓の周りをグルグル回って踊るんだ」
「親分」墓魏が訊く。「今は春ですけど、季節的にはどうなんでしょうか?」
「だったら、“春の盆踊り大会”と銘打って大々的に開催しようや――モユユよ、宣伝をしておいてくれ」
「へい」茂湯はパシリに使っている師家木の顔を思い浮べる。
また奴に拡声器を渡して、二日間程近所を練り歩かせるか。あれでキッチンカーの客がたくさん来たのだから、効果があるのだろう。二日間こき使って三万円だからコスパもいい。
「いいか。調達係のプリッツがいないから、みんなで協力してやるんだ――ところでプリッツはいつ退院してくるんだ?」
「あと二週間ほどかかるようです」法華が答える。
「医者を脅して、一週間に短縮してもらえ。プリッツのお母さんは日本舞踊の先生だろ。奴も踊りがうまいはずだ。先頭切って踊ってもらおうじゃないか」
何者かに襲われ、一時は意識不明に陥っていた振津を、無理矢理退院させて踊らせるなんてと法華は思ったが、親分の指示には従わなければならない。自分から言い出したとはいえ、盆踊り大会の開催が決まってテンションも上がっている。反対意見が言える雰囲気ではない。
「他にも盆踊りが踊れる人を呼ぼうや。公園の近所を回って、かき集めて来るんだ。町内には必ず踊りがうまいオバちゃんが一人はいるはずだ。何とか探し出せ」
「親分、春の盆踊り大会にはイチゴ幼稚園の園児も招待したらどうでしょうか?」
「おお、ホッケ。いいことを言う。さすが、おふくろさんが保育士さんだけのことはあるな。ぜひそうしようや!」
親分のチンパンジー顔がほころんだ。
「この街一番のエリート幼稚園の園児たちの明るい笑顔で、全国からやってくる陰気な顔の信者どもをぶっ飛ばそうや。盆踊りを盛り上げて、近所の人に喜んでもらう。それと、喰われたハトの成仏も願う。一石二鳥じゃないか。ハトだけにな」
♪♪♪♪♪
砂猫親分と三人の幹部が事務所の中で歌って、踊り出す。
全員指に派手な高級指輪をしている。いざというときは換金ができる。
いつものように七十歳の親分に合わせた、体にあまり負担がかからないダンスだが、入院中の振津の分も踊ろうと、四人は張り切っている。
♪神々教がデスコを仕掛けてきた~
負けるな、こっちは盆踊り~
でっかい櫓を立てるんだ~
日本古来の芸術さ~
誰もが知ってる盆踊り~
テンション上がる盆踊り~
夏の風物詩の盆踊り~
ハトの霊もパタパタ飛んで行く~
キラキラ、キラキラ(指輪が差し込む西日に反射する)
春に踊る盆踊り~
ご先祖様もビックリよ~
チビッ子たちも寄っといで~
ブレイクダンスよりも楽しいよ~
踊れなくても大丈夫~
オバちゃんたちが教えてくれるよ~
すぐに覚えて、キミもスターだ~
学校に行ったらモテモテだ~
は~、よいよい~
キラキラ、キラキラ(指輪が差し込む西日に反射する)
♪♪♪♪♪
砂猫親分は踊り疲れて、息も絶え絶えになっている。法華がすかさず、口に酸素マスクをあてがう。親分は息を切らしたまま、幹部たちに気合を入れる。
「ハアハアハア。盆踊り用に、振津の分も含めて五人分の浴衣を新調しようや」
「それは素晴らしいですね」三人の幹部が喜ぶ。
「ハアハアハア。いいか、最高級の生地を使った最高級の浴衣を特注するんだぞ。人間国宝の着物職人に依頼するんだ。わしは今から昼寝をするから、後は頼んだぞ。ハアハア」
三人の子分は夕方から昼寝をする親分の背中を黙って見つめた。
年老いた親分の睡眠時間は年老いた猫の睡眠時間と同じくらい長かった。
「シケモクよ、ようがんばって宣伝してくれたな」
砂猫親分は砂猫公園の過去最高の賑わいに満面の笑みを浮かべている。
親分と三人の子分と師家木は並んで、公園のど真ん中に設営された、高さ六メートルの巨大な櫓を見上げている。全員が浴衣姿だ。
「へい。砂猫親分のために命がけで宣伝しました!」師家木が直立不動で答える。
茂湯に頼まれた仕事だったが、ここは親分に媚びを売っておく。
拡声器を持って、近所を練り歩き、盆踊りの宣伝を二日間やって三万円。
今回もまたいい仕事だった。
そして、師家木もちゃっかり浴衣を着ている。盆踊りに着る浴衣を新調すると茂湯から聞いて、すぐ親分に取り入り、作ってもらったものだ。着てみるとなんとも似合わないが、人間国宝が最高級の生地で作った浴衣だと聞いたため、盆踊りが終わったら、密かにネットオークションで売ってやろうと企んでいるのだが、そんなことはおくびにも出さない。
「砂猫親分! あっしは声がガラガラになるまで叫び続けて、ご覧の通り、たくさんの人を公園に呼び込みましたよ」
元々酒焼けした声で何も変わってないのに、師家木は堂々とデカい声で自慢をする。
「それはご苦労だったな、シケモク。よくやってくれた」
人のいい親分は、組員でもない師家木を褒めてあげる。
親分に褒められた師家木は満更でもないという顔をする。
普段はなかなか人に褒められることがないため、うれしそうだ。
公園内に人相の悪い男たちが立っていても、気にする人はいない。なんといっても、町内で開催される盆踊り大会は実に十年ぶりで、老若男女たくさんの人が詰めかけていて、ワクワクしながら始まりを待っているからだ。浴衣を着ている人もたくさんいる。
イチゴ幼稚園の園児たちも浴衣を着て、勢ぞろいし、今か今かと始まりを待っている。子供たちにとっては、生まれて初めての盆踊りだ。
盆踊りが中止に追い込まれたのは、場所の問題もあったし、予算の都合もあった。今回は砂猫組が場所を提供して、お金も出しているのだが、みんなはそこまで詳しく知らない。
そればかりか、またもや管理人の桃賀のお陰だと思い込んで、管理人室には感謝のお礼に訪れる人で溢れ返っている。
「モモンガさん、盆踊りをありがとー」「モモンガさん、大きな櫓をありがとうございます」「モモンガさん、うちのおばあちゃんも喜んでます」「モモンガさん、そろそろ始まりますよ。一緒に踊りませんか?」
桃賀も、この盆踊りは神々教のディスコ大会に対抗して、暴力団砂猫組が開催したものだとは言えず、成り行きに任せていたら、いつの間にか、ご近所のヒーローにされていた。
「わしはもう年だから踊れんよ。勘弁してくれ」桃賀は逃げ回っている。
最初から踊るつもりなどないため、浴衣ではなく、いつもの灰色の作業着と灰色の帽子をかぶっているため、会場内ではすっかり浮いてしまっている。
お祭りには露店が付き物である。うまい具合に園内にはキッチンカーが三十台も並んでいる。すべてに声をかけて、今日だけの特別メニューに変えてもらっていた。
つまり、露店で売っているリンゴ飴、焼きトウモロコシ、お好み焼き、たこ焼き、綿菓子、ベビーカステラなどを提供してもらっているのだ。
盆踊りが始まる前に腹ごしらえをしておこうと、すでにキッチンカーには人だかりができてる。食べ物以外にも、お面やヨーヨーや風車などを売っている店もある。
砂猫親分は櫓を見上げて指示を出していた。
櫓といってもレンタルだ。噴水やドッグランと違って、公園に常設するわけではない。年に一度のものだ。だからレンタルで十分である。
しかし、当然ながら、見栄っ張りの親分の意向で最高級の櫓をレンタルした。
業者が持っている櫓で一番大きなものを借りたのだ。作業員が十人がかりで、一時間もかけて組み立ててくれた。櫓の周りには紅白幕が張られ、櫓から伸びるロープには色とりどりの提灯がぶら下がっている。提灯は陽が暮れると電気が点くことになっていた。
同じ時刻には噴水もライトアップされる。公園がいっそう華やぐことだろう。
三段の櫓のうち、二段目には二つの和太鼓、三段目には一つの和太鼓、合計三つの和太鼓が置かれていた。太鼓を叩くのは砂猫組の三人の組員だ。百人ほどいる組員の中で、子供が見ても泣かない顔ベスト3を選び出し、和太鼓の特訓を重ねてきたのだ。それでも人相は若干恐ろしいが、おめでたい席なので来園者には許してもらおうという魂胆だった。
そこへ若い男がやって来て、墓魏に耳打ちをした。
「親分」墓魏はさらに砂猫親分へ耳打ちをする。「神々公園へ偵察に行っていた子分が只今戻って来ました」
「おう、向こうのデスコ大会はどうだった?」
「まずまず人は集まっているようです」
「観光バスを使って、全国から信者を集めたらしいからな」
「しかし、柄の悪いヤンキーのような奴らがいっぱい来ていたそうです。おそらくディスコ大会ということで、ナンパでもしようと近所の不良が集まったのでしょう」
「そうか。柄が悪いのか」
親分は辺りを見渡す。
浴衣姿の上品そうなご婦人たちがたくさん来ている。
「やっぱり人間は品がないとダメだな。柄が悪いなんてとんでもない人間だな。何を喰ったら柄が悪くなるんだ。親の顔が見てみたいものだ」
自分たちを棚に上げて、批判する。
「子分によりますと、救急車が一台やって来て、ケガ人を運んで行ったそうです」
「さっそく柄の悪いヤンキー同士がケンカでも始めたのだろう。物騒な世の中になったものだな――ボギーよ、やはり平和が一番だな」
親分はそう言って、小指のない右手でうちわを持って、パタパタと仰ぐ。
やがて、スピーカーから歌が流れ出した。それに合わせて、三つの太鼓が叩かれる。
砂猫組が主催する春の盆踊り大会の開演である。
櫓の周りを、踊りに長けたご婦人方を先頭にした集団がグルグル回り出す。イチゴ幼稚園の園児たちも見よう見まねで、踊りながら付いて行く。
「ボギーよ。いよいよ始まったな」
「そうですね。無事に開催できてよかったです」
「この分だと、うちの勝ちだろ」
「へい。ヤンキーだらけで、救急車も出動した下品なディスコ大会に負けるわけありません」
いつの間にか、師家木が踊りの輪の中に入って踊っている。
「モユユよ。お前のパシリのシケモクの踊りは何だ。へっぴり腰じゃないか」
「へい、すんません。ちょっくら行って、蹴飛ばしてきます」茂湯は走り出す。「こらっ、 シケモク! もっと気合を入れて踊らんかい!」
組員三人が叩く和太鼓は初心者にしては様になっていて、スマホを向けて写真を撮る人まで現れている。仲間の組員である墓魏も法華もうれしそうだ。
「砂猫親分さん!」
親分が後ろから名前を呼ばれた。
そこには浴衣を着た年配の女性が立っていた。
「おお、これはプリッツのおふくろさんじゃないですか!」
「息子がいつもお世話になっております」深々と頭を下げる。
日本舞踊の師範代として、先ほどまで集団の先頭で踊ってくれていたのだ。
「盆踊りを盛り上げてくださって、ありがとうございます」親分も頭を下げる。「おふくろさんが抜けて、踊りの輪は大丈夫ですか?」
「はい。あの通りです」踊りの先頭では母に代わって、振津が踊っている。「なかなかの孝行息子でして」
踊りの輪は乱れることなく回っている。
「ほう、うまいものですね」法華が感心する。「ケガから復帰したばかりとは思えませんな」
「子供の頃から私の踊りを見て育ちましたからね」
振津が何者かに襲撃されて入院している間、この母親が付きっきりで世話をしていたという。母の代わりに踊ることは振津にとっての親孝行になる。
「それが、どこでどうなったのか、舞踊の道には行かなくて、任侠の道へと進んでしまいまして」
「おふくろさん。プリッツはよくやってくれてますよ」
「そうですか。安心いたしました――どうか親分さん、息子を一人前の極道者に育ててやってくださいまし」また頭を下げてくる。
「わしが預かったからには、しっかり面倒をみますから、ご安心ください」
「ありがとうござます」母親はホッとしたようで、扇子を取り出して、ゆっくり扇ぎだした。
黒くて大きな扇子である。
「なかなか立派な扇子ですな」親分が感心する。
「これは鉄扇ですのよ。新撰組の芹沢鴨がこれを振り回して、暴れていたそうです」
「ほう、鉄扇ですか」法華が感心する。「確か、親骨が鉄でできていると聞きましたが」
「さようでございます」母親は黒い扇子を広げて、親分と法華に見せてくれる。「物騒な世の中でございましょう。護身用にと思いまして、いつも携帯しておりますのよ――そう言えば、ここに来る前、神々教の公園のディスコ大会を見て参りましたのよ」
「おお、そうですか!」親分は驚く。「おふくろさんが偵察に行ってくださっていたとは。それはありがとうございます」
「向こうは砂猫組の天敵でございましょう。ですから、スパイに行って参りましたのよ。ディスコのお立ち台と言うのですか、あの上で派手に踊っている若者がいて、会場を盛り上げておりましたから、後ろからそっと近づいて、この鉄扇でブン殴ってやりました」
「ええっー!?」親分と法華は同時に驚く。
「そいつはどうなりましたか?」親分が恐る恐る尋ねる。
「さあ、どうでしょうか。顔を見られないようにさっさとその場を離れたのですが、こちらに来る途中で救急車とすれ違いましたから、きっと運ばれて行ったのでしょうね。鉄扇で思い切り殴りましたから、頭蓋骨にヒビでも入ったかもしれませんね。オホホホ」
親分は集団の先頭で踊っている振津を見て、この親にしてあの子ありだと思った。
この鉄扇で殴られたら痛いだろうなあ。
しかし、神々公園のディスコ大会はその事件をきっかけにして、しだいに盛り上がりが薄れ、予定の時間より早く閉幕となり、溢れた人々は砂猫公園へ向かい、盆踊り大会は一層の賑わいを見せることとなった。
おふくろさんの鉄扇の一撃のお陰である。
和太鼓を担当している三人の組員は一層気合を入れて叩き、振津は母親と仲良く集団の先頭で盆踊りの音頭を取っている。
ライトアップされた噴水は、いつもより高く水を吹き上げ、色とりどりの光を放つ提灯と相まって、公園内を幻想的なものに変えている。キッチンカーの行列は絶えず、ドッグランは夜遅くになっても犬が走り回り、五十基のベンチでは人々が語り合っていた。
暴力団主催の盆踊り大会は大盛況だった。
御簾の向こうに神々教の教祖が胡坐をかいて座っていた。
教祖の左右でロウソクが灯っている。ロウソクの光に照らされているとはいえ、御簾の中は薄暗く、かろうじて、座っているということが分かる程度だ。
正面に座っている穴田からもその姿ははっきりと見えない。いや、未だかつて、最高幹部の穴田でさえ、その姿をはっきりと見た者はいない。声からして高齢者だと分かる。穴田は教祖が七十代の半ばくらいだと思っている。
教祖の右後ろには陽の観音像が置かれ、輝きを発している。教会本部の各階に設置されているレプリカとは違う、本物の観音像である。奇妙なことに、その観音像だけははっきりと見て取れた。
教団本部の最上階の五階が教祖専用の住居兼修行スペースになっている。誰かが身の回りの世話をしているのだろうが、信者の間でも最上階の詳細はまったく分かっていない。
神々教は外国人幹部のメイソンの死が砂猫組の仕業だと思い込んだ。さらに、遊具の設置から始まった数々の公園戦争に負け続け、そして今回、ディスコ大会対盆踊り大会の戦いには、全国から多数の信者を呼び寄せたにもかかわらず、完全に敗れ去った。
砂猫組との公園戦争での連戦連敗を受け、教祖の怒りはより激しいものとなっている。
教祖が口を開くたびに、左右のロウソクが揺れる。
穴田にはそれがどういう仕組みになっているのか分からない。気を受けて揺れているのか、念力で動いているのか、それとも機械仕掛けなのか。
もしや催眠術のような効果があるのかもしれない。
いずれにせよ、教祖のカリスマ性を浸透させるためのパフォーマンスだろう。
ロウソクの揺れに気を取られることなく、教祖の話に集中する。
そして、教祖との謁見は約十五分で終わった。
穴田は教祖から叱責を受け、何としても挽回するようにと指示を受けた。
教祖は心臓のペースメーカーの電池交換をするため、近いうちに十日間だけ入院をする。
穴田はその間に砂猫組との完全決着を付けよと厳命された。
残された時間は少ない。
♪♪♪♪♪
穴田が一人道場で歌って、踊り出す。
手に火の付いたロウソクを持っている。
落として火災を起こさないように気を付ける。
♪神々教の天敵は砂猫組さ~
ふざけた名前の暴力団さ~
名前はかわいいけど、やることエグい~
名前はかわいいけど、組員はブサイク~
あんな奴らは街から一掃してやる~
ダニのいない街にしてやる~
平和を街に取り戻す~
それが我々の使命なのさ~
ユラユラ、ユラユラ(ロウソクが揺れる)
♪叩きのめせと教祖様に言われた~
言われたからにはやるしかない~
教団の力を見せて、コテンパンにやっつけてやる~
我々には教祖様がついている~
この街に二大勢力はいらない~
どちらかが潰れるべきだ~
それは砂猫組に決まってる~
これから生き残りを賭けた戦いが始まる~
ユラユラ、ユラユラ(ロウソクが揺れる)
♪♪♪♪♪
世間ではしばらくの間、平和が続いていた。平和は緩みと油断を生む。
あの日の午後、墓魏は一人で歩いていた。親分からは一人で出歩かないようにと、全組員へ向けてファックスが流されていた。しかし、神々教は黙ったままで、何も仕掛けて来ないし、何も変わったことは起きない。ぞろぞろと複数人で歩いていると、逆に意気地なしのように思われるのではないか。こちらが一人で歩いていても、奴らは何もできないだろう。
こっちは砂猫組四天王の墓魏様だ。同じ四天王でも襲撃された振津とは違う。あいつは周りに気を付けることなく、一人でブラブラと歩いていた。しかも、小柄だから絶好のターゲットにされたのだろう。
あいつに比べたら、俺は大柄だし、顔面は四天王で一番おっかない。閻魔様でも逃げ出す顔だと小学生の頃から言われていた。俺を生んだ母親に。
真っ昼間から、この俺を襲おうという物好きはおらんだろう。だからボディガードなんか必要ない。何が来ようと叩きのめしてやる。まあ、死なない程度に手加減してやるがな。
こんなヤクザ特有の見栄っ張りの性格が油断を生んだ。
墓魏は歩きながら一人の老人を追い越した。ゆっくりとシルバーカーを押している小柄な男性だ。グレーのニット帽をかぶり、茶色い眼鏡をかけている。買い物帰りか、散歩の途中だろう。
前から黄色いカートを押す、若い女性が歩いて来た。こちらはおそらく幼稚園か保育園の先生だろう。五、六人の子供を乗せることができるお散歩カートを押しているからだ。
「あっ、墓魏さんですよね」女性が声をかけてきた。ジャージ姿で髪はポニーテールにしていて、背中にはデイパックを背負っている。
俺の名前を知ってるということはイチゴ幼稚園の先生だろう。砂猫公園がイチゴ幼稚園のお散歩コースに採用してくれるよう交渉に行ったことがある。晴れてお散歩コースに認定されたのだが、あのときに出会った数人の先生の中の一人なのだろう。顔に見覚えはないが、普段から幼稚園の先生と知り合う機会などないから、そうに違いない。
「イチゴ幼稚園の方ですか?」一応、立ち止まって訊いてみる。
「はい、そうです。いつもお世話になってます」お辞儀をしてくる。
「園児たちを連れて散歩ですか?」
「はい。今日は天気がいいものですから……」お散歩カートを押しながら近づいて来る。
墓魏は三メートルほど前に来たお散歩カートの中を覗き込んだ。
園児は一人も乗ってなかった。
突然、お散歩カートの前面がバタンと倒れた。
何が起きた?
