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豺狼(さいろう)はエルドラドの夢を見るのか? ~後編~

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 ~前編からのつづき。

坂田に化けた捜査員の一人が金ピカベンツに乗り、マスコミを引き連れて市内を走り回ってる間、本物の坂田は引き渡し場所から一番近い交番の駐車場で、地味な国産車に乗ったまま待機していた。
金塊を入れた藤松百貨店の紙袋は助手席の床に置いてある。犯人の要求に従って、車と紙袋には何ら細工は施していない。せめて、ピンマイクをつけてもらおうとしたが、俺が連行されてバレたらどうすると言われ、子供の身の安全を理由に拒否をされた。
事前の打ち合わせでは、ここを一時二十分に出て、一時半にパーキングに着く予定でいる。約束は二時だが、不測の事態に備えて、早めに行動を起こすことにしていた。交番の中からは、三人の警官が、車と外に鋭い目を向けている。あいにくマスコミには気付かれていないようだった。
受け渡し場所である堀下第三パーキングの周辺には、いろいろな職業に変装した捜査員が集結して、午後二時を待っていた。
パーキングの南隣にある喫茶ミトコンドリア内には数人の捜査員。その入り口にはエプロンを着て店員のふりをした捜査員がホウキを手に道を掃いている。さらに南にある南涼駅と北にある北涼駅には私服警官と駅員の服を借りた捜査員が数名。その北にある坂北港には漁師の格好をした捜査員が数名待機。その他、通行人や女性警官を伴ってカップルを装った捜査員たちがパーキングの近隣各所に配備されていた。
 小野田警部はパーキングの斜め向かい側にある会社内にいた。同じ七直署に勤務する警察官の両親が経営しているという不動産会社を偶然見つけ、事情を話した上、張り込み場所として使用させてもらっている。もちろん、警官であるため信用はできるし、両親も坂田家とは何の接点もないことが確認済みだ。
緊張することはなく、いつものように仕事をつづけてくれたらいい。
息子からそう言われたと、社長をつとめる父が笑って話してくれた。
小野田警部は窓際にある応接室に高安刑事と向かい合って座っていた。ここからはやや斜めになるが、堀下第三パーキングが見える。目の前のテーブルにはこのあたりの住宅地図を広げているが、外からだと二人の男が商談をしているようにしか見えないだろう。高安刑事は坂田に巻かれて、テレビ局に出演させてしまったことを深く詫びたが、小野田警部は笑って、「高安さんを騙すんだから、大したオヤジだ」と言うだけだった。
過ぎたことにはこだわらない性格だし、こだわっている時間もなかった。
通り沿いにはこうした事務所と商店が混在していて、数軒のビルも建っていた。
「相手の年齢性別はおろか、単独犯なのか複数犯なのか、それすら分からんというのはキツイな」
小野田の言うとおりだった。たとえば、この通り沿いに爆弾を仕掛けたというならば、ビルの一室一室まで虱潰しに捜査を行うことができる。しかし、誘拐事件となると人命がかかっていて、派手に動くことができない。しかも、どこで見張られているか分からない。午後二時までの間、捜査員たちはこの通りに面する会社やビル内を、さりげなく覗きながら歩き回ることしかできなかった。
「高安さん、犯人はどう出ると思うかね?」小野田が時間を気にしながら訊いた。
「そうですなあ」高安は地図を眺めながら答える。「車から電車か船に乗り換えさせるのではないでしょうか。といいますのは、犯人はガソリンのことは何も言ってきてませんな。用意周到な犯人のことです。車に乗せたままあちこち連れ回すのなら、満タンにしておくようにと指示をしているはずですからな」
「やはり、行き先はどちらかの駅か港かというわけか。この三ヶ所には十分に捜査員を配置してあるが、犯人もそれを予想しているだろう。果たして、リスクを承知の上で現れるかだ。――他に考えられるとしたら?」
「今日のところは中止という線もありますな。われわれ警察の出方を見てから作戦を練り直す」
「そのことだが、なぜ犯人は坂田氏に警察へ届けるなと言わなかったのだろう」
「私もそのことをずっと考えていたのですが、犯人は今回の計画に余程の自信があるのか、あるいは、この誘拐事件が失敗してもいいと思っているのではないでしょうかね」
「失敗? では、なぜこんな手の込んだことを」
「単に坂田氏に対する嫌がらせではないかと」
「犯人はここに現れず、人質はすぐに解放されるということか」
「そうです。その可能性もあると考えています」
小野田警部はしばらく黙って考えていたが、時間を確認して静かに言った。
「そろそろ、坂田氏がやってくる」
そして無線を使って、同じ台詞を全捜査員に通達した。
予定どおり、一時半に坂田の車は堀下第三パーキングにすべり込んだ。そして、車は運転席が見えるように通りに向けて止められた。これも打ち合わせどおりだ。このあたりでは一番大きなコインパーキングだ。そのため、平日は常に空車ありの状態がつづいている。犯人はそのことを知った上で、ここを指定してきたのだろう。
エンジンはすぐに出られるようにかけたままにして、坂田の手には百円玉が一枚握られていた。きっと犯人は時間を厳守する。だから、あと三十分でここを出るはずだ。六十分以内なら百円で済むからだった。
助手席にはケータイが置いてある。犯人はここにかけてくる。充電は交番で済ませたばかりだ。
「北涼駅、異常なし!」
「南涼駅、異常なし!」
「坂北港、異常なし!」
張り込みの主要三ヶ所から次々に連絡が入った。
小野田と高安は身を屈めて坂田の車を見つめている。何人かの男が目の前を通り過ぎるが、すべて変装した捜査員たちだ。
ショルダーバッグを提げた男はビデオ班として、歩きながら隠し撮りをしている。
坂田は車に備え付けのアナログの時計の針を見た。
「まったく、警察はこんなポンコツ車しか用意できないとはな。地味にも加減と言うものがあるだろ」
到着してまだ三分しか経過していない。
「なんだ、時間が経つのが遅いな。ちゃんと動いてるのか」
時刻は合わせてあると言われたが、信用できないため、自分のロレックスで再確認する。
「ふん、合ってやがる」
坂田は外を見た。先ほどからパーキングの前を数人の男やカップルが行き来している。かなりの数の捜査員を派遣していると聞いていたが、どいつがそうなのか。みんなが犯人に見えてくる。
まあ、マスコミに嗅ぎつけられていないだけマシだな。あいつらときたらハイエナだからな。テレビ局の裏口から脱出するのにどれだけ苦労したか。
「あと二十五分か」
そのとき、ケータイが鳴った。
「なんだ、ずいぶん早いじゃねえかよ!」
坂田は毒づきながらケータイに出た。
「坂田はん、ワシや」
「そ、尊師!」
坂田は思わず舌打ちをした。プライベート用のケータイ番号をこの尊師にも教えていたことを忘れていたからだ。
「テレビ見たで。えらいことになってるやないか。あんた、どこにいるんや?」
「ちょっと待ってください! 今、取り込み中なんですよ」
「こっちは待ってられへんで。今日は何日か知ってるか?」
「まだ返済期限は来てないはずですよ!」
「ああ、来てへんけど、あんたは信用が著しく低下しとるんや。そやから、早めに……」
「分かりましたよ! 分かりましたから、あと一時間後にかけてください。頼みます!」
「ははーん。犯人から電話がかかってくるんやな?」
「そ、そうです」
「今、どこにいるか教えてくれたら切るわ」
「それは言えません。切りますよ!」
「ガハハハ。切られても、またかけるだけや。犯人からの電話かもしれんから、出ざるを得んやろ。そのうち、ほんまに犯人からかかってきても、話し中やったと言われて、取引がパアになるかもしれんで。息子さんの命はどうなるか知らんで」
「こ、この外道が!」
「はあ? ワシのことを外道て言うたか? ガハハハ。その通りや。今頃、気がついたんかいな。ワシは閻魔大王も尻尾を巻いて逃げ出すほどの外道じゃ。電話くらい、最近覚えたリダイヤル機能を使うて、何べんでもかけてやるわ」
「――待て。分かった。教えるから邪魔しないでくれ。今、堀下第三パーキングにいる」
「ああ、あのデカイ駐車場やな。おおきに」迷惑電話は切れた。
「クソッ、これでも宗教団体の教祖かよ! 閻魔大王に尻尾が生えてるわけないだろっ!」
坂田はケータイを助手席に叩きつけた。
シートの上で一度バウンドしたケータイだったが、その後は静かに犯人からの連絡を待った。
この様子を双眼鏡で覗いていた小野田は高安と顔を見合わせた。
「犯人からの指示か?」
「しかし、車は動き出しそうにないですな。時間も早いことですし、別人からの電話じゃないでしょうかね」
「うーん、どうもそのようだな」
同じくこの様子を見ていた何人かの捜査員が動き出そうとしたが、小野田はこのまま二時になるのを待つように無線で指示を出した。

午後二時ちょうど。坂田のケータイが鳴った。予想通り、声をつぎはぎにしたテープが流れてきた。
“北涼駅 二時十六分発の 電車に乗り 山池駅で お降りくださいませ そこで もう一度 連絡します” 
坂田は急いで車を発進させた。北涼駅に行くまでそんなに時間は残されていない。料金所でダッシュボードからコインを取り出すふりをして、屈みながら電話をかけた。
「北涼駅を二時十六分に出る電車で山池駅まで来いと言われた。そこでまた連絡するらしい」
電話を受けた小野田警部は全捜査員に無線を流した。
「犯人から坂田氏へ指示が出た。二時十六分発の電車で北涼駅から三つ先の山池駅まで向かうようにだ。北涼駅にいる者はそのまま待機。坂北港にいる者は北涼駅へ向かえ。南涼駅にいる者は山池駅へ向かえ。――以上だ」
小野田と高安は張り込んでいた不動産会社にお礼を言うと、北へ向かって走り出した坂田の車を目で追いながら、駐車場に止めてある覆面パトカーに乗り込んだ。
「やはり電車か。その後はどうするかだな」
「また、山池駅で何らかの指示が出るでしょうな」
高安は話しながらも、シートベルトを締め、車を発進させた。通りに出るとすぐ、前方に坂田の車を捉えた。しかし、犯人や仲間がまだ近くにいる可能性もあり、あからさまに尾行はできない。車数台を間に挟んで追い続ける。
そのとき、前方を走る坂田の車が急停車した。坂田の後ろを走っていた車が次々に追い抜いて行く。
「どうしたんだ!?」
高安刑事が叫んだ。小野田は坂田が車を止めた場所をすばやく見渡した。
商店や事務所で埋まっている通り沿いの中で、そこだけは更地のまま空いていた。
生い茂る雑草の中に不動産会社の看板がポツンと立っているだけで人影は見えない。
「警部、どうしますか!?」
「何もない所で止めるわけにはいかんな。このまま追い越して、またUターンして来よう」
「了解!」
「犯人の奴め、考えやがったな。坂田氏の後ろに止めると、尾行してた警察車両だと丸分かりだ」
追い抜く際に運転席にいる坂田を見たが、こちらに背を向けて助手席で何かをやっていたため、状況は分からなかった。
小野田はケータイを握りしめた。すぐにかかってくるはずだ。
いったい、どんな指示があったんだ。
やがて、二人の乗る車は私鉄高瀬急行線の踏み切りを渡った。
そのとき坂田は車を出て、不動産会社の看板に向かって歩き出した。
手には藤松百貨店の紙袋を持っている。
「高安さん、Uターンだ!」
後ろを見ていた小野田が叫んだ。
高安は返事をするヒマもないまま、強引にUターンを試みた。
対向車がクラクションを鳴らしながら急ブレーキをかけたが、無視をして前方に割り込む。
しかし、そこまでだった。
私鉄線の警報機が鳴り出し、遮断機が降りて来たからだ。
やがて、足止めを喰らった二人の車の前を、轟音とともに貨物列車が、いくつものコンテナ車両を引っ張りながら、通り過ぎて行く。
「まさか、犯人はここまで計算をしていたというのか」
小野田はつぶやきながらも、通り過ぎる列車の連結部から一瞬垣間見える坂田の車を見ていた。
運転席に戻った坂田は車をUターンさせると、南に向かって走り出した。
金塊の入った紙袋は不動産会社の看板の後ろの辺りに置いてきたようだ。
坂田から小野田へ電話が入った。
「手短に話す。紙袋を看板の後ろに置いて、南に向かえと言われた。次にかかってきた電話で尚人の居場所を教えて、解放してくれるらしい。それが最後だと言ってた。じゃあ、切るぞ」
坂田の車が小さくなっていき、やがて南涼駅の高架橋下をくぐった。
小野田は南涼駅を張っていた捜査員に、坂田の車を追うように指示を出した。
坂田の車があと十分も走ると、隣の署の管轄に入ってしまい面倒なことになる。
「偶然にしてはでき過ぎてますな」高安があきれて言った。
目の前を行く貨物列車の列はまだ途切れそうにない。このまま遮断機が上がるのを待つしかない。
犯人は看板の後ろに置かれた紙袋をどうするのだろうか?
すでに付近にいた捜査員たちは看板が立つ更地へと急いでいる。
しかし、彼らの周りを得体の知れない集団が取り囲んで、同じように走っていた。
高安刑事が仰天した。
「あれは昨夜、坂田邸を取り囲んでいた運幸教の連中では!」
小野田も驚いてその集団を凝視した。
その数、約五十名。頭から白い頭巾をかぶり、体を白装束に身を包んでいる。背中には赤い色で卍の文字が描かれていて、老若男女の区別はつかず、表情も見えない。
捜査員の集団と信者の集団が、我先にと看板の裏の方へ向かって駆けて行く。
小野田と高安はイライラしながら、列車の隙間から見える向こう側の異様な光景を見ていた。
「あの連中、どうしてこの場所が分かったんだ!?」
「坂田氏の後をつけてたんじゃないでしょうか」
「確かに報道関係者ではないから文句は言えんが、あれでは捜査に差し障る。何とかならんか」
そのときだった。看板付近を見つめていた二人は、同時に声を上げた。
「なんだ、あれは!?」
看板の後ろからラジコンヘリがゆっくりと舞い上がった。
藤松百貨店の紙袋をぶら下げている。
小野田は車のウィンドウを全開にした。貨物列車が通過する音が耳をつんざく。
もし、目の前をこの列車が走っていなければ、あのラジコンヘリのプロペラ音はここまで届いていたことだろう。
ヘリは一度空中で停止したかと思うと、機体を二、三度震わせ、西へ進路を向けて飛び立った。
小野田はあわてて無線機に叫ぶ。
「みんな、見えているな! あのヘリを追え」
看板のそばで突然の出来事を呆然と見上げていた捜査員たちと信者たちも、我に返って走り出した。
ヘリは同じく西へ向かう貨物列車と並行して飛んで行く。
高安もすぐに追いかけて行きたい心境だったが、車の中に閉じ込められたまま、神経質に足を貧乏揺すりするばかりで、左から右へ通り過ぎて行く列車を目で追うのにも疲れて、自嘲気味に歌いはじめた。
「線路はつづくよどこまでも~、野を越え、山越え、谷越えて~」
やっとのことで列車の最後部が通り過ぎて、警報機が静かになった。
目の前の遮断機が上がりはじめたと同時に、高安は車を急発進させた。わずかに遮断棹がフロントガラスの上の辺りを掠めたが、強引に通り抜ける。
車がヘリを追って右折しようとした。そのとき――。
「ああ、ヘリが!」高安が叫ぶ。
ヘリは紙袋を提げたまま、鈍い音とともに走っているコンテナ車の屋根に激突した。
貨物列車は、屋根の上にラジコンヘリと紙袋を乗せたコンテナ車を引っ張ったまま、走り過ぎて行く。
さまざまな格好をした捜査員と白装束の信者がヘリの後を走って追いかける。
さらにその後ろから新たな集団が出現した。
自転車に乗った白装束の信者集団が約三十名。
自転車集団は徒歩で追う捜査員と信者、合計約四十人を軽々と抜き去り、貨物列車の後を追う。
やがて、赤い卍マークを背負った白装束集団に囲まれて、捜査員たちの姿が見えなくなる。
一人の私服捜査員が警察手帳を振りかざしながら、周りを走る連中に叫ぶ。
「おい、キミたちは何者だ!?」
しかし、信者集団は表情を変えず、一心に前を見つめたまま走り続ける。
「われわれは警察だ。捜査の邪魔をするんじゃない!」
信者は警察の威信を物ともせずにヘリを乗せた列車を追う。
「こいつら新興の宗教団体の信者ですよ!」
若い警官が走りながら叫ぶ。
「クソッ、何を言っても通用しないと思ったら、マインドコントロールってやつにかかっているのか!」
やがて、北涼駅と坂北港から合流した警察の四輪車両と二輪が集団に追いついた。半数の車両は貨物列車の停車駅である西脇駅へ向かっている。さらに、その後ろに現れたのは純白のメルセデスベンツリムジンだった。
広々とした後部座席で高級ワインを瓶ごとラッパ飲みしながら檄を飛ばしているのは運幸教教祖だった。
「もっと飛ばせー! あの金塊は教団のもんじゃー! ワシのもんじゃー! 誰にも渡すなー! 取り返せー! 失敗したら地獄に落ちるぞー! いいのかー! いいのかー!」
一方、遠ざかって行く身代金を、別の捜査員たちに任せた小野田警部は、すばやく周囲を見渡した。ラジコンヘリを遠隔操作している人物がこの付近にいるはずだ。
ふと、通り沿いに建つビルを見上げると、手に銀色に光る箱を持って、五階の窓から身を乗り出している男が見えた。箱からはアンテナが伸びている。
「高安さん、あそこだ!」
高安は車をそのまま直進させると、ビルの前に止めた。
「行くぞ!」
二人は同時に飛び出し、ビルの玄関に向かって走り出した。

 ビルのエレベーターは幸運なことに一基しかなかなく、五階で止まったままだった。
「どうやらエレベーターはこの一基しかないようです。高安さんはここで張っていてください。私は階段から上がってみます」
小野田はそう言うと階段を静かに上がり始めた。捜査員をもう少しほしいところだが、金塊をぶら下げたラジコンヘリと、坂田氏を追いかけてもらっている。ここは二人で対処するしかない。
ビルにはいくつかの商社が入居していた。先ほど見かけた五階は空室で、ビルの入り口には入居者募集の張り紙がしてある。
小野田が一階と二階の間にある踊り場に着いたとき、高安の声がした。
「警部、五階からエレベーターが下りてきます」
小野田は急いでホールに引き返し、高安と並んで身構えた。
エレベーターは途中で止まることなく一階に向かってくる。
やがて、階段からドヤドヤと人が下りて来る音が聞こえてきた。
エレベーターのドアが開いたのと同時に、階段からは三人の男が走り下りてきた。
エレベーターに乗っていたのも三人の男だった。合計六人の男たち。
小野田と高安は男たちの姿を見て一瞬戸惑った。全員がホームレスと思われる身なりをしていたからだ。
六人の男は目配せすると、立ち尽くす二人の刑事を振り切って、一気に駆け出した。
そのうちの一人がラジコンのコントローラーらしき銀色の箱を持っていたことを確認した小野田は高安とともに、六人の男を追って外へ飛び出した。しかし、六人の男たちは九人に増えていた。裏にある非常階段から下りてきたと思われる三人と合流したのだ。
ホームレス然とした九人の男たちは大通りから東へと向かう小さな道へ入り、その先にある公園へ向かった。
小野田警部は走りながら、無線で捜査本部に応援を要請していた。
男たちは公園内に入り込み、そのまま逃げず、滑り台の周りに集まっていた。
すぐに追いついた小野田が警察手帳を見せて声をかける。隣で高安も睨みを効かす。
「あそこで何をやっていた!」
九人はお互いに顔を見合わせていたが、一番年配と思われる六十歳くらいの小柄な男が前に出てきて、小野田に不審そうな目を向けながら、体をくねらせて言った。
「バイトよぉ」
「バイト?」
「そうよぉ。――どう、あったぁ?」
男は振り向いて、まだ大学生のような若い男へ声をかけた。
「あった、あった。封筒が九枚、ちゃんと貼り付けてある」
若い男は滑り台の裏にガムテープで貼り付けてあった茶封筒の束を剥がし、手にかざして、みんなに見せた。
「おお!」
九人の男たちからどよめきの声が上がる。
年配の男は一枚の封筒を抜き取り、中から一万円札を取り出して、小野田に見せた。隣から高安が覗き込む。
「ほらぁ、この通りよぉ。何も悪いことはやってないわよぉ」
「いったい、どういうバイトなんだ」
「いやぁ、実はあたしたちにもよく分からないのよぉ。お巡りさんなら並田橋を知ってるでしょう。あの橋の下があたしたちのねぐらなのよぉ」
男はまた体をクネクネさせながら仲間を見渡した。周りを囲んでいる男たちがウンウンと頷く。
「昨日の夜のことよぉ。いいアルバイトがあるからやらないかと声をかけられたのよぉ。たった一日だけのバイトだけど二万円渡すってね。前金で今、全員に一万円渡すってね。そりゃ、驚いたわよぉ。今日の朝七時にさっきのビルの五階に集合して、午後二時二十分になったら、階段とエレベーターと裏の非常階段の三ヶ所から外へ出てこの公園へ走って来るだけ。それだけで二万円だって。残りの一万円は滑り台の裏に貼り付けておくって。――これがそれなのよぉ」
男は一万円札をヒラヒラさせるが、高安が睨みつけたのであわててポケットにしまった。
「でもねぇ、きっと悪いバイトだと思ったのよぉ」
「悪いバイトなら、なぜ引き受けた」
「だってさぁ、頼んできたのが若いおネエちゃんなんだもん」
「若い女性だって!?」
小野田が大きな声を出したので、あわてて男は後ろに下がった。
「もちろん名前は言ってないだろうが、何か特徴はないのか?」
「そうだねぇ。年は二十代だわねぇ。体格はあたしと同じくらい小柄で、夜だというのにツバの広い白い帽子を目深にかぶって、ああ、そうそう。左手の二の腕の辺りに赤いバラの刺青をしてたわねぇ」
「刺青?」
「ええ、ホントですって。ねえ?」
男が周りの男たちに同意を求めると、ホントホントと合唱を始めた。
「では、なぜ逃げた」
「そりゃ、生物の習性よぉ。追われりゃ本能で逃げるでしょうよぉ、犬でも猫でもゴキブリでも」
「キミのその銀色の箱はどうした?」
「ああ、これですか」
ラジコンのコントローラーに見える箱を持っている三十歳くらいの男が進み出た。
「これはその若い女の人に渡されたんだ。五階の窓からこれを出して、外からでもよく見えるように、ゆらゆら揺すってくれって。何のことかさっぱり分からなかったんだけど、機嫌を損ねてバイトがオジャンになったら困るので何も訊かないで、引き受けたんだ」
コントローラーに見えたものは、近くで見ると、ただのダンボールの箱をアルミホイールで包んで、一本の針金を突き出したというお粗末な代物だった。その針金にもご丁寧にアルミホイールが巻かれていたが。
高安は指紋がつかないように手袋をして箱を受け取った。
「ビルの窓からゆらゆら揺するというのは、この銀色が反射して、われわれに見えるようにしたのでしょうな」
「また、まんまと騙されたということか」
「操縦するためのステックも付いてないし、こんなもの小学生の夏休みの宿題の方がよほどマシですな」
刑事二人の会話に周りの男たちは困惑気味だ。
小野田は困った顔をしながらも、高安に訊いた。
「今、いくら持ってますかね?」
九人の男たちはせっかくのバイト代を警察に没収されるのではないかと不安そうにしている。
小野田は自分の財布の中から数枚の一万円札を取り出し、高安から受け取ったお札と合わ
せて、男たちに言った。
「ここにちょうど九万円ある。キミたちの一万円札と交換してくれないか。できればその茶封筒と銀色の箱もいただきたい。いや、ちょっとした事件を追っていて、調べたいことがあるんだ。バイトのことには何も口を挟むつもりはないし、署まで同行してもらう必要もない」
男たちはバイト代が入れば文句はない。納得してお札を交換してくれた。
小野田は封筒の束と銀の箱に触れた方に、指紋採取の協力をお願いしたいと事情を話した上、年配の男に連絡先を聞いたが、
「何かあったら並田橋まで来てくれればいいわぁ。あたしの名前はダビデよぉ。もちろん偽名よぉ。でも、名前を忘れても大丈夫よぉ。オカマちゃんのホームレスはあたししかいないから。じゃあねぇ」と笑いながら去って行った。

