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第二章
第63話/ふるさとのあの香りは
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2023年7月17日(月) 24:00
ほとんど新月といっていい暗い夜空は、厚い雲に覆われていた。
雲の層が町の光を照り返すぶん、晴れた夜空よりもむしろ明るく見える。
その鈍色の空の下、唯はエリーの自宅の屋根の上で本を開いていた。
この程度の光量があれば、妖化した唯が読書するには十分に事足りる。
屋根の上の夢魔は、およそ町中で晒してよい姿格好をしてはいないが、今日の夜空を見上げる奇特な人はいないだろうし、ほとんど夜闇に溶けるようカモフラージュもしているので、妖艶な曲者の存在に気付くものはいないだろう。
唯が身に着ける漆黒のドレスグローブは、両手の指と手のひらを素肌のまま残し、肘までを覆っている。もし指の先までスッポリとこの不思議な質感に包まれてしまっていたら紙の本など読めたものではなかっただろう。
指の腹の指紋、そして汗腺から分泌されるわずかな湿り気により、ストレスなく自在にページを繰ることができる。
また本文用紙という、インクが印字された本の表層に素肌で触れることにも唯は特別な意味を見出していた。本の肌と自分の肌とが触れ合い、次第に本の世界は唯の中に染み込み、唯も本の世界に没入していく。
唯がページを繰るのは、自宅から持参した『赤毛のアン』のシリーズ第二集。
『アンの青春』と銘打たれたこの巻は、16歳のアンが18歳になるまでの話だ。ちょうど唯たちと同じくらいの年齢のアンが人々との交流や様々な葛藤を通じ、大人へと成長をしていく。大人でも子どもでもない、何か同一性を失調した特定の時期を、人は“青春”と呼ぶらしい。
唯は子どもの頃にシリーズを通して読んだものだが、改めて復習した上で原書にチャレンジするのもいいかもしれないと思った。つまりエリーとは逆の作戦である。
翻訳には意訳や誤訳も少なからずあるだろうから、両方照らし合わせることでより立体的に物語を理解できる気がしたのだ。
なにより、その土地の言葉で書かれた文章というのは、音の響きという面で何ものにも代え難い説得力を持つものだ。
以前、古典の授業で李白の『静夜思』という五言節句を扱ったときだった。
ちょうど中国からの留学生がいたタイミングだったので教師の要請でネイティブの発音で詩を読んでもらったのだが、唯は衝撃のあまり椅子から転げ落ちるかと思った。
唯だけではない。彼が読み終わった後、教室中がため息ひとつ立てるのも憚られるほどに静まり返ったのを覚えている。
牀前看月光
疑是地上霜
挙頭望山月
低頭思故郷
床につく前、射し込む月の光を見る。
地上に降りた霜のようではないか。
頭を上げて、山の端の月を見上げる。
そして頭を垂れて故郷に思いを馳せるのだ。
あいにく、月が見えない夜だ。
それに緯度が高く、またほとんど地球の裏側にあるカナダだと月の見え方もだいぶ異なるかもしれない。
エリーはこの町で何を見て、何に対して故郷を思うのだろうか。
エリーの部屋は2階の東側だった。
深夜0時を回っているが、部屋のカーテンの隙間からは光が漏れ出たままだ。
「そろそろ寝てくんないかな……」
唯は大きなあくびをひとつして、文庫本のカバージャケットの折り返し部分を栞代わりに本を閉じる。
昼間、図書館で中途半端に眠らせたのがよくなかったのかもしれない。
図書館で眠る行為は褒められたものではないが、座席がまばらに空いていたこともあり幸いお目溢しをされたようだった。
やはり普段よく眠れていないのだろう。リラックス効果が期待できるアロマを風上から送ってあげはしたが、それを差し引いても笑えるくらいに泥だった。
図書館の机に突っ伏せたエリーの長いまつ毛はピクリとも動かず、放っておいたら浮遊するホコリがひたすら溜まっていくように思えた。
