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大人になっても逆上がりができない
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「大人になっても逆上がりができない」
右京之介
机の奥から卓上カレンダーを取り出した。
縦十五センチ、横二十センチの小さなカレンダーはその名の通り、卓上に置くものだが、あえて人目に付かないよう、机の引き出しの奥の方に仕舞ってある。人目といっても、見られるとしたら、僕の母親しかいないのだけど。
カレンダーにはエロい写真が載っているわけではなく、大量殺人計画や世界征服の日といった物騒なことが予定されているわけでもなく、僕がサインペンで付けた赤い丸印が書かれているだけだった。
何も文字が書いてないのだから、誰が見ても、丸印が何を意味しているのか分からないだろう。
だけど見られたくない。たとえ、その人が自分の母親であってもだ。
その赤丸は一週間に三つ印されている。それが来年の一月まで続く予定だ。
秋にならないと来年用の卓上カレンダーは発売されないから、今のところ予定なんだ。
だけど来年の二月以降は丸印を書かない。二月からは自由登校になるからだ。
学校に行っても、行かなくてもいい。二月はそんな月だ。
受験や受験勉強が忙しくて、高校に行ってるヒマがなくなる。今まで通っていた高校より、これから通う大学の事情を優先する。日々の勉強より受験の方が大事。
なんだかおかしい気もするが、昔から高校三年生の三学期の授業はそんなシステムになっている。諸先輩方が築き上げて来たシステムだから、みんな不思議に思わないで、素直に従っている。だから僕も素直に従う。
金曜日が終わった。
毎週のことだけど、終わってみたら、五日間はあっという間だ。
僕は家に帰って来るなり、机の引き出しを開けて、卓上カレンダーを取り出すと、第二金曜日に付けてある赤丸を、黒のサインペンで×を付けて消した。物足らなかったので、力を込めて、ギコギコと何度も消した。細字用のペンなのに、×の線は太くなった。いかにも、恨みを込めてみましたという下品な線になった。
ざまみろ赤丸の野郎、完全に消し去ってやったぜ。お前には下品が似合うぜ。
毎週月曜日と水曜日と金曜日に付けてある、残りの赤丸を数えてみる。
祝日に当たる日が三個あったから、それを除くと、あと五十九個あった。気の遠くなるような数字だ。
つまり、五十九個の赤丸が襲って来るんだ。
つまり、五十九回も戦わなければならないんだ。
そりゃ、気も遠くなる。
これがあと一桁になったとき、どんな気分でいるのだろうか。
まだ一桁もあるのかと憂鬱な気分になるのか。
もう一桁しかないのかと、笑いが起きそうになるのか。
しかし、それは四ヶ月も先の話だ。今から妄想に浸っている場合じゃない。
ともあれ、僕はあと五十九回も体育の授業に出なければならないという泣きたくなるような現実に立ち向かって行くしかないのだ。
でも泣くわけにはいかない。サボるという選択肢もあるけど、一度逃げてしまえば、いつか何かの困難に直面したとき、また逃げてしまうだろう。逃げ癖というやつだ。あと五十九回で終わりだ。絶対乗り切ってやる。
体育の授業が一生続くことはない。いつか終わりが来る。
止まない雨はないとか、明けない夜はないとか、昇らない太陽はないとか、背中が痒くなるような格言があるが、まあそんな感じだ。
こうして、今週のカウントダウンを終えた。
次に赤丸を消すのは来週の月曜日の予定だった。
その日もちゃんと赤丸を×で消せますように。
世界が何者かに征服されませんように。
※体育の授業が終わるまで、あと五十九回。
生まれつき体が弱かった僕は小学生の頃、毎朝父と弟と一緒に、家の庭で乾布摩擦をしていた。
乾布摩擦というのは、乾いたタオルで体をゴシゴシ擦るという、当時流行っていた健康法だ。今の時代、やってる人がいるのか分からないが、少なくともテレビで紹介されているのは見たことがないし、雑誌で特集が組まれているのも見たことはない。
だから、あまり効果はないのかもしれない。だけど、その頃は効果を信じて、真剣にやっていたのだ。変な呼吸法や怪しい漢方薬や気味悪い祈祷など、何を試しても、体が丈夫にならない僕のために、父親がどこからか聞いてきた有り難い健康法だったからだ。
朝が早くて眠たいけど、タオルで体中を擦るだけだから、大したことはない。
一度、除霊なるものを受けたことがある。自称霊能者のおばちゃんに巨大な数珠で全身を滅多打ちにされた。僕はただ亀のように丸まって、ひたすら耐えていた。あの時の痛みに比べたら、乾布摩擦なんか屁みたいなものだ。それに、あの除霊は効かなかった。その夜、強烈な喘息の発作に襲われたからだ。
乾布摩擦という呼び名が面白かった僕と弟は乾布摩擦の唄を作って、大声で歌いながら、乾いたタオルで体をゴシゴシ擦っていた。
♪カンプイ、カンプイ、カンプイまさつ~。
カンプよりもカンプイの方が面白いと気づいたので、カンプイだ。
♪朝も早くからカンプイ、カンプイ、カンプイまさつ~。
♪擦り過ぎると肌が赤くなるカンプイ、カンプイ、カンプイまさつ~。
体が丈夫な弟はやらなくてもいいのだが、とばっちりでやらされていた。
こんなことをやる時間があったら、もって寝ていたい。そう思っていたに違いない。だけど文句も言わずに、近所にも聞こえるほどの大声で歌って、これでもかと力を込めて擦っていた。
♪今日も元気にカンプイ、カンプイ、カンプイまさつ~。
父と僕と弟は庭で横一列になって、朝のひとときは近所迷惑もかえりみず、大声を張り上げて、乾布摩擦をやっていた。
その効果はどうだったのか。
実はよく分からない。しだいに病気にかかる回数は減っていった。それが乾布摩擦のお陰なのか、成長するとともに付いた体力のお陰なのか、分からなかったからだ。
病弱だったため、ヒョロヒョロの体だったけど、僕は小学生時代も懸命に生きていた。
小学校の成績は5段階評価でオール3だった。超苦手な体育も3だった。病欠はよくしていたが、ズル休みはしないで、ちゃんと授業に出ていたからだろう。
体育の時間になると、頭やお腹が痛いと言って見学している人たちがいた。
きっとあいつらが、1とか2なんだ。
あいつらのお陰で3をもらえるのだから、感謝しなければいけない。
だけど、あいつらは運動神経がいいはずだ。なぜサボるのか。もったいない話だ。
人がヘロヘロになって、授業に参加している姿を見学するのは面白いのか?
やっぱり、面白いのだろうな。見物料はタダだもんなあ。
小学生の定番であるドッヂボールはよく最後まで残った。
ずっと逃げ回っていたからだ。逃げていては勝てない。飛んで来たボールをキャッチし、相手に投げ返して、当てなければ勝てない。そうしないと、よくても時間切れの引き分けだ。
勝ち負けを決めるための試合だから、飛んで来たボールを拾わなければいけない。
「胸のところでガシッと掴め!」
ヤジだかアドバイスだか分からない声が飛んで来るが、そんなにうまく胸のところにボールは来てくれないし、来たとしても掴めるわけない。ましてや、自分からボールに向かって行けるはずはない。あんな高速で飛んで来るボールに正面から立ち向かえるなんて、狂気の沙汰だ。当たったら痛いじゃないか。ドッヂボールで死んだ子供はいないだろうけど、ケガした子供はいるに違いない。
必然的に攻撃は他の人に任せて、僕はひたすら逃げまくることになる。
結局、最後の一人になって、あちこちからビュンビュンボールが飛んで来て、避け切れずに当たってしまう。
しかも最後まで残っていたのが気に喰わないのか、敵はラスト一球を凄い形相で思いっ切り投げてくる。全員が見つめる中、手か足か背中に、ものすごく痛い一発を喰らい、ゲームは終了する。
何とか、顔とお腹は守ることができた。攻撃に参加しなかったけど、最後まで残ったのだから、がんばったことにする。毎回こんな感じだ。
そもそも僕が全然攻撃をしないで、逃げ回っていても、いつも誰も文句は言わない。
僕の運動神経はそんなものだと、クラス中のみんなが知っているからだ。あまりチョロチョロされると、返って邪魔だとでも思っているのだろう。その通りなのだから、僕からも反論はできない。
団体競技になると、こうやって、みんなに気を使わしてしまうから、体育の授業は嫌いなんだ。迷惑をかけてしまうから、逃げ出したくなるんだ。
みんな、毎度毎度のことながら、ホント申し訳ないです。
こうやって心の中で謝っている僕は律儀な男だ。
個人競技なら一人で恥をかいていればいい。
それはいつものことで、慣れっこにはなってないけど、他人に迷惑をかけない分、気が楽だ。必然的に、ドッヂボールを始めとする球技は嫌いだ。サッカーのリフティングは一人でやるけど、左右の足で一回ずつ蹴って終わりだ。競技とは言えない。
ドッヂボールを終えたと思ったら、時間が余ったと言って、跳び箱をやらされた。
体育館の隅にいろいろな高さの跳び箱が五つ並べてある。時間が余ったからではなく、最初から準備してあったのだ。
だけど、跳び箱なら一安心だ。
個人競技だからだ。誰にも迷惑はかからない。
「よーし、みんな。好きな跳び箱を選んで跳べ!」
体育教師の畑田が体育館中に響くような大声で叫んだ。
畑なのか田んぼなのか分からない畑田は常に声が大きい。ちょっと大きめの声でも体育館の中では響くので、ちゃんとみんなに聞こえる。そんなに怒鳴らなくてもいいと思う。
生徒たちに気合を入れるためなのか、集中力を増すためのものなのか、僕はそもそもデカい声が嫌いだし、デカい声を出す人も嫌いだ。猫もデカい声や音が嫌いらしい。だから僕は人間よりも猫にモテる。
跳び箱は一番低い四段から一番高い八段まで並べてあった。
大半の連中は八段の跳び箱に向かう。
自信があるのか、カッコつけようとしているのか、目立とうとしているのか分からないけど、僕を含めた運動に自信がない少数派の三人がポツンと残された。
「そこの三人、早く行動しろ!」
畑田先生がまたデカい声で叫んだ。
「講堂で行動しろだって」小さな川池君が小さな声で茶化す。「オヤジギャグじゃん」
川なのか池なのか分からない川池君とはこの先、中学も一緒に通うことになる。
「俺は低い跳び箱でいいや」デカい体の町村君が言った。
町なのか村なのか分からない町村君はクラスで一番体が大きく、小学生にして、“お父ちゃん”というニックネームで呼ばれていた。
僕たち三人は当然のように、一番低い四段の跳び箱に向かった。
そして、四段は僕でも簡単に跳べた。
「こりゃ、いい。へへへ、楽チン、楽チン」
小さな川池君も大きな町村君もちゃんと跳べている。
文部科学省の決まりで、跳び箱の高さは四段までと決めてくれないかなあ。だったら跳び箱の時間は楽しくなるのになあ。
調子に乗っていると、また畑田先生の雄叫びが聞こえた。
「よーし、先生がよろしいと言うまで跳び続けるんだ」
マジかよ。
僕たちは三人で四段の跳び箱を跳んでいる。
残りの二十人くらいは八段を跳んでいる。
僕たちはすぐに順番が回って来る。
向こうはなかなか回って来ない。
これは不公平だ。
だけど、向こうに並んでも跳べるはずはなく、せっせと四段を跳び続けるしかない。
八段の人たちも余裕が出て来たのか、跳び箱の上で一回転したり、側転したりするつわものまで現れている。なぜあんなことができるのか。同じ人間なのに不思議だ。
クタクタのヘロヘロになったところで、本日最後の雄叫びが聞こえた。
「よーし、みんな、よろしい。こっちに集合!」手を叩いて呼び寄せる。
みんなはゾロゾロと畑田先生の周りに集まる。
ドッヂボールは痛かったけど、四段の跳び箱は楽チンだった。
いつもこんな体育の時間だったら、少しは気が楽なんだけどなあ。
「みんなの跳び箱を見せてもらった」先生が普通の声で言う。「これから悪い例を発表する」
えっ!?
しっかりチェックされていたのかと思う間もなく、僕の名前が呼ばれた。
「それと川池、町村。以上の三人だ」
四段の跳び箱で跳んでいた三人だった。
今日はちょっとマシな体育の授業だったと喜んでいたら、最後に恥をかかされた。
だが、畑田先生はそれ以上、何も言わなかった。
どこが悪かったのか、自分たちで考えろということだろう。
おそらく高い跳び箱にチャレンジしないで、楽していたからだろう。
僕と川池君と町村君は顔を見合わせて、デへへと笑った。
ノッポとチビとデブの組み合わせだ。
だけど僕たちがこんなことで反省するわけない。
次も四段で跳んでやるんだ。
跳んでほしくないなら、四段の跳び箱なんか用意しなければいいのだ。
かと言って、選択肢が八段の跳び箱しかなかったら、困るんだけど。
鉄棒も跳び箱と同じく、個人競技だ。他人に迷惑がかからないから気楽でいい。
クラスメートの前で恥をかくなんて、僕にとっては、いつものことだから、屁みたいなものだ。逆に体育の授業で褒められたら怖い。真夏なのに雪が降ったり、真冬に蝉が鳴いたりするだろう。
しかし、ときとして鉄棒が団体競技に変わることがある。
気楽に構えていたら、まさかの展開になった。
「よーし、出席番号順に三人ずつのチームを作れ!」
畑田先生が三台の鉄棒を前にして、だだっ広い運動場にお似合いの大きな声で叫んだ。
まさかのチーム編成だ。
すぐに七つのチームができた。
「今から三人で同時に逆上がりをしてもらう。各自逆上がりをやり終えたら、足を地面に着けずに、他のメンバーが終わるまで、そのまま鉄棒に掴まっておくこと。三人全員が成功したら、着地してよし!」
無理だ。
生まれてこの方、逆上がりができたことはない。将来に渡って、できないと思う。一生できないと予想されるのに、ここでいきなりできるわけない。奇跡はそう簡単に起きない。
先生は何を考えているんだ。僕のことを考えてないのか。ないだろうなあ。
僕は同じチームになった他の二人を見る。二人とも運動神経はまあまあ。逆上がりは普通にできるレベルだ。そう、逆上がりは普通にできる競技なんだ。僕が普通じゃないんだ。
僕を含めた三人は鉄棒を掴んで構えると、先生の合図と同時に足を蹴り上げた。
二人はクルリと回った。僕だけ残された。
「もっと体を鉄棒に近づけて、蹴り上げろ!」
ジタバタしている僕に畑田先生のアドバイスが飛んで来る。
近づけても体は上がらないんだけど。
アドバイスが間違ってるんじゃないのか。
「おーい、早くしてくれー」
すでに逆上がりをやり終えて、鉄棒に掴まって、踏ん張っている二人から悲鳴が飛んで来る。
「腕がもたないよー」
二人が睨みつけて来る。他の生徒たちはニヤニヤ笑っている。
分かってるよ。分かってるんだけど、奇跡が起きないんだよ。
「やーっ!」「とぉーっ!」
カンプイ摩擦で鍛えたこの根性を見よ!
「おりゃーっ!」「うらーっ!」
だけど掛け声を変えても、体は上がらない。
これは掛け声の問題じゃない。誰も掛け声を発しないで、逆上がりを成功させていたからだ。じゃあ、何が問題かというと、僕の運動神経なんだ。
昨日まで運動神経が鈍かったのに、今日になって、みんなと同じくらい鋭くなるわけがない。現実はこんなものだ。
「はい、時間切れだ」無情にもタイムアウトだった。
これ以上やってもできないのは目に見えている。だんだん腕にも足にも力が入らなくなって、体が上がらなくなっていたからだ。
二人にすいませんと頭を下げる。
いいよと言ってくれたが、他の生徒は笑ったままだ。
僕と同じチームになったのが二人の運の尽き。ホント、申し訳ない。
こうして迷惑をかけてしまう。だから体育の授業は嫌いだ。絶対に嫌いだ。蛇と同じくらい嫌いだ。
川池君も町村君も逆上がりができない組だった。他の人に迷惑をかけていた。
体育の授業が終わって、できなかった三人組がのそのそと教室に戻る。
はあ。
ため息しか出て来ない。
僕と町村君はうなだれて歩く。
まさか、個人競技の逆上がりにも団体競技があったなんて、体育の神様の裏切りじゃないか。
「終わったからいいじゃん」川池君はいつものように朗らかだった。「気にしない、気にしない」一休さんのように言う。
本当に川池君は何事も気にしない。能天気が服を着て歩いているようなものだ。
先週行われた八十メートルハードル走では、立ててあった九台のハードルを全部倒して、ビリでゴールした。
「川池、何をやってるんだ!」当然先生に怒られた。
どう見ても、わざと倒して行ったからだ。
「一台倒すと、一ポイントもらえると思ったもので。デへへ」
川池君はポリポリと頭を掻いて謝る。
謝るとき、本当に頭を掻く人を初めて見た。
「なんで、ハードル走でポイ活するんだ!」
激しく怒られた川池君を教室に戻る途中で慰めてあげたが、
「気にしない、気にしない」
そのときも同じセリフを言って笑っていた。
気にするか、しないかは川池君の問題なんだけど、本人がそう言うのだから、僕も気にしないことにした。そもそも川池君がハードル台を倒さずに飛び越えられるのかというと、それは無理だろう。だからと言って、わざと倒すことはない。畑田先生に対するささやかな抵抗なのか、本人はヘラヘラ笑ってるだけで、訊いたところで教えてくれない。
川池君の能天気ぶりには、ホント救われる。
僕も見習わないといけないのか、そのあたりは微妙だ。
僕は運動会のときも、体育の神様によく裏切られた。
七クラスあったので、百メートル走は七人ずつ走った。
背の低い人から順番に走る。僕はヒョロヒョロだったけど、身長だけは平均より高かったから、いつも真ん中から少し後の列に並んでいた。
前の方には小さい川池君の姿が見える。周りの人たちに何か話し掛けて笑わせている。
後ろの方には大きい町村君がいる。神妙な顔をして、順番を待っている。
ピストルの合図とともに、前から順番に次々と走り出す。それまでは座って待つ。しゃがんだまま少しずつ前へ移動して行く。
この待っている時間が嫌なんだ。結果が分かっていても、心臓はバクバクして来るし、吐き気はするし、トイレにも行きたくなる。
そして、だんだんとスタート地点に近づいて行く。
ああ、嫌なことは早く済ませたい。さっさと楽になりたい。
気を紛らわすために、隣の人に話し掛ける。
「走るのは早い方?」「いや全然遅いよ」
反対側に座ってる人にも話し掛ける。
「走るのは早い方?」「めちゃめちゃ遅いよ」
僕はそれで少し安心する。
他の四人は早いとしても、僕を含めたこの三人は遅いらしい。だったら、三人でのんびりゴールすればいいや。できれば手をつないで、笑いながらゴールしたいな。
だけど、この妄想は大きく裏切られることになる。
みんな、むちゃくちゃ早いんだ。いや、僕が遅いのか。
毎年の運動会はこんな感じだ。裏切りに次ぐ、裏切りだ。
そこで、あるとき僕は一計を案じた。
走ってるとき、後ろからライオンに追われていると想像すれば、早くなるのではないか。
今まさに喰われようとしている。恐怖を感じながら走れば、早くなるのではないか。
――いや、ならなかった。
僕は走りながら思った。
ライオンが小学校の運動場を走ってるわけない。そのライオンはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。しかもピストルの合図とともに走り出し、白線からはみ出さないで、僕だけを狙って、真っ直ぐ走るわけないという現実に戻されたからだ。
もちろん、ライオンからチータやジャガーやヒョウに変えても、結果は同じだろう。
想像力が貧相だと、こんなことになってしまう。
なぜ、みんなは早く走れるのか?
ある日、僕はその秘密が靴にあると考えた。
クラスで一番足の早い男子の靴を盗み見して、同じ靴を買った。ちょうどボロボロになって買い換えようとしていた頃だった。
僕は真新しいその靴を履いて、その年の運動会に参加した。
結果は変わらなかった。足の早い秘密は靴ではないと悟った。それが分かっただけでも良しとしよう。次々と靴を買い替える必要はなくなったからだ。僕にとっては、偉大なる進歩だ。
そして、僕はいつものようにビリでゴールして、白いプラスチックのフダをもらい、所定
の箱に入れた。フダの数を集計して、優勝のクラスが決まる。
一位から三位までは色付きの札で、四位以下は白いフダだ。いつも白いフダしかもらったことがないので、上位の色分けはよく知らないけど、赤色と青色と黄色だろう。
こうして僕のライオン作戦も新しい靴作戦も失敗した。
年に一度の校内マラソン大会は町村君と走った。
町村君は体が大きいから、マラソンは特に苦手だ。
僕はヒョロヒョロなのに苦手だ。マラソン選手の体型なのにおかしい。
二人の体格は真逆なのに、なぜ同じ結果になるのか?