 一方、ラジコンヘリを屋根の上に乗せたまま走る貨物列車を追いかけていた警察の捜査員と運幸教の面々であったが、当然、列車には追いつくわけもなく、さすがの純白ベンツのリムジンも置いてけぼりを食らっていた。
そのうち、なぜか警察官はいなくなり、リムジンの前には赤い卍マークだらけになってしまった。信者が追いかけている列車の車体はすでに見えなくなって、遠くに小さな赤いランプが見えるだけだ。
しかし、白装束集団はひたすら線路沿いを走る、走る。自転車を漕ぐ、漕ぐ。卍、卍、卍。
リムジン内では、貨物列車が最寄りの駅には止まらず、終点の西堀駅まで行くと知った教祖が、サンルーフから大きな頭を出して、手に団扇型の太鼓を持ってボコボコ叩きながら、前方を徒歩や自転車で行く信者たちに叫んでいた。
「引き返すんじゃー! 敵は西堀駅じゃー! ぼやぼやしてると地獄が待ってるぞー! おい、運転手、こんなチマチマした道を走らずに、こっちもUターンして国道に出るんだー!」
細い道を何度もハンドルの切り返しをしながら、長いリムジンが方向転換を行っている。
「こらっ、はよ、回さんかい! 無駄に長いだけの能無しが! おい、運転手、こんなときのために軽自動車を買っておけ。ワシでも余裕で座れる大き目の軽自動車だ」
リムジンの横を狂信的な信者たちが国道を目指してすり抜けて行く。
目はまっすぐ前を見つめている。マインドコントロールは解けそうにない。

 西堀駅に到着した十二両編成の貨物列車に白装束集団が群がった。
改札を飛び越え、柵を乗り越え、信者たちは不法に敷地内に入り込んだ。
数人の駅員が大声を上げ、笛を吹きながら止めようとしたが振り切られた。やむなく鉄道警察隊が出動したが、どうしようもなかった。このとき各地から続々と集まった信者の数は優に百人を越えていたからだ。
西堀駅周辺を固めていた捜査員も阻止に動いたが、数人を確保しただけで、多勢に無勢であった。
信者たちは車庫に向かって走ってくる列車の前に躍り出て、無理やり停車させると、いつの間にか用意してあった梯子をかけ、屋根の上に登りはじめた。
「やめろー!」
「危ないから下りろー!」
「こらーっ、逮捕するぞー!」
駅員と警官が見上げながら一緒になって叫ぶが、信者たちは聞く耳をもたない。
教祖からの命令である“藤松百貨店の袋に入ったお宝を取り戻せ”を従順に守っている。
黒い列車に取り付く白装束集団は、黒い砂糖菓子に群がるアリのようだ。
しかし、信者が屋根の上や連結部、車両の下にまで潜り込んで探すが何も見つからない。強引に運転手を引き摺り下ろして運転席に入り込んだが、お目当てのものは何もない。
やがて信者は鍵を手に入れるとコンテナ車両のドアを開け、中の点検をはじめた。
郵便物、肥料、家電品、書類などが線路沿いに散らばる。
そして、ついに運搬途中だった牛三頭の綱が解き放たれると、あたりはパニックと化した。ヒラヒラしている信者の服を目指して、牛が突進して行ったからだ。
教祖の命令は絶対だが、自分の命も惜しい。信者は我先にと逃げ出した。
残された牛三頭を鉄道警察がやっとの事で捕まえ、事態は収拾に向かった。
この騒動のおかげで、金塊が入った紙袋は貨物列車の屋根から消えてなくなっていることが判明した。ただ、屋根の上にはヘリのプロペラの一部と思われる残骸が残されていた。
信者と警察は、西堀駅に着くまでにヘリが落下したと考え、線路沿いへと急いだ。

 小野田警部の元へは駅で起きたことのすべての状況が報告されていた。その上で捜査員に無線で指示を出した。
「身代金はまだ見つかっていない。西堀駅近辺で藤松百貨店の一番大きな紙袋を持った人に職質をかけろ。いいか、中身は三十キロの金塊だ。ご婦人が片手で持てる重さではない。よく見極めてから声をかけろ」
すぐに捜査員から悲鳴のような返事が戻ってきた。
「運幸教の連中が紙袋を持った人たちに群がって、片っ端から中身を調べてます」
「かまわん。度が過ぎるようだったら、しょっぴけ!」
「それが、信者の数もすごいのですが、お客さんの数もすごいです」
「なぜだ!?」
「今日と明日は藤松百貨店の夏の大福袋セールの真っ只中なんです」
「なんだと、大きな紙袋を持った人が何人も歩いているというのか!?」
「そうです。小さな紙袋を持っている人の方が少ないくらいです」
「分かった。しかし、地道に一人ずつ声をかけるしかない。取りこぼしがないように頼む」
小野田は無線を切ると、隣に立つ高安に笑いかけた。警部らしくない、諦観に満ちた力のない笑いだった。
「どうやら、また犯人に翻弄されたようだな」
「まさか、福袋セールの日を選んで、犯行に及んだのでしょうか?」
「そうだろう。そのために藤松百貨店の大きな紙袋を指定してきたのだろうな」
二人はラジコンヘリを使って身代金を奪われた場所である、更地に立つ看板の裏へ向かった。そこは大人の腰くらいまで届くほどの雑草が生い茂っていた。
高安が草をかき分けながら奥へ入って行く。その後を小野田が続く。
「警部、何か匂いませんか?」高安が立ち止まる。
「うん? 香水か?」小野田も立ち止まる。
「香水みたいですね。しかし、香水のビンとか、それらしきものは落ちてませんね」
「高安さん、これだ」小野田は中腰になって、一枚の葉を指差している。そこには何かのしずくが付着していた。
高安が鼻を近づける。
「ああ、これですな。このあたりの葉に香水が振りかけてある。何でしょうかね」
「分からんが、鑑識が来たら採取してもらおう」
二人はさらに奥に進んだ。
「警部、坂田さんがここへ紙袋を置いたとして、遠くからヘリを操作し、紙袋の取っ手に引っ掛けて、持ち逃げをする手品師のような芸当が簡単にできるのでしょうか?」
「よほど訓練を積んだ者ならできるのだろう。事実、紙袋はヘリに奪われた。それは今、捜査員が全力で探してくれている。ただ、犯人はどこからヘリを操作してたかだな。ラジコンのことはよく分からんが、今考えてみると、あのビルの五階からは遠すぎて無理だろう」
「これだけの雑草ですからな。この中まで電波は届くのでしょうかねえ」
「高安さん、これは!?」
小野田が指差した先には、大通りに向かって、草を刈り取った跡が、まるで小道のように続いていた。
高安が屈んで草の状態を見ている。その横に小野田も屈んだ。
「警部、これは切り口からして、最近、刈られたようですよ。鎌かなんかで刈ったんでしょうなあ」
「ヘリに電波が通りやすいようにか」
「それと、よく見渡せるようにでしょう」
小野田は草を数本引きちぎると、ハンカチに包んでポケットに入れた。後で鑑識に見てもらうつもりだろう。
二人は立ち上がると、草が刈られた小道の先を見つめた。
そこからヘリを操縦していた可能性があるからだ。
「この先は、まさか、われわれが車で踏み切り待ちをしていた場所ですか?」
「確かに、たどって行くとそうなるが、車の横で堂々と操作していたとは思えん。高安さんは何か気付いたかね」
「いや、あのときは前を行く貨物列車と、その向こうの坂田氏にばかり気を取られてましたから」
「私もそうだ。前しか見ていなかった。例のビルの五階に気付いたのは偶然に過ぎん」
「まさか、真横に犯人がいたとは。何て大胆な奴だ」
「いや、もし横に立ってたとしても、向こうもこちらが警察車両だとは気付いていなかっただろう」
二人は草が刈られた小道が指す方向に歩き出した。
道路を斜めに横切り、踏切を越える。その先には何もない。元は古い民家が数軒並んでいた場所だ。新しくビルを建てるために整備をしている最中で、地面がむき出しになっている。四方を金網が覆っていて、中には小型ショベルカーが一台置いてあった。ここから看板の裏側がよく見える。このあたりからラジコンヘリを遠隔操作していたのであろうか。

 犯人の要求に従って、車で南に向かっていた坂田から小野田へ電話が入った。
「今、犯人から最後の連絡が来た。例によって変なテープだったがな」
小野田と高安が中腰になって、犯人が何か痕跡を残していないか、踏み切り付近を調べていた。尾行を続けている捜査車両からは、すでに隣の警察署の管轄区域に入ったという報告を受けている。
「俺の家の裏の田んぼに、使っていない野小屋がある。そこに尚人がいるらしい」
「えっ!? はい、分かりました。すぐに捜査員を向かわせます」
「ああ、俺も向かうことにする」
小野田は電話をそのままにして、すぐに無線で捜査員に指示を出した。
坂田も家へ向けて車を方向転換させた。
「犯人からちゃんと連絡が来たということは、息子さんは無事でしょう」
「そうだろうな。走り回った甲斐があったというもんだ」
「その野小屋ですが、今はどういう状態なのですか?」
「耕運機なんかが入っているが、長らく使ってない。鍵もかかってない」
「では、誰でも入ることができるというわけですか?」
「ああ。でもよ、小さくて汚い小屋だから、一般の奴らじゃ気付かんぞ。たぶん、犯人はこの辺の地理にくわしい、俺のそばにいる奴だ」
「分かりました。そのあたりを強化して捜査を続けてみます」
「ところで俺の金塊は大丈夫だろうな?」
「それが、申し訳ありませんが、奪われてしまいました。今、全力で捜査中です」
数秒の時間が空いてから、坂田は低い声で返した。
「分かった。また電話する。だがな、小野田さんよ、万が一奪われたとしても、必ず奪い返すと約束したことを忘れるな」

 小野田警部は坂田邸に詰めていた宮辺刑事に連絡を取り、野小屋へ直行するように指示をした。
宮辺は数人の捜査員と坂田の妻を伴い、野小屋へ踏み込んだ。中では尚ちゃんと番犬マルクが藁の上で眠っていた。
妻に本人確認をしてもらい、待たせていた警察車両に乗せて、総合病院と動物病院へそれぞれ直行してもらった。救急隊員の見立てでは、ただ眠っているだけで、怪我などは見当たらず、命に別状はないだろうとのことだった。
報道規制を布いているため、あたりにマスコミ関係者は見当たらない。フリーの記者やカメラマン連中はどこからか、北涼駅と坂北港付近に警察関係者が集結しているという情報を入手し、そちらへ向かったが、すでに身代金の受け渡しは終わっていた。
しかし、そんなことは露知らず、彼らはスクープをものにしようと無駄な聞き込みや張り込みを続けていた。
宮辺刑事はすぐ小野田警部に連絡を入れて、尚ちゃんと犬が無事であることを報告した。
「小屋の中には農機具の他に毛布と三つのボールが残されてます。毛布はかなり使い古されたものです。ボールというのは球じゃなくて、容器のボールで、赤と青と透明の家庭でよく見かけるごく普通のものです。赤のボールにはドッグフードらしい破片が入っていて、青のボールには水らしきものが少し残っています。透明のボールには、ほぼ満タン水が入っているのですが、グレープフルーツジュースのペットボトルが浮かんでいます」
「そのペットボトルは封が切られているのか?」
「はい、中身が三分の一くらい減ってます」
「そうか。しかし、お母さんが呼びかけても目を覚まさないというのは、睡眠薬か何かで眠らされていた可能性が高いな。特に犬などの動物は眠りが浅いはずだ。残された水とグレープフルーツジュースの中身は調べる必要があるな」
「はい。それと透明のボールですが、表面に赤いものが漂ってます。何だか絵の具のような……」
「血液じゃないだろうな」
「いいえ、尚ちゃんと犬の体を簡単に調べましたが、出血するような大きなケガをしている様子はありません。服も破れたり、裂けたりした箇所はありませんでした。ただ、尚ちゃんの顔にいくつかの古傷が見受けられました」
「古傷? 最近の傷じゃないということか」
「はい、そのようですが、お母さんに訊いても答えてくれませんので」
「そうか、何かありそうだな。それもしっかり調べてもらってくれ」
報道機関に知れ渡ることなく、尚ちゃんとマルクの救出劇は無事に終わった。

ラジコンヘリコプターは、西堀駅に向かう途中のカーブ沿いで見つかった。バラバラになった残骸が数メートルにわたって散らばり、藤松百貨店の袋は列車の風圧の影響からか、さらに遠くで発見された。しかし、中に入っていたはずの重さ三十キロの金塊は消えていた。
またもやここにも運幸教の信者が現れた。警官の制止を振り切って、“KEEP OUT”と書かれた黄色いテープをかいくぐり、白装束集団が殺到した。そして、準備万端用意してきた金属探知機を取り出し、捜査員に負けじと金塊を探し回ったが、その欠片さえ見つけることはできなかった。
すぐに、運幸教へ一斉捜索が入った。
先に金塊を見つけ出して、奪い取ったという容疑だ。すでに運幸教からは捜査妨害で二十人ほどの逮捕者が出ていて、貨物列車から逃げ出した牛の角で突かれた二人が病院送りになっていた。
率先して応対に立った教祖は、リムジンの屋根から頭を出して叫んでいた人物と同じ人物とは思えないほどの紳士ぶりだった。
紺色の地味な作務衣に肥満した体を包んだ教祖が笑顔で出迎える。
「いやあ、うちの信者が、私が止めるのも聞かずに暴走したみたいで申し訳ない」
捜査員たちは運幸教の教祖が絶対的存在であり、信者が勝手に暴走するはずがないことを知っているため、話半分で聞いている。信者たちは教祖の命令で貨物列車に群がり、線路沿いに集結したと分かっている。しかし、マインドコントロールを受けている信者は逮捕をしても口を割らず、教祖が指揮をしたという証拠はない。
「はいはい、どうぞどうぞ、教団施設の中はくまなく、遠慮なく、お探しくださいませ。おトイレはこちらでございます」
教祖が先導して、教団内を案内してくれる。
「ああ、キミ、警察のみなさんにお茶を。番茶? いや、せめて玉露にしなさい。寿司の出前? そこまでしなくてよろしい。――あっ、そのお仏壇に触れると祟りますよ」
教祖の言葉に、仏壇の奥を覗き込んでいた若い捜査員があわてて手を引っ込める。
「ははは。冗談ですよ。しっかり調べてくださいな」
そう言われたものの、祟りが気になった捜査員は恐る恐る仏壇を離れる。
実は仏壇の奥に作られた隠し扉の奥には、金塊が見つからない腹いせに信者が線路脇から拾い集めてきたラジコンヘリの残骸が隠してあった。若手捜査員を煙に巻くことくらい簡単にやってのける、口八丁手八丁の教祖であった。
捜索は二時間に及んだが何も出てこなかった。しかし、それは教祖の余裕のある態度から分かっていたことだ。
身代金の受け渡しがあるということをどうやって知っていたのか?
時間と場所をどのようにして知ったのか?
教祖に問いただしても、はて、何のことですかなと煙に巻くだけで、悠然と構えていた。
「いやいや、お巡りさん、うちにはたくさんの献金が集まりますから、お金には不自由してませんよ」
そういう教祖であったが、確かに教団の建物は豪奢だし、この部屋にもたいそうな応接セットが置かれ、大きなシャンデリアがぶら下がり、金ぴかの仏壇がデンと添えられて、豪華絢爛そのものだった。
それに、警察内部にも運幸教信者がいるのではないかと以前からウワサされており、今回の情報を漏らしたのも、仲間内の誰かではないかと囁かれていた。そのため、捜査員の間ではあまり強硬に捜査ができないという負い目もあった。
捜査員たちは世間の目もあり、ダンボール三箱分の押収物を運び出すと、取り囲んだマスコミに鋭い視線を向けて、車両に乗り込んだ。
信者たちは彼らのポケットの中に、そっとストラップお守りを放り込んでいた。
強制捜査に対する強制お土産だった。
もちろん、後日、教団から警察署に莫大な金額の請求書が届く。
ニコニコ笑っていた教祖の陰湿な仕返しだった。

 尚ちゃんとマルクが救出された日から二日間が経過しても、尚ちゃんは諸神保育園に通園して来ないし、マルクが住んでいた犬小屋も空っぽのままだった。
マスコミは運幸教の強制捜査を報道しただけで沈黙を続けている。フリーの連中だけは相変わらず真相を探るべく、街中を走り回っていた。
――三日目の夜。
坂田邸の裏に広がる田んぼの真ん中に建つ野小屋。
すでに日は落ちて、街灯の光が届かない小屋周辺は真っ暗闇だった。
懐中電灯の光が、細い畦道をユラユラ照らしながら、小屋へ向かっている。
わずかに写るシルエットからすれば小柄な人物だ。
足元だけを小さく照らしているところを見ると、人には気付かれたくないのだろう。
ときどき左右を見渡しているが、表通りと違って、普段からこの田んぼ周辺を歩いている人は少なく、人影は見えない。雑草が生え放題の畦道の角を曲がり、あと五メートルほどの距離になったところで、懐中電灯の光は小屋を照らし出した。
古くから建っているであろう木造の小屋はやや斜めに傾き、トタン葺きの屋根はところどころが錆び付いている。
懐中電灯の光はさらに近づき、雨風で傷んだ入り口の戸を照らした。そこで、もう一度、左右に光を流して、誰も見ていないか確認をする。一歩ずつ慎重に進み、戸の取っ手のあたりに目をやった。鍵は壊れているようだ。
これなら簡単に開くだろう。
懐中電灯を左手に持ち替えると、右手で戸を叩いた。
――コンコン。
「尚ちゃん、いますか? マルクさん、いますか?」
そのとき、野小屋の後ろから数人の男が飛び出してきて、左右からその人物を押さえ込んだ。
「ちょっと、待ってよ!」
手から懐中電灯が落ちた。突然、あたりが暗くなった。
しかし、ブーンという音とともに大型の投光器が起動し、左右と後ろの三ヶ所からその小柄な人物を照らし出した。
「動くな、警察だ!」低く威厳のある声が静かな田んぼに響く。
「ち、違うわ。離してよ! 人違いよ!」もがきながら叫ぶ。「ねえ、待ってよ!警察の方でしたら、あたしのことを小野田さんか高安さんに聞いてよぉ!」
暗闇の中から細身の男が歩み出た。
「小野田なら私だが。――ああ、あんたは並田橋のダビデさん!」
「ええ、そうよ、そうよ!」
「何をやってるんですか、こんなところで」
「あんた達こそ、なんなのよぉ。善良な市民を大勢で取り囲んでぇ」
「あんたが善良?」
「い、いや。訳を話すからこれを。痛くてかなわないわ」
小野田は腕を押さえている警官二名に離してやるように言った。
「また今日、あの女が現れたのよぉ。ほら、バラの刺青をしたおネエちゃんが」
「何だって!」
「それでぇ、また二万円のバイトがあるって。ただ、今度は一人だけだって。ちょうどみんなお昼ご飯の調達に行っていて、誰もいなかったから、あたしが引き受けたのよぉ。バイトを独り占めしたら、仲間に悪いかなあと思ったんだけど、最初に前金で二万円くれてぇ」
証拠を示すようにポケットから茶封筒を取り出し、中から二万円を引き出して、周りを固めている捜査員に見せた。
「夜になったらさぁ、この小屋に来て、中を見ろって。懐中電灯を渡されてさぁ」
ダビデさんはまだ足元に落ちたままの懐中電灯をつま先で蹴った。
小さな懐中電灯がコロコロ転がる。
「それでさぁ、中に尚ちゃんという子供とマルクさんという外人さんがいるかどうか……」
「外人さん?」
「――じゃないの?」
「犬だ」
「なんだ犬なの。じゃあ、人と犬がさぁ、寝ていたら起こして、早く家に帰るように言ってくれってさぁ。たったそれだけで二万円よぉ。こんなおいしい話、誰でも引き受けるでしょう、ねえ、あんたもぉ」
ダビデさんは横に立っている刑事に問いかけた。
刑事はすぐに首を横に振った。
「そうなのぉ? 日本の警察は世界一優秀って言うからねぇ。やっぱり違うわねぇ」
ダビデさんは自分が信用されていないようなので、ヨイショをして心証を良くしようとする。
「それでねぇ、人と犬の名前を呼んだとたん、あんたたちが現れて、この様よぉ。まあ、小野田さんには二度も世話になって申し訳ないけどねぇ」
「その女だが、他に何か言ってなかったか?」
「いいえ。必要なこと以外は言ってないわ。何か悪いことを企んでいるのだろうからねぇ。正体がバレないようにしてるんでしょうねぇ。服装はあんときと一緒で、ツバの広い白い帽子よぉ。それと左手の二の腕の赤いバラの刺青ね」
「人相は分からんか?」
「そうさねぇ。帽子を、こう、ぐいっと目深にかぶってるしぃ、うつむき加減だったしぃ、もし顔が見えても、あたしは若いお兄ちゃんに興味はあっても、若いおネエちゃんには興味はないしぃ、顔なんてみんな同じに見えてしまうからねぇ」
「香水の香りはしなかったか?」
「香水? そりゃ、気がつかなかったねぇ。特にそばに寄ってクンクンなんてしてないしねぇ。そんなことすりゃ、変質者みたいだしぃ、まちがっても性犯罪じゃ捕まりたくなしねぇ。あれは刑務所に入ったら他の受刑者にイジメられるらしいしねぇ。犯罪者の風上にも置けないってねぇ。――ねえ、小野田ちゃん、聞いてる?」
小野田はまだ名残惜しそうに辺りを見渡している。そして、捜査員に指示を出した。
「もしかしたら、依頼した女が成り行きを見届けているかもしれないから、周辺を探してみてくれ」
四人が短く返事をして走り去る。
「分かってくれた? 小野田ちゃん。あたしは何もしてないから、頼むわよぉ。税金払ってないけど、見逃してよぉ」
ダビデさんは両手を合わせ、腰を折ってお願いをする。
小野田は走っていく捜査員を見つめたまま何も言わない。
「ああそうだ。またそのおネエちゃんが現れたら連絡するからさぁ」
「先日、われわれ警察と会ったことは話したのか?」
「あっ、話しちまった」
「それでもまたダビデさんに頼むとはな。大胆なのか緻密なのか、よく分からんな。しかし、もう現れんだろうな。まあ、どこかの道端ですれ違ったら通報してくれ」
「うん、約束するわ、小野田ちゃん。住所と名前に電話番号まで聞きだしますわ。好きな食べ物も、よく見るテレビ番組も聞いちゃうわよぉ。腕立て伏せが何回できるか、ハブラシは何色か……」
「ああ、分かった。期待しないで待ってる」
小野田はダビデさんが受け取った一万円札をまた自分のものと交換し、封筒、懐中電灯とともに証拠品として受け取った。
まもなく解放されたダビデさんは、頭をペコペコ下げながら暗い畦道を内股で引き返し、
「ねーえ。小野田ちゃーん、私のハブラシは桃色よー!」
暗闇の中から叫んだ。