赤色の髪は、やや西に傾いた光を浴びてオレンジゴールドの色に染まる。
そして筋の通った鼻の先端はいくらか丸みを帯びていた。それが加齢とともに鋭くなっていくのか、それとも丸みが膨らんでいくのか想像がつかない。
それは絶妙な“あわい”だった。
子どもと大人のあわい。モンゴロイドとコーカソイドのあわい。
そして、もしかしたら男と女のあわい。
唯はふと自らの鼻を撫でてみて、失笑する。
ちょんとうっかり飛び出た何かの突起。それにたまたま穴が2つ付いていましたとさ。
絵描き歌だと一瞬で済んでしまうこの自分の鼻が、エリーのそれと同じ器官だとはとも思えない。
タヌキ顔を自称する唯だが、実際のタヌキはもっと立派に鼻を突き出している。タヌキはタヌキでも信楽焼の置物のそれの方がより近いだろう。
この鼻も、自分が成人するころには多少なりとも変化しているのだろうか。
唯には、己の鼻の行く末はエリーの鼻筋の未来よりも想像がつかなかった。
唯は文庫本を枕に、屋根の上に寝そべる。
何の因果か、アンの自宅である“グリーンゲーブルズ”と同じ、深い緑色をした屋根だった。
唯のすぐ真下の壁に取り付けられた室外機が、ゴウゴウと音を立て震えている。エリーの部屋だけではなく家中をキンキンに冷やしていると思われるほどの出力を思わせるが、無理からぬことである。
家の中に人の気配は二つ。
一つはエリーとして、もう一つは母親だろう。こちらは既に就寝しているようだ。
ロングスリーパーの唯もそろそろ眠りたいところだ。夢魔のくせに自分の睡眠は相変わらずままならないのがもどかしい。
唯は薄目で宝月の町をぼんやりと眺める。
夕方のあの重苦しい湿気はまた町に滞留しているようだった。
山に囲まれた地形には湿気が籠もりやすい。日中に町を散々温めた熱は夜空に逃げようにも厚い雲という毛布に遮られている。加えて、町を流れる二つの川からは絶え間なく湿度が供給される。
まごうことなき熱帯夜だ。
夜とは思えない茹だる暑さの一方、ここから見える家という家の中は適度に除湿され、冷やされているに違いない。
ひとつの町の中でこの熱の不均衡を実現、維持をするのに、一体どれほどのエネルギーが動員されているのだろうか? しかし、ただなすがままにこの外気温を家の中にまで受け入れたらば、人々の多くはたちまちに死んでしまうだろう。もうそういうところまで来ている。
誰もが、生きるために抵抗をしている。
ここから見える熱の不均衡は、生物が生まれながらに宿命付けられた、生命活動という気高い抵抗の象徴のように唯には思えた。
遠くで救急車のサイレンが鳴る。
唯がどこの誰とも知らぬ人の無事を祈ろうと目を閉じたとき、室外機の音が少し弱まった。
「そろそろかな……」
唯が窓の方に目をやると、部屋の電気が消えたのが見えた。
聞き耳を立て、部屋の中の様子を窺う。
これじゃただの変態だ、と自己嫌悪する唯だが、心の中のヒーローががんばれと応援をしてくれる。
衣擦れすら聞こえなくなったところで唯は体を浮かせて窓に寄り、カーテンの隙間から室内を覗く。
窓の真下のベッドではタオルケットを握ったエリーが横向きに体を休めていた。
上はタンクトップに、下はボクサーショーツ。タンクトップの開いた襟元から、胸の膨らみが覗く。
「本当に……女の子なんだ」
分かってはいたことだが、いざ目にしてみると想像以上に心に迫るものがあった。
腰から足にかけてのたおやかなラインも、肩から肘にかけての脂肪の付き方も、確かに性ホルモンの支配下にある形状をしていた。
これらをひた隠しにし、見知らぬ土地で生活をする。周囲の人間が何を言っているか分からない中で。一体、どんなことを感じながらこの一週間を送っていたのだろうか。
ベッドの奥では無骨なダンベルが鈍い光を放っていた。
美月の部屋にあるようなカラフルなシリコンカバーのついたものとは風合いが全く異なる、“かわいくない”ダンベル。
以前、美月が黒葛の二の腕を掴んで「男はズルい」と口を尖らせていた。曰く、弟たちは大してトレーニングしなくてもある程度筋力は維持されるし、筋トレをしようものならすぐに効果が出てきやがる、とのことだった。