ともあれ、学校を出て、二人はのんびりと走り出した。
これから街中や林の中を駆けて行く。男女混合なので、女子にもどんどん抜かれて行く。でも気にしない。こんなことまで気にしていたら、“運動神経悪い生徒”なんかやってられない。
お調子者の川池君はどこを走っているのだろう。姿は見えない。足が短いから、遅いはずなんだが、またどこかで誰かを笑わせているのだろう。
僕たちは走ったり、歩いたりを繰り返しながら、ゴールを目指した。途中に何人もの先生が配置されているので、タクシーや自転車に乗るといったズルはできない。
終盤に差し掛かった頃、前の方に山だか川だか分からない山川さんが走っているのが見えた。
僕らと変わらないほど遅いのは、山川さんがお嬢様だからだ。いつも専属運転手が運転する大きな車で、学校の送り迎えをしてもらっていて、足腰を使わないから、スリムな体型なのに遅いのだ。僕はスリムな体型で、送迎車に乗ってないのに遅いけど。
今年の夏、山川さんはプールの授業で、スクール水着をクリーニングに出したからと言って、ピンク色のビキニを着て来たことがあった。
クラス全員の目が点になった。
畑田先生はデカい声も出せず、まばたきも忘れて、しばらく目が見開いたままだった。
山川さんは平然とした表情をして、ピンクのビキニで、プールへ弧を描くように飛び込んだ。たまたまプールの中にいた小さいのか中くらいなのか分からない小中君が、驚いてプールから出て来た。勢いよくプールサイドに上がったため、水着がずれて白い半ケツが見えた。
山川さんはビキニしか持って来てないというので、さすがの畑田先生も止められなかった。山川さんのお父さんが街の有力者だから、強く言えないということもあるだろうし、上のブラを外して、男子と同じように、パンツ一丁になれと言うと、たとえ相手が小学生でもセクハラになるだろう。
結局、山川さんはその日の体育の授業をピンクのビキニで通した。
それから、クラスではウワサが立った。
あのピンクのビキニはシャネル製だったんじゃないかと。
そして、僕たちは後になって気付いた。
お嬢様はスクール水着をクリーニングに出すのかと。
その夏の僕の思い出は、山川さんのピンクのビキニと、小中君の白い半ケツだった。
そのピンクビキニの山川さんが僕たちの前を走っている。
まさか下着もピンクなのかとニヤニヤ妄想をしていると、山川さんがポケットから何かを取り出して、沿道の草むらに放り投げつけた。
それを僕と町村君はしっかり見ていた。
お互い目を合わせた。アイコンタクトで、拾いに行こうと決めたのだ。
周りには数人が走っているが、気づいてないようだ。
「町村君、この辺で休憩しようか!」
「そうだね。あれっ、偶然にもこんなところに草むらがある。ここにしようよ」
「おお、これはちょうどいい。休憩場所にピッタリの草むらじゃないか!」
「まさに天の恵みだね!」
周りにわざと聞こえるように、息を切らしながらも、大きな声で言うと、何かが投げ込まれた草むらに向かった。
「なんだか、黄色かったよな」「黄色いテニスボールかなあ」
それはすぐに見つかった。レモンだった。
走りながらビタミンを摂取しようとしていたが、邪魔になったので捨てたのだろう。
僕たちはそう推理した。
そして、どっちがそのレモンをもらうのか、じゃんけんで決めた。
ピンクのビキニを着たかわいいお嬢様だ(マラソン中は着てないけど)、取り合いになって当然だった。残念なことに、齧った跡は見当たらなかった。新品でもいい。山川さんがポケットで温めていたレモンだ。お宝じゃないか。少し変態っぽいけど。
結局、じゃんけんは僕が負けた。
「今夜はこのレモンを枕元に置いて寝るんだ」
町村君はレモンに頬ずりをしている。
羨ましいけど、じゃんけんに負けたのだから仕方がない。
「いい夢、見ろよ!」
僕はヤケクソになって叫ぶと、再び走り出した。
「ちょ、待てよ!」町村君もあわてて駆け出した。
明日、登校して来た町村君が体からレモンの香りを漂わせていたら、ちょっとむかつく。
妄想でむかつきながらも、がんばって走る。
はるか前を行く山川さんが、もう一個レモンを投げてくれないかと期待しながら。
だけど、僕たち二人はほぼビリに違いない。
持久力がないのだから仕方がない。
そんな相棒の町村君だけど、ときとして運動会のヒーローになるときがある。
かつてオリンピックの種目にもあった綱引きだ。
鉄棒にぶら下がったり、走ったりするのは苦手だが、体の大きい町村君には力がある。
綱引きの綱の端っこを体にグルグル巻き付けて踏ん張っている姿は運動会の名物となっている。
チャーシューみたいだとヤジが飛ぶが、気にしない様子だ。
なんといっても、その瞬間町村君はヒーローになっているのだ。
外野のヤジなんか、耳に入って来ないのだろう。
ここがオール3の僕との違いだ。
何も突出したところがない僕と、力だけは人一倍ある町村君。
槍投げや円盤投げをさせたら、グーンと遠くまで飛ばしてくれるだろう。
残念なことに、うちの学校の運動用具に槍や円盤はない。
だけど、騎馬戦の馬になったときもヒーローと化し、相手を蹴散らして行くし、玉入れのカゴを支えるときも、みんなの注目の的だ。
そんなとき、僕は大きな体の町村君のことをとても羨ましく思う。
“お父ちゃん”はいいなあ。
そして僕は中学生になった。
中学生になると、ドッヂボールがメインだった小学生と違って、競技種目が増えた。だけど僕の役割は変わらない。団体競技の際には、みんなに迷惑がかからないポジションが定位置だ。
ソフトボールで守る場所は、ボールが滅多に飛んで来ないライトであり、バットを振っても滅多に当たらないため、打順は八番である。いわゆるライパチだ。ときどき左利きのバッターが打ったボールが飛んで来るが、当然のように後逸し、ボールに追いついた頃には、ベース上に誰もいない。ランニングホームランだからだ。本来はシングルヒットなんだけど、君のお陰でホームランになったよ、などと感謝されたことはない。
バスケットボールはドリブルができず、投げても入らず、守っていても簡単に突破される。バレーボールは狙い撃ちをされて、ビュンビュンボールが飛んで来る。もちろん僕のサーブは入らず、というか、敵陣までボールが届かず、ネットに当たって終わる。サッカーはゴールキーパーだ。ボールへの対応力に優れているからキーパーを任されているはずもなく、みんなシュートをして、点を入れて、目立ちたいから、前の方に行ってしまうのである。必然的に、ドン臭い僕は後の方に残され、誰もやりたがらない地味なキーパーをやらされる。もちろん、敵のシュートが飛んで来ても、僕には止められない。シュートを打たれないよう、ディフェンス陣にがんばってもらうしかない。点を取られたところで、僕をキーパーにした連中が悪い。そういった意味で、サッカーは気が楽だ。
こうやって、たまには他人に責任転嫁をしないと、“運動神経悪い生徒”なんかやってられない。
雨の日は体育館で柔軟運動をすることがある。ところが、僕はものすごく体が硬い。柔らかければ、もう少し運動も上達するのだろうけど。
立ったまま手のひらが床にペタンと付くなんて信じられないし、上体反らしなんか、ほんの数センチしか上がらない。しかも筋力が弱いためか、数秒しか体を上げてられない。測定をするときは大変だ。測定タイムがほんの一瞬しかないからだ。
二人一組になって、背中をぐいぐい押され、呼吸困難になりながらも、何とか柔軟運動の時間を乗り越える。
今日一日だけ押されても、体が柔らかくなるとは思えない。かと言って、家で柔軟運動をやろうとも思わない。基本的に体を動かすことが嫌なんだ。
体育館ではダンスもやる。ときどきステージで発表会もやる。
だけど、ダンスなんかできるわけない。テンポが遅い盆踊りもできない。町内の盆踊り大会で踊ってるおばちゃん達の踊りにも付いて行けないのに、ヒップホップダンスとかブレイクダンスなんか踊れるわけない。
集団で踊ると、みんなは右を向いてるのに、僕だけ上を向いている。みんなはジャンプしてるのに、僕だけ小首をかしげている。みんなはしゃがんでるのに、僕だけ右手を突き上げて、我が生涯に一片の悔い無しポーズを決めている。
こんなことがよく起こる。
若者がみんな歌とダンスが好きだと思ったら大間違いだ。
僕は歌も嫌いだ。運動神経が悪いと歌もヘタということはないだろうけど、将来たくさんの観客の前で歌うような機会は訪れてほしくない。
晴れた日は陸上競技だった。
そんな中、腐れ縁でまたもや同じクラスになった川池がやらかしている。
走り高跳びのバーを思いっ切り蹴り上げているのだ。
どう見てもわざとだ。
走って行ったとき、「ライダーキック!」と叫んでいたからだ。蹴る気満々だ。
バーを飛び越えるのではなく、蹴飛ばそうと最初から企んでいたのだ。
どうせ飛び越せないのだから、何かをやらかして、ウケを狙うという作戦だ。
僕もこれくらいずうずうしい神経をしていると、体育の時間も苦労しなくて済むのだけど、どうも僕は真面目すぎるんだよなあと、真面目な僕は自分で自分を分析する。
川池の身長に合わせてかなり低く置かれていたバーがビュンと跳ね上がった。
川池は満足そうな顔をして、弾け飛んだバーを目で追いかけている。
「川池、何をやってるんだ!」当然、体育教師に怒鳴られた。
「蹴飛ばしたらポイントがもらえると思ったもので。デへへ」ポリポリ頭を掻く。
小学生のときにやっていたパフォーマンスを、中学になっても使い回している。
「それは何のポイントなんだ!?」ごもっともな質問である。
「えっ? ああ、まあ、そのう。デへへ」
先生が突っ込んで来ることは想定外だったようで、小さい体を揺すりながら、笑ってごまかすしかない。小学校の担任はギャグを流してくれたが、中学の先生は厳しく取り締まる。こういうことをやっていると、通知表に1を付けられる。
今日、川池がこうやって頭を掻くのは二回目だ。
午前中の現代文の時間に、“疎んじる(うとんじる)”の意味を書きなさいと言われ、川池は黒板に“うどんの汁(きつね)”と書いて、先生にこっぴどく怒られたのだ。
このときもポリポリ頭を掻いていた。
だけど川池は何を言われようと気にしない、気にしない。
平気の平左、馬耳東風、柳に風と受け流す。
ある意味、これも才能だ。
僕もこんな性格なら気が楽なんだけどなあ。
そんな川池だけど、彼もヒーローになるときがある。
放課後、勝手に入り込んだ音楽室に穏やかなメロディが流れている。
観客は僕だけだ。彼は僕だけのためにピアノを弾いてくれている。
「いやあ、いい曲だね。何という曲?」
「カーペンターズの“青春の輝き”と言うんだよ」
演奏を止めずに、川池は答えてくれる。
「ああ、心が洗われてキレイになるなあ。ということは、僕の心は汚かったということか?」
「ははは」僕の一人ツッコミにも川池は笑ってくれる。「これは僕なりにアレンジしてあるんだ」
川池はピアノが弾ける。
すごい腕前で、曲も自分なりにアレンジができるようだ。しかも今は楽譜も見ないで弾いている。暗譜というやつだ。お母さんがピアノの先生だから、小さい頃から教えてもらっているらしい。
ハードルを全部倒し、走り高跳びのバーを蹴飛ばし、デへへと頭を掻いて笑ってる人物と同じ人物とは思えない。
ピアノが弾けるだけでもヒーローだ。
だけど音楽のクラブには属してない。僕と同じく帰宅部だ。
つまり、孤高のヒーローというわけだ。
でも、なぜあんな芋虫のような指でピアノが弾けるのか。
指だけ見ると、僕の方が細くて長いから、ピアニストに向いているだろう。
指だけは音楽家だけど、残念なことに僕には音楽の才能なんかない。ドの鍵盤がどこかも知らないし、楽譜なんか読めるわけがない。できる楽器は縦笛とカスタネットと木琴だ。音楽の授業でやらされているだけだけど。ついでに歌もヘタッピだ。そもそも普段から進んで音楽を聴いたりしない。
僕は川池とずいぶん違う。
ここが、可もなく不可もないオール3の僕との違いだ。
「おい。お前ら、何をやってるんだ!」
ドアが開いて、音楽教師が顔を覗かせた。丸いのか四角いのか分からな丸角先生だ。
ピアノの音を聞いて、やって来たのだろう。
大きな目でギョロリと睨んで来る。
「ああ、川池か」ピアノを弾いている生徒を見て言った。「お前だったらいいよ」
音楽室へ勝手に入り込んで、勝手にピアノを弾いているのに、許してくれた。
「お前はなかなかの腕だからな」逆に褒めてくれる。
音楽の先生が褒めるのだから、本当にうまいのだろう。ピアニストとしての川池の名前は学校中に知られている。
怒られても、川池は演奏を止めることなく、平気で弾き続けている。
さすが、先生に無断演奏を見つかったくらいでは動じない。
先生もしばらく聞き入っている。
「ヘタな演奏を聞かされると腹が立つからな。そっと後ろに回り込んで、ピアノの鍵盤蓋をバタンと閉じて、二度と弾けないように、指を切断してやろうかと思うよ」
音楽教師が言うことではない。
「丸角先生、この曲はカーペンターズの“青春の輝き”ですよ」さっき教えてもらったんだ。「一緒にここで鑑賞しませんか」僕は椅子を指差して先生を誘う。
「いや、間に合ってる。それよりも、暗くなって来たから、二人ともそろそろ帰れよ」
そう言って、先生は出て行った。
何が間に合っているのか分からないが、川池はその間、一度も演奏を止めずに、カーペンターズを弾き続けた。
彼流にアレンジされた、“青春の輝き”は夕暮れ時によく似合うと思った。
歴史の授業中、遠くから笛の音が聞こえて来た。
今年もプールの授業が始まったようだ。
水泳は僕が嫌いな体育科目の栄えあるワースト一位だ。
まだうちのクラスは水泳の授業が始まってないというのに、飛び込みの合図に吹かれる笛の音は、僕を今から憂鬱な気分にさせる。
まず、あの消毒剤のニオイが嫌いだ。ニオイを嗅いだだけで、吐き気が込み上げて来る。それに、プールにはたくさんの生徒が入っている。水の中には汗や唾液や目クソも耳クソも鼻クソも本物のクソも混ざっているはずだ。それが消毒剤で全部除菌できるのか、はなはだ疑問である。
プールに入ると、体がゾゾーッとして、恐怖を感じるし、ここでも吐きそうになる。前世は溺れて死んだのだろうと本気で思う。
そもそもみんなにヒョロヒョロの体を見せるのは嫌だし、なんといっても泳げない。おそらく脂肪分が少ないから浮かないのだ。浮かないと泳げないし、ずっと潜水していられるほどの肺活量はない。
それに、プールの授業が雨で中止にならないのも嫌いだ。
どうせ濡れるのだから、多少の雨ならいいだろうと考えているのだ。風邪をひいたらどうするのか。体力に乏しい僕は風邪をひくと、完治するまで一週間以上かかる。僕のおばあちゃんは三日で治るというのに。
それでも年に一回の水泳大会はやって来る。
よほどの暴風雨じゃないと中止にならない。正確に言うと、中止じゃなくて、延期だ。また日を改めて行われるのだから、逃げようはない。
巨大地震でプールがパカッと割れない限り、全員参加の水泳大会は開催される。
一学年全員、つまり約三百人がプールサイドに集まり、大会を見つめる。その中には僕の好きな女子もいる。これを憂鬱と呼ばずして、何と呼ぶのか。だけど僕はズル休みなんかしない。これが僕のいいところだ。ここで休んだら、オール3の成績が崩れるのだ。3という同じ数字の羅列は美しい。4とか5の方がいいのだろうけど、何事もほどほどがいいのだ。
事前にいくつかある種目にエントリーをしておく。
種目は二十五メートル平泳ぎやクロールやバタフライなんかだ。泳ぎに自信がある人は五十メートルに出場する。五十メートル自由形なんか花形種目だ。
残念なことに、泳げない人用の種目はない。
最初からみんなが泳げるという前提で出場種目が用意されているのだ。
仕方なく二十五メートル平泳ぎにエントリーする。
僕にとっては、平泳ぎもクロールもバタフライも同じだ。ビート板を持って泳ぐからだ。
だけど背泳ぎは無理だ。うつ伏せになって泳げないのに、仰向けになって泳げるわけない。絶対鼻に水が入って来るだろう。
自然界でも仰向けになっているのはラッコくらいだろう。仰向けになったまま、お腹に置いた貝を石で割るのだから、ラッコは偉い。つまり僕はラッコ以下の存在だ。
大会まではまだ日にちがある。僕はここで悪知恵が閃いた。
毎回、放送部が出場選手をマイクで紹介する。
「第一のコーーーーース、山田君」みたいに。
なぜか“コース”を“コーーーーース”と伸ばす。サッカーの“ゴーーーーール”みたいなものか。野球の“打ったーーーーーっ”みたいなものだろう。
ならば、放送部に入れば、泳がなくてもいいではないか。
そう思ったのである。起死回生のアイデアである。
“第一のコーーーーース”なんて僕でも言えるし、もっと伸ばせる。
僕は放課後、さっそく放送部の部室に出向いて行った。
「どうも、こんにちは」
男女四人がニュースらしき原稿を読む練習をしていた。
「あの、ちょっと聞きたいのですが、放送部は水泳大会のとき、各選手の紹介をしますよね」
「はい、してますよ」かわいい女子部員がハキハキと答えてくれた。おそらく女子アナ志望の子だ。その声と美貌なら、君はきっと人気女子アナになれるよと、心の中で応援してあげる。
「その役を臨時で僕にやらせてもらえませんか? 謝礼はけっこうですので」
「えっ、それはどういうことですか?」ハキハキと質問される。
「放送で選手を紹介していれば、水泳大会に出なくてもいいかなと思って」正直に告白する。
「私たちも交代で出場しますよ」ハキハキと教えてくれる。
「えっ、放送部なのに泳ぐのですか?」
「もちろんですよ」男子部員が言う。「マイクは置いておきますが。この人は放送部と水泳部を掛け持ちしていて、大会の出場を楽しみにしてますよ」未来の女子アナを指差す。
「はい、一番目指してがんばります」女子アナはハキハキと宣誓する。
えっ、水泳大会が楽しみ? 一番を目指す? そんな人がいるんだ。
放送部と水泳部の掛け持ちなんて、なんと奇特なお方だろう。でも、文化系と体育会系の二刀流は、女子アナの面接時の魅力的な自己PRになるだろう。きっと採用されるに違いない。僕だったら採用してあげる。
「分かりました。すいません」僕は頭を下げた。「お邪魔しました。これで失礼します。なんも言えねぇ」
最後に、水泳界で有名な名言をつぶやいて、逃げるように放送部を後にした。
僕の放送部作戦は失敗した。放送部も泳ぐとは思わなかった。
てるてる坊主を逆さまに吊り下げて、大雨を降らせる作戦も失敗した。
プールの水が一夜にして抜けることはなく、夏なのに一面が凍るという異常気象も起きなかった。
そして無情にも、来なくてもいい水泳大会はやって来た。
「第四のコーーーーース」
放送部の未来の女子アナによって、僕の名前が呼ばれた。
プールサイドに集まっている生徒たちがざわついた。
第四コースのスタート地点に誰も立ってなかったからだ。
その頃、僕はプールの中にいた。
僕は一人、プールの中からのスタートだった。泳げないので、ビート板を持っていたからだ。
ビート板を脇に抱えて飛び込んだところで意味はない。飛び込んだ勢いで、前に進むことはないからだ。風呂桶を抱えて、風呂にザブンと入るようなものだ。だから、水の中からの静かなスタートだ。
名前を呼ばれたので、仕方なくプールの中から片手だけ上げて、返事をした。ここで両手を上げると、溺れてる人みたいだからだ。
笛の合図とともに、みんながプールへ派手な音を立てて飛び込んだ。
僕も白いビート板を両手で持って、プールの床を蹴った。
バシャバシャとやっているうち、たちまち引き離されて行く。
みんな、平泳ぎでも早い。
「顔を付けろ!」畑田先生の必要以上に大きい声が聞こえる。
水に顔を付けたら、早く進めるんだっけ?