 警察の作戦はまんまと失敗した。
犯人は坂田に尚ちゃんの居場所を教えた。連絡を受けた警察はすぐに見つけ出し、坂田はまた派手に記者会見をすると、犯人は思っていただろう。
その裏をかいた。
尚ちゃんが数日間、通園しないように、お母さんにお願いし、マルクも七直署で預かって世話をした。マスコミへの発表も控え、坂田にもじっとしていてくれるように頼んだ。金塊を取り戻すためだというと、坂田は黙って承諾してくれた。また、慎重な犯人のことだから、坂田邸を盗聴している可能性もあるため、この間は一切外出も控え、固定電話もケータイ電話もかけないようにしてもらった。
これまでの犯人の慎重な行動からして、人質には危害を加えるつもりなどないだろうと読んだ。そして、なかなか報道されない尚ちゃんのことを心配して必ず動く。
この心理を利用してのおとり捜査を仕掛けた。
期限は長くて三日と踏んだ。三日経って現れなければ、来ないだろう。
ちょうど三日目の夜。
十人体制で張り込んでいた野小屋に現れたのは、オカマホームレスのダビデさんだった。

尚人ちゃん誘拐事件捜査本部。第三回捜査会議。
ホワイトボードに尚人ちゃんの写真が貼られ、名前、年齢、誘拐事件が起きた日時、身代金受け渡し現場の見取り図や状況なども書かれていた。状況に変化があった分、以前よりも情報量は増えている。この会議でさらに手がかりが増え、犯人逮捕へ向けて一歩でも前進できればと、みんなが思っていた。
長机には今日も署長と捜査一課課長と管理官が陣取っていた。
署長がゆっくりとした口調で捜査員たちに語りかける。
「昨夜は残念だったなあ。やって来たのがダビデさんだったとはなあ。しかし、ダビデとは立派な名前を付けたなあ。あれだろ、海を真っ二つに割った、アラビアのロレンスに出てきた……」
それはモーゼだろうと捜査員たちは顔をゆがめた。
署長の訓示は終わった。
小野田警部が立ち上がって捜査員を見渡した。誰もが連日の聞き込みで、日焼けしている。
「では、只今から捜査会議を行います」また署長の訓示は会議に含まれてなかった。「さっそくだが、ブツ担当から報告を頼む」
「はい」証拠品分析の担当者が立ち上がった。「解放された尚ちゃんの通園バッグにはケータイが入ったままになっていましたが、誘拐事件中、通話はされていません。指紋は尚ちゃんのものとお母さんのものしか検出されませんでした。それと、野小屋から見つかった毛布ですが、N.K.とイニシャルが刺繍されていました。これは最初からプリントされていたものではなく、後で縫い付けられたもので、持ち主の名前である可能性が高いと思われます」
捜査員がざわめく。誰もがこの二文字のアルファベットを頭の中に叩き込んだ。
「同じく野小屋で見つかった赤、青、透明の三つのボールはごく普通に家庭で使われている物で市内のスーパー、ホームセンターにかなりの数が出回っています。ただ、このボールですが新品ではありません。かなり使い込んだものと思われます」
小野田が口を挟む。
「では、犯人が使っていた可能性もあるな」
「はい、その通りです。普段からボールを三つも使っているとなると、持ち主は女性か料理好きな男性ではないかと思われます。ただし、ボールにイニシャルは書かれていませんでした」
そうだろうなと捜査員から失笑が漏れる。
「ペットボトルのグレープフルーツジュースと青いボールに残っていた水の中からは睡眠導入剤の成分が検出されました。成分からして、ドラッグストアで買える市販のものです。尚ちゃんとマルクはそれを飲んで眠らされていたと思われます」
ここで署長が質問をした。
「子供用の睡眠導入剤なんかあるのかね?」
「ないです。パッケージの用法・用量のところには、十五歳未満には服用しないようにと書いてあります」
「犬用は?」
「ないです。動物は放っておいても寝ます」捜査員は気を取り直した。「残されていたグレープジュースの量からして、尚ちゃんはかなりの量を飲んだと思われます。それも、薬品の分解を妨げるグレープフルーツジュースを使って飲ませていたため、二日間に渡って眠り続けたものと推測されます。マルクの場合ですが、飲んだ量は分かりませんし、犬への効き目も分かってませんので、もしかして、途中で目を覚ましたかもしれませんが、戸が閉まっていましたので、出られなかったのでしょう。それに、普段から吼えることはなかったということですので、何度か水を飲んで、二日間は睡眠状態を繰り返していたのでしょう」
ブツ担当以外の担当者は熱心にメモを取っている。
「次に、透明のボールの表面に浮いていた赤い物質ですが、タール色素が検出されました。これは主に口紅に使われる成分です。ペットボトルを冷やすために水を入れていたと思われたのですが、なぜ、そこからタール色素なのかは、後ほど地取り担当者から説明があります。また、ホームレスの方から入手しました一万円札、茶封筒から指紋は一つも検出されていません。犯人は念入りに手袋をはめていたと思われます。それと、ダビデ氏の仲間が持っていたラジコンのコントローラーに見せかけた銀の箱ですが、もともと大きかったダンボールをカッターかハサミで切り取って小さくし、ガムテープで止めたものです。箱を包んでいた銀のアルミホイールとアンテナに見せかけた針金もごく普通の市販のものでして、かなりの数が出回ってます。――以上です」
他の捜査員と同じようにメモを取っていた小野田が顔を上げて言う。
「では、鑑取りはどうだ?」
「はい」坂田家の人間関係を調べている捜査員が立ち上がる。「毛布に刺繍されていたN.K.というイニシャルですが、坂田家の近所の方々や保育園関係者、坂田氏の仕事に関する顧客名簿から数人の該当者が見つかっています。今、一人ずつ当たっているところです。それと、運幸教の連中が身代金受け渡し現場や西堀駅に現れた件ですが、どうやら坂田氏は運幸教から多額の借金をしているようです」
先日の家宅捜査は、教団がどこからか誘拐事件の情報を得て、犯人が奪った金塊を横取りしたという容疑だった。しかし、金銭貸借の関係にあると聞いて、捜査員の間からはヒソヒソ声が聞こえた。
教団が犯人そのものという可能性も出てきたからだ。
また、署長がしゃしゃり出てくる。
「ほう、多額の借金とはねえ。坂田さんは見せかけのセレブだったのだなあ。しかし、小野田くん、金塊をいっぱい持っとるのに、なんで借金をするかね」
「たぶん、その金塊が担保になってるのでしょう」
「ほうほう、そういうことかね。宗教団体が絡んでくると何かと嫌だねえ。呪いをかけられたりしないだろうねえ」
小野田がつづける。
「他には?」
「いえ、鑑取りからは以上です」
「では次、地取りはどうだ?」小野田は宮辺を見た。
聞き込み担当の宮辺刑事が立ち上がった。隣では一緒に組んでいる高安刑事が心配そうに見上げている。
「ええと、尚ちゃんの事情聴取ですが、俺、いや、私ですと、あまりうまくいかなかったもので、花園刑事に代わってもらいました。では、お願いします」
しょうがねえ奴だなと一人の捜査員が野次を飛ばす。
代わりに立ち上がったのは、唯一の女性捜査員である花園刑事だった。二十代後半と年齢的にはまだ若手だが、職務質問で実績をあげ、署長推薦を得て刑事になったというだけあって、取調べには定評があった。
「まず、救出の際に見つかった尚ちゃんの顔の古傷ですが、虐待によってできたと思われます」捜査員がどよめく。「尚ちゃんに聞いてもなかなか答えてくれませんでしたので、虐待じゃないかと思い、宮辺刑事に近所と児童相談所の聞き込みに行ってもらい、判明したしました。近所では尚ちゃんに痣があるのをよく見かけるそうですし、近所から連絡を受けた児童相談所の職員が二度に渡って訪問をしたのですが、坂田氏に怒鳴られて、追い返されたらしいです。このことが分かりましたので、尚ちゃんとお母さんは別々にして事情を聞くことにしました。お母さんが犯人もしくは共犯者ではないかという疑いも出てきたからです」
捜査員がふたたびどよめく。
小野田が花園刑事の報告に割り込む。
「つまり、お母さんが尚ちゃんの答えを誘導する可能性が出てきたわけだ。しかし、二人きりになって尚ちゃんから事情を聞くとなると、男性よりも女性の方がいいだろう。尚ちゃんは人見知りをするというから尚更だ。だから花園刑事に代わってもらった。決して宮辺刑事が無能というわけではないことを付け加えておく。――花園君、つづけてくれ」
宮辺は顔を赤らめて下を向く。
「はい。尚ちゃんが誘拐されたのは夕方、保育園からの帰りに、スクールバスを降りると、行方不明になっていたマルクを見かけて、後を追いかけると、あの野小屋の中に入って行ったので、尚ちゃんも入ったそうです。そこで、ペットボトルのジュースを見かけて、ちょうど喉が渇いていたので飲んでしまったところ眠ってしまい、目を覚ますと、救助されたあとに運ばれた病院の病室だったそうです」
再び小野田が助言する。
「尚ちゃんは犯人を見ていないし、声も聞いていない。逆に犯人も尚ちゃんが寝ていたのだから、声を聞く機会はなかった。問題はここだ。犯人から坂田氏にかかってきた電話を思い出してくれ。最後に尚ちゃんの“お父さん!”という声が入っていたはずだ。ずっと眠っていた尚ちゃんから声は録れない。あの声はあらかじめ採取してあったと推測される。つまり、犯人は尚ちゃんのそばにいて、声を録音できる機会があった人物だ」
捜査員があわててペンを走らせる。小野田は花園に報告を続けるよう促す。
「はい。尚ちゃんに最近、“お父さん”と言ったのはいつか、あるいは誰か他人に言ったことはあるのかと聞いてみたのですが、残念ながら要領を得ませんでした」
「まあ、それは仕方がない。相手はまだ幼い園児だ」と小野田が庇う。
「次に、尚ちゃんの証言によりますと、ペットボトルの入ったボールに氷の板が立て掛けてあって、そこに“ごじゆうにおのみください”と書かれていたそうです」
氷の板だって?
捜査員の一人がつぶやく。
「はい。先ほど、ブツ担当から報告がありましたが、透明のボールの中から口紅に使用されるタール色素が検出されてます。つまり、氷の板に口紅を使って文字を書いていたと思われます。そして、尚ちゃんが救出されたときには、氷は溶けて、表面が赤く染まっていたと思われます。氷に書き込んだ理由は筆跡を分からなくするためでしょう。つまり、氷の板はジュースを冷やす役目と、メッセージを伝えるという二つの役目を果たした後、自然に溶けて、自動的に証拠隠滅が図られたというわけです」
花園は小野田を見たが、何も言わないようなので報告を続ける。
「ペットボトルの中身はグレープフルーツジュースでした。聞いてみると、尚ちゃんはグレープフルーツジュースが大好きだそうです。先ほどの報告にあったように、グレープフルーツジュースは睡眠導入剤の効果を高めるそうです」
ここでも小野田が割り込んだ。
「犯人は尚ちゃんが、グレープフルーツジュースが好きで、かつ、薬の効き目を高める効果があることを知っていて用意したのか。あるいは、偶然用意したものが好物で、偶然薬の効き目を高める効果があったのか。これは微妙なところだ」
逆に花園が小野田に言った。
「グレープフルーツというのは酸っぱいジュースですから、あまり好きな子供はいないのではと思います。むしろ、飲ませるとしたら、甘いオレンジジュースなんかが適していると思います」
「つまり、花園くんは犯人が尚ちゃんの嗜好を知っている人物だと思うわけだな」
「はい、犯人は身近にいるのでないでしょうか。ただし、薬品についてはあまり詳しくないのではないかと思います。グレープフルーツジュースの薬品に対する効能についての知識は、薬剤師とまで行かず、栄養士クラスの方なら知っているそうです。しかし、犯人は尚人ちゃんの安否が気になりダビデさんに頼んで、小屋へ行かせているからです」
「よしっ、花園くん、尚ちゃんからよく聞き出してくれた。他に地取り担当からは何かあるか?」
別の捜査員が立ち上がった。
「逆探知に成功した西桑町の公衆電話の周辺で聞き込みを続けてましたら、先ほど目撃者が見つかりました」
まだ報告を受けてなかった小野田も驚いた顔を見せる。
「散歩の途中だった年配の男性なんですが、若い女性が公衆電話を使っていたので不思議に思ったそうです。最近はみんなケータイを持っているのに珍しいなと」
「その女性の特徴は?」
小野田が訊く。
「はい、白くて大きな帽子をかぶって、左の腕に赤いバラの刺青をしていたそうです」
また振り出しに戻った尚人ちゃん誘拐事件だったが、かなりの数の物的証拠が揃ってきている。捜査本部は解散せず、犯人の捜索と金塊の発見に全力を尽くしていた。

 坂田がテレビで二度目の記者会見を始めた。
今度は隣に小野田警部も同席してもらっている。
テレビ画面の右上には例によって赤くてセンスのない文字で“資産家のご子息、無事に保護”と書かれていて、酒田には途切れることなくフラッシュが浴びせられている。その横では小野田がまぶしそうに目を細めていた。
坂田はまず息子が無事に戻ってきたことに対し、世間の皆さんに心配をかけたことをカメラに向かって、神妙な顔で詫びた。あくまでも悲劇の主人公であり続けようとしている。
そして、息子を取り返すために、莫大な財産を費やしたことを強調した。
「具体的には重さ三十キロの金塊です!」
会場がどよめく。すかさず一人の記者が質問をする。
「時価総額に換算すると、いかほどになりますか?」
「一グラム八千円として、二億四千万円ほどになります」
ふたたび会場がどよめいた。
「お子様のためとはいえ、二億を越える身代金を出すには躊躇されたのではないでしょうか?」
坂田は一瞬にして顔を真っ赤にした。
「子供の命がかかっていたのですよ! それは金額の問題じゃないんです! あなたは子供をお持ちですか。だったら分かるはずです。命は何ものにも代えられませんよ」
坂田は世間の同情を引こうと迫真の演技をつづける。しかし、詰め掛けた記者は誰一人として気づいていない。たとえ、坂田の言動が不自然に思えたとして、この場で言い出せるはずはなかった。
「ああ、それと犬も誘拐されていたのですが、無事に保護されました。たとえペットといえども、家族の一員ですからね」
この一言で動物好きの人たちの票が集まっただろう。坂田の計算どおりだ。
記者の質問はつづく。
「奥様は何とおっしゃってますか?」
「妻も私と同じ気持ちでしょう。つまり、息子が無事に戻ってきて良かったということです」
「結局、その金塊は犯人に奪われたのでしょうか?」
坂田はその記者を睨みつけようとしたが、カメラが回っていることを思い出して冷静になった。
「そういうことです。しかし、お金はまた稼げばいいことですから」
金塊が担保に入っていたことは、もちろん伏せておく。
「身代金はどうような方法で強奪されたのでしょうか?」
坂田はチラッと小野田を見た。代わりに小野田が答えた。
「それは捜査中ですから言えません」
「犯人の目星はついてるのでしょうか?」
「それも言えません。ただ難航していることは確かです。何か情報がありましたら、些細なことでも結構ですので、ぜひお寄せいただきたいと思います」
坂田は小野田に鋭い視線を向けた。
弱気な発言に思えたからだ。この場では口にこそ出さないが、まんまと身代金を掠め取られたことに対して、はらわたが煮えくり返るほどに憤慨している。必ず奪い返すという約束は厳守してもらうと、先ほど会見が始まる前、小野田に詰め寄っていた。
「では、最後に坂田さんへ。犯人が今このテレビを見ているかもしれません。何か一言、お願いします」
「――いえ、結構です」
言いたいことはたくさんあったが、坂田はカメラを意識し、疲れた表情を作って目を伏せた。
うまく演じ切れたと思う。朝から励ましのメールが多数届いていた。この会場に来る前にも、たくさんの人に励ましの声をかけられた。今まで悪いウワサもたくさん流れていたが、今回の騒動のおかげで、父親として、夫として、一人の人間としての信用度は上がった。きっと、今後の商売に役立つだろう。今もテレビを見ていた人たちが同情してくれたに違いない。
あの男を除いて……。

 あの男からはすぐに電話がかかってきた。
「坂田はん、記者会見、見たで。迫真の演技やったな」
この教祖、動作は鈍いが勘は鋭い。伊達に教祖をやっていない。
「そやけど、番犬まで誘拐されるとは情けない話やないか。まあ、ケガなく無事に取り返したんやから、動物愛護協会からは賛美の嵐やろうけどな」
「何が言いたいのですか?」
「金塊はラジコンヘリコプターを使って奪われたそうやな」
「なんでそのことを! 警察は発表していないはずですよ」
「江戸時代と違うて、今は信教の自由がある。誰がどんな宗教を信じようと自由なんや」
「尊師の教団に警察官がいるというわけですか」
「うちは墜落場所まで特定できてるで。コンテナ車の屋根に乗ってたヘリコプターがカーブで落ちて、バラバラになりよったんや。うちの信者がお土産にヘリコプターの破片をもらって帰って来たくらいや」
警官の目を掠めて拾ってきたことは言わない。
「残念ながら金塊の欠片はなかったけどな。うちの信者が到着したときには、中身が空っぽの百貨店の袋が風に舞ってただけらしいわ。そやのに、警察はうちを疑って、家宅捜査をかけよったわ」
そのことは坂田も小野田から聞いていた。
「もちろん、何も出えへんかったけどな。あんたもうちを疑ってるのと違うか?」
「いや、そんなことは」と言いながらも、坂田は疑念を抱いている。
「うちが金塊を奪ったりしたら、こうして電話なんかせえへんやろ。ワシがそんな小細工をするような小さい人間やと思うか?」
「……」
「やっぱり思うか。そやな、ワシならやりかねんけどな」
教祖は自分のことをよく分かっている。
「まあ、冗談はさて置いて、坂田はん、うちへの支払期限が迫っとるが」
「いや、まだ五日はありますから、その間に警察が……」
「無理やろ。あいつらが金塊を取り戻すのは難しいやろ。かといって、坂田はんの財産いうてもな、キンキラキンのベンツなんか乗る奴はおらんから、売れへんやろ。塗装し直すにも金がかかるしな。そやけど、あの豪邸を手放すとなると可哀想やからなあ」
「しかし、黒星社長の行方も探していますし」
「黒星か。ほな、情報を提供してやるわ。駅前の黒星不動産のビルやけどな、都市銀と信金が押さえよったわ。建築中の三棟のマンションは銀行が主導になって進めていくみたいや。あんたが貸してた金も少しは戻ってくるやろうけど、あくまでも少しやな。期待せん方がエエで。何ちゅうても、相手は銀行やからな。やりよることはエグイ。ワシと同じくらいエグイで。あんたは黒星社長の自宅にまで行ったそうやけどな」
「なぜ、そのことを?」
坂田はその日の行動を思い出すが、見られていたという心当たりはない。信者が後をつけていたというのか。
「まあ、ええやないか。その黒星社長やけど、警察よりも機動力があるうちの教団が探しとる。見つけ次第、生け捕りにして、うちで働かせるわ。あの社長、今回は調子に乗って失敗しよったけど、商才はある。うまく利用したら稼いでくれるはずや」
「いや、それでは……」
黒星不動産に投資しているのはこちらだ。優先権はこちらにあるはずだ。
「心配せんでよろし。奴が稼いだ分のうち、ちょっとだけ、坂田はんにあげるわ。おすそ分けや。まあ、見つけたもん勝ちやな。――それと肝心の犯人やけど、ほんまに心当たりはないんか?」
「はい、ありません」
「ありませんやなくて、多すぎて絞り込めませんやないのか?」
 教祖は嫌なところを突いてくる。
坂田がたくさんの人から恨まれていることを知っているからだ。
「絞込みはうちの教団に任せたらよろし。坂田はんの顧客名簿を当たっていったらエエだけの話や」
「ちょっと待ってください! なぜ、尊師が私の仕事の顧客名簿を持ってるのですか。名簿は警察に渡してあるのですよ」
「コピーを手に入れたんや。方法はさっき言うたやないか。信教の自由や」
「信教の自由と情報の漏えいは関係ありませんよ。警官といえども、押収品を勝手にコピーして持ち出すのは犯罪でしょ」
「かまへん、かまへん。一件ずつ電話して、お前が犯人やろて脅してあげるわ」
「そんなことをされたら私の信用がなくなりますよ!」
「いやいや、最近の警察は世間の目を気にして手ぬるいからな。ズバッと訊いた方が早いやないか。それに、あんたには最初から信用なんかあらへん。あの記者会見で多少は同情が集まったかもしれんけど、焼け石に水や」
「尊師、待ってくださいよ!」
「何をやっても、ワシには天罰なんか下らんわ」
「いや、私はそういうことを言っているのではなくて……」
「この世に神も仏もおらんで。もし、出てきよったら、ドツキ回してやるわ。――坂田はん、仏に逢うたら仏を殺しというのを聞いたことないか?」
「聞いたことありますけど」そんな浅い意味じゃないだろ。「あんた、それでも……」
「宗教団体の教祖かと言いたいのか? 宗教なんか金儲けの隠れ蓑に過ぎひん。蓑を剥ぎ取ってみ。中からは悪魔が出てきよるわ。フライドチキンが大好きなメタボの悪魔や。ガハハハ」
ここまで自分自身を知り尽くしている奴も珍しいと、さすがの坂田もあきれ返った。