筋力トレーニングというものをしたことがない唯だが、そもそもベースとなる骨格が違う上に筋肉にまつわるホルモンの事情も男女で全く異なるということは理解している。
思春期という、性差のひとつの分水嶺にあって、今後ますますその差は顕著になっていくのだろう。
その中でエリーは人知れず、抵抗をしている。その象徴があの無骨なダンベルなのだろう。
唯は窓の外に浮いたまま目を閉じ、まだ寝付いていないと思われるエリーへと意識を集中させる。
瞼の裏に広がる闇の中を探る感覚は、ちょうどラジオのチューニングに近い。
そのザラついた闇の中に、青とも赤ともつかない色ので点滅するノイズの波を見出す。
鼓動のように一定のリズムで広がっては闇に消えていく、頼りなく寂しげな波は、紛れもなくエリーの波だった。
唯は念ずる。
──安心して。落ち着いて。ゆっくり。大丈夫。あなたはひとりじゃない。
念は波となり、エリーの波に干渉する。
親が子の頭を撫でて寝かし付けるように、何度も波を送ってはエリーの波を整えていく。
次第にエリーの波は穏やかな揺らぎとなり、エリー自身を夢の世界へと誘っていった。
この波というものが何なのか、唯自身にも分かっていない。
コウモリらしく謎の音波を出しているのかもしれないし、不可視の電磁波の類かもしれない。
“ものを投げる”という行為は、人類が生まれながらに持つ極めて特異な能力だ。
人間ほど高度なレベルでこれを行える生物は地球上に存在しない。
同化前の唯や黒葛のような絶望的な運動神経の人間であっても最低限、様々な形状のものを様々なフォームで投げることは可能だ。投げる際の肉体の動作やその機序を理解せずともである。それこそ子どもたちは物心付く前から実に嬉しそうにものを投げる。おそらく脳の報酬系とも密接な、人類普遍の特殊技能なのだろう。
唯の能力もそれと同じだった。
黒葛と同化し人間という枠を踏み外して以降、催眠や魅了、暗示といった、人の意識ないし無意識に干渉する術を無自覚に身に付けていた唯だったが、先日の妖化を経てさらにその能力に磨きがかかったようだった。もっとも本人は一度濫用してしまったことを悔いており、極力封印するようしている。そういった事情もあり、唯自身一体どこまで何をできてしまえるのかを十分に把握できてはいない。
ただ、黒葛に“夢魔”と指摘されたからなのかは分からないが、催眠やその名の通り“夢”にまつわる分野こそが自分の本領なのでは、と思うところがある。やろうと思えば波を干渉させる要領で夢を覗き見たり、夢枕に立つということもできるのではないかと思われた。
唯はエリーが眠りについたのを確認し、窓から離れ、その身を翻す。
「夢までは見ないから、安心しておやすみ……また明日ね」
夜闇に紛れて小さな黒い翼が夜空にはためいた。
エリーは水際に座り、海を眺めていた。
穏やかな波が沖に浮かぶガンの群れを揺らしている。
海というより、陸深くまで入り組んだラグーンの水面を揺らす波は、風と、時折出入りする小舟によるものだ。
風の音と、波打ち際の小さな水音しか聞こえない静寂の中に身を置き、時を忘れる。
エリーは、家からほど近いこの入江の水際が何より好きな場所だった。
水面の青い藻の下で泳ぐ小魚の群れを観察し、岸まで繁る草むらの中で花を探しながらバッタを追いかける。
気水域のこの辺りは生物相が豊かで、そして四季ごとに鮮やかに移り変わるそれは万華鏡のようだった。
突然、沖のガンの群れが一斉に羽ばたき、水面に大小の波紋を残して飛び立った。
その群れの行先を目で追っていたエリーは、背後の丘の上で手を振る一人の少女を見つける。
白いワンピースを着たその少女は何かを叫んでいるようだが、聞き取れない。
エリーは草原の草を掻き分け、その少女のもとに駆け寄ろうとするが思ったように走れない。
足を動かす割に前に進まないのだ。
必死で走るエリーを応援しているのか、嘲けているのか、少女は手を振り、ずっと笑っていた。
