香散石

ぬくぬくココナッツ

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四章

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「早く寝ないと小さいままだぞ」

 長髪が天に舞う。

 朱丽の髪は、頭部から顎下まで紅く、毛先にかけて黒くなっていた。毛先の黒が闇に溶け、紅色だけが浮かび上がる。その様子はまるで、夜に咲く鮮やかな花のようだった。

「──何を、しているの」
「舞だ。代々王にだけ継承される、な」

 美しく縁を描いた剣先が月を刺す。

「考え事は、まとまったか」
 全てを見透かしたような声音は、不愉快な筈なのに何故か心を落ち着かせる。
 敖暁明はぼんやりと、月光の中浮かぶ面の男を見つめた。

 この男の側は、どうしてこんなに居心地が良いのだろうか。いや、簡単なことだ。 
 彼からは、全く悪意を感じない。

 この世に生まれてからずっと、周りの全てが悪意に満ちていた。皇位争い、妬み、憎しみ。それらの醜い感情だけが私を取り巻いていた。隙あらば権力を手にしようとする狸爺の大臣共、媚を売ってくる身の程知らずの宦官、策略を図る醜い妾妃達。そして絶対的な力に溺れた実父、皇位を狙う血が繋がった肉塊共。身を蝕む悪意、悪意、悪意──

 じっと見つめてくる敖暁明に、朱丽は一度剣舞を止める。

「そなたにも特別に教えてやろう。来い。体を動かした方が頭が冴えるぞ」
 敖暁明の足が、緩慢な動作で前に出た。彼は花に群がる蝶のように、手招きをする朱丽に吸い寄せられる。
 敖暁明の背に回った朱丽が、剣を握らせた。
「そなたは、どうして生きたい?」

 少年の手首を掴み、背後から抱くようにゆっくりと動きを教える。敖暁明は背に感じる人の暖かさに、下唇を喰んだ。
「……憎しみは晴らしてこそ過去の自分に報いることができる。それに……」
「それに?」
「探している人が、いるから」
「ほお」

 もう何年も前の話だ。
 まだ幼かった頃──確か四歳だっただろうか。

 寒い冬の日、宮中の池に突き落とされた。揺れる水面を見ながら、ただ静かに溺れるしかなかった。このまま沈み行くのだろうと、死を垣間見た。
 だがその時、救ってくれた女性が居たのだ。残念なことに、視界がぼやけていた所為で、鮮やかな額の花鈿しか覚えていないが。

 だからいつの日か彼女を見つけ出して、礼を言いたい。

「そなた覚えるのが早いな。見込みがある。一人でやってみるか」
 突然背後の熱源が離れ、物思いに耽っていた敖暁明はゆっくりと顔を上げた。

 先程した一連の動きを再現し、上に剣を投げる。そこまでは問題なかったが、やはり素人だった所為か円を描き落ちてきた剣は軌道を逸れてしまった。
 剣先が、敖暁明に向かう。彼の瞳孔が開き、膝の骨が軋んだ。

 途端、金属がぶつかる騒々しい音が響く。

 突き出された鞘が、剣を弾き飛ばしていた。

 剣先が少年の首筋を掠め、横に赤い線を描く。ガシャンッと剣が地に落ちた。
 鞘を下ろし、緩慢な動作で近づいて来た朱丽は敖暁明の正面に立つ。彼が身を屈めると、ふ、と熱い呼気が肌を撫で、敖暁明はぞくりと震えた。

「あまり気を抜いているとすぐに死ぬぞ……子犬よ」

 潜められた声が鼓膜を犯す。
 熱い舌が首筋を這った。

 びくりと敖暁明の肩が跳ね、眦に色が乗る。

 ──ああ、もういい。
 どんな理由で助けられたとしても、この男は私の救いだ。

 敖暁明の目がそっと細められた。
 二色の髪がはらはらと零れ落ち、身を起こした朱丽は、うん? と首を傾げる。

 鈍痛を訴える首の切傷が、熱を放った。

 その面の下を暴きたくて堪らない。


・・・


 心地よい風が書塔の飾り窓を通り抜ける。高い位置で一つに結われた髪が揺れた。

 振り向いた若々しい青年は、強い日差しに杏眼を細める。背が高く、鍛えられ筋肉に覆われた肉体は男として申し分ない魅力を放っている。そして端麗な顔をした彼は人を惹きつけるが、無表情故に冷たい印象が強かった。