 午後のワイドショーでは、女性キャスターが事件の詳細を説明していた。その神妙な面持ちとは裏腹に、日頃から番組プロデューサーに言われている通り、小学生の高学年が見ても理解できるよう、簡単で分かりやすい言葉を使っての報道を心掛けていた。
ゲストには三人のコメンテーターが控え、後ほど自慢の推理を展開する予定でいる。
「坂田家の誘拐事件ですが、ご子息が無事に解放されましたので、警察は公開捜査に踏み切り、われわれマスコミも報道規制が解かれました。では、情報を整理しましょう。まず、七月十日の夜、お父さんの会社に犯人から電話がかかってきました。その声ですが、異様に甲高く、何らかの方法で声質が変えてあったそうです。犯人の要求といいますのが、金塊を藤松百貨店の紙袋に入れて、十一日の午後二時に堀下の駐車場まで持って来いというものでした。ここで犯人は意外な行動に出たわけです。なんと、ラジコンのヘリコプターを使って金塊を奪い取ったのです。これをご覧ください」
女性キャスターは金塊が奪取された現場の見取り図が書いてあるクリップを取り出した。
「このように草が刈られて小道が作られていました。さらに、捜査をかく乱するためか、この近辺にはかなり強い匂いがする香水が撒かれていたそうです」
三人のコメンテーターは食い入るようにクリップを見つめる。
「すぐに張り込んでいた警察が追いかけたのですが、ラジコンヘリは通りかかった貨物列車のコンテナの上に乗ったまま終着駅の西堀駅へと運ばれました。しかし、貨物列車に追いついたときにはすでに金塊は消えていました。残されていたのはこれと同じ大きさの紙袋だけです」
女性キャスターは藤松百貨店の一番大きな紙袋を目の前に掲げて見せた。
「捜査本部は堀下近辺での目撃者と金塊の発見に全力を尽くしています。心当たりのある方は、些細なことでも構いませんので、こちらへ情報をお寄せください」
捜査本部が置かれた七直署の電話番号が画面下に写されて、番組はいったんCMになった。
諸神園長は怪訝そうな顔つきで、園長室にあるテレビのスイッチを消した。

 ベテランの高安刑事は新人の宮辺刑事と組んで捜査に当たることになった。
そして、小野田警部の指示により、もう一度、身代金の受け渡し現場周辺の捜査および聞き込みを行うことにした。
今日は鑑識課から警察犬が出動している。
不動産会社の看板付近で漂っていた香りは、雑草についていた液体の分析の結果、やはり香水だということが分かった。香水は看板の裏のあたり、約五メートル四方に渡って少量ずつ撒かれていたことも分かった。そして、警察犬の活躍の結果、その香りは小野田と高安が踏み切り待ちをしていた地点、小型ショベルカーが置いてあった敷地の横でも感知された。
その場所に高安は宮辺と並んで立ち、看板の方向を見る。
あの日のように目の前の踏み切りには電車は走っておらず、よく見渡すことができる。
「ワシらはここで列車が通り過ぎるのを待っておった。まさか、その横で犯人が堂々とラジコンの操縦をしておったとはな」
宮辺刑事は看板の方を見つめたまま言う。
「でも、こっからだとかなり遠いですね。よほど熟練というか、ラジコンの操縦に慣れた奴じゃないと無理ですよね」
「そうだな。ここから操作して、坂田氏が置いた藤松百貨店の紙袋の取っ手を引っ掛けて、空中に浮かび上がらせる。もちろん、ゆっくりはしていられない。十数人の捜査員と五十人ほどの運幸教の信者が迫っていたのだからな」
「でも、まんまと身代金を奪って逃げてしまった」
「ああ、まんまとな」
「俺もよく知らないのですが、ラジコンヘリの操縦というのは難しいのでしょうか?」
「あんたのような若者が知らないんじゃ、ワシにも分からん。ただ、あのラジコン機の大きな残骸がほとんど残っていない。細かい物ばかりだったそうだ」
「あの教団の連中が、手がかりにと持って帰ったのでしょうか?」
「そう思って、教団にガサ入れをしたが何も出て来なかった。まあ、近いうちにその細かい残骸から鑑識がメーカーを特定してれくれるだろうよ。すると、購入した場所も分かるかもしれん。それと、一連の動きを二人のビデオ班が撮影していたが、西へ飛んでいくヘリと、ビルの五階の窓から見えたダビデさんたちホームレスの動きを追っていたため、犯人らしき姿は残念ながら、写ってなかった」
高安は道路を斜めに横断し、看板の裏に向かって歩き出した。宮辺も後を追いかける。
そこではまだ鑑識課員が、文字通り、草の根を分けながら、犯人に結びつく手がかりや遺留品を探している。写真班のフラッシュが何度もまたたき、指紋・足痕班は看板に付いている指紋や残されている足痕の採取に余念がない。また、二頭の警察犬もあちこちに顔を突っ込みながら、捜査をつづけている。
二人の刑事は邪魔にならないように、少し離れた所に立ち、成り行きを伺っている。
「犯人はうまく草の上を歩いたようで完全な足痕は見当たらないらしい」
それでも、鑑識は這いつくばって、足痕捜査を行っている。
「なぜこんな場所に香水が撒かれていたか分かるか?」高安が問う。
「警察犬をかく乱させるためですか?」宮辺が答える。
「たぶんな。犬の嗅覚は人間の数千倍らしいからな、犯人が自分の臭いを嗅ぎ取られないように撒いたのだろうな」
すぐ横を大型トラックが爆音を上げて通り過ぎて行く。
高安は思わず顔をしかめる。
「これだけ車が走っていれば、排気ガスと混ざって、分からなくなるだろうがな。犯人は念を入れたのだろう」
宮辺も顔をしかめて、あたりに漂う吐き出されたばかりの排気ガスを見つめる。
「それと、撒かれていたのは香水の成分だが、天然香料は入ってなく、すべてが合成香料でできていたらしい」
「合成香料ですか?」
「そうだ。植物性香料にしろ動物性香料にしろ、天然香料は高価らしい。つまりだ。撒かれていた香水は安物なんだそうだ」
「では、百貨店の一階で売っているような高級品じゃなくて、ドラッグストアとかコンビニでも売っているような代物というわけですか」
「あれだけの量をぶちまけてるんだからな、安物なんだろうな」
「じゃあ、犯人はセレブじゃないですね」
宮辺が軽口を叩いたが、高安は無視をして身代金強奪現場をあごで示した。
「そしてこれだ。さっきの位置からヘリを遠隔操作するのに、生い茂っている草が邪魔だから刈り取りやがったんだ」
草が刈られて小道のようになっている跡を指差した。
「刈られた草の切り口を見てみろ。鑑識に訊くまでもない。最近、刈ったんだ。これだけの小道を作るのに、四、五分じゃ無理だろ」
宮辺が屈んで草をつまんでいる。
「――よしっ、宮辺。今から目撃者を探しに行くぞ」
ベテランの高安刑事は新人の宮辺刑事に対し、丁寧に状況の説明をして、捜査のやり方を教えていく。たとえ、宮辺の言葉遣いや容姿が刑事らしくなくとも。
宮辺も自分の父親くらいの歳である高安の言動を漏らさずに観察し、一刻も早く一人前の刑事になろうとしている。
宮辺は足早に歩く高安の背中を追う。
しかし、意外にも目撃者はすぐに見つかった。
張り込みにも協力してもらった喫茶ミトコンドリアからは、道路を挟んで斜め右に不動産会社の看板が見える。
主婦パートだというウェイトレスの女性が重要な証言をしてくれた。
「はい、あの事件が起きた二日ほど前ですけど、あそこで草を刈っている人を見ましたよ。関係がないと思ってましたので、警察には何も言わなかったのですが」
宮辺があわててメモの準備をする。
「どんな感じの人でしたか?」高安が冷静な声で訊いた。
「尽々奉仕会の方ですよ」
「つくつくほうしかい?」
「はい、毎週日曜日の朝に地域の人たちが集まって草刈だとか溝掃除とかをやっているんですよ。それで、日曜日に来られない人は、何曜日でもいいので参加をして、みんなで街をきれいにしましょうと。自治会で決まっていることなんですよ」
「でも、なぜ、その方が奉仕会と分かったのですか?」
「活動をするときは、自治会が配った“尽々奉仕会”と書かれたタスキをしてますから。その女の人もしてましたよ」
「えっ、女の人ですか!?」宮辺が素っ頓狂な声を上げた。
計画が緻密であり、遺留品も残さず、現場に香水を振り撒いていることから、捜査本部でも女性が犯人ではないかと言われていた。
一方で、あのような大胆な犯行が女性にできるだろうかという意見も出されていた。しかし、ここにきて、犯人らしき人物が女性と特定され、宮辺はあらためて驚いた。
「ここからだとはっきりとは見えませんけど、でも、たぶん、そうだと思いますよ。女性用の白い帽子をかぶってましたから」
「ツバの広い帽子ですか?」高安がつづけて訊く。
「そうです。大きな帽子でしたよ。ですから、隠れてしまって人相までは見えませんでしたけど、小柄な人でした」
「服装はどうでした?」
「確か、ジーンズに白いTシャツでした」
「年齢とかは分かりませんか?」
「いいえ、そこまでは。この距離ですし、私も忙しくて、ずっと見ていたわけではありませんし、奉仕会の活動をされている方は、普段からあちこちで見かけますからね」
「その方はいつ頃からいらっしゃいましたか?」
「たいして気にしてなかったので、何時頃からあそこで草刈をされていたか分かりませんし、どうやってここまで来られたのか、自転車なのか歩いてなのかも分かりませんね」
「では、どのくらいの時間、作業をされてましたか?」
「そうですねえ。三十分ほどですかね」
「その奉仕会がしているタスキですが、どのくらいの数が配布されているかお分かりですか?」
「うーん、五百本くらいですかねえ」
「そんなにですか!」また宮辺が裏声で驚く。
「はい、一世帯に一本じゃなくて、一人一本ですから。ほら、一家総出でお掃除をされる方もいらっしゃるから、そんなときは家族全員がお揃いでタスキをされてますよ。子供用のタスキもちゃんと用意されていますからね」
「赤ちゃん用もですか?」
「いえ、赤ちゃんはドブ掃除なんかできませんから」
「そ、そうですよね」
「ですから、この地域ではタスキが家にない方がおかしいんですよ。汚れたときは自治会長に言うと、すぐに新しいものがもらえますからね。もらえると言ってもタダじゃなくて、毎月の町内会費から出ているんですけどね」
――では、タスキから絞り込むことは難しいと。
宮辺は質問をしながら熱心にメモを取っていたが、これ以上詳しい手がかりは出てきそうになかったため、隣に立つ高安の方を向き、目で助けを求めた。
高安は宮辺の後を受けて言った。
「お忙しいところ、捜査にご協力をいただきまして、ありがとうございました」深々と頭を下げる。あわてて宮辺もそれに倣う。「奥さん、最後につかぬことをお聞きしますが、その女性は腕に刺青をしてませんでしたか?」
「えっ、やっぱりそうですか。左手のここのところに」
女性は右手で左の二の腕をさすった。
「赤い何かが見えてました。あっ、そうそう。そんなおしゃれをするくらいだから若い方なのかなと思いましたよ。何だか、動作もキビキビしていたように見えましたから」
「それは赤いバラでしたか?」
「いえ、絵柄までは見えませんでしたので、花かどうかも分かりませんでした」
ラジコンの無線が通り、機体が見えるように、草を刈り、小道を作った人物は、今までダビデさんたちに目撃されている左の腕に刺青を入れた、おそらく年齢は若いと思われる小柄な女性だと判明した。
それだけでも大きな収穫だと二人の刑事は思った。

 この後、鑑識課は警察犬を連れて坂田邸と坂田氏の事務所を回り、諸神保育園に到着し、そこでふたたび、高安、宮辺の両刑事と合流した。
二頭の警察犬を間近に見て、園児たちは大騒ぎをしていた。保育士が教室から出ないようにと言っても、こっそり抜け出し、犬の後を追いかける園児が後を絶たなかった。そして、いつしか、園内は先生と園児の鬼ごっこの場と化していた。
新人保育士の吉田くんが、両脇に捕まえた園児を抱えているとき、彼らの奪回を図ろうとした他の園児にお尻を蹴り上げられたのを見て、捜査員たちも大笑いし、犬たちも仕事を忘れて愉快そうに尻尾を振っていた。
三十八歳、自称崖っぷちのみどり先生も肩で息をしながら園児を追い掛け回す。
騒ぎを聞いて駆けつけた四十九歳の遠利主任もヘトヘトになって、走り回っている。
やがて、捜査員から二頭の犬の名前を聞き出すことに成功した園児たちが、それぞれの名前を叫びはじめた。
「チッチ!」「サリー!」「チッチ!」「サリー!」
大声で自分の名前が呼ばれるたびに犬はビクッとして振り返る。
犬が振り返ると園児は歓声を上げて大喜びする。
捜査に支障を来たしたところで、ついには栄養士のあつこおばちゃんまで駆り出されて、事態の収拾を図りだす。
「あつこ先生まで出てきたら、三時のおやつはお預けになっちゃうよ!」
吉田の一言で騒動は治まった。犬よりもおやつの方が楽しみな園児たちだった。
シェパード犬たちは嗅覚を生かしながら園庭をぐるぐると回っていたが、何かを察して立ち止まることはなかった。犯行現場に撒かれていた香水のために、犯人の原臭は消されていたし、その香水もすぐに処分したのだろう。また捜査員も花壇の中を調べたりしていたが、目ぼしい物は何も発見できず、園内の捜査は何の成果もなく終わった。
二人の刑事は風景をながめるようにしながら、すべての保育士をしっかりと観察していた。注目していた点は、体格と左手の二の腕だ。宮辺が小声で高安に言った。
「保育士の資格もお持ちのスクールバスの運転手の大道さん、この方だけが不在だそうです。しかし、大道さんは五十八歳の男性だそうですから、犯人像には該当しません。ですので、保育士さんの中では、あの奈月先生が一番小柄ですね」
奈月は最後まで園庭を走り回っていた陸くんの捕獲に成功し、教室に引きずり込んでいる最中だった。
黄色いTシャツを着て、クマの顔の絵が描かれたピンクのエプロンをしている。男性保育士の吉田くんを含む、すべての先生が半袖のTシャツにエプロンという格好だった。
高安が言った。
「しかし、腕に刺青はないな」
「先生方、みなさんの腕を見ましたが、二の腕に刺青や痣のようなものは見当たりません」
「そのようだな。では、園長先生に話を聞きに行くか」
犯人が若い女性の可能性があるといっても、高安はここの保育士さんを疑ってはいなかった。坂田の評判の悪さはあちこちで聞いていたが、まさか誘拐を企てるほど恨んでいる先生がいるとは思っていなかったためだ。諸神保育園内で刺青をしている人物が見つからなかったことは、逆に高安を安心させた。

「いやあ、保育園の園長室らしいですなあ。私もこういうところにお邪魔するのは初めてでしてねえ」
高安はガラス戸つきの本棚の中に飾られている数々のフィギュアを見て驚いてる。
宮辺は子供の頃、夢中になった戦隊ヒーローもののフィギュアに目を輝かせて見入っている。
「やはり、園児たちのことを考えてこういうものを集めていらっしゃるのですか?」
諸神園長は高安の問いに、まさか自分の趣味だとは言い出せず、はい、まあと曖昧な返事をして、「先ほどは大変申し訳ないことをいたしまして」と、園児たちが捜査の邪魔をしたことを謝った。
しかし、本棚の前に立っていた高安は振り返り、「いやいや、子供はあれくらい元気な方がよろしい」と言って掛け合わなかった。
宮辺はまだフィギュアを端から順番に見て回っている。
「これが戦隊ヒーローって奴か?」
「高安さん、よくご存知で。でも、詳しくはスーパー戦隊シリーズと言うんですよ。いやあ、懐かしいなあ。ダイレンジャー、オーレンジャー、カーレンジャー、メガレンジャーか」
「なんだ、宮辺、やけに詳しいな」
「ええ、俺の年代ならみんな夢中になってましたよ。将来は俺が地球を守るなんて、本気に思ってましたもん」
「だから刑事になったのか?」
「それもあるかもしれませんね。でも園長先生、これはちゃんと放送された順番に並べてあるんですね。いやあ、よく調べてある」
園長は二人がフィギュアに見入ってしまっているので、少し戸惑っている。
「はい、そうなんですよ」と答えるが、まさか、放送順を丸暗記しているとは言えない。
「それにキズの一つも付いてない。よほど大事に扱っておられるのですね」
「まあそれは、子供たちには日頃から物を丁寧に扱うようにと指導しておりますので」
まさか、自分がわざわざ柔らかい布を使って、毎日、人形に話しかけながら、磨いているとは言えない。
「しかし、園長先生も大変ですね。好きでもない物に囲まれて仕事をしなければなりませんし」
「いいえ、私は赤レンジャーが一番好きです!」
ああ、きっぱり言ってしまった。
「――ええっ?」今度は宮辺が戸惑う。「そういえば、赤色はリーダー格の色ですよね。保育園のリーダーである園長先生にはピッタリですね」
「そうなんですか?」と園長は知らない振りをしてごまかす。「やはり、情熱の赤ですからねえ。園児たちには情熱を持って生きてほしいものです、はい」
どんどん深みにはまっていきそうなので、本題に戻ってもらうことにする。
「刑事さん、どうぞこちらへ」と簡素な応接スペースへ案内する。
ソファーに座ると、高安は園長にあらためて名刺を渡し、宮辺のことを新米の刑事だと紹介した。
「いろいろと大変でしたでしょう」高安がねぎらう。「しかし、尚人ちゃんが無事に帰って来られて、本当に良かったですなあ」
「お母さんから休むという連絡をもらったのですが、まさか誘拐されていたとは思いませんでした」
「園長先生にもご予定があったと思いますが」
「はい、お父さんの記者会見の翌日から二日間の予定で園長会議が入っていたのですが、急遽取りやめまして、マスコミや保護者からの応対に追われていました」
「せっかくの園長会議でしたのにねえ」
「しかし今回は重要な議題がありましたので、私の代わりに主任の遠利先生に出席してもらいました」
「主任というと副園長みたいなものですか?」
「はい、園長と先生方のパイプ役のようなポストですね」
高安が話す横で宮辺はしきりとメモを取っている。
「記者会見の翌日、つまり身代金の受け渡しがあった日ですが、園長先生はここで待機をされていたと。そして、遠利主任は代わりに会議に出ておられたと。そこで、これは参考程度に皆さんへお聞きしているのですが、他の先生方はどうなさってましたか?」
「園児たちにも、保護者の方々にも動揺が起きないようにと、通常通りの保育活動をしてもらってました」
「みなさん、出勤されていたわけですか?」
「いいえ、奈月先生だけは有給でお休みでした。これは以前から決まっていたことでして、うちは先生の人数が少なくて、保育の負担が大きいので、順番に休みを取ってもらおうと、私の夫の代から続いていることです」
高安と宮辺の脳裏に、先ほど園児の相手をしていた奈月の小柄な姿が浮かんだ。
「それと、つかぬことをお聞きしますが、先生の中で香水をしている方はいらっしゃいますか?」
「香水ですか。保育中は禁止されていますので、つけて来る先生はおりませんが、プライベートではどうか分かりません」
「香水はどこの保育園でも禁止されているのですか?」
「そうですね。子供たちが不快に感じることもありますからね。どこもそうだと思いますよ」
「それとですなあ、これまた、つかぬことですが、先生の中で刺青、若い人の間ではファッションととらえて、タトゥーなんて呼んでますが、いわば彫り物ですな、そういったものをなさっている方はいらっしゃいますかね」
「刺青ですか? いえ、見たことはないですね。服で隠れている部分は分かりませんが」
「刺青も保育園では禁止されていますか?」
「いいえ。特に決まりはありませんが、常識では刺青をして保育はしないと思いますよ」
「そうですなあ。いくらファッションといえ、子供たちは良い気分にならんでしょうからなあ」
高安は宮部の方を向いた。
「お前さんから園長先生に何か聞きたいことはあるか?」
「はい、あのう、フィギュアは何体くらいあるのですか?」
高安は、お前、正気かという目を宮辺に向ける。
園長はなぜかうれしそうに答える。
「二百体くらいあります。赤レンジャーがだぶってますので、かなりの数になってしまって」
「ああ、赤レンジャーがお好きとおっしゃってましたね」
高安は最近の若い者はよく分からんなと小声でつぶやいて、立ち上がろうとしたが、園長先生が大きな声で「はい、私は諸神保育園の赤レンジャーとして、日夜がんばってます!」
と答えたので、驚いてソファーにへたり込んでしまった。
高安が見つめると、園長は我に返ったように、
「い、いえ、何でもありません」と顔を赤らめた。
そのとき、高安のケータイが鳴った。捜査本部からだった。
あわてて立ち上がると、園長室の隅に行き、しばらく小声で話してから戻ってきた。
「園長先生、ここのファックスをお借りしたいのですが、よろしいでしょうか?」
高安は園長からファックス番号を聞くと、本部に教えてから、宮辺に言った。
「鑑識がヘリの残骸からメーカーを特定した。その情報を元に、大型玩具店の聞き込みをしていた連中が、犯人と思われる人物の防犯カメラの映像を入手してきたらしい。今からここへファックスしてもらう」
すぐに園長机の上にあるFAX機能が付いた電話から一枚の紙が滑り出した。全部が出てくるのを待ちきれないように、宮辺が紙を無理やり引っ張り出した。
そこには、映像からプリントアウトして、拡大された写真が載っていた。
たびたび目撃されていた人物が、玩具店のカウンター前に立っている写真。
小柄な体につばが広い白くて大きな帽子をかぶり、左腕にはバラの刺青。あいにく白黒の写真のため、バラの色は確定できない。
しかし、店員はしっかりと覚えていた。真っ赤なバラだったと。
高安と宮辺は食い入るように写真を見つめている。やっと出会えた容疑者だった。
「うまい具合に防犯カメラはお客さんの左側に設置されていたようですね」
宮辺はそう言ったとたん、自分で大変なことに気づいた。
「高安さん、まさかこいつ、わざと刺青がカメラに写るようにここに立ったのでしょうか?」
「そのことだが」高安は一度、園長先生をチラッと見たが話をつづけた。聞かれてもかまわないと思ったのだろう。「防犯カメラの映像というのは昔から不鮮明だと相場が決まっている。そのカメラにさえ、これだけはっきりと刺青が写っているんだ。犯人は、わざわざ目立つ刺青をなぜ隠しもしないで、むしろ、見てくださいと言わんばかりに、さらけ出しているのか? それになぜ、こんなに印象深い大きな帽子をかぶっているのか? ――わざと見せてるんだ」
「わざとですか?」
「目撃者の証言を聞いただろ。ダビデさんも喫茶店の店員さんも白い帽子と赤い刺青に気を取られて、他の特徴を覚えていない。わずかに若い女性のような気がしたと言っているにすぎない」
「わざと刺青に気を引きつけるために?」
「そうだ。われわれに対しても、このようにカメラに写ることによって、捜査のかく乱を狙っているのだろう。決してこの刺青に気を取られてはならんと言うわけだ。――ああ、園長先生もこの写真をご覧ください」
高安は後ろに立っている先生に写真を渡す。
「先日の身代金の奪取にラジコンヘリコプターが使われたことは、報道でご存知でしょう。そのラジコンを購入したと思われる人物の写真です。少し不鮮明ですが、心当たりはありませんか?」
園長先生はFAX用紙を両手に持ってじっと眺めている。
「先生、どうでしょうか?」
先生は聞こえていないのか、黙ったまま答えない。
「園長先生、見覚えがあるのですか?」
「――えっ? あっ、いえ、ありません」
首を大げさに横へ振って、高安にFAX用紙を返した。