僕は思い切って、顔を水の中に付けてみた。顔を付けるだけでも恐怖を感じるため、僕にとっては思い切らなければならない。それくらい水は嫌いだ。世の中の飲み水以外の水は全部なくなってほしいくらい嫌いだ。みんなと違って、僕は前世に溺れて死んだのだから仕方がない。
水に顔を付けて、足をバシャバシャやって、五秒くらいで顔を上げる。僕の肺活量からして、これくらいが限界だ。早くなった実感はない。だけど、やらないと畑田先生にまた大声で怒られて、三百人の前で恥をかく。すでにスタート地点から恥をかいているのだけど、恥の上塗りは避けたい。
それでもやっと二十五メートルプールの半分くらいにまでたどり着いた。
前方を見ると、誰も泳いでいない。
すごいじゃん! もしかして、追い抜いたのかと思って後ろを見たが、誰もいない。
僕以外のみんなはすでにゴールして、プールから上がっていたのだ。
広いプールの真ん中にポツンと僕一人。
観客は三百人。ぐるっと囲まれている。
コントのようなシチュエーションだ。
これは恥ずかしい。何としても避けたかった恥の上塗りだ。
三百人の中に好きな子もいるのだけど、絶対フラれたよなあ。
まあ、最初から相手にされてないのだけど。
気を取り直して、残りをさっそうと泳ぎ切ろう。ビート板持ってるけど。
ところが、どうしたことか、いくらバシャバシャと水を蹴っても前に進まない。
どうなってんだ。
わあ、焦る。メチャクチャ焦る。
プールのど真ん中で止まってしまった。
三百人が見ている前でこれだけ恥をかくとは、恥の上塗りどころか、恥の重ね塗りじゃないか。恥を塗り過ぎて、ゴワゴワになっているではないか。
そう言えば、墓地の上にプールを作ったというウワサがあった。泳いでいると足を引っ張られると言うのだ。うちの学校の七不思議の一つだ。
つまり、これはタタリか? 墓の中から這い出て来たお化けが引っ張っているのか?
立ち止まった僕は足元を見る。
水がユラユラ揺れてよく見えないが、僕の足を掴んでいる不気味な手はいないようだ。
だけど、こんなところでお化けが出ましたと、悲鳴をあげるわけにはいかない。畑田先生が気を利かせて、飛び込んで助けに来ようものなら、明日から不登校になるしかない。グレて悪の道に進むかもしれない。それだけは嫌だ。
頼むよ、ビート板!
頼むよ、僕の足!
頼むよ、ナンマイダ~。
僕は再び泳ぎ出した。
バシャバシャバシャ。
おお、少しずつだが進んで行く。さっきの停滞は何だったんだ。
七不思議のお化けも、僕の根性に恐れをなして、逃げて行ったのだろう。
バシャバシャバシャ。
大丈夫だ。ちゃんと進んで行く。ゴールはもうすぐだ。
がんばれ、僕。その調子だ、僕。
バシャバシャバシャ。
そして僕は三百人が見つめる中、見事にゴールした。
誰も見事と言ってくれないので、自分で言うしかない。
プールから這い上がったが、会場はシーンと静まり返っていた。
僕がなかなかゴールしないから、見物するのにも飽きていたのだろう。
ゴール地点に校長先生が椅子を置いて座っていた。
みんなは見てはいけないものを見るように、そっと僕に視線を投げかけたが、目が合うとあわてて逸らした。誰も言葉を発しない。
自分のクラスが陣取っている場所に行こうとしたとき、座っていた校長先生が突然立ち上がり、僕に向けて拍手を始めた。最後まで諦めずにゴールしたからだろう。
校長先生が拍手をしたので、あわてて他の先生も始める。先生が始めたものだから、生徒たちも拍手を始める。
やがて、プールサイドにいる三百人全員が僕に向けて拍手を送ってくれた。
拍手の波が僕に押し寄せて来る。
「いやあ、どうもどうも」
これはこれで恥ずかしい。川池のように思わず、頭をポリポリと掻きたくなる。
自分のクラスに目を向けると、その川池と目が合った。
歯が痛いと言って仮病を使い、大会に出場することなく、見学をしていたのだ。
だけど、川池は自分のことのようにうれしそうな顔をして、懸命に拍手をしてくれていた。
ああ、やっぱりこいつはいい奴だ。
僕だけ校長先生に拍手をしてもらった。
そして、一瞬だけ体育でヒーローになれた。
だけど、雪が降るといった異常気象は起きなかった。
やっと水泳大会が終わった。
僕の中学生活における懸念材料ワースト1を、何とか乗り越えることができた。
偉い。本当に僕は偉い。誰も言ってくれないけど、自分で自分を褒めてあげたい。
中学生活は何かと忙しい。毎日次々といろいろなことが起きる。僕がタタリに遭って、プールのド真ん中で動けなくなって、大恥をかいたことなんか、みんなすぐに忘れてくれるだろう。
教室に戻ってから、ホームルームが始まった。
「はい、みんなお疲れさまでした」中年女性の担任がねぎらってくれる。「心配されていたお天気も良く、素晴らしい水泳大会になりましたね。プールの真ん中で立ち往生した人もいましたけどね」
クラスのみんなが一斉に僕を見て笑う。
恥を蒸し返してどうするんだよ。
傷口に塩を塗ってどうするんだよ。
まったく、デリカシーの欠片もない担任を持ったら苦労するよなあ。
中年女性にデリカシーを求めるのは間違っているのかもしれないけど。
水泳大会が終わり、来週から体育の時間はバスケットをすることになる。
水泳も嫌だが、団体競技も嫌だ。
重い地獄から軽い地獄に行くようなものだ。
だけど、その前に球技大会があった。
水泳大会が終わったと思ったら、球技大会だ。大会が好きな学校だ。
球技が苦手で、と言うか、運動競技全般が苦手なんだけど、みんなの足を引っ張ることが目に見えている僕は柔道にエントリーさせられた。
球技大会なのに、なぜ柔道があるのか分からない。
ともあれ、柔道は個人競技だから、お前がやれということなのだろう。個人競技なら誰にも迷惑はかからない。
しかし、僕はヒョロヒョロ体型だ。どう見ても柔道に向いてない。では、向いてる種目はあるのかというと、あるわけない。
僕の対戦相手はチビッ子だった。
僕は背が高い方なので、相手は同学年だけど、チビッ子なのだ。
対戦の順番が回って来る間、僕は吐き気と戦っていた。水泳大会のように観客は多くないけど、そこそこの人が集まっている。緊張による吐き気だ。いつもは好きな畳のニオイも嫌なニオイになって、僕の鼻を刺激する。
気を紛らわそうと数字を数えた。
1,2,3,4、5……。
数字を数える作戦はよく使う。やってる人がいるのか分からないが、効果があると信じている。
そして、500を越えた頃、何とか吐き気を押さえ込むことに成功する。
時間が来て、僕は畳の上でチビッ子と向かい合った。
チビッ子だけどがっしりした体格だ。相手のチームの連中は、僕のヒョロヒョロ体型を見て、あんなの余裕で勝てるぞーと叫んでいる。だけど腹は立たない。僕が相手のチームの一員だったら、同じヤジを飛ばしているだろう。
そして、チビッ子は余裕で勝った。
僕はわずか五秒で畳の上に転がされた。
プールの中で恥をかき、畳の上で恥をかいた。
みんな、早く僕の恥を忘れてくれと願った。
しかし、僕が悩むほど、みんな意外と気にしていないようで、この日以降、僕の話題は全然出て来なかった。水泳大会も球技大会もすっかり過去のものになった。
悩みなんて、自分が思っているほど深刻なものではない。
そして僕は高校生になった。
高校には僕が大嫌いなプールはなかった。プールがない高校を選んだからだ。
家から通える高校を片端から自転車で回って、外からプールがあるかどうかを確かめたのだ。外からはよく見えず、奥の方に設置されてる可能性がある場合は、学校の周りを回って、なんとか覗き込める場所を探し出して確かめた。ドローンがあれば上空から確認できて楽チンなのだが、そんな便利な物は持ってない。怪しまれながらも、覗き込むしかないのだ。
そんな努力の甲斐があって、プールなしの学校に入れた。
受験にあたって、面接はなかった。
面接で志望動機を訊かれたら、プールがないからですと正直に言うつもりだった。
面接官はどんな顔をしただろうか。
入学の際のオリエンテーションでも、体育館のリニューアル予定の話はあったが、プールを新設する話は出なかったので、三年間は安泰と見た。
水泳の時間から解放されるだけでも、随分と気が楽になった。
それともう一つ、この学校にはいいことがあった。高校は男子校だったのだ。
普通は男女共学の方が何かとうれしいだろう。異性と話せるし、遊べるし、一緒に勉強ができる。しかし僕にとっては、女子にドン臭い姿を見られることもなく、女子に無様な姿を笑われることもない。つまり、女子の前で恥をかかなくても済む方が大きいのである。
放課後の校庭を走る君は見れないけど、走ってるのはむさ苦しい男子だけど、男子校でよかったのである。
といっても、体育の授業は週に三回あるし、スポーツに力を入れている高校だった。
晴れて高校生になったけど、体育の時間はなくなってくれず、僕が憂鬱なのは変わらなかった。
そしてもう一つ、憂鬱になる原因があった。
あの川池君がいないのだ。運動神経悪い仲間の川池君との腐れ縁は中学までだったのだ。
小学生のとき、逆上がりができなかった僕と町村君と川池君は運動神経が悪い三人組だったが、町村君はピンクビキニの山川さんのレモンを持って、別の中学に進学したため離れ離れとなり、高校になってからは、川池君が別の学校に行ってしまった。残念なことに、川池君のピアノはもう聞けない。僕はプールがない高校を選んだのだが、川池君はプールの有り無しには関係なく、家から一番近い高校に進学していた。お調子者の彼のことだから、さっそく人気者になっていることだろう。
運動が苦手な生徒は最悪の場合、クラスに一人しかいないが、うまくいけば、二人か三人はいる。僕の場合、幸運なことに三人だった。
運動ができないと悩んでいたとしても、複数の仲間がいれば心強い。同じように運動ができないのだから、注目度は人数分に分散されるし、悩みを分かち合える。体育の時間に孤立することもないし、孤独を感じることもない。
そんな仲間が小学生の頃は僕を含めて、クラスに三人いた。
中学生になって、二人に減った。
高校生では僕一人になった。
だけど、小学生の頃は三人もいてよかったなどと思い出に浸ってる場合じゃない。クラスでドン臭いのは僕しかないのだから、高校の三年間は一人でがんばるしかない。
体育ができないことで、僕は他人より悩みが多いのではないかと思うときがある。でも、他人が抱えている悩みを僕は持ってないかもしれない。
だから、本当は悩みの数なんてみんな同じなのだろう。
人間は平等なのだ。
高校には“体育に生きる男”がいた。
その男子生徒は体育の時間が来て、体操服に着替えているとき、毎回、俺は体育に生きる男だと叫んでいるのである。
本人が言うのだからそうなのだろうが、体育が生き甲斐なんて、どんな人生なんだと思う。この世から体育の授業がなくなったら、そいつは死んでしまうというのか。
体育が、親のカタキくらい大嫌いな僕にはまったく理解できず、と言っても両親ともに健在なんだけど、その体育に生きる男、春だか秋だか分からない春山秋男とは何かと気が合った。
ある日、体育の授業に備えて、体操服に着替えているとき、春山がええーっと、素っ頓狂な声を上げた。
彼は僕の斜め前の席だったため、声をかけた。
「春山、どうしたの?」
春山は白い何かを手でつまみ上げて、僕に見せてくれた。
「えっ、それってパンティーじゃない?」
僕のパンティと言う声を聞いて、教室内が一瞬で静まり返った。
僕たちは男子高校生だ。
パンティという単語を聞くだけでも、鼻血が出る年頃だ。
「パンティがどうしたんだ!?」「何が起きたんだ!?」
あちこちから声が飛んで来る。
「春山が……」と言って、僕は指を差す。
春山の手にはまだ白いパンティがぶら下がっている。
「どうしたんだ、そのパンティは!?」
全員が着替えるのも忘れて、春山の手元をガン見する。
「なんか、体操服の中にこれが入っていて……」春山はパンティをぶら下げたまま、困った顔をする。「俺も知らなかったんだけど」
よく聞いてみると、春山には妹さんがいて、お母さんが洗濯物を取り込んで畳むとき、妹さんのパンティが体操服の間に紛れ込んだらしい。
「なに! 妹のパンティ!?」
クラス全員の目が血走った。
ただのパンティではない。妹のパンティである。お母さんでもお婆ちゃんでもない。ましてや弟のパンツでもない。妹のパンティだ。それはそれは価値がある。
当然ながら、教室中がパニックになった。
「春山、ちょっと見せてくれ!」「俺にも貸してくれ!」「俺が先だ!」「俺の方が先だろ!」
あやうく殴り合いが始まりそうになる。
やがて春山の手から奪い取られた妹のパンティは教室を一周した。
匂いを嗅ぐ者あり、頬ずりをする者あり、頭からかぶる者あり、履こうとしたが、小さ過ぎて止めた者あり。
春山の手に戻って来たときには、洗濯仕立てだというのに、クシャクシャになっていた。
シワだらけのパンティを、春山はどう言って、お母さんに説明するのだろうか?
そんなことまで心配している生徒はいなかった。
まだ興奮冷めやらぬクラスメートは時間が来たので、ぞろぞろと運動場へ歩いて行く。
「ところで、春山の妹って、かわいいの?」
誰かが言い出す。
みんなで顔を見渡すが、誰も知らなかった。
春山はズングリムックリで、漫画のドカベンに似ていた。
まさか、妹さんも……?
ドカベンが女装した姿をあわてて頭から打ち消す。
本人に訊けばいいのだが、怖くて訊けなかった。
だけど、みんな満足していた。
なんといっても、妹のパンティである。この際、容姿なんかどうでもよかった。
僕も満足していた。
いつも憂鬱な体育の時間に、こんな狂喜乱舞するような日が訪れようとは。
人生は何が起きるか分からない。ああ、生きててよかった。
僕はさすがにパンティを頭からかぶらなかったが、その柔らかい布に少し触れてみた。
そのときの感触を思い出しながら歩く。
これが体育の授業の終わりだったらよかったのになあ。
これから授業があるんだもんなあ。
ふと、祭の後のむなしさを感じた。
パンティ祭の後にはラグビーの授業が待っていた。
僕にパスは全然回って来なかった。でも、それでよかった。
ドッジボールのような丸いボールもキャッチできないのに、アーモンドみたいなラグビーボールがキャッチできるわけないからだ。尖った先端がお腹やお尻に刺さったらどうするのか。それに、変な形だから、転がったとき、どこに飛んで行くか分からない。だいたいの転がる方向が分かるドッジボールでさえ捕まえられないのに、ラグビーボールは無理だ。
結局、ラグビーの授業はいつもルールが分からないまま、ワーワーと叫びながら、みなさんの邪魔にならないように走っているだけだった。
※体育の授業が終わるまで、あと四十回。
その後、体育の時間が来るたびに、春山の体操服はクラスメートによって、強制捜査された。また体操服の間に妹のパンティが挟まってないかの確認である。
当然ながら、二匹目のどじょう、ならぬ二枚目のパンティは見つからず、いつしか妹のパンティ事件も忘れ去られて行った。男子高校生も何かと忙しいのである。
プールの有無で選んだ高校だったから、校風や学力なんかは、よく知らなかった。入学して分かったのだが、柄が悪い奴がたくさんいた。偏差値も低い方だった。つまり、アホ学校だったのだ。体育に生きる男春山も体育以外はアホだった。オール3の僕はいつの間にか、優等生になっていた。
体育の授業はラグビーが終わり、バレーボールに変わった。
※体育の授業が終わるまで、あと三十二回。
一回目のバレーボールの授業で、僕がドン臭いということがすぐにバレて、相手のチームは僕を狙い撃ちして来た。僕に向けてサーブをすると、まともにレシーブができないため、確実に点数が入る。
中学生でも狙われていたが、高校生になっても変わらない。
やがて、僕を目がけて飛んで来るボールを、周りの人たちが手を出して、受け止めてくれるようになった。
何回もやっているうち、面倒に思ったのか、僕のポジションはネット際になった。もちろんスパイクを打つ役ではなく、飛び上がって、相手のボールをブロックする役である。
ブロック専門要員は少しばかり背の高い僕にはピッタリだった。
ネット際だと敵のサーブは飛んで来ないし、味方のトスも飛んで来ない。セッターは僕にトスを上げても無駄だと分かっているからだ。相手のスパイクのタイミングに合わせて、ピョンピョン跳んでいればいい。当たってスパイクを止められれば儲けもの。止められなくて、スパイクを決められても、文句は言われない。僕のブロックなんて、最初からアテにされてないからだ。
みんなの迷惑にならないように、ネットのそばで動いていればいい。それが僕の役目だ。
気の毒なことに、六人制なのに、僕が入るチームは、僕を除いた五人で戦っているようなものだ。
その日、たまたま僕の近くにボールが飛んで来た。いつもなら、周りの人に任せるのだけど、その時はとっさに手が出てしまった。
僕の手に少しだけ触れたボールはそのまま床に転がった。
休み時間、同じチームだった奴からトイレに呼び出された。
そいつは、うちの高校にたくさんいる柄の悪い奴のうちの一人だった。僕よりはるかに背が高く、横幅も広い。ついでに顔面も怖い。
あのとき俺が取るべきボールを、なぜお前が触ったのかと文句を言って来る。
とっさに手が出たのだが、ここでそれを言うと、言い訳と思われて、付け込まれる。
ここは正直に謝っておこう。
許してチョンマゲ! なんて言うと、マジで殴られる。冗談が通じない顔面をしている。
僕はわざと悲痛で神妙で、この世の終わりが来たかのような表情を作る。
「ごめん、ホントごめん」顔の前で手を合わせる。
自分は役者なんだと言い聞かせて、ひたすら謝る人を演じる。
「君のボールを奪い取ってごめん。僕が取らなかったら、君がバシッとスパイクを決めて、点数が入っていたでしょう。君は拍手喝采を浴びて、一躍ヒーローになっていたでしょう。バレー部からお誘いが来ていたかもしれません」
「あのな、お前なあ……」割り込んで来るが、
「ごめん!」相手にしゃべらせない。「マジでごめん! こんな僕と同じチームになって、さぞかし不愉快な思いをなさったでしょう。なぜうちのチームは五人制なんだと思われたでしょう。僕は間違いなく、チームのお荷物でした。この通りです」
自分は昆虫なんだと言い聞かせて、米つきバッタのようにペコペコと頭を下げる。
「この通りです。どうか、お許しを! 寛大なるお情けを!」
「だからな……」
「どうか、寛大なるご慈悲を我に与えたまえ。アーメン」
「ああ、分かったよ。もういいよ。じゃあな」
僕のしつこい謝罪に恐れをなしたようで、ブツブツと何かをつぶやきながら去って行く。
米つきバッタと化していた僕は人間に戻り、奴の背中に向けて、ペロッと舌を出してやった。
ああ、危なかった。最初の勢いでは、ぶん殴られるかもしれないと思った。
殴られなくてよかった。役者は顔が命だ。命あっての物種だ。
慈悲は仏教用語だから、アーメンはおかしいだろなんて、難癖は付けて来ることもなく、柄も顔も頭も悪くてデカい奴は呆れていなくなった。
その後、この男が僕のことを言い触らしたみたいで、僕のドン臭さに対して文句を言って来る人はいなくなった。
おそらく、あいつはヤバいから関わるなとでも言ったのだろう。
まあ、何でもいいや。柄の悪い連中に気に入られようとは思わないから。
※体育の授業が終わるまで、あと二十四回。
そして秋になって、僕は来年用の卓上カレンダーを買った。
来年一月の体育の授業がある月水金に赤丸を付けた。これが最後の赤丸だ。
当然、高校にも秋の運動会があった。
運動会から体育祭へと名前が変わっただけだ。何も楽しくないし、めでたくもないのに、“祭”という文字が付いているのはおかしいと思うのだが、待ち遠しい人の方が多いのだろうから、運動が嫌いな少数派としては、泣き寝入りするしかない。多数決だから仕方がない。これが民主主義だ。
うちは男子校で女子がいないにしても、全校生徒約九百人の前で恥をかくことは変わりなかった。
競技でゴールをすると、プラスチックのフダがもらえる。小学校、中学校と同じシステムが続いている。文科省が決めたのか、教育委員会が決めたのか知らない。
僕はいつも四位以下のため、白いフダしかもらったことがなかったのだが、高校生になって、一位になりそうになった。一位になったのではない。なりそうになったのだ。
それはこういうことだ。
男ばかりの体育祭で二人三脚に参加させられた。
もちろん無理矢理だ。誰も汗臭い男と密着したくないのだろう。僕もそうだ。だけど、不人気な種目は運動神経悪い生徒の僕に割り当てられた。
同じように無理矢理割り当てられた男子と組んで、いつものようにビリをエッチラオッチラと走っていたら、先頭を走っていた組が派手に転倒した。すると、その後ろを走っていた組がぶつかって転倒して、その後の組も次々ともつれて、からまり、結局全員が倒れ込んだのだ。
僕たちの前には、十二体の死体が累々と横たわるような光景が展開された。
こんなことがあるのか!?
