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【芽生えモノ-3】
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火曜日、望美は学校を休んだ。
自転車の件が決め手となり、あれから家へと帰ることを決意した望美に帰宅する途中、いきなり吐き気が襲ってきた。
職員室での出来事が心に深いダメージを与え、そのうえに自転車の無残な姿、ただでさえ病み上がりということもあり弱った状態の望美は体調を崩してしまったのだ。
――そして「ミドリの導火線」の配役が決定する運命の水曜日。
この日の望美は体調が万全ではなかった。しかし「病は気から」と、自分なりに気力を振り絞りなんとか登校した。
崩れた体調と乱れた精神状態の中で、午前の授業と午後の授業をやり過ごし、授業の終わりのチャイムと同時に望美にとって重要な時間は遂に始まりを迎えた。
教室を出てから廊下にある水道で一度だけ口の中をうがいし、頭をスッキリさせてから部室へ向かった。
部室の前へと着いた望美は気持ちが高ぶっているからか、勢いよく扉を開いて中に入っていった。
望美はいつものように軽い挨拶を済ませてからロッカールームに足を運ぶ。
途中、当然と言うべきか、望美は熊田の敵意の込められている視線を感じていた。振り返りはせずにそのままロッカールームに入っていき、うつむきながら扉を閉めた。
一人になった空間で緊張がほぐれたからか、軽くホッと息を吐いた。しかし、うつむいた顔を上げた途端に心臓の鼓動のリズムが乱れた。
誰もいないと思っていたロッカールームの奥で演劇部顧問の上野が、まるで望美がやって来るのを待ち構えていたかのようにして立っていた。
「ど、どうもです先生。今日はよろしくお願いします」
半分、動揺しながらも挨拶をした。
「田辺、いきなりで悪いんだけど話があるわ」
「話ですか?」
「大事な話よ。あなたの今後についての」
それを聞いて、望美は瞬時に話の内容を理解した。
「先生……私は……」
「いいわけは聞かないわ。単刀直入に言わせてもらう」
谷口の時と同様にイジメのことを問い詰めてくるのだろうと望美は思っていた。だが、上野の次の言葉はそうではなかった。
「あなたには演劇部を去ってもらうわ!」
「は?」
強い驚きが望美の心を殴りつけた。
「帰りなさい! あなたはここにいる資格がないわ!」
「た、退部……」
「その通りよ」
「私がなにをしたんですか。私はなにもしてません」
「全て理解しているはずよ。自分がどうして退部になるのか、その理由をね」
「先生も谷口先生と同じで間違ってます」
「谷口先生と話をしたのならわかってるわよね? 間違いをしてしまったのは自分だってことを」
「だからそれは違いますよ!」
「熊田にまでヒドイことをしてとぼけるんじゃないの!」
「千佳子ちゃんも騙されてるんです!」
「なにがどう騙されているのかわからないけど、同じ演劇部の後輩にまで危害を与えたのは許せないわ!」
「私は……」
「もう去るのよ! 話はこれで終わりよ!」
上野は腕を振り、ロッカールームの扉に人差し指を向けた。
「なんにしても、この問題は自分で解決しないといけない。あなたの親にはこの件を言わないであげるから、自分でシッカリ解決しなさい」
「先生……夏のコンクールはどうなるんですか?」
望美は細い声を出し言った。
「あなたには関係ないわ」
その一言で望美は生気の無い人形のようになった。
しばらくして諦めがついたのか、それから演劇部を静かに出ていった。
「望美、今日も学校に行けそうにない?」
母親がベットの上で横たわる望美を見ながら言った。
「うん……ごめんなさい」
虚ろな目をして言葉を返した。
「謝らないでいいのよ。今は一番辛いでしょうし仕方ないわ」
「ありがとうお母さん」
今にも泣き出しそうな顔になりながら、望美は目を閉じて言った。
「どうしてこんなことになったのか、まだお母さんに話してくれないの?」
「それは話したくないの」
谷口や上野、学校側の人間は望美の母親にはこのイジメの件を伏せていた。それは望美本人に一人でケジメをつけさせ、シッカリと責任を果たし、出来事を解決させようという考えのもとでの判断である。そのため、娘が演劇部を退部になったことを母親は知ってはいるが、何故そうなったのか、その原因はわからないでいた。