「教祖様、スーパーゼニゼニの店長がお見えです」
運幸教の教祖はドーナツのかけらをあわてて口の中に放り込むと、むせながら秘書信者に言った。
「ゲホッ、なんやもう来たんかいな。えらい早いやないか。十五分後にここへ案内してんか」
教祖は不機嫌そうな顔をしながら、名残惜しそうにドーナツから手を離した。
かしこまりましたと返事をして出て行った信者とは別の信者が三人部屋に入ってきた。
一人はドーナツの砂糖だらけになっている教祖の服を脱がせて、洗濯したての作務衣を着せた。
もう一人はドーナツが入っていた箱や散らかり放題の紙屑やティッシュを片付けた。
さらにもう一人は空中に芳香スプレーを巻き散らし、ドーナツの甘い香りを、キンモクセイの香りに代えた。
先ほど部屋を出て行った信者が戻ってきて、仏壇の前でハリネズミの背中のように乱立している線香とロウソクに火を灯して回る。
「おい、みんな、早くしろ! ボヤボヤしてないで急がんかい!」
教祖の罵声が飛び交う、もちろん、外には聞こえない程度の声で。
「ここ、汚れてるやないか。掃除機を早くかけろ! どいつもこいつもドン臭いな!」
四人の女性秘書信者が広い教祖室内をバタバタと走り回る。
最後に教祖が部屋中を念入りにチェックし、鏡に自分の姿を映して髪を整えた。
「よしっ、完璧やな。ほな、入ってもらってんか」
重々しい観音開きの扉が開いて、細身の男性が入ってきた。
「失礼いたします。教祖様、ご無沙汰しております、スーパーゼニゼニの店長の七尾でございます」
深々と頭を下げるが、サービス業に従事しているだけあって立ち居振る舞いに嫌味がなく自然だ。
「どうぞ、こちらへおかけください」
教祖が先ほどと違う、低くて威厳のある声でソファーをすすめる。
「はい。では、失礼いたします」
店長は豪勢な北欧の応接セットに戸惑いながら、浅く腰をかけた。頭上の巨大なシャンデリアも気になるらしく、天井にチラリと目を向けた。
「店長さん、大丈夫ですよ。震度九の地震でも落ちてきませんから」
教祖がにこやかな表情で言った。
「そうですか。安心いたしました」
秘書信者が入ってきて、二人分のお茶を置くと静かに去って行った。見るからに高そうな湯飲みに高そうなお茶が入っている。
店長は秘書に対しても深々と頭を下げた。やがて、急いで火を灯した線香のキツイ臭いが部屋中に充満を始めた。仏壇の前ではロウソク群は赤々と燃えている。
店長は漂ってきた線香とロウソクとキンモクセイのブレンドされた香りを有難そうに鼻で受け止め、きっと、あのお線香もロウソクも高級品なのだろうなと思った。
「このような場所には不慣れでございますので、何卒ご了承ください。何分、薄給の身でして」
「また、ご謙遜を。店長さんといえば管理職ではありませんか」
「いいえ、名ばかりの管理職でして。上の部長と下のパートのおばちゃんに挟まれて、毎日大変なだけです。それよりも、本日はご多忙の中、お時間を割いていただきましてありがとうございます」店長は居住まいを正す。「少ないですが、献金に上がりました」
抱えていたバッグから、分厚い封筒を取り出してテーブルの上に置く。
「三百万円ほどしかなくて申し訳ございませんが、何卒よろしくお願いいたします」
教祖は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。
(まずい、聞かれたか?)
店長をそっと見たが、満面の笑みを浮かべたままで、どうやら気づかれていないようだった。
「いいえ、ご寄付は金額の問題ではありません。お金にこもったその心が大切なのです。神仏もきっとお喜びのことでしょう。この浄財は天界の正しき教えを広めるために、我が教団が一円たりとも無駄がなきように活用させていただきます」
教祖は分厚い封筒を恭しく両手で持って、自分の頭上に掲げ、店長に向かって頭を下げた。
店長もあわてて教祖に返礼をする。
「店長のように美しい心を持っている人ばかりなら、この世の中も随分良くなるのですがね」
「いえいえ、美しいなんてとんでもございません」
「貪欲、怒り、愚か。これを仏教用語で三毒と申します。過度な欲はいけません。怒りっぽいのもいけませんよ。常に心を静かに保ちましょう。それとしっかり教養を身に付けてください。愚かな人間は回りに迷惑をかけて、不幸にするだけですぞ。これらに打ち勝つことで、誰にでも尊敬される立派な人間になれるのです」
「そんな、教祖様のようにはそう簡単になれません」
「いいえ、私なんぞ、まだまだ修行の身ですよ」
教祖は一応、謙遜して見せる。
そんな態度に店長は尊敬の眼差しを向ける。
「私なんかはすぐ誘惑に負けそうになります。今もここへ来る途中、おいしそうな店がたくさん並んでいるのを見て、思わず入りそうになりました。いやあ、私はスイーツには目がございませんで」と言って、自分のお腹を撫でる。「自分の店でも販売しておるのですが、やはり専門店のおいしさには勝てません。特にあそこドーナツ屋は最高です。――あっ、失礼いたしました。教祖様はドーナツなどという俗な食べ物はお召し上がりになられませんね」
「ドーナツですか。そういえば、子供の時分に食べたような記憶がありますが、はて、どんな味でしたか」
そういう教祖のお腹は店長よりも突き出ている。
「いやあ、失礼いたしました。教祖様に一歩でも近づけるように精進いたしたいと思います」
「いえいえ、店長さんはあくまでも在家信者でいらっしゃるから、ドーナツくらいは召し上がってもかまいませんよ。私の場合は神仏から与えられた使命と教団の教祖という立場がありますから、自分を厳しく律しているに過ぎません」
店長は巨大な仏壇に手を合わせて、ムニャムニャと祈りを捧げると、教祖に何度もお辞儀をして、満足そうな顔で帰って行った。もちろん、たくさんの多数のストラップお守りを買わされて。
教祖はすぐに秘書信者を呼んで、食べかけのドーナツを持って来させた。
「うん、うめぇ。あの店長の言う通りや。ここのドーナツは最高やな。――おい、フレンチクルーラーをあと五個追加で買うて来てくれ。さっきの店長に見つかったらアカンぞ」
両手にドーナツを持って、せっせと口に運ぶ教祖。
せっかく着替えた作務衣はすぐ砂糖だらけになり、お手拭は散らばり、線香とロウソクとキンモクセイの香りは甘い香りに取って代わった。
「うまい具合に軍資金が入ったな」
教祖は砂糖と唾液でベタベタになった手で三百万円の札束を持つ。
「明日の朝八時。信者を教団に集合させろ」秘書信者に命令する。「時間厳守やぞ。陸海空、あらゆる交通手段を使って、集められるだけの信者をここに集めろ」

 一冊のハードカバーの本が手裏剣のように回転しながら飛んできた。
尚人に当たる寸前で妻が体を張って受け止めた。それを見て坂田は完全に逆上した。
分厚い本がお腹を直撃したためにうずくまってしまった妻を容赦なく足蹴りする。
「くだらない本ばかり集めやがって! 置いておけばプレミアでも付くのか!? 付かんだろっ! 古本屋に持って行ってもせいぜい一割でしか買い取ってくれんだろ。ただのゴミじゃねえか!」
坂田は妻を罵倒しながらも足蹴りを止めない。
本がいっぱい詰まった大きな本棚のガラスには、まるで鬼のような坂田の姿が映し出されている。
尚人がお母さんを庇おうと寄ってきたところを、坂田は右手で頭をつかみ、力を込めて押し返した。
尚人は背中から床に落ちて、後頭部を打ち付ける。
丸くなって呻いている妻と息子を、坂田は薄ら笑いを浮かべて見下ろした。
「俺の金塊を奪ったのはお前だろっ! あれは俺のすべてだったんだぞ! こんなゴミのような本を読んでるから、ゴミのような知恵が付くんだ! 俺の金塊をどこに隠しやがった!」
妻が坂田の足の下から咳き込みながら答える。
「わ、私は知りません。だから、乱暴なことは……」
「何が知らないだ! ええっ!?」
さらに逆上した坂田は妻と息子をサッカーボールのように転がす。
「日にちがないんだ! 支払いの期日が迫ってるんだ。あと、四日だ! 四日後には運幸教に払わないとダメなんだ! あの三十キロの金塊さえ見せれば、尊師は納得してくれるんだ。えっ、どこへやった!?」
「ほ、本当に私は知りません」
「まだ、そんなことを言ってるのか!」
坂田は頭を押さえたまま立ち上がろうとする尚人を見た。
「尚! お父さんの金塊をどこへやった?」
尚人は目をうつろにして答える。
「ぼくは知らな……」
「ウソをつけ、こらっ! だいたい、お前が誘拐なんかされるから悪いんだろっ! ボケッとして歩いているからだろ! なんで、番犬のマルクまでさらわれるんだ! お陰であの尊師に侮辱されたんだぞ!」坂田は妻を睨みつける。「お前が尚もマルクもちゃんと躾けてないからだろ。お前たちがバカなばっかりに、俺が苦労して貯めた財産を取られたんだぞ! どうしてくれるんだ、このクソアマが! このクソガキが!」
坂田が憤怒の形相で尚人の元へ向かおうとしたとき、妻が右足に組み付いた。
「離せ、バカ!」
坂田が右足をバタつかせているうちに、妻のめがねは吹き飛び、くくってあった髪が解ける。口とこめかみから血を流しながらも、般若のような顔つきのまま、腕を離そうとしない。
今度は尚人が隙を見て、坂田の左足に組み付いた。
お母さんを助けたい一心でありったけの勇気を振り絞ったのだ。
坂田は両足を押さえられて仁王立ちになる。
なんとか振り解こうと暴れているうちに、肘が本棚のガラスに当たり、派手な音を立てて砕けた。
やがて、呼び鈴が押された。物音を聞いて近所の人がやってきたのか。通報を受けて警察がやってきたのか。
我に返った坂田は全身の力を抜いた。妻が坂田から離れて起き上がり、力を振り絞って尚人に駆け寄って、しっかりと抱きしめた。
全身に痛みが走る。明日になると、顔や体に青痣が浮かび上がるだろう。尚ちゃんもぐったりしている。
これでまた二、三日は保育園を休まなければならないと妻は思った。
やがて、部屋の電気が消された。坂田が消したのだ。
呼び鈴を押した人物は暗くなった家を見ると、諦めて帰って行くだろう。そう思って、坂田は家中の電気を消して回った。
門灯も消された。闇夜の中でマルクが丸くなって眠っていた。

尚人ちゃん誘拐事件捜査本部。第四回捜査会議。
ホワイトボードの真ん中には、大きくN.Kと書かれていた。
小野田警部がそれを指揮棒で示しながら言う。
「知っての通り、野小屋に残されていた毛布に縫い付けられていた文字だ。坂田家の事情をよく知り、坂田氏に恨みを持ち、尚人ちゃんの近くにいて金塊を強奪できる人物。坂田氏の近辺を徹底して洗った結果、名前のイニシャルがN.Kに該当する人物は一人に絞られた。諸神保育園の保育士、風田奈月。二十四歳」
署長がまた割り込んでくる。
「最近のお姉ちゃんは怖いねえ。小野田君、その子はかわいいのかね?」
「いや、まあ、愛嬌のある顔をしてますが」
「ほう、愛嬌ねえ。やはり女は愛嬌だねえ。愛想が悪いとかなわんねえ。いや、ワシの行きつけのスナック来夢来人な。先週、新人が入ったのだが、これがまた愛想が悪くてなあ」
「はい。では、会議をつづけます」
小野田はボードに振り返って、奈月の住所を書いた。
「二階の二〇七号室だ。保育士だから尚人ちゃんにもお母さんにも、日頃からよく接していて、家庭の事情は熟知しているはずだ。もちろん、坂田氏が自宅にいくつもの金塊を所持していることも知っていただろう。動機は恨みだ。坂田氏は保育園にやって来ては、何かと保育士に因縁を付けて、大きな声で罵倒していたらしい。もっとも、相手は風田奈月だけではなく、他の保育士も被害を受けていたが、恨んでいたことには違いないだろう。野小屋に残されていた三つのボールも家から持ち出したと思われる。尽々奉仕会のタスキもあるはずだ。園長先生によると風田奈月は今日、休みを取っている。ここの保育士は交代で休んでいるから、予定通りの休みなのだが、今からマンションに張り込む。場合によってはガサ入れを行う。ターゲットは三十キロの金塊だ。保育園内からは見つからなかった。自宅に持ち帰っている可能性が高い」
そのとき、万一に備えて坂田家を張り込んでいた捜査員から連絡が入った。
「坂田邸の上空にラジコンヘリが十二機出現しました!」
「十二機? なんだ、それは!?」
「垂れ幕をぶら下げてます」
「何て書いてあるんだ!?」
「金返せ、坂田貴次郎」
「例の運幸教じゃないのか。どこか近辺で操縦をしてるはずだ」
「はい、調べてみます!」
「捜査に支障を来たすようだったら、公務執行妨害でも何でもいいから、引っ捕まえろ!」
先日の身代金受け渡しの際に、運幸教にはさんざん邪魔をされた。重大な証拠となるはずだったヘリの残骸を持ち帰ったと未だに疑っている捜査員も多い。小野田もそうだ。相手がたとえ得体の知れない宗教団体であっても容赦しない方針だった。
捜査員たちはこの事件を何としてでも解決しようとする小野田警部の並々ならぬ決意をひしひしと感じていた。

 坂田家では三人が家にこもったままだった。尚ちゃんは無事に解放されたが、時価二億円超の金塊の行方が未だに分かっていない。表では何人かの警察官が警備に当たっているが、しつこく何社かのマスコミも張り付いている。
坂田としては、黒星社長の居場所を探し回りたいのだが、外に出るとたちまち囲まれることが分かっているため、出るに出られなかった。
妻と尚人は昨晩の暴行により顔が腫れ上がり、あちこちに痣もできているため、坂田が外出をさせてくれない。
そんなとき、垂れ幕を下げた十二機のラジコンヘリが飛来し、家の上空を旋回しはじめた。驚いた坂田はすぐに尊師に電話を入れたが、電源を切っていて繋がらない。耳障りな音を立てて、ヘリが家の周辺を飛び交う。
「期限はまだ来てねえだろっ! 金塊を取り戻すか、黒星を見つけ出して、尊師の元へ持って行けばいいんだろっ!」
坂田は独り言をがなり立てる。
妻と尚人は部屋の隅で抱き合ったまま小さくなっていた。

「風田奈月のマンションの張り込みは高安刑事と宮辺刑事。坂田邸には……」
「坂田邸からまた連絡が入ってます!」
「よしっ、代われ!」
「警部、今度はカラスに囲まれました!」
「カラスだと!?」
署長がのんびりと言い出す。
「そのカラスもラジコンかね? パタパタと羽ばたくのかね?」
「いや、まだ詳しい状況が分かっておりませんので」
「教祖の超能力じゃないのか? 信者が化けてるとか」
「まさか、そんなことは……」
「分かった。陰陽師が操る式神だろう。ドラマで見たことがあるぞ。警部、そのカラスを生け捕りにできんかね?」
「それは……」
「日本野鳥の会に頼んでみたらどうかね?」
「それも……」
「では、せめて写真に撮れんかね。ワシの孫のお土産に……」
「よく調べてから報告するんだ!」
小野田警部は邪魔する署長に背を向けて、電話口に怒鳴った。

運幸教の教祖が坂田に嫌がらせをするため、一晩のうちに動員した信者の数は約五百人。用意した団扇型の太鼓二百個。銅鑼も二百個。同じく用意したラジコンヘリコプターは十二機。垂れ幕も十二本。爆竹三千発。生卵が三千個。
最初に、太鼓と銅鑼を四百人のドンツク隊に叩かせて、坂田邸の周りを行進させた。手に何も持っていない信者は般若心経を大声で唱えさせた。次に、“金返せ、坂田貴次郎”とフルネームで書かれた垂れ幕をぶら下げたラジコンヘリを使って、坂田邸の上空を旋回させた。操縦はすぐそばに住んでいる信者の家の屋上から行った。ラジコンの電波は一キロ先まで届く。また、複数のヘリを一人で動かすことも可能だった。
背中に赤い卍の文字をあしらった白装束を着た集団が、先日の夜以来、ふたたび坂田邸を取り囲んだ。
この喧騒を聞きつけ、何事かと窓から顔を覗かせた坂田に対して、罵詈雑言を浴びせ、三千発の爆竹と生卵を投げつけた。
坂田家を張り込んでいた捜査員が信者を追いかけ回したが、逃げ足が速く、捕まえたとしても、仲間が奪回にやってきて、爆竹と生卵を投げられて、逆に信者から追われることになった。
捜査員は五人。信者は五百人。その差は百倍。人数からして圧倒的に不利だった。
坂田邸は屋根から塀から窓から玄関先までヌルヌルの生卵で覆われた。マルクは危険を察知して犬小屋へ避難していた。
やがて、生卵を狙って数十羽のカラスが飛来した。
坂田邸はたちまち真っ黒になった。
太鼓と銅鑼と爆竹と般若心経とヘリの音とカラスの鳴き声が坂田邸を包み込んだ。
「どうや、出来栄えは?」
教祖から坂田邸のそばで待機している秘書信者に連絡が入る。
「坂田邸は群がったカラスで黒ずんでます」
「黒ずんでるか! ははは。ええ気味や。坂田はんは、いつか家中を金箔で覆いたいと言うとったのに、まさか黒いカラスで覆われるとは夢に思わんかったやろ」
「この暑さですから、屋根にくっついた生卵は、たちまち目玉焼きになっています」
「そうかそうか、坂田はんが常々自慢してよったあのソーラー発電のパネルが、まさかフライパンの代わりになるとは大笑いやな」
「カラスがおいしそうに、ついばんでます」
「こんなことやと、塩とコショウも持って行くんやったな。カラスちゃんに悪いことしたな。――ああ、派手な音も聞こえてきてるな。手を抜くなよ。爆竹も生卵も全部使い切れ。信者には、教祖に逆らったら地獄へ一直線やて言うんやで」
「はい、それはしっかり伝えてあります。地獄に落ちたくない一心でみなさん懸命に働いておられます」
地獄か。そんなもん、ホンマにあるんかいな。
あるという証拠はあらへんけど、ないという証拠もあらへん。
そやけど、教団ではこのワシがある言うたら、あることになるんや。便利な地獄や。
「ああ、それとな、後から警察には何人かの信者を出頭させる。坂田が契約違反をやらかしたので、私たちが義憤を感じて勝手にやりました。教祖様は何も知りませんと言うてな、自首させるんや。そやから、みんなには心配するなと言うといてや」
教祖は満足気な表情を浮かべて電話を切って、冷めてもおいしいフライドチキンを手に取った。
身代わりを出頭させるのはヤクザがよう使う手や。こっちもヤクザみたいなもんやからな。ただ、ブタ箱にぶち込まれた信者もその家族もちゃんと面倒を見てやる。そこがワシのやさしいところや。娑婆に出てきた信者は今までに増して、ワシに忠誠を誓うというわけや。
使用者責任なんかナンボのもんじゃい!
教団がここまで大きくなったのも、ワシが人心を掌握するのに長けているからや。ただ大声で喚いているだけの教祖やないで。
周りに誰もいないというのに教祖の自画自賛はつづく。
それにしても、マインドコントロールというもんは恐ろしいもんや。
ワシも騙されんように気をつけなアカンな。