ビリを走っていた僕たちは事故に巻き込まれることなく、倒れて、もがいている連中を横目に、余裕で追い抜いて行ったのである。
当然僕は歓喜した。
人生初の一等賞か!
ついに色付きのフダがもらえるのか。それは赤色なのか、青色なのか、黄色なのか。これで僕もヒーローか。女子は見てないけど。男子でもいいので僕を見てくれ。
ところが好事魔多し。
込み上げて来る笑いを押さえながら走っていると、転倒した連中が次々に起き上がり、次々に追い抜き、結局僕たちがビリになって、白フダとなったのである。
こんなことがあるのか!?
倒れたのに、また起き上がって来るか。
お前たちはゾンビか。
これは恥ずかしい。ビリから一位になり、またビリに転落するとは、最初からビリのままゴールするより恥ずかしい。九百人の前で大恥をかいてしまった。二人三脚だから相方が恥を半分持ってくれたが、恥には変わりない。
僕は思わず、天を仰いだ。秋の空は青かった。
そうか、僕たちが遅かったんだ。
ゾンビのせいじゃない。
空の青さに気づくように、自分の愚かさに気づいた。
一等賞という夢ははかなく終わった。
その後は夢を見ることさえ、なくなった。
※体育の授業が終わるまで、あと十八回。
僕は運動神経が鈍い。
運動神経はすべて母親からの遺伝らしい。
では、僕の母の運動神経はどうなのか?
ものすごく鈍い。
どのくらい鈍いかと言うと、自転車に乗れない。
かつては乗れたらしい。
ある日、とんでもなく派手に転び、それがトラウマとなって、乗れなくなったと自己申告してくる。どれだけ派手な転倒だったのかと訊いてみると、自転車にまたがったまま、ガシャンガシャンガシャンと自転車ごと三回転したと言う。
いや、物理的におかしくないか?
まあ、それくらい大きな事故だったのだろう。
トラウマが原因なら、運動神経とは関係ないと思うのだが、自転車に乗れないとは、さすが僕の母親だ。ああ、僕は乗れます。補助輪がなくても乗れます。
父はというと、運動神経はいい。抜群だ。
幼稚園のとき、鉄棒で大車輪ができたという。
幼稚園に大車輪ができるような大きな鉄棒が設置されてるのか疑問だが。
ちゃんとした指導者についていれば、ゆくゆくはオリンピックに出られたと、これも自己申告なのだが、残念なことに、父の運動神経は僕に遺伝しなかった。だから大車輪はできない。逆上がりができないのだから、大車輪はできないだろう。
よくテレビで世界のオモシロ映像をやっている。
調子に乗って、ドジをしたなら笑えるが、普通に行動していて、何かにぶつかったり、何かを落としたり、躓いたりする映像は笑えない。
それは僕の日常だからだ。
家のトイレのドアにはよくぶつかるし、よく物を落とすし、歩いていて、何もないところで、いきなり躓く。躓くならまだしも、ときにはそのまま転倒することもある。誰にも見られてなければいいが、そんなときに限って、誰かが凝視している。しかも複数人だ。おせっかいなおばあちゃんが大丈夫かい? と言って駆け寄って来る。
年老いたおばちゃんに介抱される若い僕。どう見ても立場は逆だ。
単に運が悪いのか? いや、運命のせいにしてはいけない。便所のドアに頭をぶつけることが運命として決定してるのか。ならば僕の運命はずいぶんセコいじゃないか。
これらは運ではない。運動神経のなせるワザである。
※体育の授業が終わるまで、あと九回。
ついに残りが一桁になった。
あと一桁になったとき、どんな気分でいるのだろうかと思った。
まだ一桁もあるのかと憂鬱な気分になるのか、もう一桁しかないのかと、笑いが起きそうになるのか。
実際は、なんだこんなものかと、何の感慨もわかず、ただカレンダーを見つめるだけだった。いつか一桁になる日が来ることは分かっていたので、こんなものかもしれない。これが予想外に突然起きた事柄なら感激もしただろうけど。
ところが、いつものようにお風呂へ入り、湯船に浸かっていると、突然笑いが込み上げて来た。
あと九回だって!
ハハハハハ。よくやった。痛みに耐えてよくがんばった。
ハハハハハ。数え始めた頃は残り六十回。それが今や九回。
ハハハハハ。笑うしかしないだろう。
お風呂場に笑い声が響き渡る。
「何やってるの?」
「あっ、オカン!」
母親が心配して、覗き込んでいた。
「いや、別に。お湯が鼻に入って、むせちゃって。ハハハ」
「だからって、いかれたように大声で笑うことはないでしょ!」
「はああ、母上様のおっしゃる通りでございます」
僕は股間を隠しながら謝罪する。
お風呂に入ってリラックスしたとたん、感情が高ぶってきた。残り一桁がこんなに感動したものになるとは、自分でも驚いた。それだけがんばって来たという証だろう。
あと九回、がんばって乗り越えよう。
その日は雨だったため、体育の授業が他のクラスとも重なり、体育館は混んでいた。
たくさんの生徒がいつもよりテンションを上げながら、いろいろな種目を行っている。最近体育館がリニューアルされたため、みんなうれしいのだ。まだ塗料のニオイが漂っている。
僕はというと、確かにキレイなのはいいけど、やる事は同じ体育の授業なのだから、特にテンションは変わらず、つまり、いつものように低いままだ。
しかし、リニューアルに合わせて体操用のマットが新しくなったらしく、それはうれしい。男子の汗が染み込んだあのニオイは臭かった。その臭さはプールの消毒剤に続くワースト2であった。さらに、湿気を含んでいるためか、いつもジットリしていて、持ち上げるととても重かった。使ったら、そのまま畳むか丸めるかして、倉庫に放り込んでいたからだ。使うたびにファブリーズでも振りかけていれば違っていたのに、男子校には、先生も含めて、そんな小まめで清潔な人間はいない。
その日、最初に僕はバスケットをやらされた。
しかし、ボールは全然飛んで来ない。僕にパスをしても、無駄だとバレているからだ。ドリブルもシュートもできない。その前に飛んで来たパスを受け取ることができない。結局、僕のチームは僕以外の四人でパス回しをし、僕の存在を忘れて、プレーをしている。僕以外の五人でプレーしていたバレーボールと同じだ。
そんな光景を見兼ねたのか、先生にバドミントンをやるように言われた。
だけど、何回ラケットを振っても当たらない。ラケットを取り変えても、シャトルを取り変えても、コートを変えても、相手が変わっても当たらない。
そのうち誰も相手をしてくれなくなった。
仕方なく、一人でシャトルをラケットで跳ね上げて遊んでいた。手で持っているシャトルをラケットで跳ね上げるのだから、これは僕でも当てられる。
値段の高いシャトルがあったので、ラケットで打ち上げてみると、普通のシャトルよりもよく飛んで行く。
おお、さすが高級品はよく跳ねるなあ。
調子に乗って、どこまで上がるのか試しているうち、シャトルが天井に引っかかって、落ちて来なくなった。
天井付近を水平に渡してある鉄骨の梁の上に乗ってしまったのだ。
先生には正直に謝った。謝ったけど怒られた。競技をしていたわけではなく、一人で遊んでいて、なくしてしまったからだ。そりゃ、怒られるわ。
値段は知らないけど、よりによって高級シャトルとはツイテない。脚立に乗って取れる高さじゃないし、下からは見えないので何かをぶつけて落とすこともできない。高級品らしいけど、諦めるしかなかった。
またもや呆れられたのか、今度は先生から卓球をやるように言われた。
だけど、バドミントンのラケットに当たらないのに、もっと小さい卓球のラケットに当たるわけない。しかも、シャトルよりピンポン玉の方が小さい。
ラケットをビュンビュン振っているうち、足がよろけて、上からボールを叩きつけてしまった。
あれ、ピンポン玉が消えた。
相手も不思議そうに辺りを探している。
恐る恐るラケットをめくってみると、ピンポン玉がペシャンコになっていた。ラケットに体重がかかっていたからだ。
ピンポン玉は少しくらいヘコんでも、お湯に浸すと膨らんでくるらしいけど、これは無理だ。完全にプレスされて、原形をとどめていない。
まあ、バドミントンと違って、安いピンポン玉だからいいだろう。
そう思っていたが、先生からは激しく叱咤された。
叱咤だけである。その後に激励という文字は付かない。四字熟語じゃなく二字熟語だ。ただ怒られただけである。シャトルに続いて、ピンポン玉も破壊したからである。
安物でも学校の備品は大切にしなければならないことを学んだ。
そしてついに、僕の人生における体育の授業がすべて終わった。
果てしなく長かった体育はこれで完結した。
人生における嫌なこと第1位から、ついに解放された。
頭の中を覆っていた黒雲はすべて過ぎ去り、美しい青空が見えてきた。
僕は家に帰ると、さっそくカレンダーの最後の赤丸を太い線でグイグイと消した。
五十九回から始めたカウントダウンはここに終結を迎えた。
そして、カレンダーをこれでもかとばかりに、ハサミとカッターと自力で、バラバラに粉砕して、部屋中にばらまいてやった。
嫌な思い出がたくさん詰まったカレンダーを取っておくわけない。消された赤丸を見るだけでも辛い思い出がよみがえる。プールの消毒剤のニオイや体操マットの臭さや先生の怒鳴り声を思い出して、また吐き気が襲って来る。
床にまき散らしたカレンダーの紙片をすくいあげて、天井に向けて放り投げる。
それーっ!
そして、落ちて来る紙片を体中に浴びる。
ヒャッホー!
何度もすくい上げて、何度も放り投げて、何度も体に浴びる。
狭い部屋に紙吹雪が舞う。その中心に僕は演歌歌手のように立っている。
悪党が不正に入手したお札をバラまいているようにも見える。
こっちはただの紙切れだけど。
散らばったカレンダーの破片をエイッ、エイッと踏み付けながら、感慨に浸る。
いやあ、よくがんばったなあ。我ながら素晴らしいなあ。この達成感はサイコーだな。
一人で恥をかくか、みんなに迷惑をかけてばかりの体育の授業だったけど、今となってはいい思い出だ。これで二度と体育の授業を受けることはない。なんて幸せなんだ。ささやかな幸せだけど、こんな小さな幸せが少しずつ溜まっていけば、そのうちデカくなるだろう。
コンビニ袋から、さっき買ったばかりのプリンを二個取り出した。
がんばって体育の授業を乗り越えた記念のささやかな一人パーティだ。
プリン二個はささやか過ぎるが、毎月のお小遣いを考えると、これが限界だった。
うーん、今日のプリンの味は格別だなあ。いつもより三倍おいしい。しかも二個も食べられるなんて、幸せだなあ。
「このプリンの味は二度と忘れないだろうなあ」
スプーンを咥えたままつぶやく。
やがて、一人プリンパーティは終わった。
「さて、掃除機でもかけるとするか」
紙くずだらけの部屋を母親に見られてはマズい。
肩に乗っていたカレンダーの紙片を手で払った。
そして僕は社会人になった。
体育の授業の呪縛から解放された。
これで悩むことはない。恥をかくこともない。チームメートに迷惑をかけることもない。
目の前には大海原が広がっている。波は穏やかで、ヨットは新品だ。カモメも声援を送ってくれている。あとは錨を上げて、航海に出るだけだ。そんな気分だ。
「みなさん、おはようございます」
部長の声が聞こえた。森なのか林なのか分からない森林部長だ。
今日の朝礼が始まった。五十人ほどが整列している。
僕は妄想をやめて、背筋を伸ばす。
僕の両脇に立つ二人の新入社員も姿勢を整えた。
「いよいよ五月です。毎年恒例の行事がやって来ます」
恒例の行事?
社員旅行かな。どこに行くのかな。
ハワイならいいなあ。アロハオエ~。
「社内運動会です」
うそだろ!?
やっと苦労して体育の授業を乗り越えたと思ったのに、社会人になってもまだ体育をしなければならないのか。
いったいどこまで続くんだ。あの五十九回のカウントダウンは何だったんだよ。卓上カレンダーをバラバラにして、掃除機かけてキレイにしたのは何だったんだ。一人プリンパーティは何だったんだ。奮発して、プリンは二個だったんだぞ。
小学校で運動会。中学高校で体育祭。社会人になったらまた運動会。
元に戻ってしまったではないか。
「はい、そこの三人」部長がこっちを見た。
わっ、僕たちだ。
あらためて背筋を伸ばす。
「三人は我が社に入って来た久しぶりの新入社員です。その若さを十分に発揮して、運動会を盛り上げていただきたい。大いに期待してますよ」
ここ数年は業界に不況が続いていたため、しばらくは新卒の採用がなく、景気が上向いて来た今年から、また再開されたのだ。募集人数は三人だった。
そこへまんまと就職したのが僕だった。
これじゃ、飛んで火にいる夏の虫じゃないか。
ネギを背負ってきた鴨じゃないか。
「新人の三人はとりあえず、一人で五種目に出てもらうことになりました」
一人で五種目も!?
「若いから五種目くらい平気でしょう」
なんで勝手に決めるんだよ。
「運動会も久しぶりなので、ドームを貸し切りにしました」
ドームで大恥をかく?
「運動会は五千人の社員が楽しみにしています」
五千人の前で!?
「がんばってくれたまえ」
運動会がよみがえった。お前もゾンビか。
僕が定年退職するまで毎年続くのか?
目の前がスーッと暗くなった。
呼吸が荒くなって来た。
冷汗が出てきた。
しだいに体が傾いて行く。
床にドサッと倒れ込んだ。
あまりのショックで貧血になったのだ。
ショックが貧血を引き起こすのか、医学的に知らないが、僕が倒れたのは確かだ。
「おい、大丈夫か。高いのか安いのか分からない高安」隣で僕の名前を呼んでいる。
「ああ、川池か」目の前がスーッと明るくなった。
高校で別々になって腐れ縁が切れたと思ったら、卒業後は偶然にも同じ会社に就職していたのだ。新入社員は僕と川池ともう一人の三人だ。
「高安君、大丈夫かね」部長が近づいて来る。
「はい、大丈夫です」あわてて立ち上がるが、川池が余計なことを言う。
「運動会でがんばろうと気合を入れたら、貧血を起こしたみたいです」
気合を入れたら貧血を起こすのか、医学的に知らないが、僕が倒れたのは確かだ。
「ほう、気合かね。そいつは頼もしい」森林部長はうれしそうだ。「高安君には、百メートル走と、二百メートル走と、四百メートル走と、千五百メートル走と、リレーに出てもらうぞ」
何だって! そんなに走らされるの?
最後のリレーって何?
いつも白フダの僕がリレーだって!?
「高安、がんばれよ。デへへ」川池もうれしそうにニヤケている。
「ああ、川池君」部長が呼ぶ。「君も高安君と同じ五種目に出てもらうから、一緒にがんばりなさい。リレーも頼んだよ」
「はい、二人で力を合わせて困難に立ち向かって行きます!」調子がいい。
アホな川池との腐れ縁は続く。
だけど確かに運動会は僕にとって“困難”なことだった。
全社員がどういうチーム編成になるのか知らないが、僕と川池が同じチームになってリレーをやったら、ビリに決まっている。足の遅い人と足の遅い人を足しても、足の早い人にならない。
「それと高安君には選手宣誓も頼むよ」部長が微笑みかける。
「運動会で選手宣誓ですか!」声が裏返る。
選手宣誓なんて、チームの主将がやるのものじゃないのか。
「嫌かね?」目付きが鋭くなる。
「いいえ、ドームで選手宣誓をするのが夢でした。喜んで務めさせていただきます」
心にもないことを、心苦しく言う。
「高安、何だったら一緒に宣誓しようか?」川池が勝手に提案してくる。
「いや、いい。一人でやる」冷たく断る。
男女ペアの選手宣誓は見たことがあるが、男二人で仲良くやる選手宣誓なんか聞いたこともない。入社早々、変なウワサを立てられたらイヤだ。ノッポとチビだから、そういうカップルに見えなくもない。
「ああ、それとね、高安君」
まだあるのか?
「国歌斉唱も頼むよ」
「運動会で国歌を歌うのですか?」
「もちろんだよ」
「五千人を前にしてですか?」
「もちろんだよ」
「普段カラオケにも行かない僕がですか?」
「それは知らんよ。君は姿勢がよくないから、シャキッとして、歌ってくださいよ」
僕は猫背だった。確かに、国歌はシャキッとして歌うべきだ。
「高安、何だったら一緒に歌おうか?」川池がまた提案してくる。
「いや、いい。一人で歌う」また冷たく断る。
君が代をデュエットするなんて不謹慎だ。
それに川池のことだから、勝手に歌詞を変えてくるかもしれない。
やがて、社内運動会の話題は終わり、森林部長は新事業についての話を始めた。
だけど、なかなか僕の頭の中には入って来ない。
さっき国歌を一人で歌うと言ってしまったが、できれば人前では歌いたくない。
小学生のとき、音楽の授業で一人ずつ前に出て、歌を歌うことになった。先生のピアノの伴奏に合わせて歌うのは教科書に載っていた“おお牧場はみどり”だった。
おお牧場はみどり~よくしげったものだ、ホイ!
僕はそのとき、緊張のあまり、最後の“ホイ”を言うのを忘れた。
先生に「ホイは?」と催促され、五秒後に「ホイ!」と叫んだのである。
最後のホイを歌わなかったのは僕だけであり、クラス中が爆笑した。
それからしばらく、僕のあだ名はホイになった。教室にいても、廊下を歩いていても、トイレに入っていても、ホイと呼び捨てにして呼ばれた。授業中、先生からもホイ、答えてみろと言われた。女子からはホイ君と呼ばれて、僕を見て、クスクス笑われた。
おお牧場はみどり事件でのホイがトラウマとなり、僕は人前で歌うのが嫌いになったのだ。
こうして、運動会の競技とは関係ないところで、僕の悩みがまた増えた。
お昼になって、社員食堂へ向かった。
いつもはおいしい社食もイマイチの味だった。
まさか社会人になっても運動会があるなんて、聞いてなかった。
こんなことなら、運動会があるかどうかを事前にリサーチをしてから、就職する会社を決めればよかった。高校はこのリサーチ作戦で、三年間プールの授業から解放されたのだ。
社会人の運動会は全社員五千人の大観衆が見つめるドーム球場でやるらしい。おそらく僕が選手宣誓をしている姿も、国歌斉唱している姿も、五種目の競技で恥をかいている姿も大型ビジョンに映し出されることだろう。
学生時代の運動会とレベルが違う。随分とお金がかかっているし、よりパワーアップしているではないか。こんなことを僕は望んでいない。
ああ、箸が進まない。スプーンもフォークも進まない。食事が喉を通らない。お茶も飲めない。
そんな僕の気も知らず、能天気な川池が訊いて来た。
「高校の体育の授業はどうだった?」
高校は別々だったから、聞きたいらしい。
カレーのスプーンを止めて、ニヤニヤしている。
あーあ、こいつは全然変わらないなあ。
いいよなあ、何の悩みもなく生きてるもんなあ。
「体育の授業か……」
「そうだよ。楽しかった?」
楽しいわけない。思い出したくもないことばかりだ。
たかが体育だけど、辛くて、苦しくて、死にたいほどだった。
周りの人たちはみんな体育ができるので、余計に耐えられなかった。
だけど、よく考えてみたら、社内運動会は一年に一回しかない。マラソン大会も水泳大会もなければ球技大会もない。週に三度の体育の授業もない。
こりゃ、天国じゃないか。まだ生きてるけど。
あの辛かった体育の授業を乗り越えて来た僕にとって、年に一度の運動会なんて大したことではない。体育の時間に比べると屁みたいなものだ。プップップーのプーだ。
僕がこんな気楽に考えることができるなんて、目の前で福神漬けをポリポリ齧っている川池の能天気が空気感染したに違いない。
「いいよ、話してあげるよ」
僕の大嫌いな体育の話を。
どれだけヒドい目に遭って来たのかを話そうじゃないか。
きっと川池はバカ笑いしながら聞いてくれるだろう。
僕はヤケクソになって、唐揚げにかぶりついた――熱っ!