 青年── 敖暁明は、壁一面の書棚の隙間を縫って歩く。目的の書棚まで来ると、一冊の書物を引き出した。
 ぱらぱらと捲っていくと、絡み合う男女の図が現れる。彼は興味なさげに幾らか捲り続けた後、再び書棚に戻した。

 やはりあまりにも歳が離れている例はないのか……?
 敖暁明は別の春宮図を取り、口元に手を当てじっと考え込んでいると、背後から第三者の腕が現れた。

 持っていた春宮図を奪われ、面倒臭い男が来たと目線を流す。
「返せ」
「あー?何だ、何読んでんのかと思えば発情期か?」
 蔣浩宇は肩眉を上げ、楽し気に笑う。そのまま書塔から出ると、偶然少し先の廊を歩いていた面の
男に大声で話しかけた。

「王よ。犬が発情してまーす」
 蔣浩宇の方を向いた朱丽は進行方向を変え、書塔の方へやって来る。丁度書塔から出た敖暁明に目線を遣り、何故か頷いた。
「そなたらは本当に仲がよいな」

 敖暁明は朱丽に見えない角度から蔣浩宇の脇腹をど突き、柔らかい笑みを浮かべる。
「よくない。私と仲が良いのは朱丽だけだよ」

 彼の薄い唇が弧を描き、漆黒の瞳が朱丽だけを見つめた。
「朱丽は私の飼い主だから」

 それを聞いた蔣浩宇はげっと舌を出す。朱丽は袖の下で腕を組んだまま、そうか、と口を開いた。
「じゃれるのは程々にしておけ」
「うん」
 紅と黒の髪が風に靡き、香草の香りが敖暁明の鼓動を忙しなくさせる。

 そして朱丽の背が見えなくなると、蔣浩宇と視線が交わった。

 途端、拳がぶつかり合い骨が軋んだ。
 敖暁明は飛んでくる拳を肘で弾き返し、癪に触る男の半月板を蹴り飛ばす。
「ははっ貧弱な犬じゃ王も飼う意味がないだろうによく飼ってもらえてるな」
 殴り合う激しい音が静かな廊に響く。床板が二人の男の体重にギシギシと音を立てた。
「その貧弱な犬と殴り合ってるのは誰だ?まあ頭が弱点のようだから、それも理解できていないのかもしれないが」

 一瞬廊が静まり返り、二人は腰に下げていた剣に手をかける。

 一斉に抜剣した瞬間、突然敖暁明の視界から蔣浩宇が消えた。

 彼は目を瞬かせ、廊の下を覗き込む。すると、庭に蹴り飛ばされひっくり返った蔣浩宇の姿があった。
「いってええーッ!」

 肩を押さえ、のたうち回る彼はどうやら脱臼したらしい。敖暁明はいい気味だと助けもせず眺めていたが、今度は背後から肩を踏みつけられた。
「っゔ」

 強制的に跪かせられた敖暁明は、肩に乗る足を辿る。その先には、面をつけた男が居た。

「本王の話を聞いていたか?躾のなってない犬だ」

 しくじった。あの馬鹿の所為だ。
 朱丽が怒っていることを察した敖暁明は、口を閉じる。
 やはり後で蔣浩宇は殺した方がいいと、頭の片隅で書き記した。
「朱丽、これは──」
 彼は上目遣いで甘い声を出すが、そのまま蹴り飛ばされ廊に転がった。
 頭を押さえ身を起こすと、朱丽は既に歩き出している。

「来い」

 敖暁明はぱっと立ち上がり、飼い主の背を追った。
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