「どうして話してくれないの?」
「言いたくないの。ごめんなさい」
望美は母親を心配させたくないと考えていた。だから上履きが無くなったことも、他の全ての出来事も話してはいなかった。
「そう……」
生気を失ってしまったかのような望美の顔を見て、母親はこれ以上は無理に訊くまいと残念ながら決めた。
「ごめんねお母さん」
「いいのよ。望美が元気になるまで待つわ」
「ごめんね」
演劇部を退部になってからのこの二週間、望美はずっと学校を休んでいる。
初めは体調不良の理由であったが、心の病が重く、体調が回復した今も精神的な問題で不登校状態になっていた。
青春の舞台で華やかに輝くという望美の夢は失われ、今の望美が立っているのは悲劇の舞台であった。
「でも望美、いつまでもこのままではいられないわ。少しずつでも変えてかないとね」
「そうなんだけど」
「お母さんね、調べたのよ。今の望美にはうってつけの場所を」
「え、どこ?」
「お医者さんのところよ。『柳沼クリニック』って病院なんだけど、心療を専門にしているそうよ。お母さんは今の望美は行くべきだと思うわ」
「そういうところってあんまり行きたくないかも……」
「あら、どうして?」
「だって、周りの人に精神的に病んでるって思われたくないもん」
「なにを言ってるの。誰もそんなように思わないわよ」
「本当かなぁ」
「本当よ。望美は昔から世間体とか人の目を気にしすぎなのよ。今はなにも余計なことは考えないようにしましょう」
「うん、わかった」
「それじゃどうする? 今日から行ってみる? 望美にその気があればだけど」
「どうしようかな」
少しだけ考えたが、窓の外の陽気な景色が望美の視界に入り気持ちが揺らいだ。
「今日はやめる?」
母親は優しく訊いた。
「とりあえず外に出て散歩でもしてくる。病院に行くのはそれから決める」
「それはよかったわ。まずは一歩目が大事よね」
「うん。じゃあ少ししたら出掛けるね」
「そう。ならちゃんとご飯を食べてから行かないとね。朝食は大事なのよ」
「もうすぐでお昼だから昼食だよ」
「なんでもいいわ。スグに作っちゃうわね」
母親は嬉しそうにそう言って部屋から出ていった。
ご飯を食べ終えた望美は着替えを済ませてから約二週間ぶりに家の外へと出た。
家を出る前に母親から「柳沼クリニック」の場所の書かれた一枚のメモ用紙を渡された。
時折、散歩をする中でそれを見てはため息を吐いていた。
(散歩は悪くないと思うけど、さすがに病院とか気が重いわ)
夏の太陽が街並みを照らす中、望美の歩く道だけが陰りを帯びた夜道のように見える。
(散歩がてら近くまで行ってみるかな)
望美はメモ用紙を見ながら行き当たった十字路を左に曲がる。
しばらくして「柳沼クリニック」の手前まで到着した。そして先ほどまでよりも深いため息を吐く。
(やっぱりなんだか気が滅入るわ)
立ち止まったまま、そこから先に足を踏み出すことが出来ないでいた。
(でも、私自身のためには……)
どうするのが自分にとって一番大事なのか望美は理解しているが、どうしても簡単な一歩を踏み出せない。
それから少しの葛藤があったものの、やがて諦めがついたのか、望美は来た道を戻り歩いていった。
精神の疲れによるものなのか、フワフワと浮遊した感覚が望美の身体を包み込んでいた。そんな状態のまま帰宅途中にある「うねめ通り」と「国道四十九号線」の交わる交差点の横断歩道で信号待ちをしていた。
青信号になるのを待つ望美の視界の先に見覚えのある姿があった。
望美の立つ位置とは反対の方向にある歩道を歩いてくる威風堂々としたその姿は、まるで夜の街を闊歩する女帝を連想させる。
特に驚くでも怯むでもない望美は、美那子を視認した中で逃げないと決意を固めた。
(このままじゃいられない)
電波のように送られている望美の視線を感じ取ったのか、美那子は望美に気がつき、今まで弄っていたスマホを閉じてから微笑を浮かべた。
信号は青になり、他の歩行者が横断歩道を渡る中、望美は立ち止まったまま動かない。初めは同じく立ち止まっていた美那子であったが、スグに痺れを切らしたのか早足で向かってきた。