川池に高校時代の体育の授業について話してあげた。
バレーボールでミスをして、殴られそうになったこと。二人三脚で大恥をかいたこと。バドミントンのシャトルをなくし、卓球のピンポン玉をペシャンコにして、先生に怒られたことなどを熱心に話した。
そして最後に、体育の授業の予定を書いていたカレンダーをバラバラにして部屋中にまき散らしたことを、昼休みの時間が終わるギリギリまで食堂に居座り、話し続けた。
川池は一つ一つのエピソードをウンウンと頷きながら聞いてくれた。
そして僕は、あれだけ嫌だった体育の話を笑いながらしている自分に気づいた。
(了)
右京之介
机の奥から卓上カレンダーを取り出した。
縦十五センチ、横二十センチの小さなカレンダーはその名の通り、卓上に置くものだが、あえて人目に付かないよう、机の引き出しの奥の方に仕舞ってある。人目といっても、見られるとしたら、僕の母親しかいないのだけど。
カレンダーにはエロい写真が載っているわけではなく、大量殺人計画や世界征服の日といった物騒なことが予定されているわけでもなく、僕がサインペンで付けた赤い丸印が書かれているだけだった。
何も文字が書いてないのだから、誰が見ても、丸印が何を意味しているのか分からないだろう。
だけど見られたくない。たとえ、その人が自分の母親であってもだ。
その赤丸は一週間に三つ印されている。それが来年の一月まで続く予定だ。
秋にならないと来年用の卓上カレンダーは発売されないから、今のところ予定なんだ。
だけど来年の二月以降は丸印を書かない。二月からは自由登校になるからだ。
学校に行っても、行かなくてもいい。二月はそんな月だ。
受験や受験勉強が忙しくて、高校に行ってるヒマがなくなる。今まで通っていた高校より、これから通う大学の事情を優先する。日々の勉強より受験の方が大事。
なんだかおかしい気もするが、昔から高校三年生の三学期の授業はそんなシステムになっている。諸先輩方が築き上げて来たシステムだから、みんな不思議に思わないで、素直に従っている。だから僕も素直に従う。
金曜日が終わった。
毎週のことだけど、終わってみたら、五日間はあっという間だ。
僕は家に帰って来るなり、机の引き出しを開けて、卓上カレンダーを取り出すと、第二金曜日に付けてある赤丸を、黒のサインペンで×を付けて消した。物足らなかったので、力を込めて、ギコギコと何度も消した。細字用のペンなのに、×の線は太くなった。いかにも、恨みを込めてみましたという下品な線になった。
ざまみろ赤丸の野郎、完全に消し去ってやったぜ。お前には下品が似合うぜ。
毎週月曜日と水曜日と金曜日に付けてある、残りの赤丸を数えてみる。
祝日に当たる日が三個あったから、それを除くと、あと五十九個あった。気の遠くなるような数字だ。
つまり、五十九個の赤丸が襲って来るんだ。
つまり、五十九回も戦わなければならないんだ。
そりゃ、気も遠くなる。
これがあと一桁になったとき、どんな気分でいるのだろうか。
まだ一桁もあるのかと憂鬱な気分になるのか。
もう一桁しかないのかと、笑いが起きそうになるのか。
しかし、それは四ヶ月も先の話だ。今から妄想に浸っている場合じゃない。
ともあれ、僕はあと五十九回も体育の授業に出なければならないという泣きたくなるような現実に立ち向かって行くしかないのだ。
でも泣くわけにはいかない。サボるという選択肢もあるけど、一度逃げてしまえば、いつか何かの困難に直面したとき、また逃げてしまうだろう。逃げ癖というやつだ。あと五十九回で終わりだ。絶対乗り切ってやる。
体育の授業が一生続くことはない。いつか終わりが来る。
止まない雨はないとか、明けない夜はないとか、昇らない太陽はないとか、背中が痒くなるような格言があるが、まあそんな感じだ。
こうして、今週のカウントダウンを終えた。
次に赤丸を消すのは来週の月曜日の予定だった。
その日もちゃんと赤丸を×で消せますように。
世界が何者かに征服されませんように。
※体育の授業が終わるまで、あと五十九回。
生まれつき体が弱かった僕は小学生の頃、毎朝父と弟と一緒に、家の庭で乾布摩擦をしていた。
乾布摩擦というのは、乾いたタオルで体をゴシゴシ擦るという、当時流行っていた健康法だ。今の時代、やってる人がいるのか分からないが、少なくともテレビで紹介されているのは見たことがないし、雑誌で特集が組まれているのも見たことはない。
だから、あまり効果はないのかもしれない。だけど、その頃は効果を信じて、真剣にやっていたのだ。変な呼吸法や怪しい漢方薬や気味悪い祈祷など、何を試しても、体が丈夫にならない僕のために、父親がどこからか聞いてきた有り難い健康法だったからだ。
朝が早くて眠たいけど、タオルで体中を擦るだけだから、大したことはない。
一度、除霊なるものを受けたことがある。自称霊能者のおばちゃんに巨大な数珠で全身を滅多打ちにされた。僕はただ亀のように丸まって、ひたすら耐えていた。あの時の痛みに比べたら、乾布摩擦なんか屁みたいなものだ。それに、あの除霊は効かなかった。その夜、強烈な喘息の発作に襲われたからだ。
乾布摩擦という呼び名が面白かった僕と弟は乾布摩擦の唄を作って、大声で歌いながら、乾いたタオルで体をゴシゴシ擦っていた。
♪カンプイ、カンプイ、カンプイまさつ~。
カンプよりもカンプイの方が面白いと気づいたので、カンプイだ。
♪朝も早くからカンプイ、カンプイ、カンプイまさつ~。
♪擦り過ぎると肌が赤くなるカンプイ、カンプイ、カンプイまさつ~。
体が丈夫な弟はやらなくてもいいのだが、とばっちりでやらされていた。
こんなことをやる時間があったら、もって寝ていたい。そう思っていたに違いない。だけど文句も言わずに、近所にも聞こえるほどの大声で歌って、これでもかと力を込めて擦っていた。
♪今日も元気にカンプイ、カンプイ、カンプイまさつ~。
父と僕と弟は庭で横一列になって、朝のひとときは近所迷惑もかえりみず、大声を張り上げて、乾布摩擦をやっていた。
その効果はどうだったのか。
実はよく分からない。しだいに病気にかかる回数は減っていった。それが乾布摩擦のお陰なのか、成長するとともに付いた体力のお陰なのか、分からなかったからだ。
病弱だったため、ヒョロヒョロの体だったけど、僕は小学生時代も懸命に生きていた。
小学校の成績は5段階評価でオール3だった。超苦手な体育も3だった。病欠はよくしていたが、ズル休みはしないで、ちゃんと授業に出ていたからだろう。
体育の時間になると、頭やお腹が痛いと言って見学している人たちがいた。
きっとあいつらが、1とか2なんだ。
あいつらのお陰で3をもらえるのだから、感謝しなければいけない。
だけど、あいつらは運動神経がいいはずだ。なぜサボるのか。もったいない話だ。
人がヘロヘロになって、授業に参加している姿を見学するのは面白いのか?
やっぱり、面白いのだろうな。見物料はタダだもんなあ。
小学生の定番であるドッヂボールはよく最後まで残った。
ずっと逃げ回っていたからだ。逃げていては勝てない。飛んで来たボールをキャッチし、相手に投げ返して、当てなければ勝てない。そうしないと、よくても時間切れの引き分けだ。
勝ち負けを決めるための試合だから、飛んで来たボールを拾わなければいけない。
「胸のところでガシッと掴め!」
ヤジだかアドバイスだか分からない声が飛んで来るが、そんなにうまく胸のところにボールは来てくれないし、来たとしても掴めるわけない。ましてや、自分からボールに向かって行けるはずはない。あんな高速で飛んで来るボールに正面から立ち向かえるなんて、狂気の沙汰だ。当たったら痛いじゃないか。ドッヂボールで死んだ子供はいないだろうけど、ケガした子供はいるに違いない。
必然的に攻撃は他の人に任せて、僕はひたすら逃げまくることになる。
結局、最後の一人になって、あちこちからビュンビュンボールが飛んで来て、避け切れずに当たってしまう。
しかも最後まで残っていたのが気に喰わないのか、敵はラスト一球を凄い形相で思いっ切り投げてくる。全員が見つめる中、手か足か背中に、ものすごく痛い一発を喰らい、ゲームは終了する。
何とか、顔とお腹は守ることができた。攻撃に参加しなかったけど、最後まで残ったのだから、がんばったことにする。毎回こんな感じだ。
そもそも僕が全然攻撃をしないで、逃げ回っていても、いつも誰も文句は言わない。
僕の運動神経はそんなものだと、クラス中のみんなが知っているからだ。あまりチョロチョロされると、返って邪魔だとでも思っているのだろう。その通りなのだから、僕からも反論はできない。
団体競技になると、こうやって、みんなに気を使わしてしまうから、体育の授業は嫌いなんだ。迷惑をかけてしまうから、逃げ出したくなるんだ。
みんな、毎度毎度のことながら、ホント申し訳ないです。
こうやって心の中で謝っている僕は律儀な男だ。
個人競技なら一人で恥をかいていればいい。
それはいつものことで、慣れっこにはなってないけど、他人に迷惑をかけない分、気が楽だ。必然的に、ドッヂボールを始めとする球技は嫌いだ。サッカーのリフティングは一人でやるけど、左右の足で一回ずつ蹴って終わりだ。競技とは言えない。
ドッヂボールを終えたと思ったら、時間が余ったと言って、跳び箱をやらされた。
体育館の隅にいろいろな高さの跳び箱が五つ並べてある。時間が余ったからではなく、最初から準備してあったのだ。
だけど、跳び箱なら一安心だ。
個人競技だからだ。誰にも迷惑はかからない。
「よーし、みんな。好きな跳び箱を選んで跳べ!」
体育教師の畑田が体育館中に響くような大声で叫んだ。
畑なのか田んぼなのか分からない畑田は常に声が大きい。ちょっと大きめの声でも体育館の中では響くので、ちゃんとみんなに聞こえる。そんなに怒鳴らなくてもいいと思う。
生徒たちに気合を入れるためなのか、集中力を増すためのものなのか、僕はそもそもデカい声が嫌いだし、デカい声を出す人も嫌いだ。猫もデカい声や音が嫌いらしい。だから僕は人間よりも猫にモテる。
跳び箱は一番低い四段から一番高い八段まで並べてあった。
大半の連中は八段の跳び箱に向かう。
自信があるのか、カッコつけようとしているのか、目立とうとしているのか分からないけど、僕を含めた運動に自信がない少数派の三人がポツンと残された。
「そこの三人、早く行動しろ!」
畑田先生がまたデカい声で叫んだ。
「講堂で行動しろだって」小さな川池君が小さな声で茶化す。「オヤジギャグじゃん」
川なのか池なのか分からない川池君とはこの先、中学も一緒に通うことになる。
「俺は低い跳び箱でいいや」デカい体の町村君が言った。
町なのか村なのか分からない町村君はクラスで一番体が大きく、小学生にして、“お父ちゃん”というニックネームで呼ばれていた。
僕たち三人は当然のように、一番低い四段の跳び箱に向かった。
そして、四段は僕でも簡単に跳べた。
「こりゃ、いい。へへへ、楽チン、楽チン」
小さな川池君も大きな町村君もちゃんと跳べている。
文部科学省の決まりで、跳び箱の高さは四段までと決めてくれないかなあ。だったら跳び箱の時間は楽しくなるのになあ。
調子に乗っていると、また畑田先生の雄叫びが聞こえた。
「よーし、先生がよろしいと言うまで跳び続けるんだ」
マジかよ。
僕たちは三人で四段の跳び箱を跳んでいる。
残りの二十人くらいは八段を跳んでいる。
僕たちはすぐに順番が回って来る。
向こうはなかなか回って来ない。
これは不公平だ。
だけど、向こうに並んでも跳べるはずはなく、せっせと四段を跳び続けるしかない。
八段の人たちも余裕が出て来たのか、跳び箱の上で一回転したり、側転したりするつわものまで現れている。なぜあんなことができるのか。同じ人間なのに不思議だ。
クタクタのヘロヘロになったところで、本日最後の雄叫びが聞こえた。
「よーし、みんな、よろしい。こっちに集合!」手を叩いて呼び寄せる。
みんなはゾロゾロと畑田先生の周りに集まる。
ドッヂボールは痛かったけど、四段の跳び箱は楽チンだった。
いつもこんな体育の時間だったら、少しは気が楽なんだけどなあ。
「みんなの跳び箱を見せてもらった」先生が普通の声で言う。「これから悪い例を発表する」
えっ!?
しっかりチェックされていたのかと思う間もなく、僕の名前が呼ばれた。
「それと川池、町村。以上の三人だ」
四段の跳び箱で跳んでいた三人だった。
今日はちょっとマシな体育の授業だったと喜んでいたら、最後に恥をかかされた。
だが、畑田先生はそれ以上、何も言わなかった。
どこが悪かったのか、自分たちで考えろということだろう。
おそらく高い跳び箱にチャレンジしないで、楽していたからだろう。
僕と川池君と町村君は顔を見合わせて、デへへと笑った。
ノッポとチビとデブの組み合わせだ。
だけど僕たちがこんなことで反省するわけない。
次も四段で跳んでやるんだ。
跳んでほしくないなら、四段の跳び箱なんか用意しなければいいのだ。
かと言って、選択肢が八段の跳び箱しかなかったら、困るんだけど。
鉄棒も跳び箱と同じく、個人競技だ。他人に迷惑がかからないから気楽でいい。
クラスメートの前で恥をかくなんて、僕にとっては、いつものことだから、屁みたいなものだ。逆に体育の授業で褒められたら怖い。真夏なのに雪が降ったり、真冬に蝉が鳴いたりするだろう。
しかし、ときとして鉄棒が団体競技に変わることがある。
気楽に構えていたら、まさかの展開になった。
「よーし、出席番号順に三人ずつのチームを作れ!」
畑田先生が三台の鉄棒を前にして、だだっ広い運動場にお似合いの大きな声で叫んだ。
まさかのチーム編成だ。
すぐに七つのチームができた。
「今から三人で同時に逆上がりをしてもらう。各自逆上がりをやり終えたら、足を地面に着けずに、他のメンバーが終わるまで、そのまま鉄棒に掴まっておくこと。三人全員が成功したら、着地してよし!」
無理だ。
生まれてこの方、逆上がりができたことはない。将来に渡って、できないと思う。一生できないと予想されるのに、ここでいきなりできるわけない。奇跡はそう簡単に起きない。
先生は何を考えているんだ。僕のことを考えてないのか。ないだろうなあ。
僕は同じチームになった他の二人を見る。二人とも運動神経はまあまあ。逆上がりは普通にできるレベルだ。そう、逆上がりは普通にできる競技なんだ。僕が普通じゃないんだ。
僕を含めた三人は鉄棒を掴んで構えると、先生の合図と同時に足を蹴り上げた。
二人はクルリと回った。僕だけ残された。
「もっと体を鉄棒に近づけて、蹴り上げろ!」
ジタバタしている僕に畑田先生のアドバイスが飛んで来る。
近づけても体は上がらないんだけど。
アドバイスが間違ってるんじゃないのか。
「おーい、早くしてくれー」
すでに逆上がりをやり終えて、鉄棒に掴まって、踏ん張っている二人から悲鳴が飛んで来る。
「腕がもたないよー」
二人が睨みつけて来る。他の生徒たちはニヤニヤ笑っている。
分かってるよ。分かってるんだけど、奇跡が起きないんだよ。
「やーっ!」「とぉーっ!」
カンプイ摩擦で鍛えたこの根性を見よ!
「おりゃーっ!」「うらーっ!」
だけど掛け声を変えても、体は上がらない。
これは掛け声の問題じゃない。誰も掛け声を発しないで、逆上がりを成功させていたからだ。じゃあ、何が問題かというと、僕の運動神経なんだ。
昨日まで運動神経が鈍かったのに、今日になって、みんなと同じくらい鋭くなるわけがない。現実はこんなものだ。
「はい、時間切れだ」無情にもタイムアウトだった。
これ以上やってもできないのは目に見えている。だんだん腕にも足にも力が入らなくなって、体が上がらなくなっていたからだ。
二人にすいませんと頭を下げる。
いいよと言ってくれたが、他の生徒は笑ったままだ。
僕と同じチームになったのが二人の運の尽き。ホント、申し訳ない。
こうして迷惑をかけてしまう。だから体育の授業は嫌いだ。絶対に嫌いだ。蛇と同じくらい嫌いだ。
川池君も町村君も逆上がりができない組だった。他の人に迷惑をかけていた。
体育の授業が終わって、できなかった三人組がのそのそと教室に戻る。
はあ。
ため息しか出て来ない。
僕と町村君はうなだれて歩く。
まさか、個人競技の逆上がりにも団体競技があったなんて、体育の神様の裏切りじゃないか。
「終わったからいいじゃん」川池君はいつものように朗らかだった。「気にしない、気にしない」一休さんのように言う。
本当に川池君は何事も気にしない。能天気が服を着て歩いているようなものだ。
先週行われた八十メートルハードル走では、立ててあった九台のハードルを全部倒して、ビリでゴールした。
「川池、何をやってるんだ!」当然先生に怒られた。
どう見ても、わざと倒して行ったからだ。
「一台倒すと、一ポイントもらえると思ったもので。デへへ」
川池君はポリポリと頭を掻いて謝る。
謝るとき、本当に頭を掻く人を初めて見た。
「なんで、ハードル走でポイ活するんだ!」
激しく怒られた川池君を教室に戻る途中で慰めてあげたが、
「気にしない、気にしない」
そのときも同じセリフを言って笑っていた。
気にするか、しないかは川池君の問題なんだけど、本人がそう言うのだから、僕も気にしないことにした。そもそも川池君がハードル台を倒さずに飛び越えられるのかというと、それは無理だろう。だからと言って、わざと倒すことはない。畑田先生に対するささやかな抵抗なのか、本人はヘラヘラ笑ってるだけで、訊いたところで教えてくれない。
川池君の能天気ぶりには、ホント救われる。
僕も見習わないといけないのか、そのあたりは微妙だ。
僕は運動会のときも、体育の神様によく裏切られた。
七クラスあったので、百メートル走は七人ずつ走った。
背の低い人から順番に走る。僕はヒョロヒョロだったけど、身長だけは平均より高かったから、いつも真ん中から少し後の列に並んでいた。
前の方には小さい川池君の姿が見える。周りの人たちに何か話し掛けて笑わせている。
後ろの方には大きい町村君がいる。神妙な顔をして、順番を待っている。
ピストルの合図とともに、前から順番に次々と走り出す。それまでは座って待つ。しゃがんだまま少しずつ前へ移動して行く。
この待っている時間が嫌なんだ。結果が分かっていても、心臓はバクバクして来るし、吐き気はするし、トイレにも行きたくなる。
そして、だんだんとスタート地点に近づいて行く。
ああ、嫌なことは早く済ませたい。さっさと楽になりたい。
気を紛らわすために、隣の人に話し掛ける。
「走るのは早い方?」「いや全然遅いよ」
反対側に座ってる人にも話し掛ける。
「走るのは早い方?」「めちゃめちゃ遅いよ」
僕はそれで少し安心する。
他の四人は早いとしても、僕を含めたこの三人は遅いらしい。だったら、三人でのんびりゴールすればいいや。できれば手をつないで、笑いながらゴールしたいな。
だけど、この妄想は大きく裏切られることになる。
みんな、むちゃくちゃ早いんだ。いや、僕が遅いのか。
毎年の運動会はこんな感じだ。裏切りに次ぐ、裏切りだ。
そこで、あるとき僕は一計を案じた。
走ってるとき、後ろからライオンに追われていると想像すれば、早くなるのではないか。
今まさに喰われようとしている。恐怖を感じながら走れば、早くなるのではないか。
――いや、ならなかった。
僕は走りながら思った。
ライオンが小学校の運動場を走ってるわけない。そのライオンはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。しかもピストルの合図とともに走り出し、白線からはみ出さないで、僕だけを狙って、真っ直ぐ走るわけないという現実に戻されたからだ。
もちろん、ライオンからチータやジャガーやヒョウに変えても、結果は同じだろう。
想像力が貧相だと、こんなことになってしまう。
なぜ、みんなは早く走れるのか?
ある日、僕はその秘密が靴にあると考えた。
クラスで一番足の早い男子の靴を盗み見して、同じ靴を買った。ちょうどボロボロになって買い換えようとしていた頃だった。
僕は真新しいその靴を履いて、その年の運動会に参加した。
結果は変わらなかった。足の早い秘密は靴ではないと悟った。それが分かっただけでも良しとしよう。次々と靴を買い替える必要はなくなったからだ。僕にとっては、偉大なる進歩だ。
そして、僕はいつものようにビリでゴールして、白いプラスチックのフダをもらい、所定
の箱に入れた。フダの数を集計して、優勝のクラスが決まる。
一位から三位までは色付きの札で、四位以下は白いフダだ。いつも白いフダしかもらったことがないので、上位の色分けはよく知らないけど、赤色と青色と黄色だろう。
こうして僕のライオン作戦も新しい靴作戦も失敗した。
年に一度の校内マラソン大会は町村君と走った。
町村君は体が大きいから、マラソンは特に苦手だ。
僕はヒョロヒョロなのに苦手だ。マラソン選手の体型なのにおかしい。
二人の体格は真逆なのに、なぜ同じ結果になるのか?