その少女は、最近知り合った東洋人の女の子だった。
同い年だがずいぶんと背が低く、子どものように幼く見える。
栗色の髪の毛のその少女は、とても印象的な目をしていた。
どうにか少女のもとに辿り着いたエリーをその印象的な目が見つめている。
その優しい目の内に捉えられるだけでエリーは労られる気がした。
それを知ってか少女は慈眼をじんわりと細めて微笑み、エリーの心は一層絆され、安らいでいった。
エリーは少女の手を引き、森の中へと誘う。
次第に枝葉が濃くなり森が深くなるあたりで、エリーは足を止めた。
そして、木漏れ日が照らす木の根本あたりを指差して見せる。
少女が腰を屈め覗くと、落ち葉の隙間から小さな花の一群が健気に首をもたげていた。
ややピンクがかった白い色の花弁が5枚集まってできた星型の花。その小さな花弁からは想像がつかないほどの強い芳香が発せられる。
メイフラワー── Epigaea repens。
5月生まれのエリーが親近感を覚える花が醸す、ふるさとの香りだ。
エリーは花をひとつ摘み、少女に差し出した。
少女は受け取ったその花を嗅いでみて驚き、そして笑った。
その瞬間、うっそうとした森の景色は青草の揺れる草原へと変わっていた。
眼下に入江を望みながら、二人は草の上に寝そべる。
少女がごそごそと何か探って取り出したのは、一本の白い花だった。
メイフラワーのお返しか、少女はその花をエリーに差し出す。
少女から渡された白い花の芳香は濃く甘く、そして気品があった。
強い花の香りは草原の風に溶け、緩やかに坂を下りながら海の方へと散っていく。
この花は日本語では、ユリ、というらしい。
少女の名前と、少し似ている。
ユリの英語名であるリリーとエリーは似ているね、と少女が言って二人で笑った。
二人は互いに交換した花を風にかざし、海の向こうへと香りを送る。
この花の香りは、はるか彼方、遠い異国の島国にまで届くだろうか。
耳元でそよぐ草花の葉擦れの音を聞きながら、エリーはひとときの夢から深い眠りへと落ちていった。
ほとんど新月といっていい暗い夜空は、厚い雲に覆われていた。
雲の層が町の光を照り返すぶん、晴れた夜空よりもむしろ明るく見える。
その鈍色の空の下、唯はエリーの自宅の屋根の上で本を開いていた。
この程度の光量があれば、妖化した唯が読書するには十分に事足りる。
屋根の上の夢魔は、およそ町中で晒してよい姿格好をしてはいないが、今日の夜空を見上げる奇特な人はいないだろうし、ほとんど夜闇に溶けるようカモフラージュもしているので、妖艶な曲者の存在に気付くものはいないだろう。
唯が身に着ける漆黒のドレスグローブは、両手の指と手のひらを素肌のまま残し、肘までを覆っている。もし指の先までスッポリとこの不思議な質感に包まれてしまっていたら紙の本など読めたものではなかっただろう。
指の腹の指紋、そして汗腺から分泌されるわずかな湿り気により、ストレスなく自在にページを繰ることができる。
また本文用紙という、インクが印字された本の表層に素肌で触れることにも唯は特別な意味を見出していた。本の肌と自分の肌とが触れ合い、次第に本の世界は唯の中に染み込み、唯も本の世界に没入していく。
唯がページを繰るのは、自宅から持参した『赤毛のアン』のシリーズ第二集。
『アンの青春』と銘打たれたこの巻は、16歳のアンが18歳になるまでの話だ。ちょうど唯たちと同じくらいの年齢のアンが人々との交流や様々な葛藤を通じ、大人へと成長をしていく。大人でも子どもでもない、何か同一性を失調した特定の時期を、人は“青春”と呼ぶらしい。
唯は子どもの頃にシリーズを通して読んだものだが、改めて復習した上で原書にチャレンジするのもいいかもしれないと思った。つまりエリーとは逆の作戦である。
翻訳には意訳や誤訳も少なからずあるだろうから、両方照らし合わせることでより立体的に物語を理解できる気がしたのだ。
なにより、その土地の言葉で書かれた文章というのは、音の響きという面で何ものにも代え難い説得力を持つものだ。