対面した望美には緊張が走ったが、美那子は今まで何事も無かったかのような自然な素振りで話し掛けてきた。
「望美、どうしたの? こんな場所でなにをしてんのよ?」
「散歩」
「こんなクソ暑い中でよくするわね」
「うん」
「よっぽど暇なのねぇ」
「本当だったら学校で授業中なんだけど仕方ないの」
「あら、どうして仕方ないのかしら?」
そう言った美那子の表情は笑みで溢れていた。
「色々合って学校に行けなくなったの」
「色々ってなにかしらね?」
「嫌な出来事が次から次に」
「嫌な出来事ってなにかしら?」
「なにもかも。私はハメられたっていうか、そうなるように追い込まれた」
「どんな感じにかしら?」
「不良グループに暴力を受けた女子達は、私が不良グループに暴力を頼んだから自分達がそんなヒドイ目にあったって思ってる」
「ふんふん、なるほどね」
とぼけながら美那子は言った。
「でも騙されてるだけ。仕組まれた通りに騙されてるだけ」
「それで望美はどうなったの?」
「私にたいするイジメが始まった」
「望美ったらイジメられてるの? なんかお笑いね」
「そう。私はイジメられてる」
「それで? 結果としてどうなったの?」
「演劇部を退部になった。学校に行けなくなった。居場所も無くなって夢も消えたわ」
「あらあら可哀想な子ね。誰のせいでそうなったのかしらね?」
望美は無表情のまま顔色を変えずに指を差す。
なにも感情は込めず、美那子に指を差す。
「そうね」
美那子は自然に言葉を返した。
「全てそう」
「確かにね」
「私はイジメられてる」
「私に? そうかしら?」
「イジメの主犯。どうあってもその事実に変わりはない」
「結果そうなるのかもね。まぁ、それならそれでいいわ」
「そう……」
「それにしても、ちゃんと理解してるのね」
「普通に考えればわかる。そうでしかあり得ない」
「よくわかってるじゃないの」
「うん……」
「で? 望美が役無しってことも理解したかしら?」
美那子のその言葉で望美の中に「種」が植えつけられた。
「そう……私は役無し」
「望美の青春は悲劇の舞台よね」
「そう……全ての原因は……」
「人のせいにばっかしてんじゃないわよ!」
望美の恨めしい表情に美那子は苛立った。
「魅力が足りないのが悪いのよ。本当に演劇部に必要な人間なら退部にならないし、脇役程度なら与えられたんじゃないの?」
「違う! きっと私は輝けた!」
「あっそ。もう面倒だし暑いし帰るわ」
「まだ話は終わってない!」
「話しても意味なんかないわ」
「そんなことない!」
「とりあえず、もう誰にも手は出さないから安心しなさいよ」
「そんなの当たり前!」
「まぁ、学校で望美にたいするイジメがどうなるのかまでは知らないけどね」
「誤解を解いてよ! 誤解を解いて私の青春を元通りにしてよ!」
「自分でどうにかしなさいよ。私には関係ないわぁ」
「そんな……」
「それじゃ頑張ってね」
それだけ言って、美那子は郡山駅方面へと歩いていった。
美那子の後ろ姿を見詰める望美の中では、栄養を盛り沢山に含んだ肥料を与えられたかのように憎しみの種が育ち始めていた。
(許さないわ……)
そう固く心に誓い、望美は気持ちを改めて「柳沼クリニック」へと向かった。
それから流れた月日の中での高校生活は、なに一つ彩りのないモノクロのような青春であった。
不登校がちになりながらも、たまに学校には行ったりもし、なんとか卒業は出来るだけの最低限の単位と出席日数をとってはいた。
時々は「柳沼クリニック」に顔を出したりしては心の治療に専念したりもしていた。
しかし、たまに学校に行けば相変わらずのイジメは望美に襲いかかり、重ね重ねのストレスは積み重なる一方。結局、望美は母親になにも教えず話さず、そしてクラスの女子達や後輩の熊田に植えつけられている誤解を解こうと行動することもなく、なにも変わらずに月日の流れに乗っていった。
卒業式を迎えた望美が卒業証書を校長から手渡されたあとに壇上に立ちながら思ったことは自分の青春。
悲劇の舞台の幕が上がってから一年半ほどが経過し、そんなこれまでを走馬灯のように思い返しては顔を般若の面みたいに歪めた。
卒業証書を片手に壇上から離れていく望美の背景には、舞台の終焉を告げるかのように目には見えない幕が下りてきた。