ともあれ、学校を出て、二人はのんびりと走り出した。
これから街中や林の中を駆けて行く。男女混合なので、女子にもどんどん抜かれて行く。でも気にしない。こんなことまで気にしていたら、“運動神経悪い生徒”なんかやってられない。
お調子者の川池君はどこを走っているのだろう。姿は見えない。足が短いから、遅いはずなんだが、またどこかで誰かを笑わせているのだろう。
僕たちは走ったり、歩いたりを繰り返しながら、ゴールを目指した。途中に何人もの先生が配置されているので、タクシーや自転車に乗るといったズルはできない。
終盤に差し掛かった頃、前の方に山だか川だか分からない山川さんが走っているのが見えた。
僕らと変わらないほど遅いのは、山川さんがお嬢様だからだ。いつも専属運転手が運転する大きな車で、学校の送り迎えをしてもらっていて、足腰を使わないから、スリムな体型なのに遅いのだ。僕はスリムな体型で、送迎車に乗ってないのに遅いけど。
今年の夏、山川さんはプールの授業で、スクール水着をクリーニングに出したからと言って、ピンク色のビキニを着て来たことがあった。
クラス全員の目が点になった。
畑田先生はデカい声も出せず、まばたきも忘れて、しばらく目が見開いたままだった。
山川さんは平然とした表情をして、ピンクのビキニで、プールへ弧を描くように飛び込んだ。たまたまプールの中にいた小さいのか中くらいなのか分からない小中君が、驚いてプールから出て来た。勢いよくプールサイドに上がったため、水着がずれて白い半ケツが見えた。
山川さんはビキニしか持って来てないというので、さすがの畑田先生も止められなかった。山川さんのお父さんが街の有力者だから、強く言えないということもあるだろうし、上のブラを外して、男子と同じように、パンツ一丁になれと言うと、たとえ相手が小学生でもセクハラになるだろう。
結局、山川さんはその日の体育の授業をピンクのビキニで通した。
それから、クラスではウワサが立った。
あのピンクのビキニはシャネル製だったんじゃないかと。
そして、僕たちは後になって気付いた。
お嬢様はスクール水着をクリーニングに出すのかと。
その夏の僕の思い出は、山川さんのピンクのビキニと、小中君の白い半ケツだった。
そのピンクビキニの山川さんが僕たちの前を走っている。
まさか下着もピンクなのかとニヤニヤ妄想をしていると、山川さんがポケットから何かを取り出して、沿道の草むらに放り投げつけた。
それを僕と町村君はしっかり見ていた。
お互い目を合わせた。アイコンタクトで、拾いに行こうと決めたのだ。
周りには数人が走っているが、気づいてないようだ。
「町村君、この辺で休憩しようか!」
「そうだね。あれっ、偶然にもこんなところに草むらがある。ここにしようよ」
「おお、これはちょうどいい。休憩場所にピッタリの草むらじゃないか!」
「まさに天の恵みだね!」
周りにわざと聞こえるように、息を切らしながらも、大きな声で言うと、何かが投げ込まれた草むらに向かった。
「なんだか、黄色かったよな」「黄色いテニスボールかなあ」
それはすぐに見つかった。レモンだった。
走りながらビタミンを摂取しようとしていたが、邪魔になったので捨てたのだろう。
僕たちはそう推理した。
そして、どっちがそのレモンをもらうのか、じゃんけんで決めた。
ピンクのビキニを着たかわいいお嬢様だ(マラソン中は着てないけど)、取り合いになって当然だった。残念なことに、齧った跡は見当たらなかった。新品でもいい。山川さんがポケットで温めていたレモンだ。お宝じゃないか。少し変態っぽいけど。
結局、じゃんけんは僕が負けた。
「今夜はこのレモンを枕元に置いて寝るんだ」
町村君はレモンに頬ずりをしている。
羨ましいけど、じゃんけんに負けたのだから仕方がない。
「いい夢、見ろよ!」
僕はヤケクソになって叫ぶと、再び走り出した。
「ちょ、待てよ!」町村君もあわてて駆け出した。
明日、登校して来た町村君が体からレモンの香りを漂わせていたら、ちょっとむかつく。
妄想でむかつきながらも、がんばって走る。
はるか前を行く山川さんが、もう一個レモンを投げてくれないかと期待しながら。
だけど、僕たち二人はほぼビリに違いない。
持久力がないのだから仕方がない。
そんな相棒の町村君だけど、ときとして運動会のヒーローになるときがある。
かつてオリンピックの種目にもあった綱引きだ。
鉄棒にぶら下がったり、走ったりするのは苦手だが、体の大きい町村君には力がある。
綱引きの綱の端っこを体にグルグル巻き付けて踏ん張っている姿は運動会の名物となっている。
チャーシューみたいだとヤジが飛ぶが、気にしない様子だ。
なんといっても、その瞬間町村君はヒーローになっているのだ。
外野のヤジなんか、耳に入って来ないのだろう。
ここがオール3の僕との違いだ。
何も突出したところがない僕と、力だけは人一倍ある町村君。
槍投げや円盤投げをさせたら、グーンと遠くまで飛ばしてくれるだろう。
残念なことに、うちの学校の運動用具に槍や円盤はない。
だけど、騎馬戦の馬になったときもヒーローと化し、相手を蹴散らして行くし、玉入れのカゴを支えるときも、みんなの注目の的だ。
そんなとき、僕は大きな体の町村君のことをとても羨ましく思う。
“お父ちゃん”はいいなあ。
そして僕は中学生になった。
中学生になると、ドッヂボールがメインだった小学生と違って、競技種目が増えた。だけど僕の役割は変わらない。団体競技の際には、みんなに迷惑がかからないポジションが定位置だ。
ソフトボールで守る場所は、ボールが滅多に飛んで来ないライトであり、バットを振っても滅多に当たらないため、打順は八番である。いわゆるライパチだ。ときどき左利きのバッターが打ったボールが飛んで来るが、当然のように後逸し、ボールに追いついた頃には、ベース上に誰もいない。ランニングホームランだからだ。本来はシングルヒットなんだけど、君のお陰でホームランになったよ、などと感謝されたことはない。
バスケットボールはドリブルができず、投げても入らず、守っていても簡単に突破される。バレーボールは狙い撃ちをされて、ビュンビュンボールが飛んで来る。もちろん僕のサーブは入らず、というか、敵陣までボールが届かず、ネットに当たって終わる。サッカーはゴールキーパーだ。ボールへの対応力に優れているからキーパーを任されているはずもなく、みんなシュートをして、点を入れて、目立ちたいから、前の方に行ってしまうのである。必然的に、ドン臭い僕は後の方に残され、誰もやりたがらない地味なキーパーをやらされる。もちろん、敵のシュートが飛んで来ても、僕には止められない。シュートを打たれないよう、ディフェンス陣にがんばってもらうしかない。点を取られたところで、僕をキーパーにした連中が悪い。そういった意味で、サッカーは気が楽だ。
こうやって、たまには他人に責任転嫁をしないと、“運動神経悪い生徒”なんかやってられない。
雨の日は体育館で柔軟運動をすることがある。ところが、僕はものすごく体が硬い。柔らかければ、もう少し運動も上達するのだろうけど。
立ったまま手のひらが床にペタンと付くなんて信じられないし、上体反らしなんか、ほんの数センチしか上がらない。しかも筋力が弱いためか、数秒しか体を上げてられない。測定をするときは大変だ。測定タイムがほんの一瞬しかないからだ。
二人一組になって、背中をぐいぐい押され、呼吸困難になりながらも、何とか柔軟運動の時間を乗り越える。
今日一日だけ押されても、体が柔らかくなるとは思えない。かと言って、家で柔軟運動をやろうとも思わない。基本的に体を動かすことが嫌なんだ。
体育館ではダンスもやる。ときどきステージで発表会もやる。
だけど、ダンスなんかできるわけない。テンポが遅い盆踊りもできない。町内の盆踊り大会で踊ってるおばちゃん達の踊りにも付いて行けないのに、ヒップホップダンスとかブレイクダンスなんか踊れるわけない。
集団で踊ると、みんなは右を向いてるのに、僕だけ上を向いている。みんなはジャンプしてるのに、僕だけ小首をかしげている。みんなはしゃがんでるのに、僕だけ右手を突き上げて、我が生涯に一片の悔い無しポーズを決めている。
こんなことがよく起こる。
若者がみんな歌とダンスが好きだと思ったら大間違いだ。
僕は歌も嫌いだ。運動神経が悪いと歌もヘタということはないだろうけど、将来たくさんの観客の前で歌うような機会は訪れてほしくない。
晴れた日は陸上競技だった。
そんな中、腐れ縁でまたもや同じクラスになった川池がやらかしている。
走り高跳びのバーを思いっ切り蹴り上げているのだ。
どう見てもわざとだ。
走って行ったとき、「ライダーキック!」と叫んでいたからだ。蹴る気満々だ。
バーを飛び越えるのではなく、蹴飛ばそうと最初から企んでいたのだ。
どうせ飛び越せないのだから、何かをやらかして、ウケを狙うという作戦だ。
僕もこれくらいずうずうしい神経をしていると、体育の時間も苦労しなくて済むのだけど、どうも僕は真面目すぎるんだよなあと、真面目な僕は自分で自分を分析する。
川池の身長に合わせてかなり低く置かれていたバーがビュンと跳ね上がった。
川池は満足そうな顔をして、弾け飛んだバーを目で追いかけている。
「川池、何をやってるんだ!」当然、体育教師に怒鳴られた。
「蹴飛ばしたらポイントがもらえると思ったもので。デへへ」ポリポリ頭を掻く。
小学生のときにやっていたパフォーマンスを、中学になっても使い回している。
「それは何のポイントなんだ!?」ごもっともな質問である。
「えっ? ああ、まあ、そのう。デへへ」
先生が突っ込んで来ることは想定外だったようで、小さい体を揺すりながら、笑ってごまかすしかない。小学校の担任はギャグを流してくれたが、中学の先生は厳しく取り締まる。こういうことをやっていると、通知表に1を付けられる。
今日、川池がこうやって頭を掻くのは二回目だ。
午前中の現代文の時間に、“疎んじる(うとんじる)”の意味を書きなさいと言われ、川池は黒板に“うどんの汁(きつね)”と書いて、先生にこっぴどく怒られたのだ。
このときもポリポリ頭を掻いていた。
だけど川池は何を言われようと気にしない、気にしない。
平気の平左、馬耳東風、柳に風と受け流す。
ある意味、これも才能だ。
僕もこんな性格なら気が楽なんだけどなあ。
そんな川池だけど、彼もヒーローになるときがある。
放課後、勝手に入り込んだ音楽室に穏やかなメロディが流れている。
観客は僕だけだ。彼は僕だけのためにピアノを弾いてくれている。
「いやあ、いい曲だね。何という曲?」
「カーペンターズの“青春の輝き”と言うんだよ」
演奏を止めずに、川池は答えてくれる。
「ああ、心が洗われてキレイになるなあ。ということは、僕の心は汚かったということか?」
「ははは」僕の一人ツッコミにも川池は笑ってくれる。「これは僕なりにアレンジしてあるんだ」
川池はピアノが弾ける。
すごい腕前で、曲も自分なりにアレンジができるようだ。しかも今は楽譜も見ないで弾いている。暗譜というやつだ。お母さんがピアノの先生だから、小さい頃から教えてもらっているらしい。
ハードルを全部倒し、走り高跳びのバーを蹴飛ばし、デへへと頭を掻いて笑ってる人物と同じ人物とは思えない。
ピアノが弾けるだけでもヒーローだ。
だけど音楽のクラブには属してない。僕と同じく帰宅部だ。
つまり、孤高のヒーローというわけだ。
でも、なぜあんな芋虫のような指でピアノが弾けるのか。
指だけ見ると、僕の方が細くて長いから、ピアニストに向いているだろう。
指だけは音楽家だけど、残念なことに僕には音楽の才能なんかない。ドの鍵盤がどこかも知らないし、楽譜なんか読めるわけがない。できる楽器は縦笛とカスタネットと木琴だ。音楽の授業でやらされているだけだけど。ついでに歌もヘタッピだ。そもそも普段から進んで音楽を聴いたりしない。
僕は川池とずいぶん違う。
ここが、可もなく不可もないオール3の僕との違いだ。
「おい。お前ら、何をやってるんだ!」
ドアが開いて、音楽教師が顔を覗かせた。丸いのか四角いのか分からな丸角先生だ。
ピアノの音を聞いて、やって来たのだろう。
大きな目でギョロリと睨んで来る。
「ああ、川池か」ピアノを弾いている生徒を見て言った。「お前だったらいいよ」
音楽室へ勝手に入り込んで、勝手にピアノを弾いているのに、許してくれた。
「お前はなかなかの腕だからな」逆に褒めてくれる。
音楽の先生が褒めるのだから、本当にうまいのだろう。ピアニストとしての川池の名前は学校中に知られている。
怒られても、川池は演奏を止めることなく、平気で弾き続けている。
さすが、先生に無断演奏を見つかったくらいでは動じない。
先生もしばらく聞き入っている。
「ヘタな演奏を聞かされると腹が立つからな。そっと後ろに回り込んで、ピアノの鍵盤蓋をバタンと閉じて、二度と弾けないように、指を切断してやろうかと思うよ」
音楽教師が言うことではない。
「丸角先生、この曲はカーペンターズの“青春の輝き”ですよ」さっき教えてもらったんだ。「一緒にここで鑑賞しませんか」僕は椅子を指差して先生を誘う。
「いや、間に合ってる。それよりも、暗くなって来たから、二人ともそろそろ帰れよ」
そう言って、先生は出て行った。
何が間に合っているのか分からないが、川池はその間、一度も演奏を止めずに、カーペンターズを弾き続けた。
彼流にアレンジされた、“青春の輝き”は夕暮れ時によく似合うと思った。
歴史の授業中、遠くから笛の音が聞こえて来た。
今年もプールの授業が始まったようだ。
水泳は僕が嫌いな体育科目の栄えあるワースト一位だ。
まだうちのクラスは水泳の授業が始まってないというのに、飛び込みの合図に吹かれる笛の音は、僕を今から憂鬱な気分にさせる。
まず、あの消毒剤のニオイが嫌いだ。ニオイを嗅いだだけで、吐き気が込み上げて来る。それに、プールにはたくさんの生徒が入っている。水の中には汗や唾液や目クソも耳クソも鼻クソも本物のクソも混ざっているはずだ。それが消毒剤で全部除菌できるのか、はなはだ疑問である。
プールに入ると、体がゾゾーッとして、恐怖を感じるし、ここでも吐きそうになる。前世は溺れて死んだのだろうと本気で思う。
そもそもみんなにヒョロヒョロの体を見せるのは嫌だし、なんといっても泳げない。おそらく脂肪分が少ないから浮かないのだ。浮かないと泳げないし、ずっと潜水していられるほどの肺活量はない。
それに、プールの授業が雨で中止にならないのも嫌いだ。
どうせ濡れるのだから、多少の雨ならいいだろうと考えているのだ。風邪をひいたらどうするのか。体力に乏しい僕は風邪をひくと、完治するまで一週間以上かかる。僕のおばあちゃんは三日で治るというのに。
それでも年に一回の水泳大会はやって来る。
よほどの暴風雨じゃないと中止にならない。正確に言うと、中止じゃなくて、延期だ。また日を改めて行われるのだから、逃げようはない。
巨大地震でプールがパカッと割れない限り、全員参加の水泳大会は開催される。
一学年全員、つまり約三百人がプールサイドに集まり、大会を見つめる。その中には僕の好きな女子もいる。これを憂鬱と呼ばずして、何と呼ぶのか。だけど僕はズル休みなんかしない。これが僕のいいところだ。ここで休んだら、オール3の成績が崩れるのだ。3という同じ数字の羅列は美しい。4とか5の方がいいのだろうけど、何事もほどほどがいいのだ。
事前にいくつかある種目にエントリーをしておく。
種目は二十五メートル平泳ぎやクロールやバタフライなんかだ。泳ぎに自信がある人は五十メートルに出場する。五十メートル自由形なんか花形種目だ。
残念なことに、泳げない人用の種目はない。
最初からみんなが泳げるという前提で出場種目が用意されているのだ。
仕方なく二十五メートル平泳ぎにエントリーする。
僕にとっては、平泳ぎもクロールもバタフライも同じだ。ビート板を持って泳ぐからだ。
だけど背泳ぎは無理だ。うつ伏せになって泳げないのに、仰向けになって泳げるわけない。絶対鼻に水が入って来るだろう。
自然界でも仰向けになっているのはラッコくらいだろう。仰向けになったまま、お腹に置いた貝を石で割るのだから、ラッコは偉い。つまり僕はラッコ以下の存在だ。
大会まではまだ日にちがある。僕はここで悪知恵が閃いた。
毎回、放送部が出場選手をマイクで紹介する。
「第一のコーーーーース、山田君」みたいに。
なぜか“コース”を“コーーーーース”と伸ばす。サッカーの“ゴーーーーール”みたいなものか。野球の“打ったーーーーーっ”みたいなものだろう。
ならば、放送部に入れば、泳がなくてもいいではないか。
そう思ったのである。起死回生のアイデアである。
“第一のコーーーーース”なんて僕でも言えるし、もっと伸ばせる。
僕は放課後、さっそく放送部の部室に出向いて行った。
「どうも、こんにちは」
男女四人がニュースらしき原稿を読む練習をしていた。
「あの、ちょっと聞きたいのですが、放送部は水泳大会のとき、各選手の紹介をしますよね」
「はい、してますよ」かわいい女子部員がハキハキと答えてくれた。おそらく女子アナ志望の子だ。その声と美貌なら、君はきっと人気女子アナになれるよと、心の中で応援してあげる。
「その役を臨時で僕にやらせてもらえませんか? 謝礼はけっこうですので」
「えっ、それはどういうことですか?」ハキハキと質問される。
「放送で選手を紹介していれば、水泳大会に出なくてもいいかなと思って」正直に告白する。
「私たちも交代で出場しますよ」ハキハキと教えてくれる。
「えっ、放送部なのに泳ぐのですか?」
「もちろんですよ」男子部員が言う。「マイクは置いておきますが。この人は放送部と水泳部を掛け持ちしていて、大会の出場を楽しみにしてますよ」未来の女子アナを指差す。
「はい、一番目指してがんばります」女子アナはハキハキと宣誓する。
えっ、水泳大会が楽しみ? 一番を目指す? そんな人がいるんだ。
放送部と水泳部の掛け持ちなんて、なんと奇特なお方だろう。でも、文化系と体育会系の二刀流は、女子アナの面接時の魅力的な自己PRになるだろう。きっと採用されるに違いない。僕だったら採用してあげる。
「分かりました。すいません」僕は頭を下げた。「お邪魔しました。これで失礼します。なんも言えねぇ」
最後に、水泳界で有名な名言をつぶやいて、逃げるように放送部を後にした。
僕の放送部作戦は失敗した。放送部も泳ぐとは思わなかった。
てるてる坊主を逆さまに吊り下げて、大雨を降らせる作戦も失敗した。
プールの水が一夜にして抜けることはなく、夏なのに一面が凍るという異常気象も起きなかった。
そして無情にも、来なくてもいい水泳大会はやって来た。
「第四のコーーーーース」
放送部の未来の女子アナによって、僕の名前が呼ばれた。
プールサイドに集まっている生徒たちがざわついた。
第四コースのスタート地点に誰も立ってなかったからだ。
その頃、僕はプールの中にいた。
僕は一人、プールの中からのスタートだった。泳げないので、ビート板を持っていたからだ。
ビート板を脇に抱えて飛び込んだところで意味はない。飛び込んだ勢いで、前に進むことはないからだ。風呂桶を抱えて、風呂にザブンと入るようなものだ。だから、水の中からの静かなスタートだ。
名前を呼ばれたので、仕方なくプールの中から片手だけ上げて、返事をした。ここで両手を上げると、溺れてる人みたいだからだ。
笛の合図とともに、みんながプールへ派手な音を立てて飛び込んだ。
僕も白いビート板を両手で持って、プールの床を蹴った。
バシャバシャとやっているうち、たちまち引き離されて行く。
みんな、平泳ぎでも早い。
「顔を付けろ!」畑田先生の必要以上に大きい声が聞こえる。
水に顔を付けたら、早く進めるんだっけ?