墓魏が目を凝らしてみると、銃口が見えた。
ウソだろ!
墓魏はとっさに地面へ伏せた。今までヤクザ同士の抗争に絡んで、二度銃口を向けられた経験があるため、体が自然に動いたのだ。経験のない一般人なら無理な動きだ。体が硬直して動けないはずだ。
お散歩カートから乾いた音とともに一発の弾丸が発射され、伏せている墓魏の頭上を通過して行き、ブロック塀にめり込んで止まった。細かな破片が飛び散る。
女はチッと舌打ちをすると、お散歩カートの前面を墓魏に向け直した。銃口からは薄っすらと白い煙が昇っている。
墓魏は目だけを左右に動かして、反撃するためのスペースを探した。
二発目が飛んでくる前に立ち上がり、転がってから、再び身を起こして体勢を整え、女に飛びかかる。
――頭の中で咄嗟にそう計算した。
だが、足がもつれてうまく立ち上がれなかった。
若い頃と違って、思うように体が動かないことを忘れていた。
お散歩カートの銃口が再びこちらを向いた。
つまり、すぐに連射できるということだ。
――マズい!
墓魏は体を起こせない。
せめて頭部だけでも守ろうと、うずくまったまま両手で頭を抱え込んだ。
若い女の前で丸まっているなんて、きっと俺は無様な格好なんだろうな。
こんなときでも体裁を気にする墓魏は根っからのヤクザ者だった。
すぐに、手に痛みが走るはずだ。もしかしたら片手くらいはすっ飛ばされるかもしれない。
せめて利き腕じゃない左手にしてくれんかな。
墓魏は覚悟を決めて目をつぶった。
その瞬間、墓魏の後ろから轟音が聞こえ、すぐ目の前の辺りでも凄まじい音が聞こえた。
目を開けてみるとお散歩カートが横転し、押していた女が血走った目で墓魏の後ろを睨みつけていた。
後ろに何がいるんだ?
墓魏が首だけを後ろに向けてみると、先ほど追い抜いた小柄な老人が立っていた。
シルバーカーの前面が開き、こちらも銃口が見えている。お散歩カートよりも大きな口径だ。
どうやらシルバーカーから発射された弾丸が女とお散歩カートをすっ飛ばしたらしい。
カートから発射された弾丸はあらぬ方向に飛んで行ったようだ。
老人が口を開いた。老人特有のしゃがれた声だ。
「そこの若いの」墓魏を見る。老人からすると若者らしい。「その女は幼稚園の先生なんかじゃない。かわいい顔をしておるが殺し屋だ」
墓魏はゆっくり立ち上がる。「あんたは?」
「シルバー人材センターから派遣されてきた同業者じゃ。ここはわしに任せなさい」
若い女と年老いた男がともに殺し屋だって!?
訳の分からない墓魏はのそのそと安全な場所まで避難する。
もはや体裁なんてどうでもいい。
命あっての物種だ。死んで花実が咲くものか。命は地球より重いんだ。
女はすかさずお散歩カートを起こして、老人のシルバーカーの正面に立った。
お互いの銃口が向かい合った。
墓魏は電信柱の陰から成り行きを見守っている。ここで警察に通報すると、すぐにパトカーのサイレンの音が聞こえ、二人ともいなくなるだろう。だが勝負の行方が気になる墓魏は静かに戦況を見つめる。
「おじいちゃん、よくも私を邪魔してくれましたね」若い女の眼光は鋭い。
「おねえちゃん、こちらも仕事なものでね。悪く思わないでくれ」じいさんは睨み返す。
お互いの銃口が火を噴いた。
墓魏は一瞬目を疑った。
これじゃ相撃ちじゃないか。
こいつらは相撃ち覚悟で相手を攻撃するのか?
プロの殺し屋というのはここまでやるのか?
お散歩カートから発射された弾丸はシルバーカーの前面の一部を吹き飛ばし、老人は地面に転がった。
シルバーカーから発射された弾丸はお散歩カートを粉砕し、女は倒れた。
やっぱり相撃ちじゃないか。
墓魏は恐る恐る電信柱の陰から顔を出した。へっぴり腰になっているが構わない。人通りの少ないこの道では誰も見ていないし、体裁なんか気にしている場合じゃない。
老人と女は倒れたまま、同時に顔を上げて、相手を確認している。お互いの武器は使い物にならなくなったようだが、二人とも生きていた。
女はどこかを負傷しているようで起き上がれない。
ここからは老人の動きの方が早かった。
倒れているシルバーカーのポケットから黒い何かを取り出した。
――手榴弾だ!
「やめろ!」墓魏がとっさに叫んだ。
老人はすばやくピンを抜くと、女に向けて投げつけた。
老人とは思えない速さだった。
轟音とともに白煙が立ち上がった。
煙が晴れ、あたりが澄み切ったとき、そこにはお散歩カートの残骸と女の肉片が散乱していた。
「じいさん、何をやってるんだ!」墓魏が怒鳴る。「若い女を手榴弾でぶっ飛ばすなんて、ヤクザでもやらないぞ!」電信柱の陰から出てくる。
「あんたを守るという仕事は果たしたぞ。今後は一人歩きをしないことだな」
老人は平然と言い、壊れたシルバーカーをガタガタ押しながらこの場を離れて行く。
「何だって! 待ってくれ、じいさん。この仕事を誰に頼まれた?」
「あんた、いい親分さんを持ったな」老人は振り返る。
「親分が!?」
「ああ。砂猫組の幹部クラスには全員わしらのような護衛が付いているはずじゃ」
小さな老人は静かに去って行った。
遠くからサイレンの音が聞こえてきた。弾丸の発射音と手榴弾の爆発音を聞いて、誰かが通報したのだろう。
上空にカラスが集まり出した。
墓魏はカートの破片と女の肉片が散乱する道路を前に呆然と立ち尽くす。
血のニオイが漂ってくる。カラスはこの光景を目で見て飛んで来たのか、ニオイを鼻で感じて飛んで来たのか分からないが、ご馳走にありつけると飛んで来たことは確かだ。
長年ヤクザ稼業を務めてきたが、こんな悲惨な現場を見たことはない。
さっきまで話していた女はもうこの世にいない。
これじゃ戦場じゃないかよ。
墓魏が空を見上げる。
忌々しいカラスめ。
パトカー、早く来いよ。カラスに肉片を喰われるじゃないか。
カラスは十羽くらいに増えている。
さっき通報しておいた方がよかったかなあと、墓魏は少し後悔する。
通報しておけば、あの女は死ななかったかもしれない。
そして、あの老人に怒りが向く。
あのジジイは容赦なく、若い女を殺しやがった。
だが、あの老人がいなければ、俺は殺されていたかもしれない。ヤクザ者が若い女に殺されるなんて無様だ。そう考えると複雑な心境だ。
シルバーカーを押す老人の背中はすでに小さくなっている。
何がシルバー人材センターだよ。
上空のカラスが騒がしくなった。
また増えたのかと思い、墓魏が見上げてみると、十数羽のカラスが逃げ惑っている。
今度は何が起きてるんだ?
思いもよらない事が立て続けに起きて、さすがの墓魏も頭が回らない。
すると、カラスの大群の中に奇妙な鳥を見つけた。白と黒が混ざったその鳥は大きかった。おそらく翼を広げた大きさは二メートルを越えている。
あんなデカい鳥が日本に生息してるのか?
誰かが内緒で飼育してるのか?
動物園から逃げ出したのか?
その鳥の名はオウギワシと言ったが、墓魏は知らないようだ。中央アメリカや南アメリカに分布する鳥で日本では見られない。サルやナマケモノを主食とする猛禽類最大の鳥だ。
カラスはあの鳥から逃げていたのか。
墓魏が巨大な鳥を目で追っていると、突然急降下を始めた。
その先ではあの老人がシルバーカーを押して歩いていた。
オウギワシはクマの爪よりも長い鉤爪で老人の両肩を掴むと宙に持ち上げた。小柄な老人は軽々と上がった。ナマケモノが持ち上がるのだから、老人も持ち上がる。
おそらく何が起きたのか分からなかったのだろう。十メートルほど上空で老人は首を曲げてこちらを見た。
墓魏と目が合った。
だが、その目にはもはや光はなかった。すでに死を覚悟していたのかもしれない。
オウギワシは空中で老人を離した。
なすすべのない老人はそのまま墜落し、道路にグシャリと叩きつけられた。
そして、おそらく死んだ。
道路には壊れたシルバーカーが残されていた。
墓魏は辺りを見渡した。
どこかにあの鳥を操っている殺し屋がいるはずだ。鳥がせっかく捕獲した獲物を途中で手放すはずはない。手放すように訓練されているはずだ。
しかし、人影は見えない。
墓魏は思った。
お散歩カートを使った女が俺を殺そうとした。その女をシルバーカーの老人が殺した。その老人を鳥が殺した。
ということは……。
あの鳥は俺からすると敵じゃないか。
墓魏は駆け出した。
ヤクザとして、若い女に殺されるのはカッコ悪いが、鳥に殺されるのはもっとカッコ悪い。
殺されるのなら、せめて人間に殺されたい。しかも俺は高い所が苦手だ。
上空を仰ぎながら、墓魏は走る。先ほどと違ってうまく走れる。頭も回るようになった。
どこに行ったのか、空にあの巨大鳥の姿はない。カラスも全員避難したようだ。
やがて、サイレンの音が近づいて来た。
「親分、非常に大変です!」墓魏がいつものように事務所に駆け込んで来た。
「おお、久しぶりに聞くボギーの大変だな」親分はヨダレを拭ったティッシュを英国製ゴミ箱に投げるが入らず、法華が拾いに行く。「今日はどうした?」
「俺がお散歩カートに襲われて、シルバーカーのじいさんが鳥に連れ去られました!」
「お前は何を言っとるんだ? 話をまとめろ」親分は呆れた顔を向ける。
「つまり、俺がお散歩カートを押している女……」
「まあ待て。お散歩カートとは何だ?」
「たくさんの園児を乗せることができる業務用の乳母車みたいなものです」
「ああ、よく街で見かけるな。園児が散歩しとるわ」
「そのカートを武器にしている女の殺し屋に狙われたのですが、シルバーカーを武器とするじいさんの殺し屋に助けられたと思ったら、デカい鳥を武器にする殺し屋にじいさんが殺されたというわけです」
「つまり、お前は三人の殺し屋を相手にしてきたということか?」
「ええまあ、そんなところです」親分は勘違いしているようだがスルーする。
「すごいじゃないか、ボギー! お前は死んでないのだな?」
「へい。この通り、実体はあります」足元には影が伸びている。
「プリッツが襲われたから、モユユに頼んで、幹部のみんなには殺し屋をボディガードとして付けてもらっていたのだよ。どうやらうまくいったようだな」親分はしてやったりの表情だ。
「親分、ありがとうございます!」砂猫組四天王はお礼を言う。
「しかし、鳥を操る殺し屋は最後まで姿を見せませんでした」墓魏が困惑気味に言う。「ビルの屋上かどこかで見ていたのでしょうけど」
「墓魏を助けたじいさんを襲ったということは」茂湯が言う。「鳥使いは神々教の奴らが雇ったのだろう」
「人間よりも大きくて、恐ろしい鳥でした」
「そりゃ、怖いな」親分がチンパンジー顔を歪める。「いいか、みんな。これからも単独行動は慎め。それと各自、デカい鳥にさらわれないように、歩くときは頭上に気を付けるんだ」
「へい!」「へい!」「へい!」「へい!」
「お散歩カートを押していたのは、見るからに幼稚園の先生みたいな女でした。まさかあれが殺し屋だったとは思いませんでした」
「どう見ても殺し屋に見えない奴が返って怪しいんだ」法華が説明する。「怪しまれないから、ターゲットには簡単に近づける。いかにも殺し屋という奴は最初から警戒されるからな。だから、かわいいネエチャンとか、ヨボヨボのバアサンなんかには要注意だ。人を見かけで判断したらひどい目に遭う。みんな気を付けようや」
「それと親分、いいニュースもあります」墓魏が嬉しそうに言う。
「おっ、どうした?」
「地域のお母さん方に、お子さんが公園デビューをするとしたら、砂猫公園と神々公園のどちらがいいかというアンケートを、回覧板を使って行いました結果……」
「――結果?」
「六人対一人で、砂猫公園の圧勝でした!」
「おお!」
親分とみんなから歓声が上がった。
「一人というのは神々教の信者だろ」
親分はうれしそうに言い切った。
♪♪♪♪♪
親分と四天王が事務所で歌って、踊り出す。
振津が退院してきたので全員が揃っている。
快気祝いの意味も含まれている。
手にはいつもの提灯を持っている。
♪振津と墓魏が襲われた~
砂猫組に盾突く不届き者め~
全員蹴散らし、成敗してやる~
俺たちの恐ろしさを見せてやる~
鬼がかわいく見える俺たちさ~
ビュンビュン、ビュンビュン(提灯を振る音)
♪デカい鳥なんかへっちゃらさ~
焼き鳥にして喰ってやる~
何人前できるか分からんが~
ビールのつまみにしてやるぜ~
羽根は毟って羽毛布団にしてやるぜ~
ビュンビュン、ビュンビュン(提灯を振る音)
♪小さい子供にも大人気の砂猫公園~
若いカップルにも大人気の砂猫公園~
熟年夫婦にも大人気の砂猫公園~
ワンちゃんにも大人気の砂猫公園~
神々教は来るんじゃないぞ砂猫公園~
来るなと言っても来るだろう砂猫公園~
ビュンビュン、ビュンビュン(提灯を振る音)
♪♪♪♪♪
神々教団の女性幹部の百合垣は幹部室にいた。耳が見えるくらいのショートヘアで、眼光はいつも冷たく、鋭い。今日も幹部服である濃い紅色の作務衣を着ている。
幹部室には何者かに刺殺された外国人幹部のメイソンの遺影が置かれていた。
机に座って向き合っているのは幹部の穴田で、こちらも相変わらず能面のような冷たい顔をしている。その隣には広報の何和が座っているが、こちらも今日は珍しく神妙な顔つきをしている。
教祖と謁見した穴田が、早急に砂猫組と完全決着を付けるように、強い口調で言われたからだ。
期限は十日間。教祖が心臓のペースメーカーの電池交換をするため、十日間だけ入院する。その間に結果を出さなくてはならない。
もう一人の幹部である八丈島の姿はない。いつものように修行の一貫として、教団内を清掃して歩いている。最古幹部の八丈島だけは教祖の部屋の掃除が許されていた。そして、八丈島も教祖の部屋の掃除に訪れたとき、砂猫組を叩きつぶすように申し渡されていた。
三人の幹部は善後策を講じるため、先ほど幹部室に集まった。
このまま砂猫組にやられっぱなしというわけにはいかない。何といっても相手は、公安委員会から指定もされていない小さな暴力団だからだ。正式な認可を受けている巨大宗教法人が、無指定の弱小チンピラ集団に負けるわけにはいかない。
お互いの公園を比較してみると、遊具は砂猫公園の方が数も多く、豪華で、こちらの人工芝に対して、向こうは天然芝を敷き詰め、水飲み場に対抗して、向こうは巨大な噴水を造り上げた。今や閑古鳥が鳴いている屋台村だが、向こうの三十台のキッチンカーは大賑わいで、五十基ものベンチはいつも混んでいて、小型犬しか使えないこちらの小さなドッグランと違って、広大なドッグランはいろいろな種類の犬が走り回っているという。また向こうはうちの陰気な公園と違って、夜遅くまでクリスマスのイルミネーションみたいに輝いているし、LEDで赤く光るゴミ箱もある。
オープン当初はイチゴ幼稚園のお散歩コースに採用されるという快挙を成し遂げたし、散歩をしている写真が月刊すてきな幼稚園の表紙に掲載された。
こちらの方が関わる人数が多く、資金もあるというのに、この様である。
そして、今回のディスコ大会での惨敗だ。
神々公園でのディスコ大会は観光バスをチャーターして全国から信者を集めたにもかかわらず、先頭を切って踊っていた若い信者が、後ろから何者かに凶器で殴打されて昏倒するという事件が起きたため、急遽中止となった。その結果、集まっていた一般の人たちが盆踊りをしていた砂猫公園に向かい、向こうは大いに盛り上がったという。
教祖の機嫌が悪くなるのも無理はない。
そもそも公園を建設した土地は信者からの寄付によるものであった。先祖代々受け継いできた土地を教団のために活用してくださいと、古参信者から申し出て来たものである。決して教団側から催促したものではない。その信者が不治の病に罹り、今わの際に言い残したのである。
しかし、寄贈された土地は活用されることなく、長年放置されてきた。活用方法が見当たらなかったからである。教団本部を拡張する話も出たが、宗教団体に対する世間の目は近頃厳しくなっている。正当に寄付がなされた土地であっても、無理に奪い取ったと思われてしまう。
そんなとき、敵対する砂猫組が公園を建設して賑わっているという情報が入って来た。
やっと土地の活用方法が見つかった。
こちらも公園を作り、地元の皆様に喜んでもらおうと考えた。
教団のイメージアップになるし、うまくいけば信者数の拡大にもつながる。
土地を寄付してくれた信者もあの世で喜んでくれることだろう。
教祖にはそういう思惑があった。
しかし、公園戦争に次々と破れていることで、その思惑はしだいに薄れていった。
信者としては、そんな教祖の気持ちを充分に汲み取り、行動していかなければならない。
「偶然も三回繰り返されれば、必然になります」百合垣の目が光った。
「分かった。少しずつ切り崩して行こう」穴田も無表情で答える。
何和はいつものことだが、無駄に多く話し始める。
「うちがあんなヤクザもんに負けるわけありませんよ。金に糸目を付けずにやってやりましょうよ。今うちの教団は大ピンチなんですよ。こんなときのために莫大な寄付金を募っているのですよ。協力してくれる信者はたくさんいますし、何といってもうちには神仏が付いてます。毎日たくさんのお供え物を貢いでます。最高級のメロンまで捧げてます。お線香は百本くらい立ててます。ご加護はバッチリですよ。我々が見放されるはずはありません。アーメン&ナンマイダ~ですよ」
♪♪♪♪♪
穴田と百合垣の熟年コンビと中年の何和が歌って、踊り出す。
穴田は手に緑色が映える榊を持ち、百合垣は手に十字架を持ち、何和は木魚を持っている。
神々教はその名の通り、いろいろな神々を祭っている多神教である。
鳴り物がバラバラでも問題はない。
天罰もバチも当たらないだろう。
♪教祖様は怒り心頭~
だけど残された時間はあとわずか~
十日間しかないんだぞ~