ここに望美の青春は終わりを迎えた。
自転車の件が決め手となり、あれから家へと帰ることを決意した望美に帰宅する途中、いきなり吐き気が襲ってきた。
職員室での出来事が心に深いダメージを与え、そのうえに自転車の無残な姿、ただでさえ病み上がりということもあり弱った状態の望美は体調を崩してしまったのだ。
――そして「ミドリの導火線」の配役が決定する運命の水曜日。
この日の望美は体調が万全ではなかった。しかし「病は気から」と、自分なりに気力を振り絞りなんとか登校した。
崩れた体調と乱れた精神状態の中で、午前の授業と午後の授業をやり過ごし、授業の終わりのチャイムと同時に望美にとって重要な時間は遂に始まりを迎えた。
教室を出てから廊下にある水道で一度だけ口の中をうがいし、頭をスッキリさせてから部室へ向かった。
部室の前へと着いた望美は気持ちが高ぶっているからか、勢いよく扉を開いて中に入っていった。
望美はいつものように軽い挨拶を済ませてからロッカールームに足を運ぶ。
途中、当然と言うべきか、望美は熊田の敵意の込められている視線を感じていた。振り返りはせずにそのままロッカールームに入っていき、うつむきながら扉を閉めた。
一人になった空間で緊張がほぐれたからか、軽くホッと息を吐いた。しかし、うつむいた顔を上げた途端に心臓の鼓動のリズムが乱れた。
誰もいないと思っていたロッカールームの奥で演劇部顧問の上野が、まるで望美がやって来るのを待ち構えていたかのようにして立っていた。
「ど、どうもです先生。今日はよろしくお願いします」
半分、動揺しながらも挨拶をした。
「田辺、いきなりで悪いんだけど話があるわ」
「話ですか?」
「大事な話よ。あなたの今後についての」
それを聞いて、望美は瞬時に話の内容を理解した。
「先生……私は……」
「いいわけは聞かないわ。単刀直入に言わせてもらう」
谷口の時と同様にイジメのことを問い詰めてくるのだろうと望美は思っていた。だが、上野の次の言葉はそうではなかった。
「あなたには演劇部を去ってもらうわ!」
「は?」
強い驚きが望美の心を殴りつけた。
「帰りなさい! あなたはここにいる資格がないわ!」
「た、退部……」
「その通りよ」
「私がなにをしたんですか。私はなにもしてません」
「全て理解しているはずよ。自分がどうして退部になるのか、その理由をね」
「先生も谷口先生と同じで間違ってます」
「谷口先生と話をしたのならわかってるわよね? 間違いをしてしまったのは自分だってことを」
「だからそれは違いますよ!」
「熊田にまでヒドイことをしてとぼけるんじゃないの!」
「千佳子ちゃんも騙されてるんです!」
「なにがどう騙されているのかわからないけど、同じ演劇部の後輩にまで危害を与えたのは許せないわ!」
「私は……」
「もう去るのよ! 話はこれで終わりよ!」
上野は腕を振り、ロッカールームの扉に人差し指を向けた。
「なんにしても、この問題は自分で解決しないといけない。あなたの親にはこの件を言わないであげるから、自分でシッカリ解決しなさい」
「先生……夏のコンクールはどうなるんですか?」
望美は細い声を出し言った。
「あなたには関係ないわ」
その一言で望美は生気の無い人形のようになった。
しばらくして諦めがついたのか、それから演劇部を静かに出ていった。
「望美、今日も学校に行けそうにない?」
母親がベットの上で横たわる望美を見ながら言った。
「うん……ごめんなさい」
虚ろな目をして言葉を返した。
「謝らないでいいのよ。今は一番辛いでしょうし仕方ないわ」
「ありがとうお母さん」
今にも泣き出しそうな顔になりながら、望美は目を閉じて言った。
「どうしてこんなことになったのか、まだお母さんに話してくれないの?」
「それは話したくないの」
谷口や上野、学校側の人間は望美の母親にはこのイジメの件を伏せていた。それは望美本人に一人でケジメをつけさせ、シッカリと責任を果たし、出来事を解決させようという考えのもとでの判断である。そのため、娘が演劇部を退部になったことを母親は知ってはいるが、何故そうなったのか、その原因はわからないでいた。
「どうして話してくれないの?」
「言いたくないの。ごめんなさい」