 高安と宮辺は奈月のマンションの張り込みを開始した。出入り口は一ヶ所しかなかった。うまい具合にマンションの入り口が見渡せる場所に空き地があり、地主にしばらく車を止めておく許可を取ることができた。どんな事件なのかとしつこく訊かれたが、最近このあたりで痴漢が出没するから警備にあたるのだと言って誤魔化した。
刑事ドラマの見過ぎなのか、大きな事件を期待していた地主のおばさんはガッカリして帰って行った。 
助手席のシートを倒しながら高安が言う。
「こんな場所があったとは運がいい。張り込みには苦労が付き物だからな。不審者に間違われて通報されるのは、よくあることでな。冬になるとまた大変なんだ。寒いし、腹は減るし」
宮辺は車を木陰に移動し、窓を全開にするとエンジンを切り、自分もシートを倒した。
「食料はアンパンと牛乳ですか?」
「昔はな。今はだいたい近くにコンビニがあるから、食べ物には苦労せんよ。ありがたいことだ」
二人揃って頭を右に傾けて、マンションの入り口と二階の部屋から目を離さないでいる。
やがて、本部から坂田邸の騒ぎは収まったとの連絡が入った。三人の中年男性の信者が出頭してきたという。
「やっぱりカラスは本物だったようですね」
「式神なわけないだろ。しかし、署長のことだから、念のため、そのカラスの写真も撮っておけと言ってるかもしれんな」
「普通のカラスの写真を見せられたお孫さんも、たまったもんじゃないですね」
「そうだな。――宮辺、見ろ!」高安が小さく指を差した。
遠利主任が奈月のマンションに入って行くところだった。
時刻はすでに夕方。
「仕事が終わって寄ったのでしょうか?」宮辺がマンションの入り口を見ながら言う。
「何か報告することでもあるのかもしれんな」
「学校を休んだ生徒のところへ、よく同じ町内の生徒が給食のパンを持って行きましたよね」
軽口を無視して高安は独り言をつぶやく。
「遠利主任の詳しい住所は調べてなかったな」
宮辺が独り言に答える。
「はい、市内としか」
そのとき無線が鳴り、車内に緊迫した声が響いた。
「高安刑事、あの大型玩具店に例の女が現れました」
「何だと! 間違いないのか」
「はい、店員から通報があったのですが、小柄で、白くて大きな帽子をかぶって、左腕にはバラの刺青をしていたそうです」
「同じ人物だと言っているのか?」
「いえ、それが特徴は似ているのですが、同じ人物だと断定する自信はないそうです。前回は刺青に気を取られて、そんなに詳しく見ていなかったそうで。しかし、今回も同じメーカーのラジコンを一機買って行ったそうです」
「そうか。また何か分かったら連絡してくれ。――宮辺、行くぞ!」
「えっ、どこへ?」宮辺の声は車のドアを開閉する音でかき消された。
まっすぐマンションの入り口に向かって行く高安の後をあわてて追いかける。
「高安さん、出入り口は一ヶ所しかないですよ。だから在宅中でしょう」
「窓から飛び降りるという手もある」
「あの保育士さんが、そんなことをやるとは思えないですが」
「あくまでも可能性を言っただけだ。一つ一つの可能性を潰していくのがワシらの仕事だ」
一昔のマンションのため、オートロックもなく、そのまま部屋の前にたどり着くことができた。呼び鈴を押して来訪を告げると、奈月先生と遠利主任が怪訝そうな顔をしながら一緒に出てきた。急いで何かを聞き出そうとする宮辺を制して高安が口を開いた。
「いや、ちょっと近くに来たものですから。何か事件について思い出されたことでもないかと思いましてね」
二人は顔を見合して小首を傾げる。返事を待つ間もなく、高安が続ける。
「遠利主任はなぜここにいらっしゃるのですか?」
「はい、ここに住んでおりますので」
「えっ、ご一緒に? 家賃を折半するルームシェアというやつですか?」
「いえいえ、私たちは親子ですから」
「親子!?」横から宮辺が素っ頓狂な声をあげた。
「ご苗字が違いますが」高安が動揺を抑えて訊く。
「離婚いたしまして、親の私は旧姓に戻しました。しかし、この子はまだ学生でしたので、苗字は変えませんでした。そのまま今まで来ているということです」
「そうでしたか。今日、奈月先生はお休みだったそうで、今から親子水入らずといったところですな。いや、お邪魔して申し訳なかったです」
高安は話をしながらも、部屋の奥に目をやったが、茶色いネコがこちらを覗いていただけで、ごく普通の生活感に満ちた家庭の光景だった。
マンションを後にしながら、高安が残念そうに言う。
「また振り出しに戻ったな」
「犯人は風田奈月じゃなかったのですか?」
「そう思ってガサ入れの覚悟も決めていたんだがな。野小屋に残された三つのボール、イニシャル入りの毛布、尽々奉仕会のタスキ。これらの手掛かりでも見つかればと思っていたのだが、まったく、いいタイミングで刺青の女性が現れやがった」
「奪い取った金塊もどこかにあるはずですからね」
全国の貴金属店や質屋などには照会がされていた。金には地金番号というものが刻印されている。坂田は身代金として金塊を渡す際に、すべての番号を控え、警察に提出していた。 
事件発生後、坂田から奪った金塊が換金された形跡はない。
二人が車に戻ったとたん、無線機から小野田警部の声が響いてきた。
「高安さん、鑑識からの報告だ。例のラジコンヘリを実際に取り寄せて検証した結果だが、積載量は八キロしかない」
「八キロ?」
「つまり、あのヘリで三十キロの金塊を持ち上げることはできん。いくら改造を施しても不可能だ。それと藤松百貨店の一番大きな紙袋だが、三十キロの重りを入れると、見事に破れたそうだ」

左腕のバラの刺青の手がかりを探すために、別の聞き込み担当の捜査員二名がタトゥースタジオへ向かっていた。店は薄暗い地下か雑居ビルにあると思っていた捜査員だったが、きれいなビルの一階にあり、数人の若い女性客が順番を待っていたので唖然とした。カウンターにはクレジットカード会社のシールが何枚も貼ってあった。店の利用者は十八歳以上に限り、それを証明できる身分証の提示を義務付けていた。奥を見ると、器具の洗浄器や滅菌装置といった機械類が並んでいる。
「意外とちゃんとしたところですね」
「そうだな。驚いたよ」
二人とも若い捜査員だったが、タトゥースタジオに入るのは初めてだった。
やがて、オーナーという三十歳くらいのTシャツ姿の男性が事務室から“代表 堀 翔太”と書かれた名刺を持って出てきた。
「これ、本名です」そういって人懐こい笑顔を浮かべた。両耳に大きなピアスが下がっている。
「ああ、彫師の堀氏ね」捜査員も気づいて笑う。「いや、ちょっとお聞きしたいことがありましてね。左の二の腕に赤いバラの刺青をした若い女性を探しているんですよ。――ちょっと不鮮明ですがこれを」
もう一人の捜査員が防犯ビデオから起こした容疑者の写真を見せた。
「こちらのお客さんに心当たりはありませんかね」
オーナーは写真を両手で受け取ってずっと見つめている。その腕は手首から肩まで刺青が入っている。
「うちでデザインしたものではないですね。では、どこで彫られたかと聞かれましてもねえ。うーん、赤いバラだけですと難しいですね。昔からポピュラーな絵柄ですからね。でも、若い女性が赤いバラを腕に……」
捜査員はオーナーが考えている間、この刺青は自分で彫ったのだろうかと両腕を不思議そうに見つめている。
「これって、もしかしてフェイクタトゥーじゃないですか?」
「フェ……、何ですか、それは?」
「シールですよ。誰でも簡単に貼れます。腕に貼るくらいのワンポイントシールなら五百円くらいで売ってますよ。この写真からして、ちょっと光沢がありすぎるように見えますしね。これ、シールじゃないかなあ」
「そんなものがあるのですか。本物の刺青かニセ物かは調べがついてないので、分からないのですがね」
「うちは本物の店ですから、シールは置いてませんけど。確かにタトゥーは若い人たちの間でもブームになってますが、そんな目立つ場所に目立つ赤いバラを入れている女性はあまりいませんね。普段は見えていない肩とか胸元に小さいのを入れるのがポピュラーです」
捜査員は無言でお互いの視線を合わせた。
風田奈月の家を張り込んでいるときに、刺青の女性が大型玩具店でラジコンへリを購入したらしい。白くて大きな帽子と赤いバラのシールがあれば誰でも犯人になれるじゃないか。
オーナーに礼を言うと、二人は急いでスタジオを出た。
腕から肩にかけてのオーナーの刺青は、自分で彫ったものか聞きそびれた。

遠利主任が園長室に入ったとき、部屋中に鼻をつく臭いが立ち込めていた。
思わず顔をしかめた遠利を見て、園長はあわてて窓際に駆け寄り、大きな窓を全開にした。夏の生ぬるい風が入ってくる。
「ごめんなさいね。夢中になってると気づかなくて。エアコンをかけてるんだけど、あまり効果はないようねえ。――うーん、確かに強烈な臭いがするわ」
園長机の上には赤のラッカーと数本の筆、数体の赤レンジャーが乗っている。色を塗り直していたようだ。
「直射日光には気をつけてるんだけど、それでも色褪せちゃうのよね。だからこうして定期的に塗らないとねえ」
遠利主任は何度かこの光景を見かけているので驚きはしない。ただ、このシンナー臭さには慣れない。いくら赤レンジャーに熱中しているとはいえ、こんな空気の中によくいられるものだと思う。
遠利は気を取りなおして、園長先生にそろそろお遊戯の練習が始まることを告げた。
「あら、もうそんなお時間ですか。今日で練習は最後ですね。では、ゲネプロに立ち会いましょうか」
園長はさりげなく演劇用語で答えると、服をバサバサと掃って、シンナー臭を消し、全開の窓を閉めた。
遠利は園長室を出て行くとき、窓の下に、新聞紙に乗せた砥石が置いてあるのを見つけた。
砥石をフィギュアの手入れに使うのだろうか?
ふと思ったが、園長先生の趣味はほとんど理解ができず、普段からあまり構わないことにしていた。
 園長先生がホールに入る頃、すでに園児たちはお行儀よく整列していた。
七夕にちなんで、星をテーマにした歌と踊りが満載のオリジナル劇だ。たくさんの短冊がぶら下がった笹の木や模造紙やダンボールに描かれた宇宙の絵が飾られている。なぜ、宇宙に笹が生えているのかは誰も気にしない。園児たちはきらびやかな衣装を身につけ、自分たちで書いた星の絵を頭に付けている。手には魔法使いが持つようなステッキを持っている。
地球に向かって飛んで来た巨大隕石を、みんなが力を合わせてやっつけるという内容だ。歌を担当するのは遠利主任。振り付けは栄養士のあつこ先生。お姫さまの役は崖っぷちの
みどり先生。隕石の役は吉田くん。演出をするのはドライバーの大道。
全園児と全職員が行う一大行事であり、当日はたくさんの保護者がやってくる予定だった。
園児の衣装とともに、ステージ上の飾りつけは奈月の担当だったが、笹が一本多いことに気づいた。よく見ると園長先生専用の笹のようで、願い事はすべて、レア物が手に入りますようにといった、フィギュアの収集に関するものだった。
 総合練習=ゲネプロが始まった。
園児たちの温情でお姫様役をもらったみどり先生が、隕石役の吉田くんに追われる。水星、金星、火星、木星、土星、天王星、海王星――星の役の園児たちに囲まれながら、ホール中を逃げ回るみどり先生。天の川のオブジェや笹の木をたくみに避けながら息も絶え絶えに走っていたが、ついに足がもつれて転倒。絶体絶命のピンチ。迫り来る隕石。そこへ現れたのが、クラスで一番ひょうきんな陸くんを中心にした五人組の戦隊ヒーロー。五人組の正義の味方は、もちろん園長先生の発案だ。
倒れているみどり先生を囲む五人組。
「待て、隕石! ボクたちが相手だ。――ブハハ!」陸くんが噴き出した。
「どうしたんだい、陸くん」大道がステージの下から声をかける。
他の園児からもブーイングが起きる。
「だって、みどり先生の転び方が下手なんだもん。転ぶとき、あーれーて言うんだよ。ははは」
「そうよねえ」あつこ先生も笑いながらみどり先生に言う。「時代劇じゃないんだからね。――じゃあ、もう一度、みどり先生が転ぶシーンからやりましょうね」
しゃがみこんで肩で息をしてたみどり先生は、鬼のような形相であつこ先生を睨みつけた。
結局、みどり先生はOKが出るまで十回くらい転ばされ、両足はアザだらけになった。
「年を取るとアザとか傷は治りにくいんだからね。あーあ、しばらくスカートは履けないわ」
ちょっと太目の足をさすりながら、みどり先生はいつまでも嘆いていた。
「みどり先生、最高だったよ!」
陸くんの笑顔いっぱいのお世辞だけが救いだった。

 高安刑事と宮辺刑事は山に向かって車を走らせていた。
助手席に深く身を沈めている高安が言う。
「ラジコンヘリはどこからかあの現場に飛んで来たわけじゃない。最初から置いてあったんだ。藤松百貨店の紙袋を引っ掛けて飛び上がったんじゃない。最初から結び付けてあったんだ。だから、遠くから紙袋を吊り上げるというような高度な技術は必要としない。それに、貨物列車の屋根に激突していただろう。乗せようとして失敗したんだ。そして、列車がカーブに差し掛かり、ヘリは落下した。決して電波が届かなくて落下したのでなく、遠心力で飛び出して、バラバラになったんだ。計算なんかされていない。偶然に落ちたんだ」
宮辺は黙ってハンドルを握っている。
「もちろん、紙袋には三十キロの金塊など入ってなかった。紙袋だけだと風になびいてバレてしまうだろうから、中には古新聞か何かを入れていたのだろう。紙袋が見つかったのは線路からかなり離れた場所だ。列車の風圧と自然の風で飛ばされたというのが鑑識の見方だ。重り代わりの古新聞が入っていたとしても、そのときにバラけて飛んで行ったのだろう。もしかして数枚は散らばっていたのかもしれん。しかし、それが証拠品になるとは思わなかっただろうから、そのままにしておいたのだろう。鑑識の連中は責められん」
「では、坂田氏が置いた本物の紙袋はどうなったのですか?」
「坂田氏は紙袋を置いてすぐに、犯人の指示に従ってUターンをした。張り込んでいた捜査員は列車に乗ったヘリを追いかけた。運幸教の連中も走り出したので、負けじと追った。俺たちはダビデさんたちが怪しいと睨んで、ビルに入って行った。残ったのは金塊が入った本物の紙袋だけだ。犯人はそれを堂々と拾い上げて、車かバイクか自転車か、あるいは徒歩で逃げた」
「すべて計算済みというわけですか?」
「いや、運幸教の奴らが来るとは思っていなかっただろうし、俺たちがこんなにマヌケだとも思っていなかっただろうよ。いくつか偶然が重なった。その偶然はすべて犯人に味方したというわけだ」
高安は助手席で体を起こして座り直した。
「ラジコンのたいした操縦技術は必要としない。つまり若い女性でも可能だ。お前さんなら、どこで練習する?」
「大きな音がするでしょうし、若い女性なら余計に目立つし、海岸なら無理ですね。山の中か橋の下でしょうか」
この街に山は一つしかない。険しい山ではない。若い女性の足でも一時間もあれば頂上まで上れるほどの小高い山だ。その山に向かって二人は車を走らせている。練習した形跡は残っていないだろうが、目撃者はいるかもしれない。この山の後には市内を流れる川にかかる橋を一つずつ調べていく予定だ。
山のふもとに小さな無料の駐車場が一つあったため、そこに車を入れた。山へ登る道は一本しかないようだ。舗装はされてないが、十分な幅があり、途中まで車で行こうと思えば行ける傾斜の緩やかな道だ。
二人とも本格的な山登りの格好はして来なかったので安心した。
「じゃあ、登ってみますか」宮辺が力なく言う。
「いや、その前にあそこの民家で聞いてみようや。何か分かったら、わざわざ登らんでも済む。こんな低い山でも年寄りのワシにとっちゃ、エベレストだ」
高安は登りたくなさそうな宮辺に気を使って言った。まだこの先は長い。いくつかの橋の下も見て回らねばならない。お互いここでダウンするわけにはいかない。
ちょうど民家から年配の女性が鍬をかついで出てきた。
「こんにちは」
「はい、こんにちは」女性は丸くなった背を伸ばしてこちらを見た。突然現れた二人組みだったが、高安の温厚そうな表情のおかげで不信感は抱いてないようだ。
「この山ですけど、登る人は多いですかね?」高安は低い山を見ながら尋ねる。
「ああ、山菜が採れるからねえ。ゼンマイとかワラビとかね。ときどき登る人はおるよ。私もてっぺんまでは行かんが、よう入って行くよ。クマもおらんし、遭難するほどの山でもないしね」
「若い女性も登りますかね。――あ、いや、お宅が若くないと言う意味じゃないのですが」
「ふーん、若い女性ねえ。――ああ、たまにゃ、おるよ。先日も奈月先生が入って行ったよ」
「奈月先生!?」高安と宮辺が同時に叫んだ。
大きな声に驚いて、鍬を落としそうになった女性。しかし、二人が奈月のことを知っているとは気づかなかったようだ。
「諸神保育園の保育士さんのことよ。自転車に乗ってね、ほんと、仕事熱心な先生だよ」
いきなり飛び出した奈月の名前。
「やはり山菜採りですか?」高安が興奮を抑えて訊く。
「だから仕事よ」
「山でですか?」
「七月でしょ」
「はあ、今は七月ですけど……」宮辺が高安の後ろから言う。
「あんたたち何者か知らんが鈍いねえ。保育士さん、仕事、七月、山の中とくれば、七夕の笹でしょうが」
女性はドスンと鍬の柄で地面を叩く。
「お願い事を紙に書いて笹の木にぶら下げるでしょうが」
「では、奈月先生は飾り付けをする笹を取りにこの山の中に入って行ったと?」
高安は女性の勢いに押されて小声になる。
「そうよ。毎年のことよ。奈月先生が脇に笹をかついで、自転車で出てきたところを見かけたのよ。園児たち用だから小さい笹の木だけどね。大丈夫って訊いたら、大丈夫ですって。気をつけなさいって言ったら、ありがとうございますって言ってたよ。三回ほど往復してたんでないの。大きなリュックを背負って、片手運転をして、若いのに偉い先生だよ、あの子は」
「それは何時頃の話ですかね?」
「そうねえ、午後二時頃だったかねえ」
高安は軽く目をつぶり、保育園の一日のスケジュールを思い出した。
(午後二時というと子供たちのお昼寝の時間か。確かに外出することは可能だろう)
「そうですか。この山道を自転車で登って行かれたわけですか。先生は車をお持ちじゃないんですかねえ」
独り言のようにつぶやく。
「どうだかねえ。ああ、そういえば、そこの駐車場に園バスが止まってたっけね」
「園バス? ああ、スクールバスですか。それはいつですか?」
「奈月先生を見かけてから、何日か経ってからだよ。笹が足らなかったんじゃないのかね」
二人は女性にお礼を言うと山へ入って行った。
中腹のあたりから道を右にそれた場所で竹やぶを見つけた。探してみると、確かに何本かの笹が刈り取られた跡があった。
高安が屈み込んで、その切り口を睨んだまま宮部に言う。
「笹を刈り取るには何を使う?」
「鎌かナタですか?――あっ、犯行現場の草を刈り取ったものと同じというわけですか?」
「そうだ。可能性はあるな。両方とも風田奈月がやったとしたなら」
竹やぶの真ん中には、ラジコンヘリの練習が十分にできるくらいのスペースがあった。ここからだと麓までエンジン音は聞こえないだろう。そして、犯行に使われたラジコンヘリは折りたたむと、リュックに入るくらいのコンパクトな大きさになることが分かっていた。