以前、古典の授業で李白の『静夜思』という五言節句を扱ったときだった。
ちょうど中国からの留学生がいたタイミングだったので教師の要請でネイティブの発音で詩を読んでもらったのだが、唯は衝撃のあまり椅子から転げ落ちるかと思った。
唯だけではない。彼が読み終わった後、教室中がため息ひとつ立てるのも憚られるほどに静まり返ったのを覚えている。
牀前看月光
疑是地上霜
挙頭望山月
低頭思故郷
床につく前、射し込む月の光を見る。
地上に降りた霜のようではないか。
頭を上げて、山の端の月を見上げる。
そして頭を垂れて故郷に思いを馳せるのだ。
あいにく、月が見えない夜だ。
それに緯度が高く、またほとんど地球の裏側にあるカナダだと月の見え方もだいぶ異なるかもしれない。
エリーはこの町で何を見て、何に対して故郷を思うのだろうか。
エリーの部屋は2階の東側だった。
深夜0時を回っているが、部屋のカーテンの隙間からは光が漏れ出たままだ。
「そろそろ寝てくんないかな……」
唯は大きなあくびをひとつして、文庫本のカバージャケットの折り返し部分を栞代わりに本を閉じる。
昼間、図書館で中途半端に眠らせたのがよくなかったのかもしれない。
図書館で眠る行為は褒められたものではないが、座席がまばらに空いていたこともあり幸いお目溢しをされたようだった。
やはり普段よく眠れていないのだろう。リラックス効果が期待できるアロマを風上から送ってあげはしたが、それを差し引いても笑えるくらいに泥だった。
図書館の机に突っ伏せたエリーの長いまつ毛はピクリとも動かず、放っておいたら浮遊するホコリがひたすら溜まっていくように思えた。
赤色の髪は、やや西に傾いた光を浴びてオレンジゴールドの色に染まる。
そして筋の通った鼻の先端はいくらか丸みを帯びていた。それが加齢とともに鋭くなっていくのか、それとも丸みが膨らんでいくのか想像がつかない。
それは絶妙な“あわい”だった。
子どもと大人のあわい。モンゴロイドとコーカソイドのあわい。
そして、もしかしたら男と女のあわい。
唯はふと自らの鼻を撫でてみて、失笑する。
ちょんとうっかり飛び出た何かの突起。それにたまたま穴が2つ付いていましたとさ。
絵描き歌だと一瞬で済んでしまうこの自分の鼻が、エリーのそれと同じ器官だとはとも思えない。
タヌキ顔を自称する唯だが、実際のタヌキはもっと立派に鼻を突き出している。タヌキはタヌキでも信楽焼の置物のそれの方がより近いだろう。
この鼻も、自分が成人するころには多少なりとも変化しているのだろうか。
唯には、己の鼻の行く末はエリーの鼻筋の未来よりも想像がつかなかった。
唯は文庫本を枕に、屋根の上に寝そべる。
何の因果か、アンの自宅である“グリーンゲーブルズ”と同じ、深い緑色をした屋根だった。
唯のすぐ真下の壁に取り付けられた室外機が、ゴウゴウと音を立て震えている。エリーの部屋だけではなく家中をキンキンに冷やしていると思われるほどの出力を思わせるが、無理からぬことである。
家の中に人の気配は二つ。
一つはエリーとして、もう一つは母親だろう。こちらは既に就寝しているようだ。
ロングスリーパーの唯もそろそろ眠りたいところだ。夢魔のくせに自分の睡眠は相変わらずままならないのがもどかしい。
唯は薄目で宝月の町をぼんやりと眺める。
夕方のあの重苦しい湿気はまた町に滞留しているようだった。
山に囲まれた地形には湿気が籠もりやすい。日中に町を散々温めた熱は夜空に逃げようにも厚い雲という毛布に遮られている。加えて、町を流れる二つの川からは絶え間なく湿度が供給される。
まごうことなき熱帯夜だ。
夜とは思えない茹だる暑さの一方、ここから見える家という家の中は適度に除湿され、冷やされているに違いない。
ひとつの町の中でこの熱の不均衡を実現、維持をするのに、一体どれほどのエネルギーが動員されているのだろうか? しかし、ただなすがままにこの外気温を家の中にまで受け入れたらば、人々の多くはたちまちに死んでしまうだろう。もうそういうところまで来ている。