望美は母親を心配させたくないと考えていた。だから上履きが無くなったことも、他の全ての出来事も話してはいなかった。
「そう……」
生気を失ってしまったかのような望美の顔を見て、母親はこれ以上は無理に訊くまいと残念ながら決めた。
「ごめんねお母さん」
「いいのよ。望美が元気になるまで待つわ」
「ごめんね」
演劇部を退部になってからのこの二週間、望美はずっと学校を休んでいる。
初めは体調不良の理由であったが、心の病が重く、体調が回復した今も精神的な問題で不登校状態になっていた。
青春の舞台で華やかに輝くという望美の夢は失われ、今の望美が立っているのは悲劇の舞台であった。
「でも望美、いつまでもこのままではいられないわ。少しずつでも変えてかないとね」
「そうなんだけど」
「お母さんね、調べたのよ。今の望美にはうってつけの場所を」
「え、どこ?」
「お医者さんのところよ。『柳沼クリニック』って病院なんだけど、心療を専門にしているそうよ。お母さんは今の望美は行くべきだと思うわ」
「そういうところってあんまり行きたくないかも……」
「あら、どうして?」
「だって、周りの人に精神的に病んでるって思われたくないもん」
「なにを言ってるの。誰もそんなように思わないわよ」
「本当かなぁ」
「本当よ。望美は昔から世間体とか人の目を気にしすぎなのよ。今はなにも余計なことは考えないようにしましょう」
「うん、わかった」
「それじゃどうする? 今日から行ってみる? 望美にその気があればだけど」
「どうしようかな」
少しだけ考えたが、窓の外の陽気な景色が望美の視界に入り気持ちが揺らいだ。
「今日はやめる?」
母親は優しく訊いた。
「とりあえず外に出て散歩でもしてくる。病院に行くのはそれから決める」
「それはよかったわ。まずは一歩目が大事よね」
「うん。じゃあ少ししたら出掛けるね」
「そう。ならちゃんとご飯を食べてから行かないとね。朝食は大事なのよ」
「もうすぐでお昼だから昼食だよ」
「なんでもいいわ。スグに作っちゃうわね」
母親は嬉しそうにそう言って部屋から出ていった。
ご飯を食べ終えた望美は着替えを済ませてから約二週間ぶりに家の外へと出た。
家を出る前に母親から「柳沼クリニック」の場所の書かれた一枚のメモ用紙を渡された。
時折、散歩をする中でそれを見てはため息を吐いていた。
(散歩は悪くないと思うけど、さすがに病院とか気が重いわ)
夏の太陽が街並みを照らす中、望美の歩く道だけが陰りを帯びた夜道のように見える。
(散歩がてら近くまで行ってみるかな)
望美はメモ用紙を見ながら行き当たった十字路を左に曲がる。
しばらくして「柳沼クリニック」の手前まで到着した。そして先ほどまでよりも深いため息を吐く。
(やっぱりなんだか気が滅入るわ)
立ち止まったまま、そこから先に足を踏み出すことが出来ないでいた。
(でも、私自身のためには……)
どうするのが自分にとって一番大事なのか望美は理解しているが、どうしても簡単な一歩を踏み出せない。
それから少しの葛藤があったものの、やがて諦めがついたのか、望美は来た道を戻り歩いていった。
精神の疲れによるものなのか、フワフワと浮遊した感覚が望美の身体を包み込んでいた。そんな状態のまま帰宅途中にある「うねめ通り」と「国道四十九号線」の交わる交差点の横断歩道で信号待ちをしていた。
青信号になるのを待つ望美の視界の先に見覚えのある姿があった。
望美の立つ位置とは反対の方向にある歩道を歩いてくる威風堂々としたその姿は、まるで夜の街を闊歩する女帝を連想させる。
特に驚くでも怯むでもない望美は、美那子を視認した中で逃げないと決意を固めた。
(このままじゃいられない)
電波のように送られている望美の視線を感じ取ったのか、美那子は望美に気がつき、今まで弄っていたスマホを閉じてから微笑を浮かべた。
信号は青になり、他の歩行者が横断歩道を渡る中、望美は立ち止まったまま動かない。初めは同じく立ち止まっていた美那子であったが、スグに痺れを切らしたのか早足で向かってきた。
対面した望美には緊張が走ったが、美那子は今まで何事も無かったかのような自然な素振りで話し掛けてきた。
「望美、どうしたの? こんな場所でなにをしてんのよ?」