憎き砂猫組め、撲滅してやる~
シャカシャカ、シャカシャカ(榊を振る音)
♪蟻の穴から堤も崩れる~
小さなことからコツコツと~
デカい激流になって押し流す~
いつか猫も尻尾をまいて逃げ出すよ~
カキンカキン、カキンカキン(十字架がぶつかる音)
♪この街に公園は二つもいらないよ~
一つだけで十分さ~
いらないのはもちろん砂猫公園~
神々公園は子々孫々まで永久不滅だよ~
ポクポク、ポクポク(木魚を叩く音)
アーメン&ナンマイダ~
アーメン&ナンマイダ~
アーメン&ナンマイダ~
♪♪♪♪♪
俺が椅子に座り、コーヒーを注文したとき、ウェイトレスのねえちゃんはこう言った。
「もしかして、盆踊りで太鼓を叩いていた方じゃないですか?」
「ああ。そうだ」
ものすごくかわいい子だったが、俺はあえてぶっきらぼうに答えた。ヘラヘラしていては舐められる。これがヤクザの矜持というものだ。和太鼓の演者として、子供が見ても泣かない顔ベスト3に選ばれたというプライドもある。チャンスとばかりにここでナンパなんか始めると、墓魏のアニキに怒られる。
「すごくカッコよかったですよ。私、見惚れちゃいました」
見惚れちゃいましたなんて言われると……。
いや、俺はヤクザ歴六ヶ月で、まだ修行中の身だ。こんな素人のねえちゃんに翻弄されてはいけない。日本男児の名がすたるというものだ。
「コーヒーは?」急かしてやる。
「あっ、すいません。只今お持ちいたします」
ウェイトレスは足早に去って行って、足早に戻って来た。
そもそもこのウェイトレスは元来おっちょこちょいなのか、まだ仕事に慣れてないのかよく分からないが、とにかく急いで持って来たコーヒーを俺のテーブルの上にぶちまけやがった。そのとき見ていたスマホはとっさに避けて無事だったのだが、シャツにブルーマウンテンコーヒーが数敵飛んできて、茶色い染みを作った。
必死に謝るウェイトレスに加えて、オーナーという男がやって来て、クリーニング代だと言って、一万円札を渡そうとする。俺の来ていたシャツは派手で高そうだったが、実は安い。服を選ぶときはブランドやデザインはどうでもいい。安いが高そうに見える。これが鉄則だ。ヤクザには見栄が大切なんだと墓魏のアニキによく言われている。墓魏のアニキは砂猫親分に言われているらしい。
オーナーが余りにしつこいため、一万円は受け取った。たかが九百円のシャツに一万円の値が付いたようなものだ。もちろんクリーニングなんかに出すわけない。九百円のシャツに二百円のクリーニング代をかけてどうする。五回クリーニングに出したら赤字じゃねえか。
だが、このドジなウェイトレスとの出会いは一度で済まなかった。
翌日、俺がパチンコを打ってると隣の席に若い女が座った。そこは場末の薄汚れたパチンコ屋で、若い女の姿を見かけることはない。変わった女もいるものだと横目で見てみると、あのコーヒー屋のウェイトレスだった。
そして、その女も俺を横目で見ていた。
――ものすごく気まずい。
なんといっても、俺は昨日のブルーマウンテンコーヒーの染みの付いたシャツをそのまま着ていたからだ。
「あっ、昨日のお客様ですよね!」
耳元で大きな声を張り上げてくる。そうしないと聞こえないからだ。
「ああ、まあ、そうだけど。今からクリーニングに出そうと思ってたんだ」シャツの袖をつまみながら、とっさに言い訳をする。女より小さな声で。
「ここにはよく来られるのですか?」
「まあ、たまにな――アンタは?」
「私もたまに来ます」
それはウソだ。
俺はたまに来ない。しょっちゅう来る。このパチンコ屋は俺の庭みたいなものだ。だが、たまに来るというこの女を見かけたことは一度もない。
つまり、お互いウソを吐いているということだ。
いったい何が目的なんだ? 新米のヤクザに金なんかないぞ。
怪しんだ俺は、その後もいろいろと話し掛けてくる女に、適当に返事をしているうち、諦めたのか、失礼しますと言って帰って行った。
だが、この女とは三度目の出会いが待っていた。
三度目は行きつけの居酒屋だった。あの女が店員でいたのだ。
「コーヒーショップとここを掛け持ちでバイトしてます」注文を取りに来た女はそう言った。
俺はこの寂れた居酒屋の常連客だったが、今までこの女を見かけたことはない。
コーヒー屋、パチンコ屋に続いて、居酒屋での出会い。
三回も出会いが続くと、これは運命に違いない、などと俺様が考えるわけない。安物のトレンディドラマじゃあるまいし、一般の野郎ならともかく、俺はヤクザだ。新米だけど現役のヤクザだ。罠にかかったり、足元をすくわれたりするのは恥だ。何事も慎重に対処しなければならない。
墓魏のアニキにもよく言われている。カタギにもヤバい連中がいるから気を付けろと。
最近は何かと物騒だから一人で行動するなと、親分からのファックスにも書いてあった。しかし、俺は下っ端だから気にすることなく、一人で出歩いている。
だが、この奇妙な女は何を目的としているか分からない。新人ヤクザの俺から組の何かを聞き出そうとしているのかもしれない。だったら、それは無駄なことだ。そもそも俺が組の極秘情報なんか知ってるわけないからだ。
何を言ってきても、適当に聞き流しておこう。そう心に決めていた。
しかし、なにぶん女の見かけがかわいいため、この決断をするには強い意志力を必要とした。怪しい女には強靭な大和魂で立ち向かってやるぜ。
そして、女は予想通り、俺に仕掛けてきた。
居酒屋の会計をしているとき、女は一枚のメモを渡してきたのだ。
俺はメモを黙って受け取ると店を出た。
そのまま読まずに捨てようと思ったのだが、仕掛けてきた罠に引っかかってやろうと思った。下心などない。ただヒマだったからだし、裏に何があるのか興味が沸いたからだ。俺みたいなチンピラに、敵対する大手暴力団が何かをやってくるとは思えない。だが、万一ということもある。もしそうだとしたら、裏をかいて、逆にとっ捕まえてやれば、俺の手柄になるじゃないか。きっと墓魏のアニキにも褒められるに違いない。そう思ったのだ。詐欺で言う、騙されたフリ作戦だ。
メモには用件が書かれてなく、明日の時間と待ち合わせ場所であるみたらし団子屋の名前だけ書いてあった。
――みたらし団子屋だって!?
そこで何をやろうというのか。俺に甘味処は似合わないけど、行ってやろうじゃないか。口の中が甘ったるくなって、気持ち悪くなったら、後で塩でも舐めときゃいい。
何が待ち受けているのか分からないが、乗り掛かった舟だ。
俺は意地でも行くことに決めた。
翌日、みたらし団子屋にあの女はいなかった。
代わりにいたのは俺の母親だった。
俺が高校を卒業して以来、一度も会ってない母親がそこでパート従業員として働いていたのだ。背中に店名が書かれたえんじ色の和服の制服を着ている。
俺はあの女と母親の仕掛けた罠にかかったのか?
この俺様が二人の女にまんま騙されたのか?
最初はそう思った。
だが、母親の表情を見て、違うことが分かった。
母親も俺がここに来ることを知らなかったのだ。
「あんた、どうしてここが分かったの?」
母親は困惑した顔で俺に訊いてきた。
俺も出されたお茶をすすりながら困惑した。
いったいあの女は何者だったのか?
母親はお盆の上にみたらし団子を乗せたまま、俺を見下ろしていた。
♪♪♪♪♪
母子で歌って、踊り出す。
母も息子も手にだんごの串を持っている。
店内には甘い香りが漂っている。
厨房では小豆が煮られている。
♪サヨナラだけが人生じゃない~
山あり、谷あり、野あり、川あり~
母の元に戻っておいで~
家には俺の居場所がない~
お前がいないと母ちゃんはさびしいよ~
一人で生きていけるさ、母ちゃんなら~
あたしはもう五十代半ばなんだよ~
まだまだ行けるさ、人生八十年~
ヒュンヒュン、ヒュンヒュン(だんごの串を振り回す音)
♪決めつけないでよ、最近は体がしんどくて~
俺には俺の道がある~
その道はやさしいお前に似合わない~
まだ見習いの俺なのさ~
やさしいゆえに見習い止まり、お前が一番分かっているはず~
それを言うなよ、母ちゃんよ~
まっとうな仕事に就くことが親孝行だと思わないのかい~
今さら引き返せないぜ、この人生~
ヒュンヒュン、ヒュンヒュン(だんごの串を振り回す音)
♪♪♪♪♪
幹部の穴田が道場で若い信者たちを前に話している。
痩せた体から出るとは思えないほど、その声には迫力があり、説得力もある。
「我々を邪魔しようとする組織はあちこちに存在します。それらはすべて悪に染められています。その組織に属する者たちは悪に洗脳されているのです。悪魔が乗り移っているのです。恐れてはいけません。逃げずに戦わなくてはいけません。すべてはこの世を平和にするために、人々に安らぎを与えるために、無心の境地で立ち向かっていくのです。それが我々に課せられた使命なのです」
紺色の作務衣を着た四十人ほどの若い男女は胡坐をかいたまま、微動だにせずに、穴田の話を聞いている。正面の祭壇に置かれているレプリカの陽の観音像が信者を見守っている。
「人には必ず弱点があります。金や酒、異性や地位、名誉、健康、家族など人によって様々です。その弱点を探り出して、利用し、足を洗わせて、うちに入信させてください。狙いは若い人です。ベテランになると、今さら環境が変わることを好みません。若ければ、信念もしっかりしてない場合が多くあります。偶然を装って近づいてください。偶然も三回繰り返されれば、必然になると、百合垣幹部が言ってました。一度にまとめて行う必要はありません。一人ずつ、確実に行ってください。小さく開いた風穴はいずれ大きくなります。そして悪の組織を崩壊に導くのです。いいですか、みなさん。これは修行です。成功するとランクアップできます。我々がやってることは善です。そして何よりも、これは教祖様の願いであります」
「ははーっ!」
教祖様という名前が出た瞬間、四十人の信者は全員床にひれ伏した。
墓魏、振津、法華、茂湯の四天王の各組から少しずつ組員がいなくなり、最近では櫛の歯が欠けたようになっている。出て行ったのはすべて若い組員だ。
「どうせ神々教のしわざだろう。公園戦争で全戦全敗してるから、何とか別の方法でうちにダメージを与えたいのだろう――やり方がセコい。セコ過ぎる。正々堂々と公園で勝負して来いというんだ。まったくしつこくて、懲りない連中だ。ロケット弾をぶち込んだくらいじゃダメか」
親分は、砂猫組が脱出本舗を使って神々教の信者を還俗させていることを棚に上げ、チンパンジー顔を真っ赤にして怒っている。あまり怒ると脳の血管が切れるのではないかと幹部組員は冷や冷やして見ている。
「確か、ボギーの舎弟も先日いなくなったのだな」
「へい。まだ入って半年だったのですが、雑用も率先してやるような見込みのある男でした。ところが突然いなくなりまして」
「神々教の信者になったのか?」
「いいえ。若い衆に調べさせると、どうやら音信不通だった母親に偶然会ったみたいです。そこで話し合った結果、カタギになって、母親の世話をしながら、真面目に働くことに決めたようです」
「偶然会ったんじゃないだろ。きっと神々教が罠を仕掛けやがったんだ」
「俺もそう思います。あいつの唯一の心配は病弱な母親の存在だったですから」
「どこかでそれを調べやがったんだな。だが、足を洗ったのは、最終的には本人の意志だろうよ。仕方がないな。親孝行は大事だしな。親孝行をしようと思ったら、もう親は他界している。人生はそんなもんだ。しかし、奴は間に合ってよかったじゃないか」
義理と人情を大切にする親分である。
「そう言えば、親分」墓魏がポツンと言う。「神々公園のドッグランがついに閉鎖したそうです」
「何!」一度は治まった親分の顔が再び赤くなる。また脳の血管が心配になる。「ボギーよ、それを早く言わんかい!」
「へい。特に大変だとは思わなかったものですから」
「大変じゃないか! ボギーは大して大変じゃないことを大変だと言い、本当に大変なことを大したことがないと言う。今回は、あまりにもめでたくて大変じゃないか。入場料を二千円も取る人工芝の小型犬用ドッグランなら、つぶれて当然だ。しかも柵が壊れて三十匹の犬が逃げ出して、今も三匹が見つからず、ネットニュースになったのだからな。きっと天罰が下ったのだろうよ。神に見放された神々教だな」
ドッグランの柵は、茂湯が親分の命令を受け、パシリの師家木に頼んで、黄金の左足で蹴り壊してもらったのだが、親分は神様の天罰のせいにする。
「そのドッグランの跡地ですが、凧揚げをする場になったようです」
「凧揚げ!? この令和の世に凧揚げをする子供がいるのか?」
「需要があるのか分かりませんが、跡地に凧揚げ場と書かれた看板が立っていて、入場料は一時間二百円と大きく書かれていたそうです」
「誰が金を払ってまでして、公園で凧を揚げるんだ? 河原に行くとタダだろ――よしっ、こっちも負けてられないぞ。凧揚げに対抗するものと言えば何だ?」
親分は四人を見渡す。
「ドローンじゃないでしょうか」法華が言う。
「おお、さすがホッケ。わしもドローンだと思ったぞ。意見が一致したな。ドッグランの隣の辺りにドローンを飛ばして遊べる場所を作ることにしよう。天然芝をそのまま利用して、もちろん入場無料だ。UFOの発着場みたいに近代的で、カッコいいデザインにして、NASAの全面協力で作ったと、看板に書いておこうや」
「NASAですか?」法華が訊く。
「おおそうだ。NASAと書いておけば、何となくすごいだろ。黙ってたら分からん。わざわざ英語を使って、NASAに電話で問い合わせる物好きな奴はおらんだろ」
「親分」振津が提案する。「いろいろなコースを作って、ドローンで競争させるのはどうでしょうか」
「おお、プリッツ。冴えてるじゃないか。ミニ四駆のレース場みたいにするんだな。よしっ、ぜひそうしよう」
「親分」茂湯も提案する。「初心者用にドローン教室を開くのはどうでしょうか」
「おお、モユユもいいことを言うな。さっそく先生と生徒を募集しようや」
「それと親分、まだあります」墓魏が言う。「凧揚げ場の一角にプレハブ小屋が建っていて、小荷物の預かり所になってます」
「公園に荷物を預けてどうするんだ。金は取るのか?」
「へい。荷物一個につき百円だそうです」
「そもそも公園に来る人なんか、近隣の人たちだろう。わざわざ公園に預けなくても家に持って帰ればいいじゃないか。神々教の連中はそこまでして小銭が欲しいのか? 公園内に預かり所を作るという発想が貧困だな」
「親分」茂湯が提言する。「どうせ荷物を預かるのなら、宅配便の荷物を預かったらどうでしょうか。昼間家を不在にしている人が公園に取りに来れば、再配達をしてもらったり、郵便局まで足を運んだりする必要はありませんよ」
「おお、モユユ。相変わらず冴えてるな。今日もDHAたっぷりの青魚を喰って来たか。しかし、近所の人たちの不在の荷物が一日に十個も二十個も来ないだろ。こちらはわざわざ預かり所を建てるようなことはせずに、桃賀総長に頼んで、管理人室の片隅に置いてもらおうや。総長は朝が早いから、夜遅くじゃないと来れない人は朝に来てもらおうや」
「それと親分。今思い付いたのですが、近所のお子さんを預かるのはどうでしょうか? 保育園のように終日預かるのではなく、母親が買い物や美容室に行っている間、数時間だけ公園で預かるのです」
「おお、プリッツ。さすが高卒のインテリ。公園に託児所とは素晴らしいひらめきだ。そちらはプレハブ小屋を建てようや。中をたくさんのオモチャでいっぱいにするんだ。いいか、調達担当のプリッツよ。一番高くて豪華なプレハブ小屋を買うんだぞ。子供が好きそうなお菓子の家みたいなプレハブにしようや――北欧のプレハブはどうだ?」
「北欧ですか?」
「そうだ。あの地域は高級家具が有名だから、プレハブも高級そうじゃないか」
「分かりました。手配します」
「それと、小さなお子さんを預かるから、安全には気を付けようや。震度10でも平気な耐震構造で、中は床暖房付きで、シャンデリアがぶら下がってるプレハブを探すんだ」
「へい、分かりました」
そう返事をしたが、そんなプレハブがあるのかと振津は不安になる。
相変わらず無理難題を押し付けて来る親分だったが、北欧に売ってなければ、普通のプレハブを改装して、それらしく作ればいいか――振津はそう決めた。
「ところで託児所といえば、お前らの中で子供の相手ができる者はいるか?」
親分は四人を見渡す。
凶悪な顔が並んでいる。
そばの鏡で自分の顔も見てみる。
チンパンジーが映っている。
「――いないな。よしっ、子供の世話ができる女性を雇おう。雇用によって地域貢献もできるぞ。これだけ世の中に貢献しているのだから、そろそろわしを人間国宝にしてくれんかなあ。ダボス会議にも呼んでほしいなあ。スイスのハトをたくさん仕入れたのになあ」
三日後、砂猫公園の管理人室の隣に最高級プレハブ小屋が新設された。
残念ながら北欧には、お菓子の家に似た、シャンデリア付きの小屋はなかったが、オプションで床暖房を付けてもらい、地震に強く、安心安全な公園託児所が出来上がった。
親分には北欧から直輸入したと言ってある。北欧から三日で届くわけないのだが、人の良い親分は気づかない。芸大生に頼んで、プレハブ小屋の壁面にムーミンの絵を描いたので、北欧のものだと信じている。
さっそく数人の子供が預けられ、いろいろなオモチャで遊んでいる。子供の相手をしてるのは新しく雇用された近所の主婦二人だ。給料ははずんである。
管理人室には“宅配便預かり所”の看板が掲げられ、“ドローンあります”と書かれた紙も貼られた。
公園内にドローンで遊べる場所を作ることになったため、管理人の桃賀がさっそく販売を始めたのだ。あちこちにいろいろなコネを持つ桃賀はドローンを格安で卸してくれる業者を見つけた。