誰もが、生きるために抵抗をしている。
ここから見える熱の不均衡は、生物が生まれながらに宿命付けられた、生命活動という気高い抵抗の象徴のように唯には思えた。
遠くで救急車のサイレンが鳴る。
唯がどこの誰とも知らぬ人の無事を祈ろうと目を閉じたとき、室外機の音が少し弱まった。
「そろそろかな……」
唯が窓の方に目をやると、部屋の電気が消えたのが見えた。
聞き耳を立て、部屋の中の様子を窺う。
これじゃただの変態だ、と自己嫌悪する唯だが、心の中のヒーローががんばれと応援をしてくれる。
衣擦れすら聞こえなくなったところで唯は体を浮かせて窓に寄り、カーテンの隙間から室内を覗く。
窓の真下のベッドではタオルケットを握ったエリーが横向きに体を休めていた。
上はタンクトップに、下はボクサーショーツ。タンクトップの開いた襟元から、胸の膨らみが覗く。
「本当に……女の子なんだ」
分かってはいたことだが、いざ目にしてみると想像以上に心に迫るものがあった。
腰から足にかけてのたおやかなラインも、肩から肘にかけての脂肪の付き方も、確かに性ホルモンの支配下にある形状をしていた。
これらをひた隠しにし、見知らぬ土地で生活をする。周囲の人間が何を言っているか分からない中で。一体、どんなことを感じながらこの一週間を送っていたのだろうか。
ベッドの奥では無骨なダンベルが鈍い光を放っていた。
美月の部屋にあるようなカラフルなシリコンカバーのついたものとは風合いが全く異なる、“かわいくない”ダンベル。
以前、美月が黒葛の二の腕を掴んで「男はズルい」と口を尖らせていた。曰く、弟たちは大してトレーニングしなくてもある程度筋力は維持されるし、筋トレをしようものならすぐに効果が出てきやがる、とのことだった。
筋力トレーニングというものをしたことがない唯だが、そもそもベースとなる骨格が違う上に筋肉にまつわるホルモンの事情も男女で全く異なるということは理解している。
思春期という、性差のひとつの分水嶺にあって、今後ますますその差は顕著になっていくのだろう。
その中でエリーは人知れず、抵抗をしている。その象徴があの無骨なダンベルなのだろう。
唯は窓の外に浮いたまま目を閉じ、まだ寝付いていないと思われるエリーへと意識を集中させる。
瞼の裏に広がる闇の中を探る感覚は、ちょうどラジオのチューニングに近い。
そのザラついた闇の中に、青とも赤ともつかない色ので点滅するノイズの波を見出す。
鼓動のように一定のリズムで広がっては闇に消えていく、頼りなく寂しげな波は、紛れもなくエリーの波だった。
唯は念ずる。
──安心して。落ち着いて。ゆっくり。大丈夫。あなたはひとりじゃない。
念は波となり、エリーの波に干渉する。
親が子の頭を撫でて寝かし付けるように、何度も波を送ってはエリーの波を整えていく。
次第にエリーの波は穏やかな揺らぎとなり、エリー自身を夢の世界へと誘っていった。
この波というものが何なのか、唯自身にも分かっていない。
コウモリらしく謎の音波を出しているのかもしれないし、不可視の電磁波の類かもしれない。
“ものを投げる”という行為は、人類が生まれながらに持つ極めて特異な能力だ。
人間ほど高度なレベルでこれを行える生物は地球上に存在しない。
同化前の唯や黒葛のような絶望的な運動神経の人間であっても最低限、様々な形状のものを様々なフォームで投げることは可能だ。投げる際の肉体の動作やその機序を理解せずともである。それこそ子どもたちは物心付く前から実に嬉しそうにものを投げる。おそらく脳の報酬系とも密接な、人類普遍の特殊技能なのだろう。
唯の能力もそれと同じだった。
黒葛と同化し人間という枠を踏み外して以降、催眠や魅了、暗示といった、人の意識ないし無意識に干渉する術を無自覚に身に付けていた唯だったが、先日の妖化を経てさらにその能力に磨きがかかったようだった。もっとも本人は一度濫用してしまったことを悔いており、極力封印するようしている。そういった事情もあり、唯自身一体どこまで何をできてしまえるのかを十分に把握できてはいない。