尚人ちゃん誘拐事件捜査本部。
尚人ちゃんは無事に戻ってきたが、犯人が捕まっていないため、本部の解散はまだ先になりそうだった。もちろん、犯人逮捕後も起訴に持ち込むまでは解散はできない。
しかし、尚人ちゃんが戻ってきたことで捜査員がかなり削減された。他にも凶悪な事件が相次いで発生しているためだ。
捜査本部に陣取る小野田警部は思った。
たった一日でもいいから、ヒマでヒマでしょうがないという日が来ないだろうかと。
交番勤務のときも同じことを考えていた。
この街で殺人も傷害も窃盗も起こらず、警官の仕事といったら、道を尋ねて来た人に親切に教えてあげるか、迷子の子供の親を探してあげる。これくらいしかない。そんな日が来ないだろうか。
「警部、この人からご指名の電話です」
捜査員の一人が小指を立てて笑いかけた。
受話器を取ると聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「小野田ちゃん? あたし、ダビデよぉ」
「お世話になります」
「いいえ、まだ大したお世話なんかしてないわよぉ。するのはこれからよぉ。末永いお付き合いをよろしくね」
「あ、ああ。今日は何か?」
「そうそう、小野田ちゃんの低音の声に聞き惚れていて、すっかり忘れていたわ。昨日、あのバラの刺青の女に会ったのよ」
「なに! 場所は?」
「私たちがねぐらにしている並田橋の上でよぉ。そこで見かけたのよぉ。白い帽子をかぶって、バラの刺青をして、あっ、あの女だと思って、小野田ちゃんに報告しようと思ったのだけど、その前にまたバイトの話はないのかなと思ってねぇ。声をかけたのよぉ。今なら時間があるわよって。ところがさぁ、あの女、あたしを見ると、逃げ出したのよぉ。何よ! と思ってさぁ。だってそうでしょ。今まで二回も危ない橋を渡ってあげたのにと、橋の上で思ったのよぉ」
「確かにあの女だったのか? よく思い出してみてくれ。過去、二度会ったときと比べて身長は同じくらいか。同じ帽子だったのか。同じバラだったのか。香りはどうか。歩き方はどうか」
小野田は犯人と目される奈月を張り込み中に、刺青女が現れたことを念頭に、ダビデを問い詰める。
「待ってよぉ。あんまりいっぺんに言われてもねぇ。でもね、今、言われて思い出したんだけど、あたし、ちょっと違和感を覚えていたんさぁ」
「――というと?」
「まずねぇ、白い帽子が前とは違うのよぉ。フリルが小さかったよぉ。私たちは綺麗なものには目がないでしょ。フリフリにはすぐに目が行っちゃうのよぉ。それにね、あれは二十代じゃないね。もっと婆臭いわね」
「根拠は何だ?」
「身のこなしというか、何と言うか、女の直感って奴よぉ。女の直感はよく当たるのよぉ」
「あの女に二度も騙された奴のセリフには思えんが」
「そんなぁ、意地悪を言わないでよぉ、小野田ちゃん。情報を提供したんだからさぁ」
「ああ、そうだな。ありがとう。助かるよ」
「あたし、小野田ちゃんのお役に立ててうれしいわよぉ。今度見つけたら、地獄の果てまで追いかけてやるからさぁ」
「分かった。しっかり足腰を鍛えておいてくれ」
ダビデさんの報告を聞いて、小野田がまず頭に浮かべたのは、遠利と奈月親子のことだった。遠利主任と風田奈月はともに小柄なため体格は似ている。顔は親子だから似ている。年齢的にも遠利が婆臭いと感じられてもおかしくない。白い帽子をかぶって、フェイクタトゥーというシールを左腕に貼り付ければ、あの女に変身できる。
それに、見るからに不審者であるダビデさんに突然声をかけられたら、普通の女性は驚くだろう。遠利主任がダビデさんに初めて会ったとしたら尚更、逃げ出すだろう。
これで辻褄は合う。

運幸教の教祖はテーブルの上に並べられた塩とコショウのビンを眺めながらニヤニヤしていた。両手にはドーナツを持っている。いまだに入金の目処が立たないという坂田邸に、ふたたび太鼓と銅鑼を四百人のドンツク隊を結集させて、五千個の生卵をぶつける作戦でいる。今度は集まってくるカラスのために調味料を用意していた。グルメのカラスのために、ソースとケチャップも並べてある。
「すべての生きとし生けるものに、無償の愛を注いであげるのが運幸教の教えやからな。ガハハ」
爆竹は同じように三千発を用意したが、前回と違ってかなり大型のものだ。
坂田は生卵攻撃よりも何十羽もの不気味なカラスの大群に恐れをなしたのか、鳥よけの大きな目玉風船をいくつも準備して、ヘリウムガスを注入し、家の軒下や屋根、周りの木々にくくり付けた。遠くから見ると豪邸はたくさんのアドバルーンに囲まれているように見える。 
信者からの写メでそれを知った教祖は、大型の爆竹で風船を爆破することにした。自分の欲を満足させるためには何でもする。
教祖は並べた塩コショウを見て、ふと思った。
このドーナツにふりかけたらおいしいかなあ。
よし、やってみるか。何事にもチャレンジする。これも運幸教の教えやからな。違ったかな? まあ、このドーナツを前にしたら、教えなんかどうでもエエわ。自分の教団の教えを覚えてへん教祖も珍しいやろ。ガハハ。
コショウの瓶を一つ手に取って、キャップを開けたところで、秘書信者がノックもしないで教祖部屋に飛び込んできた。
「な、なんや、急に!」
驚いた教祖だったが、ドーナツはガシッと掴んで落とさない。
青ざめた顔をした秘書信者が言った。
「教祖様、開祖様がお見えです」
教祖の両手からドーナツが落ちた。
「わ、わかった。十五分後にここへ案内してんか。ほな、三人、いつものように頼むわ。まず、この砂糖まみれの作務衣を着替えさせてんか。ほんで、このドーナツを処分して、芳香スプレーを……」
「芳香スプレーをどうするつもりや?」
年配の女性が観音開きの扉を押し開けて入ってきた。
「ひえー、開祖様!」
「ひえー、やないわ。なんやこの甘ったるい香りは! なんや、この食べかけのドーナツは!線香とロウソクに火も灯ってへんやないか!」
開祖と呼ばれた女性は部屋中を歩き、片っ端からケチをつけて回った。その後ろから三人の秘書が付いて回る。ソファーの前で中腰になっている教祖はおずおずと尋ねた。
「開祖様、今日はどういった御用で?」
開祖は教祖をジロリと睨みつけた。
地味な普段着の上からエプロンをし、買い物カゴを提げている。カゴからは青ネギが三本、顔を覗かせている。
「あんたがまた悪さをしてるて聞いたもんやからな」
「そ、そんなことはありません。悪質なデマやないですか?――あっ、分かった。運幸教の増大する信者数に嫉妬した商弁教の仕業でしょう」
「ウソこけ! 坂田はんの家をグチャグチャにしたんは、あんたやろ!」
「なんでそれを……」
「アホか! 新聞で読んだわ。これでも喰らえ!」
開祖は三本の青ネギで教祖の頭を殴りつけた。三人の信者秘書が固まる。
「この爆竹を投げ込むつもりやろ!」テーブルの上の爆竹の束を指差す。
「なんでそれを……」
「アホか! 見たら分かるやろ」
また三本の青ネギで教祖の頭を殴りつけた。
「あんたを筆頭に三人兄弟はみんなアホや。このネギがあんたら兄弟や。よう見とき。一本のネギは弱い」
開祖は両手で青ネギを持って簡単に曲げた。
「しかし、三本に束ねたら」
――グニャ。
やはり簡単に曲がった。
「これがあんたら三兄弟や」三本の青ネギをフニャフニャと振る。「たとえ曲がっても、ネギは食べたら栄養になる。そやけど、あんたらは食べられへんだけ、無駄なアホや」
ボロカスに言われた教祖は青ネギ以上にフニャフニャになる。
「あんた、信者を騙して悪さをさせてるらしいな」
「いや、それは坂田はんが金を返せへんとか言い出して……」
「いくら貸してんのや?」
「一億ほどです」
「一億くらいのはした金でガタガタ騒ぐな、ボケッ!」
開祖はまたネギで教祖の頭を殴りつけた。緑色のネギの破片が床に飛び散る。
教祖は大げさに頭をさすりながら言い訳する。
「そやけど、坂田はんは何者かに金塊を奪われて、坂田はんの融資先の黒星はんは行方不明やし……」
「ふーん。坂田はんも金の投資で景気良さそうやったけど、自転車操業やったわけかいな」
開祖は先が千切れた三本の青ネギの束で、自分の肩をトントンと叩きながら訊く。
「なんで黒星はんを探さへんのや?」
「そりゃ、探してます。十五万人の信者が草の根を分けて……」
「ボケッ! 十五万人もおるか! せいぜい二万人やろ!」
「そうかな」
「そうかなもクソもあるか。開祖が言うんやから間違いないわい。信者に頼らんと、あんたの自慢の超能力を使うたらどうやの?」
「それは……」
「あんたの勘は当たったためしがないからな。商店街の福引やっても、当たるのは末等のティッシュばっかりやからな」
オロオロする三人の信者秘書。
しだいに小さくなる教祖。
開祖がポツンと言う。
「その黒星はんやけどな、弁護士が入って債務整理をすることになった」
「な、なんでそれを!? 開祖はんは超能力者ですか?」
「アホか! さっき、このネギを買いにスーパーゼニゼニへ行ったら、野菜売り場でバッタリ会ったわ。今日はネギの特売をやっとってな、うちの近所より二十円も安かったわ」
「それを言うために、ここへお見えになったんでっか? 玄関にマスコミが張り付いとったでしょ?」
「おったけど、まさか、私が開祖とは思わんやろうから、すんなり入れたわ」
確かに、買い物カゴを持って、教団本部に入って行くブサイクなオバサンが開祖とは思わないだろう。
「黒星はんやけど、財産は大してあらへんから、ほとんど戻って来いひんやろ。そやけど、大手の不動産会社に雇ってもらうことになったらしい。今までの経験を買われて、かなりの高級で雇われることになった。ボーナスも出るんやて。その中から少しずつでも返していこうと、弁護士さんと一緒に考えてるらしいわ。このことを坂田はんに伝えたらエエわ。ちょっとは安心するやろ」
「ふん、あんな奴を安心させてやるか」
「何やと! あんたはどこまで根性が歪んどるんじゃ」
「せっかく強力な爆竹を用意したんで、坂田邸の目玉風船を割ってやろうかと……」
「子供みたいなことをすんな、カス! これ以上、坂田はんにアホなことをやったら教祖から追放するで。私が開祖と教祖を兼任したらエエだけや。二万人の信者はみんな私が指導する。――分かったか!」
開祖はドシドシと観音開きの扉に向かって歩き出した。
教祖がホッとしたのも束の間、開祖が振り向いて言った。
「お母ちゃんは、あんたをそんな子に育てた覚えはないで!」
「オ、オカン……」
目の前で扉がバタンと閉められた。
しばらくネギは食べられないと思った。
「ああ、災難やったな」教祖はソファーにへたり込んだ。
三人の秘書信者は、母親にどやされた教祖に何と声をかければいいのか、戸惑ったまま突っ立っている。教祖の頭の上にはネギのカケラが乗ったままだ。
テーブルの上には塩とコショウとソースとケチャップのビンと爆竹が並んでいる。齧りかけのチョコドーナツも乗ったままだ。
教祖は膝をポンと叩いて言った。
「よしっ。余った生卵はクール宅配便で信者に送りつけろ。神から授かった健康のパワーを封じ込めた幸運卵やと言うとけ。一個一万円で来月、会費と一緒に口座から引き落としたらエエ。塩とコショウもお祓い用に売りつけろ。玄関に撒いたら悪霊が入って来いひん幸運調味料やと言うとけ。これも一個一万円や。全部合わせて五千五百個やから、必要経費を引いても五千万円は下らんほどの儲けか。チョロいもんやな。従わへん信者には祟りがあると言うといてや」
 開祖に怒られた腹いせに、教祖は信者からお金を毟り取ることにした。金が絡むと、抜群に頭が冴える。これくらいは瞬時に計算ができる。
「それと、爆竹三千発はどこから仕入れたんや?」
「はい、信者が経営されている玩具店からです」
「ほな、全部返品しといて。文句を言いよったら、幸運卵を三個ほどオマケしたらエエやろ。――さて、オカンに怒られたからな、坂田はんに電話しよか」
教祖はドーナツの欠片を口に放り込むと、ケータイを手に取った。
秘書信者たちはテーブルの上を片付けると、さっそくインチキ幸運グッズの発送に取り掛かった。
「坂田はんか? エエ話と悪い話があるんやけど、どっちから聞きたい?」
教団からの嫌がらせのため、豪邸に籠城していた坂田だったが、教祖とは連絡が取れていなかった。ケータイの電源が切られていたためだ。久しぶりにのんびりした教祖の声を聞いて、文句の一つも言いそうになったが、何と言っても相手は債権者だ。グッと我慢して低い声で答えた。
「いい話からお願いします」
「ほう、そうか。坂田はんは好きなおかずから食べるタイプやな。――黒星はんが見つかった」
「えっ! どこにいるんですか!?」
「ははは。そう焦るな。弁護士が介入しよったから会うても無駄や。近々連絡が行くやろ」
電話の向こうから坂田の落胆した息遣いが伺われる。
それに気づいて、ニヤつきながら話す教祖。
「財産はたいしてあらへんらしいけど、ちゃんと働いて返すらしいで」
「警察や筋の連中でも見つけられなかったのに、どうやって探したのですか?」
「えっ? ああ、ワシにはそういう能力が備わってるからな」
「千里眼とかそういうものですか?」
「ああ、まあ、そんなとこや。教祖としては兼ね備わってて当然の能力やな。――さて、次は悪い話や」
「返済期限が明日ということですね」
「何や、分かってたのか。明日の夜中の十二時まで待ってやるわ。現金やなくてもエエ。担保になっとる金塊の写真をメールに添付して送ってくれたら信用したる。ただし、写真に細工したら承知せえへんで。ケータイの電源は入れとくから心配すんな。それと、もうあんたの家に攻撃はかけへんから心配せんといて。これからもお互い末永く取引しようやないか。――ところで、警察の捜査は進んどるんか?」
「いえ、何も言って来てません」
「そうか。幸運を祈るわ」
教祖はそう言って電話を切ると、新しいドーナツを手に取った。
我ながら甘いなあ。もうちょっと坂田の野郎をいじめてやりたかったけどなあ。あの目玉風船をドカンドカンと破裂させてやりたかったけどなあ。カラスちゃんに目玉焼きをプレゼントしてやりたかったけどなあ。オカンに釘を刺されたからしゃあないか。
 
「はーい、今日は健くんのお誕生日だから、今からお誕生会をしまーす」
奈月先生の声に園児たちが拍手をする。
「みんなも知っているとおり、健くんは昆虫が大好きなんですね。だから、きのう言っていたとおり、健くんのために昆虫を作って、みんなでプレゼントしてあげましょう!」
また拍手が起きる。
「では、今から紙を配ります。これに昆虫を書いてハサミで切り取って、健くんにあげようね。ハサミは園長先生のお陰で、よく切れるようになったから気をつけるんだよ」
奈月は順番に紙を配りながら言った。
「みんな、何の昆虫を描くか決めてきたかな?」
教室のあちこちから声があがった。
「カブト!」「クワガタ!」
「やっぱり、カブトムシとクワガタムシは人気があるね」
「カマキリ!」「セミ!」
「両方とも夏の昆虫だからね」
「バッタ!」「トンボ!」
つぎつぎに昆虫の名前があがる。
奈月は園児を見渡した。
「あれっ、女の子からはあまり声が出ないね。昆虫が嫌いなのかな?」
「私、虫、嫌ーい!」「私も大嫌いっ!」
女子の嫌い嫌いの大合唱が始まった。
「では、先生がいいヒントを教えてあげるね」
紙を配り終えた奈月はエプロンのポケットから、あらかじめ書いておいた数枚の昆虫の絵を取り出して、園児に掲げた。
「これは何でしょうか?」
「あっ、てんとうむし、かわいい!」「ちょうちょうもかわいい!」「ホタル、きれい!」「玉虫もきれい!」
「はい、分かりましたか。虫といっても怖いものばかりではありません。かわいい虫やきれいな虫がたくさんいます。どんな虫がいるのか思い出して書いてみてください。周りの人と相談してもいいよ。ちなみに、健くんが好きな昆虫は何かな?」
「ハンミョウ!」
「ハンミョウ? 変わった虫が好きなんだね」
「小っちゃいけど、きれいだよ。それとハンミョウは人が歩く前を飛ぶから、ミチシルベとかミチオシエと呼ばれてるんだよ」
「へえ、よく知ってるね、健くん。さすが昆虫博士だね」
健くんは鼻高々だ。
目立ちたがり屋の陸くんはそれを見て少し嫉妬したが、昆虫の知識では勝てないことが分かっているので、せめて昆虫の絵で勝とうと、何を書くか頭をひねり始めた。
(あっ、そうだ!)
「尚ちゃん、何を書いてるの?――なーんだ、またカマキリか。じゃあ、ボクはあれを書くよ。ほら、尚ちゃんがこの前、書いてたやつ」
「でも、あれを書くと怒られるよ。気持ち悪いよ。だから、ボクはカマキリに変えたんだもん」
「怒られるの!? じゃあ、ぜったいに書くぞー!」
どこまでも目立ちたがり屋の陸くんだった。

高安刑事と宮辺刑事が園長室に足を踏み入れるのは二度目だった。二人は部屋に入るなり、フィギュアが飾られた本棚のガラス戸が開いていることに気づいた。尋ねる前に園長が説明をしてくれた。
「赤レンジャーの色を塗り直したばかりですので、早く乾くようにとガラス戸を全開にしてます」
言われてみれば部屋中にシンナーの臭いが漂っている。さらに、シンナーに混じって鼻をつく違う香りも漂っていた。顔をしかめる二人にまた園長が説明をする。
「すいません、すごい臭いがしているでしょ。ここを虫に刺されまして、お薬を塗ったら塗りすぎて……」
園長は赤くなっている左の二の腕をさすった。
フィギュア好きの宮辺が横歩きをしながら本棚を見て回っている。
「手入れもいろいろと大変ですねえ」
フィギュアにはまったく興味のない高安は、そんな宮辺に先日見たばかりだろうという視線を投げかけながら、
「園長先生、急にお伺いして申し訳ないです」と本当に申し訳ないような表情で言った。
「事件の後、坂田氏が外出を控えておられましてね、連絡が取れてないのですよ。周りは連日マスコミが詰め掛けてまして、われわれも近づこうものなら、すぐに囲まれてマイクを向けられるような状態でしてね。そこで、息子さんと奥さんは何か言っておられなかったかと思いまして、お訪ねしたしだいです」
「尚人ちゃんも休んでいたのですが、今日から元気に来てますよ。顔がちょっと腫れているようだったのですが、本人に訊くと大丈夫だと言いますし、送りに来たお母さんも心配しないでくださいと言っておられました。ご主人のことは何もおっしゃってなかったですね。こちらからも訊きづらいですしね」
園長と高安が話をしている間、宮辺は窓の下に砥石が置いてあるのを見つけて、ドキッとした。高安に訊かれて答えたセリフを思い出したからだ。
(笹を刈り取るには何を使う?)
(鎌かナタですか?)
しかし、園長は宮辺の視線に気づいたようで、つかつかと窓際に寄ると、片手で砥石を持ち上げた。
「机の上にハサミがありますでしょ」
園長机の上には床屋さんのように数本のハサミが並べてあった。
「これで砥いでるのですよ。保育園は折り紙や模造紙なんかを切るのにハサミを使う機会が多くて、すぐに切れなくなるんですよ。新しいのを買うのももったいないですし、一番ヒマな私が担当になって、定期的に園のハサミを砥いでいます」
「砥いでいるのはハサミだけですか?」宮辺がカマをかける。
「いいえ、刃物類は全部砥いでますよ。うまいもんですよ」
「ここにハサミ以外の刃物類なんかあるのですか?」
「はい、園庭の雑草や木の枝を切るのに鎌やナタやノコギリなんかも使いますからね」
宮辺はちらっと高安を盗み見た。
高安は宮辺に苦虫を噛み潰したような表情を返した。
もし、笹を刈った鎌かナタが園内にあったとしても、もうきれいに砥がれた後だろう。犯行現場の草を刈り取ったものと同じかどうかは、草の成分も残っていないだろうから判別できないはずだ。
「ところで、また犯人らしき女が現れましてね」
高安は大型玩具店から提供を受けた防犯ビデオから起こした写真を園長に見せた。
白い帽子に赤いバラの刺青。深く帽子をかぶっているため顔はよく映っていない。
「――えっ!」
「何か分かりましたか?」
「い、いえ、何も……」
園長先生は高安刑事にそっと写真を返した。

「あっ、刑事さんだ!」
園長への聞き込みを終えて、二人が署に戻ろうと園内を歩いていると、園児たちに囲まれた。捜査時には隠密で行動するのが刑事というものだが、子供たちにはすっかり顔を覚えられたようだ。
「刑事さん、今日は犬いないの?」女の子が訊いてきた。
「ああ、警察犬は来てないんだよ」宮辺が親切に答える。
「なんだ、つまんないの」犬好きの女の子たちが口々に文句を言う。
そのとき一人の男の子が女の子たちを押しのけた。
「刑事さん、これあげる!」陸くんだった。「ボクが描いたんだよ」
宮辺は渡された紙を見た。
「何だこりゃ!?」
「ハエだよーん!」
あわてて二人の間に割り込んで来たのは奈月先生。
「陸くん、刑事さんにハエの絵なんかあげたらダメでしょ!」
奈月はさっきお誕生日会で作ったハエの絵を取り上げる。
「だって健くん、ハエなんかいらないて言うんだよ」
「そりゃ、ハエなんて誰もほしくないでしょ」
「でも、ヘラクレスオオカブトの絵はもらってくれたよ」
「カブト虫はかっこいいからでしょ」
「あーあ、せっかく描いたのにな、ハエ」
陸くんは残念そうに言う。
全身が銀色で目が赤色という不気味なハエに仕上がっている。
「じゃあ、この絵は先生がもらってあげるよ」
奈月が提案して、手のひらにハエの絵を乗せた。
「大切にしてくれるの?」
「それは分からないけどね」
「えーっ、奈月先生、冷たいなあ。部屋に貼ってよ」
「これを貼るの?」
「えーっ、ダメなのー?」
「だって銀バエでしょうが!」
奈月が怒り出した。
「ヒャー!」
陸くんは、からかっていたことがバレて、全力で逃げ出した。

「お世話になってます鉄巧工房でございます。ご注文の品は出来上がっております。我ながら、いい出来栄えですよ。やはり、最初の見積りのとおり、溶解再加工の際に実重量の十パーセントが目減りしました。ですので、実重量は約七千二百グラムになっております。お代金ですか? 最初にも申し上げましたが、そんなもの要りませんよ。一番お金がかかる金型は、以前にケーキ屋さんの依頼を受けて作ったもので代用できましたし、何と言っても、私も坂田氏には散々な目に遭わされましたからね。口車に乗せられて金を購入して、いくら損をしたか分かりませんよ。それにこんな注文を受けたのは初めてでしたから、製作するのにいろいろと勉強にもなりました。えっ、どうしても受け取ってほしい? そうですか。では、本当に気持ち程度で結構ですよ。あっ、そうそう。ご注文の際にも申し上げましたが、秘密は厳守いたします。もし漏らしてしまいますと、私も罪に問われますから。小さいながらもせっかく一代で築き上げた会社ですから、失いたくはありません。家族もいるものですから、その点はご安心ください。かなりの目方ですし、嵩張りますから、そちらへ配達いたしますか? ああ、よろしいですか。はい、夕方、来られますか。またスクールバスで? 承知いたしました。では、お待ちしておりますので、お気をつけておいでくださいませ」 