ドッグランで使う一枚千円のフリスビーは二百枚も売れた。五百円で仕入れているから十万円の儲けだ。今もよく売れている。こんなに犬を飼ってる人が多いのかと桃賀は驚いている。
公園内で使用するドローンは100グラム以下の登録義務のないトイドローンと呼ばれている小さなものであり、値段も1万円以下の商品を売っていた。仕入れ値はこちらもコネを最大限利用して、約半額の値段である。
今日もドローンは十機ほど売れていた。フリスビーと合わせると年金を上回る収入になるだろう。来春は確定申告に行かないとダメだなと思う。
桃賀は高級ベンチに座りながら、新設されたドローン飛行練習場を見ている。
案内板には、NASAが責任監修した練習場だとデタラメが書いてあるが、アメリカからこんな地方の公園まで苦情は来ないだろう。
練習場では一人の講師の前に七人の子供が並んで、ドローンの操縦方法を学んでいる。管理人室に貼っていた講師と生徒募集の貼り紙を見て応募してきた子供たちだ。もちろん保護者の承諾を得ており、今もお母さんたちは桃賀と並んでベンチに座り、子供たちの成り行きを見守っている。
やがて、数機の小さなトイドローンがいっせいに飛び上がった。空中に浮いただけでも子供たちから歓声が上がる。お母さんたちからも感動の声が聞こえた。テレビなどでドローンを見る機会はあるが、実際間近で見たのは初めてだったのだろう。
北欧風の公園託児所とドローン飛行練習場。
この新たな施設を見ると、神々教の連中も驚くだろう。
桃賀はニコニコしながら、ドローンの指導している講師に近づいて行った。
「みんな、すぐにうまくなるものだねえ」
講師はその声に振り返った。
「あっ、モモンガさん。こんにちは」
「はい、こんにちは。周人くんの指導がいいから、うまいのだろうね」
「いえ、そんなことないです。みんなの覚えがいいからです」
二人は並んで子供たちが飛ばす小さなドローンを見上げている。後ろから見るとおじいさんと孫だ。
この講師は名前を周人と言い、小学五年生だった。ドローン教室の講師募集の貼り紙を見て応募してきたのだが、ドローン歴は三年になるというベテランだった。お父さんがドローンを持っていて、小さい頃から、近所の河原で教わっていたという。他に応募してくる人がいなかったためすぐに採用となった。教えてくれるのなら小学生でも構わない。
「周人という名前は誰が付けたんだい?」桃賀は訊いてみた。
「お父さんが付けてくれました」周人はハキハキと答える。
「お父さんはサッカーが好きなのだろう」
「いいえ。シュークリームが好きなんです」
「では、周人君は将来パティシエになるのかな?」
「いいえ。地方公務員です」
「ほう。安定した職業でいいねえ」
「ぼくはこの街が大好きなんです。だから公務員になって、この街の平和を守りたいんです」
「それはヒーローみたいでいいねえ」
小学生のため現金での給料は出せず、代わりに毎回図書カードを渡すことで、本人と両親には納得をしてもらい、契約にこぎつけた。
ドローン飛行練習場にはレースコースが併設されていて、今教わっている子供たちがうまくなると、そこでレースを始める予定だった。
“ぼくが教えている生徒はみんな子供で、三十人くらいだ。みんな初心者だ。ドローンにはさわったことのない子ばかりだ。だから最初は安全について教えた。ドローンの事故は二種類ある。落ちてきたドローンにぶつかる事故とプロペラで手をケガする事故だ。両方とも危険なので、最初にしっかり教えた。みんなはよく分かってくれたと思う。それと、ぼくのことは先生と呼んでくれる。ちょっぴり恥ずかしいけど、偉くなったような気分だ。もちろん学校に行ったら本物の先生がいて、病院に行っても本物の先生がいる。ぼくはここで講師の仕事をすることになったけど、今まで通り、街のパトロールも続けている。特に目を離さないように気をつけているのは神々教団だ。ぼくは教団のヘビーウォッチャーなんだ。この街の平和を守るために必要なことなんだ――周人”
♪♪♪♪♪
桃賀とお母さんが見守る中、講師の周人と七人の子供が歌って、踊り出す。
講師と子供といっても、あまり年齢は変わらない。
手にはドローンのコントローラーを持っている。
♪ドローンよ、飛べ飛べ、空高く~
鳥に負けるな、雲に負けるな~
野を越え、山越え、ビルを越え~
充電が切れるまで飛んで行け~
NASAが責任監修した練習場~
ホントかウソか知らないけれど~
宇宙の果てまで飛んで行け~
カシャカシャ、カシャカシャ(コントローラーを操作する音)
♪見下ろす川と池と田んぼと畑~
学校と山と古墳群~
道路と車と行き交う人々~
みんな小さく見えている~
みんなこちらを見上げてる~
鳥になった気分だよ~
王様になった気分だよ~
カシャカシャ、カシャカシャ(コントローラーを操作する音)
七機のトイドローンが空中で見事にホバリングしていた。
♪♪♪♪♪
毎週土曜日に開催されている飛鳥井教会のバザー会場。
一人の太った男が敷地内に張られたテントを覗き込んでいた。神々教団の幹部何和である。先ほどまで、ここには砂猫組の茂湯がいた。茂湯と行き違いになったことを何和は知らない。また茂湯も自分が帰った後で、何和が教会を訪れたことを知らない。
敵対する者同志がニアミスをしていた。
茂湯は仕事の依頼のために恵子おばちゃんの元を尋ねたのだが、何和はただ教会の前を通りかかり、繁盛している様子を見て、ちょっと寄ってみたただけである。
茂湯は仕事の依頼を終えると、目に付いた五百円の赤いミサンガを買った。
「恵子おばちゃん、ミサンガとは懐かしいな」
茂湯は小物類の中に色とりどりのミサンガが並べているのを見つけた。
「そうでしょう。平成の初めに流行ったものだから、今の若い人の中には知らない子もいるのよ。Jリーグ発足当時だったから、ずいぶんと昔だわねえ。私も年を取るわよねえ」
「確か、手首に巻いたミサンガが切れたら、願いが叶うんだよな」
「そうそう。私もいくつか巻いてたもの」
「願いは叶ったのか?」
「叶ったり、叶わなかったりだね」
「じゃあ、あんまり意味がないんじゃないのか」
「叶った方だけを信じればいいのよ」
「なるほどな。恵子おばちゃんはポジティブだな。じゃあ、俺も一つ買って行くかな」
「茂湯さんにも叶ってほしい願い事があるわけ?」
「まあ、いろいろとな」
茂湯は赤いミサンガを手に取った。
「あら何和さん、珍しいわね」
恵子おばちゃんが、コースターを手に取っていた何和に声をかけた。つい先ほど茂湯が帰って行ったばかりだが、当然口にはしない。二人ともお得意さんだから、お互いの秘密は厳守だ。
たとえ敵同志であっても、双方から仕事を受けて、双方から利益を得ている。
したたかなおばちゃんである。
「ちょっと通りかかったものでね」何和はボテッとした顔を向ける。「前に来たときよりも種類が増えてますね」
「出品してくれる作家さんの数が増えたからね」
作家の一品物を狙って買いに来る人も多いらしい。
あたりを見渡してみると、年配者もいれば、若い学生も来ている。
「それに最近は食べ物も売ってるからね」
隣のテントでは、全身ヒョウ柄の格好をした小太りのおばさんが手作りビスケットを品定めしていた。
「今は何が売れてるのですか?」何和が恵子おばちゃんに訊く。
「スマホのアクセサリーだね。ストラップとか、落下防止のベルトとかリングとか、よく出てるよ」
「へえ、そうですか」
「やっぱり女性客が多いから、傾向としてかわいい物が売れるね」
「私のようなおじさんはついて行けないなあ」
「主婦も多いから実用品もけっこう売れてるよ」
「ちょっとしたキッチン用品とかですか。ああ、アイデアグッズも置いてありますね。あったら便利というやつですねえ。うちにもけっこうあるんだけど、買っただけで使わない物も多いんですよ。だったら買わなきゃいいと思うんですけど、買うことで満足するのでしょうねえ」
その後も何和は無駄な話を延々として、何も買わずに帰って行った。
いったい何をしに来たのだろう、おそらくヒマだったのだろうと、恵子おばちゃんは思ったが、あんな人でもお得意さんだ。神々教に帰ると、ちょっとした幹部らしい。
またいつか仕事をくれるだろう。
恵子おばちゃんは何和の大きな背中を見送りながら思った。
何和の後ろを全身ヒョウ柄のおばさんが歩いていた。さっきバザーで見かけたおばさんだ。何気なく振り返ってみて、気付いたのだ。教団幹部として、マスコミの尾行には気を付けている。だから常に背後には気を配っている。
手作りビスケットを見ていたようだが、買ったのだろうか。
おばさんは、ヒョウ柄のバケットハットをかぶり、ヒョウ柄のレギンスを穿き、ヒョウ柄のパンプスを履き、ヒョウ柄のバッグを肩から掛けている。もっとも目立つのはヒョウを真正面から見た絵が胸元に大きく描いてあるTシャツである。しかしおばさんが太っているため、ヒョウの顔は横に伸びて丸顔になっている。メタボのヒョウだ。
何和はふと思った。
背中の絵のデザインはどうなっているのか?
前がヒョウの顔なら、後ろはヒョウのお尻の絵なのか?
そこに尻尾は生えているのか?
何和はスマホを操作しているフリをして、歩く速度を緩め、ヒョウ柄おばさんを先に行かせた。おばさんが追い抜いて行く時、香水の匂いがしたが、高い香水なのか、安物の香水なのか、何和には分からなかった。
何和は顔を上げて、前を歩いて行くヒョウ柄おばさんの大きめの背中を見た。
尻尾の生えたヒョウの絵が描いてあった。
ヒョウのお尻も横に伸びていた。
やっぱり背中にも絵が描かれていたか。
何和は自分の予想が当たって喜ぶ。
その瞬間、おばさんが振り向いた。
「あら、お兄さんはさっきバザーにいた方ですよね」
ヒョウ柄おばさんがズカズカと近づいて来る。
酒焼けしているのか、ハスキーな声をしている。
「はあ、そうですけど」何和は驚いて立ち止まる。
デカいヒョウの迫力に何和の体は動かない。
太ったヒョウに睨まれた太ったウサギのようだ。
「何かお買いになったの?」
さらにヒョウは近づいて来る。
「いいえ。何も……」
ヒョウ柄おばさんがすぐ前に来た。
ニヤリと笑った口からは銀歯が見えた。なぜか銀歯の先端が鋭く尖っていた。
そして、何和は左脇腹に痛みを感じた。
見ると、おばさんの手が刺さっていた。
――刺された!?
外国人幹部のメイソンを思い出した。何者かに刺殺されたのだが、いまだに犯人は捕まっていない。まさかこのおばさんに刺されたのか?
おばさんはゆっくり手を引いた。何和の腹から、血の滴る長い爪が五本出てきた。ご丁寧なことに、爪にもヒョウの絵が描かれていた。
腹がカッと熱くなり、全身の力が抜けて行く。
おばさんは何和のすぐ目の前に立っている。まるで恋人同士が向かい合っているようだ。
おばさんは何和の頭をガシッと掴み、右に傾けた。露わになった左の首筋に銀歯で噛み付いた。
こいつはゾンビかよ。噛み付くために歯の先端を尖らせていたというのか。
ヒョウの爪と牙の犠牲となり、崩れ落ちる何和の背中に何かがスプレーされた。
香水か? おばさんの間では背中に香水を振り撒くのが流行っているのか?
いや、これは香水じゃない……。
ここまで考えたところで、何和の意識は消えた。何和は油断していたとはいえ、何ら抵抗もできず、地面に転がった。
ヒョウ柄おばさんは唇に付着した何和の血をペロリと舐めると、ヒョウ柄バッグから飴を数粒取り出した。
「お兄さん、アメちゃんは好きかい?」ハスキーな声で問いかける。
おばさんはもはや何の反応もない何和の背中に向けて、数粒のアメちゃんを放り投げると、早足で歩きだした。
アメちゃんは背中で発火して、スプレーされたガソリンに引火し、神々教幹部の何和を火だるまにした。
ちょうどそのとき、茂湯は教会を出て、事務所へと向かっていた。
手首に巻いていたミサンガが、さっそく願いが叶ったかのように切れて、足元に落ちた。
茂湯は赤いミサンガを不思議そうに見下ろして、ニヤリと笑った。
「神々教に何か不吉なことが起きたかもしれんな」
砂猫公園の一週間の閉鎖が決まった。保健所による指導である。
茂湯に電話がかかって来たのは、夜中の一時過ぎのことだった。
「茂湯のアニキ、大変です」
「おお、シケモクか。どうした?」
「夜分にすいません」
「かまわん。俺たちは夜行性だ。さっさと用件を言え」
「砂猫公園に生ゴミが放置されました」
「なんだそんなことか。一万円払うから、お前が掃除しておいてくれ」
「多すぎて、一万円じゃ割に合いません」
「どのくらいあるんだ?」
「デカいトラック一杯分です」
「なんでそういうことになるんだ!?」
「俺が公園の高級ベンチで寝ていたら、大型トラックが侵入してきまして、荷台から大量の生ゴミをズルズルと下ろし始めたのです。俺は止めようと身を挺してトラックの前に躍り出ると、両手を広げて通せんぼうを……」
「ホントか?」
「いや、ウソです。十秒くらいで終わったので止められなくて。すいません。でも写真は撮りました。逃げるように去って行くトラックの後ろからスマホで写しました。ナンバーもバッチリ写ってます」
「写真を撮るときバレなかったのか? 音はトラックのエンジンで誤魔化せるとして、フラッシュが光っただろ」
「夜中の一時に自動消灯するまで、クリスマスのイルミネーションみたいに公園全体がピカピカですから気付かれてません」
「そうか。親分が夜中にイチャつくカップルのために作ったのだったな。その写真を持って警察に行ってくれるか。どうせ盗難車だろうけど、被害届を出そうや」
「俺が行くのですか?」
「ああ、シケモクじゃ信じてもらえないか。俺が行っても門前払いだろうからな。誰かカタギの知り合いはいないのか?」
「行きつけのお花屋さんの店員さんならいます」
「行きつけ? お前は花をめでる顔じゃないだろ。変な草の栽培でもしてるのか?」
「違いますよ。俺は花が好きで、家庭菜園もやってるんですよ。その店員さんに行ってもらいますよ」
「だったら、佐々川刑事か和木刑事を尋ねるように言ってくれ。どちらでもいい。似たようなもんだからな――で、生ゴミは今どういう状態なんだ?」
「すごい悪臭を放ってます。臭いに釣られて、夜中だというのにカラスが上空を舞ってます」
「闇夜のカラスがよく見えるな」
「変わったハトも飛んでます」
「それは親分御用達のスイスのハトだから気にするな」
「ネズミも来てます。ハエも飛んでます。ハクビシンかイタチみたいな奴とか、小動物もチョコチョコ走り回ってます」
「リスじゃねえのか?」
「リスは生ゴミを喰いますか?」
「生ゴミの中にヒマワリの種が入ってるんじゃないのか」
「野良猫も野良犬もやって来て、公園が動物園状態です。見渡す限り、人間は俺だけです」
「ニオイが酷いのなら、しばらくキッチンカーの営業は無理だな。これも神々教の野郎どもの仕業だろう。姑息な嫌がらせをしやがって、覚えてやがれ」
強烈な悪臭が漂ったため、近隣の人たちによって保健所に通報がなされ、砂猫公園は清掃と消毒のため、しばらくの間、閉鎖されることになった。
そして、砂猫組は神々教に大掛かりな反撃を仕掛けることになる。
建築資材置き場の地下。
色白で体格のいい中年の男が十一人の男たちを見渡している。この男は集団の親方だ。
男たちはまちまちの格好で休憩用の小さなスペースに座って、おのおの缶コーヒーを飲んでいた。
「お前とお前は」親方は二人の若い男を指差す。「経験のない新人だな」
「はい」二人のうちの色が黒くヒョロ長い男が返事をする。「今日からお世話になります」
もう一人の太った若者も挨拶をする。「なにぶん初めてですが、よろしくお願いします」
親方は二人から目を離さない。
「なんでお前らが未経験の新人だと分かったのかと不思議に思っただろう」
「はい、思いました」最初に返事をした方が答える。
「ここには俺を含めて十二人の男がいる。みんなを見てみろ。色が黒いのはお前ら二人だけだ」
男たちは体格こそいいが、みんな日に焼けておらず、色が白い。
「俺たちは日の当たらない場所を専門にして、全国を回ってるんだ。だからみんな色白だ。お前ら二人だけは色が黒いから、分かったというわけだ」
「はあ、そういうことですか」
「俺たちの仕事場は地面の下だ。地下鉄、下水道、鍾乳洞、鉱山、遺跡の発掘なんてこともやる。岩手の益彩都古墳を見つけたのは俺たちだ」
「へえ、そうなんですか」「それはすごい」二人は目を見合わせる。
「歴史的価値の高い古墳を見つけたから金一封でもくれるのかと期待したのだが、もらったものは、地元のお土産屋が便乗して作った古墳饅頭を一人に一箱だ」
「しかも饅頭はマズかった。わしは一口喰って吐き出した」年配の男が茶化すと、みんなはゲラゲラ笑い出し、俺もそうだったと同調する者が続出した。
その笑い声は部屋中に響く。
二人の新人は思った。
この地下の部屋で歌を歌ったら、反響してうまく聞こえるだろうな。
年配の男が思い出したように言った。
「そういえば親方、さっき社長から差し入れをもらいました」
「ものは何だ?」
「日本酒を十二本ですわ」部屋の隅にダンボール箱が置いてある。
「酒だと!? 今は仕事中じゃねえか。飲めるわけない。酔っぱらって仕事をすれば、ヘタすりゃ命取りだからな。まったく気が利かない社長だ。あいつは普段から酒を飲みながら仕事をしてるのか。どうせ、紙パックに入った安物の酒だろ」
「いいえ。越乃寒梅の純米大吟醸を十二本です」
「なんだと!」親方を始めとして、全員が驚き、そして喜ぶ。
一本一万円以上はする高級酒だからだ。
「施主はさすがに金を持ってますね」年配の男が感心する。
「いや、あの社長は施主じゃない」親方が言う。「この資材置き場は社長のものだが、施主は別にいるんだ」
