香散石

ぬくぬくココナッツ

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二章

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 拾った『犬』の元を離れた朱丽は長い廊を抜けると、私室の扉を蹴り開けた。

 血で汚れた外衣を脱ぎ捨て、手を袖で拭い、顔につけている面を落とす。長髪が散り、隠されていた美しいかんばせが露わになった。

 薄い唇は赤く色づき、まるで人を食ったように鮮やかだ。長い睫毛が、目元に影を落とす。釣り眉によって、垂れ目が強調されていた。額の花鈿が、人ならざる雰囲気に拍車をかける。

 浮世離れした容姿を持つ彼だったが、あくまで動きは戦闘民族の王らしいものだった。
 乱雑に床に落とした衣を蹴り上げ、行儀悪く足で椅子の背に掛ける。ものの数秒で薄い里衣だけになった。

 美しく筋肉がついた背に生地が張り付き、細い腰を腰帯が覆っている。朱丽は、頭部から毛先へ向かって紅から黒へ変わる髪に指を絡めた。緩く纏め上げて、白い頸を露わにする。
「犬の面倒を見るのは中々大変だな」

 彼は代わりの衣を棚から引っ張り出し、適当に身につけた。そして立ったまま、己の口に指を突っ込む。

 すると、喉の奥から紐のついた鍵を吐き出した。
 放り投げた面を拾い上げ、再び身につける。彼は部屋の角に行き、重い書棚を軽々と退かした。空いた床の上に立つと、二回床板を踏む。途端、床がギッと軋み、人が一人入れる程の四角い穴が現れた。

 朱丽は地下に暗く伸びる階段に足をかけ、ゆっくりと降りて行った。


 夜目が効く彼は灯を灯すこともなく、暗闇の中正確に鍵を扉に差す。錠が回る軽い音が静寂に響いた。
 朱丽の長い指が扉を押し開く。

 隠されていた部屋は狭く、中には大きな丸い卓だけがある。しかし、その卓上には夥しい数の溶けた蝋燭が渦を巻きながら並べられていた。

 彼は新しい蝋燭を懐から取り出し、渦の続きになるように置く。そして火折子の蓋を外すと、着けている面をずらし息を吹きかけた。

 灯った火が、赤い唇を浮かび上がらせる。朱丽は面を戻し、火を蝋燭に移した。
 どろりと溶けていくそれを見つめながら、彼は小さく呟く。

「──敖暁明……」

 朱丽は暫くの間立ち続けていたが、突然顔を上げた。本能で少し先の気配を察したのだ。

 彼は隠し部屋を後にすると、慌てる素振りもなく階段を上り書棚を戻す。いつも通り衝立の後ろの榻に寝転がった時、部屋の扉を叩かれた。

 若い男の声が外から響く。
「王よ。鈴弦が揺れました」
 すると朱丽の、ああ、という気の抜けた声が落ちた。彼はどうでも良さそうに、面の下で欠伸をする。

 領地の全てに張り巡らされている鈴弦に何かが当たったということは、侵入者がいると言うことだ。愚かで哀れな獲物が。

「我らが始末して参ります」
 朱丽は寝転がったまま頬杖をつき、了承した。
「ああ──いや」

 しかしふとある事に思い至り、考えを改める。

「本王の子犬は何処にいる?」


 その頃。
 本殿に程近い部屋の扉が開き、美しい少年が顔を出した。

 敖暁明は左右を見回し、忍足で長い廊に出る。誰も居ないことを確認すると歩き始めた。探索するためだ。

 土地勘がないのは危険過ぎる。ある程度建物の配置や領域となっている敷地を頭に入れておいた方が良い。それが後々、己を助けることになるだろう。

 彼は本殿を避け、自身が出た部屋から南へ向かい、北へ向かい、そして建物の外へ出た。

 一度立ち止まり、暫く考え込んだ彼はゆっくりと木々が生い茂る森の方へ足を進める。
 もしかしたら、乳母の死体を弔うくらいはできるかもしれないと思ったからだ。カラスに食われていなければ──最悪、骨だけでも。

 どれだけ進んだからわからない程の木々を、敖暁明は抜け続けた。

 そして恐らく、この一族の領地の境目であろう森の端までやって来る。ここから先を長い間下っていけば、きっと民家が現れ、商家が並び、家だった忌々しい場所に着くだろう。

 敖暁明の一つに括った長髪が、風に舞った。彼は強風に目を瞑り、下を向く。肌を撫でる風が治ったと、微かに目を開けた。すると突然視界に、複数の靴先が現れた。

「──!」

 敖暁明は瞬時に状況を悟り、森の中に踵を返す。

 迂闊だった。まだ私を追っていたのか──差し向けられた刺客達が。

 敖暁明はまるで昨日を繰り返すように、木々の隙間を縫って走った。足音の数からすると、数十人は居るだろう。
 このままでは足だけが速くなりそうだ、などとくだらないことを考えた所で、冷たい刃物が背を掠める。

 ぞくりと背筋が戦慄き、前につんのめった。

 ああ、今転んだら確実に斬り殺されるだろうな。
 ゆっくりになっていく景色を眺めて、敖暁明は唇を噛み締めた。

 悔しい──惨めで弱い己の姿が。憎い──自身を害し続けた畜生共が。そして少しだけ、悲しい。誰にも愛されることがなかった人生を、自分自身で憐れんでしまうことが。

 空っぽな人生を送った私には、最期に見る走馬灯なんてありはしない。

 彼の背後の剣が、哀れな命を奪る──


 静寂がこの場を支配し、騒めく木々の音だけが聞こえた。
 そして目を瞑っていた敖暁明は、何故か斬られることなく前に倒れ込んだ。

 斬られた筈では、なかったのか?
 そう思った時、ぼすっと暖かい何かにぶつかった。

「子犬よ、よく生きていたな」

 面が日差しを照り返す。

 紅と黒の長髪が風に靡き、敖暁明の視界で揺れた。混じり気のない漆黒の瞳に、上背のある男が映り込む。

「……朱丽……」

 男の懐に抱かれた少年の心臓が、どくんと収縮した。
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