「散歩」
「こんなクソ暑い中でよくするわね」
「うん」
「よっぽど暇なのねぇ」
「本当だったら学校で授業中なんだけど仕方ないの」
「あら、どうして仕方ないのかしら?」
そう言った美那子の表情は笑みで溢れていた。
「色々合って学校に行けなくなったの」
「色々ってなにかしらね?」
「嫌な出来事が次から次に」
「嫌な出来事ってなにかしら?」
「なにもかも。私はハメられたっていうか、そうなるように追い込まれた」
「どんな感じにかしら?」
「不良グループに暴力を受けた女子達は、私が不良グループに暴力を頼んだから自分達がそんなヒドイ目にあったって思ってる」
「ふんふん、なるほどね」
とぼけながら美那子は言った。
「でも騙されてるだけ。仕組まれた通りに騙されてるだけ」
「それで望美はどうなったの?」
「私にたいするイジメが始まった」
「望美ったらイジメられてるの? なんかお笑いね」
「そう。私はイジメられてる」
「それで? 結果としてどうなったの?」
「演劇部を退部になった。学校に行けなくなった。居場所も無くなって夢も消えたわ」
「あらあら可哀想な子ね。誰のせいでそうなったのかしらね?」
望美は無表情のまま顔色を変えずに指を差す。
なにも感情は込めず、美那子に指を差す。
「そうね」
美那子は自然に言葉を返した。
「全てそう」
「確かにね」
「私はイジメられてる」
「私に? そうかしら?」
「イジメの主犯。どうあってもその事実に変わりはない」
「結果そうなるのかもね。まぁ、それならそれでいいわ」
「そう……」
「それにしても、ちゃんと理解してるのね」
「普通に考えればわかる。そうでしかあり得ない」
「よくわかってるじゃないの」
「うん……」
「で? 望美が役無しってことも理解したかしら?」
美那子のその言葉で望美の中に「種」が植えつけられた。
「そう……私は役無し」
「望美の青春は悲劇の舞台よね」
「そう……全ての原因は……」
「人のせいにばっかしてんじゃないわよ!」
望美の恨めしい表情に美那子は苛立った。
「魅力が足りないのが悪いのよ。本当に演劇部に必要な人間なら退部にならないし、脇役程度なら与えられたんじゃないの?」
「違う! きっと私は輝けた!」
「あっそ。もう面倒だし暑いし帰るわ」
「まだ話は終わってない!」
「話しても意味なんかないわ」
「そんなことない!」
「とりあえず、もう誰にも手は出さないから安心しなさいよ」
「そんなの当たり前!」
「まぁ、学校で望美にたいするイジメがどうなるのかまでは知らないけどね」
「誤解を解いてよ! 誤解を解いて私の青春を元通りにしてよ!」
「自分でどうにかしなさいよ。私には関係ないわぁ」
「そんな……」
「それじゃ頑張ってね」
それだけ言って、美那子は郡山駅方面へと歩いていった。
美那子の後ろ姿を見詰める望美の中では、栄養を盛り沢山に含んだ肥料を与えられたかのように憎しみの種が育ち始めていた。
(許さないわ……)
そう固く心に誓い、望美は気持ちを改めて「柳沼クリニック」へと向かった。
それから流れた月日の中での高校生活は、なに一つ彩りのないモノクロのような青春であった。
不登校がちになりながらも、たまに学校には行ったりもし、なんとか卒業は出来るだけの最低限の単位と出席日数をとってはいた。
時々は「柳沼クリニック」に顔を出したりしては心の治療に専念したりもしていた。
しかし、たまに学校に行けば相変わらずのイジメは望美に襲いかかり、重ね重ねのストレスは積み重なる一方。結局、望美は母親になにも教えず話さず、そしてクラスの女子達や後輩の熊田に植えつけられている誤解を解こうと行動することもなく、なにも変わらずに月日の流れに乗っていった。
卒業式を迎えた望美が卒業証書を校長から手渡されたあとに壇上に立ちながら思ったことは自分の青春。
悲劇の舞台の幕が上がってから一年半ほどが経過し、そんなこれまでを走馬灯のように思い返しては顔を般若の面みたいに歪めた。
卒業証書を片手に壇上から離れていく望美の背景には、舞台の終焉を告げるかのように目には見えない幕が下りてきた。
ここに望美の青春は終わりを迎えた。
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