「へえ、そうなんですか」
「それが奇妙な話でな」みんなは今から怪談話を聞くかのように黙り込み、耳を傾ける。「ある日、コレモンが社長の元を訪ねて来たらしい」
コレモンと言って、親方は人差し指で右の頬を切るマネをする。
「そして、この資材置き場の一部を掘らせてくれと頼まれたらしい。心配しなくても、掘った後はすぐに埋めるからと言われたそうだが、社長は当然断った。何かを埋めると思ったからだ。自分の会社の敷地に変な物を埋められたら、たまったもんじゃないからな」
「ヤクザもんが埋めるとしたら」年配の男が言う。「処理に困った死体とか拳銃とか不法薬物といった物でしょうな。そりゃ、社長も断りますわな」
「ところが引き受けた」
「えっ!? それはなんでですか?」
「おそらく金だろう。金しかないだろうな。つまりだ、ここを掘って埋めるだけでかなりの大金をもらえるというわけだ。社長は指を咥えて見ているだけでいい。もし後から変な物が出てきても、知りませんでした、勝手に埋められたのでこちらも被害者ですと、しらばっくれればいいからな。ただ、俺も興味本位で訊いてみたが、いくらもらうのかは教えてくれなかった。おそらく俺たちの賃金の何十倍ももらうのだろう」
「金額を言ってしまうと、わしらがやる気をなくして、仕事をボイコットしてしまいますからな」
「そういうことだ。こうやって、十人の地下工事のプロを集めるのは容易ではないからな。もっとも、新人が二人含まれているけどな」
「親方。ではこの差し入れは?」みんなが高級酒の入ったダンボール箱を見る。
「施主から社長に差し入れが届いた。それを社長は自分からの差し入れのように振る舞った。そんなところだろう。セコい社長がやりそうなことだ」
みんなは不愛想な社長の顔を思い浮べて、親方の考えに納得する。
「仕事が終わったら、各自一本ずつ持って帰ろうぜ」親方が立ち上がった。「飲めねえ奴がいたら、俺がもらって帰るから、遠慮しないで言ってくれ」
全員が大酒飲みだったため、誰からも返事はなかった。
朝の打ち合わせは終わった。地下職人たちは飲んでいた缶コーヒーの缶をゴミ袋にまとめて、それぞれの持ち場へと散って行った。
「おい、新人の二人は俺に付いて来い」
親方は二人を呼び留めた。三人は一緒に歩き出す。
「いいか、おまえら。さっき言ったようにここから穴を掘る。掘って掘って掘りまくる。掘った後は埋める。埋めて埋めて埋めまくる。埋めるタイミングは施主からの連絡待ちだ。一日仕事が終われば体はヘトヘトになる。だが、後で越乃寒梅の純米大吟醸が待ってるというわけだ。自分へのご褒美というやつだ――頼んだぞ、新人!」
♪♪♪♪♪
親方と新人二人が暗い地下で歌って、踊り出す。
声は大きく反響する。ヘタでもうまく聞こえる。
もちろん地上に声が漏れることはない。
親方はツルハシを担ぎ、新人は手にスコップを持っている。
♪俺たちは地を行くモグラだよ~
誰にもマネできない地下工事人~
西から東へ掘り進む~
硬い岩盤なんのその~
俺たちの手にかかれば木っ端みじん~
モグラにはモグラのプライドがある~
ひたすらトンネルを突き進む~
カチャカチャ、カチャカチャ(ツルハシとスコップを合わせる音)
♪道の向こうまでは長くて遠い~
だけど俺たち挫けない~
いつかは見える輝くゴール~
至福の時が待っている~
うまい酒が待ってるだろう~
キレイなネエチャンが待ってるだろう~
きっと涙が溢れるだろう~
カチャカチャ、カチャカチャ(ツルハシとスコップを合わせる音)
♪♪♪♪♪
“ぼくのドローンは神々教の教団本部の上空をホバリングしている。よく街をパトロールしているのだが、パトロールコースの終点はいつもここだ。建物は趣味の悪い黄金色に塗られている。ときどき酔っぱらいが建物の壁を削り取って、小さな黄金色のかたまりにして、宝石店に金塊だと言って売り付けに行く。もちろんただの塗料のかたまりだと、すぐに見抜かれて追い返されるのだけどね。たった今、本部の裏口の地下出入口から大きな車が出て来た。あんな大きな車は教祖専用車に違いない。信者があんなに大きくて立派な車に乗るわけない。自分より大きな車に乗るなんて、教祖が許さないだろう。教祖なんてそんなもんだ。いつも威張っている。自分が偉いと思っている。人類が救えると思っている。玄関ではなく、裏口から出て来たということは、秘密の行動に違いない。どこに行くのか後を付けてみよう――周人”
ぼくはドローンを手元に戻し、自転車を漕ぎ出した。ハンドルの中央にドローンのコントローラーを取り付けている。ドローンを操作しながら、自転車を運転するのだ。ぼくくらいのベテランになるとそれくらいは簡単なんだ。でも今は車の尾行に集中しなければならないから、ドローンはぼくの背中のリュックの中でお昼寝中だ。
車道と歩道を交互に走りながら、教祖が乗った車を追いかける。これだと渋滞に巻き込まれないし、尾行に気づかれることもない。一石二鳥の作戦だ。でも、自転車で尾行するマスコミはいないだろうし、尾行する小学生もいないだろうけどね。
だからバレることはないはずだ。
やがて教祖専用車は街の総合病院に入って行った。入って行く場所はこちらも裏口にある特別な出入口だった。つまりVIP待遇だ。でも大物だからVIPなのではなく、きっと大金を積んだのだろう。あるいは病院関係者に信者がいるのかもしれない。
信者からすると教祖は大物だろうが、一般の人からするとただの人だ。
その後、ぼくの家の門限にギリギリ間に合うまで病院の裏口で張り込んだけど、教祖専用車は出て来なかった。きっと入院したに違いない。
翌日、ぼくは病院の受付に行ってみた。
神々教団のヘビーウォッチャーとして、教祖のことが気になったからだ。
どんな病気なのか、ケガなのか。天下の教祖様でも体の具合が悪くなることがあるのか。具合が悪くなったら、病院なんかに行かないで、自分の超能力で治せばいいじゃないか。その前に、超能力があるんだったら、病気にかからないんじゃないのか。
そんなことを考えながら、ぼくは正面玄関から入った。
受付には若い女性が一人で座っていた。
「おねえさん、ちょっと訊きたいんですけど、ここに神々教の教祖さんが入院してますよね」
「キミは家族の人じゃないでしょ。だったら、そういうことは患者さんのプライバシーに関わってくるから言えないんだよね」
「そうだろうと思った。でもそこを何とか」ぼくはおねえさんの目の前で健気に手を合わせる。同情を引く作戦だ。「学校の自由研究のテーマに教祖さんを選んだんだけど、ネットで調べても教祖さんのことは詳しく載ってなくて」とっさにデタラメを並べる。
「じゃあ、教祖に直撃インタビューするわけ?」大きな目で訊いてくる。
「そうじゃなくて、お付きの人なんかがいたら話したいなあと。いろいろと取材がしたいなあと――ねえ、おねえさん、お願いしますよ、一生のお願いだから」
「キミが一生を賭けるといっても規則があるから、病院としてはダメなんだよね」
「ぼくはずっとお年玉を貯めてるんだ。もし教えてくれたら、おねえさんをお寿司屋さんに招待してあげるよ。もちろん回転寿司じゃなくて、高級なお寿司屋さんだよ」
「うーん。お寿司は捨てがたいけど、諦めてくれるかなあ」
「じゃあ、いつ頃退院するのかだけ教えてよ」
「ペースメーカーの電池交換だけだから十日間だね」
「あっ、やっぱり入院してるんだ」
「あっ!」おねえさんはしまったという顔をして、両手で口を押さえる。
まさかこんな簡単に教えてくれるなんて、きっとぼくがイケメンだからだろう。
「でもおねえさんはキレイだから約束は守って、高級寿司店には連れて行ってあげるよ。ぼくは周人という名前なんだ。よくこの街を自転車で走ってるよ。砂猫公園のドローン飛行練習場を知ってる? NASAが責任監修した練習場なんだけど、ぼくはそこでドローンの講師もやってるから、お寿司が食べたくなったら、声をかけてね――じゃあね美人さん、バイバーイ!」
ぼくは唖然とするおねえさんにウィンクをすると、病院を出て自転車で走りだした。
「ペースメーカーの電池交換て、何だろう? まさか教祖はアンドロイドなのか!?」
走りながら、巨大な総合病院を振り返る。たくさんの窓が見える。
あの中のどこかに教祖がいるはずだ。きっといい部屋だろうから、上の方だろうな。でも大丈夫。ぼくにはドローンがあるからね。
周人の相棒であるドローンは背中のリュックで出番を待っていた。
教祖が入院をして、教団に不在となる十日間。
信者たちが暗躍を始めた。
神々教団の幹部室には穴田と百合垣の二人がいるだけだった。
何者かに刺殺されたメイソンの遺影の隣には、同じく何者かに刺されて、焼き殺された何和の遺影が置かれている。
八丈島は最上階のフロアの掃除に行っていた。最上階のフロアの掃除は八丈島にしかやらせてもらえず、穴田や百合垣といった幹部でも足を踏み入れることはできない。それだけ教祖の信用が厚いというわけである。
教祖が入院中の間に、砂猫組との決着を付けよという指示が出された。
穴田によると、御簾越しに見えた教祖の表情はとても厳しいものだったという。
公園をめぐっての戦いは続いている。信者から寄付された大事な土地に造られた公園だが、砂猫組も代々守って来た土地の上に造られた公園だ。
信者と組員との戦いでもあり、公園同士の戦いでもあり、土地にまつわる因縁の対決でもある。近所の住民にとって、二つの公園がしだいに整備されていく状況は大歓迎である。しかし裏では、血で血を洗うような戦いが繰り広げられていることを知らない。
しかし、神々公園と砂猫公園の戦いは、神々公園が一方的に押されていた。
神々公園のディスコ大会に対抗して開催された、砂猫公園の季節はずれの盆踊りは大盛況だった。小荷物の預かり所をマネして宅配便の預かり所が作られたし、北欧風の豪華な託児所まで完備された。さらに、凧揚げ場に対抗して、ドローン飛行練習場も作られた。絶対にウソだろうが、NASAが責任監修したと書いてあるらしい。
何もかもが劣っている。
警察はメイソンと何和を殺した犯人をいまだ捕まえることができない。教団も捜査には最大限協力しているが、尻尾も掴めないらしい。先ほども担当の佐々川刑事と和木刑事がやって来たが目ぼしい情報は入ってないと言っていた。
だが教団幹部は知っていた。
犯人は恵子おばちゃんが斡旋したプロの殺し屋だ。どこのどういう殺し屋かは分からないが、こちらも殺し屋を使って、砂猫組の二人の幹部を襲撃してもらっている。しかし、向こうの幹部はケガをしただけで、死ぬことなく、のんきに盆踊りを踊っていた。もともとガタイが強くて丈夫だからなのか、ただ悪運が強いだけなのかは分からない。
砂猫組の組員の足を洗わせる作戦とともに、さらなる殺し屋への依頼を強化することで、穴田と百合垣の意見は一致した。
二人は二つの遺影に線香を上げた。
そして、今日は踊らないことでも二人の意見は一致した。
おしゃべりの何和がいなくなったことで、幹部室内はすっかり静かになっていた。
あんな奴でもいなくなると寂しいものだと穴田は思った。
男はプリンターが排出した用紙を持って来ると、八丈島の目の前に置いた。
「こちらでよろしかったでしょうか?」
八丈島が紙を手に取り、顔に近づけた。老眼が進んでいるようだ。
「はい。この仏像で間違いありません。このレプリカを二体お願いします」
写っていたのは神々教団が所有する陽の観音像の写真である。本物の観音像は教団本部の最上階である五階に住む教祖の元に置いてあるのだが、一階から四階までの各階にはレプリカの観音像が置いてある。それはいずれも黄金色に輝いていて、どれが本物かの見分けは付かなかった。
その四体のレプリカ像を作成してくれたのが、この会社である。3Dプリンターを使って作ってくれたのだが、信者は霊験あらたかな観音像として、日夜崇拝している。イワシの頭も信心からと同じことであるが、信仰心に富む信者は疑うことを知らない。
「前回の四体の観音像とまったく同じ仕様でよろしいでしょうか?」
八丈島の前に座った作業着姿の男が確認をしてくる。
「はい。そのようにお願いします」
「ではそのときのデータを元に、観音像二体の作成をさせていただきます」
「支払いは前回と同じく振り込みでいいですかな?」
「はい。同じ口座へお願いします」
「振り込みの名義ですが、私の個人名でもいいですかな?」
「八丈島さんの個人名ですか? ああ、はい構いませんよ」業者としては確実に代金が入ればいい。
「代金は前払いにしますし、現物は私がここまで引き取りに来ます。領収書はそのときにもらう形でいいかな?」
「はい。それでも構いませんよ」男はニコリと笑う。
「わがまま言ってスマンね。いろいろと訳アリでしてね」
八丈島は苦笑しながら、業者に感謝をした。
「神々教団様はうちのお得意様ですから、何なりとおっしゃってください」
「それはありがとう。助かります」
帰り際、八丈島はレプリカ観音像の出来上がりの日にちを訊いた。
教祖が退院して来る日までは十分に間に合った。
脱出本舗の主任でもある法華は神々教団から次々と信者を還俗させて、教団にじわじわとダメージを与えていた。もちろんそれに応じての収入も莫大なものになっている。何といっても、一人を連れ出すのに百万円だ。失敗すると倍返しだが、いままで失敗はしたことはない。法華のシノギはまるでギャンブルだが、勝ち続けているというわけだ。
しかし神々教も黙って見ているわけではない。砂猫組の若手組員に接触して、足を洗わせている。法華のように依頼者から金品を授受しているわけではなさそうだ。あくまでも砂猫組に対抗するための嫌がらせに過ぎない。
組に入りたての新人は落としやすい。入ってみたものの自分のイメージとは違い、戸惑っている者もいるからだ。組員になったからといって、その日から高級車を乗り回せるわけない。そんな時代ではない。誰しも見習いからのスタートだ。
そんなことも知らずに入って来た若者の弱点を、神々教は突いてくる。信者は全国に点在している。その多数の信者を使って念入りにリサーチをしているのだろう。小さな組にはできない人海戦術だ。
しかし、砂猫組が還俗させた信者の数と、神々教が抜けさせた組員の数には大きな差がある。圧倒的に砂猫組の方が勝っている。そもそも砂猫組に入ってくる新人組員の数は少ない。世の中にはたくさんのチンピラや半グレがいるのだが、ヤクザが昔のように羽振りがいいと思っている連中は今や少ないし、事実羽振りはよくない。暴対法以降、業界には不景気の風が吹いていて、一向に止みそうにない。
だが、法華の気分はいい。
今回はまとめて五人の信者を連れ戻すことに成功したからだ。
五人が仲良く入信したのだが、元々信仰心があったわけではなく、教祖への憧憬や尊敬なども皆無だった。ただ世の中が嫌になった者同志が声を掛けあって入ったという。となると、連れ戻すことは簡単だ。無理矢理拉致に近いことをしなくても、すんなりと付いて来てくれた。
成功報酬として、五人それぞれの家族から百万円を受け取ったから、五百万円のアガリだった。現金一括で五百万円は大きい。
五人がこれからどんな人生を歩むことになるのか、また教団に戻ることになるのか、そんなことはどうでもいい。教団から連れ出して、依頼人に届けるまでが仕事だからだ。その後のことなんか、知ったことではない。また戻れば、また連れ戻すまでのことだ。当然、新たな料金はいただく。
法華は自宅マンションへ向かって歩いていた。さっきまではボディガードも兼ねた子分が二人付いていたのだが、一人で大丈夫だからと言って帰ってもらった。
親分からは一人で出歩かないように言われているが、聞かなかったことにする。
振津と墓魏が何者かに襲われた。砂猫組の幹部四天王のうち二人が襲われたのだから、次は自分か茂湯だろう。だから、わざと一人で歩いてやる。自分をおとりにして、敵をおびき寄せて、反撃してやる。頼まれたわけじゃないが、振津と墓魏のカタキ討ちをしてやるつもりだ。このまま組が舐められるのを見ているわけにはいかない。やられたらやり返すのが業界の掟だ。そして、掟と約束は守るために存在する。
親分の意に逆らうが、こちらも命を賭けている。あの親分なら分かってくれるはずだ。
いつもは移動に車を使っているが、ここ最近はこうして歩いている。いつでも相手になってやろうと身構えて歩いているのだが、残念なことにこういうときに限って、何も起こらない。
夕暮れ時、前からバイオリンケースを持った若い女性が前からゆっくりと歩いてくる。グレーのパンツスーツ姿で、長い黒髪をしている。いかにもお嬢様というタイプだ。
俺とは住んでる世界が違うなと法華は思った。
だが、人を見かけで判断してはいけない。かわいいネエチャンなんかには気を付けろと、先日みんなの前で自分が演説をぶった通りだ。となると、このお嬢様は危険だ。この近所には音大もなければ、バイオリン教室も楽器店もないし、コンサート会場もないからだ。
だったら、なぜバイオリンを持ち歩いているのか?
若い女が立ち止まって、こちらを見た。
「法華様ですよね」バイオリン女は鈴を転がすような美しい声を出した。
ふん、やっぱり来やがったか。
女と向かい合った法華は身構えた。
振津を襲ったのはこいつかもしれない。背中を切られていたはずだ。
バイオリンケースに中の何らかの武器が入っているのかもしれない。
「ああ、そうだが」こちらも立ち止まって返事をしてやる。
そちらは俺の名前を知っているようだが、俺にはアンタのようなお嬢様に知り合いはいない。罠にかかってやろうじゃないか。
「私に頂戴できますでしょうか?」
「何をだ?」
「法華様のお命を」
お命頂戴だと?