教祖への返済期限の日。
闇に浮かぶ坂田邸から、カラス避けの目玉風船はすべて取り払われていた。教祖がもう攻撃を仕掛けないと約束してくれたからだ。
平気で約束を反故にする教祖だったが、最終日くらいは守ってくれるだろうと坂田は思っていた。忌々しいマスコミの連中は依然として豪邸を取り囲んでいる。
目立ったニュースがない中、先日の爆竹とカラスの大騒動はマスコミの格好の餌食となり、ワイドショーでは繰り返しあの異様な光景を流していた。
なかなか姿を現さない坂田を狙って、マスコミの張り込みは続いている。ときどき警察関係者が巡回に訪れている。あたりには記者やカメラマンがボソボソと話す声だけが聞こえていた。
夜も更けて、そろそろマスコミも引き上げようとしていたとき、坂田邸から少し離れた街灯の下に一組の男女が現れた。二人とも腕に新聞社の名前が書かれた腕章を付けていて、男は肩からショルダーバッグを提げている。たくさんのマスコミが来ているため、誰もこの二人を怪しまない。
突然、静かな住宅街にラジコンヘリの音が響いた。
「来たぞ!」誰かが叫んだ。
そこにいた全員が夏の夜空を見渡した。
「あそこだーっ!」
叫んだのはショルダーバッグを提げていた男だった。
全員は男が指差す方角を見た。そこにはたった一機だけラジコンヘリが浮かんでいた。垂れ幕は下げていない。教団の信者も見当たらない。しかし、長い間、ヒマに身を任せていたマスコミの連中は何かが起こるのではないかと期待した。
ヘリが移動を始めた。
「よしっ、追いかけるんだー!」ショルダーバッグの男が再び叫んだ。
男は隣にいた女とともに、ヘリを追って駆け出した。他の連中も負けじと追い始めた。特ダネを掴み損ねたら大変だ。
集団の先頭を行く男女二人。後ろから怒号とともに迫り来る男たち。
いきなり、先頭の女が転んだ。
「あーれー!」
その横をマスコミ集団が追い抜いて行く。
「よお、ネエちゃん、そんなことじゃ何年たっても、一人前の記者になれないぜ!」
追い抜きざまに笑われた女の元へ、ショルダーバッグの男が駆け寄った。
「大丈夫ですか、みどり先生」
「うん、大丈夫よ。倒れる練習は何度もやったからね」
「でも、あーれーはダメでしょ」
「咄嗟に出ちゃったのよね。また陸くんに笑われるわ」
男はみどり先生に話しかけながらも、目は横を向いている。マスコミ連中の前方を飛んでいるラジコンヘリを、ショルダーバッグの中に隠したコントローラーで操縦しているためだ。
「相変わらず器用ね、吉田くん」
「えへへ、これしか能がないもので」
立ち上がったみどり先生はケータイを取り出した。
「みどりでーす。こちらの準備はOKよ。私も吉田くんも無事です。――健闘を祈る!」

 坂田邸から逆方向に離れた場所に黒尽くめの三人が座り込んでいた。
「はい、こちら遠利です。作戦成功おめでとう! みどり先生の足のアザが増えなくてよかったです。こっちもがんばります!――では行きますか!」
三人が腰をかがめながら走り出した。黒っぽい服で揃えているので、闇に溶け込むと目立たない。マスコミはあの二人が追いやってくれたため、あたりに人影はない。また、近所の人達はインタビューを受けたくないので、最近はなるべく外を出歩かないようにしているという情報も得ていた。
路地はすっかり静まり返っている。
先頭を行く遠利主任に、二番目を行くあつこ先生が小声で話しかけた。
「何だか、私たちキャッツアイみたいですね」
「美人の三人組の泥棒ね。でも、一人だけ違う人が混じってるから」
遠利先生は振り向いて三番目を走る人を見た。
「悪かったな。美人じゃなくて」
藤松百貨店の紙袋を持った大道がついて来ていた。
「ごめんなさいね。重いものを持たせちゃって」遠利先生が気を使うが、「力仕事は男がやると決まってますからな。がんばりましょうや、ワシたちはキャッツアイじゃ」
大道は小さく叫んだが、二人の女性は大道がキャッツアイを知っているとは思えなかった。
やがて、坂田邸を見上げる場所に着いた。
防犯カメラを避けて横に回りこんだ。
ジャーマン・シェパードのマルクが犬小屋から顔だけ覗かせた。
「マルク、元気だった?」あつこ先生が話しかける。
知ってる人だと気づいたマルクが犬小屋から飛び出してきた。
「マルク、悪いねえ」大道が頭を撫でる。「ちょっと狭くなるけど我慢してくれよ」紙袋を犬小屋の中に押し込んだ。
三人は任務を終えると、ふたたび三列になって夜道を駆け出して、近くに止めてあったスクールバスに乗り込んだ。
「こちら大道です。準備完了しました。――そちらの健闘を祈る!」
遠利先生は大道からケータイを受け取ると、「じゃあ、がんばってね」と電話の相手に声をかけた。
マルクは闇の中から現れた三人組のお陰で、急に狭くなった犬小屋に困惑していた。
横に寝かせてある藤松百貨店の袋の上に乗ってみた。硬かったがひんやりして気持ちよかった。マルクはその上で大きな体を丸めた。

 坂田邸を正面に見る原っぱ。腰くらいまである草が一面に生えていて、しゃがみ込んでいる人物を隠している。珍しく、都会にもまだこんな場所が残っている。月の光だけがかすかに届き、その人物を照らしていた。
「夫を殺してください」
尚ちゃんのお母さんから殺人の依頼を受けたのが昨日のことのようだ。
「本当は私がやればいいのです。――でも、尚ちゃんがいます。尚ちゃんの将来が……」
「いえ、私にも母がいます。母にも将来があります」
奈月は尚ちゃんのお母さんの申し出を断った。
「そんなことはできません。そんな人殺しなんて……」
お母さんは続けて、こんな提案をしてきた。
「肉体的に殺してもらわなくてもいいのです。夫を社会的に抹殺してもらえればいいのです」
「社会的に……ですか?」
「ご存知だと思いますが、夫はセミナー等で強引に金の投資者を募り、片っ端から損をさせて方々から恨みを買ってます。夫の信用を失墜させることができればいいのです。もう誰も彼の相手をしないように仕向けてくださればいいのです」
「でも、お母さんと尚ちゃんにも迷惑がかかると思います」
「かまいません。今まで夫は私と尚をさんざんいたぶってくれました。もう限界を越えているのです。いつ殺されるか分かりません。これが最初で最後の戦いなんです。覚悟を決めて協力をお願いしているのです」
大人しそうな坂田夫人とは似つかわしくない、戦いという言葉と、覚悟という言葉。
悲痛な顔の裏に見え隠れする、尚ちゃんのアザだらけの笑顔。
その頃、坂田の奈月への嫌がらせがしだいにエスカレートしていった。
奈月は母である遠利主任に相談をした。
遠利主任は他の先生たちに相談をした。
奈月の意に反して、すべてが整った。
坂田への恨みは生半可なものではなかったからだ。
すべての計画を坂田夫人が立て、すべての経費をまかなってくれた。
そして、全保育士による復讐劇が開演となった。

虎の子の金塊を奪われた坂田は、テレビに出演して記者会見を行った。しかし、世間の人々はそれが同情を引くためのお芝居だということを見抜いていた。今まで坂田が怖くて泣き寝入りしていた被害者たちはしだいに声を上げはじめ、セミナーの参加人数は減る一方となった。
そこに運幸教による嫌がらせが始まった。
“金返せ、坂田貴次郎”と書かれた垂れ幕を下げたラジコンヘリが、坂田邸の上空を乱舞する様子は全国放送された。坂田には返す金もないということが暴露された。
夫人の思惑通り、坂田の信用は失墜し、社会的に抹殺された。

 少し風が出てきた。長い草が左右に揺れだした。あたりに雲は見当たらず、しばらく月明かりは途切れそうにない。
たった今、母である遠利主任から、連絡を受けた。優しい声で「じゃあ、がんばってね」と言ってくれた。
母とあつこ先生と大道さんの三人はスクールバスの中で待機しているだろう。
坂田邸の周りに人影はなかった。マスコミはみどり先生と吉田くんが引きつけてくれているはずだ。坂田夫人から得た情報と立てた計画を元に、みんなは行動を共にしていた。
奈月はラジコンヘリを宙に浮かせた。
――ホバリング。
簡単そうで最も難しい技術を奈月は吉田くんから習い、何度も練習をした。しかし、奈月はまだラジコン初心者でしかない。大敵である風が強くならないうちに、最後の計画を実行しようと、ヘリをさらに上昇させる。
背の高い草が激しく揺れる。あたりにエンジン音が響く。
やがて、ヘリの下部から黄金色の物体が現れた。
ラジコンヘリは坂田から奪った金塊を吊り下げていたのだ。
奈月は念のため中腰になり、草の中に隠れるようにして、コントローラーを手に持っていた。
そのとき、いつもの聞き慣れたエンジン音に、違うエンジン音が重なった。
――何!?
あわてて腰を落として、あたりを見渡した。
前方に浮かぶラジコンヘリの向こうから、もう一機のヘリがゆっくりと浮上してきた。
それは真っ赤なヘリだった。
奈月はとっさに自分のヘリの高度を下げた。
焦って操縦桿を動かしたため、ヘリが吊り下げている金塊が地面に激突する音がした。
――誰なの? まさか、警察?
奈月の全身が震えだした。
尚ちゃんのお母さんの顔がよぎった。
仲間の先生の顔も浮かんだ。
ここに来て、作戦の失敗は勘弁してほしい。
そのとき……。
「奈月先生、出ていらっしゃい!」
後方五メートルほどのところに、園長先生がコントローラーを手に立っていた。
奈月はふたたび前方に目をやった。
自分のヘリの上に浮かぶ、全体を真っ赤に塗られたヘリは園長先生のものだった。
「どう、私のラジコンヘリは? かっこいいでしょう。赤レンジャーの赤よ。月夜に映えるわねえ。臭い思いをして園長室でプロペラの先まで赤いラッカーを塗った甲斐があったわ。それにこのテクニックを見てよ。見事なホバリングでしょ」
自慢げにヘリを見上げる園長と、あっけに取られている奈月。
「園長先生、なぜここに?」
「聞きたいのはこっちの方よ。なぜ、私だけ仲間はずれにしたの?」
「それは……、園長先生に迷惑がかかると思いまして……」
「迷惑なわけないでしょ! こんな面白そうなこと。みんなに黙ってられて悔しいわよ。その金塊を坂田さんに返すんでしょ。庭に置けばいいのかしら?」
「はい、ヘリごと敷地内に着陸させて計画は終了です」
「分かったわ。私が先導するからついていらっしゃい」
真っ赤なヘリが空高く浮き上がった。奈月のヘリも後を追う。
二機のヘリを追いかけて、二人も原っぱを中腰のまま移動する。
「園長先生、どこでヘリの操縦を覚えたのですか?」
「毎年、七夕の笹を取りに行く山で練習したのよ。この辺で人に見られずに練習する場所といったら、あそこしかないでしょ」
「だから、笹が一本多かったのですか?」
「そうよ。せっかく山に行ったのだから、私専用に一本引っこ抜いて来て、フィギュア関連の願い事を書いたのよ。スクールバスで行ったから、持って帰るのは楽だったけどね」
「じゃあ、大道さんは?」
「心配ご無用。追求したんだけどね、口が堅くてこの計画のことは教えてくれなかったわ。ホント、冷たいね、みなさん。肝心なことも訊いたのよ。警察が保育園内の捜査に来たとき、金塊をスクールバスに乗せて、街中を走り回ってたでしょうって。そうしたら、大道さん、目玉がプルプル震えだして。ウソのつけない人だわねえ」
二人は二機のヘリを連れて、坂田邸のすぐそばまでたどり着いた。
奈月は片手にコントローラーを持ちながら、もう一方の手でケータイを操作した。
「今から突入します」
「お待ちしてます」
園長先生はその声を聞いてすべてを悟った。
「絵を描いていたのは尚ちゃんのお母さんだったのね!」

諸神園長が最初に奈月を疑ったのは、保育園の冬の倉庫から奈月が出てきたときだった。
夏なのに、なぜ冬の倉庫に用があるのか?
奈月は倉庫を間違えたと指で示して、声が出にくいフリをした。そのときは風邪なのかなと心配したのだが、後になって、坂田氏にかかってきた電話の声が、不自然に甲高い声だったと警察から聞かされた。
冬の倉庫にはクリスマスグッズやパーティーグッズが入っていた。
分かった、ヘリウムガスだわ!
ガスを吸い込んで自分の声を変えようとしたんだ。
そして、園長先生は試しに吸ってみた。ちゃんと声は甲高く、変わった。
奈月はヘリウムガスが入ったスプレー缶を、持参した布製のバッグに入れて持ち帰った。次に奈月と会ったのは、自宅から遠いドラッグストアだった。そこで奈月は香水とドッグ
フードを買っていた。犯行現場に撒くための香水とマルクを手なずけるためのドッグフードだ。そして、あのとき奈月は店員さんから領収書をもらっていた。
パトロンは尚ちゃんのお母さんだったのね!
奈月に疑惑を抱いたままの園長先生は、やってきた刑事に、防犯カメラから起こした写真を見せられた。
白い帽子に赤いバラの刺青でごまかしているが、それは奈月だと確信した。
園長はいずれ奈月に捜査が及ぶと考えて、自分も似たような白い帽子を買い、ファンシーショップで手に入れたタトゥーのシールを腕に貼り付けて、大型玩具店に出向き、ラジコンヘリコプターを購入した。
後日、ふたたびやってきた刑事に見せられた容疑者の写真には、心底驚かされた。
まさに自分が写っていたからだ。
よく刑事さんは気づかなかったものだ。
でも、私の皮膚が弱いのも困ったものだわね。あのタトゥーのシールで腕がかぶれちゃって、刑事さんには虫に刺されたと言ってごまかしたけど、うまく騙せたわ。

 園長先生が操縦する真っ赤なヘリが、先に坂田邸へと突入した、――と思われた。
しかし、ヘリは空中で止まっていた。
「園長先生、どうされました!?」奈月が小さく叫ぶ。
「ヘリが動かなくなっちゃった」園長は力なく答える。
ここまですべて計画どおりに来ていたというのに、何が起きたと言うのだろう。
あたりに人影がないか気をつけながら、坂田邸に近づく二人。
「――網だわ!」今度は園長先生が小さく叫んだ。
坂田邸の正面に網が張られていた。例の卵や爆竹を避けるためか、カラスの侵入を避けるためか、よく見ないと分からないような黒い網で豪邸は守られていた。
その網に園長のヘリが蜘蛛の巣にかかった昆虫のように捕獲されている。
操縦桿を動かしてもエンジンは始動しない。プロペラと網が絡み合い、赤いヘリは完全に停止してしまっていた。
園長先生は奈月を見た。
奈月も予想外のことで混乱している。坂田夫人からは何も聞いていない。
「もう一機もそのまま突入させてください」
つなぎっぱなしだったケータイから、坂田夫人の声がした。
どこからか、こちらを見ているのだろう。
「夫が急にそんなものをこしらえてしまって、はずしてしまう時間もなかったものですから、ヘリの着地点は網で結構です」
奈月は積載量ギリギリの約七千二百グラムの金塊を吊り下げたヘリの高度を少し上げて、園長先生の赤いヘリの上あたりにぶつけることにした。
正確に操縦をするために屈み込んだ。
草々の隙間から坂田邸を伺う。園長も隣で黙ったまま最後の瞬間を見つめる。
そのとき、先ほどのヘリが激突する音を聞いたからだろうか、坂田が外に出てきた。その後ろには夫人が付き添っている。
奈月はかまわずヘリの速度を最大限に上げた。
轟音を発しながら飛んで行くラジコンヘリ。
その下では金の塊が揺れている。
その金を坂田が目ざとく見つけた。
「お、俺の金じゃないか!?」
教祖との約束の午前零時まであと数時間。あの金塊の写真を送れば助かる。
坂田はヘリを捕まえようとして、無謀にも網をよじ登り始めた。
奈月のヘリが網に突入した。回転するプロペラが黒い網に絡め取られていく。完全に巻き付いたところで、ヘリは動かなくなった。切断された数本の網が垂れ下がっている。
「俺の金だー! 触るな。誰にも渡さーん!」
坂田はヘリの下にぶら下がっている金塊を目指した。
大きな網全体を揺らしながら登って行く。
そして、金塊に手が届いた。
「な、何だこれは?――うわっ!」
坂田は足を滑らせた。
異様な形に変わっている金塊と一緒に頭から落下して行く。
それはほんの数秒の出来事だっただろうが、坂田にはかなりの時間に思えた。
一瞬、妻の顔が見えた。
妻はこちらにカメラを向けていた。
フラッシュが炊かれた。
眩しさのため、一度目をつぶった坂田だったが、ふたたび目を開けた。
そこで見たものは、バカ笑いしている妻の顔だった。
「そうか。お前はこんな顔をして笑うのか」
坂田は妻が心の底から笑うところを初めて見た。
そして、尚の前では見せていたのだろうなと思った。
妻はコンビニの軒下で見かける、虫を駆除する青い蛍光灯を思い出していた。
焼けて墜落していく小さな虫。
それが目の前の夫だった。
坂田の背中と頭部に激痛が走った。
背中は地面にぶつけたためであり、頭部は異様な形の金塊がかぶさっていたためだ。
頭からヘルメットを脱ぐように金塊をはずした。
金塊はソフトクリームのクリームの部分のような形をしていた。
「くそっ、ふざけんな! 何がソフトクリームだ!」
坂田はソフトクリームの金塊に小さな紙切れが貼り付けてあることに気づいた。
それはハエの絵だった。全身が銀色で目が赤色という不気味なハエだった。
「銀バエということは、これはソフトクリームじゃなくて、ウンコじゃねえか! 俺の大事な金塊を溶かして、ウンコの形に再加工しやがったな!」

運幸教の教祖は夜食として、メガマック三個を特製の串に刺して、シシカパブのように齧り付いていた。
「何や、これは?」
坂田から転送されてきた写真を見て、モグモグ動いていた口が止まった。
「何で、坂田はんはソフトクリームの帽子をかぶってるんや?」
ケータイを天井にかざしながら写真を見つめる。教祖にもそれがソフトクリームに見えたらしい。
落下していく坂田の顔は恐怖のため引き攣っている。
シシカパブバーガーをいったんテーブルに置くと、ケータイを右に向けたり、左に向けたり、ひっくり返したり、まさか坂田が逆さまに写っているとは思わず、教祖は太い首をかしげる。
「ああ、これは金や! 金でできてる帽子やないか。坂田はんは何でこんなことをしとるんや?」
その輝きから、ソフトクリームの帽子、実はウンコの帽子が金でできていることに気づいた教祖。
気づいたところで、これが何の写真なのかさっぱり分からない。
「まあ、エエわ。金塊が見つかったということやろ」
教祖はケータイを放り投げると、ふたたび巨大な串を持ち上げた。
開祖である母に怒られたため、坂田への攻撃は控えることにした。
「この世でオカンほど怖い存在はあらへんからな。神と仏? そんなもん、おらんわ。おったら怖いやろ。教祖のワシが言うんやから間違いないで」

“尚人ちゃん誘拐事件捜査本部”と書かれた紙を高安刑事が剥がしていた。捜査本部は今日付けで解散になったからだ。
隣で宮辺刑事が悔しそうに、紙が貼ってあった場所を見上げている。破棄することが決まっているのに、丁寧にその紙を折りたたんでいる高安は、宮辺の視線を追いながら言った。
「残念だが仕方がないな」
昨晩、坂田氏から被害届けの取り下げと、これ以上の捜査の中止の申し入れがあった。
「金塊が見つかったって、本当でしょうか?」
「ああ、ウソは言わんだろ。電話をかけてきたのは奥さんだからな。ただ、見つかった場所は家の庭らしい」
「庭に金塊が置いてあったのですか?」
「詳しくは教えてくれなかったが、一部は犬小屋の中から見つかったらしい」
「では、風田奈月が犯人じゃなかったのですか?」
「何らかの役割を演じたのだろうが証拠はない。それに彼女と話しているときに、大型玩具店に白い帽子の女が現れただろ。この事件には複数の人間が係わっていたということだ」
「まさか、彼女の母親の遠利主任も?」
「ああ、可能性はあるな」
高安は小さく折りたたんだ紙をポケットに突っ込んだ。家に持って帰るつもりだろう。
捜査本部が設置されながら解決できなかった事件の名称が書かれた紙を、自宅に保存して、その悔しさを、以降の刑事としての仕事の原動力にしているらしい。
「では、この事件を計画した奴は誰なんですか?」
「一番得をした人だ」
高安刑事は、宮辺が“奴”と呼んだ犯人を“人”と言い直した。

 諸神保育園のピンク色の門の前で、尚ちゃんとお母さんが手をつないで立っていた。
園長先生、遠利主任、奈月先生が向き合って立っている。
「尚ちゃんがいなくなると寂しくなるね」奈月先生が言った。
坂田とは離婚して実家に帰ることにしたという。
もともと尚ちゃんは前の夫との子供であり、坂田とは子連れでの再婚だった。
(何だか、いじめられるために再婚したようなものです)
お母さんが自嘲気味に話していたこともあった。
(血が通ってないから、尚のことを愛せないのかもしれません)
お母さんはいつも再婚した自分を責めていたように思えた。
「ホタルがいっぱいいるんだよ!」
尚ちゃんが元気に言った。顔色はよく、アザや傷は見当たらない。
お母さんもうれしそうに言う。
「実家はかなりの田舎なものですから、山や川に囲まれて、尚にとってはいい環境ではないかと思っています」
二人の後ろを小汚い軽自動車が通り過ぎて行った。
窮屈そうに運転していたのは、金ピカのメルセデスベンツから、軽自動車に乗り換えた坂田だった。
「大変お世話になりました」母が頭を下げた。
「尚ちゃん、元気でね!」奈月が笑った。
「うん!」尚ちゃんも笑った。
母と子は背中を向けて、坂田の車に気づかないまま、坂田とは逆方向に向かって歩き出した。

                 (了)
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