僕は思い切って、顔を水の中に付けてみた。顔を付けるだけでも恐怖を感じるため、僕にとっては思い切らなければならない。それくらい水は嫌いだ。世の中の飲み水以外の水は全部なくなってほしいくらい嫌いだ。みんなと違って、僕は前世に溺れて死んだのだから仕方がない。
水に顔を付けて、足をバシャバシャやって、五秒くらいで顔を上げる。僕の肺活量からして、これくらいが限界だ。早くなった実感はない。だけど、やらないと畑田先生にまた大声で怒られて、三百人の前で恥をかく。すでにスタート地点から恥をかいているのだけど、恥の上塗りは避けたい。
それでもやっと二十五メートルプールの半分くらいにまでたどり着いた。
前方を見ると、誰も泳いでいない。
すごいじゃん! もしかして、追い抜いたのかと思って後ろを見たが、誰もいない。
僕以外のみんなはすでにゴールして、プールから上がっていたのだ。
広いプールの真ん中にポツンと僕一人。
観客は三百人。ぐるっと囲まれている。
コントのようなシチュエーションだ。
これは恥ずかしい。何としても避けたかった恥の上塗りだ。
三百人の中に好きな子もいるのだけど、絶対フラれたよなあ。
まあ、最初から相手にされてないのだけど。
気を取り直して、残りをさっそうと泳ぎ切ろう。ビート板持ってるけど。
ところが、どうしたことか、いくらバシャバシャと水を蹴っても前に進まない。
どうなってんだ。
わあ、焦る。メチャクチャ焦る。
プールのど真ん中で止まってしまった。
三百人が見ている前でこれだけ恥をかくとは、恥の上塗りどころか、恥の重ね塗りじゃないか。恥を塗り過ぎて、ゴワゴワになっているではないか。
そう言えば、墓地の上にプールを作ったというウワサがあった。泳いでいると足を引っ張られると言うのだ。うちの学校の七不思議の一つだ。
つまり、これはタタリか? 墓の中から這い出て来たお化けが引っ張っているのか?
立ち止まった僕は足元を見る。
水がユラユラ揺れてよく見えないが、僕の足を掴んでいる不気味な手はいないようだ。
だけど、こんなところでお化けが出ましたと、悲鳴をあげるわけにはいかない。畑田先生が気を利かせて、飛び込んで助けに来ようものなら、明日から不登校になるしかない。グレて悪の道に進むかもしれない。それだけは嫌だ。
頼むよ、ビート板!
頼むよ、僕の足!
頼むよ、ナンマイダ~。
僕は再び泳ぎ出した。
バシャバシャバシャ。
おお、少しずつだが進んで行く。さっきの停滞は何だったんだ。
七不思議のお化けも、僕の根性に恐れをなして、逃げて行ったのだろう。
バシャバシャバシャ。
大丈夫だ。ちゃんと進んで行く。ゴールはもうすぐだ。
がんばれ、僕。その調子だ、僕。
バシャバシャバシャ。
そして僕は三百人が見つめる中、見事にゴールした。
誰も見事と言ってくれないので、自分で言うしかない。
プールから這い上がったが、会場はシーンと静まり返っていた。
僕がなかなかゴールしないから、見物するのにも飽きていたのだろう。
ゴール地点に校長先生が椅子を置いて座っていた。
みんなは見てはいけないものを見るように、そっと僕に視線を投げかけたが、目が合うとあわてて逸らした。誰も言葉を発しない。
自分のクラスが陣取っている場所に行こうとしたとき、座っていた校長先生が突然立ち上がり、僕に向けて拍手を始めた。最後まで諦めずにゴールしたからだろう。
校長先生が拍手をしたので、あわてて他の先生も始める。先生が始めたものだから、生徒たちも拍手を始める。
やがて、プールサイドにいる三百人全員が僕に向けて拍手を送ってくれた。
拍手の波が僕に押し寄せて来る。
「いやあ、どうもどうも」
これはこれで恥ずかしい。川池のように思わず、頭をポリポリと掻きたくなる。
自分のクラスに目を向けると、その川池と目が合った。
歯が痛いと言って仮病を使い、大会に出場することなく、見学をしていたのだ。
だけど、川池は自分のことのようにうれしそうな顔をして、懸命に拍手をしてくれていた。
ああ、やっぱりこいつはいい奴だ。
僕だけ校長先生に拍手をしてもらった。
そして、一瞬だけ体育でヒーローになれた。
だけど、雪が降るといった異常気象は起きなかった。
やっと水泳大会が終わった。
僕の中学生活における懸念材料ワースト1を、何とか乗り越えることができた。
偉い。本当に僕は偉い。誰も言ってくれないけど、自分で自分を褒めてあげたい。
中学生活は何かと忙しい。毎日次々といろいろなことが起きる。僕がタタリに遭って、プールのド真ん中で動けなくなって、大恥をかいたことなんか、みんなすぐに忘れてくれるだろう。
教室に戻ってから、ホームルームが始まった。
「はい、みんなお疲れさまでした」中年女性の担任がねぎらってくれる。「心配されていたお天気も良く、素晴らしい水泳大会になりましたね。プールの真ん中で立ち往生した人もいましたけどね」
クラスのみんなが一斉に僕を見て笑う。
恥を蒸し返してどうするんだよ。
傷口に塩を塗ってどうするんだよ。
まったく、デリカシーの欠片もない担任を持ったら苦労するよなあ。
中年女性にデリカシーを求めるのは間違っているのかもしれないけど。
水泳大会が終わり、来週から体育の時間はバスケットをすることになる。
水泳も嫌だが、団体競技も嫌だ。
重い地獄から軽い地獄に行くようなものだ。
だけど、その前に球技大会があった。
水泳大会が終わったと思ったら、球技大会だ。大会が好きな学校だ。
球技が苦手で、と言うか、運動競技全般が苦手なんだけど、みんなの足を引っ張ることが目に見えている僕は柔道にエントリーさせられた。
球技大会なのに、なぜ柔道があるのか分からない。
ともあれ、柔道は個人競技だから、お前がやれということなのだろう。個人競技なら誰にも迷惑はかからない。
しかし、僕はヒョロヒョロ体型だ。どう見ても柔道に向いてない。では、向いてる種目はあるのかというと、あるわけない。
僕の対戦相手はチビッ子だった。
僕は背が高い方なので、相手は同学年だけど、チビッ子なのだ。
対戦の順番が回って来る間、僕は吐き気と戦っていた。水泳大会のように観客は多くないけど、そこそこの人が集まっている。緊張による吐き気だ。いつもは好きな畳のニオイも嫌なニオイになって、僕の鼻を刺激する。
気を紛らわそうと数字を数えた。
1,2,3,4、5……。
数字を数える作戦はよく使う。やってる人がいるのか分からないが、効果があると信じている。
そして、500を越えた頃、何とか吐き気を押さえ込むことに成功する。
時間が来て、僕は畳の上でチビッ子と向かい合った。
チビッ子だけどがっしりした体格だ。相手のチームの連中は、僕のヒョロヒョロ体型を見て、あんなの余裕で勝てるぞーと叫んでいる。だけど腹は立たない。僕が相手のチームの一員だったら、同じヤジを飛ばしているだろう。
そして、チビッ子は余裕で勝った。
僕はわずか五秒で畳の上に転がされた。
プールの中で恥をかき、畳の上で恥をかいた。
みんな、早く僕の恥を忘れてくれと願った。
しかし、僕が悩むほど、みんな意外と気にしていないようで、この日以降、僕の話題は全然出て来なかった。水泳大会も球技大会もすっかり過去のものになった。
悩みなんて、自分が思っているほど深刻なものではない。
そして僕は高校生になった。
高校には僕が大嫌いなプールはなかった。プールがない高校を選んだからだ。
家から通える高校を片端から自転車で回って、外からプールがあるかどうかを確かめたのだ。外からはよく見えず、奥の方に設置されてる可能性がある場合は、学校の周りを回って、なんとか覗き込める場所を探し出して確かめた。ドローンがあれば上空から確認できて楽チンなのだが、そんな便利な物は持ってない。怪しまれながらも、覗き込むしかないのだ。
そんな努力の甲斐があって、プールなしの学校に入れた。
受験にあたって、面接はなかった。
面接で志望動機を訊かれたら、プールがないからですと正直に言うつもりだった。
面接官はどんな顔をしただろうか。
入学の際のオリエンテーションでも、体育館のリニューアル予定の話はあったが、プールを新設する話は出なかったので、三年間は安泰と見た。
水泳の時間から解放されるだけでも、随分と気が楽になった。
それともう一つ、この学校にはいいことがあった。高校は男子校だったのだ。
普通は男女共学の方が何かとうれしいだろう。異性と話せるし、遊べるし、一緒に勉強ができる。しかし僕にとっては、女子にドン臭い姿を見られることもなく、女子に無様な姿を笑われることもない。つまり、女子の前で恥をかかなくても済む方が大きいのである。
放課後の校庭を走る君は見れないけど、走ってるのはむさ苦しい男子だけど、男子校でよかったのである。
といっても、体育の授業は週に三回あるし、スポーツに力を入れている高校だった。
晴れて高校生になったけど、体育の時間はなくなってくれず、僕が憂鬱なのは変わらなかった。
そしてもう一つ、憂鬱になる原因があった。
あの川池君がいないのだ。運動神経悪い仲間の川池君との腐れ縁は中学までだったのだ。
小学生のとき、逆上がりができなかった僕と町村君と川池君は運動神経が悪い三人組だったが、町村君はピンクビキニの山川さんのレモンを持って、別の中学に進学したため離れ離れとなり、高校になってからは、川池君が別の学校に行ってしまった。残念なことに、川池君のピアノはもう聞けない。僕はプールがない高校を選んだのだが、川池君はプールの有り無しには関係なく、家から一番近い高校に進学していた。お調子者の彼のことだから、さっそく人気者になっていることだろう。
運動が苦手な生徒は最悪の場合、クラスに一人しかいないが、うまくいけば、二人か三人はいる。僕の場合、幸運なことに三人だった。
運動ができないと悩んでいたとしても、複数の仲間がいれば心強い。同じように運動ができないのだから、注目度は人数分に分散されるし、悩みを分かち合える。体育の時間に孤立することもないし、孤独を感じることもない。
そんな仲間が小学生の頃は僕を含めて、クラスに三人いた。
中学生になって、二人に減った。
高校生では僕一人になった。
だけど、小学生の頃は三人もいてよかったなどと思い出に浸ってる場合じゃない。クラスでドン臭いのは僕しかないのだから、高校の三年間は一人でがんばるしかない。
体育ができないことで、僕は他人より悩みが多いのではないかと思うときがある。でも、他人が抱えている悩みを僕は持ってないかもしれない。
だから、本当は悩みの数なんてみんな同じなのだろう。
人間は平等なのだ。
高校には“体育に生きる男”がいた。
その男子生徒は体育の時間が来て、体操服に着替えているとき、毎回、俺は体育に生きる男だと叫んでいるのである。
本人が言うのだからそうなのだろうが、体育が生き甲斐なんて、どんな人生なんだと思う。この世から体育の授業がなくなったら、そいつは死んでしまうというのか。
体育が、親のカタキくらい大嫌いな僕にはまったく理解できず、と言っても両親ともに健在なんだけど、その体育に生きる男、春だか秋だか分からない春山秋男とは何かと気が合った。
ある日、体育の授業に備えて、体操服に着替えているとき、春山がええーっと、素っ頓狂な声を上げた。
彼は僕の斜め前の席だったため、声をかけた。
「春山、どうしたの?」
春山は白い何かを手でつまみ上げて、僕に見せてくれた。
「えっ、それってパンティーじゃない?」
僕のパンティと言う声を聞いて、教室内が一瞬で静まり返った。
僕たちは男子高校生だ。
パンティという単語を聞くだけでも、鼻血が出る年頃だ。
「パンティがどうしたんだ!?」「何が起きたんだ!?」
あちこちから声が飛んで来る。
「春山が……」と言って、僕は指を差す。
春山の手にはまだ白いパンティがぶら下がっている。
「どうしたんだ、そのパンティは!?」
全員が着替えるのも忘れて、春山の手元をガン見する。
「なんか、体操服の中にこれが入っていて……」春山はパンティをぶら下げたまま、困った顔をする。「俺も知らなかったんだけど」
よく聞いてみると、春山には妹さんがいて、お母さんが洗濯物を取り込んで畳むとき、妹さんのパンティが体操服の間に紛れ込んだらしい。
「なに! 妹のパンティ!?」
クラス全員の目が血走った。
ただのパンティではない。妹のパンティである。お母さんでもお婆ちゃんでもない。ましてや弟のパンツでもない。妹のパンティだ。それはそれは価値がある。
当然ながら、教室中がパニックになった。
「春山、ちょっと見せてくれ!」「俺にも貸してくれ!」「俺が先だ!」「俺の方が先だろ!」
あやうく殴り合いが始まりそうになる。
やがて春山の手から奪い取られた妹のパンティは教室を一周した。
匂いを嗅ぐ者あり、頬ずりをする者あり、頭からかぶる者あり、履こうとしたが、小さ過ぎて止めた者あり。
春山の手に戻って来たときには、洗濯仕立てだというのに、クシャクシャになっていた。
シワだらけのパンティを、春山はどう言って、お母さんに説明するのだろうか?
そんなことまで心配している生徒はいなかった。
まだ興奮冷めやらぬクラスメートは時間が来たので、ぞろぞろと運動場へ歩いて行く。
「ところで、春山の妹って、かわいいの?」
誰かが言い出す。
みんなで顔を見渡すが、誰も知らなかった。
春山はズングリムックリで、漫画のドカベンに似ていた。
まさか、妹さんも……?
ドカベンが女装した姿をあわてて頭から打ち消す。
本人に訊けばいいのだが、怖くて訊けなかった。
だけど、みんな満足していた。
なんといっても、妹のパンティである。この際、容姿なんかどうでもよかった。
僕も満足していた。
いつも憂鬱な体育の時間に、こんな狂喜乱舞するような日が訪れようとは。
人生は何が起きるか分からない。ああ、生きててよかった。
僕はさすがにパンティを頭からかぶらなかったが、その柔らかい布に少し触れてみた。
そのときの感触を思い出しながら歩く。
これが体育の授業の終わりだったらよかったのになあ。
これから授業があるんだもんなあ。
ふと、祭の後のむなしさを感じた。
パンティ祭の後にはラグビーの授業が待っていた。
僕にパスは全然回って来なかった。でも、それでよかった。
ドッジボールのような丸いボールもキャッチできないのに、アーモンドみたいなラグビーボールがキャッチできるわけないからだ。尖った先端がお腹やお尻に刺さったらどうするのか。それに、変な形だから、転がったとき、どこに飛んで行くか分からない。だいたいの転がる方向が分かるドッジボールでさえ捕まえられないのに、ラグビーボールは無理だ。
結局、ラグビーの授業はいつもルールが分からないまま、ワーワーと叫びながら、みなさんの邪魔にならないように走っているだけだった。
※体育の授業が終わるまで、あと四十回。
その後、体育の時間が来るたびに、春山の体操服はクラスメートによって、強制捜査された。また体操服の間に妹のパンティが挟まってないかの確認である。
当然ながら、二匹目のどじょう、ならぬ二枚目のパンティは見つからず、いつしか妹のパンティ事件も忘れ去られて行った。男子高校生も何かと忙しいのである。
プールの有無で選んだ高校だったから、校風や学力なんかは、よく知らなかった。入学して分かったのだが、柄が悪い奴がたくさんいた。偏差値も低い方だった。つまり、アホ学校だったのだ。体育に生きる男春山も体育以外はアホだった。オール3の僕はいつの間にか、優等生になっていた。
体育の授業はラグビーが終わり、バレーボールに変わった。
※体育の授業が終わるまで、あと三十二回。
一回目のバレーボールの授業で、僕がドン臭いということがすぐにバレて、相手のチームは僕を狙い撃ちして来た。僕に向けてサーブをすると、まともにレシーブができないため、確実に点数が入る。
中学生でも狙われていたが、高校生になっても変わらない。
やがて、僕を目がけて飛んで来るボールを、周りの人たちが手を出して、受け止めてくれるようになった。
何回もやっているうち、面倒に思ったのか、僕のポジションはネット際になった。もちろんスパイクを打つ役ではなく、飛び上がって、相手のボールをブロックする役である。
ブロック専門要員は少しばかり背の高い僕にはピッタリだった。
ネット際だと敵のサーブは飛んで来ないし、味方のトスも飛んで来ない。セッターは僕にトスを上げても無駄だと分かっているからだ。相手のスパイクのタイミングに合わせて、ピョンピョン跳んでいればいい。当たってスパイクを止められれば儲けもの。止められなくて、スパイクを決められても、文句は言われない。僕のブロックなんて、最初からアテにされてないからだ。
みんなの迷惑にならないように、ネットのそばで動いていればいい。それが僕の役目だ。
気の毒なことに、六人制なのに、僕が入るチームは、僕を除いた五人で戦っているようなものだ。
その日、たまたま僕の近くにボールが飛んで来た。いつもなら、周りの人に任せるのだけど、その時はとっさに手が出てしまった。
僕の手に少しだけ触れたボールはそのまま床に転がった。
休み時間、同じチームだった奴からトイレに呼び出された。
そいつは、うちの高校にたくさんいる柄の悪い奴のうちの一人だった。僕よりはるかに背が高く、横幅も広い。ついでに顔面も怖い。
あのとき俺が取るべきボールを、なぜお前が触ったのかと文句を言って来る。
とっさに手が出たのだが、ここでそれを言うと、言い訳と思われて、付け込まれる。
ここは正直に謝っておこう。
許してチョンマゲ! なんて言うと、マジで殴られる。冗談が通じない顔面をしている。
僕はわざと悲痛で神妙で、この世の終わりが来たかのような表情を作る。
「ごめん、ホントごめん」顔の前で手を合わせる。
自分は役者なんだと言い聞かせて、ひたすら謝る人を演じる。
「君のボールを奪い取ってごめん。僕が取らなかったら、君がバシッとスパイクを決めて、点数が入っていたでしょう。君は拍手喝采を浴びて、一躍ヒーローになっていたでしょう。バレー部からお誘いが来ていたかもしれません」
「あのな、お前なあ……」割り込んで来るが、
「ごめん!」相手にしゃべらせない。「マジでごめん! こんな僕と同じチームになって、さぞかし不愉快な思いをなさったでしょう。なぜうちのチームは五人制なんだと思われたでしょう。僕は間違いなく、チームのお荷物でした。この通りです」
自分は昆虫なんだと言い聞かせて、米つきバッタのようにペコペコと頭を下げる。
「この通りです。どうか、お許しを! 寛大なるお情けを!」
「だからな……」
「どうか、寛大なるご慈悲を我に与えたまえ。アーメン」
「ああ、分かったよ。もういいよ。じゃあな」
僕のしつこい謝罪に恐れをなしたようで、ブツブツと何かをつぶやきながら去って行く。
米つきバッタと化していた僕は人間に戻り、奴の背中に向けて、ペロッと舌を出してやった。
ああ、危なかった。最初の勢いでは、ぶん殴られるかもしれないと思った。
殴られなくてよかった。役者は顔が命だ。命あっての物種だ。
慈悲は仏教用語だから、アーメンはおかしいだろなんて、難癖は付けて来ることもなく、柄も顔も頭も悪くてデカい奴は呆れていなくなった。
その後、この男が僕のことを言い触らしたみたいで、僕のドン臭さに対して文句を言って来る人はいなくなった。
おそらく、あいつはヤバいから関わるなとでも言ったのだろう。
まあ、何でもいいや。柄の悪い連中に気に入られようとは思わないから。
※体育の授業が終わるまで、あと二十四回。
そして秋になって、僕は来年用の卓上カレンダーを買った。
来年一月の体育の授業がある月水金に赤丸を付けた。これが最後の赤丸だ。
当然、高校にも秋の運動会があった。
運動会から体育祭へと名前が変わっただけだ。何も楽しくないし、めでたくもないのに、“祭”という文字が付いているのはおかしいと思うのだが、待ち遠しい人の方が多いのだろうから、運動が嫌いな少数派としては、泣き寝入りするしかない。多数決だから仕方がない。これが民主主義だ。
うちは男子校で女子がいないにしても、全校生徒約九百人の前で恥をかくことは変わりなかった。
競技でゴールをすると、プラスチックのフダがもらえる。小学校、中学校と同じシステムが続いている。文科省が決めたのか、教育委員会が決めたのか知らない。
僕はいつも四位以下のため、白いフダしかもらったことがなかったのだが、高校生になって、一位になりそうになった。一位になったのではない。なりそうになったのだ。
それはこういうことだ。
男ばかりの体育祭で二人三脚に参加させられた。
もちろん無理矢理だ。誰も汗臭い男と密着したくないのだろう。僕もそうだ。だけど、不人気な種目は運動神経悪い生徒の僕に割り当てられた。
同じように無理矢理割り当てられた男子と組んで、いつものようにビリをエッチラオッチラと走っていたら、先頭を走っていた組が派手に転倒した。すると、その後ろを走っていた組がぶつかって転倒して、その後の組も次々ともつれて、からまり、結局全員が倒れ込んだのだ。
僕たちの前には、十二体の死体が累々と横たわるような光景が展開された。
こんなことがあるのか!?