お前、三流の時代劇じゃねえぞ。
女はバイオリンケースを抱え上げて、中から何かを取り出そうとする。
俺は手ぶらだ。武器なんかを持って歩いていたら、たちまち警察に連行されてしまうからだ。俺たちは職質の常連客だから、警察は俺を見つけると、久しぶりの友人に会えたように、いつもうれしそうな顔をして寄って来る。俺はあいつらが大嫌いなんだが、あいつらは俺たちのことが大好きなんだ。特に暴力団追放月間になるとやたら張り切りやがる。あれはノルマがあるんじゃないかと、俺は睨んでいる。
さて、目の前の女をどうするかだ。
とっ捕まえて、二人のカタキを討ってやろうと歩いていたのだが、相手が気味悪すぎる。
――逃げるか?
いや待て。ヤクザが若いネエチャンを前に逃げるのはカッコ悪いし、逃げるところを動画に撮られてネットで拡散されるのもみっともない。
どうしたものかと考えていると……。
「こんにちは」
今度は後ろから挨拶をされた。
テニスのラケットケースを抱えた制服姿の女子高生が立っていた。
――新手の殺し屋かよ。
まさかこの俺が二人の若い女性に挟まれちまうなんて、モテ期の到来かよ。
だが、これでも五十人ほどの子分を抱える暴力団の幹部なんだぞ。
――さて、どう逃げるかだ。
俺は逃げることに決めた。二人は荷物を持っている。おそらく人殺し用の武器だ。一方、俺は手ぶらだ。走れば逃げ切れる。すっかり中年だが少しは走れる。ここは、動画を撮られるよりも命の方が大事だ。どうせ後ろ姿だろうから、拡散されても、あの動画は俺じゃないとシラを切っておけばいい。
俺は女子高生の方を見た。
あの子の脇を走ってすり抜けてやるか。こっちの女の方が華奢だからな。
だがその子は俺を見てなかった。バイオリンの女を見ていたのだ。
「こんな所で会えるなんて光栄ですよ、バイオリニストのお姉さん」
「私も同感よ。女子高生のテニス部の殺し屋さん。あなたが履いてるルーズソックスは私の時代に流行ったものよ」
「ああ、これね。今学校で流行ってるよ。再会できてうれしいでしょう」
二人はお互い近づいて行く。
それぞれがバイオリンケースとラケットケースに手を突っ込んでいる。
――おいおい、待てよ。俺はここにいるぞ。砂猫組四天王の一人だぞ。
法華は戸惑って、二人を交互に見つめる。
女子高生がこちらを見た。
「私はおじさんの味方です。今から敵を仕留めます。ケガをすると危ないですから、おじさんは向こうへ行っててください」
「はい」俺は素直に従った。
女子高生が“仕留める”なんて言葉を使うのか?
普通は“かわいい”とか“ヤバい”とか“マジで?”とかだろ。
テニスの女子高生が俺の味方ということは、親分が俺の護衛として雇ったのだろう。おそらく後を付けてたのだろうが、俺としたことがまったく気付かなかった。つまり、この子はプロだ。
ならば、バイオリンの女は神々教が雇ったに違いない。俺を殺そうと自宅マンションの近くで待ち伏せしていたのだろう。
そして、殺し屋同士がここで対峙した。
だがこれは学校の演劇部の出し物ではない。今から二人は殺し合いを始めるのだ。
俺はスマホを取り出した。ヤバくなったら通報するためだ。ヤクザが警察に助けを求めるのはカッコ悪いが、そんなことは言ってられない。若い女性の命にかかわることだ。
「おじさん」テニス女子がまた呼んだ。「警察に通報するのはやめてくださいね」
「はい」俺はまた素直に従って、スマホを片付けた。
今から殺し合いをするというのに、この女は余裕があるじゃねえか。
バイオリンの女性がバイオリンケースから手を出した。弓を持っていた。
テニスの女子もラケットケースから手を出した。テニスラケットを持っていた。
「お姉さんはさっき私のことをテニス部と言いましたよね」
「あら、違ったかしら?」
「私は物理部なんです。こう見えてもリケジョなんです」
「それはごめんなさいね。でもあなたはここで死んじゃうから、もう物理部には戻れないわね。物理の大家アインシュタイン先生がいる天国へ送ってあげるわ」
「お姉さんこそ、二度とその手でバイオリンは持てませんよ。ストラディヴァリウスを弾きたかったでしょうにね」
何だこれは。お嬢様同士の喧嘩か?
法華は呆れる。今までの緊張感がたちまち緩んだ。
まさか素人相手のドッキリじゃないだろうな。
だがその甘い考えはたちまち一蹴された。
突然バイオリン女が動いた。まるでフェンシングのように真っすぐ付き出された弓は、テニス女子の左手の二の腕を掠め、制服のブラウスを引き裂いた。
女子高生の白くて細い腕から血が流れ出す。
これはマジじゃねえかよ!
なんだよ、あの弓は。何か改造が施してあるのか? それともバイオリンの弓というのは元々あんなに鋭いものなのか? だったら演奏するとき危ないじゃないか。
法華は、バイオリンのような高級楽器とは無縁の人生を送って来たため分からない。バイオリンの演奏を趣味にしている組員なんかいない。
だが、あんなもので突っつかれたら痛いに決まってる。
おじさんは向こうへ行っててくださいと言われたことを思い出して、放置自転車の陰に隠れる。姿は丸見えだが、他に身を隠す物は見当たらない。何も無いよりかマシだろう。邪魔な放置自転車が役に立つこともある。
ところで俺はどっちを応援すればいいんだ?
そうか。おじさんの味方だと言ってきたテニス女子か。
いや待て。そもそも殺し合いを応援してもいいのか?
止めないとダメだろ。
暴力はダメだ。絶対ダメだ。何事も話せばわかる。
現役暴力団幹部の俺が言っても説得力はないが……。
今度は女子高生がテニスラケットを手に、スカートの裾を翻して、バイオリン女に向かって行った。左腕から流血したまま、右手に持ったラケットを、体をしならせて、大きく振りかぶる。物理部にしてはうまい。まるでアスリートだ。
しかしバイオリン女は弓を横にしてラケットを受け止め、ニヤッと笑った。まるで攻撃を予想していたかのようだ。弓は大きくしなったが、折れることはなかった。
だが、瞬間バチッという音がして、バイオリン女は弾かれたように地面へ投げ出された。さすがに弓は放さず、弓を持っている右手を左手で押さえている。
「まさか……、ラケットがスタンガンだったとは……、私の不覚ですわ。この弓が……、金属性だと見抜いていたのですね」
スタンガンだって! 俺も初めて見たぞ。武器なんて、ドスしか見たことないぞ。
強烈な電流が走り、右半身が痺れているのだろう。バイオリン女の言葉は不明瞭だ。
それでも女はヨロヨロと立ち上がった。高級そうなパンツスーツは汚れている。
「あなた……、物理部とおっしゃったわね。それはお手製のラケットかしら?」
「そうですわよ、お姉さま」テニス女子がからかう。「痺れ具合はいかがかしら?」
「ご心配無用ですわ。私にはまだ左半身が残ってますわ。あなたの左腕は使えなくなったけど、右腕はまだ使えるようにね」
「ふーん。見かけによらず、ご気丈なお嬢様ですこと――じゃあ、これはどうかな」
いきなりテニス女子は地を蹴ると、体重を乗せて、バイオリン女の頭に向け、強烈なスマッシュを放つように、再びラケットを叩きつけた。
バイオリン女はとっさに弓を縦にして構えた。弓の先端はガットの隙間を通り抜け、テニス女子の右胸に突き刺さった。
それでもテニス女子はラケットを横に倒して、弓をがっしりと押さえ込んだ。バイオリン女は弓を取られまいと手に力を入れた。
そのときラケットに再び電流が走った。バイオリン女は耐えようとしていたようだが、電圧が最大限に上げられたことを知らない。
衝撃で吹き飛ばされ、仰向けのまま、動かなくなった。
グレーのスーツのあちこちが焦げて、微かに白い煙を漂わせている。唯一の武器である弓は手から離れて、傍らに転がっていた。
法華は放置自転車の陰に隠れて戦況を見守っていた。自転車のフレームを握っている手は汗でビショビショだ。
「おじさん、もう出て来てもいいよ」テニス女子が声を掛けてきた。
だが法華もヤクザだ。威厳を示さないといけない。
「ああ、おう、そうか。もう終わったのか。あんた、なかなかやるじゃないか」
テニス女子は傷ついた左腕にハンカチを器用に巻きつけて止血している。
「あんた、右胸も刺されただろう」法華もさすがに心配する。
「大丈夫だよ。戦闘用のブラをしてるから。ブラウスには穴が開いちゃったけどね」
戦闘用のブラ? そんな下着を売ってるのか。トリンプの新作か? いや、ないだろう。物理部だから自作なのだろう。それよりもバイオリン女だ。早く通報してやろう。
法華はスマホを取り出した。
呼ぶのは救急車か? いや、死んでるから葬儀屋か? とりあえず事件だから警察か?
テニス女子は俺の混乱を見抜いたかのように言ってきた。
「救急車で大丈夫だよ」
「あんたは大丈夫だろうけど、あのバイオリンの人は……」
「あの人、死んでないよ。だから救急車で大丈夫なんだよ」
「あれで生きてるのか? 体中から白煙が上がってるぜ」
「ウチの計算によると死なないはずなんだ」テニス女子は腰に付けた小さな箱を見せる。ラケットと繋がったバッテリーのようだ。「気絶する程度の電気しか流してないから。体のあちこちをヤケドしてると思うけどね。でも計算上だから分からないなあ。もしかしたら危険な状態かもしれないから、後はおじさん、頼んだよ」
法華は自分のスマホを使わず、倒れているバイオリン女のスーツのポケットからスマホを見つけて、救急車を手配した。これだとこちらの痕跡は残らない。
「じゃあ、おじさん。またのご利用をお待ちしてまーす」
法華は何事もなかったかのように去って行く女子高生の小さな背中を見て思った。
恐ろしい。ヤクザよりも恐ろしい。
法華と同じように、教団に盾突く奴を返り討ちにしてやろうと、一人で歩いている男がいた。砂猫組四天王の最後の一人である茂湯である。こちらも先ほどまでボディガードが付いていたのだが帰らせた。
一人歩きは親分から止められているが、幹部が二人もやられている。黙って見ているわけにはいかない。守りに入るわけにはいかない。常に攻め続けるヤクザでないと舐められる。ヤクザは舐められたら終わりだ。力がないと思われて、信用がなくなり、シノギもうまくいかなくなる。
法華と同じように、自分をおとりにして、敵を誘い出そうとしていた。その法華の目の前で、殺し屋同士が戦っていたことはまだ知らない。
茂湯は自宅までをブラブラと歩いている。のんびり歩いているように見えるが、目をあちこちに向けて、どこからかかってこられても対処できるよう、集中力を研ぎ澄まして、臨戦態勢に入っている。
茂湯も丸腰で何の武器も持っていない。法華と同じように職質の常連だから、武器なんか持っていたら留置場送りだ。たとえドライバー一本でもだ。警察のヤクザへの風当たりは近年特にキツい。あれこれと因縁を付けて捕まえる。
どっちが外道か分からないと茂湯は思う。
ヤクザに恨みでもあるのか? あるだろうな。社会を大いに乱してるからな。
しかし茂湯は百八十センチを越えるガタイをしている。これが唯一の武器と言えよう。
前方には誰も歩いてない。後ろに目をやると、背中の曲がった老婆が一人で杖をついて歩いている。茶色い着物を着て、白い和装バッグを持った小柄なおばあさんだ。
まさか、あのおばあさんが殺し屋なんてことはないだろう。
年金ももらってるだろうから、金には困ってないはずだ。
あの年になって、何が楽しくて人を殺すんだ?
俺が一発蹴飛ばしたら終わりだろう。いや、老婆を蹴飛ばしてはいけない。弱きを助け、強きを挫くのが任侠道に生きる者の務めだ。社会的弱者を標的にするなんて、ヤクザの風上にも置けない不逞の輩だ。チンピラ以下の存在だ。
しかし法華が人を見かけで判断してはダメだと言っていた。若い奴がばあさんに変装してるかもしれないから気をつけよう。犯人がばあさんに変装している推理小説もある。
茂湯は前後左右に気を配りながら歩いている。
だが、忘れていた。歩くときは頭上に気を付けるんだと親分に言われたことを。
突然あたりが暗くなった。太陽が雲に隠れたわけではない。何かが茂湯の頭上を覆い隠したのだ。プーンと獣の臭いがした。
見上げると、頭のすぐ上をデカい鳥が飛んでいた。オウギワシである。大きさは二メートルを越えていた。クマの爪よりも長い鉤爪でこちらを狙っている。
茂湯は、鳥というとカラスとスズメとハトしか知らない。外国の鳥なんか知るはずもない。
「なんだ、こいつは!?」
頭を覆い隠しながら、中腰になる。あたりを見渡すが逃げ込める場所はない。
「墓魏が言ってたのはこの鳥か。確かじいさんが連れ去られたのだな」
デカい鳥と言っても、茂湯はじいさんと違って大柄だ。
「拉致はされないだろうけど、あの爪で掴まれたら痛いだろうな」デカい鳥は上空を舞って、こちらに狙いを付けている。「どうすればいいんだ?」
いきなり鳥が急降下を始めた。
「やべぇぞ!」とりあえず、丸くなって頭を守る。
そのとき大柄な茂湯が突き飛ばされて転がった。
「次は何だよ!」顔を向けると、先ほどの腰の曲がったおばあさんが立っていた。
「これこれ、お若いの。ここはあたしに任せて、ちょっと離れてなさい」
「やたらと力が強いおばあちゃんはどなたさんで?」
「あたしゃ、殺し屋だよ。お若いのが生まれる前からこの稼業をやってるから、あっちで黙って見物してなさい」隠れるための看板を指差す。
「へい。分かりやした」茂湯は思わず、おばあちゃんに従ってしまう。
現役ヤクザが腰の曲がったおばあちゃんに助けられるなんてと思いつつ、看板の後ろに隠れた。その看板には“死亡事故現場”と書かれていて、看板の下にはいくつかの花束がお供えしてあった。
まさか、おばあちゃんはここで誰かを殺したのか?
ナンマイダ~と手を合わせておく。
オウギワシは攻撃する相手をおばあちゃんへと変えて襲いかかる。だがおばあちゃんは二メートル越えの巨大な鳥を前にして、なすすべもなく、倒れ込んだ。
おばあちゃん、弱いじゃねえかよ!
茂湯は焦る。このまま助けに行くべきか。
おばあちゃんからは黙って見ているように言われた。
しかし、亀のように丸くなったおばあちゃんの上にオウギワシが覆いかぶさり、今にもくちばしで頭を突こうとしている。
弱者がやられているというのに、ヤクザが黙って見ているわけにはいかない。任侠道がすたるというのはこのことだ。
茂湯は死亡事故看板の陰から飛び出した。
その瞬間、数発の発射音が聞こえた。
オウギワシの背中の四ヶ所から血しぶきが噴水のように上がった。
何が起きた!?
茂湯は立ち止まった。鳥は痙攣を始めた。
「これこれ、お若いの」声だけが聞こえる。
おばあちゃんがデカい鳥の下敷きになっていた。
「この鳥をどけてくれんかね。息苦しくてかなわん」
茂湯は苦労して、死んでいる大きな鳥を横に押しのけた。
うつ伏せになっているおばあちゃんの背中には四つの穴が開いていて、茶色い着物の奥から四つの銃口が見えていた。鳥は至近距離から四発の銃弾を受けて、絶命したようだ。つまり、おばあちゃんが簡単に倒れ込んだのは、鳥を呼び寄せるための作戦だったのだ。体を張った作戦に茂湯は感心する。
おばあちゃんは背中が曲がっているように見えていたが、とんでもない武器を仕込んでいたようだ。銃口からはまだ煙が上がっている。
「どっこいしょ」おばあちゃんは体を起こして、その場に座り込んだ。
「おばあちゃん、大丈夫だったかい?」茂湯が声をかけるが……「待ってくれ、何をするんだ!」
おばあちゃんが茂湯に杖を向けた。両手でしっかりと握っている。
茂湯は長年この業界にいる。だから今眉間を狙っている杖が弾丸を発射できる武器だとすぐに気付いた。
なぜ、俺に銃口を向けるのか?
味方じゃなかったのか?