ただ、黒葛に“夢魔”と指摘されたからなのかは分からないが、催眠やその名の通り“夢”にまつわる分野こそが自分の本領なのでは、と思うところがある。やろうと思えば波を干渉させる要領で夢を覗き見たり、夢枕に立つということもできるのではないかと思われた。
唯はエリーが眠りについたのを確認し、窓から離れ、その身を翻す。
「夢までは見ないから、安心しておやすみ……また明日ね」
夜闇に紛れて小さな黒い翼が夜空にはためいた。
エリーは水際に座り、海を眺めていた。
穏やかな波が沖に浮かぶガンの群れを揺らしている。
海というより、陸深くまで入り組んだラグーンの水面を揺らす波は、風と、時折出入りする小舟によるものだ。
風の音と、波打ち際の小さな水音しか聞こえない静寂の中に身を置き、時を忘れる。
エリーは、家からほど近いこの入江の水際が何より好きな場所だった。
水面の青い藻の下で泳ぐ小魚の群れを観察し、岸まで繁る草むらの中で花を探しながらバッタを追いかける。
気水域のこの辺りは生物相が豊かで、そして四季ごとに鮮やかに移り変わるそれは万華鏡のようだった。
突然、沖のガンの群れが一斉に羽ばたき、水面に大小の波紋を残して飛び立った。
その群れの行先を目で追っていたエリーは、背後の丘の上で手を振る一人の少女を見つける。
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エリーは草原の草を掻き分け、その少女のもとに駆け寄ろうとするが思ったように走れない。
足を動かす割に前に進まないのだ。
必死で走るエリーを応援しているのか、嘲けているのか、少女は手を振り、ずっと笑っていた。
その少女は、最近知り合った東洋人の女の子だった。
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どうにか少女のもとに辿り着いたエリーをその印象的な目が見つめている。
その優しい目の内に捉えられるだけでエリーは労られる気がした。
それを知ってか少女は慈眼をじんわりと細めて微笑み、エリーの心は一層絆され、安らいでいった。
エリーは少女の手を引き、森の中へと誘う。
次第に枝葉が濃くなり森が深くなるあたりで、エリーは足を止めた。
そして、木漏れ日が照らす木の根本あたりを指差して見せる。
少女が腰を屈め覗くと、落ち葉の隙間から小さな花の一群が健気に首をもたげていた。
ややピンクがかった白い色の花弁が5枚集まってできた星型の花。その小さな花弁からは想像がつかないほどの強い芳香が発せられる。
メイフラワー── Epigaea repens。
5月生まれのエリーが親近感を覚える花が醸す、ふるさとの香りだ。
エリーは花をひとつ摘み、少女に差し出した。
少女は受け取ったその花を嗅いでみて驚き、そして笑った。
その瞬間、うっそうとした森の景色は青草の揺れる草原へと変わっていた。
眼下に入江を望みながら、二人は草の上に寝そべる。
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メイフラワーのお返しか、少女はその花をエリーに差し出す。
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強い花の香りは草原の風に溶け、緩やかに坂を下りながら海の方へと散っていく。
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少女の名前と、少し似ている。
ユリの英語名であるリリーとエリーは似ているね、と少女が言って二人で笑った。
二人は互いに交換した花を風にかざし、海の向こうへと香りを送る。
この花の香りは、はるか彼方、遠い異国の島国にまで届くだろうか。
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