ビリを走っていた僕たちは事故に巻き込まれることなく、倒れて、もがいている連中を横目に、余裕で追い抜いて行ったのである。
当然僕は歓喜した。
人生初の一等賞か!
ついに色付きのフダがもらえるのか。それは赤色なのか、青色なのか、黄色なのか。これで僕もヒーローか。女子は見てないけど。男子でもいいので僕を見てくれ。
ところが好事魔多し。
込み上げて来る笑いを押さえながら走っていると、転倒した連中が次々に起き上がり、次々に追い抜き、結局僕たちがビリになって、白フダとなったのである。
こんなことがあるのか!?
倒れたのに、また起き上がって来るか。
お前たちはゾンビか。
これは恥ずかしい。ビリから一位になり、またビリに転落するとは、最初からビリのままゴールするより恥ずかしい。九百人の前で大恥をかいてしまった。二人三脚だから相方が恥を半分持ってくれたが、恥には変わりない。
僕は思わず、天を仰いだ。秋の空は青かった。
そうか、僕たちが遅かったんだ。
ゾンビのせいじゃない。
空の青さに気づくように、自分の愚かさに気づいた。
一等賞という夢ははかなく終わった。
その後は夢を見ることさえ、なくなった。
※体育の授業が終わるまで、あと十八回。
僕は運動神経が鈍い。
運動神経はすべて母親からの遺伝らしい。
では、僕の母の運動神経はどうなのか?
ものすごく鈍い。
どのくらい鈍いかと言うと、自転車に乗れない。
かつては乗れたらしい。
ある日、とんでもなく派手に転び、それがトラウマとなって、乗れなくなったと自己申告してくる。どれだけ派手な転倒だったのかと訊いてみると、自転車にまたがったまま、ガシャンガシャンガシャンと自転車ごと三回転したと言う。
いや、物理的におかしくないか?
まあ、それくらい大きな事故だったのだろう。
トラウマが原因なら、運動神経とは関係ないと思うのだが、自転車に乗れないとは、さすが僕の母親だ。ああ、僕は乗れます。補助輪がなくても乗れます。
父はというと、運動神経はいい。抜群だ。
幼稚園のとき、鉄棒で大車輪ができたという。
幼稚園に大車輪ができるような大きな鉄棒が設置されてるのか疑問だが。
ちゃんとした指導者についていれば、ゆくゆくはオリンピックに出られたと、これも自己申告なのだが、残念なことに、父の運動神経は僕に遺伝しなかった。だから大車輪はできない。逆上がりができないのだから、大車輪はできないだろう。
よくテレビで世界のオモシロ映像をやっている。
調子に乗って、ドジをしたなら笑えるが、普通に行動していて、何かにぶつかったり、何かを落としたり、躓いたりする映像は笑えない。
それは僕の日常だからだ。
家のトイレのドアにはよくぶつかるし、よく物を落とすし、歩いていて、何もないところで、いきなり躓く。躓くならまだしも、ときにはそのまま転倒することもある。誰にも見られてなければいいが、そんなときに限って、誰かが凝視している。しかも複数人だ。おせっかいなおばあちゃんが大丈夫かい? と言って駆け寄って来る。
年老いたおばちゃんに介抱される若い僕。どう見ても立場は逆だ。
単に運が悪いのか? いや、運命のせいにしてはいけない。便所のドアに頭をぶつけることが運命として決定してるのか。ならば僕の運命はずいぶんセコいじゃないか。
これらは運ではない。運動神経のなせるワザである。
※体育の授業が終わるまで、あと九回。
ついに残りが一桁になった。
あと一桁になったとき、どんな気分でいるのだろうかと思った。
まだ一桁もあるのかと憂鬱な気分になるのか、もう一桁しかないのかと、笑いが起きそうになるのか。
実際は、なんだこんなものかと、何の感慨もわかず、ただカレンダーを見つめるだけだった。いつか一桁になる日が来ることは分かっていたので、こんなものかもしれない。これが予想外に突然起きた事柄なら感激もしただろうけど。
ところが、いつものようにお風呂へ入り、湯船に浸かっていると、突然笑いが込み上げて来た。
あと九回だって!
ハハハハハ。よくやった。痛みに耐えてよくがんばった。
ハハハハハ。数え始めた頃は残り六十回。それが今や九回。
ハハハハハ。笑うしかしないだろう。
お風呂場に笑い声が響き渡る。
「何やってるの?」
「あっ、オカン!」
母親が心配して、覗き込んでいた。
「いや、別に。お湯が鼻に入って、むせちゃって。ハハハ」
「だからって、いかれたように大声で笑うことはないでしょ!」
「はああ、母上様のおっしゃる通りでございます」
僕は股間を隠しながら謝罪する。
お風呂に入ってリラックスしたとたん、感情が高ぶってきた。残り一桁がこんなに感動したものになるとは、自分でも驚いた。それだけがんばって来たという証だろう。
あと九回、がんばって乗り越えよう。
その日は雨だったため、体育の授業が他のクラスとも重なり、体育館は混んでいた。
たくさんの生徒がいつもよりテンションを上げながら、いろいろな種目を行っている。最近体育館がリニューアルされたため、みんなうれしいのだ。まだ塗料のニオイが漂っている。
僕はというと、確かにキレイなのはいいけど、やる事は同じ体育の授業なのだから、特にテンションは変わらず、つまり、いつものように低いままだ。
しかし、リニューアルに合わせて体操用のマットが新しくなったらしく、それはうれしい。男子の汗が染み込んだあのニオイは臭かった。その臭さはプールの消毒剤に続くワースト2であった。さらに、湿気を含んでいるためか、いつもジットリしていて、持ち上げるととても重かった。使ったら、そのまま畳むか丸めるかして、倉庫に放り込んでいたからだ。使うたびにファブリーズでも振りかけていれば違っていたのに、男子校には、先生も含めて、そんな小まめで清潔な人間はいない。
その日、最初に僕はバスケットをやらされた。
しかし、ボールは全然飛んで来ない。僕にパスをしても、無駄だとバレているからだ。ドリブルもシュートもできない。その前に飛んで来たパスを受け取ることができない。結局、僕のチームは僕以外の四人でパス回しをし、僕の存在を忘れて、プレーをしている。僕以外の五人でプレーしていたバレーボールと同じだ。
そんな光景を見兼ねたのか、先生にバドミントンをやるように言われた。
だけど、何回ラケットを振っても当たらない。ラケットを取り変えても、シャトルを取り変えても、コートを変えても、相手が変わっても当たらない。
そのうち誰も相手をしてくれなくなった。
仕方なく、一人でシャトルをラケットで跳ね上げて遊んでいた。手で持っているシャトルをラケットで跳ね上げるのだから、これは僕でも当てられる。
値段の高いシャトルがあったので、ラケットで打ち上げてみると、普通のシャトルよりもよく飛んで行く。
おお、さすが高級品はよく跳ねるなあ。
調子に乗って、どこまで上がるのか試しているうち、シャトルが天井に引っかかって、落ちて来なくなった。
天井付近を水平に渡してある鉄骨の梁の上に乗ってしまったのだ。
先生には正直に謝った。謝ったけど怒られた。競技をしていたわけではなく、一人で遊んでいて、なくしてしまったからだ。そりゃ、怒られるわ。
値段は知らないけど、よりによって高級シャトルとはツイテない。脚立に乗って取れる高さじゃないし、下からは見えないので何かをぶつけて落とすこともできない。高級品らしいけど、諦めるしかなかった。
またもや呆れられたのか、今度は先生から卓球をやるように言われた。
だけど、バドミントンのラケットに当たらないのに、もっと小さい卓球のラケットに当たるわけない。しかも、シャトルよりピンポン玉の方が小さい。
ラケットをビュンビュン振っているうち、足がよろけて、上からボールを叩きつけてしまった。
あれ、ピンポン玉が消えた。
相手も不思議そうに辺りを探している。
恐る恐るラケットをめくってみると、ピンポン玉がペシャンコになっていた。ラケットに体重がかかっていたからだ。
ピンポン玉は少しくらいヘコんでも、お湯に浸すと膨らんでくるらしいけど、これは無理だ。完全にプレスされて、原形をとどめていない。
まあ、バドミントンと違って、安いピンポン玉だからいいだろう。
そう思っていたが、先生からは激しく叱咤された。
叱咤だけである。その後に激励という文字は付かない。四字熟語じゃなく二字熟語だ。ただ怒られただけである。シャトルに続いて、ピンポン玉も破壊したからである。
安物でも学校の備品は大切にしなければならないことを学んだ。
そしてついに、僕の人生における体育の授業がすべて終わった。
果てしなく長かった体育はこれで完結した。
人生における嫌なこと第1位から、ついに解放された。
頭の中を覆っていた黒雲はすべて過ぎ去り、美しい青空が見えてきた。
僕は家に帰ると、さっそくカレンダーの最後の赤丸を太い線でグイグイと消した。
五十九回から始めたカウントダウンはここに終結を迎えた。
そして、カレンダーをこれでもかとばかりに、ハサミとカッターと自力で、バラバラに粉砕して、部屋中にばらまいてやった。
嫌な思い出がたくさん詰まったカレンダーを取っておくわけない。消された赤丸を見るだけでも辛い思い出がよみがえる。プールの消毒剤のニオイや体操マットの臭さや先生の怒鳴り声を思い出して、また吐き気が襲って来る。
床にまき散らしたカレンダーの紙片をすくいあげて、天井に向けて放り投げる。
それーっ!
そして、落ちて来る紙片を体中に浴びる。
ヒャッホー!
何度もすくい上げて、何度も放り投げて、何度も体に浴びる。
狭い部屋に紙吹雪が舞う。その中心に僕は演歌歌手のように立っている。
悪党が不正に入手したお札をバラまいているようにも見える。
こっちはただの紙切れだけど。
散らばったカレンダーの破片をエイッ、エイッと踏み付けながら、感慨に浸る。
いやあ、よくがんばったなあ。我ながら素晴らしいなあ。この達成感はサイコーだな。
一人で恥をかくか、みんなに迷惑をかけてばかりの体育の授業だったけど、今となってはいい思い出だ。これで二度と体育の授業を受けることはない。なんて幸せなんだ。ささやかな幸せだけど、こんな小さな幸せが少しずつ溜まっていけば、そのうちデカくなるだろう。
コンビニ袋から、さっき買ったばかりのプリンを二個取り出した。
がんばって体育の授業を乗り越えた記念のささやかな一人パーティだ。
プリン二個はささやか過ぎるが、毎月のお小遣いを考えると、これが限界だった。
うーん、今日のプリンの味は格別だなあ。いつもより三倍おいしい。しかも二個も食べられるなんて、幸せだなあ。
「このプリンの味は二度と忘れないだろうなあ」
スプーンを咥えたままつぶやく。
やがて、一人プリンパーティは終わった。
「さて、掃除機でもかけるとするか」
紙くずだらけの部屋を母親に見られてはマズい。
肩に乗っていたカレンダーの紙片を手で払った。
そして僕は社会人になった。
体育の授業の呪縛から解放された。
これで悩むことはない。恥をかくこともない。チームメートに迷惑をかけることもない。
目の前には大海原が広がっている。波は穏やかで、ヨットは新品だ。カモメも声援を送ってくれている。あとは錨を上げて、航海に出るだけだ。そんな気分だ。
「みなさん、おはようございます」
部長の声が聞こえた。森なのか林なのか分からない森林部長だ。
今日の朝礼が始まった。五十人ほどが整列している。
僕は妄想をやめて、背筋を伸ばす。
僕の両脇に立つ二人の新入社員も姿勢を整えた。
「いよいよ五月です。毎年恒例の行事がやって来ます」
恒例の行事?
社員旅行かな。どこに行くのかな。
ハワイならいいなあ。アロハオエ~。
「社内運動会です」
うそだろ!?
やっと苦労して体育の授業を乗り越えたと思ったのに、社会人になってもまだ体育をしなければならないのか。
いったいどこまで続くんだ。あの五十九回のカウントダウンは何だったんだよ。卓上カレンダーをバラバラにして、掃除機かけてキレイにしたのは何だったんだ。一人プリンパーティは何だったんだ。奮発して、プリンは二個だったんだぞ。
小学校で運動会。中学高校で体育祭。社会人になったらまた運動会。
元に戻ってしまったではないか。
「はい、そこの三人」部長がこっちを見た。
わっ、僕たちだ。
あらためて背筋を伸ばす。
「三人は我が社に入って来た久しぶりの新入社員です。その若さを十分に発揮して、運動会を盛り上げていただきたい。大いに期待してますよ」
ここ数年は業界に不況が続いていたため、しばらくは新卒の採用がなく、景気が上向いて来た今年から、また再開されたのだ。募集人数は三人だった。
そこへまんまと就職したのが僕だった。
これじゃ、飛んで火にいる夏の虫じゃないか。
ネギを背負ってきた鴨じゃないか。
「新人の三人はとりあえず、一人で五種目に出てもらうことになりました」
一人で五種目も!?
「若いから五種目くらい平気でしょう」
なんで勝手に決めるんだよ。
「運動会も久しぶりなので、ドームを貸し切りにしました」
ドームで大恥をかく?
「運動会は五千人の社員が楽しみにしています」
五千人の前で!?
「がんばってくれたまえ」
運動会がよみがえった。お前もゾンビか。
僕が定年退職するまで毎年続くのか?
目の前がスーッと暗くなった。
呼吸が荒くなって来た。
冷汗が出てきた。
しだいに体が傾いて行く。
床にドサッと倒れ込んだ。
あまりのショックで貧血になったのだ。
ショックが貧血を引き起こすのか、医学的に知らないが、僕が倒れたのは確かだ。
「おい、大丈夫か。高いのか安いのか分からない高安」隣で僕の名前を呼んでいる。
「ああ、川池か」目の前がスーッと明るくなった。
高校で別々になって腐れ縁が切れたと思ったら、卒業後は偶然にも同じ会社に就職していたのだ。新入社員は僕と川池ともう一人の三人だ。
「高安君、大丈夫かね」部長が近づいて来る。
「はい、大丈夫です」あわてて立ち上がるが、川池が余計なことを言う。
「運動会でがんばろうと気合を入れたら、貧血を起こしたみたいです」
気合を入れたら貧血を起こすのか、医学的に知らないが、僕が倒れたのは確かだ。
「ほう、気合かね。そいつは頼もしい」森林部長はうれしそうだ。「高安君には、百メートル走と、二百メートル走と、四百メートル走と、千五百メートル走と、リレーに出てもらうぞ」
何だって! そんなに走らされるの?
最後のリレーって何?
いつも白フダの僕がリレーだって!?
「高安、がんばれよ。デへへ」川池もうれしそうにニヤケている。
「ああ、川池君」部長が呼ぶ。「君も高安君と同じ五種目に出てもらうから、一緒にがんばりなさい。リレーも頼んだよ」
「はい、二人で力を合わせて困難に立ち向かって行きます!」調子がいい。
アホな川池との腐れ縁は続く。
だけど確かに運動会は僕にとって“困難”なことだった。
全社員がどういうチーム編成になるのか知らないが、僕と川池が同じチームになってリレーをやったら、ビリに決まっている。足の遅い人と足の遅い人を足しても、足の早い人にならない。
「それと高安君には選手宣誓も頼むよ」部長が微笑みかける。
「運動会で選手宣誓ですか!」声が裏返る。
選手宣誓なんて、チームの主将がやるのものじゃないのか。
「嫌かね?」目付きが鋭くなる。
「いいえ、ドームで選手宣誓をするのが夢でした。喜んで務めさせていただきます」
心にもないことを、心苦しく言う。
「高安、何だったら一緒に宣誓しようか?」川池が勝手に提案してくる。
「いや、いい。一人でやる」冷たく断る。
男女ペアの選手宣誓は見たことがあるが、男二人で仲良くやる選手宣誓なんか聞いたこともない。入社早々、変なウワサを立てられたらイヤだ。ノッポとチビだから、そういうカップルに見えなくもない。
「ああ、それとね、高安君」
まだあるのか?
「国歌斉唱も頼むよ」
「運動会で国歌を歌うのですか?」
「もちろんだよ」
「五千人を前にしてですか?」
「もちろんだよ」
「普段カラオケにも行かない僕がですか?」
「それは知らんよ。君は姿勢がよくないから、シャキッとして、歌ってくださいよ」
僕は猫背だった。確かに、国歌はシャキッとして歌うべきだ。
「高安、何だったら一緒に歌おうか?」川池がまた提案してくる。
「いや、いい。一人で歌う」また冷たく断る。
君が代をデュエットするなんて不謹慎だ。
それに川池のことだから、勝手に歌詞を変えてくるかもしれない。
やがて、社内運動会の話題は終わり、森林部長は新事業についての話を始めた。
だけど、なかなか僕の頭の中には入って来ない。
さっき国歌を一人で歌うと言ってしまったが、できれば人前では歌いたくない。
小学生のとき、音楽の授業で一人ずつ前に出て、歌を歌うことになった。先生のピアノの伴奏に合わせて歌うのは教科書に載っていた“おお牧場はみどり”だった。
おお牧場はみどり~よくしげったものだ、ホイ!
僕はそのとき、緊張のあまり、最後の“ホイ”を言うのを忘れた。
先生に「ホイは?」と催促され、五秒後に「ホイ!」と叫んだのである。
最後のホイを歌わなかったのは僕だけであり、クラス中が爆笑した。
それからしばらく、僕のあだ名はホイになった。教室にいても、廊下を歩いていても、トイレに入っていても、ホイと呼び捨てにして呼ばれた。授業中、先生からもホイ、答えてみろと言われた。女子からはホイ君と呼ばれて、僕を見て、クスクス笑われた。
おお牧場はみどり事件でのホイがトラウマとなり、僕は人前で歌うのが嫌いになったのだ。
こうして、運動会の競技とは関係ないところで、僕の悩みがまた増えた。
お昼になって、社員食堂へ向かった。
いつもはおいしい社食もイマイチの味だった。
まさか社会人になっても運動会があるなんて、聞いてなかった。
こんなことなら、運動会があるかどうかを事前にリサーチをしてから、就職する会社を決めればよかった。高校はこのリサーチ作戦で、三年間プールの授業から解放されたのだ。
社会人の運動会は全社員五千人の大観衆が見つめるドーム球場でやるらしい。おそらく僕が選手宣誓をしている姿も、国歌斉唱している姿も、五種目の競技で恥をかいている姿も大型ビジョンに映し出されることだろう。
学生時代の運動会とレベルが違う。随分とお金がかかっているし、よりパワーアップしているではないか。こんなことを僕は望んでいない。
ああ、箸が進まない。スプーンもフォークも進まない。食事が喉を通らない。お茶も飲めない。
そんな僕の気も知らず、能天気な川池が訊いて来た。
「高校の体育の授業はどうだった?」
高校は別々だったから、聞きたいらしい。
カレーのスプーンを止めて、ニヤニヤしている。
あーあ、こいつは全然変わらないなあ。
いいよなあ、何の悩みもなく生きてるもんなあ。
「体育の授業か……」
「そうだよ。楽しかった?」
楽しいわけない。思い出したくもないことばかりだ。
たかが体育だけど、辛くて、苦しくて、死にたいほどだった。
周りの人たちはみんな体育ができるので、余計に耐えられなかった。
だけど、よく考えてみたら、社内運動会は一年に一回しかない。マラソン大会も水泳大会もなければ球技大会もない。週に三度の体育の授業もない。
こりゃ、天国じゃないか。まだ生きてるけど。
あの辛かった体育の授業を乗り越えて来た僕にとって、年に一度の運動会なんて大したことではない。体育の時間に比べると屁みたいなものだ。プップップーのプーだ。
僕がこんな気楽に考えることができるなんて、目の前で福神漬けをポリポリ齧っている川池の能天気が空気感染したに違いない。
「いいよ、話してあげるよ」
僕の大嫌いな体育の話を。
どれだけヒドい目に遭って来たのかを話そうじゃないか。
きっと川池はバカ笑いしながら聞いてくれるだろう。
僕はヤケクソになって、唐揚げにかぶりついた――熱っ!
川池に高校時代の体育の授業について話してあげた。
バレーボールでミスをして、殴られそうになったこと。二人三脚で大恥をかいたこと。バドミントンのシャトルをなくし、卓球のピンポン玉をペシャンコにして、先生に怒られたことなどを熱心に話した。
そして最後に、体育の授業の予定を書いていたカレンダーをバラバラにして部屋中にまき散らしたことを、昼休みの時間が終わるギリギリまで食堂に居座り、話し続けた。
川池は一つ一つのエピソードをウンウンと頷きながら聞いてくれた。
そして僕は、あれだけ嫌だった体育の話を笑いながらしている自分に気づいた。
(了)
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