デカい鳥をやっつけてくれたじゃないか。
「お若いの。あたしが三つ数えたら、座るんだよ」
「へっ!?」訳が分からないがここでも素直に従う。
「ひとーつ、ふたーつ、みーっつ」
茂湯がしゃがんだ瞬間、杖は火を噴いた。
飛び出した弾丸は一直線で茂湯の頭上を通り過ぎ、ちょうど後ろに建っているアパートの二階の廊下に飛んで行って、一人の男の胸に命中した。
男は弾かれたようにその場へ倒れ込んだ。
「なんだ!」茂湯はしゃがんだまま、後ろを振り返る。「おばあちゃん、あの男は!?」
「ああ、この鳥の飼い主さ。あそこから人間には聞こえない音を出す笛でも吹いて、この大きな鳥を操っていたのだろうよ。恐ろしい殺し屋さ」
いや、おばあちゃんの方が恐ろしいんだけどと、茂湯は言いそうになる。
「というわけでな。あたしゃ、ここで帰るとするから、鳥の後始末は頼んだよ――どっこいしょっと」おばあちゃんが立ち上がった。
茂湯はスマホを取り出した。
呼ぶのは警察か? 動物園か? 焼き鳥屋か? 何人前の焼き鳥になるのか? 塩で喰うのか? タレで喰うのか? そもそもこいつは喰ったらうまいのか? 頭が回らない。
おばあちゃんは白い和装バッグから薄羽織を取り出すと、さっと肩から羽織って、背中の四つの銃口を隠し、何事もなかったかのように杖をついて歩き出した。
唖然と見送る茂湯。
現役ヤクザがあんなヨボヨボのおばあちゃんに助けられるとは情けない。
これでは仲間に合わせる顔もないと落ち込む。
しかし、仲間の法華が物理部の女子高生に助けられたことをまだ知らない。
茂湯は去って行くおばあちゃんの曲がった背中を見て思った。
恐ろしい。ヤクザよりも恐ろしい。
その頃、振津は三人の子分を引き連れて歩いていた。
何者かに襲われて以来、親分から一人歩きはするなと言われ、常に子分と一緒に行動している。特に屈強な三人を選んでいる。
法華と茂湯は犯人を誘い出すと言って、一人で行動しているらしいが大丈夫だろうか。
三人の子分はあちこちに目をやりながら、振津を取り囲むようにして歩いている。
前から一人の女性が歩いてくるが、三人は気に留めない。
ごく普通の中年のおばさんだったからだ。殺気も何も感じられない。白いエプロンをしているため、どこか近くの鮮魚店の人が、配達か何かで出歩いていると思った。
ところが、その女性が声を掛けてきた。
「あら、振津さんですね。こんにちは。私はアコヤと申します」
「アコヤさん?」振津は立ち止まって、不思議そうな顔をするが、三人の子分たちは知り合いだと思って、囲みを解く。近くで見ても、女性は怪しいところがなかった。
「もしかして、おふくろの?」
「あっ、そうです、そうです。お母様のところの者です」アコヤと名乗ったエプロン女が近づいて来る。
振津の母親は日本舞踊の師範代として、先日の公園の盆踊り大会でもその腕を披露して、参加者を沸かせていたし、息子である振津も先頭で踊り出し、意外な才能の片鱗を見せて、親分たちを驚かせていた。
振津はこの女性が母親の踊りの弟子であり、あの盆踊りの中にいて、踊っていたのだろうと思った。子分たちも緊張から解放されて、二人の会話に耳を傾けている。
「盆踊りを盛り上げていただきましてありがとうございます」振津はお礼を言う。
「えっ、盆踊り? あー、はいはい。盆踊りはよかったですねえ」
近づいて来たアコヤは振津と向かい合った。ニコニコ笑っている。
その笑顔を見て、振津も子分も油断をした。
アコヤがさりげなく、エプロンのポケットから何かを取り出した。
そのとき……。
「ちょっと待ちな!」女のハスキーな声がした。
全員が一斉に振り向くと、全身ヒョウ柄のおばさんが立っていた。
ヒョウの顔が描かれたTシャツを着て、ヒョウ柄のバケットハットをかぶり、ヒョウ柄のレギンスを穿き、ヒョウ柄のパンプスを履き、ヒョウ柄のバッグを肩から掛けている。
おばさんが太っているため、Tシャツのヒョウの顔は横に伸びて丸顔になっている。メタボのヒョウだ。
「あんたを背中から刺して、意識不明の重体に陥らせたのはその女だよ」
「何!」振津は振り向くが、アコヤはたちまち目の前から離れて、距離を取り、「邪魔するんじゃないよ、ヒョウ柄女が!」大声で叫んだ。
「お兄ちゃんたち」ヒョウ柄おばさんがアコヤから目を離さないで言った。「ここは私に任せて、ちょっと下がってなさい」
「いや、待ってくれ。この女が俺を刺したのなら、それなりの代償を払ってもらう」振津は納得がいかない。子分が見ているため、良いところも見せなくてはいけない。
「お兄ちゃんの気持ちも分かるけど、私はあんたたちの親分から雇われてるんだよ。だから、気楽に見物しててよ――それとも何かい。お兄ちゃんは砂猫親分に逆らうのかい?」
なんで逆らうことになるのか、よく分からないが、親分の名前を出されたんじゃ仕方がない。引き下がるとするか。
「おい、お前ら」振津は子分を見る。「このお姉さん方が今から喧嘩を始めるらしいから、お言葉に甘えて、見物と行こうや。親分の顔も立てなきゃならないしな」
振津は三人の子分を従えて、近くにあったお地蔵さんの後ろに避難する。
「何かあったらお地蔵さんが守ってくれるだろう」
「でもアニキ、お地蔵さんが守るのは子供じゃなかったですか?」
「大人はダメなのか?」
「正確な年齢制限があるのか知りませんが、それにお地蔵さんはあまり強くなさそうですよ。もっと強そうな仏さんの方がよくないですか?」
「この辺りにはお地蔵さんしか見当たらないから、いいことにしようや――お地蔵さん、お地蔵さん、俺たちを守ってください。ヤクザもんだけど、人間はみな平等です。もし不安なら不動明王さんとか毘沙門天さんとか強そうなお友達を連れて来てください」四人はお地蔵さんの後ろから祈りを捧げた。「裏側からすいませんね」
「あの女たちは今からどうやって喧嘩をするのでしょうかね?」子分の一人が訊く。
「ぜいぜい口喧嘩だろう。女の口喧嘩はおっかないぞ。その後は髪の引っ張り合いだろうよ。もしかしたら平手打ちが飛び出るかもしれんぞ」
振津は笑ったが、数分後、その顔は恐ろしさで凍り付くことになる。
アコヤはいつの間にか、両手に牡蠣の貝殻を持っていた。よく切れるように貝殻のエッジは鋭く砥がれている。振津の背中を引き裂いた牡蠣だ。
一方、ヒョウ柄おばさんは長い爪を見せ、ニッと笑った口元からは先端が鋭く尖った銀歯を見せる。神々教団の幹部何和を仕留めた爪と歯だ。
双方が、あらかじめ手の内である武器を見せつけるとは、勝つ自信がある証拠か?
アコヤが先に動いた。
すばやく地を蹴ると、ヒョウ柄おばさんに正面から向かって行き、両手に持った牡蠣を頭上から振り下ろした。
しかし、ヒョウ柄おばさんはその体型からは想像できないほどの速さで横に移動して、牡蠣攻撃をかわした。
「あら、やるじゃない。ヒョウ柄さん。じゃあ、これはどうかな?」アコヤは二つの牡蠣を投げつけた。
至近距離から投げられたため、避けきれず、一つの牡蠣がヒョウ柄おばさんの頬を傷つける。
「痛ェな!」ヒョウ柄おばさんは大きな声で叫ぶと、手の甲で血を拭い、ネイルサロンでヒョウの絵を描いてもらった長い爪で襲いかかる。
アコヤは次々と繰り出されて行く爪攻撃から必死に逃げて距離を取った。
と同時にエプロンのポケットから黒い塊を取り出す――新鮮なウニだった。
アコヤはウニを野球のボールのように投げつけた。
その後もポケットから次々に武器を取り出す。
ヒトデを手裏剣のように投げ、カメノテをまきびしのようにバラ撒き、ワカメをムチのように操る。
「アニキ、あのエプロンのポケットは四次元ポケットみたいですぜ」子分が驚いている。
「ああ、いろいろなものが出てくるな」振津もお地蔵さんの裏で感心している。「だが、二人の戦いはどう見てもマンガの世界だな」
ヒョウ柄おばさんはアコヤの波状攻撃を受け、ヒョウ柄のTシャツも、ヒョウ柄のレギンスも、ヒョウ柄のバケットハットもズタズタになっている。
それでも頭を下げ、姿勢を低くして、アコヤに迫って行く。
そして、鋭く尖った銀歯を見せて笑ったかと思うと、手に持っていたスプレーを吹きかけた。
「何だい、これは。安物の香水かい?」アコヤは液体がかかったエプロンを見ながら笑ったが、ニオイからたちまちその正体に気づく。
「ガソリンかよ!」あわててエプロンを外す。
ヒョウ柄おばさんはヒョウ柄バッグから飴を数粒取り出した。
「あんた、アメちゃんは好きかい?」
アコヤに向けて、数粒のアメちゃんを放り投げた。
アメちゃんはたちまち発火して、エプロンを燃やすが、その業火はアコヤの体にも引火した。
アコヤは叫び声を上げながら、地面を転げ回って、火を消そうとする。しかし、火は消えてくれない。それどころかますます燃え上がり、全身に火が回った。
そして、アコヤはついに力尽きて動かなくなった。
やがて自然に鎮火して、あたりに静寂が戻った。
「お兄ちゃんたち」ヒョウ柄おばさんが呼びかける。「もう大丈夫だよ。出ておいで」
振津と三人の子分がお地蔵さんの裏からひょっこりと顔を出す。
真っ黒こげになっているアコヤは地面にうつ伏せで倒れ込み、全身からブスブスと煙を上げている。
その姿を見て、四人は声も出せない。女の口喧嘩どころではなかったからだ。
ヒョウ柄おばさんはスマホで電話をしている。
「とりあえず、俺たちは助かったな」やっとのことで振津が声を出す。
「お地蔵さんのお陰ですね」子分が震える声で答える。
「ああ、弱っちいお地蔵さんもやればできるんだよ」
四人は足をもつれさせながら、お地蔵さんの裏から這うように出てきた。
「ああ、お兄ちゃんたち」ヒョウ柄おばさんがスマホを切った。「今救急車を呼んだから、さっさとズラかった方がいいよ。あたしも早く帰って、晩御飯の支度をしなけりゃいけないからね――じゃあ、またどこかで会いましょう。砂猫親分によろしくね」
四人は帰って行くヒョウ柄おばさんの大きな背中を見て思った。
恐ろしい。ヤクザよりも恐ろしい。
「ただいまー!」ヒョウ柄おばさんが玄関のドアを開けて、大きな声を廊下に響かせた。
「おかえりー!」奥から娘の声が聞こえた。こちらも大きな声だ。
「ごめんね、遅くなって。今からご飯の支度をするからね」
娘が廊下に出てきた。
「あんた、大丈夫? ブラウスが破れてるよ」
娘のブラウスの左腕と右胸の部分が破れていた。
「大丈夫だよ。たいした傷じゃないよ。戦闘用ブラも装着してたからね。私としたことがバイオリンのお姉さんに手こずっちゃった――それよりもお母さんだってヒドいよ。頬に傷ができてるし、洋服のあちこちが破れてるよ」
「あたしもシーフードババアに手こずっちゃってね」
「お母さんが手こずるなんて、強敵だったんだね。ちゃんと仕留めた?」
「うん。今頃はいい具合に焼けてるよ――焼けてるで思い付いたんだけど、今夜は焼肉でいい?」
「えぇー! 昨日も焼肉だったじゃない」
「だって、昨日も一人の男を火だるまにしてやったんだもん。我慢して食べてよね」
「じゃあ、食べてあげるかな」
「あんた、焼肉なんて一般家庭じゃ高級料理なんだからね」
「母娘で大儲けしてるからいいじゃん」
「そだね」母はニコッと笑って、鋭く尖った銀歯を見せた。
♪♪♪♪♪
砂猫組四天王が歌って、踊り出す。
親分は加わってないので、いつものように下半身だけでなく、全身を使って踊れる。
もっとも、四人とも中年だから激しい踊りは元よりできない。
手に扇子を持って、扇いでいる。
♪俺たちは世にも恐ろしいヤクザだよ~
だけどもっと怖い連中がいる~
幼稚園の先生に女子高生にバイオリンのお嬢様~
おばあちゃんにおじいちゃん~
海女さんにヒョウ柄おばさん~
変な鳥使いだって出てきたよ~
こいつらみんな殺し屋さ~
パタパタ、パタパタ(扇子を扇ぐ音)
世の中は狭そうで、広いぜ~
変な奴らがいっぱいいるぜ~
怖い奴らがいっぱいいるぜ~
油断してちゃ、いけないぜ~
みんな、せいぜい気を付けるんだな~
バッタリ遭ったら逃げるが一番~
プライド捨てて、スタコラサッサ~
自分の命が最優先なのさ~
パタパタ、パタパタ(扇子を扇ぐ音)
♪♪♪♪♪
砂猫組の事務所にある巨大な神棚。そこは神様も仏様も一緒くたになっていて、天照大神の神像の隣に観音像も安置されている。
黄金色に輝く高さ約二十センチの“陰の観音像”である。
近所の以暮寺が台風の被害に遭って、五重塔が倒壊したとき、再建のために寄付をしたところ、お礼として授けられたものだ。
まさか観音さんもヤクザの事務所を守る破目になるとは思いもよらなかっただろう。
“陰の観音像”の隣には高さ約五十センチの観音像が並んでいる。
“陽の観音像”である。
同じく五重塔の再建のために寄付をした神々教が返礼として授けられたものである。
観音像の大きさの違いは寄付金の違いによるものだ。
別々に安置されていたのだが、ここに陰陽二体の観音像が揃ったのである。
砂猫親分と神々教団の八丈島が神棚を見上げている。
「なかなか壮観な眺めですな」
親分が神仏三体を見上げながら、目を細めて、鼻をかんだティッシュペーパーを英国製の最高級ゴミ箱へ、適当に投げつけた。
ところが、たまたま入ってしまい、ゴミ箱全体がLEDで赤く光り出した。
八丈島はいったい何が起きたのかと、ゴミ箱を見つめるが、光っただけでその後は何も起きないので、無駄な機能なのだと得心した。
「退職金の代わりにいただいてきました」
神々教にあった陽の観音像は、先ほど八丈島が事務所に持って来たものである。
「あのケチンボな教祖がよくくれましたね」
教祖が入院中の間にレプリカと勝手にすり替えたとは言わない。そのレプリカは本物の観音像に劣るとはいえ、大金を払って作製してもらった精巧なものである。見た目では分からない。これからもずっと教団本部最上階の教祖の移住スペースに飾られ続けるだろう。
「しかしね、八丈島さん。人間というものは欲を掻いたらイカンね」
「おやおや、親分さんらしくもない」八丈島は不思議がる。欲の塊のような親分がどうしたのか? らしくもないことを言い出す。
「いや、この年になってつくづくそう思うようになって来たよ」
「ほう、そうですか。私はまだそんな境地に達してませんなあ」八丈島は笑う。
八丈島は砂猫親分よりも随分と年上である。
「八丈島さん、せっかく持って来てもらったが、陰陽どちらかの観音像を差し上げますよ。わしが二つも持っておったら、バチが当たるかもしれん」
「親分はバチを恐れるほど、焼きが回ったのですか?」
「そうかもしれんな」
今、事務所内は子分に席を外させたので、二人きりである。
子分に聞かれないから、こんな本音を言うのだろうと、八丈島は思った。
「では、陰の観音像をいただきましょうか」
「小さい方でいいのですか?」
「陽の観音像は見飽きましたからな」
親分は手を伸ばして、約二十センチの陰の観音像を手元に下ろすと、フッと息を吹きかけてホコリを飛ばし、八丈島に手渡した。
八丈島は両手でうやうやしく、観音像を受け取る。
神棚では天照大神の神像と陽の観音像が並んで事務所を見守ることになった。
親分がポツリと言った。
「八丈島さんと暴れ回ってた頃が懐かしいよ」
管理人の桃賀は公園のベンチに座ってドローン教室を眺めていた。
砂猫公園内で開催されているドローン教室の講師は小学五年生の周人が務めている。給料の代わりに毎回図書カードを渡していた。何回か開催しているので、けっこう貯まったのではないだろうか。
周人と何やら話し込んでいた老人がやって来て、桃賀の隣に座った。
神々教団の元幹部である八丈島である。
「周人くんはしっかりしとるでしょう」桃賀が孫の自慢をするように言った。
「教団のことをいろいろと訊かれましたよ」
「この街の平和を乱すのは許さないと言っておったなあ――ところで、八丈島さんは教団に未練はないのかね?」
「はい、それはありません。いろいろと風穴を開けて、教団を弱体化させました。相手が巨大すぎるため、それが精一杯でした。完全崩壊に持ち込みたかったのですが、まだ時間がかかりそうです。小さな種だけは蒔いて来たつもりです」
「しかし、教祖はけっこういい年だ。後継者は決まってないのでしょう。あの巨大組織が弱体化するのも、時間の問題だと思うがね」
二人の老人は、公園内を飛んでいる数機の小さなドローンを見上げながら話している。傍から見れば、のんびりと過去を振り返っているように見えるだろう。
「その時間を一分一秒でも縮めたいですな」
「八丈島さんと暴れ回ってた頃が懐かしいねえ」桃賀が笑い出す。
「日々、命の駆け引きをしていた頃には戻りたくないですがね」八丈島も釣られて笑う。
「砂猫組を定年退職された後に、神々教へ再就職され、今年はそこも定年退職――さて、次はどこへ行かれるのかな?」
「一仕事終えてから、小さな無人島でも買って、釣り三昧の生活を送ろうと思ってます」
「ほう、それは素晴らしい」
八丈島は桃賀総長への挨拶を済ませると、砂猫公園を後にした。
荷物はボストンバッグ一つだった。
八丈島はバッグをあえてヒョイヒョイと軽く振りながら歩いているが、実はかなりの重量がある。本物の陰と陽の黄金の観音像が入っているからだ。二つを売りに出せば、無人島くらい買える金額になる。
元同僚である砂猫親分をレプリカで騙すのは忍びなかったが、陰陽どちらかの観音像を差し上げますと言われたときは驚いた。親分も年を経て、欲が薄れてきたのか。
陽の観音像だけでもよかったのだが、思いがけず陰の観音像も手に入り、本物の陰陽が揃った。業者に作らせた二体のレプリカの陽の観音像はそれぞれ、神々教と砂猫組事務所に置かれることになった。
さて、陰陽の観音像を土産にこの街を去ろう。
この街ではさんざん悪いことをしてきた。この街を出る寸前までロクなことをして来なかった。私を恨んでる人間も多いだろう。墓場まで持って行くべき事柄も多い。
しかし、もう一つやるべきことが残っている。
死後、私がどういう裁きを受けるのか、閻魔大王様の気分しだいだ。
“ぼくがウォッチしている神々教のことをかなり詳しく教えてくれる人に出会った。八丈島さんというおじいさんだ。管理人のモモンガさんの友達らしい。モモンガさんに会うため公園に来ていたらしく、いろいろと話をしているうちに、教団の幹部だった人だと分かったんだ。そこでぼくは神々教団のヘビーウォッチャーだと自己紹介して、女の人が牡蠣の貝殻で男の人を後ろから襲ってる写真を見せてあげた。ドローンで撮影したものだ。八丈島さんは写真を見て驚いていた。他にも撮ったのと訊かれたけど、残念ながらスクープ写真はこれしかない。写真を見せてあげた代わりに、ぼくは八丈島さんから重要な情報を手に入れた。
ぼくは大好きなこの街の平和を守りたいんだ。そのためにある作戦を決行する。ずっと前から決めていたことなんだけど、八丈島さんも協力してくれることになった。とても心強い。作戦の日にちは決めてある。時間が限られているから、今日八丈島さんと出会えたのは奇跡とも言うべきことで、とてもうれしい。ああ、決行が待ち遠しいなあ。晴れることを祈って、久しぶりにてるてる坊主でも作ろうかな――周人”
