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十五章
しおりを挟む軽く跳ねた黒い影が、欄干を飛び越える。
敖暁明は気を失った妓女を放り、再び永月楼の中に戻った。
中庭の井戸の側まで来ると、被っていた頭巾を取る。生まれつき夜目が効く彼は、暗闇の中服装を確認した。
血痕は──一つも付いていない。
敖暁明は乱れた襟を直し、土埃がついた胸元を叩く。
彼は長い間我慢していた。
朱丽に押し付けられた他人の唇を、許せるはずもない。
汚らしい商売をしているここの楼主も、時が来たら処分しなければならない。
その為には、凌玉を取り込む必要があった。
だからこそ、彼女の話を聞きに来たのだ。
「──公子。お待たせしてしまい申し訳ございません」
潜めたられた娘の声は微かに震えていて、緊張しているのか、それとも──
「いや、私も今来たところだから」
敖暁明は腹の黒さを仕舞い込み、穏やかな笑みを浮かべる。
現れた凌玉は覚悟を決めたのか、突然彼の足元に跪くと頭を地面にぶつけた。
「……あなた様がどのような身分の方か存じ上げません。ですが、わたくしを呼ぶことができるのであれば、貴い方だとわかっています。どうか、わたくしを助けてくださいませんか」
手入れされているのであろう長髪がはらはらと流れ落ち、泥がつく。
敖暁明はただ黙って、その様子を見つめていた。
しかしそろそろ手を伸ばさねば、人情を疑われるというものだ。
「わたくしにはもう、一刻の猶予も……」
彼は仕方なく身を屈め、彼女の薄い肩を起こした。
「頭を上げて。それは何に対しての猶予だ?」
「五日後。五日後になったらわたくしは……太子殿下の女官にならねばなりません」
「ああ──」
なるほど。
想像していたよりも、彼女は良い手駒になりそうだ。
だが、気に入っているのであろう凌玉を妾妃にすらしないとは。
正に一時の玩具といったわけだ。
敖暁明の唇に、嘲りが浮かぶ。
全く、こんなのと血が繋がっているとは。本当に嫌になる。
「そんなの、牢獄から牢獄へと移されるだけでございます」
「……運が良ければ宮中という化物に飲み込まれず、生きて出られるだろう」
敖暁明の沈痛な声音に、凌玉はふらふらと立ち上がり顔を上げた。
「公子……」
彼女は辛うじて縋っていた藁すらも奪われた様子で、呆然と敖暁明を見つめる。
──確かに助けられないことはない。
一時凌ぎではあるが、太子が凌玉のことに構っていられなくなる程の騒ぎを起こせばいいだけだ。
方法はいくつかあるが……彼女の話は本当なのか見極めなければならない。もし実行するのならば、凌玉が裏切らない担保も必要だ。
「私があなたを助けたとしても、お互いに痛手を負う可能性の方が高い」
「……っこれがわたしくしの覚悟でございます」
このままでは埒があないと思ったのか、凌玉は懐から何かを取り出す。
彼女が震える手で掴んでいたのは、永月楼の帳簿だった。
それは、喉から手が出る程欲しかったものだ。
物証になり得る、唯一の切り札。
敖暁明は凌玉から帳簿を受け取ると、ばらばらと簡単に目を通す。
そして明らかに、稼いでいるであろう額よりも納税額が少なかった。
やはり──
「過少申告しているのか」
「はい。浮いた分の税は……太子殿下に流れています」
楼主と太子の癒着──悪くない手札だ。
・・・
「朱丽」
月が落ち始めた頃。
敖暁明が約束通り黒橋まで行くと、川を眺める背の高い男が居た。
「来たか」
振り向いた彼に合わせて、紅と黒の髪が揺れる。
朱丽は、目的のものが手に入った、と満足気に敖暁明の肩を叩いた。
そして、彼が話すよりも先に答えを示す。
「五日後、城に行くぞ。暁明」
「え?」
「堂々と、正門からだ」
面の下で細められた桃花眼は、まるで敖暁明の心を見透かしているようだった。
──朱丽は一体、どこからどこまで知っているのだろうか。
そしてどこからどこまでか、彼の手の内なのだろうか。
そう思わずにはいられない。
朱丽のことを知るにはまだ、何もかもが足りない。
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