その日警察署内は朝からバタバタしていた。
出勤してきた佐々川刑事は、廊下を行き交う誰かを捕まえて事情を訊こうとするが、みんなは足早に去って行く。
俺はそんなに嫌われてるのかと落ち込む。
仕方なく捜査第一課の部屋に入り、デスクワークをしている和木刑事の前に座った。
「おはようさん。朝から何の騒ぎだ?」
「ああ、おはようございます」和木は手を止める。「何だか、デカいものを盗まれたようです。前代未聞の出来事ですよ」
「今どき銀行強盗は流行らんぞ」
「いいえ。盗まれたのは金銭ではなく、消防車です。水槽付きポンプ車が三台です」
「何だそれは!? ――ああ、ありがとう」
後輩がお茶を運んで来た。ズルッと一口飲む。
「消防署から直接盗んだのか?」
「まさか。現場に臨場中、運転席に誰もいなくなった頃を見計らって、三台とも乗り逃げされたようです」
「火事は本当だったのか?」
「小さなゴミ箱が燃えていたそうです」
「そんなボヤなのに、なんで水槽付きポンプ車が三台も出動するんだ?」
「大きな火事だから、たくさんの消防車を出動させてくださいと、複数の通報があったそうです」
「そいつらもグルというわけか」
「おそらくそうでしょう。すべて公衆電話からの通報だそうです」
「このご時世、そんなにたくさん公衆電話があちこちにあるのか?」
「駅前を始めとして、数ヶ所から掛かって来たそうです」
「組織ぐるみの犯行だというのか。それで、容疑者と消防車はどうなった?」
「両方とも見つかってません」
「容疑者はともかく、デカい消防車が三台だぞ。なんで見つからないんだ?」
「それが分からないんです」
佐々川はもう一口お茶を飲んで、太い腕を組む。
「なあ、和木よ。消防車なんてどうやって隠すんだ?」
「その辺に青空駐車していたらすぐに見つかりますからね。倉庫に入れるとしても、大型の消防車が三台ですから、かなり大きなスペースが必要です」
「上から何かをかぶせて隠すか」
「あっ、そういえばホームセンターから複数のブルーシートが盗難にあったという通報もあったようです」
「それだ!」佐々川はお茶を噴き出しそうになる。「盗んだ三台の水槽付きポンプ車はどこかでブルーシートをかけて保管されてるんだよ。それだと、ヘリコプターから見ても分からないし、そばから見ても建築資材か何かにしか見えないだろうよ」
「そのホームセンターですけど、他にもガードフェンスが盗まれてます」
「安全第一と書いてある黄色と黒色のシマシマのやつだな。それを置いて、人が近づけないようにしてあるんだろ。間違ってブルーシートを捲られたらバレるからな」
「他にも、速乾セメントとバスクリンとアヒルのオモチャが同じ日に盗まれたそうです」
「アヒルのオモチャだと?」
「はい。お風呂に浮かべるアレです」
「ああ、アレな」
佐々川はさらに一口お茶を飲んで、虚空を見上げる。
「うーん。消防車の赤色。ブルーシートの青色。ガードフェンスの黒色と黄色。速乾セメントの白色。バスクリンの緑色。アヒルのオモチャの黄色――カラフルだが、どういう意味だ?」
「さあ、分かりませんね」和木はデスクワークに戻った。
街の総合病院の特別室にはトイレもお風呂も大型テレビも大型冷蔵庫も完備されており、ホームシアターを使い、白い壁に映像を投影して、映画を楽しむこともできた。もちろんマルチスピーカーにより、さまざまな方向から音が聞こえるようになっている。
VIP待遇である神々教の教祖はその特別室で眠っていた。
先ほど、元教団幹部の八丈島が病院に内緒で持ち込んだワインに睡眠薬を入れて飲ませたからだ。
酒に目がない教祖は明日にペースメーカーの電池交換の手術を控えていたが、何も気にすることなく、ハーフボトルの高級ワインを飲み干した。
教祖の名前を呼び、返事がないことを確認してから、八丈島は窓際に立った。
病院の広大な駐車場が見えた。ほとんどのスペースが車で埋まっている。今の時間は診察がないため、大半は見舞客か業者の車だ。
カーテンを引いて、窓を開けた。涼しい風が部屋に入って来る。
窓から身を乗り出すようにして、八丈島は自分の姿を外へ見せる。
この駐車場のどこかに潜んでいる人物へのメッセージだ。
“教祖はこの最上階の部屋にいる。そして、今は熟睡している。看護師の定期検温は終わっている。お付きの信者は廊下で待機している。しばらくこの部屋には誰も入って来ない――作戦を決行するなら今だ”
八丈島は二体の観音像が入ったボストンバッグを手に部屋を出て行く。
一度だけ教祖を振り返った。
かつて愛した女性が静かな寝息を立てて眠っていた。
砂猫公園に並ぶ三十台のキッチンカーの脇に、突如として、ブルーシートがかけられた何かが置かれた。それは三つあった。
その何かは他と比べてかなり大きかったため、新しい遊具が設置されるのか、それとも新しく大型のキッチンカーが増えるのかとみんなは期待をしていたのだが、黄色と黒色のガードフェンスで囲まれて、近づけないようになっていた。
しかし深夜、ヒマな人間が近寄って、こっそりしゃがんでブルーシートをめくってみた。
「何だこれは、消防車じゃねえか。消防車タイプのキッチンカーなんてあるのか? 何を売るんだ? 水か? 消火器か? ホースか? 消防士のコスプレグッズか?」
独り言を言っていると……。
「おい、シケモク!」
師家木は名前を呼ばれて、あわてて立ち上がった。
「おお、これは茂湯のダンナ、夜分にお疲れ様です。公園のパトロールですか?」
誤魔化しながら、立ち上がって、長身の茂湯と向き合う。
「お前、この中を見たな」茂湯に睨まれる。
「あっ、いえ。俺のメシの種の空き缶とか空き瓶がないかなあと思いまして」
「あったのか?」
「いいえ。消防車しかありませんでした」
「見たならこうする」茂湯は上着のポケットに手を入れる。
「待ってください!」師家木は手を合わせて命乞いをする。「茂湯のアニキ、命だけはご勘弁を!」
茂湯の手には車のキーが握られていた。
「これからお前も俺たちの仕事に付き合ってもらう」
「へっ? 今からどこへ行くのですか?」
「神々公園だ――ブルーシートを外してくれ。謝礼は弾むぞ」
「えっ、謝礼!? それを先に言ってくださいよ」茂湯は気前がいいということを知っている。新しい仕事のゲットだ。「三台ともシートを外しちゃえばいいですか?」
「いや、他の二台はもう取り掛かっている」
師家木が暗がりに目を凝らしてみると、いつの間にか、多数の砂猫組の組員が集まって、テキパキと動いている。その中には砂猫親分の姿もあった。
やがて三台の水槽付き消防ポンプ車はブルーシートとガードフェンスを積み込んで、神々公園に向けて、深夜の道を走り出した。
先頭の消防車は茂湯が運転して、師家木は助手席に座っている。
夜中に連れ出された師家木は今から何が始まるのか分からないが、謝礼と聞いて、やる気満々の表情を浮かべていた。また、生まれて初めて乗る本物の消防車に興奮していた。
「茂湯のアニキ! サイレンは鳴らさないのですか?」
「どこを押せば鳴るのか分からないんだ」
その頃、神々公園の周辺住民が大きな振動で目を覚ました。
地震だと思ったのだが、しばらく待っていても、スマホの地震速報が流れて来ない。あわててラジオをつけてみても何も言わない。外を見ても街灯はついているし、異常はないようだ。
なんだ寝惚けていたのかと思い、時間を確認しただけで、住民たちはふたたび眠りについた。
午前三時の出来事だった。
建築資材置き場の地下から掘り進められていたトンネルは神々公園の地下に到達したところで爆破され、約二十メートル四方に渡って、地盤沈下を発生させていた。
今、その沈下区域を数人の男が取り囲み、トラックから下ろされた速乾セメントを水と一緒に、次々と投下している。陥没部分の底を固めるためだ。
そこへ三台の水槽付き消防ポンプ車が到着した。
消防ポンプ車は速乾セメントが固まっていることを確認して、放水を始める。水槽に水を積んでいるため、水源を探す必要はない。
三本のホースの中の一本を持っているのは師家木だ。両足を踏ん張って、放水をしている。
憧れの消防車に乗れたどころか、こうしてホースも持たせてもらっている。
「これじゃ、まるでヒーローじゃないか。これで謝礼までもらえるんだから言うことないなあ」三本のホースから大量の水が注ぎこまれている。「これが昼間だったら、キレイな虹が見えるのになあ。真っ暗だから残念だなあ――だけど、俺たちはこんな夜中に何をやってるんだ?」
近くで成り行きをみている若手組員に訊いてみる。
「お兄ちゃんよ、これは何のおまじないだ?」
「いやあ、俺も分からないっス」
「分からないっスか。当事者が分からないなら、部外者の俺は分からんな。砂猫公園なら新しいアトラクションだろうけど、ここは敵陣の神々公園だからなあ」
独り言を言っていると……。
「おい、シケモク!」
師家木は名前を呼ばれて、あわてて振り向く。
「これは茂湯のダンナ!」
「何をブツクサ言ってるんだ。しっかりホースを持って、狙いを定めろ」
「へい、すんません!」
そして、消防ポンプ車のすべての水槽が空になったとき、神々公園の真ん中に池が出現した。
そこへ、組員たちが“バスクリン森の香り”を投げ入れていく。
師家木も全身をバスクリンの粉だらけにしながら、がんばって働いている。
やがて、透明の真水が緑色に変わり、あたりに爽やかな森の香りが漂ってきた。
「おい、シケモク!」茂湯が呼んでいる。
「へい、アニキ、何でしょう?」
いつもはニコチンのニオイを漂わせている師家木だが、今は体中から爽やかな森の香りがするため、まるで天使になったような気分でいる。
きっと天国界はこんな香りなんだろうなあ。
「シケモクよ、池はだいたい出来上がった」
周りでは、消防車強奪チームとセメント投入チームと放水チームとバスクリン投入チームが、お互いの健闘を称え合っている。
「最後の仕上げをお前に任せたい」
「えっ、仕上げって何ですか!?」師家木が驚く。
茂湯は右手を差し出した。黄色いアヒルが乗っていた。
「これを池の真ん中に浮かべてくれ」
「そんな大役を俺に……」師家木はアヒルを握り締めて涙ぐむ。天使の涙が頬を伝う。
「頼んだぞ!」
師家木は涙を拭った。「このシケモク、命がけで大役を果たします!」
そう言って、森の香りがする緑色の池の中をザブザブと歩いて行くと、ちょうど真ん中に黄色いアヒルをそっと浮かべた。
池の周りに集まった組員から拍手が沸く。
砂猫親分も目を細めて拍手を送っている。
「ようやった。ようやったぞ、シケモク!」
師家木は池の真ん中でたたずんでいる。
「ああ、親分までもが俺に拍手を。ありがとう、みんな、ありがとう! 俺は日本一の幸せ者です! 生きててよかったです!」
師家木は池の真ん中で両手を振って声援に答えると、黄色いアヒルが転覆しないように、そっと岸まで戻って来た。
神々公園のド真ん中に池ができた。
この池の造成は、神々教団によって砂猫公園のハトが喰われて、生ゴミがぶちまけられ、キッチンカーの営業ができなくなったことに対する大規模な嫌がらせであった。
というよりも、嫌がらせを遥かに越えた一大プロジェクトであった。
消防車からアヒルまで、全部かっぱらって来たものだから、材料費はタダだった。
この池を元に戻すには大変な手間と資金がかかるだろう。
水を抜き、底のセメントを取り除き、土を入れ、地面を平らにして、人工芝を張り替えなければならないからだ。
池に浮かんだ黄色いアヒルが、穏やかな夜風に揺れていた。
♪♪♪♪♪
砂猫組の組員たちが深夜だというのに歌って、踊り出す。
師家木も仲間に入れてもらっている。
ここは敵の公園内だがかまわない。
手には作業用の軍手をはめている。
♪完成したぜ、神々公園の人工池~
盗難品で作ったけれど~
作ってしまえばこっちのものさ~
もとに戻すのは一苦労~
ざまあみろだぜ、神々教団~
俺たちに逆らうから、こんな目に遭うのさ~
俺たちは砂猫組、相手が悪かったなあ~
アヒルも鳴いてる、ガア、ガア、ガア~
パンパン、パンパン(手にした軍手をはたく音)
やがて、資材置き場から神々公園まで穴を掘って爆破させた地下職人たちも、地上に出てきて合流する。こちらも軍手をはめている。
♪穴を掘り続けて数週間~
やっと貫通したと思ったら~
いきなり爆破の指令が来た~
なんだこの池、わけわからん~
なんで森の香りが漂ってるんだ~
なんでアヒルが浮いてるんだ~
柄の悪い人たちだけど~
楽しそうだから一緒に踊ろう~
パンパン、パンパン(手にした軍手をはたく音)
深夜の神々公園はむさ苦しい男たちの歌と踊りで活気付いていた。
高齢の砂猫親分だけは睡眠不足と疲労が蓄積して、起きているのか寝ているのか分からないような状態で、幹部四天王が両手両足を必死に支えながら、踊りを続けていた。まるでマリオネットのようであった。
♪♪♪♪♪
佐々川刑事と和木刑事は神々公園を見に来ていた。
神々公園の真ん中へ勝手に池を掘られたと、神々教団から被害届が出されたからだ。
ロケット弾発射事件や遺体の放置事件やデカい鳥の処分などで、それどころではなかったため、公園の外から、一夜にして勝手に掘られたという池を見るだけにした。
池の周りには、信者らしき数人の人物と警察官が集まっている。
三台の水槽付き消防ポンプ車と一緒に、ブルーシートやガードフェンスやセメントの袋や大量のバスクリンの容器が放置されていた。
その不思議な遺留品の数々を、佐々川は捜査車両の助手席から双眼鏡で眺めている。
運転席には和木が座っていて、朝ごはんを食べていた。
「赤色の消防車と青色のブルーシートと黒色と黄色のガードフェンスと白色の速乾セメントと緑色のバスクリンと黄色のアヒルのオモチャを使って完成したのが、この神々公園の池というわけか――和木、何を喰ってるんだ?」
「紫色がないと思いまして」
「だから紫芋を喰ってるのか」
街の総合病院の特別室。
八丈島によって開け放たれた窓から、五機のドローンが病室内に侵入してきた。五機すべてに携帯電話が装着されている。
五機の飛行音が病室に響くが、外部に漏れるほどの大きさではない。
小型カメラが映し出す映像を元に五機は広い病室内を飛び回り、教祖が眠っているベッドを見つけ出し、五機すべてが仰向けで寝る教祖の体の上に着陸して、プロペラを停止した。
右手、左手、右足、左足、腹部。
病室の中がふたたび静かになった。
教祖は八丈島が盛った強力な睡眠薬で眠り続けている。
やがて、五台の携帯電話が同時に最大出力で発する電波によって、教祖の体内で稼働しているペースメーカーは誤作動を起こした。
教祖は弾かれたように、ベッドから転がり落ちた。
廊下で待機していた信者が物音を聞きつけて、特別室に飛び込んで来た。
同時に五機のドローンが窓から飛び去った。
「失礼します! 今の大きな音は何ですか――あっ、教祖様!」
“ぼくは今日ドローンを使って、一匹のダニを退治しました。ぼくの大好きな街の平和を乱す存在だったからです。八丈島さんに協力してもらって、作戦は成功しました。これでまた、ぼくの街が少しだけキレイになりました。でもまだまだこれからもキレイにしていくつもりです。将来は市役所に就職して、この街を守ります。八丈島さん、ありがとう。さびしくなったら、いつでもこの街へ遊びに来てね。お土産なんかいらないよ――周人”
神々公園では、砂猫組によって無理矢理造成された池の埋め立てが始まっていた。
経費を節約するためか、業者に依頼するのではなく、近隣から集められた信者が手に手にスコップを持って、工事を行っている。池はかなり埋められたが、この後に人工芝を張らなければならない。人海戦術ではまだまだ時間がかかりそうだった。
一方、砂猫公園では青々とした天然芝が広がり、フランスの城のような滑り台も、イタリアにあるような噴水も、北欧風の託児所も混んでいるし、キッチンカーには行列が絶えず、ドッグランもドローン練習場も相変わらず、大人気だった。
そんな喧騒を横目に、師家木は鼻唄交じりに、ゴミ箱から空き缶をかき集めていた。メシの種にするためだ。公園はオープン以来ずっと混み合っているので、廃品回収の仕事は順調だ。
管理人の桃賀も回収を手伝ってくれている。こちらも絶好調だ。ドッグランで使うフリスビーが売れまくり、ドローンも連日完売が続いているからだ。
「シケモクさん、公園がキレイになって助かるよ」
「桃賀さんもありがとね――いやあ、大漁、大漁。よっこいしょ!」
師家木は空き缶で一杯になった透明のビニール袋を肩に担ぎ上げて、ふと空を見上げた。
スイスのハトが数羽、ドローンを避けながら、飛んでいた。
♪♪♪♪♪
スイスのハトが歌って、踊り出す。
わたしたちは平和の象徴のハトなのよ~
スイスから日本にやって来たのよ~
ヨーロ レイヒー
歌声はヨーデルよ~
だけど日本も良いところよねえ~
ポー、ポー、ポー(ハトの鳴き声)
人々に安らぎをもたらすわよ~
砂猫公園を平和にするわよ~
神々公園には行かないわよ~
だからいつまでもキレイにしておいてね~
頼んだわよ、シケモクさん~
バサバサバサ(ハトが羽ばたいて飛んで行く音)
♪♪♪♪♪
~グランドフィナーレ~
♪♪♪♪♪
砂猫親分と泣く子がさらに号泣する砂猫組四天王、ボギーこと墓魏、プリッツこと振津、モユユこと茂湯、ホッケこと法華が歌って、踊り出す。
全員、手にドスを持っている。
神々教の幹部信者の四人、穴田、何和、百合垣とメイソンが歌って、踊り出す。
作務衣は軽くて動きやすいため、ダンスにはキレがある。
全員、手に木魚を持っている。
教会のバザーを主催する恵子おばちゃんとスタッフと客が歌って、踊り出す。
高校生からおばちゃんまで、年齢も服装はバラバラだが、
みんな一つの輪になって、とても楽しそうだ。
佐々川刑事と和木刑事と警官たちが歌って、踊り出す。
しっかり整列していて、全員手に拳銃を持っている。
警官だけあって、息は切れず、ダンスも一糸乱れない。
鑑識員が犯行現場で歌って、踊り出す。
帽子をかぶり、マスクをしている。
手には白い手袋をはめて、足はビニールのカバーで覆われている。
三十台のキッチンカーの従業員が歌って、踊り出す。
手にはスプーンやフォークや包丁やピーラーなどを持っている。
カチャン、カチャンと音を出している。
桃賀とお母さんたちが見守る中、
ドローン講師の周人と七人の子供が歌って、踊り出す。
手にはドローンのコントローラーを持っている。
親方を先頭に地下職人が歌って、踊り出す。
手にツルハシやスコップやバケツを持っている。
主に年配者だが、若者に負けじとばかりに体を動かす。
神々教の教祖が踊り出す。
ペースメーカーの電池交換をしたばかりの上、
ベッドから転がり落ちて、全身打撲のため、動きは緩慢だ。
だが、しつこく生きている。
あら、私が死んだと思ってた?
公園戦争はこれからも続いて行く。
(了)
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